―昭和残酷史―

「昭和」は西暦で言うなら1925年から1989年まで、
64年もの長きに渡って続いた。
そしてそれは日本史においてもまさに「激動の時代」と
呼ぶべき大いなる変換のときであった。
戦時体制へと向かう陰鬱な戦前期、
焼け野原の中、飢えと貧困、敗戦の脱力感にまみれた戦後期、
そして民主化、高度成長期を経て
「バブル経済」を生むまでに膨れあがっていった昭和末期。
そのすべてが一つの元号でくくられて、のちに語られることになるのである。
犯罪は時代を映す鏡であると言うが、
ではこの激流のような時代を駆け抜けた事件群とは如何なるものだったのか――。

 


 昭和 7年 増渕倉吉事件   ――「愛欲殺人」参照。

 昭和10年 徳田事件      ――「MURDER IN THE FAMILY」参照。

 昭和11年 阿部定事件     ――「愛欲殺人」参照。

 昭和13年 津山事件      ――「マス・マーダラー」参照。

 昭和14年 広瀬菊子事件    ――「愛欲殺人」参照。

 昭和20年 天野秋子事件   ――「カンニバリズム」参照。

 

 

●昭和21年 小平義雄事件

 小平義雄は1905年(明治38年)に生まれた。彼の血縁に関しては東大精神科教授の内村祐之が調査したことによって明らかになっている。母方に犯罪者の素因はなく、優秀な人物も多かった。だが父方の家系には精神医学的に、負因のあるものがほとんどであった。
 小平の父は「飲む・打つ・買う」の放蕩者で、酒癖が悪く、性格異常の兆しがあった。その弟は酒乱で傷害や賭博の前科がある。その下の妹は重度の知恵遅れであった。
 小平の兄弟にも問題が多い。兄は放浪癖があり手癖が悪く、窃盗の前科があった。姉は小学校以上は就学不可能な知恵遅れで、虚言癖とヒステリーのある性格異常者である。
 少年時代、小平は人の話を聞き入れない短気な乱暴者で、弱いものいじめをし、足をばたばたさせなければ言葉が出てこないほどのひどい言語障害(ドモリ)があった。
 卒業時の成績は23人中21番。しかし逮捕後に行なわれた知能テストでは、飽きっぽさと不注意から低い数値にはなったものの、中の下程度の知能で、計算能力も良好で知識も豊富だったという。
 彼は28歳で結婚したが、妻は半年足らずで実家に帰った。再三迎えに行ったものの、戻ろうとしない細君に腹をたて、小平は鉄棒を持って妻の実家に殴りこみ、7人に重傷を負わせ、義父を殺害した。これで懲役15年となったが、2度の恩赦が重なり、わずか6年で仮出獄となった。
 昭和19年に再婚。20年には空襲が激しくなったので妻子を富山に疎開させ、自分は女子寮に泊まりこむようになった。
 このあとの1年3ヶ月で、小平はすくなくとも7人の女性を「米を安く売ってくれる農家を紹介する」「就職を斡旋してやる」などと言ってだまし、強姦して絞殺した。のちに検察が立件したのは10人であるが、3件については証拠不充分として見送られたためである。

 小平が供述した犯行時の心理状態は、
「私が女たちを殺害した理由は、死に顔を見たいとか、死の苦しみを見て喜ぶとかいったことではないのです。女は殺さねばいうことをきかない。殺してからゆっくり楽しんでやろうと思うからです。普通のやり方より強姦のほうがいいです。自由になりますから。
 女を横にして陰部を見ながら、今まさに関係しようとする瞬間がなんともいえないのです。殺されてもよいと思うときがあります。日本刀で後ろから首を斬られてもかまいません。そんなによいのです」
 というものである。
 新聞は彼を『淫獣』と書きたてた。
 判決は「はなはだ珍しい型の生来性人格異常。しかし責任能力あり」として死刑であった。

 


 

 昭和23年 免田事件   ――冤罪による死刑判決。昭和58年、再審無罪。

 昭和23年 帝銀事件   ――ほぼ冤罪とみられるも、平沢貞通死刑囚、昭和62年獄中死。

 昭和23年 幸浦事件   ――冤罪。一・二審死刑。昭和34年、高裁無罪。

 昭和24年 島田事件   ――冤罪による死刑判決。平成元年、再審無罪。

 昭和24年 弘前事件   ――冤罪による死刑判決。昭和52年、再審無罪。

 昭和26年 八海事件   ――冤罪による死刑判決。昭和43年、再審無罪。

 

 

●昭和28年 栗原源蔵事件

 栗原は1926年(昭和2年)に生まれた。水上勉の小説『飢餓海峡』に、犯人を追って来た刑事が、そのみすぼらしい生家を見て「あんな凶悪な犯罪を犯したのは、極貧生活から抜け出したかったからに違いないな」と呟くシーンがあるが、まさに栗原の家は「貧乏人の子沢山」を地でいく12人兄弟の極貧家庭であった。
 栗原は年長になっても夜尿症がなおらず(子供の排泄異常――夜尿症、便秘など――は家庭内における不安・緊張のあらわれである)、尿臭のため級友にも嫌われ、小学校からすでにサボリ癖を身に付けることになる。
 18歳で軍隊に入るまでは農家の下男を転々とやっていたが、どこでも寝小便癖が嫌われて、すぐに追いだされたという。家には耕す田畑もなく、教育も受けられず、新たな環境に行くたび緊張で夜尿症は悪化する。自尊心を失った――いや、もともと自尊心など持てる環境になかった栗原には、他人の生命や尊厳など、ハナからぴんと来ない話であった。
 敗戦後は各地を転々としながら、窃盗、傷害、空き巣などで刑務所と娑婆を行ったりきたりした。
 昭和22年には三角関係がもつれ、ふたりの女の板ばさみとなって、結局ふたりとも殺している。大切にされなかった者は、他人の命を大切に思うこともできない。まさに栗原は「後天的情性欠如の性格異常者」の典型であった。
 昭和27年、盗みに入った家で、女を強姦の上絞殺。
 同年、駅の待合室で出会った3人の子連れの女を「強姦したい」と思い、送っていってやると言ってついていった。そして女に誘い文句を投げたが、女は笑ってとりあわない。だんだん不機嫌になって栗原は押し黙り、それでも子供の自転車を押しながら付いていく。
 女は子供を置いて逃げるわけにもいかず、さりとて子供の前で栗原に体をひらくわけにもいかない。逃げ場のない恐怖の道行きであった。
 通称「おせんころがし」と呼ばれる断崖に差し掛かったところで、栗原は爆発した。自転車に乗っていた男の子をいきなり掴みあげ、首を絞めて、自転車ごと崖の下にたたき落としたのである。そして横にいた長女も崖下に投げ落とした。
 女は恐怖にすくみあがった。震えてしゃがみこむ女に栗原は言った。
「どうしたんだよ。――頭にきたから、もうやらなくていい。皆殺しにする」
 命だけは助けて、と泣く女を栗原はその場で強姦し、欲望が満足すると、崖下に突き落とした。そして寝ていた2歳の赤ん坊の首をしめ、これも崖下に投げ落とした。その後、まだ息があってはいけないと崖下におり、女と男の子と赤ん坊の頭を石で殴ってとどめをさした。物陰に隠れていた長女だけは幸いにも助かった。
 翌年には盗みに入った家で女ふたりを殺し、そのうち1人を屍姦している。
 もちろん判決は死刑だったが、死刑囚監房で彼は、狂ったように「冤罪だ、再審請求だ」と繰りかえした。どうやら再審請求さえしていれば死刑にはならないと吹き込まれたかららしい。
 人並み以上に動物的欲求が強く、それを抑える社会的訓練をまったく受けていない原始人のごとき犯罪者を、エルンストは「原始無型式者」と呼んだが、それこそまさしく栗原のことであったと言えよう。


(姓名は「栗田源蔵」もしくは「栗林源蔵」であるという説もある。しかし実際に彼と接した精神科医、加賀乙彦が『死刑囚の記録』(中公新書)で「栗原源蔵」と表記しているため、こちらを採用させて頂きました)

 


 

 昭和28年 徳島事件   ――冤罪。出獄後、再審結果を見ず癌にて死去。昭和60年、再審無罪。

 昭和30年 松山事件   ――冤罪による死刑判決。昭和59年、再審無罪。

 昭和32年 少年バラバラ事件    ――「ネクロフィリア」参照。

 

 

●昭和33年 李珍宇事件

 李珍宇は1940年(昭和15年)東京・亀戸に在日朝鮮人として生まれた。日本名は金子鎮宇という。
 貧しい在日部落の中でも李の家は特に貧しかった。父は日雇い人夫だったが給料はすべて飲んでしまうアル中同然の男で、母親は聾唖だった。掘っ立て小屋同然の家に8人もの家族がひしめきあって暮らしている李家は、部落の中でももてあまし者だった。
 日本人からは「朝鮮人」と言って蔑まれるばかりではなく、同じ在日部落の中ですら「貧乏人」と敬遠されて李は育った。
 彼は幼い頃から優秀で、IQは135あった。教科書も買えない生活だったので模写し勉強した。それでもつねに学年トップで、生徒会長までつとめている。ただし、極貧で遠足にも行けない生徒会長だったが。
 読書も好きだったが、本を買う金もなく彼は図書館から本を盗んだ。鬱屈と内向する一方の憎悪から
「余るほどあるところから盗んでなにが悪い」
 と彼は思うようになっていった。ゲーテやプゥシキンはもとから好きだったが、ドストエフスキーの『罪と罰』を読み、ラスコーリニコフの思想に感銘することでそれは一層強まった(のちに彼は「この作品に暗示されたわけではない」と言っているが、誰にも聞かれないのに自分から言い出しているところからみて、実は大いに影響されていたとみられる)。
 義務教育卒業後はもちろん進学できなかった。就職活動をするものの、民族差別により大手会社にはどこにも採用されなかった。零細工場に勤めるも、「俺はこんなところでくすぶる人間ではないのに」という怒りから長続きせず、定時制に通いながら職場を転々とするようになった。
 昭和33年、李は23歳の女性を強姦の上殺害。
 同年8月、同じ定時制に通う女子生徒を強姦し、騒がれて絞殺。死体を屋上のスチーム管の中に隠したが、みずから警察や新聞社に
「俺が殺したんだ、死体は穴の中だ」
 と電話し、被害者の櫛や手鏡を送りつけた挙句、挑発的な電話をくりかえした。
 逮捕されたときの李の写真は有名なもので今も残っているが、彼は笑っている。犯行時彼は18歳だったが、少年法適用外とされ、死刑判決を受けた。
 しかし死刑囚監房で彼は死の恐怖におびえ、消灯時間になると毎日「おかあちゃん、こわいよう」と壁を叩いて泣き叫んだ。
 昭和37年に死刑執行。李は半狂乱になって暴れ、麻酔銃を撃たれて、朦朧状態で刑場へ引きずられていった。聾唖の母と、地下足袋姿のままの父が彼の死体を迎えに来た。ふたりは棺の蓋をあけ、歯を食いしばって涙をこらえながら、じっと死に顔を見つめていたという。

 


 昭和36年 日本閣事件  ――戦後初の女性処刑者、小林カウ。昭和45年死刑執行。

 昭和36年 名張事件   ――ほぼ冤罪とみられるも、死刑判決。再審請求中。

 

 

●昭和38年 狭山事件

 5月1日、16歳の女子高校生、中田善枝が行方不明となり、夜遅くに身代金を要求する脅迫状が届いた。2日、善枝の姉が金を持って指定の場所へ行ったが、警察の張り込みに気づいた犯人は逃走。4日、強姦殺害された善枝の遺体が発見された。
 一月前、「吉展ちゃん誘拐事件」で張り込み場所を間違え、身代金を奪われたばかりか子供を殺される、という大失態をやらかしていた警察は、ここでも非難を浴びた。責任をとって警察庁長官は辞職した。
 5月6日、善枝宅の元使用人である中年男が、農薬を飲み井戸に投身自殺。事件当日のアリバイはなく、血液型は善枝の体内に残留していた精液と同じくB型だった。
 だが警察は「犯人に死なれてはたまらない。必ず生きて捕らえる」と発表。
 そうしなければもはや警察の威信は支えられない、と彼らは考えた。「生きたまま捕らえる」ことに警察はあくまで執着した。そこに正義があったかどうかは、疑わしいと言わざるを得ない。
 11日、「犯行現場付近であやしい3人組を見た」と届け出た男が錯乱し、包丁で胸を突いて自殺。
 解剖の結果、善枝は処女ではなく性経験があったことはわかっている。また1日は善枝の誕生日で下校後、待ち合わせして交際していた中年男と会う約束だったのではないか、という見方は妥当なものとして浮かんだ。善枝は見知らぬ男に簡単に誘拐されるような娘ではなかったし、犯人の声も地元訛りの中年男のものであった。
 が、警察はこれらのすべてを無視して、23日に被差別部落の石川一雄を別件逮捕。あきらかに不当と思われる手段(拷問、証拠偽造・隠匿)を用いて無理やり自白させた。
 裁判は一審が死刑、高裁・最高裁が無期懲役であった。
 部落解放同盟は無実の訴えをきっかけに、公正裁判と完全無罪判決要求活動を開始。だが再審請求は棄却されつづけ、現在に至る。
 昭和39年、一審判決を聞いてから善枝の姉が精神に異常をきたし、7月に農薬を飲んで自殺。(犯人の名を知っていたという説もあるが真相は不明。医者が家についたときには、すでに劇薬の瓶は洗われ、死体もきれいにされて寝かされていたという。証拠隠匿の可能性は大)
 中田家の事情に詳しく、警察の捜査を公然と批判していた地元の男性A、予兆もなく脳溢血で急死。
 昭和41年、警察の参考人リストにも載っていた中年男が、電車に轢かれて死亡。
 昭和52年、最高裁判決後、善枝の兄が首をくくって自殺。
 なお、善枝の母は男出入りが派手で、婚儀の日は庭に墓石を投げ入れられるなどのいやがらせを受けたこともある。善枝とほかの兄弟は種違いであるという噂もあり、複雑な家系であったことは間違いないようだ。この母親は夫と長男に精神病院に入れられ、数日後、急死している。
 また遺産相続で揉めていた形跡もあり、家庭内の近親憎悪も高まっていた。事件後、家督を継いだ長男以外の生き残りの兄弟は家出したり、他家に養子に入るなどして中田家から離れている。
 さらに、のちにわかったことだが石川青年の調書を初めてとった検事は地元の男性Aと同じく急死。石川青年が絶食中、自白したことについて(絶食中であればその自白は証拠能力なし)同日に彼を診察した医師の行方を探したところ、なんとタイに停泊中の船内でこれも急死していた。
 ほとんど明白な冤罪に加え、相次ぐこの関係者たちの怪死――。これらの死がすべて偶然に重なったものだと考える者はまずないだろう。
 司法の腐敗というだけでなく、事件そのものにもあまりにも謎が多く、陰惨と言っても過言ではない。まさにこれは昭和史に鎮座する最大の暗黒事件といえるだろう。

 


 昭和38年 西口彰事件   ――知能犯と強力犯の両刀という特異な犯罪者。45年死刑執行。

 

 

●昭和40年 古谷惣吉事件

 古谷惣吉は5人兄弟の4番目として生まれ、3歳のとき母親が死亡。父が材木商になるため朝鮮に渡ってからは、親戚の家をたらい回しにされて育った。10歳で父親が帰国し、再婚。子供たちは引き取られふたたび一家で暮らすようになったが、義母とうまくいかず、古谷はほとんど家によりつかずに神社で寝泊まりするような放浪生活を送っていた。
 子供のときから体格がよく、乱暴者で弱いものいじめをする彼は近所でもきらわれ者だった。彼に行きあうと、「惣吉が来たぞ」と言ってみんな逃げ出したという。
 小学校を卒業後は叔母にひきとられることになり、家を離れた。夜間中学に通うものの、2年生のときに教師を殴って退学。16歳には窃盗で少年院に送られた。以後、戦前・戦中・戦後を通じて、刑務所と娑婆を行ったり来たりする生活を繰り返し、昭和39年末に仮出所したときには、すでに50歳になっていた。通算、29年間――人生の3分の2を彼は獄中で過ごしたのである。
 出所後、古谷は昭和40年11月9日から、同年12月12日で逮捕されるまでに8人を殺害(それ以前に強盗殺人を2件犯しているので、古谷は10人殺していることになる)。被害者はいずれも貧しい独居老人で、橋の下や海岸の小屋を訪ね、
「一晩泊めてくれ。メシはないのか」
 と要求し、断られると激怒して殺したものである。そのあと、100円単位の小銭や汚れた衣類、食い物を盗んだ。人生の大半を刑務所で送り、情愛うすく育った彼には「弱肉強食」の理論が一番理解できるものだったのだろう。自分が老いて出所してからは、より底辺の弱者を狙うしかなかった。これほど加害者・被害者を通して惨めな連続殺人も稀有である。
 死刑執行は昭和60年。拘置所収監中、古谷が手紙を書く相手は県警の退職刑事だけだったという。

 


 昭和43年 金嬉老事件   ――朝鮮人差別の謝罪を求め、旅館に篭城。無期懲役。

 昭和43年 栃木実父殺害事件 ――「MURDER IN THE FAMILY」参照。

 昭和43年 三億円事件   ――白バイを装い現金輸送車から三億円強奪。50年時効成立。

 昭和44年 永山則夫事件  ――集団就職の19歳少年、4人を射殺。平成9年死刑執行。

 昭和45年 埼玉一家殺害事件 ――「ネオ・ロンブロジアン」参照。

 

 

●昭和46年 大久保清事件

 大久保清は、小平義雄と並んで語られるべき存在である。ともに連続強姦殺人者であること、片親の家系にはっきりと精神医学的負因が認められること、妻子に異様な執着心を持っていたこと、等々――しかし小平が1年3ヵ月かけて7人の女性を殺したのに対し、大久保はわずか41日間で8人を殺害した。
 父方の家系には犯罪者はいなかったが、ただし父親の女癖は相当悪かった。母方の曽祖父は性格異常の気味があったようで失踪している。曽祖父の弟は前科7犯で獄中死。祖母は賭博や傷害の前科があり、私生児を2人産んだ。そのうちの1人(ロシア人との混血)が大久保の母である。この祖母の生んだ私生児でない長男は性格異常で、次男は傷害の前科2犯で失踪している。
 母本人は虚言癖があり、一種異様ほど自己中心的な人格異常だったようだ。大久保の兄は意志薄弱で前科2犯。兄の2人の子供もそれぞれ性格に問題があり、前科者である。
 この健全とはおよそ言えぬ家庭で、大久保は30歳を過ぎても母親に「ボクちゃん」と呼ばれ、溺愛されて育った。
 父親は近所の女を妊娠させたり、息子の嫁に手をつけたり、子供の目の前で連れ込んだ女と性交渉を平気で持った。性的にも道徳的にも混乱した家で育った大久保は、小学校6年生にして幼女にいたずらをはたらき、補導されている。
 20歳のとき強姦未遂と強姦致傷をたてつづけに犯し、服役。出所後、23歳で結婚するものの再び強姦致傷を犯し、3年の服役。妻は大久保の所業にもあきれはてたが、執拗にせまってくる好色な義父にも耐えられなかった。彼女はついに子供を連れて実家へ帰り、離婚した。ちなみにこの父と嫁との醜聞を言いふらしたのは、ほかならぬ大久保の実母であることをここに付記したい。
 妻を失った大久保は荒れた。両親にせびって買ってもらったロータリークーペ(当時の最高級車)を乗りまわし、ベレー帽にルパシカという姿で、あるときは画家、あるときは詩人と身分を使いわけて、道行く女に声をかけまくった。逮捕時までの2ヶ月足らずで、走行距離は1万キロ、声をかけた女は約150人、関係をもった女は30人以上にのぼったという。
 最初は紳士的なソフトな態度で、性交させてくれた女には最後までその態度を崩さないが、いよいよというときになって拒んだ女には豹変し、すべて殴り倒して絞殺した。死体は山中に埋めた。
 5月13日、ついに誘拐容疑で逮捕。動機について彼は
「肉親に裏切られた怒り。和姦なのに強姦と警察に嘘をついた女どもへの復讐。おれを冤罪で裁いた官憲への怒り」
 と言い、聞き手がすこしでも矛盾点を突くと「ならもう話さない」とふてくされた。
 判決は「情性欠如の精神病質なれど責任能力あり」として死刑。昭和51年、死刑執行された。

 


 昭和47年 連合赤軍事件  ――あさま山荘篭城、総括殺人など。『リンチ殺人』参照。

 

 

●昭和49年 大浜松三事件

 8月28日、大浜松三は刺身包丁を持って階下の会社員宅へ飛び込んだ。ピアノを弾いていた8歳の長女の胸を一突きにし、次いでそばにいた4歳の次女を刺した後、マジックで壁に

 迷惑かけるんだから
 すいませんの一言
 くらい言え、気分の
 問題だ、来た時
 挨拶にも来ない
 し、バカヅラして
 ガンとばすとは何事だ。
 人間殺人鬼にはなれないものだ

 そこまで書いたとき、ゴミ出しから妻が戻ってきた。大浜はその胸にも包丁を突き立てた。
 大浜は幼少時、優秀な子供だったが、近所の子供の吃音(ドモリ)を真似しているうち伝染ってしまい、(吃音の原因は心理的なものが主だが、模倣も誘引となることが多い)以来、言葉を発することが恐怖となり成績もガタ落ちした。
 卒業後は国鉄に就職するが、競輪にはまって公金を使い込み退職。吃音は「欲求不満に耐える意志力の弱い子供がかかりやすい」という。大浜はこの典型例であった。
 30歳で結婚するが、前夫が妻に会いにくるのがいやになって離婚。彼は職を転々とした。そんな矢先、アパートで趣味のレコードを聞こうとステレオを鳴らしていると、「いつもうるさいわね。静かにして下さい」と隣人から苦情が入った。
 それまでどちらかといえば騒音に無頓着だった大浜は「すまないことをした。そうか、音は迷惑なのだ」と気づいた。このときから彼は周囲の音に敏感になり、なるべく音を出さぬよう、そっと戸を閉め、足音を忍ばせて歩くようになった。そればかりか、近所のよく吠える犬の存在が耐えがたくなり、登山ナイフで刺し殺したり、棒で殴り殺してまわるようになった。一ヶ月に3頭の犬を殺したことすらあった。
 36歳で再婚。彼はこの妻と団地に入居した。そして被害者一家はこの真下の部屋に住むこととなる。
 被害者宅は「子供の音感教育のため」として長女にピアノを買い与えた。高度成長期のまっただ中、ピアノは“中流の上”を目指す人々のいわばもっとも手に届きやすい憧れだった。しかし狭い団地内に、実際はそんなスペースも余裕もない。大人ひとりがやっと寝そべられるような3畳間に、壁に密着してピアノは置かれた。
 アップライト型ピアノの音は裏側から出る。しかし被害者宅のピアノには遮音材も貼られていなかったし、壁とピアノの間に吸音のための毛布や布団をはさむことすらされていなかった。音がコンクリート壁を共鳴させ、増幅させながら階上へ伝えられて大浜宅の床と壁を震わせた。
 大浜は気も狂わんばかりになった。大浜の妻が被害者宅へ「せめて主人がいる間は弾かないようにしてくれませんか」と申し出たが、被害者宅の妻は大浜を変人扱いして近所付き合いを放棄していたため、これは承諾されなかった。かえってわざと音をたてて頻繁にサッシを閉めたりなどの意趣返しをしていたふしもある。そうなると大浜も下の音がいっそう気になって仕方がない。日曜大工の音、TVの音、なによりピアノの音――。騒音をきっかけとした双家の感情のもつれは、ついに大浜の「凶行」という名の爆発をもって終焉した。
 大浜は犯行後、自殺をはかるが死にきれず自首。騒音に悩む人々から助命嘆願書も出されたが、大浜本人が「処刑によって自殺を遂げたい」と述べ、死刑が確定した。
 この事件について作曲家の団伊玖磨は「ピアノは30畳敷の広さがある石造建造物の中で弾くために発達した楽器であり、日本家屋で使うのは風呂場で野球をしようとするくらい無茶なことだ」とコメント。
 作家の上前淳一郎は「団地の3畳間でピアノを弾く者と、それに耐え切れず殺人を犯す者と、どちらに狂気があるのか調べれば調べるほどわからなくなってくる」と書いている。

 


 昭和49年 小森義男事件   ――「いなか、の、じけん」参照。

 昭和52年 青酸コーラ事件  ――高度消費社会の落とし子ともいえる、愉快犯による無差別殺人。

 

 

●昭和54年 梅川昭美事件

 1月26日、梅川昭美は大藪春彦の小説から抜け出てきたような、黒いスーツにチロルハットといういでたちで、大阪市住吉区の三菱銀行に猟銃を持って押し入った。
 まず天井に向かって1発発砲。つづいて銃口を窓口の行員に向け「5000万円用意せえ」と要求。行員が咄嗟にその銃口を手で払おうとすると、梅川はためらいなく彼を射殺した。これが、42時間にもわたる人質篭城事件の開幕の瞬間である。
 彼はさらにその脇にいた行員の後頭部めがけて撃ち、さらに跳弾が女子行員の左腕に食い込んだ。
 駆けつけた警官2名も射殺。「金をおとなしく出さんかったからや」と言って支店長も射殺し、客と行員の合計37名を人質として、梅川は銀行内に立てこもった。
「おまえら、ソドムの市て知っとるか。この世の生き地獄のことや。その極致をおまえらに見せたる」
「おれは精神異常やない。道徳と善悪をわきまえんだけや」
「極限状態になれば、人間は命惜しさになんでもするもんや」
 梅川は人質たちに向かって、そううそぶいた。彼は男子行員全員に上半身裸になるよう命じ、さらに女子行員全員を全裸にさせると、自分の周囲に立たせて警察の狙撃から身を守るための「肉の楯」を作った。(のちに、片親の女子行員にだけは着衣を許している)梅川は気にいらない態度をとった女子行員の髪を掴んで引きずりまわしたり、体に銃口を押しつけて脅したり、威嚇射撃をするなどして愉しんだ。
 また最年長の行員に向かって「生意気や」と発砲。すぐそばにいた行員に「とどめをさせ」とナイフを渡した。行員が「もう死んでいますよ」と言うと(実際には生きていた)、「そんなら耳を切り取ってこい」と命じ、やらないなら殺す、と銃口を向けた。行員は嫌悪と恐怖と、屈辱の涙を流し、「すまん、すまん」と言いながら、倒れた行員の左耳をそぎとった。
 人質の屈辱はまだ続く。梅川は彼らにトイレの使用を許さず、「カウンターの陰でやれ」と命令。警察から差し入れられたカップラーメンを作らせたり、全裸のままの女子行員に大声で新聞を朗読させたり、行員に500万円用意させて自分の借金を払いに行かせたりと、やりたい放題であった。
 梅川昭美は昭和23年生まれ。小学校1年までは何不自由なく暮らしたが、父が脊髄をわずらい半身不随になったことから生活が苦しくなり、両親は離婚した。母は生活費をかせぐため働きづめに働いたが、その結果息子は放任されて育つことになった。また当時の彼は文盲同然の母を軽蔑していたふしがあり、次第に暴力をふるっては金をせびるようになった。
 強盗殺人を犯し、少年院送りになったのは15歳のときのことだ。自供中、涙ひとつ、謝罪の言葉ひとつなかった梅川に、当時の刑事は「成人したら大物の犯罪者になるぞ」と言ったという。家庭裁判所に提出された精神鑑定結果は「情性欠如性の精神病質」。
 やや余談になるが、梅川は子供のころ、4つの名前を持っていた。ひとつは戸籍上の名でもある「あきよし」、それに加えて「あきみ」「てるよし」「てるみ」とも呼ばれていた。近所の人間は彼を「てるちゃん」と呼び、母は「あきちゃん」と呼んでいたようだ。名はその人の分身といってもよいものである。この「名前の混乱」がすなわち彼の「アイデンティティの混乱」につながったと考えるのは穿ちすぎだろうか? ともかく、後年の梅川自身は銀行に立てこもりながらラジオを聞き、報道アナウンサーが「うめかわ・あけみ」と名を間違えて読んだのに腹を立て、「オレの名前くらい覚えとけ!」と激昂して怒鳴りつけている。
 警察は「生きたまま捕らえたい」と熱望したが、母親の説得は電話を切られたし、食べ物に睡眠薬を入れる作戦も、梅川がまず行員に毒見をさせていたため頓挫した。しかしついに28日、説得は絶望的であり人質の体力も限界にきているとの判断から、突入の指示がくだされた。
 5名の狙撃隊員が撃ち、そのうち3発が梅川に命中。彼は搬送先の病院で死亡した。人質は42時間に及んだ恐怖から、ようやく解放された。
 大阪府警がこの事件にかけた経費は、1億800万円にものぼるという。

 


 昭和55年 宮崎和子事件   ――連続誘拐殺人事件。平成10年、死刑確定。「誘拐殺人」参照。

 

 

●昭和55年 丸山博文事件

 8月19日、新宿西口で停車中のバス車内から巨大な火の手があがった。連日の暑さで乾燥した空気の中、またたく間に炎は勢いを増し、6人が死亡、22人が重軽傷を負うという大惨事となった。
 犯人は38歳の住所不定の建築作業員、丸山博文である。彼がバスの乗降口から、火のついた新聞紙とガソリンの入ったバケツを放り込んだのだ。
 丸山は“運のない男”だった。父親は飲んだくれの怠け者で、離婚後は母が必死に働いて5人の子供を養ったが、終戦直後の台風で倒壊家屋の下敷きになってあっけなく彼女は死んだ。極貧の辛酸を舐めながら丸山はどうにか義務教育を終え、鳶の見習いや農家の手伝いをして食いぶちを稼いだ。
 30歳で結婚し子供をもうけるが、妻は酒と男に目がない境界線型の性格異常だった。おまけに彼女の病状が悪化し、離婚後すぐに精神病院送りになってしまったため、子供の面倒も彼の肩にのしかかってきた。生後間もない息子を施設にあずけ、丸山は各地を転々としながら息子のいる施設に仕送りをしつづけた。
 丸山は元来、真面目で働き者だったが、だからといって高給がとれるものではない。おまけに彼にはやや精神遅滞の気味があった。高度成長期で、どんどん豊かに、美しく、スマートになっていく社会は、中卒の現場作業員には冷たかった。人々は上昇志向に酔いしれ、下辺のものなど見たがらなかった。
 宿泊費も切り詰めなくてはならなくなった丸山は、いつしか駅付近に寝泊りをするようになっていた。季節は夏になり、お盆を過ぎたが、彼にはあたたかく迎えてくれる故郷もない。気晴らしに競艇に行ったが、有り金はスッてしまった。そうなれば安酒をあおるしか、彼にはもう道はない。駅の階段に腰かけてコップ酒をちびちびやっている彼に、辛辣な言葉が浴びせられたのはそのときである。
「邪魔だな、あっちへ行け!」
 丸山は全身の血がすうっと冷たくなるのを感じた。その声音は“汚らしい”という軽蔑に満ちあふれていた。
 声の主を探したが、もう雑踏にまぎれてしまってわからない。いや、この雑踏すべてが、丸山を軽蔑しているように感じられた。
 こいつらはみんな帰る家がある。出迎えてくれる家族がいる。これから帰って風呂につかり、冷房のきいた部屋で、TVを観ながらビールを飲むのだ。俺が何ひとつ手に入れられなかったものを、こいつらみんなが持っている。
 ゆっくり丸山は立ちあがると、床に散らばっていた新聞紙をかき集め、火をつけた。――そのあとは、冒頭に書いたとおりである。
 判決は心神耗弱が認められ、無期懲役。しかし丸山は平成9年、刑務所内で首をくくって自殺した。遺書はなかった。

 


 昭和55年 金属バット殺人事件 ――二浪の予備校生、両親を撲殺。「学歴社会」「家庭内暴力」の言葉流行。

 昭和56年 佐川一政事件    ――『サイコ殺人』、『カンニバリズム』参照。

 

 

●昭和56年 川俣軍司事件

 川俣は昭和27年、5人兄弟の4番目として生を受けた。ちょうど彼の生まれたころ、一家の経済状態は最悪で、母乳ではなく重湯で育てられた。知能指数はのちの調べによると87。学校の成績は5段階評価の「2」がほとんどで、無口で気が弱く、いつもにたにた薄笑いを浮かべている少年であった。教師の評価は「家族・本人の性格がかなり変わっており、交友関係がせまい。注意力散漫、情緒不安定。怒りっぽい」というものである。
 当時の社会はすでに高校進学率は90%を越えていたが、本人の希望もあって、集団就職で県外に出ることになった。寿司職人の見習いとなるが、最初に勤めた店では少年院あがりの同僚とうまくいかず退職。つぎの店では酒を飲んで客にからみ、おまけに刺青を入れてちらつかせるような真似をしたため、解雇となった。その後は寿司屋を転々とするが、どこも長続きしなかった。
 19歳から20歳にかけて、酒に酔っては立て続けに恐喝や暴行傷害事件を起こし、2年間の服役。
 その2年後にも懲りずに暴行と恐喝で、懲役10ヶ月をくらった。出所してきたとき、川俣は25歳になっていた。彼は郷里に帰って家業のしじみ掻きを手伝いはじめるが、それで金回りが良くなりはじめると地元の暴力団とつるみ、覚醒剤を使用しはじめた。
 昭和53年には、なじみのホステスに亭主がいることを知って激怒し、誘拐して包丁で傷つけたため、懲役1年となっている。さらに昭和55年に、飲酒運転で人身事故を起こして懲役7ヵ月。
 出所後、東京近辺の寿司屋に就職するが、態度の悪さでどこもすぐに解雇になった。川俣は食うにも事かくようになったが、覚醒剤もやめられない。幻聴や幻覚は日増しにひどくなる。最後の頼みの綱、と思って受けた面接も不採用であった。
 6月17日、川俣は手に柳刃包丁を持ち、下半身裸の格好で商店街へ飛び出した。彼は3歳の娘と1歳の赤ん坊を連れた主婦にいきあたり、その親子3人をすべて刺し殺した。3歳の長女は腹から腸がとびだし、長く苦しみながら死んだ。さらに彼は走り、3人の女性の腹部や胸などを刺した。そのうち1人は死亡した。
 川俣は次に通行人の女性を人質に中華料理店に立てこもり、7時間ものあいだ篭城する。その間、10数人を名指しにして「恨みがある、つれてこい」と怒号した。店員に変装した刑事たちについに引きずり出され、逮捕された。その瞬間の、猿ぐつわをはめられ、手錠をかけられた下着一枚の姿の写真を見ると、その目がまだ憤怒に燃えていることがありありとわかる。なお下着は刑事が急遽、商店街から買ってきたものであり、それまでは裸のままであった。
 彼は事件前、兄にこんな手紙を書いて送りつけている。
「おれは毎日、電波とテープと映像にひっつかれた。泣きたくもないのに電波でメソメソさせられた。笑いたくもないのにニヤニヤさせられた。考えたくもないことをテープで考えさせられた。おれがひっつかれているのを知りながら、まさか親兄弟まで一緒になってコソコソ言うとは思わなかった。とにかく五軒目でまともに働けない状態であったならケジメをつける。それより方法がない」
 逮捕後、川俣の尿からはあきらかな覚醒剤反応が出た。彼は取り調べの際もいきがって強気だったが、犯行時も女子供にしか刃物を向けられなかった男は、刑事に一喝されると青くなって下を向いた。
 裁判中も「電波がひどくて」「殺せという声がいつも聞こえた」と証言。覚醒剤酩酊による心神耗弱が認められ、無期懲役となった。

 


 昭和57年 橋田忠昭事件    ――同じく覚醒剤中毒の通り魔。7人を殺傷。無期懲役。

 昭和57年 福田和子事件    ――同僚のホステスを殺害し逃亡。時効20日前の平成9年逮捕。

 

 

●昭和58年 勝田清孝事件

 1月31日、ひとりの男が銀行の駐車場で強盗をはたらこうとし、逆に取り押さえられて逮捕された。この時点ではまだ単なる白昼のケチな強盗犯でしかなかった、この男の名は勝田清孝。現役の消防士であった。
 逮捕されて6日経ったあたりで、捜査員は勝田の口ぶりからどうも余罪がありそうだとの直感を抱いた。厳しい取調べの中、勝田は別件の犯行を自供していったが、それは捜査員の想像をはるかに越える膨大な量にのぼった。
 勝田は妻に隠れて深夜に自動車を駆り、土地勘のある京阪神地域のあちこちに出没し、最初のうちは空き巣や車上狙い、ひったくりを常習的に行なっていた。そして犯行はエスカレートし、昭和47年から昭和58年にかけての約11年間にわたり、殺人、強盗を繰り返していたのである。その間、公務員として働き、「消防訓練大会」では連続競技優勝を果たし、妻と「夫婦参加番組」にTV出演(その前後一週間に、2件の殺人を犯している)するなど、いままでの犯罪者たちとは全く異なったタイプの殺人者が現れたことに社会は震撼した。
 勝田はいったい何人殺したのか。彼の自供を追って書かれた当時の新聞記事によれば、彼は22人殺したことになる。そしてそのうちのほとんどが女性の強姦殺人なのだが、そのうち証拠が固まって立件まで持ち込めた殺人事件は、たった8件である。
 その他強盗(未遂含む)や強盗致傷などを含めれば計27件になったが、実際の犯行はその3〜4倍にのぼったことは想像に難くない。ただ、彼を罰するにはこの27件のみで充分であったことは勿論である。
 勝田は昭和24年、働き者と評判の農家に、長男として生まれた。両親が多忙だったため「鍵っ子」として育つが、そのぶん欲しいものはなんでも買い与えられ、こづかいも充分にもらえた。結果、彼は欲望をこらえる耐性のない子供に育った。ここに至って、昭和初期から中期にかけての「貧しい少年期が生んだ犯罪」という図式は完全に崩壊していることがわかる。
 知能は普通だったが勉強しないため成績は悪く、短気で弱いものいじめをする勝田は次第に父親にもうとまれるようになり、不満からさらに粗暴になっていった。
 やっと入った高校も、ひったくり事件を起こして退学。さらに強盗致傷2件、窃盗・同未遂27件の罪が発覚して少年院に送られることになった。
 少年院を仮退院後は1年に4回も職を変え、それを注意した父親と喧嘩になり、同郷の女性と駆け落ち同然に家出。昭和45年には正式に結婚して家に戻るが、生活費は親にほとんど負担させて自分は遊びまわっていた。
 昭和47年には消防士に採用され、真面目に働くようになるが、その頃にはもう浪費癖は抜きがたいものとして体に染みついていた。
 勝田は酒を飲んで遊びまわり、高級外車を乗りまわし、ゴルフ会員権を買い集め、自宅の裏庭にアマチュア無線の鉄塔をたてた。それらすべてが公務員の給料でまかなえると思う者は誰もいないだろう。さらに愛人まで作り、金を貢ぎはじめた勝田に妻は愛想をつかし、昭和57年別居。ひとり暮らしになった勝田に枷はもうなかった。逮捕されるまで、金と色を求める彼の犯行はつづいた。
 判決は「矯正不可能なほど根強い反社会的性格」「生命をもって償うよりほかない」として、2度の死刑が言い渡された。
 平成12年、死刑執行。

 


●昭和58年 朝倉幸治郎事件

 不動産鑑定士、朝倉は競売にかけられた1億600万の物件を落札。代金は資産のほとんどを担保に入れての大博打であったので、彼はすぐに転売しようと駆けずりまわった。
 2ヵ月後、1億2000万で売買契約が成立。明渡し期限は6月末日ということで決定し、朝倉はほっと一安心した。
 だがその物件にはまだA一家が住んでいたのである。朝倉は落札直後から立ち退き交渉をはじめていたが、これでA一家が期限までに立ち退いてくれなくては転売が成り立たないばかりか、違約金まで払わなくてはならない。
 朝倉は必死にA宅をたずね、交渉をつづけたが、Aはぬらりくらりと逃げ、ついには「弁護士に一任した」と言ってドアも開けないようになった。じつはこの不動産はAの義父の所有で、義父の借金のカタに競売にかけられたのだが、Aは「居座りつづけろ」と義父に指示されていたためそれに従っていたのである。
 だが、朝倉とて財産を担保に入れてまで手に入れた物件である。引きさがるわけにはいかなかった。だが立ち退き期限は迫るばかりで、Aが動く気配はまったくなかった。
 朝倉の父はテキ屋あがりの、闇市を取り仕切ることもしてきた任侠肌の男で、彼はそんな父の背中をみて育った。朝倉自身は生真面目で勤勉な男だったが、生育環境のためか暴力に対する抵抗がうすく、思いつめると何をするかわからない狂熱的な衝動性を持っていた。
 「法律的にはおれが正しい。あいつらが間違っている。正義はおれにある」
 そう確信した朝倉は6月27日、A宅を訪問。顔をみせたAの妻を金槌で殴り殺し、つづいて次男、三女、次女を殺害。そのまま死体に囲まれてAの帰宅を待った。Aが帰ってくるや、彼は惨劇の様子に呆然となっているAに向かって、30分にわたり
「いいか、おれは法律的に正しい行動をとっていたんだ。間違っていたのはおまえらだ。だから殺されても文句は言えない。法を無視するようなやつは法治国家で生きている資格はないのだ」
 とまくしたてた。その後マサカリで切り殺し、死体を浴室に運びいれると、Aの死体を首、手足などを切断してばらばらに解体した。妻の体も一部切断し、死体はすべて浴槽に放りこんだ。それでも憎悪がおさまらず、Aの死体はさらに挽肉機にかけてミンチにした。林間学校に行っていた長女だけが無事だった。
 凶行が終わってしまうと朝倉は心から安堵し、その場に眠りこけてしまった。ここ最近には得られなかった、すがすがしい深い眠りである。おれは勝った。もう安心だ。もうおれを脅かすものは何もない。
 逮捕後も彼は自分が悪いことをしたとはまったく思っていない様子だった。
「自分は正常です。Aのやつは骨まで粉々にしてやりたかった。妻や子を殺したのは可哀相だったと思いますが、仕方がない」
「これは犯罪ではない。戦争です。勝つか負けるか、殺すか殺されるかだったのです」
 朝倉は、平成8年に死刑が確定した。

 


 昭和59年 三浦和義事件  ――「ロス疑惑」騒動を巻き起こした。灰色容疑なれど有罪判決。

 昭和59年 グリコ・森永事件 ――社長拉致、製品に青酸混入など。愉快犯的傾向が強い。未解決。

 昭和59年 宇都宮病院リンチ殺人事件 ――患者2人を職員が殺害。『リンチ殺人』参照。

 昭和60年 飯田篤郎事件  ――悪徳商法の豊田商事会長をTVカメラの前で殺害。

 

 

●昭和61年 久世繁仁事件

 10月14日、若い女性の黒焦げ死体が発見され、警察は殺人とみて捜査をはじめたが、わずか5日後に被害者のキャッシュカードから預金を引き出した男がおり、ただちに彼は捕縛された。
 男は久世繁仁といい、工業高校の美術教師であった。ちなみに被害者の敬子はこの工業高校の卒業生で、久世とは教師と教え子という立場であったわけだが、彼の供述により愛人関係でもあったことが明らかになった。また、久世の愛人は敬子だけではなくもう一人いたのだが、これも元教え子で、彼の共犯者ともなった葉子(敬子の1年後輩)という女である。
 久世はとにかく派手好みな男で、若作りで口が達者だったので生徒には人気があった。しかしえこひいきがひどく、女生徒にセクシャル・ハラスメントをすることも有名で、決して教師としての評判は良くなかった。
 のちにわかったことだが、彼は女生徒たちの私生活や着替えなどを隠し撮りし、「写真をばらまかれたくなかったら、3000万持ってこい。金がないならソープで働け」などと脅してもいたという。
 とにかく久世は金づかいの荒い男だった。車はベンツ、クラウン、ランドクルーザーを所持し、ロレックスをはめ、ブランドものの衣服を身につけていた。ほかにも飲み代、賭け麻雀、女遊びと金を湯水のように使ってしまう。だがその遊興費のほとんどが、じつは敬子にソープで働かせて貢がせた金だったのである(残りはサラ金から借りた金でまかなった)。
 美人でスタイルも良かった敬子は、高校卒業後、モデルクラブに所属した。彼女に稼がせるつもりで久世が紹介したモデルクラブだったが、彼女は1年も在籍せずOLになってしまった。しかしOLの給与だけでは久世を遊ばせることは到底できない。久世は強硬に彼女に風俗嬢になることをすすめた。
 とうとう敬子が彼の言い分に折れてソープランドに勤めはじめたのは、昭和59年のことである。
 しかし久世は彼女の稼いだ金をおかまいなしに使った。殺害までに彼が使いこんだ敬子の預金は2000万にのぼる。銀行預金のほとんどを使い果たされ、なんの見返りもないことに腹を立てた敬子はついに、
「奥さんと別れるか、別居してわたしと暮らして。そうしなきゃ学校にもあんたの家族にもばらしてやるから」
 と迫った。そうでなくとももう敬子には飽き飽きしていた久世は、新たな愛人である葉子(彼女も、久世にソープで働けと強要されていた)に手伝わせ、敬子を殺害することを決心した。
 久世は敬子をだましておびき出し、金槌で殴打。絞殺しようとしたが抵抗され、用意していた木箱に彼女をおしこめて車のトランクに積むと、職場である工業高校に向かった。
 箱をあけると敬子はまだ生きており、「言うことをきくから許して。誰にも言わないから」と懇願した。久世が委細かまわず彼女の両手を縛ると、敬子は
「こんなに先生に尽くしたのに。人生もみんな棒にふって、夢も全部あきらめて尽くしたのに」
 と泣いた。久世はそんな彼女にはとりあわず、箱にタオルやクッションなどを押し込み、彼女が窒息死するまで放置した。
 死体は教室の一角に隠し、なにくわぬ顔で授業をつづけたが、3日目にはさすがに死臭が気になってきたため、葉子とともに死体を運び出して灯油をかけて焼いた。
 昭和63年、高裁判決、無期懲役。

 

 

 昭和62年 神奈川悪魔祓い殺人事件  ――『サイコ殺人』参照。

 昭和63年 名古屋アベック殺人事件  ――未成年6人で2人を殺害。『リンチ殺人』参照。

 昭和63年 名古屋妊婦殺害事件     ――『サイコ殺人』参照。

 

 昭和64年 1月7日 昭和天皇崩御。 新元号「平成」に。

 


 

「歴史は嘘、去ってゆくものはみんな嘘、
そして、
あした来る、鬼だけがほんと!」

寺山修司『毛皮のマリー』より――

 

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