NEO LOMBROSIAN
ネオ・ロンブロジアン

 

 

 チェザーレ・ロンブロオゾ【Cesare Lombroso】(1835〜1909)は、多くの才能ある学者がそうであったように、彼もまたユダヤ系商人の子として生まれた。
 12歳でギリシャ語、ラテン語をマスターし、14歳で「ローマ帝国の興亡」という本を書いた。ヘブライ語、中国語も取得したが、18歳で医学に転じ、28歳で講師、30歳で教授となり精神病院長を併任した。
 40歳でトリノ大学教授に就任。研究業績はクレチン病、ペラグラ、天才論、筆跡学、催眠術、法医学、そして特に犯罪医学である。

 彼は『犯罪人論』という著書の中で、「犯罪者は一種の“先祖返り”であり、“原始食人種の本能や猛獣の残酷さを備えた人間”である」という「生来犯罪者説」を唱えた。
 そして監獄へ赴き、多数の囚人たちを面接・検査し、彼らの中に多くの肉体的、精神的な「変質兆候」を発見した。
 主な「身体的変質兆候」とは、小頭症、大頭症、左利き、並外れた短躯、並外れた長身、斜視、多産もしくは無子孫、顔面または身体の非対称、直立耳翼、耳翼が動くこと、皮膚の蒼白、くる病、異相、早熟、晩熟などである。
 また「精神的変質兆候」には衝動性、自己中心性、病的虚栄、作話、独創性、道徳的感情の欠乏、特異な言語や象徴の使用、粗野、残忍、過度の動物愛好、夢遊などがあげられている。

 しかし現在、ロンブロオゾの学説はほとんど否定されている。「犯罪生物学」ではなく、「犯罪社会学」のほうが広く受け入れられているのだ。だがロンブロオゾの真の学問への貢献はその学説にあるのではない。それまでのように犯罪者を倫理的、法的に非難するのみではなく、原因を実証的に確かめて犯罪防止への道を模索しようとする「近代犯罪医学」への先鞭をつけたことにあるのである。
 ロンブロオゾは彼らを治療し、調査していくことが犯罪抑止につながると主張し、その結果「処罰より治療」という、ヨーロッパの近代刑法の一つの流れが作られたのだ。

 だが近年の医学の発達、特に検査技術の発達に伴って、犯罪者の身体的な所与、特に脳の機能や形態が精密に検査できるようになると、重大犯罪者ではかなり高い率で異常が発見されることが明らかになってきた。

 当時、ロンブロオゾの論敵の一人にチャールス・ゴアリング博士がいたが、その彼ですら「服役している囚人の大半は、平均的人間より身体的に劣っている。彼らはその身体的劣等感を犯罪によって補ったものと考えられる」と述べている。
 また、現代に活躍する高名な心理学者、ジョエル・ノリスは「連続殺人者の多くは頭部に重度の打撃を受けた形跡があり、情緒的に恵み薄い子供生活を送り――しかも奇妙な符号だが、多くは肉体的および先天的欠陥を持っている。指間皮膜、耳たぶの癒着、異常に長い四肢などだ」と著作で書いている。

 「犯罪生物学」は「犯罪社会学」と併用して考慮されることによって、いまや新しく見直され始めようとしている。
 このように現代において犯罪者の生物学的マーカーを研究する者を、「
ネオ・ロンブロジアン」と呼ぶ。

 

  ロンブロオゾが提唱したような、「生来犯罪者」としか呼びようのない人間とは果たして存在するのか? 答えは応、であると言えよう。
 彼らはロンブロオゾが挙げたいくつかの変質的兆候を持ち、まるで「先祖返り」でも起こしたかのような残忍かつ無情な犯行を犯した。
 下記はその数例である。


 カール・パンズラム

 カール・パンズラムの生涯は憤怒と憎悪に満ちている。彼は社会と他人と、自分自身を憎んで生きた。
 彼はつねに腹を立てていた。
 パンズラムの目には世界のすべてが醜く、唾棄すべきもので、無価値に映っていた。

 パンズラムは1891年、ミネソタで農場を営む一家のもとに四男として生まれた。しかし父親は彼が幼い頃家族を残して蒸発し、以来、パンズラム家は極貧の生活を強いられることになる。
 幼い頃からパンズラムは気が強く、反抗的だったので母親にも疎まれ、しゅっちゅう折檻された。母は彼の両手をベルトで縛り、床に転がして蹴りまくった。
 はじめてパンズラムが法廷に立たされたのは8歳のときで、11歳には強盗で感化院送りとなっている。そこで看守に手荒く扱われ、彼の社会に対する反抗心はさらにつのった。
 院内での暮らしがしばらく続いたのち、彼は陸軍に志願し入隊した。が、規律の厳しい軍生活がパンズラムに馴染むはずもなかった。彼はいくらも経たぬうちに命令拒否の罪で3年の実刑判決を受け、服役する。
 出所後、パンズラムは浮浪者4人に輪姦された。この経験は彼に「こういう他人の痛めつけかたもあるのだ」と教えた。パンズラムは以来、浮浪者を見つけるとよほどの不細工でない限り、見境なくレイプした。線路上で行為の真っ最中、車掌にとがめられたので車掌までまとめてレイプしてしまったことすらある。

 強盗、追いはぎ、窃盗で彼は刑務所送りになっては脱走を繰りかえした。各地の監獄で、彼は「手ごわい、危険な囚人」としてブラックリストに名を連ねることになる。彼は反抗し、押さえつけられ、またさらに厳重な監獄へ送られた。
 パンズラムは反抗をやめず、刑務所の作業場や工場に放火した。炊事場で仕事しろと命じられた時には手斧を振り回して暴れ、ほかの囚人たちに脱走を煽動したりもしている。
 反抗の懲罰として袋叩きにされた挙句、陽の射さない独房に30日もの間、手錠で繋がれた上隔離されたこともある。
 しかし房から出されるやいなや、彼は刑務所の屋根に穴を開けて脱走しようとした。彼は全身を激しく鞭打たれ、独房へ逆戻りとなった。
 そのうち刑務所はパンズラム専用の隔離房まで用意し、彼をそこへ放り込むようになったが、手ひどく扱われれば扱われるほど、彼の中の憎悪は増した。
 怒り狂ったパンズラムはわめき、怒鳴り、荒れ狂い、空房の錠をすべて叩き壊してまわった。その代償として彼は失神するまで棍棒で滅多打ちにされ、全身打撲で動けなくなるまで消火ホースの高圧水を浴びせられた。

 何度目かの脱獄ののち、彼の憎悪と破壊衝動は頂点に達した。
 彼はニューヨークで船員の身分証明書を取得した。職を世話してやると言って何人もの船乗りを騙し、ヨットに連れこむとしたたかに酔っぱらわせ、凌辱して殺した。死体はすべて海に投げ捨てた。パンズラム本人によると、この手口による被害者は「頭数、ちょうど10人」だそうだ。
 パンズラムは西アフリカに渡り、職に就いたが、食堂のウェイターをレイプしたことがもとで解雇された。
 むしゃくしゃして列車にあてもなく乗っていると、11、2歳の黒人少年を見つけた。彼はこの子を騙して連れ出し、犯して殴り殺した。頭蓋骨を砕かれて絶命した少年の耳からは脳漿が流れ出し、パンズラムの言葉によれば「これ以上死ねないくらい、死んでいた」という。
 それから彼は町に向かい、カヌー一隻と6人の黒人を雇い入れ、ハンティングをした。鰐がたくさんいるのが見えたので、パンズラムは黒人6人をすべて射殺し、海に放り込んで鰐の餌にした。これはまったく意味のない、無動機殺人である。
 のちにパンズラムはこの一件について、
「神が作ったものであろうが人が作ったものであろうが、法という法はすべてぶち破ってやりたかっただけだ」
 と言っている。

 アメリカに戻り、パンズラムはさらに三人の少年を凌辱して殺した。これで被害者総数は20名にのぼった。
 それからの5年間の人生を、彼は凌辱と盗みと放火とで浪費する。


 1928年、パンズラムはまた監獄送りになり、そこでも相変わらず反抗的で、この上なく凶暴な囚人であり続けた。
 そんな彼に、奇妙に気を惹かれた男がいた。ヘンリー・レッサーという名の若いユダヤ人看守である。レッサーがある日、房の外からパンズラムに何気なく、
「外じゃ、何の仕事をしていたんだ?」
 と訊いた。パンズラムはにこりともせず、
「人間を更正させる仕事さ」
 と答えた。レッサーが戸惑い、それはどういう意味かと尋ね返すと、彼は吐き捨てるように言った。
「誰かを更正させようと思ったら、殺すしかない」
 レッサーは背筋が寒くなるのを感じ、パンズラムの房から慌てて離れた。しかしそれでもパンズラムには、どこか彼を惹きつけて離さないところがあった。
 ある日、パンズラムは房の鉄格子に細工をしていたのを発見され、手錠で天井から吊り下げられるという懲罰を受けた。彼はそのまま12時間にわたって放置された末、反抗的な態度が治らないとして、ほとんど丸一日かけて棍棒で打ちすえられ続けた。パンズラムは殴られながら、
「みんな死ね。俺をこの世にひり出したクソババアも、てめえらもみんな死ね。くたばれ。貴様ら全員の息の根を止めてやる」
 とわめいた。
 2日後、パンズラムはようやく解放され、房へ戻された。半死半生の彼を見てレッサーはいたたまれなくなり、模範囚の手を通じてパンズラムに1ドル札をこっそり渡した。1ドルあれば、ちょっとした食べ物と煙草が買えるはずだったからだ。
 パンズラムは最初、これを悪い冗談だと思った。しかしレッサーが本気で自分に同情しているらしいことがわかると、子供のように泣きだした。
 彼はレッサーに、
「紙とペンをくれないか」
 と頼んだ。そして彼はこれから、膨大な量の自叙伝を書くことになる。

 パンズラムの自叙伝は理路整然としており、文章は達者だった。レッサーはこれにいたく感銘を受け、さまざまな文学者に送りつけ、出版して陽の目を見させようと奔走した。
 しかしやはりパンズラムはパンズラム以外のなにものにもなり得ない。彼は裁判で、
「俺は人類すべてが大嫌いだ。俺の手で全員をくびり殺したい」
 と怒鳴り、懲役25年を受けた。
 1929年、パンズラムは「アメリカ一、厳重で過酷」だとして知られたリーブンワース刑務所へ移送された。
 パンズラムはここで、洗濯場の作業に回された。洗濯場は換気が悪くいつも湿っており、陽のあたらない陰気な場所であった。おまけに夏はこれ以上ないほど暑く、冬はとうてい耐えられそうにないほどの寒さとなる。あらゆる囚人がもっとも嫌がるのが、洗濯場での作業であった。しかもこの現場監督は厳しい嫌味な男で、パンズラムとはつねに衝突しあっていた。
 リーブンワースでのパンズラムの楽しみはたったひとつ、時折レッサーから届く手紙を読むことだけであった。
 しかしある日、パンズラムの忍耐は何の前触れもなくぶつりと切れた。
 ひどく暑い日だった。洗濯場で、現場監督は分解された洗濯機を眺めていた。
 彼がふっと人の気配を感じて振り返ると、そこにはカール・パンズラムが立っていた。パンズラムは手にしていた金梃子をまっすぐに振り下ろし、一撃で彼の頭蓋骨を砕いた。
 異変に気づいて看守や他の囚人たちが駆けつけた時、パンズラムは怒りと歓喜の入り混じった咆哮を上げながら、すでに絶命した死体の上に馬乗りになり、なおもその顔面を滅多打ちにしていた。
 彼からあきらかな狂気を嗅ぎ取った周囲の人間が怯えて後退ると、パンズラムは血まみれの金梃子を持ったまま副所長室に駆け込んでいった。
 運良く、副所長はまだ出勤前であったため、難を逃れた。パンズラムはなおも所内で暴れ、荒れ狂った。
 しかしそれほどの所業にもかかわらず、彼は罰せられなかった。
 彼は風通しのいい房に移され、房外へ出ることこそ禁じられたものの、殴打もされず過酷な作業も課せられなかった。
 戸惑ったパンズラムは、レッサーに手紙を書いた。
「ひょっとしたら、俺が最初から今みたいな扱いを受けていたら、あんなにも人を殺したり殴ったり、盗んだりしなくて済んでいたんじゃないかって気がちょっとするよ」と。



 彼を鑑定した精神科医は、「カール・パンズラムは精神異常である」と断定した。
 しかし、判決は死刑。  
 レッサーは死刑執行の延期を求め、パンズラムに興味を持った文学者や評論家とともに運動したが、パンズラム本人はこれを拒んだ。
「たとえ100万ドルもらったって、俺は良いことをするつもりも、良い人間になろうとする気もない。俺は30年かけて、こういう人間になったんだ。一瞬で黒から白に戻ろうったって、そうはいかんさ。……しかし不思議だね、レッサー。あんたみたいな人がどうして俺なんかを好いて、そんなに良くしてくれるのか。俺自身ですら、こんなにも俺を嫌ってるっていうのに」。

また、死刑反対論者たちの多くがパンズラムの減刑を求め、彼に面会を訪れて控訴の申し立てをさせようとした。しかし彼はそのすべてを嘲笑い、罵倒して追い返した。
 自分が死刑判決を受けたことに対し、彼はこう述べている。
「俺が受けた判決は、これ以上ないくらい掛け値なしの『正義』だと思うね。俺が今まで受けた判決の中で、唯一の正義だと言ってもいい」。
 そして彼を鑑定した精神科医は、
「あれほどの獰猛さ、休むことない精神活動、そして対象を選ばぬ憎悪を発散し続けられる男を見たのは生まれて初めてだ」
 と言った。

 1930年9月11日、パンズラムは処刑台にのぼった。
 死刑執行人に「なにか言いたいことはあるか」と聞かれ、
「ああ、あるね。さっさと仕事にかかりなよ。おまえみたいな田舎者がのろくさやってる間に、俺なら一ダースはくびり殺せるぜ」
 とせせら笑った。
 その10数秒後、絞首台の床が落ち、カール・パンズラムの死刑は執行された。



 

 こんなエピソードがある。
パンズラムはあるとき、レッサーが彼の独房に入り、背中を向けて作業するのを見て激しいショックを受けた。
「二度とそんなことはするな。俺に背中を向けるなんて」
「きみはわたしに何もしないさ」
「たしかにあんたは俺が殺したくないたった一人の人だ」
 パンズラムはうなずいた。
「でも俺はいつまたころりと変わるかわからないんだぜ。何をするか自分でもわからん」。

 あきらかに彼は自分が、「理性で衝動を抑えこむことの不可能な人間」、「人類の中の、ある原始的な種族」であることを心得ていたのである。これはロンブロオゾの唱えた「先祖返り説」にきわめて近いと言える。

 


† ジョセフ・キャンベル

 殺されたコールガールは大変な美女だった。スタイルは抜群、髪は本物のブロンド、教師の資格を持っていたが、飲んだくれの父親を養うため、売春をはじめたのだ。
 彼女はある日、鉄柵にぶらさがる格好で、遺体となって発見された。
 死体はすさまじいものだった。肋骨は両側とも折れ、前歯は折れて飛び出し、歯根が歯茎と唇に突き刺さっていた。顎と前頭骨は砕けていた。これは頭を何度もレンガ壁に打ちつけられたせいで、髪には脳組織がこびりついていた。
 内臓はあらかた破裂し、腸はずたずた、繰り返し蹴られた結果、肋骨は6本折れ、そのうちの数本が肺に突き刺さり、深い裂傷をつくっていた。顔の骨は大半が折れ、粉々になった頭蓋骨が、脳を重篤に損傷していた。

 彼女の死因は特定できなかった。外傷のどれをとっても、彼女を死にいたらしめるには充分なものだったからだ。彼女は殴られ、蹴られているうち、心臓がもたなくなって死んだのである。
 しかし彼女の爪の間から発見された組織が赤いカーネーションであることが判明し、事件は急速に解決する。

 逮捕されたのは織物商を営む52歳のジョセフ・キャンベル。高価なスーツを着、ボタンホールにいつも花を挿していた。また鼻中隔異常により鼻に著しい奇形があった。
 彼は被害者のパトロンになりたかったが、拒まれたために殴り殺したのである。
 キャンベルには2度の前科があった。1度はクラブの会員権の期限切れで立ち入りを拒否されたとき、ドアマンに暴行を加えたかどである。2度目は店の金をくすねた店員を半殺しにし、3週間入院するほどの重傷を負わせている。
 彼はあきらかに自分の過剰な暴力への衝動を自覚していたが、それを抑えこむつもりは毛頭なかったのだ。
 キャンベルは懲役20年となり、10年で出所したが、新聞売り子にいいがかりをつけて重傷を負わせ、警官から逃げる最中、バスにはねられて死んだ。

 


† サイモン・グラント

 これは謎の多い事件である。
サイモンは異常出産のため、左半身が麻痺していた。髪は洗わず伸ばしっぱなしで、いつも口をあけていた。首の筋肉が萎えているせいで頭蓋を支えていることができず、いつも頭が左にかしいでいた。
 彼が18になったとき、両親が離婚した。サイモンはこれを機にひとり暮らしを始めたいと主張した。周囲は反対したが、やがて負けて、これを許している。サイモンが怒りっぽく偏屈で、「他人の干渉を受けず、隔絶した人生が送りたい」と常日頃から口に出していたせいもある。
 サイモンが20歳になったとき、福祉局が彼の両親に手紙を出し、「彼の生活ぶりを把握しているかどうかを確認したいのですが」と言った。
 まず母親が様子を見に彼を訪ねた。彼女はそのまま行方不明となった。
 彼女の姿が見えないことに気づいた隣人がサイモンを訪ね、「お母さんはどこに行ったの」と訊いたが、息子は「ガスがどうのこうの」と意味不明のことをぶつくさ言っただけで、ドアをばたんと閉めてしまった。
 次に父親が訪れた。彼もまた、それきり姿が見えなくなった。

 隣人の通報を受けて警察が彼の家を捜索すると、山ほど溜め込んだゴミとがらくた、腐った食べ物、それとたくさんの猫の屍骸の皮が見つかった。庭の隅のタンクには得体の知れないどろどろした液体が入っていたが、そのタンクの底から発見されたものが2つ。ひとつは短剣で、もうひとつは、彼の父親の大腿骨にはまっていた人工関節だった。
 警察はこの液体は溶剤であり、彼が両親の死体をこれで溶かしたと考えた。しかし警察の研究所では、この液体でなにも溶かすことができなかった。
 サイモンは最初に刑事に向かって、
「あんたを告訴してやる」
 と言ったきり、2度と口を開かなかった。
 下水溝からは血液が採取され、鋸の刃からは骨髄らしきものも見つかった。だがありとあらゆる検査を行なったにも関わらず、結果はシロだった。両親の有機的痕跡は一切なく、この家からはふたりの指紋はひとつも見つからなかった。
「うす気味わるいったらない??人工関節の一部はあっても、指紋がないなんて」
 と、捜査員たちは溜息をついた。
 サイモンは警官や鑑識が家の中を入れかわり立ちかわり捜査している間、ただ何事もないように座って新聞を読むか、宙を見つめていた。彼はまさに彼自身の望んだ『隔絶された人生』を生きているように見えた。
 死体はとうとう発見されなかったが、警察はサイモンの逮捕を決定した。しかしそれは結局かなわなかった。警察が家に着いてみると、サイモンは砒素を飲み、自殺していたからである。一言の自供もないまま、彼はこの世を去った。
 サイモンの死後、庭の木の根元から猫の死体と共に、防油紙で丁寧に包まれた眼鏡が見つかった。間違いなく彼の父親のもので、いたるところに脳組織がこびりついていた。
 サイモンの両親の死体は今も発見されていない。

 


† 萩原貞次


 1970年8月10日、埼玉県東部の住宅街で、一家4人の惨殺死体が発見された。殺されたのは40歳の夫と37歳の妻、それに14歳の長男と8歳の次男である。
 検死の結果、どうやらナタのような凶器で滅多打ちにしたものらしく、長男にいたっては31箇所もの創傷を受けていた。全員が頭蓋骨骨折し頭蓋腔内に陥没。脳はほとんど原型をとどめないまでに潰れ、顔面はまるで柘榴が弾けたようである。また、妻の太腿に少量の精液が付着していた。
 あまりのむごたらしい現場に、まず怨恨説が浮かんだのも無理のないことであった。

 11日早朝、凶器とおぼしき薪割りがドブ川から発見された。そしてこれが被害者となった夫の実家で使用していたものだということも、すぐに判明した。
 被害者は長男だったが、次男に家督をゆずって家を出ている。三男の貞次は窃盗の常習者で3度服役しており、四男も窃盗で検挙された前歴があった。だが捜査の結果、次男と四男にはアリバイがあることが知れた。
 そうなると容疑は三男に絞られる。
 貞次は34歳になるが独身で、手癖が悪く上記のとおり3度服役している。いま現在の居住地は不明だが、最近になって出所し、何度か近所をうろついていたのを隣人が目撃していた。
 彼は幼い頃から盗癖があり、近所の風呂場や脱衣所を覗く癖があった。動作は鈍重で、風采があがらず、中学卒業後は職を転々としている。また何度か自殺未遂をやらかしたこともあった。

 26日、警察は東京の簡易宿泊所にいた貞次を発見。単刀直入に「兄貴夫婦を殺ったか?」と訊くと、彼はすんなり「はい」と言って頭を下げた。
「ムラムラとして、やりました」。
 その夜、彼は覗きをするつもりで実家周辺をうろうろしていた。
 かねてより兄嫁と関係したいと思っており、隙あらば家に上がりこむつもりであった。
 しかしやはり、覗くだけではつまらない。そう思って実家から薪割りを持ち出すことにした。邪魔をする者は殺してもかまわないと思っていた。たとえそれが兄や甥であっても、彼にはとくに関係のないことであった。
 午後11時頃、家を覗いてみると、夫婦と次男が寝室で並んで寝ているのが見えた。
 家に忍びこみ、まず兄嫁の頭に薪割りを振りおろした。それから兄と甥に打ちかかった。呻き声を上げつづける3人に、彼は薪割りをふるい続けた。
 襖が開いて、「うるさいな、何?」という声がし、兄の長男が入ってきた。彼は躊躇なくこれも押し倒し、薪割りで滅多打ちにした。
 部屋の電灯をつけて明るくすると、目指す兄嫁はもはや虫の息であった。彼は全裸になって兄嫁にのしかかり、姦淫。さらに脚をひろげさせて尻の肉か股の肉を切り取って食べようと思った。が、菜切り包丁しかなかったので、あきらめてスリコギを持ってきて弄んだ。
 兄嫁の体をなぶっている間も、兄と甥たちはすぐ横で断末魔の呻き声をあげていた。彼はそのたび、行為を中断して薪割りで彼らを叩いて回っている。
「あっちへ行き、こっちへ行きでみんなを殴ってたら、せわしなくて疲れちゃった」と彼は悪びれず言った。
 接吻したかったが、兄嫁の顔はぐちゃぐちゃで、さすがに口を近づける気にならず、やめて家を出た。時刻は午前3時。薪割りを川に捨て、電車で宿泊所に戻り、ぐっすり眠った。しかし目覚めて、なぜやっぱり肉を切り取って食べなかったのかと、激しく後悔する。
 まだ事件が発覚していないようなら、これからでも間に合うかもしれない、と実家に電話して探りを入れてみたが、案の定もう騒ぎになっていたので、がっかりした。肉を食べるのは次のときまでお預けだ、と思ったという。

 公判で、裁判長は貞次に
「犯行のあと肉を食べなかったのが残念で仕方ないと供述書にあるが、これは本当かね」と訊いている。
「はい」
「いまでもそう思っているのかね」
「はい、そう思っています」。
 また、これは取り調べ中のことだが、彼があまり性のことばかり話すので、呆れた刑事に
「おまえ、セックスのことしか頭にないのか」と言われ、これにも
「はい」とおとなしくうなずいている。
 精神鑑定結果は「意志薄弱性、無情性の精神病質。さらに情性欠如の特徴がみられる」というもので、「われわれ精神医学者から見てもまれに見る異常人格であり、怪物といっても差し支えない」という一文で結ばれていた。

 判決は死刑。
 過去、控訴せず死刑確定となった例はわずか2例であるが、これはそのうちのひとつである。他人の生命に関心の薄い者は自分の生命にも執着がないというが、自殺癖があったことから見ても、彼はそれに当てはまるだろう。

 


† H・H・ホームズ(ハーマン・ウェブスター・マジェット)

 H・H・ホームズは偽名であるが、本名のハーマン・マジェットよりこちらの名の方が世に広く知れ渡っている。彼は人生のほとんどを詐欺と偽造とペテン、それに殺人で明け暮れた。

 犯罪学者や記者、刑事たちがなんとか彼の供述をつなぎあわせたところによれば、彼は1860年5月16日にニューハンプシャーで生まれている。頭はいいが、シャイで臆病な子供だったらしい。
 18歳のとき、最初の結婚。妻の稼ぎで医学校に通った。しかしその後は妻を捨て、医者としての活動も早々にやめて信用詐欺や不動産詐欺などに精を出すようになる。
 26歳で2度目の結婚。前の妻と合法的な離婚はしていなかったので、もちろん二重結婚であった。
 翌年からホームズの大量殺人者としての人生が幕をあげる。
 彼はまずドラッグストアを経営する未亡人を騙し、彼女を殺して遺産を相続した。そして借金と詐欺で得た金で、彼は自分の「館」を築きはじめた。どんでん返しの壁や、隠れ小部屋、どこへもつながっていない階段、迷路のような廊下、地下の拷問室につながる長い長い傾斜路などでできた奇妙な館である。ホームズは建築作業員をほぼ半月ごとにやめさせ、総入れ替えした。館の構造を、他人にはけっして把握させないためである。

 ホームズはドラッグストアを経営し、かなりの収入を得ていたが、それだけでは勿論飽き足りなかった。彼は保険金殺人を犯し、邪魔になった愛人を殺し、まったく性的に愉しむためだけにも女を殺した。また、死体を医科大学へ安く売り飛ばしたこともある。
 彼は金銭のために人を殺すことができたし、情のゆえでも、またまったく動機などなくても人を殺すことができた。他人は彼にとって紙クズ同然だったからである。誰であれ、ホームズにとって命は平等だった。無価値であるという一点において。

 29歳のとき、ホームズは自宅の地下室に超高温の炉を取り付けた。技術者は完成した途端、自らの造った炉に蹴り込まれ、焼き殺された。彼は骨のかけらすら残らなかった。その後もこの炉付きガス室で、多くの命が絶たれた。
 ホームズはいったい何人殺したのか? 正確なことはわからないが、総数は100名近いであろう。老若男女問わずホームズは殺した。だが彼が逮捕されるきっかけになったのはこの「館」を使った殺人ではなく、詐欺だった。
 東海岸である詐欺事件を調査していた警察は、ある男に行き当たった。その男はホームズの詐欺のパートナーで、すでに彼の手にかかって殺されていた。それが判明するや、警察はホームズの身柄を拘束した。逮捕されたとき、彼は3人目の妻と暮らしていた。

 シカゴでの彼の罪は問われずに済んだ。フィラデルフィア当局が彼の引渡しを拒んだからである。しかし立件された27件の殺人と6件の殺人未遂だけで彼を死刑台に送るには充分だった。
 1896年5月7日、ホームズは絞首刑となった。彼の棺はセメントで固められ、厚さ60センチのセメントの下、地上から約3メートルの深さに埋葬された。これは故人の意志によるもので、「墓盗人と、医学から身を守りたい」という台詞付きだったという。

 

 ホームズは犯罪によって自分の体に変化が起きたと信じていた。片方の腕と脚がもう一方より短くなり、顔の片側に「悪のゆがみ」が生じる。その顔のゆがみがあまりに目だってきたので、彼は髭を生やしてそれを隠した。しかしこれはどうも彼の思い込みだけではなかったようで、彼の顔写真を見る限り、その両半分の違いは著しい。
「わたしは悪そのものを体に取りこみはじめた」と彼は言っている。
 ホームズは己の所業によって後天的に「原始的殺人者」になったのかもしれない。

 


 

番外として……「犯罪者家系」

ジューク一族

 ジューク一族の祖先は18世紀初頭に、ニューヨーク州で生まれた。彼は人生の大半を飲酒と犯罪と、売春斡旋で過ごした。彼の二人の息子は腹違いの妹と結婚した。これを祖先とする500人以上の子孫を、社会学者のダグデールが調査した。
 結果は「140人が現在受刑者、窃盗犯が60人、売春婦50人、生活不能者が180人」。
 30年後に調査したとき、一族は2000人を超えていた。うち200人が犯罪者、売春婦が300人、残る大半が生活不能者であった。州政府が彼ら一族のために費やした金額は300万ドルを越えるという。

 

カリカック一族

 マーティン・カリカックという男がいた。彼は独立戦争中、現地で精神薄弱の女に子供を生ませ、のちに郷里に戻り、クエーカー教徒でインテリの女性と正式な結婚をしている。
 社会学者のゴダートが調査した結果、彼がクエーカー教徒と成した子孫は、異常者はたったの3人、大半が弁護士や医師、教育者などであった。逆に精薄の少女との子孫は犯罪者や売春婦ばかりで、正常な者はわずか10%にも満たなかった。

 

クレティン一族

 ジャン・クレティンは放火犯の娘と結婚し、4人の息子をつくったが、いずれも強盗殺人で、首をはねられた。
 次男の息子は死刑となり、三男の2人の子供はギロチンにかけられ、そのまた息子は終身刑になった。
 四男の息子と妻はともに終身刑であり、彼らの6人の子供らは、いずれも強盗殺人で死刑になった。フランス政府がクレティン一族のために費やした金額は「莫大なもので、計算不能」であるという。

 

※日本では小平義雄、大久保清の家系に顕著な犯罪素因がみられる。「昭和残酷史」参照


(念のため書き添えますが、これは身障者等への差別の助長を意図した項ではありません)

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