ーLOVE YOU TO DEATHー
ここでは、世間一般で「痴情のもつれ」「愛欲の果てに」などと
形容される殺人事件を、国内外別に取りあげてみた。
さて貴方は、「殺したいほど、誰かを」愛したことがあるだろうか?
●国外編
◆アンジェラ・マリー・トラスク
1986年11月、ブロンクス地区で、夜勤のパトロール警官が通報を受けてトラスク家に踏み込んだ。
家中がおびただしい血にまみれていた。部屋は荒らされ放題に荒らされ、居間の真ん中ではその家の主である38歳のマイケル・トラスクが頭を切断された死体となって転がっていた。
捜査員のひとりがうめき声を聞きつけ、ベッドの下を覗くと、そこには素っ裸で胎児のように丸くなった女が、すすり泣いていた。体中打撲と擦り傷だらけで、あきらかにレイプされており、体内の奥深くには異物(スカッシュのボール)が無理に押し込まれていた。トラスクの妻、アンジーであった。
彼女の供述により、襲撃者が夫妻のもと友人であることがわかった。
警察はさっそくその男を事情聴取するべく、アパートを訪ねた。
しかし時すでに遅く、男は銃で額を撃ちぬいて死んでいた。
捜査はここで、残念な結果ながらも解決するはずだった。だがそのとき、報告書をまとめていた検察医がいくつかの矛盾に気づいた。
血しぶきの角度がおかしいこと、犯人の死亡推定時刻がどう考えても凶行より前であること、また、アンジーの全身の傷が妙に偏った場所にあり、乱暴に引き抜かれたはずの頭髪の断面図は、鋏で切ったらしくいかにも綺麗なものだった。
捜査員はふたたびアンジーを取り調べた。最初こそしらを切っていたものの、やがてアンジーはふてくされたように肩をすくめた。
「はいはい、いいわよ。やったわよ、あたしがね――。ふたりとも、さ」
さらにこうも言った。もしチャンスがあれば、もう一度やってやる。ただし次のときには、もっともっと苦しめてやる、と。
「どっちも、あれくらいじゃとっても足りないもの」
夫は秘書と浮気していた。それはいい。自分とて他の男――彼女が加害者に仕立てあげようとした男――と長年浮気していたのだから。問題は、夫が自分と離婚してその秘書と再婚しようとしたことだ。
そのうえ、恋人のほうにも彼女を引き取る気などさらさらないのははっきり見てとれた。彼にとってアンジーはただの遊び相手であり、夫を失った無一文の彼女など、洟もひっかけるつもりはなかったのだ。
アンジーは最初自殺を考えたが、なぜ自分が死ななければならないのか、と思いかえし、逆に相手を殺すことを決心した。
計画はわずか一週間でたて、すみやかに実行した。まず恋人の部屋へ行ってアミタール入りのコーヒーを飲ませ、寝入ったところで手に銃を持たせて引金をひいた。
それから帰宅し、レイプ殺人未遂の被害者になるため、夫と寝た。そして彼が毎晩飲むココアにも、アミタールを仕込んだ。熟睡した彼をよそに彼女は家を荒らしまわり、破壊しつくした。それに飽きたところで、今度は自分を痛めつけた。肉叩きで全身を殴り、ひっかき、加被虐的な思いを充分に愉しんだ挙句、夫を切り刻んだ。
「あたしはそれだけあいつらを憎んでたの。いまだって、3人ともみんな憎いわよ」
「3人だって?」
アンジーはうっすら微笑んだ。
「そう、3人目は亭主の秘書で浮気相手のかわいこちゃん。あの子、うちのガレージにいるわよ」
トラスク家のガレージの隅にあったプラスティックの袋の中身――それはたしかに、若い女の死体だった。
彼女はスマートなビジネス・スーツを着たまま、両目を串刺しにされ、編み棒で脱脂綿を喉に詰め込まれて窒息死していた。
捜査員は訊ねた。なぜこれほど綿密な計画をたてておきながら、隠蔽工作をほとんど行なわなかったのかと。アンジーは淡々と答えた。
「あたしの目的はあいつらを殺すことだった。ほかのことはどうだって良かったわ。前にも言ったけど、もう一度やれるもんだったら、必ずやるわね。他の女たちにだって薦めるわ。おやりなさい、どんどん、ってね」
彼女は3件の第一級謀殺で有罪となり、終身刑を宣告された。
◆ハンス・アペル
最初に個人的な見解を言っておこう。これは同情すべき殺人である。
1974年、アペルは娘を寝かしつけている最中、おそるべきことを聞いてしまう。
「マミーとね、ユルゲンおじさん(妻の実兄)が裸でベッドにいたのよ」と。
彼はただちに2人にこの事実を問いただした。2人は否定もせず平然としていたが、アペルはユルゲンに、もう家には寄り付くなと言い渡した。
ところが予想しなかったことに、妻までが兄を追って出て行った。アペルは彼女に惚れきっていたので、毛皮でも宝石でもなんでも買ってやるから、帰ってきてくれと懇願した。しかし彼女はこれを拒んだ。
思い悩んだアペルは、親しい友人でもあった妻の弟、ディーターにこのことを相談した。するとディーターはうすら笑って、「そんなこと問題ですか? ユルゲン兄さんと僕は昔から、しょっちゅう姉さんとファックしてますけど」と言った。
アペルは「自分の中で、なにかがぱちんと弾けて飛んだ」のを感じた、とのちに述べている。
気がつくと、彼は義弟のディーターに2発撃ちこんでいた。彼は即死だった。
アペルは21ヶ月の禁固刑となったが、ただちに保釈された。しかし彼の妻は夫のもとに戻ることを拒否し、実兄との生活をつづけた。
彼はなにを得るために撃ち、そのためになにを失ったのだろうか。
◆リリアン・ステュワート
1986年の夏、LAのある一軒家が大爆発した。
テロリストの仕業ではないことは捜査がはじまって一時間ほどでわかった。電力会社とガス会社があらゆる点検を行なったが異常はなかった。外部からなんらかの爆発物が仕掛けられたらしいことは明らかだった。
被害者はデニス・ロングトンという離婚した女性で、ひとり暮らしだった。
彼女の遺体は23個もの破片となって、検死のため警察に運ばれた。
まっさきに疑われたのはもちろん、彼女の前夫だった。すると彼は言った。
「わたしを疑ってるんですか? だったらラリー・ステュアートをあたってみたほうが早いですよ」
捜査員はその名を聞くのは初めてだったが、落ち着きはらって、
「もちろん彼も容疑者のひとりですよ」と言った。
警察はただちにラリー・ステュアートの身元を調べた。広告代理店勤務のエリートで、デニスとはもう2年越しで不倫の関係にあった。
彼の調査をすすめる一方で、爆発物の入っていたらしい小包の封筒を綿密に調べた。内側についた跡から平らな箱が入っていたことがわかり、ニトロ式ダイナマイトが5本入っていたと推定された。捜査員たちは粉々になった邸内を這いずりまわって、100個以上にものぼる箱の破片をかき集めた。
箱をつなぎあわせてみて、彼らは首をひねった。
箱の内側にはいかにも子供らしい字と絵が、クレヨンで落書きされていたのだ。そこにはティナ、という文字も読み取れた。ちなみにラリーの2番目の娘の名も、ティナだった。
捜査官は自信をもってラリー・ステュアートの自宅を訪ねた。
出迎えたのは夫人だった。すらりと背が高く知的な瞳をした美人である。こんなひとがどうしてあんな俗物と結婚したのか、と捜査員は内心で首をひねった。
彼女のかたわらにいた末娘が、爆弾の入っていた箱の写真を見て叫んだ。
「おねえちゃんの筆箱!」と。
リリアンはうなずき、捜査員に、ふたりきりで話しましょう、と言った。
彼もそれに応じ、ふたりは夫と子供をのこして応接室へ入った。
「もうご存知でしょうけど――デニスにあの箱を送ったのはわたしです」
彼女は冷静にそう認めた。すでにご存知もなにも、思いもよらない成り行きに刑事は冷や汗ものだったが、なんとか平静をたもって彼は先をうながした。
この聡明な女性は結婚前、日本の電子機器メーカーで上級技術者として働いていた。
「子供のいらなくなった筆箱にゼリグナイト(ニトロ式ダイナマイト)を詰めて送りました。箱が破損をまぬがれるなんて、思ってもみませんでした」
この2年間というもの、リリアンはデニスに憎悪を燃やしつづけていた。それが頂点に達したとき、彼女はデニスが夫に宛てて書いたラブレター(ラリーはそれが妻に知られているとは夢にも思っていなかった)の束を持って、もう夫に会わないで、とデニスに手紙を突きつけた。
するとデニスは、
「それは無理よ、彼はあたしを離さないし、あたしもそうだしね」
「別れないというなら、いつかこの手紙があんたの目の前で爆発するわよ」
デニスはこれを単なる脅し文句ととったようだ。だがそれは現実となった。
リリアンは悲しげに目を伏せた。
「うまくやれる自信もありましたが、反面どうなってもいいという気持ちもありました。……たとえあの女がいなくなっても、これから先何度も同じ思いをするだろうこともわかっていましたし。でもまだ彼を愛しているんです。彼がわたしのことをもうなんとも思ってないことが、とても悲しい。――子供たちと会えなくなるなんて、きっと辛いでしょうね」
第一級謀殺で、彼女は終身刑となった。
が、模範囚として電子機器作業場の特別プロジェクトに参加が許された。評決から2年、夫のラリーはダンサーと再婚していた。その半年後、末娘が轢き逃げされて死に、犯人はついに挙がらなかった。
その年のクリスマス、彼女は10日かけて作った器具を、携帯用の血圧計だと言って看守に見せた。
看守がその出来栄えを誉めて5分もしないうち、リリアンは器具から伸びる2本の電極を頸部に当てて、感電自殺した。
◆アルバート・グージー
グージーがリーキー家に下宿するようになったのは1955年の夏だった。ところが引っ越して間もなく、彼のベッドに無理やりリーキー夫人が忍んでくるようになった。
グージーは32歳の男盛りだが、夫人は50を越えた大年増である。最初グージーは躊躇……というより、抵抗した。が、結局彼女に押しきられてしまうかたちで、ふたりの関係はできてしまった。
ところが奇妙なことに、この関係に13歳になる娘のノーマが参加してきたのである。ノーマはふたりのベッドに一緒に寝かせてくれと懇願し、そうしないならパパにばらすと言って脅した。
ノーマはまさに小悪魔だった。グージーは彼女とだけは性体験を持つまいと自重していたが、彼女は挑発的にふるまい、彼がそれに応じないと見るや、瞬時にたかり屋になった。
「ノーマ、頼む。どうやったら自分の部屋に帰ってくれるんだ?」
「腕時計ね」
「わかった……明日買ってやる」
そうすると少女は満足しきって部屋を出ていくのだった。それは腕時計のこともあったし、レコードや服のこともあった。なおかつ、夫人の性欲は辟易するほど激しいものだった。
彼はなんとかこの母娘から逃れたい一心で、兵役に出た。しかしそこで彼は第一線に送られ、身も心も数ヶ月足らずでくたくたになった。すぐさまリーキー夫人はかけつけ、除隊に必要な金を払ってくれた。こうしてまた彼は、もとのさやに戻ることとなる。
その頃にはもう3人でベッドに入るのが当たり前となりつつあった。そんな折、夫人が言った。
「考えたの……。そろそろノーマを女にしてあげてもいいんじゃないかって」
夫人とノーマは顔を見合わせて微笑んだ。
グージーは怖気をふるった。なんてこった。この女どもは親子で俺を「共有」しようとしてやがる。
彼は一月ほどぐずぐずしてから、やっと「ここを出る」とふたりに打ちあけた。ふたりは平然とそれを聞き、それから黙って彼をガレージまで連れていった。
そこにはぴかぴかの新車があった。
「あなたのよ」
当然のようにリーキー夫人は言った。一瞬でグージーは懐柔された。腹をくくってしまえばこれほど楽しい生活はなかった。休日には3人でピクニックを楽しみ、夜にはベッドで寝た。
しかし必然的なことはやはりやって来た。リーキー氏にばれたのである。グージーはしかし、なかば以上ほっとしていた。これでやっとこの家と、異常な環境からおさらばできる、そう思ったのである。
彼はすぐに下宿をひきはらった。しかし新しい下宿には、何通もの手紙がリーキー母娘から届いた。
「帰ってきて、アル」と。
彼はそれを無視した。しかし最後の一通に彼はついにほだされた。
「せめて最後のピクニックに連れてってちょうだい」
これで本当に終わりにできるのだろうか? グージーもそれははなはだ疑わしいと思っていた。しかし彼はふたりを連れて森へ行った。
当然のなりゆきながら、途中から夫人とグージーは口論になった。夫人はグージーにすがりつき、どこへも行かせない、とわめいた。
そこへ、薪割り斧を持ってノーマが現われた。
「彼の好きにさせてやりなさいよ!」
「だめよ、絶対離さない!」
斧が振りおろされ、夫人の右耳がちぎれ飛んだ。グージーはそれを止めようと割って入り、ノーマを殴った。振りかえると、パン切りナイフを持って夫人が顔を血まみれにしながら荒い息を吐いていた。
「これでいいの、これがいちばんいい終わらせかたなのよ……」
夫人はグージーに体当たりし、腹に深々とナイフを突きたてた。グージーは死を覚悟した。そして腹からナイフを引き抜くと、夫人を滅多刺しにした。気がつくと、ノーマが立ちあがっていた。
「ママになにをしたの? どうせなら、あたしにもやれば?」
あとは無我夢中だった。彼はノーマの心臓をひといきに貫いた。そしてそのまま失神した。
意識をとり戻したのは一時間後だった。彼は出血する腹を押さえながら、自首して出た。
彼は謀殺で死刑となったが、その後減刑となり、いまは終身刑の身である。
◆シスター・ヴィルジーニャ
17世紀はじめに起こった事件である。
貴族であるジャン・パウロ・オシオは修道院にいる尼僧たちと情事をもちはじめた。
シスター・ヴィルジーニャをはじめとする5人の尼僧はその悪徳に耽溺し、しまいにはもう一人の神父をまで巻きこんで、毎晩7人で入れかわりたちかわり、乱行にふけった。
シスター・ヴィルジーニャは町の薬剤師に避妊薬を処方してもらっていたが、その効き目はうすかったようで、1602年、彼女は男児を死産した。オシオはその死体の処分を引き受け、毎晩修道院を訪れては、張って痛む彼女の胸から乳を吸ってやった。
1604年、シスター・ヴィルジーニャはまたも妊娠し、女児を出産した。
しかしその頃には彼女の傲慢さや奇矯さにうんざりする尼僧も少なくなくなっていた。
あるとき若い尼僧がシスター・ヴィルジーニャの乱行ぶりに我慢できなくなり、司教にすべてを打ち明けると言いだし、どんな説得にも応じなかったので、オシオが仕方なく彼女殴り殺し、死体を屋敷に運んで従者に始末させた。
しかし目撃者があらわれ、脅迫をはじめたためこの男も殺されることになった。
また避妊薬を処方していた薬剤師が、「ある貴族と尼さんのために薬を出してやっている」ことをぺらぺらとふれ回りはじめたので、これを矢で射殺そうとした。しかし運良く彼は生き残った。
この事件によってオシオは捜査当局に目を付けられ、同時に修道院でのふるまいが噂となって沸きかえりはじめた。シスター・ヴィルジーニャは枢機卿に審問を受けたが、「自分は14歳で無理やり修道院に送り込まれ、信仰を強制されました」と述べ、神聖冒涜罪にはあたらないと主張した。
強制された信仰の誓いに対し寛大だった当時の枢機卿は、彼女に「2度とオシオには会わないよう」とだけ約束させ、鷹揚に罷免した。
しかしオシオは貴族であることもあり、監獄行きとはなったもののその待遇はさほどひどいものではなく、監視もゆるやかだった。
彼は脱走し、命をとりとめた薬剤師を公衆の面前で刺し殺した。
シスター・ヴィルジーニャはここで重大な過ちを犯した。彼をかくまったのである。
彼女は部屋へなだれこむ兵士相手に、オシオの剣をとって果敢に応戦したが、もちろんすぐに取りおさえられ、ひったてられた。
オシオは隣室で尼僧服を着てちぢこまっていたが、騒ぎに乗じて逃走した。
1607年、5人の尼僧と1人の神父はミラノ大司教のもとにおいて裁判にかけられた。この審問中、あまりの恥辱と悔恨に、尼僧のうちひとりが自殺した。
彼らに下った判決は厳しいものだった。神父はガレー船送りになった。そして尼僧たちには、
「独房に閉じ込められ、戸口は漆喰で封じる。死ぬまでそこに幽閉され、生きている間は2度と陽の目を見られないようにする。食事だけは壁のちいさな穴から補給することを許す」
という過酷な終身刑が言い渡された。
なお、オシオは1年後捕らえられ、斬首された。彼の生首は棒に突き刺され、目抜き通りで公開された。
時がたち、共犯者が全員死んでしまったにもかかわらず、シスター・ヴィルジーニャは14年間、生き地獄を耐えぬいた。衣服はもちろん一度も着替えたことがなく、清潔や衛生面に対する配慮などまったくされなかった。
1622年、枢機卿は彼女に慈悲をほどこすことにし、釈放を決定した。
独房をあけた途端、すさまじい悪臭が放たれ、看守たちの多くが嘔吐した。排泄物と汗と分泌物、それによる繁殖した雑菌によって中はおそろしく不潔であり、人間の尊厳を完全に打ちくだいていた。
中からよろよろと這うようにして出てきたシスター・ヴィルジーニャは、骨と皮になるまで痩せ細り、髪はまったくの白髪となって、幾房か以外はすべて抜け落ちていた。歯は一本もなく顔は100歳の老婆のように皺くちゃだった。実際には彼女は46歳だったのだけれども。
彼女はすぐ死ぬと誰にも思われたが、驚異的に回復し75歳まで生き、「道を踏みはずさないよう、性的な誘惑に悩まされる若い尼僧たちへの警告書」を書いた。
●国内編
◆小口末吉
大正6年、大工職人の小口末吉から「妻が弱ってるので、診てやってください」と連絡がはいり、医者が往診に行ったところ、妻のヨネは全身硫酸で焼けただれ、指を切断された恐ろしい姿でうなっていた。
火傷があまりに広範囲にわたっていたため、ほどなくしてヨネは死んだ。
検死の結果、ヨネは全身傷だらけで、腰からヒザにかけては22箇所の傷が二列にわたって付けられており、局部には左右に3つずつ、6箇所の傷が並んでいた。すべてが火傷か、刃物による傷であった。
また「小口末吉妻」という焼け火箸による文字は、背中と、さらに右腕に3通り書かれていた。
左足の薬指、右足の中指と小指がなく、左手の薬指と小指は第二関節から切断されてなくなっていた。
警察は当初、ヨネが花柳界出身で男出入りが激しかったことから、夫の嫉妬による折檻死とみて捜査した。
が、末吉の供述は意外なものだった。
ヨネに出会う前、末吉は所帯があったが、彼女に会ってからはそれも捨て、同棲をはじめた。しかしヨネには密通癖があった。末吉とはきわめて仲がいいにもかかわらず、また気がつくと男をくわえこんでいる。
そのたびヨネは泣いて詫び、惚れた弱みで末吉もそれを許した。
あるときヨネは、詫びのしるしだと言って、焼け火箸で自分の背中に
「あなたの名前を書いて」と懇願した。
末吉はいやだと言ったが、ヨネはきかない。しかたなく、背中に「小口末吉妻」と書いてやった。肉の焼けるにおいがし、末吉は気持ちが悪くなったが、ヨネは痛いとも言わず満足げだった。
末吉は知能が低く愚鈍だったためもあって、最後にはほとんど妻のいいなりだった。
ヨネはこのころから本格的なマゾヒズムに目覚め、一日に何度も夫に性交を求めては、手足の指を切断することを強要した。いやだと言うと、「あたしを愛してないの」と詰めよられ、仕方なく末吉は協力した。
といってもほとんどはヨネが自分でやった。まな板に手を乗せ、ノミで切り落としにかかるが女の力ではなかなか骨は切れない。そこでしょうことなしに末吉が金槌で叩いて断ち切ってやるのである。
右腕の火傷については、腕をあげても下げても見えるように書いてほしいと言われて2回書き、次には内側からも見えるようにしたいから、と云われて3回も書いたのだという。
ヨネは傷つけるのは「愛のしるし」と言っており、末吉もしまいには、なるほどそんなもんか、と思っていたという。
末吉は懲役10年を求刑されたが、判決を待たずして脳溢血で獄死した。
◆アナタハン島の惨劇
比嘉和子が夫とともに、アナタハン島というちいさな南国の小島でコプラ園をいとなむことになったのは、彼女が23歳のときのことだった。
当時、昭和19年。すでに戦火激しい時代だったが、この島にはまだそのかげりはなかった。
が、6月13日、島ははじめての爆撃を受ける。間のわるいことに、和子の夫と、隣家の上司、菊一郎の妻子はちょうどそれぞれの事情で島を離れていた。
戦火は島を焼きはらった。だが農園の一部とわずかな家畜は残っており、ふたりだけならなんとか生きていけそうな蓄えはぎりぎり残されていた。だが皮肉なことに、2週間ほどたったころ、島に31人の日本の男たちが上陸してくる。
彼らはそれぞれ陸軍、海軍、漁師と立場はさまざまだったが、物資調達の同じ船団に乗りあわせていたのだった。それが例の爆撃にあい、命からがらこの島に泳ぎついたのである。
和子と菊一郎はこれをこころよく迎えた。心細いこの状況で、同朋と会えたのは大きな慰めであった。
しかし食料はすぐに底を尽きた。
彼らは生きるためにコウモリやトカゲを捕らえて食った。料理は和子がした。まずは全員が生きることに必死だった。食べ物を求めるために駆けずりまわる生活に、身だしなみなど関係なかった。
原始人のような生活の中で、男たちはほとんど全裸、和子も上半身をあらわに腰ミノひとつという姿で島を歩きまわった。
しかしそんな生活にもいつしか馴れ、余裕が出てくると、彼らの間には奇妙な動きが見られるようになった。
土人の女を除けばたったひとりの日本人の女、和子をめぐっての、32人の男たちの静かな火花の散らしあいである。菊一郎が和子の夫ではないことが知れると、それはいっそう苛烈化した。
また、現地人から蒸留法を習ってつくったヤシ酒が、理性の糸を切るのを助長させた。
和子は自分に身の危険がおよぶ恐れがあることを感じとっていた。そのため彼女は菊一郎に助けを求めるかたちで、同棲をはじめた。
一緒に住むやいなや、菊一郎は和子を独占したがった。他の男と口をきいただけでも和子を殴り、蹴りとばした。そんな生活がつづくうち、和子は菊一郎の嫉妬がほとほといやになり、A男と関係してしまう。ふたりは駆け落ちし、山中深く逃げるが、すぐに連れ戻された。
これ以来、男たちの和子の奪い合いは激化した。
すでに日本は原爆投下され、終戦を迎えていたが、アナタハン島ではそんなことは知るよしもなかった。
昭和21年、和子は山中でB29の残骸を発見し、食料や水、そして3挺の拳銃を手に入れた。報せを聞いた男たちは喜んで物資を分けた。だが問題は拳銃だった。
3挺のうちひとつは銃口が詰まっていて使えなかったので、残る2挺は銃器に詳しいC男と、その親友のD男が管理することになった。
悲劇はここから始まる。
まず日頃から和子にしつこく言い寄っていたB男が、ちょっとしたいさかいでC男に射殺された。まわりの男たちはC男を非難したが、銃を取りあげはしなかった。
C男はやがて独裁者気取りになり、あからさまに和子にべたべたするようになった。
C男はある日、和子に、
「俺の女になれ。ならないんなら、菊一郎は殺す」と言った。
和子がそれをそのまま伝えると菊一郎はふるえあがり、
「あいつのとこへ行け。俺は殺されたくない」と言い放った。
和子はそんな彼を軽蔑しつつ、なぜかC男、D男、菊一郎との4人での生活をすることになった。
だがこんな不自然な関係が長く成立するはずがない。まず口論の末、D男がC男を撃ち殺した。生命の危険を感じた菊一郎は、先手を打って和子を品物のようにD男に譲りわたした。
ところが約3ヵ月後、D男は不審死をとげる。死因も犯人もいまだ不明である。
この死により、拳銃2挺はE男という男が所持することになった。彼は当然の権利のように和子にせまり、今度は和子、菊一郎、E男の3人の生活がはじまった。
1ヶ月ほど経ったころ、E男は菊一郎を射殺した。島には不穏な空気が満ちた。もはや銃を持つ者が和子をものにできる権利があり、殺すか殺されるか、という一触即発の雰囲気がたちこめていた。
純粋に男たちだけの生活であったなら、これほどの様相にはならなかったかもしれない。だが現実には女がいたのだ。それも、32人の男に対してたったひとりの女が。
だがまもなく、E男も不審な溺死をする。
この異常な事態の収拾のため、長老格で発言権のあったF男が、
「和子さんに正式な夫を選んでもらおう。そしてみんなでこれを祝福して、もう邪魔はいっさいしないと約束しあおう」
と言った。和子はもう男はこりごりだったが、仕方なく最初に駆け落ちしたA男を選んで結婚した。
拳銃はみんなの承諾を得て、海中深く沈めた。
しかしもう文明生活は彼らのうちから抜けきっていた。獣性をあらわにした男たちは結局和子をあきらめはしなかった。男たちは新居を覗き見、うろつきまわり、A男のいないところで和子を追いかけまわした。
和子はある日、逃亡した。もう耐えられなかったのである。
男たちは急に愛国心に目覚め、和子を投降させてなるものかと狂気のように島中を探しまわったが、彼女は逃げおおせた。
昭和25年、アメリカ海軍船「ミス・スージー」は腰ミノひとつの女が白い布を振って、しきりに助けを求めているのを発見する。このとき彼女は28歳になっていた。
しかし日本本土は彼女を好意的に迎えはしなかった。彼女を「女王蜂」と呼び、「アナタハンの毒婦」として猟奇的に扱った。和子の望んだ「真実の伝達」は、興味本位のマスコミと大衆によって完全につぶされた。彼女の帰国によって終戦を知り、帰国を果たした男たちはそれほど騒がれはしなかったが、和子の扱いはひどいものだった。
和子はマスコミに翻弄されるだけされたあげく、失意のうちに故郷へ帰った。
彼女が猟奇的にのみ取りあげられ、戦争の犠牲者として扱われなかったのは、かえすがえすも無念な話である。
◆増淵倉吉
昭和7年、名古屋市内のある町の鶏小屋で、若い女性の惨殺死体が発見された。死体は首と両足が切断されて持ち去られており、胴体からは乳房と性器が切りとられていた。
被害者の身元はすぐに判明した。19歳の岩田ますえである。ただちに容疑は、彼女と関係があったとう、増淵倉吉という43歳の男にかけられた。
ますえはもともと、倉吉の妻の裁縫教室の生徒であったが、妻の死後、関係ができたらしい。
倉吉は都会で一旗あげると言っていったん名古屋を去ったが、年明けに戻ってきて、ますえと何度も旅館で会っていたという。倉吉の行方は杳として知れなかった。
しかし3日後、愛知県の河原で女の生首が見つかる。ますえのものと思われたが、頭髪がほとんどなく、耳、鼻が削がれ、目玉が抉られるなどのひどい損壊を受けていた。
約一ヵ月後、生首が発見されたのと同じ町の旅館物置小屋で、男の縊死死体が発見された。
警察はその死体に仰天した。
まず剥ぎとった女の頭皮を、かつらででもあるかのようにかぶっていた。服を脱がせてみると、下には女の肌着を着込んでいた。その時点で、死後1ヶ月ほど経っており、腐乱がすすんでいた。
上着のポケットをさぐると、女の削ぎ落とされた片耳と、鼻が出てきた。また女物の財布にお守りが入っていたが、そこには人間の目玉が入っていた。
さらには物置小屋の冷蔵庫の中から、切りとられた女の乳房と性器が発見された。
いまもって動機は不明であるが、犯行の数日前からふたりは旅館で何度となく性交し、事件当日は鶏小屋で最後の営みをしたのち、倉吉がなんらかの理由でますえを殺したものと見られた。
倉吉は信心深く、死後の世界を信じていたそうであるから、ひょっとしたならますえと死後永遠に一緒にいられることを望んで、犯行に及んだのかもしれない。
◆広瀬菊子
昭和14年、神戸市某病院副院長、A男宅に菓子1箱が送られてきた。送り主はもと患者の名である。
彼の家族らは疑いもせず、これを食べた。するとただちに腸チフスを発病し、A男の弟が死亡した。調べにより、菓子にはチフス菌がべったりと塗布されていたのである。
菊子は逮捕され、泣く泣く自供した。
A男と菊子はかつて夫婦であった。
しかしこの結婚はあまり祝福されなかったものらしく、秘密裏に式は行なわれ、入籍もしなかった。
菊子は女医であり、A男は当初、医学部実習生として彼女と出会った。彼は最後の実習の際、菊子に結婚を申し込んだ。A男には学資出資者がある、その手前、なるべく隠しておきたいというA男の言葉を信じて、菊子は地味な結婚式を承諾し、新婚旅行の費用も彼女が出した。
しかし夫婦として暮らしたのはたった10日間。彼女は夫の学費を稼ぐため、ただちに郷里へ戻り開業した。
菊子はせっせと仕送りした。A男はたまに彼女を訊ねてくる程度で、近隣の人たちは「妾だろう」と菊子を白い目で見た。
それにも耐え、無駄使いは一切せず倹約し、菊子は夫への仕送りに励んだ。彼女の収入のほとんど全額がA男のもとに届いた。
ようやく彼が医学博士になれたのは5年後、菊子は35歳になっていた。その晩彼女は嬉しさに眠れず、とるものもとりあえず夫のもとへ上京した。
しかし夫は彼女を「親戚の女です」と周囲に紹介した。
A男の机の引出しは女から来た手紙でいっぱいで、アルバムに写っていた女が花を持って訪ねてくるのにばったり出くわしたこともあった。
A男は菊子に「そのうち開業するからそれまで辛抱しろ。院長には独身で通しているし、女医などと結婚しているとわかると体裁が悪い。つまらぬ男とかかわったと思ってあきらめてくれ」と手紙を書いた。
5年もの間、化粧ひとつできずに働きづめに働いて仕送りし、世間からは妾だ、情夫に貢ぐ淫婦だと白眼視されても歯を食いしばって耐えてきた結果がこれである。菊子は逆上した。
するとA男はあっさり、それなら離婚しようと言った。
だが菊子の兄が仲立ちし、どうにか同棲生活がはじまった。同棲は1ヶ月つづいたが、その間菊子は他人の目につかないようにと、カーテンも窓も遮断され、靴も隠され、外出はおろか、洗濯すらおおっぴらにできないようなひどい生活を強いられた。
挙句、義父から「出ていけ」と言われ、菊子は婚家を去った。
離婚について、たとえいくら積まれようと金で解決するのはいやだと菊子は言ったが、結局雇った弁護士は菊子よりA男側についたようで、菊子が5年間に貢いだのとほぼ同額の慰謝料で、追い払われるかたちになった。
数日後、A男宅から送り返されてきた菊子の荷物からは、彼女の愛蔵の詩集が抜かれ、アルバムからはふたりで写した写真はすべて剥ぎとられていた。しかも運賃は、着払いであった。
菊子は手負いのけもののような女になった。
故郷にも帰れず、女ざかりの歳月を金をかせぐためだけの存在として利用されたあげく、金で解決して放り出されようとしている。「せめて病気にでもなって苦しめばいい」そう思い、チフス菌を菓子に塗って送りつけたのだった。
求刑は無期懲役だったが、世間の同情は菊子に集まった。
「菊子が無期なら、A男は懲役何年ですか」という手紙まで判事に届いたという。
結局、懲役8年で罪は確定し、昭和17年には菊子は仮釈放になった。
彼女は生涯、独身をつらぬいたという。
◆阿部 定
おそらく日本一有名な愛欲事件といえば、これであろう。
阿部定は、明治37年、徳川時代からつづいた神田の畳屋の4女として生まれた。
ともかく幼い頃から早熟で、色っぽい女の子だったらしい。
樋口一葉の「たけくらべ」の美登利のように、定は下町の女王さまだった。いろいろな男の子が彼女の歓心をかおうと、縁日へ誘い、恋文を出し、喧嘩の味方をし、着物を誉め、「おれのいい子」にしようと恋の鞘当てをしたという。
が、定自身は口説かれるより口説くほうがお好みだったらしく、10歳当時、男子部の級長に近づいていって綺麗な鉛筆と雑記帳を差し出すと、
「これあげるから、あたしのいい人になっておくれな」と言った。
おそらく彼女はコリン・ウィルソン言うところの「支配力高位の人間」だったのだろう。ともかくその歳にして、定は男女の機微に精通しつつあった。また鉄火肌で、きっぷの良いところは女の子にも好かれた。
こんなエピソードがある。
銭湯に入っているとき、男湯の男児たちと塀越しに喧嘩して、女児側の「大将」だった定は憤然とそれに応じた。男児たちが、
「なんだ、女なんかいくら威張ったって、男のほうへ入る度胸はあるめぇ!」と怒鳴ると、定は、
「入ってみせたらどうする!」と怒鳴り返した。
「手を付いてあやまってみせらぁ」と男児側。
「きっとだね!」
「おう、その上にシャボン玉を飲んでみせらあ」
「ようし、見てなよ!」
言うやいなや、定は男湯との境の潜り戸から入っていった。それでさすがに男湯の悪童たちも、しいんとなった。じゃぶん、と湯の音がして、
「さあ来たよ、あやまっとくれ!」と定の高い声につづいて、
「さあお飲み。約束だよ、シャボン玉を飲んどくれな!」
しばらく静寂があり、定の凛とした声が響いた。
「どいつもこいつも、卑怯な奴。あたい大嫌いさ!」と言い捨て、定は女湯にひきあげてきた。蒼白になり眉を釣りあげていたもののその横顔は颯爽として美しく、女児たちは憧れて「ぼうっとなった」という。
そんな定が処女を失ったのは15のときである。
相手は友達の家に出入りしていた大学生で、「強姦された」という説もあるが、おそらく早熟な定が、ふざけ半分に相手にじゃれかかっているうち、そんな雰囲気になってしまったのだろう。
定の派手好みはいっそう顕著になり、不良がかった真似もするようになった。定の家は裕福で、兄や姉たちも多く恋愛事件を起こしていたので、両親は彼女に小遣いを与えては「外で遊んできな」というのが常だった。
そんな環境では悪い遊びを覚えるのが自然ななりゆきであろう。
定が16のとき、姉に縁談が持ちあがった。両親は不良娘の定を、相談の末、奉公に出すことにした。
しかしもともとお嬢様育ちの彼女が、女中奉公などに耐えられるはずもない。すぐに着物や指輪を持ち出して放逐してしまった。あっけなく定は捕まり、家元に返された。
さらに翌年には、家の金を持ち出して家出。両親は定の将来を案じて、畳屋の看板をおろし、埼玉の田舎へひっこむことにした。
しかし定にとっては田舎生活など退屈でたまらない。自然とラブ・アフェアに励むことになる。ここにいたってついに父の堪忍袋の緒が切れた。
「そんなに男好きなら娼妓屋に売ってしまうぞ!」
ふつうなら脅し文句だったかもしれない。だがこの言葉は実行されてしまった。
こうして定は18歳から、芸者や妾稼業をしながら全国各地を渡りあるくこととなる。
しかし定は案外からりとしたものであった。彼女は根っから無邪気で、自分の本能とエロティシズムに対し肯定的だった。
「泣く泣くからだを売っている」というところのない明るい定は、男たちの人気者だった。
彼女はまるでフランス映画の娼婦のように自由で、女としての自分にためらいがなかった。
運命の男、石田吉蔵と知りあった当時、定は名古屋で校長をつとめている大宮という男の妾をしていた。大宮は人格者であり、父のように頼れる存在ではあったが、定にとっては性の相手としてもの足りないものがあったようだ。
大宮はいずれ定に店を持たせてやるつもりだったので、修業のため、中野の割烹で住み込みで働けるよう口をきいてやって、上京させた。
仕事もちょうど多忙だった大宮は、「三ヶ月ほど会えないが、頑張りなさい」と定に言った。定はせめて手紙のやりとりだけでも、とせまったが、大宮は定とは違い、精神的なものを重んじる人間だった。
「手紙などいくらでも嘘が書ける、そんなことより大切なのはお互いの気持ちだ。わたしを信じなさい、わたしもおまえを信じる」
だが精神的なものより肉体的なものを求める定にとって、そんな言葉は無意味だった。
信じる気持ち? そんな目に見えないものより、手に触れられる肌、直接交わす愛の言葉がなければ定は生きてはいけない。大宮の不在に定は消沈した。
そして勤め先の主人、石田吉蔵と関係ができるまでに、そう時間はかからなかった。
それからのことはあまりにも有名である。
しかし驚くべきことは、定と吉蔵の関係があまりにも早く燃えあがり、頂点をきわめ、終息したということである。
定が吉蔵の店に勤めだしたのが2月1日、関係ができたのが4月中旬、ふたりで駆け落ちしたのが4月23日、そして定が吉蔵の「体の一部」とともに逮捕されたのが5月20日である。
吉蔵は性技にたけており、しかも徹底して女に奉仕するタイプの男だった。
このふたりの関係において、どちらかといえば主導権を握っていたのは定だった。吉蔵は受け身でありながら、定の欲求に完全に応えた。
4月23日に駆け落ちしてから5月17日の「最後の日」を迎えるまで、ふたりが離れていたのは定が大宮に会いに行った日と、吉蔵がいったん家に金を取りにいったときだけである。
それ以外は一日中、食事も入浴もろくにせず、ふたりは布団の中で過ごしたというから凄まじい。経験豊富な定だったが、その彼女にしてはじめて「理想の相手」にめぐり会ったのだろう。
吉蔵には妻子がいたが、妻の過去の浮気によって夫婦仲は冷めきっていた。だが定は吉蔵の妻に嫉妬し、彼が金を取りにいっとき戻ったとき、じっとしていられず金物屋で牛刀を買った。
そして戻ってきた吉蔵に対し、ふざけ半分ながらも、
「吉、てめえ着物なんか着て、奥さんのご機嫌をとったんだろう。畜生、おまえを殺してあたしも死んじまうから」
などと芝居がかった台詞を言いながら、喉もとに刀を突きつけた。
もはやそれすらも、ふたりにとっては性的なたわむれだった。
交わりあいながら首を絞めることは、もはやふたりにとって常習となっていた。ただ定よりも吉蔵のほうがやはりどうしても「現実的」であったようだ。それは定にとってもの足りないものだった。彼女が求めていたのは吉蔵のすべてであった。
5月17日、石田はぽつりと言った。
「ちょっと家に帰ってくるよ」
「いやだ、帰っちゃいや」
定は彼を引きとめた。前日に定が吉蔵の首を絞めながら情交し、ついそれが度を越したため、彼の顔は鬱血して腫れあがっていた。
「だってこの顔のままでいるわけにはいかない。女中にでも見られたらきまりが悪いし、金もなくなった。どっちにしてもちょっと、家に帰ってこなきゃ」
常識的な台詞である。だが定は、あれほど非現実の中で愛し合った吉蔵が現実にたち戻ろうとしていることがショックだった。もはや社会的秩序など関係ないとまで思っていた定にとって、彼の態度は裏切りのように思えた。
「すこし眠るよ、おまえ、起きてて俺を見ててくれ」
そう言って吉蔵はうとうとしだした。定は彼の寝顔を、これ以上いとしいものはないという目で見守った。
「俺が寝たら、おまえまた首を絞めるだろうな」
「うん」
「絞めるなら途中で手を離すなよ、あとがとても苦しいから」
それが吉蔵の最後の言葉である。定は言われたとおり、腰紐で力いっぱい恋人の首を絞めあげた。
例の牛刀を定は取りだした。それで吉蔵の性器を切断すると、彼の左腿に「定」と彫りこんだ。
それから血文字で「定、吉二人キリ」と敷布に書いて、性器を紙に包み、懐に入れるとそのまま旅館を出た。
吉蔵は永遠に定のものになった。
3日後、品川で逮捕された際、定は言った。
「殺して安心しました」。
妖婦、姦婦と騒がれながらも、定は圧倒的な人気者となった。男は「あんな女と、一生一度でいいから出会ってみたい」と言い、女は定に共感し、同情的だった。
公判は「早慶戦をしのぐ人気」と新聞に書かれたほど傍聴人が集まり、当時のセクソロジーの第一人者である高橋鐡までもが定の弁護に一役かった。
また、裁判長はこの判決日を選ぶにあたって、自分を含めた3人の判事の妻の、生理日でない日を調べたという。誰かが性的不満を持ったまま公判に望み、定の色香に迷って公正な判断ができなくなっては大変……と思ったかららしい。
判決は懲役6年。
出所後は偽名で暮らすが、ばれて離婚されたり、坂口安吾と対談したりしているが、やがて騒がれるのにほとほと嫌気がさしたらしく、行方を絶った。
しかし定は伝説として日本犯罪史において永遠の存在である。
これほど可愛い淫婦は、二度とは現われまい。
エロティシズムは、死にまで至る生への称揚だ。
――ジョルジュ・バタイユ――