PSYCHO

――サイコ殺人――

 

 

辞書をひいてみたならば、「psych」とは」精神、霊魂の意であり、
「psycho」は精神病患者の俗称である。
洋画の字幕で異常者に対する呼称として「サイコ野郎」という言葉が使われるのを、
目にしたことのある方も多いだろう。
やはりロバート・ブロックの古典的名著『サイコ』がこの名称の一般化に
深く影響したというのは言うまでもない話だ。
しかし『サイコ』が書かれて数十年経つ今日でさえ、
我々はまだ精神の奥底を知り得ない。

 


●ルイジ・ロンギ

 ロンギは1954年、イタリア系移民の息子としてスイスで生まれた。
 彼は正常な男子が性への目覚めを感じはじめる10歳の頃、シャンプーの瓶とカツラを盗んで逮捕された。その時点ですでに、彼の性的嗜好は「女性の髪の毛」一点に集中しており、思春期の彼は女性の髪の毛を洗う妄想にふけっては自慰をした。
 16歳で分裂病を発症し、7年間身柄を拘束されていたが、1977年国外追放となりデンマークに移り住んだ。
 彼はトラック運転手をして糊口をしのいだ。病んだ精神ではどこも長続きしなかったが、彼は給料をもらうと、道を行く女性をつかまえては「髪を洗わせてくれ、金は払う」と拝みこんだ。とくにヒッチハイカーを拾っては、
「おれに髪を洗わせてくれるなら、乗っけてってやるよ」
 と言うのが常だった。この手口でおよそ12人の女性が彼に洗髪を許したとされている。
 彼の被害者となったフライハイト嬢もヒッチハイカーであり、ロンギが「コペンハーゲンまでの汽車代を持ってやってもいいよ」と言うと、こころよくシャンプーに同意した。
 彼女はロンギの部屋を訪れ、一回目のシャンプーののち、ふたりとも睡眠をとった。
 しかししばらくして目覚めると、ロンギはもう一度髪を洗いたいという強い衝動にかられた。しかし彼女がこれを承諾してくれないかと思い、まだ眠っている彼女を縛り、猿轡を噛ませた。そしてタライの前まで彼女を引きずっていくと、今度こそ心ゆくまでシャンプーをしようとした。
 彼は何度も何度も洗ってはすすぎ、指の間でしなやかな髪を愛撫し、愛をこめて泡でくるんでは、また洗い流した。
 しまいにはシャンプーがきれてしまったので、仕方なくそのへんにあるもので手当たり次第洗った。蜂蜜、オリーヴオイル、ドレッシングなど、ぬるぬるした液体なら何でも使って洗った。しまいにはカッテージチーズのような、ぽろぽろするものまで使った。
 やがて本当に洗えるものがなくなったので、彼はフライハイト嬢の服を引きちぎって遊んだ。暴力をふるう気はなかったが、女の子の裸が見たかったのだ(彼は女性と交渉を持ったことがなかった)。
 だが彼女があまりに暴れたので、彼はおとなしくさせようと、彼女の首に首輪をかけて力まかせに引っ張った。すると彼女がいきなりぐったりとなった。彼女の死を確認すると、ロンギは仕方なく彼女を壁に塗り込めて石灰で固めた。
 9ヶ月後、屋根の修繕にやって来た職人が死体を発見し、この一件があらわになった。
 ロンギは1983年、精神病院での無期限拘束を宣告された。

 



 
●ジョン・ジンジャー・ボーデン

 1982年の事件当時、ボーデンはまだ26歳だったが、すでにアル中であり、それまでにも仲間たちと共にロンドンで乞食や無力な酔いどれを拾っては、時間をかけていたぶることを無上の愉しみとしていた。
 彼の仲間たちとは墓掘り人夫とポーター、墓掘りの愛人で34歳の母親だった。彼らはバーでアマチュア・ボクサーのライアンという男を拾い、ボーデンのアパートに誘い込んだ。
 1、2杯飲んだところで、ボーデンはライアンの背後にまわり、ナタで頭を一撃した。
 半ば意識朦朧とした彼をみんなでかつぎあげると、煮えたぎる熱湯の風呂にライアンを放り込んだ。皮膚の表組織のほとんどが瞬時に壊死し、彼は意識を喪失した。
 だがまだ彼は生きていた。意識こそないものの反射的痙攣をつづけている彼を、4人はチェーンソーとナタで切り刻んだ。どの段階までこの哀れな犠牲者の息があったかは定かではないが、両手足を切断されたのちに首を切り落とされたときには少なくとも絶命していただろう。
 ボーデンはげらげら笑いながらライアンの生首を両手で高々と抱えあげ、のちに乱暴にテーブルの上に据えた。
 ライアンを解体してしまうと、34歳の女性が中華料理をテイクアウトで買ってきたので、血の海のごとき部屋の中で、4人は腹ごしらえをし、それからバーに繰り出した。ボーデンはまだ血が見足りなかったようでそこでも喧嘩騒ぎを起こし、相手の顔面に30針以上も縫う大怪我をさせている。
 その後彼らはライアンの死体をあちこちに捨てに行った道すがら、なぜか仲間の墓掘り人夫の本妻のもとを訪れ、「世にも傑作な話」としてこの凶行の一部始終を話した。彼らが帰るやいなや、本妻はただちに警察に電話をした。
 警察がボーデンのアパートに踏み込んだとき、彼らはへべれけになってぐっすり寝入っていたが、その部屋の壁と言わず床と言わず家具と言わず、一面が血の海だった。中華料理の食べ残しを乗せたテーブルにも血だまりができており、部屋のあちこちでゼリー状に固まった血漿が震えていた。
 彼らの証言を聴取した判事は、
「彼はあきらかに他人に苦痛を与えることでしか愉悦を感じ得ないたぐいの人間だ。殺人でこれほど身の毛のよだつケースをわたしは知らない」と言った。
 ボーデンの両親は「子供のときは穏やかないい子でした」と法廷で証言したが、実際には24歳の時点で彼は丸5年を監獄で過ごしている。それを指摘されると両親は「独房に入れられてから、性格が変わったようです」と証言をひるがえした。
 法廷では事件の詳細を知らされた陪審員の3分の1が気分が悪くなり、一時退廷しなくてはならなかった。
 ボーデンは最低25年の禁固刑、残る仲間たちは15年の刑を言い渡された。
 判決を聞くやいなや、ボーデンは判事に
「うるせえ、老いぼれ。癌になってくたばっちまえ」と怒鳴った。

 



●ジェフ・アダムズ

 1988年、LAの北西サン・ガブリエルで連続殺人が起こった。
 ひとり目の犠牲者はサリー・ウィムブッシュという元モデルで、いまは富豪と結婚し引退して豪奢な暮らしを楽しんでいた。
 彼女のもとに『夢魔』という署名で脅迫文が送られてきたのは、引退生活をまだ満喫しきったとは言えない頃のことだった。
「おまえの夢のような生活を悪夢に変えてやる。夢魔」
 こういったたぐいの文章が綴られた手紙が、3週間のうち12通届いた。彼女は怯え、夫はガードマンを3人雇って警備にあたらせた。だが手紙はやまず、そのうちの一通には彼女の寝室の様子が事細かに描写された挙句、
「おまえはここで死ぬかな? いや、暖かい夜ならプール・サイドで?」と結ばれていた。また、
「体中の穴という穴をふさがれて、無言の苦悶のうちにこときれるだろう」
 と書かれた手紙も届いた。
 8月末の暑い夜、サリーはプール・サイドでレイプされ殺された。
 遺体を発見したメイドは、「あれほどエレガントで高貴だった奥様の尊厳を、あれ以上粉々に踏みにじるやり方は他にないでしょう」と述べた。死体はそれほど、むごい有様だった。
 サリーは全裸で、「大の字」のかたちに両手足を開かされ、おのおのの手首、足首を大理石のベンチの足に縛りつけられていた。膣にはペリエの瓶、直腸にはボールペンが突き立てられ、割り箸が鼓膜を破っていた。また喉いっぱいに犬の糞が詰めこまれていた。
 彼女が窒息死したのはあきらかだった。この美しい富豪夫人は、喉の奥まで糞便を詰め込まれたあと、それによって完全に呼吸が絶えるまで放置されたのである。
「おそらく想像を絶する苦しみだったろう」
 と検死官はコメントした。
 3人のガードマンはその夜、ロッカールームで着替え中、何者かに外側から鍵をかけられて一晩中閉じこめられていた。捜査は徹底的に行なわれたが、難航した。
 サリー事件の捜査が継続中、『夢魔』の新たなるターゲットが「脅迫状が届いた」と署に連絡してきた。
 この女性、ジューンも美しく裕福であり、夫は大手の俳優エージェントで彼女自身は元ニュースキャスターだった。
「おまえに苦痛をくれてやることに決めた。おまえはじきに生まれてこなけりゃよかった、と思うだろう。夢魔」
 またサリーのときと同様、寝室の様子を詳しく書いた手紙も届いた。
 警察は24時間体勢で彼女の警護にあたった。しかしそれにも関わらず、手紙は忽然とあらわれ彼女のもとに届いた。
 ある夜、夕食前の着替え中にジューンは寝室で殺された。
 同じくレイプされており、鼓膜は割り箸で突き破られ、膣にはクリスタルの燭台、直腸には鉛筆が根元まで突き刺さり、喉にはやはり動物の糞が詰め込まれていた。
 近隣の住人はパニック状態となった。住民はそれでなくとも妬まれることの多い、富豪や成功した実業家たちの集まりである。妻はたいていが若く美しい。しかしガードマンも警察も役に立たずふたりもの被害者が出たのだ。それもとんでもない無残なやり方で。
 そこへ3件目の殺人が起きた。手口はまったく同じで、若く美しい富豪の妻がレイプされ、体中の穴に異物を突き立てられ、動物の糞で窒息死していた。
 全米でもトップクラスの富裕な男たちは、どれほど金と権力があっても妻ひとり守れないことを知り、恐れおののいた。
 だが4件目の犯行で『夢魔』は自らぼろを出した。マスクをかぶり、黒のトラックスーツを着た犯人は犬の糞を手に豪邸に住む若妻に飛びかかったが、その途端警報が鳴りひびき、同時に防犯カメラのビデオが作動した。彼はガードマンの追っ手をかいくぐって逃げたが、そのビデオは有力な証拠となった。
 そこに写っていたトラックスーツが幸い、地元ではまだ二着しか売れていないものだった。クレジットカードの記録から、ヴォイス・コーチで生計をたてているジェフ・アダムズという男が浮かびあがった。
 事情聴取した警官は、おどおどして神経質そうなアダムズに好感を抱かなかった。
「やつは腰抜けでした。――素晴らしくいい声をした、腰抜けです」
 その直後、アダムズはトラックスーツを処分しようとしている現場を押さえられ、身柄を拘束された。
 彼の家からはサディスティックなポルノが多数押収され、部屋に貼られた手製のステッカーには『牝犬には糞を喰わせろ』という文字が蛍光色で浮きあがっていた。
 また、被害者たちの遺体のいくつかには唾液が付着していたが、その唾液中からは癲癇の抗痙攣剤が検出された。その薬剤は彼の家から発見されたものとぴったり一致した。また鼓膜を破るのに使用された割り箸も発見された。
 アダムズはかたくなに無罪を主張したが、やがて指紋が検出され、状況証拠は固まった。
 ジェフ・アダムズは癲癇を併症する分裂病患者で、16歳のときディスコ・パーティで「金持ち女」にいたぶられ公衆の面前で侮辱されて以来、特権階級の女に疼くような憎悪を抱いて生きてきた。
 しかし法廷で精神科医は
「狙いは富裕な女性である必要はなかったはずだ。ただ彼には敵意を向ける相手が必要だっただけです」
 と述べた。
 そしてあれほど厳重な警備をどうやってかいくぐったかについて、アダムズは、
「目立たない格好をしてただけです。だがわたしの集中力と決意は警察をはるかに上回っていた。だから、やり遂げられたんです」と言った。
 事実、4件目の杜撰で衝動的な犯行がなければ彼は逮捕されることはなかっただろう。警察は、狂人の強い決意の前では法の執行者など無力に過ぎないことを思い知らされた。
 アダムズは心神喪失を認められず、懲役刑となった。

 


●ゲザ・デ・カプラニー

 1962年、ハンガリーの亡命者であるカプラニー医師は、現役モデルの素晴らしい美人、ハイナと出会った。
 彼はその瞬間から恋に落ち、16歳も年下ではあったが熱烈に口説き落とした。その甲斐あって、ふたりは同年8月結婚した。
 しかし結婚生活は一週間もたたないうち破綻した。カプラニー医師は性的不能のため、美しい妻を完全に我がものとすることができなかったのだ。
 妻は気にするな、と慰めたが、カプラニーは劣等感にうちのめされた。
 劣等感が、妻に対する病的な妄想にすりかわってゆくのに長い時間はかからなかった。彼はアパート中の男が、妻と関係しているに違いない、と思い込んだ。そしてベッドの中で自分を嘲笑っているのだ、と。
 同年8月26日、カプラニー夫妻の部屋から響きわたるロックの大音量に住民は仰天した。しかしそれ以上に響いたのは、女性の断末魔の声であった。
 住民たちは彼らの部屋のドアを叩いたが、返事はない。一時間のち、警察が到着した。
 警察が「開けなさい」と呼びかけると、音楽がぴたりと止んだ。
 そしてドアが開いた。現れた男の姿に一同は息を飲んだ。
 カプラニー医師はブリーフ一枚で、両手に外科手術用のゴム手袋をはめ、全身返り血で真っ赤であった。彼はにやにやしながら、部屋の奥を指さした。そこには体中を切り刻まれた彼の妻が、まだひくひくと痙攣しながら横たわっていた。
 カプラニー医師は全裸に剥いた妻をベッドに縛りつけ、顔、乳房、腹、性器を中心に、体中を順繰りに細かく切開していった。そしてその傷口に丁寧に硫酸、塩酸、硝酸などを注ぎこんだ。彼女が苦悶の声をあげるたびにステレオのヴォリュームを上げた。そして最後には外科用メスをふるって、彼女の体を切り刻んだのである。
「殺す気はありませんでした。――ただあの売女の自慢の美貌を台無しにしてやればそれで良かったんです」
 と彼は供述した。
 妻のハイナは病院に搬送されたが、一月ほど生死の境をさまよったのち、死んだ。
 カプラニーは「一時的な心神喪失」による無罪を主張し、法廷では一貫して冷静沈着であった。だが妻の生前の写真を見せられた途端、悲鳴をあげてうずくまり、ヒステリー状態に陥った。
 1962年3月、彼は終身刑を宣告された。
 しかしどういうわけか、1975年に彼は放免され、極東へひそかに出国させられた。一説によれば彼は台湾の病院で「心臓疾患の権威」として腕をふるったそうだが、彼がそれまでの過去において、心臓病の専門家だったことは一度も無い。

 


●ハーバート・マリン

 ハーブ・マリンは1947年、カリフォルニア州の敬虔なカトリック教徒の家庭に生まれた。彼は高校まではまったくまともな少年のように見えたが、内面では宗教に対し、つねに重圧感を感じながら成長していた。
 ハイスクールではフットボールの代表チームのレギュラーであり、成績も良く礼儀正しく、人気があった。クラスでは「将来、もっとも成功しそうな生徒」の投票で一位の座を得た。
 だが最終学年になったとき、親友が交通事故で死んだ。彼はこの死に大打撃を受け、友を失った悲しみのあまり、彼の写真を祭壇として取り巻くかたちに自分の部屋を模様替えした。また、いつまで経ってもそこから立ち直れない自分に、「僕はゲイなのかもしれない」とガールフレンドに打ち明けたりしている。
 1960年代末、時代はヒッピー・スタイルと自己変革の時代だったため、マリンの性格が変化したことについて、周囲はさほど特異なこととは思わなかった。
 だが実際には、彼は妄想性分裂病を発症しつつあった。
 彼はこの時期無気力となり徴兵を忌避し、父親が軍人で兵役逃れをする人間を軽蔑していた婚約者はただちに彼を見捨てた。
 彼はさまざまなことを試み、そのたび失敗しては精神病院に入り、「無害」と診断されて放り出された。
 しかしそうしている間にも、彼の病気はあきらかに進行していた。
 街を歩く女性たちに片端から声をかけたが相手にされなかったため、自分はやはりゲイなのだと思いこみ、ゲイ・ストリートで今度は手当たり次第男たちに一緒に住んでくれと頼みこんだが、やはり結果は同じだった。
 また教会で司祭の説教中、いきなり
「これは正当なキリスト教ではない」と叫んで立ち上がったり、
 ボクシングジムでスパーリング中、常軌を逸した凶暴さを見せたりしている。
 食事中、義兄の言動をすべて真似しだしたことさえある。家族は初めふざけているのかと思ったが、そうでないと知り、彼をはじめて長期入院させた。
 20代なかばには彼は完全な分裂症患者であり、もはや社会に適応していくには不可能なレベルにまで達していた。
 ある時期には同じく精神障害の女性と結婚したが、その間に神秘主義と東洋宗教に傾倒した。
 彼は頭髪を剃り、自分の性器の先端を煙草の火で焼けという幻聴を聞くようになっていた。
 会ったこともない数十人もの人に、「人間生贄、ハーブ・マリン」と署名した手紙を出したこともある。
 マリンの「頭の中の声」は日ましに強くなった。
 「声」は彼に、カリフォルニアが大地震をいままで起こさず済んでいるのは、ベトナム戦争により多量の死傷者が出たせいであり、これ以後も自然に血の生贄を捧げなくては、大惨事が起こりカリフォルニアは海中に沈んでしまうと囁いた。
 彼はこれを「テレパシーによる命令」と言い、自分は大災害から人々を守る救世主だと信じ込んだ。
 マリンは精神病患者であり典型的な「無秩序型殺人者」で、また手口や被害者たちに一貫性がなかったため警察は彼の起こした一連の事件が同一犯によるものと判断することができなかった。
 1972年10月、マリンは55歳のヒッチハイカーの男性をバットで殴り殺した。
 その10日後、女子大生のヒッチハイカーを拾ってナイフで刺し殺し、「環境汚染について、調べるため」腹を裂いて内臓を取り出し、近くの木の枝にぶら下げて仔細に点検したのち、死体を放置して帰った。遺体はそのままハゲワシの餌食となった。
 一週間後、マリンは「声」(彼はそれを父親の声と信じ込んでいた)は果たして正しいのかを確かめるため、教会に行き告解室に入った。
「父の命令は絶対ですか?」
「知ってるだろう。聖書には『汝、父母を敬え』とあるよ」
 その答えに、マリンは心おきなく神父を殴る蹴るしたあと、刺し殺した。
 マリンはここに至って自分の人生が破滅した原因を探ろうとしはじめ、ティーンエイジャーのとき自分に初めてマリファナを教えたチームメイトがいけない、という結論に達した。ドラッグのせいで自分の脳はむしばまれたのだ。だから復讐をしなければならない。
 元チームメイトの現在の住所を訪ねあてると、そこにはもう他の家族が住んでいて、妻が出迎えて「その人なら向こうの地区へ引越しましたよ」と言った。マリンはまた頭の中の「声」を聞き、彼女はみずから生贄に志願しているのだ、と思い込んだ。この女性とふたりの幼い子供は撃ち殺された。
 マリンはその足で元チームメイトを訪ね、妻もろとも殺した。
 また州立公園でキャンプしている四人組の少年を見つけ、
「俺は森林警備員だ。おまえらは森を汚染している。無許可のキャンプは許されない。出て行け」
 と言った。少年たちはマリンを追い出そうとし、射殺された。
 数日後、運転中また彼は「声」を聞き、草とりをしている老人を撃ち殺した。だがこれは隣人が目撃者となったため、彼の車のナンバーはただちに通報された。
 法廷で彼は「わたしによって数千の命が救われた」ととうとうと述べた。礼儀正しく、おとなしかったが、それ以外に語るべき何ものも持たなかった。彼は妄想がいっぱいに詰まった風船で、それを抜いてしまえばただの空虚だった。
 彼は13人を殺害し、そのうちの10件において有罪とされた。
 マリンに保釈の資格が生ずるのは2020年。彼が73歳になったときである。

 


●ブライアン・デイリー

 1989年、春。そのトレーラーハウスからはすさまじい悪臭がたちのぼっていた。あまりのことに警察はすぐには突入できず、消防隊を呼んだ。消防士たちに加圧ガスを吹き込んでもらい、なんとか中によどんでいた空気を散らそうとしたのだ。消防士たちはそのとおりにしたが、効果はほとんどあらわれなかった。腐臭は消えなかった。
 百戦錬磨の捜査員たちの中から、吐き気をもよおして逃げ出すものがあとを絶たなかった。
 このトレーラーハウスに済んでいたのは40歳のマリリン・グリフィンと、その12歳下の恋人であるブライアン・デイリーである。
 約7ヶ月前ここに引っ越してきてからというもの、ふたりは喧嘩が絶えなかった。
 キャンプ場の管理人はハウスの中がめちゃくちゃに壊されているのを目撃し、マリリンに「暴力をふるわれる。助けて」と泣きつかれたこともあった。
 しかし管理人が気をもんでいる間に、喧嘩はぱったりと止んだようだった。近所の住民はいかにも上機嫌そうなブライアンを何度か見かけたが、マリリンを見た者はなかった。が、誰もそれに気を止めた者もいなかった。
 そして悪臭が漂いだしたのも、この頃だった。
 警察官がトレーラーハウスに踏み込むと、流しには腐乱した女の生首が西瓜のようにごろりと転がっていた。
 壁には血しぶきと、脳漿がいたるところにこびりついていた。
 マリリンの頭は、至近距離からの散弾銃の一発で胴体からちぎれ飛んだのである。
 奥の寝室の床には首なし死体が横たわっていたが、すでに腐りきって、蛆が湧いていた。
 警察がブライアンを探し出すのに、長い時間はかからなかった。彼はかつてマリリンがウエイトレスをしていたバーで飲んだくれていた。
「ブライアン・デイリーだね?……困っていることはないか?」
「ないね。俺の頭がイカれてること以外は」
 法廷で、マリリンが別れようとしたため彼が散弾銃を持ち出し、撃ち殺したことが判明した。そしてその後も彼は腐りゆく死体と平気でトレーラーハウスに住みつづけたのである。
 彼は22年の懲役刑となった。

 


●ダドリー・フライアー

 1990年、マンハッタンの路地で、34歳のファッション雑誌の女流カメラマンが絞殺死体となって発見された。あきらかにレイプされており、生ゴミ用ポリバケツの中に押し込まれていた。生前は上品で瀟洒だったろう彼女は泥と生ゴミと動物の排泄物にまみれ、バケツの蓋の下から、まるで助けを求めるかのように白い手を突き出していた。
 ここ20日間あまりに、マンハッタンでレイプされ絞殺された女性は3人目だった。
 警察はこの死体の横から、鼻をかんだらしいティッシュを証拠として採取した。DNA鑑定の結果、容疑者が絞られた。
 容疑者、ダドリー・フライアーは連行されて10分もたたないうち、べらべら自供しはじめた。
「僕が女をレイプし殺したのは、幼い頃から与えられてきたビタミン――とくにビタミンEを大量に含むオレンジ・ジュースのせいだ」
 と彼は言った。
 彼は29歳で、昼はホテルの守衛、夜は子供たちのパーティ専門のピエロをやっていた。20歳のとき囮捜査中の婦人警官をレイプしようとし、またあるときには事故現場に駆けつけた女性救護員が、患者の搬送後にひと息ついているところを狙ってレイプしたこともあった。
 フライアーは完全な精神病者だったが、彼は精神科医の証言を望まなかった。彼には精神の病を恥だと思う根深い思いがあり、誰からも「狂っている」と指摘されたくなかったのだ。
「問題はあくまで肉体的なものです。ビタミンEを過剰に含む果実の酸を大量摂取したことにより、わたしは睡眠障害を起こし、それによって睡眠中枢が異常をきたしたのです」
 彼は真剣に、法廷でそう述べた。
 望みどおり精神異常による無罪ではなく、彼には終身刑が与えられた。

 


●ヴィクトリア朝時代の殺人

 1867年、ベーカーという男が8歳の女児を殺して死体をばらばらにした。日記には「今日、女の子を殺した。すごくわくわくした。」と書かれていた。この日記を証拠として法廷に提出された彼は、「殺した女の子は、暇っていう意味で、暇つぶししたってこと――わくわくしたのは天気が良かったから」と説明したが、これは勿論認められず、彼は処刑された。彼の家系には綿々とつづく精神病があった。
 1871年、ピエダニエルという男が勤め先の肉屋の血の臭いに酔い、若い女性を次々に6人殺した。また同年、ヴェルツィーニという男がふたりの女性を絞殺し逮捕された。このふたりの共通点は、女性となんらの肉体的交渉がなくとも絞殺、刺殺という手段だけでオルガズムに達することができたという点である。
 1880年、メネスクルーという男が5歳の幼女を自室に誘い入れて殺した。煙突から悪臭をはなつ煙が出ていると苦情があり、警察が踏み込むと、ストーブの中で燃えている子供の頭と腸が発見された。
 メネスクルーは凌辱を否定したが、性器が切除されている理由を訊かれると、困ったような顔でうつむいた。彼のノートにはこうあった。「俺があの子を見た。俺はあの子を連れこんだ。……」
 以上の殺人犯はすべて精神異常か知恵遅れであり、彼らの動機は性的なものではなく「遺伝的欠陥」として片づけられた。

 


●ジョン・リンレー・フレイジャー

 1970年秋、カリフォルニアで日系人のビクター・オータ博士の屋敷が燃え落ちた。
 焼け跡からは5人の死体が発見された。オータ博士とその妻、ふたりの子供、博士の秘書である。オータ博士は3発の銃弾を撃ち込まれており、ほかの4人は後頭部を一発ずつ撃たれていた。
 焼失をまぬがれた博士のロールスロイスのワイパーには、こんなメモがはさまれていた。
「1970年のハロウィーン、本日、第三次世界大戦が始まるであろう。自由宇宙の人民が汝らに宣言する。本日以降、自然環境を悪用しこれを破壊するものは、個人であろうと団体であろうと、自由宇宙の人民の名において死の制裁を受けるであろう。余および余の同志は、この惑星上の自然の生命を尊重せぬすべての人間に対し、死しからずんば自由の妥協なき戦いを本日より開始する。
 物質主義よ、死ね。さもなくば人類は消失するのみ」
 警察はチャールズ・マンソンのようなカルト殺人を疑った。しかし次第に事件の輪郭があきらかになり、24歳のジョン・フレイジャーという修理工が容疑者として浮かびあがった。彼はLSDの常習者で、「ラリると、神の啓示を受ける」と公言していた。
 彼はオータ博士を「きわめて物質主義的で、でかい家を建てて自然環境を破壊している」と思い込み、数日前から殺害計画をたてていた。
 しかし実際のオータ博士は物質主義者とも環境破壊者とも程遠かった。
 彼は日系移民の息子として生まれ、インターンになった途端戦争がはじまり、兄をこの戦争で失っている。線路工夫として働きながら学費をかせぎ、医科大学にすすんでからもタクシーの運転手をして働いた。
 空軍で医師として働いている間にも眼科医となるべく勉学をつづけ、ようやく眼科医として社会に出たときには中年にさしかかっていた。
 また成功後は病院施設に多額の寄付と、継続的な経済的援助をおこない、治療費を払えない患者には無料で診察することでも有名だった。
 フレイジャーは彼を「忌むべき環境破壊者、俗物」と憎悪したのは完全に妄想のなせるわざだった。
 こうしてひとりの妄想患者により、他国で苦労して成功をつかんだ日系人博士は一家ごと惨殺された。

 


●名古屋妊婦殺害事件

 1988年3月、名古屋市で起こった事件である。
 Nさんは退社間際の6時30分、自宅に電話したが誰も出ないことを不審に思った。Nさんの妻は臨月のお腹をかかえた妊婦で、今日明日にも陣痛がきてもおかしくない状態だった。事実、昼前に電話したときはちゃんと妻は電話に出、応答したのである。
 帰宅してみると、電灯はついておらず部屋は真っ暗であった。
 Nさんは部屋の奥から弱々しい鳴き声が洩れているのを聞き、慌てて駆けあがった。
 そこには電気ゴタツの前に両足をひらき、横臥している妻の姿があった。その足の間からはうねうねと長いへその緒が伸び、血まみれのちいさな塊が、母親の血だまりの中で細い声で泣いていた。
 Nさんは異常分娩だ、ととっさに思い、妻の体をかかえあげた。
 しかしその体はもう冷たくなっていた。彼女は後ろ手にタオルで縛られ、コタツのコードで絞殺されていた。
 胸から下腹部にかけてをカッターナイフのような刃物で数度、稚拙に切り裂かれており、またあきらかに故意に、子宮までもが切り裂かれていた。犯人はこうして胎児を取り出し、床に放置したのである。
 母親の子宮から無理に引きずり出された赤ん坊は乱暴にへその緒を断ち切られ、子宮を裂いたときの刃物によって体に数箇所傷を負わされていた。
 Nさんは警察に電話しようとしたが、いつもの場所にあるはずの電話機はなかった。仕方なく彼は階下の住人から電話を貸してもらうほかなかったが、じつは電話は意外な場所にあったのである。
 電話機は、無理に取り出された胎児の代わりででもあるかのように、妻の体内に詰めこまれていた。
 そしてなぜかミッキーマウスのキイホルダーも一緒に、のちに彼女の腹の中から血まみれになって発見された。
 警察は犯人像を「死体損壊を好む性的異常者」と想定し捜査したが、今もって犯人は逮捕されていない。

 


●神奈川悪魔祓い殺人事件

 1987年2月、神奈川県藤沢市のアパートに住む夫婦の様子が最近おかしいため、ふたりの親類や友人たちが彼らを訪れた。だが中からドアを開けてくれなかったので、仕方なく大家がマスターキイでその部屋を開けた。

 ドア越しに彼らが見たものは、死体を間にはさんで、一心不乱に「作業」をつづけている男女の姿だった。
 男は鈴木正人という39歳の不動産業者で、いまはもう死体となった茂木政弘の従兄弟であった。
 また女は、政弘の妻で27歳の美幸である。
 親類たちが部屋を覗きこんだとき、鈴木は政弘の頭蓋骨からカッターナイフで肉をそぎ落としている最中で、妻・美幸は大腿骨から肉をハサミでぱちぱち切り落としていた。
 死体は頭、胴体、足の3部に切り分けられ、側には大きなビニール袋が置かれ、骨からそいで塩で「清め」た肉片や骨が放り込まれていた。
 殺された政弘は、子供の頃から鈴木を「兄貴」と呼び慕っていた。鈴木は不動産ブローカーをやっていたが腕はあまり良くなく、詐欺の前科や、借金があった。
 一方政弘はバンドでプロデビューしていたが、曲はヒットせず伸び悩み気味だった。美幸とは事件の前年に結婚。彼女は何かにつけて「主人についていくだけです」と言うような、いまどき珍しい内気な女だったという。
 三人の関係は、鈴木が政弘を「洗脳」していくかたちで進んでいった。
 鈴木は極端なほど暗示にかかりやすい性質で、
「世の中には悪魔がはびこっている。やがて核戦争が起こり人類は絶滅する」
「核戦争のボタンが押される前に、政弘は人類を救う曲を作らなければならない」と信じきっていた。
 かつて鈴木はある新興宗教の信者であり、その教えがベースとなったものと見られている。その結果、彼は
「核戦争抑止の曲を作れるのは政弘しかいない」
「政弘は神から送られた作曲家だ」
 と信じ、茂木夫妻を叱咤激励――と言うよりも「焚きつけた」のだった。
 かつて茂木夫妻も鈴木に誘われて同じ宗教に加入していたことがあり、世の中には悪魔が満ちていること、世界が核戦争で滅びるという点で3人の意見は一致し、政弘も次第に
「俺こそは神に使わされし作曲家だ」と信じるようになっていった。
 しかしバンド仲間や親類に会えば、われに返り信念がぐらつく。鈴木はそんな政弘を見て、
「悪魔の誘惑に負けつつある」と思い込んだ。彼は悪魔祓いの必要がある、とふたりを説き伏せ、さっそく
「儀式」にとりかかった。
 この悪魔祓いの儀式は間に3本の蝋燭を立て、鈴木と政弘が塩をかけ合いながら睨みあう、といったもので、政弘が目をそらせば悪魔が去ったことになるとされていた。
 ふたりは5日もの間にらみ合いをつづけ、その間2,3時間ほど仮眠をとっただけだった。
 途中で儀式を中断。その間に政弘は「救世の曲」を作った。作るといっても疲労困憊した頭にちょっと浮かんだメロディをハミングしただけだったが、感激した鈴木はさっそくテープに録音し、わあわあ大声で泣きながら、何度でも何度でも飽かず聞き入った。
 しかしそこで彼らを心配したバンド仲間が訪問し、政弘はふたたび動揺。それを感じとった鈴木は「儀式」を再開した。
 翌日、政弘はついに「自分には悪魔が憑いている。とりはらってくれ」と認めた。
 鈴木は美幸に向かって、
「政弘の肉体から悪魔を追い出すには、もう肉体を殺すよりほかない」と言った。
 これを聞き、美幸は同意。本人の政弘も自分の死に同意した。
 この時点でほとんど寝ていなかった政弘は衰弱していた。美幸は彼の体から悪魔が出ていくようにと、せっせとその体を押しつづけており、鈴木は美幸にそれを続けさせながら、政弘を絞殺した。
 政弘が絶命すると、ふたりは彼の腹部を断ち割り、内臓を塩で清めた。ふたたび悪魔がのりうつることのないようにと、頭蓋骨にも塩を詰め込んだ。その後内臓はこまかく切り刻んで排水溝に流した。そうしながらも、政弘の作った「救世の曲」をエンドレスで流しつづけ、ふたりで口ずさみながら解体した。
 ふたりは肉の解体にとりかかり、シーツに寝かせた政弘の体を、カッターナイフ、包丁、ハサミなどで分断し肉をそぎ落とし、骨を砕いて、骨格さえとどめないほどばらばらにした。肉は内臓と同じくこまかくして、台所の排水溝に流した(これにより、死因の特定が難しくなった。致命傷の部位が「流されて」しまったからである)。
 この作業はまる4昼夜つづいた。
 作業の間ふたりはほとんど飲まず喰わずで、仮眠をほんのわずか取るだけだった。
 ひたすら「救世の曲」を口ずさみながら、肉をそぎ、骨を砕きつづけた。
 そして親類がついに踏み込むにいたって、この「儀式」はあきらかになり、警察が呼ばれた。ふたりは疲労で衰弱しきっており、逮捕された際もほとんど抵抗せず立ち上がることもできない有様だった。
 こうして3人が育んできた「共同幻想」は、現実の前に、最悪の結果をもってぱちんと弾けたのだった。

 


●福島県祈祷師殺人事件

 1995年7月、福島県須賀川市に、その女祈祷師の道場はあった。
 住み込みで浄霊を受けている信者が何人かいたが、何人かの肉親の嘆願により、警察が道場の捜索に重い腰をあげたのが、この7月の早朝だったのである。
 居間から襖一枚へだてただけの奥の間に踏み込んだ警察官たちは、一瞬色をなした。
 そこには男性2体、女性4体、計6体の腐乱死体が転がっていた。
 死んだ時期がまちまちなためか、ミイラ化している死体もあれば、一部が白骨化しているものもあった。中には死後数日目と見えて、ガスで膨れあがり、腐った眼球が眼窩からすべり落ちているものさえあった。
 死体に申し訳程度にかけられていた布団をはぐと、おびただしい数の蛆虫が這い出してきた。
 体液が染み込んだ畳は完全に腐っており、柱壁には死臭と腐臭が、のちに鑑識官が
「何年経ってもとれないだろう」
 と述懐したほど、濃密に染みついていた。
 この女祈祷師が道場をひらいたのは8年前のことである。
 それまでは夫と共にある新興宗教に加入していたのだが、夫が他の信者に借金をして返済しなかったことから教団を追われ、地元である福島に戻ってきて「開業」したのだった。
 もともと腕利きのセールスレディであった彼女は口が達者で人あしらいがうまく、クチコミで信者はどんどん増え、門前には人の列ができるまでになった。
 しかし彼女の夫には病的なほどの浪費癖があった。彼女が稼いでも稼いでも、夫のギャンブルや浪費で金はみるみる消えていく。新築した道場のローンなども重なり、彼女は祈祷師をやる傍ら、結婚式場の賄いや、健康食品のセールスまでやって稼がなければならなかった。
 一方では「先生、先生」と崇めたてまつられながら、陰では賄い婦として這いずりまわるように働かなければならない。この相反した屈辱的な生活が、彼女の精神を次第に歪ませていった。(余談だが筆者はこの話に、大本教始祖の出口なおを思い出した。なおは極貧の中、働いても働いても報われない生活によって発狂し、「狐憑き」となったのである)
 彼女は「体の中に入った悪い霊を抜く」と称して自分の手を机に叩きつけ、皮膚が破れ血が出てもやめようとしなかったり、信者同士で「互いに霊を祓うため」殴り合わせたりと、奇行をみせはじめた。
 住み込みの信者たちに出す食事は一日一食。それも成人の生活していけるカロリーの5分の1ほどの量でしかなかった。
 事件発覚の一月前、彼女を訪ねた古い知り合いはまず家いっぱいの腐臭に仰天した。が、「この暑いのに肉や卵を出しっぱなしにして忘れているのだろう」と思ったという。
 しかしお茶を出してくれた信者の姿にはさらに驚いた。その信者は体中に殴られた痣が無数にあり、手足は血行障害と栄養失調で青黒くふくれあがって、眼球は黄疸で黄色く濁っていた。
 あきらかに肝機能障害の重症患者である。しかし女祈祷師は、
「浄霊の最中だから、体内から出る悪い毒素でこうなってるだけ」
 と、平然としたものだった。
 体力のない男性信者と、彼女の嫉妬をかった女性信者から先に、彼らは次々死んでいった。
 しかし祈祷師は「今は死んでるけど、浄霊が成功したら生き返ってくる」
 と言い、信者たちもそれを信じて疑わなかった。
 やがて季節は夏になり、いまや6体に増えた死体の腐臭は近隣にも耐えがたいまでになった。捜査員が踏みこんだのは、そんな矢先のことであった。
 逮捕当時、彼女をなかば精神錯乱にまで追い込んだ張本人である夫は、とうに家出して行方をくらましていた。

 


●佐川一政

 1981年6月、パリ西部のブローニュの森で、人並みはずれた小男がふたつのトランクを重そうに引きずり、それを湖に投げ捨てるのが目撃された。
 通報により警察がトランクを引き上げ、ふたを開けると、中にはオランダ女性の死体がトランクに入るよう適当な大きさに切断されて詰め込まれていた。死体はほとんど完体であったが、ただ乳房と尻、腿の肉、それに唇と鼻だけが削ぎ落とされてなくなっていた。
 被害者の身元が割れるとほぼ同時に犯人も逮捕された。目撃者の語った人相風体はどこにでもいる平凡な人間のものではなかったからだ。
 逮捕された男の名は佐川一政、当時33歳。フランス文学と日本文学の相互影響について博士論文を書くべく、パリのサンシエ大学院に留学中で、被害者であるルネ・ハルテヴェルトとは同じ大学内の友達だった。
 彼の家の冷蔵庫にはルネの唇、左乳房、腿の一部、左右の尻肉がまだ保存されており、ほどよく冷えていた。フライパンには調理済みの肉が残っていた。
 警察は「ほかの部分はどうした?」と訊ねた。
「食べてしまいました」
 佐川はひどく冷静に、そう答えた。

 佐川一政は1949年、神戸では非常に有名な「立志伝中の人物」のひとり息子として生を受けた。
 しかし生後数週間たっても「父親のてのひらに乗せられる」ほど極端な未熟児であった。医者にはとても成人するまで生きられないだろうと言われ、両親は息子の望むことならなんでも叶えてやろう、とその瞬間から決意したという。(実際には佐川は2002年現在も存命中であるが)
 事件当時ですら、佐川の身長は150センチ足らず、体重は35キロに届かなかった。
 佐川本人は自分の外見が人を驚かせるものであることをよく承知しており、こう記述している。
「頭だけが大きく、その部分だけは30を過ぎた大人です。どこか人を寄せ付けないところがあります。そしてまなざしは、何かおどおどしています。……」
 逮捕されたときも、佐川の細い腕にかかった手錠はそのまますっぽり抜け落ちてしまったという。
 彼は「人が思うほど、自分の肉体に劣等感は持っていない。わたしは身体的コンプレックスや生い立ちなど関係なく、幼い頃からのやむにやまれぬ衝動によって殺人(食人)を犯したのだ」
 と主張したが、これは供述を聴取した人々にはむしろ悲しく響いた。
 その言葉はかえって、自分の劣等感を受け入れたくないと駄々っ子のようにもがく彼の哀れな魂を際立たせただけのように思えたからだった。
 富裕な家に育ち、平均をはるかに超えた知性も持ち合わせていた。
 だがその異様に貧弱な肉体によって、彼の性衝動は歪んだものになっていかざるを得なかった。
 彼が魅力を感じるのは「大柄で、豊満な白人女性」だけだったというのも、まるで自らの欠陥を補うため、彼女らの豊満な肉体を吸収しようとしたかのように思えるのである。

 佐川自身が事件の詳細について記した著書『霧の中』では、彼には小学校にあがる前から食人願望があった。そして教育を受けはじめ、知識が増えるにしたがって彼の欲望も強くなっていく。グリムやペローの童話、古代ギリシャのミノタウルス神話――世界は人肉食の饗宴に満ちあふれているように思えた。
 また大学3年のとき、友人宅にホームステイしていたアメリカ人女性を見、『彼女の体が大皿に盛られて食卓に出される図』をありありと想像したという。この頃から佐川の食人願望は、強迫観念(オブセッション)じみたものになってきている。
 当時、佐川は自分は永く生きるまいと思っていた。「死ぬ前には喰わなくては……30前には」と彼は思いつめ、遂に決心した彼は近所に住むドイツ人女性の住まいに深夜、侵入した。無論、結果は失敗だったが真の動機である「食人」の意図はさとられなかった。この時点で彼の強固たる願望があきらかになっていたなら、なんらかの精神治療をほどこすことができただろう。しかし実際には「強姦未遂」としてこの事件は片づけられ、女性が佐川の父親の出した示談金を受け取り、告訴は取りさげられた。

 過保護の父親は、佐川が文学に興味を抱いていることを知ると、彼がひとかどの文学者として名をあげることに希望をつないだ。28歳で修士号を取得したのち、佐川はパリへの留学を希望したがこれは勿論すんなりと叶えられた。
 パリの道を歩けば、そこには佐川が今まで昼となく夜となく抱きつづけてきた妄想が、まさに手の届くところにあった。彼が憧れたジーン・セバーグやグレース・ケリーのような白い豊満な肉体をもつ女たちが、胸のあいたノースリーヴのドレスを着、短いスカートで足を組み、彼の「食欲」を刺激するべく、ふくらはぎや二の腕をむきだしにしていた。
 彼は白人売春婦とつかのまの情交を持つことによって、一時期その衝動を抑えこんだが、やはり結局は食人への強迫観念のもとに舞い戻っている。
「わたしにとってカニバリズムとは暴力とは対極的なもののはずだったのだ。ただし夢の中で、幻の中で」
 と佐川自身は書いているが、この言葉は説得力をもたない。
 第一彼はルネを殺し、食したことについて
「後悔したくなかったから」
 と繰り返し言っている。今やらなければきっと後悔する、そう思い彼はルネを食べ、
「うまいぞ! やっぱりうまいぞ!」と歓声をあげ小躍りした――(『霧の中』より)。彼がどう言い訳しようとも、やはり彼は過保護な両親の庇護下で育った利己的な精神を持っていたのであり、自分の欲望の充足のみを最優先としていた。
 彼がルネを殺したことについて、
「佐川はルネに恋しており、告白され断られたので殺して喰った」
 という報道が当時、主流となったようだが、実際佐川は殺害当時ルネを「長い間抱いていた妄想の結実、すべての白人女性の象徴」としか見ていなかった。彼の中に「ルネ・ハルテヴェルト」という名の個人はなかったのである。これは、同じく利己的なサイコパスだったテッド・バンディが被害者の女性たちを「人間ではなく、なにか好ましいもの」と表現したのに非常に似ている。

 佐川は1977年パリに留学、1980年に修士課程を終え、博士課程にすすむ。同年1月に一時帰国したおり、室蘭の女子大講師の職が内定したが、大学側の要望により博士課程を終えるため、1981年ふたたびパリへ留学。ルネ・ハルテヴェルトと出会ったのは同年5月のことであった。
 佐川はルネと出会ってほぼ1ヶ月後の6月11日、「世の白人女性のイメージ」を一身に彼女に背負わせ、射殺した。

 彼はドイツ語の詩朗読の録音を口実に、ルネを自室に招き、ライフル銃で彼女を背後から撃ち殺した。
 死体の血をぬぐい、衣服を脱がせてのち、死姦。バスルームへ死体を運び、解体をはじめた。写真を撮影したが、フィルムはすぐ足りなくなってしまった、という。
 撮影後、尻、乳房、太腿を切り取りフライパンで焼いて夕食とした。翌日からの動きは、『霧の中』より抜粋させて頂きつつ記述しよう。
 翌朝は起床ののち、「バスルームに入るときためらわれた。ドアをあけると大きな蝿が飛びでてきて驚く。ルネの顔にも蝿が止まっているのを目撃。ショックを受けた」。
「ふくらはぎから足の裏にかけて生のまま、陰部周辺をフライパンで焼いて食べる。自分の耳の後ろが脂でべとべとになっており、人間の肉には随分脂がのっているものだと実感する」。
 その後外出して肉切り包丁と電動ノコのモーターを購入。
「帰宅後、死体解体。ルネの手を用いて自慰。鼻、唇、舌を口にふくむ。腹部を切開して、内臓を取り出した。腸はとてもきれいだった。
 首を切断。髪の毛を持ち、ルネの首をぶら下げ、鏡に自分と並べて映した。『カニバルだ!』と叫びたかった」。
 バラバラになった死体をゴミ袋に入れ、トランクに詰め込んだ。その後はTVでサー・ローレンス・オリヴィエの『ハムレット』を鑑賞している。そののち死体を捨てに行くが捨て場所が見つからず、帰宅。冷蔵庫に保存していた肉を食うがいささか食傷気味であった、という。
 翌朝、ブローニュの森の湖に死体を遺棄。その日はレストランで食事をとった。
 さらに翌日の14日、日本食品店に出向き、すきやきの材料としてシラタキの缶詰と白菜を買う。店員に肉はどうかと聞かれ、「肉はうちにあります」と答えている。
 翌15日、故郷の母と電話で話したのち、ルネの残った肉を焼いて食べる。日本への逃亡を考え、銀行から金を引き出すものの、警察の追っ手のほうが早かった。この日、佐川は逮捕される。部屋にはルネの食べのこしが冷蔵庫にもフライパンにも残っており、刑事たちを驚愕させた。

 『霧の中』においてもっとも興味深いのは、佐川はそれまでカニバリズムを体験したことがなく、いわばその妄想は「机上の空論」とも呼べるものであったというのに、彼が現実の「死体」「人肉」を目にしても、まったくひるむことがなかったという点である。
 空想は現実の前には無力である、という「常識」を打ち破って、佐川のカニバリズムの幻想は凄惨な現実を目の前にしても消えることがなかった。もっともいかに強固なカニバリストである彼としても「幻想のパワーアップ」には苦労したようで、ルネの下着をナプキンのように皿の横に置いたり、テープに録音した彼女の詩の朗読を聞きながら食事をすすめたり、ヌード雑誌を脇に置き、「ここは尻、ここは腿……」といちいち確認しながら味わったりなど、いろいろな小細工は弄している。
「強い匂いも味もなく、簡単に口の中にとけていきました。匂いのない、マグロのとろのようなものです。
『おいしい、やっぱりおいしい……』
 こうしてその肉の何片かを口に運んだのです。
『やっぱりうまいぞ! やっぱりうまいぞ!』
 それから、白い肌と青い眼の顔を覗き込んでそう叫んでやりました。
 遂に白人の美しい女を食ったのです。そして、思い通りうまかったのです。この上ないうまい肉だったのです……」
 佐川は4日間にわたってルネを食べつづけ、この著書の中ではその記述は24ページにわたっているが彼に言わせると、
「とても書き足りない。最低でも二倍の頁数は必要」
 だったというから、彼のアパートは想像を絶する酸鼻さだったろう。
「鼻は軟骨そのままのこりこりした噛み心地。唇は意外に固くて生では食べられなかった。舌も同様だが、苦心して噛みくだこうとしているときふと、鏡を見ると、舌と舌とが絡み合っているのが見えた」
 己れの身勝手な欲望の前に他者の人生を奪い、しかもそれを美味い、不味いと淡々と語る佐川のこの著書は、当時「客観的」なのか「「贖罪としての真実の吐露」なのか「ただの無神経」なのか、判断が難しいとされた。しかし幸か不幸か発禁扱いにもされなかったことで、かえってのちのちの話題性や価値が薄まったとも言えるこの作品は、ゴースト・ライターが書いたものだった、という説もある。

 逮捕後、佐川は父の雇った「フランスでもっとも高名で、かつ金のかかる弁護士」と呼ばれたフィリップ・ルメールの働きにより心神耗弱を認められ、無罪となった。
 アンリ・コラン精神病院には無期限の入院とされたが、14ヵ月後、国外追放同然のかたちで退院となり、帰国後、都立松沢病院へ入院。
 しかしこの病院もほぼ一年後の1985年8月に退院し、以後は精神治療を受けた形跡はない。

 佐川は『霧の中』を書き、また唐十郎との書簡集である『佐川くんからの手紙』は、唐に芥川賞をもたらした。
 「文筆業で身をたてることを決心した」と言う佐川は、『サンテ』、『蜃気楼』、『カニバリズム幻想』など現在にいたるまで10冊近い著作を出版し、そのかたわらインタビュー、対談、また犯罪事件の「評論」もこなし、かつAV監督や風俗のレポートなど卑俗な仕事も引き受けている。
 しかし内実は、現在も親の仕送りを受け、親の買い与えたマンションに住んでいる。
 そして「カニバリズムに対する幻想は消えた」とは言うものの、白人女性に対する一種フェティッシュとも言える偏愛は健在であるようだ。

 皮肉なことに、彼は今糖尿病と痛風(ともに贅沢病と呼ばれていることは言うまでもない)のため、一切の肉食を禁じられている。まるで精神のかわりに、肉体が贖罪してでもいるかのように。

 

 


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