THE  KIDNAP―誘拐殺人―


 

誘拐の目的は大きく2つに大別される。猥褻か、身代金目的か、である。
だがどちらにしろ人質が殺害されてしまった場合、犯人の判決はほぼ死刑。
情状酌量を考慮し、ぎりぎり精一杯寛大な判決にしたとしても、無期懲役である。
つまり誘拐殺人はもっとも卑劣で凶悪な犯罪だとみなされているのだ。

名画『天国と地獄』をはじめ、誘拐事件を扱ったフィクションは
犯人と警察の知恵比べという図式が成り立ち、スリリングであることから数多い。
しかし実際の誘拐犯は緻密な準備や計画能力はほとんど持ち合わせない。
動機のほとんどが単純な金欲しさであり、人質を「重要なカード」と見なすより
「邪魔」「足手まとい」として早々に殺害してしまうこともしばしばだ。
現実の彼らは知的ゲームを愉しむ冷血漢などではなく、
ただの強殺犯、恐喝犯と何ら変わるところはない。

                         



本山茂久

 本山茂久は、1928年4月3日に新潟県大島村で生まれた。
 実家は広大な土地を所有する地主であり、祖父は村長までつとめたことがある。彼はそんな家の長男として生まれ、下へも置かぬ扱いをされて育った。

 小さい頃から無口でおとなしく、成績も優秀だった。
 小・中学校は地元新潟の学校に通ったが、陸軍兵器学校に合格して神奈川県へ移住。敗戦を機に帰郷し、ふたたび地元の学校に入るが、敗戦後の農地改革は彼の実家に大きな打撃を与えた。
 その後、東京歯科大学予科入学。
 上京し、大学生活をはじめる。とくに親しい友人はなく、どこか秘密主義のところがあったという。
 人付き合いが悪いわけではなく、仲間に誘われれば飲みにもついて行くし、スキーもやる。だがそんな生活のかたわら、彼は学友の誰にも内緒でダンス教室の助教師と深い仲になっていた。彼女はじきに妊娠し、本山は責任をとらざるを得なくなった。
 実家の父と祖父は、大学卒業を目前に跡取り息子がダンサーと結婚すると聞き、激怒した。
 そうこうしているうちに子供が生まれてしまい、結局結婚を認めるよりほかなくなったのだが、正式に婚姻届が出されたのは卒業から4年以上も経った1958年12月26日だった。

 1954年4月から、本山はインターンとして台東区の歯科医院に勤務をはじめる。同年5月、歯科医師試験に合格。
 だが同年7月には、彼は前の勤務先には無断で、台東区の歯科医院に勤め先を移る。そしてさらに8ヶ月後には、杉並区の歯科医院へ雇われ院長の待遇で移動するのである。
 本山はなかなか腕も良く、ビジネスライクに患者の回転を優先させたので見る間に繁盛した。
 本山は妻子を引き連れ、医院に近いところへ一軒家を借りた。翌年には次男が生まれ、順風満帆といった態であった。
 1956年11月、本山は妻の実家から資金を借り、開業を決意する。場所はいまの勤務先である医院の、目と鼻の先を選んだ。いままでの患者がそっくり自分の医院についてくるであろうことを計算してである。このやり口は雇い主を激怒させたが、本山は平気な顔で開業を果たしてしまった。
 しかし本山歯科医院はそんな背景に関係なく繁盛した。1日の患者数は60人を下らなかったというから、なかなかのものだったろう。

 しかし家庭の幸福は長くつづかない。
 本山は料亭の女中と関係し、アパートを借りてやって入りびたった。それを知った妻は実家へ帰り、本山は妻の両親に難詰され、ガス自殺まではかる有様だった。開業の際借りた金の返済もほとんどせず、愛人に貢ぐばかりの本山に激昂し、妻は離婚を求める。しかし本山はそれを拒否。2人が家裁でごたごたしているうちに、愛人は本山の子を産んでしまった。

 愛人との生活で借金がかさみ、妻からは離婚と慰謝料を請求される。
 いままで金に困ったことのない本山にとってそれは初めての経験だった。実家は素封家とはいえ、農地改革でもはや頼れるほどの財産はない。
 1960年5月16日、本山は目黒駅に立っていた。
 慶応幼稚舎のバスが目の前に止まり、慶応舎のマークをランドセルに箔押しした児童たちが、わらわらと降りてくる。本山はそのうちの1人の子に近づき、「きみを迎えに行ってくれと、おかあさんに頼まれたんだよ」と言って車に乗せた。
 子供の名は雅樹ちゃんといい、銀座天地堂の社長令息であった。歳はまだ7つ。
 本山は雅樹ちゃんを自宅に連れ帰り、家の情報を引き出せるだけ引き出すと、睡眠薬を与えて眠らせた。
 そして雅樹ちゃん宅へ電話をかけ、
「200万円を指定の場所に持って来い、警察に知らせたら子供の命はない」
 と言った。しかし警察への連絡は早々になされ、現場には札束の大きさに切り揃えられた新聞紙が持ち込まれただけだった。
 翌日、今度は電報で
「ゴゴ1ジ 300モッテ シンジュクデレンラクヲマテ」
 と打つ。しかしこのときも、本山は身代金の受け取りに失敗。
 さらに指定場所を変えて連絡するが、結果は同じであった。
 むしゃくしゃして自宅に帰った本山は、まだ眠っていた雅樹ちゃんを殺すことを決心。部屋を密閉し、ガス栓をひねると、一酸化炭素中毒で殺した。
 死体は米俵に詰め込み、石を重しにして沈めるつもりで車を出したものの、すでに警察の手が迫っていることを知り、死体を後部座席に放置したまま車を捨てて逃げ出した。
 じつは本山が身代金の受け渡しに頭を絞っている間、鍵のあいた本山宅にあがりこんだ近所の主婦が、「見たことのない子供」が布団に寝かされているのを目撃していたのである。

 それから2ヶ月間にわたって本山は逃走の旅をつづけるが、大阪で偽名を名乗り、加工業職に就いているところを発見され、逮捕された。
 裁判には妻と愛人の双方が出廷したが、妻は
「こんな男は厳罰に処すべきです」
 と証言し、愛人は
「私の愛で彼を見守りたい」
 と証言した。

 一審判決は死刑。この判決後から本山は精神に異常をきたし、幻聴・幻覚に悩まされ、食糞症状まで見せる重症患者となる。
 1966年8月、控訴棄却。1967年5月、死刑確定。刑の執行は1971年に成された。

 


ブルーノ・リチャード・ハウプトマン

 「翼よあれが巴里の灯だ」。
 1927年にチャールズ・リンドバーグが史上初の大西洋横断単独飛行に成功して、一躍世界の英雄となったのは、彼がまだ25歳のときであった。
 
そして、そのリンドバーグ大佐と女流詩人アン夫人の間に生まれた1人息子、チャールズ・ジュニアは事件当時、わずか1歳9ヶ月だったのである。

 1932年3月1日夜、ニュージャージーのリンドバーグ邸に何者かが侵入し、チャールズ・ジュニアを誘拐していくという事件が起きた。
 ベビーシッターが気づいたとき、すでにジュニアの姿は寝室から消え失せており、窓の下には手製らしき組立て梯子が倒れていた。
 窓の桟には、金釘流で書かれた5万ドルの身代金要求文がはさんであった。
 この手紙の最後には輪をふたつ組み合わせ、中に3つの穴をあけた奇妙なマークが書かれており、「すべての手紙の目印は、署名と3つの穴である」と記してあるところからみて、どうやらこれは犯人のトレードマークらしかった。

 筆跡鑑定家は「粗野で教養の低いドイツ人の書いたものだろう」と推測。指紋は検出されなかった。
 また窓の下には不明瞭な泥だらけの足跡が残されており、少し離れた場所からは鑿が発見された。
 手がかりと呼べるものはこれだけである。

 リンドバーグ大佐は、警察の公式捜査よりも、独自のルートでの捜査を選んだ。大佐は犯人にも信頼されるような仲介者を間に立てるべきだと考え、72歳の老教育家、ジョン・コンドン博士にその役を頼む。
 コンドン博士は新聞広告という手段をつかって犯人と数回連絡をとり、5万ドルの支払いに応じる、と答えた。
 しかし犯人側は
「赤ん坊を預かってる期間が長引いたから、お守り代として2万ドル上乗せする」
 と言って、7万ドルを要求してきた。
 リンドバーグ大佐はこれを受け入れ、7万ドルを用意し、紙幣番号をすべて控えた。
 コンドン博士は暗い共同墓地で犯人と落ち合い、2万ドル値切ることに成功して、5万ドルを手渡す。真っ暗でまったく犯人の顔は見えなかったが、はっきりとドイツ訛があったという。
 犯人はコンドン博士に「赤ん坊はマサチューセッツの沖に停泊中の、ネリー号という船の中だ」というメモを渡していた。リンドバーグ大佐は自家用機を飛ばして、マサチューセッツの沖一帯を気も狂わんばかりに探しまわったが、チャールズ・ジュニアはおろか、ネリー号を見つけることもかなわなかった。実はこのネリー号は、架空の船だったのである。

 事件から73日後の5月12日、ジュニアは発見された。
 大佐の邸宅からたった2マイルしか離れていない森の中で、2歳にもならないジュニアは無残に頭を割られて死んでいた。検視の結果、誘拐された夜にすでに殺されており、幼い死体は腐乱しきっていた。下着のシャツによって、死体はチャールズ・ジュニアであることがなんとか確認された。

 警察は身代金に支払った紙幣番号を全米の銀行、劇場、商店などに通達して協力を求めた。
 しかしこの成果があらわれるには、事件から2年以上経った1934年9月18日を待たなければならなかった。
 その日、客から10ドル紙幣を受け取ったガソリンスタンドの店員が、紙幣番号が通称「リンドバーグ紙幣」と呼ばれる例の身代金番号と一致するものだと気づき、車のナンバーをメモして警察に連絡した。
 翌日、容疑者が拘留される。
 34歳の不法在留ドイツ人、ブルーノ・リチャード・ハウプトマンである。

 家宅捜索の結果、彼の家からは1万4千ドルの「リンドバーグ紙幣」が発見された。ハウプトマンは「ドイツに戻った友人のために、金を預かってるだけだ」と言い張った。そして、その友人が結核で死んだので、金を使い始めたのだ、と。
 警察はさらにハウプトマン宅を捜索した。
 ガレージには、現場の遺留品である梯子とまったく同じ切り口ができる鉋があった。さらに、彼に数度の前科があることも明らかになり、そのうちひとつが、梯子を使っての押し込み強盗であった。
 また彼の筆跡は身代金要求文と一致するという鑑定結果が出た。署名の最後にあった奇妙なマークは、解読の結果、BRHというアルファベットを組み合わせたものだということも判明する(BRHは、もちろんハウプトマンのイニシャルだ)。
 1935年2月13日、リチャード・ハウプトマンは有罪を宣告された。

 翌年4月3日に、彼は電気椅子で処刑された。
 最後まで無実を叫びつづけており、今も彼は冤罪だと信じる人は少なくない。しかし確かにこの事件は初動捜査の手抜かりを含め、いくつか問題があったものの、証拠の数々から見てどうもハウプトマンが無実であったとは考えにくい。陪審の結論が非情すぎたと咎められる恐れはないだろう。
 愛児を失ったリンドバーグはその後、人が変わったようになり、ナチス礼賛論を唱えるなどして徐々に国民の人気を失っていった。
 晩年大佐は癌におかされ、それを自覚してハワイへ移住。ハワイアン式の葬儀をみすから依頼して亡くなった。

 彼の葬られた墓地には、すでに先立っていたペットの猿が埋められていた(この猿は日本の皇太子が彼に贈ったものである)。
 動物とともに埋葬される、という行動をもって、キリスト教に対する反逆を彼は最後までつらぬいたのである。かつてのアメリカの英雄、リンドバーグ大佐をそうさせた原因がなんであったかは、もはや言うまでもないだろう。


 


浦山裕司

 1989年10月、愛知県豊橋市で、当時8歳の美幸子ちゃんが身代金目当てに誘拐されるという事件が起きた。
 犯人は喫茶店経営をしていた27歳の浦山裕司。普段から激昂しやすい性格で、趣味でベースを弾き、ヘヴィ・メタルのバンドのリーダーもつとめていたという。
 店の経営やバンドの運営にいきづまった浦山は誘拐で金を得ることを決意。
 美幸子ちゃんをさらい、目と口を粘着テープでふさぎ、手足を縛って車のトランクに放り込んだ。仲間はおらず、単独犯であった。
 浦山はその日の夕方6時、美幸子ちゃん宅に身代金要求の電話をかける。翌日朝になって
「東海道線を走る途中、身代金を線路脇に放れ」
 と指示した。

 しかし警戒中の捜査員に見つかり、受け取りは失敗した。
 その後、浦山と警察とのカーチェイスが始まる。何度も追い詰められながら、浦山は必死に逃走した。ヘリまで動員し、ようやく逮捕されるまでに、報告によれば浦山が追い詰められる場面は8度にも及んだという。
 だが、なぜここまで犯人を追い込んでいながら警察は彼を8度も逃したのか?
 答えは簡単で、警察側の追跡車に、警察官自身の自家用車が多かったためである。
 つまり彼らは自分の車に傷がつくのを恐れ、そのせいで追跡が甘くなったのだった。
 1度などは完全に浦山の車を袋小路に追い込んだが、もうこれで逃げられまいと気の緩んだ警察官が「やれやれ、俺の車に傷なんか付いちゃいまいな」と車からおり、あちこち点検しているうちに逃げられているのである。浦山はアクセルをいっぱいに踏み込み、その「サラリーマン警官」のマイカーをはねとばして逃走したのだった。
 浦山は山中に逃げ込むが、農道脇で脱輪。癇癪を起こした浦山は
「こうなったら、一番の証拠(証人)のガキを消して逃げるしかない」
 と思い、美幸子ちゃんの首を絞め、ぐったりとなったところを、さらに鉄シャベルで顔や頭を何度も殴打して殺した。美幸子ちゃんが絶命したと思った彼は、少女を林の土中に埋めて逃げた。

 だが死後解剖の結果、少女の肺には土砂が詰まっていたのである。
 つまり殴打された際に美幸子ちゃんはまだ生きており、生き埋めにされて彼女はじわじわと死んだのだった。直接の死因は殴打による内出血で、気管が塞がれたためであった。
 すべてが終わり、一部始終を聞かされた美幸子ちゃんの父親は「警察は、娘のためにもうすこし頭をつかってくれなかったものでしょうか」と涙声になったという。

 


八文字美佐子

 八文字美佐子は近所周辺では「小町」とも呼ばれる美人だったが、平凡な鉄鋼工場の事務員だった。
 その彼女が非凡な存在となってしまったのは、勤め先の社長の愛人になってしまったこと、さらにその子供を誘拐して殺したことゆえだった。

 美佐子は1949年に葛飾区で生まれた。
 都立高校への受験に失敗し、定時制高校に通いながら事務員として働くようになった。
 このときはまだ鉄鋼工場へは勤務していないのだが、それまでは化粧気もなくとにかく野暮ったかったという。
 夜学に真面目に通いながら、彼女は日本舞踊を習いはじめる。そこで問題の鉄鋼工場の社長夫人に見込まれ、事務員として働くようになるのである。この時点では社長夫人も、まさかこの「色気のない、垢抜けない小娘」に亭主を寝取られるとは想像していなかっただろう。
 鉄鋼工場に就職したとき、美佐子は21歳になっていた。
 それからほぼ半年後、社長は彼女に「マッサージしてあげる」などと言って二階へ連れ込み、なしくずしに処女を奪ってしまう。
 社長はのちにこのときのことを、
「彼女がしきりに誘うような様子をみせるので、据え膳食わぬは男の恥というような気持ちになって関係した。しかし相当なあばずれだった」
 と陳述しているが、これは一方的な証言に過ぎず、美佐子は彼がはじめての男性であった。
 彼女は化粧を覚え、服と髪を整え、誰の目にもみるみる美しくなった。しかし美佐子は月給8万円のほか、月々1万円しか「お手当て」をもらっておらず、そのことに不平を言った様子もない。
 まだ世慣れぬ彼女は、ぼんやりといつか社長と結婚できるものだと思っていたのだ。

 彼らの仲はずるずると3年つづいた。その間に社長夫人にばれ、アパートに踏み込まれるなどの事件もあったが、それで関係が切れることもなかった。
 しまいには夫人もふたりのことには知らぬ顔を決めこむようになる。美佐子は社長の母親に「結婚させてほしい」と訴えたこともあったが、鼻であしらわれただけだった。
 そのうち、雲行きがおかしくなってきたのに美佐子は気づいた。
 冷え切っていたはずの社長夫婦の間柄が、最近再燃してきたようなのである。理由は長男がグレはじめてきたからで、子供のためにも家庭は円満でなくてはならないと遅まきながら反省した彼らは、急に夫婦生活を復活させ、「あたたかい家庭」を目指しはじめたのだった。
 美佐子はこの事実にあせり、自分のマンションに通ってくる社長をなじった。
 しかし彼は
「家庭円満のためだ、仕方ないだろう。あんたもそろそろ結婚したらどうだ」
 と答えた。美佐子はこの言葉に愕然となった。

 1974年10月17日、彼女は社長夫婦が従業員の結婚式に「仲むつまじく」いそいそと出かけていくのを暗い目で見守った。
 この前日にも彼女は社員みんなの前で、社長に「きみもそろそろいい人ができたら、結婚したらどうだ」と言われている。
 社長夫婦を見送ってからしばらくして、美佐子は社長宅にそっと上がりこんだ。まず視界に入ったのは、掛けてあった夫人の留袖だった。美佐子はそれをナイフで切り裂いた。
 それから長女の美弥子ちゃん(8歳)が下校するのを待って、「おねえちゃんがいいところへ連れていってあげる」とマンションへ誘い込んだ。美弥子ちゃんが腰紐で首を絞められ、包丁で頭と背中を何度も刺されて絶命するのは、その20分後のことである。
 結婚式から帰ってきた社長夫婦は美弥子ちゃんが行方不明になったことを知り、心当たりを片っ端から探してまわる。
 そのときふと、社長は「もしかして、美佐子の仕業か」と思い、彼女のマンションへ駆けつけた。
 果たして、美佐子は毛布でくるんだ小さな死体を前に、ぼんやりと途方にくれて座り込んでいた。
 彼の顔を見ると、美佐子は抑揚のない声で、一言
「殺した」
 と言った。
 男は娘の死体を目の当たりにし、
「何をやったかわかってるのか! おまえは死刑だぞ!」
 と怒鳴り、彼女を突き飛ばした。しかし罵るだけ罵ってしまうと、冷静になり、すぐに保身の念が彼の頭には浮かんできた。愛人に娘を殺されたなんて、妻子にも親戚縁者にも合わせる顔がない。世間体も悪いし、信用も失墜するだろう。
そう考えた「悲劇の父親」は、一転して「共犯者」と化した。
 社長は美佐子に
「防臭のためカレー粉を焚け」、「もっと防臭剤を買ってこい」と命令。
 死体をベビーバスに詰めてセメントで固めた。
 美佐子は彼の指示に従って、美弥子ちゃんの死体を大宮市の雑木林に埋める。そして社長は「200万円を要求する脅迫状が届いた」と警察に訴え、営利誘拐の偽装をはかった。

 美佐子が逮捕されたのは10月30日。社長が逮捕されたのはその3日後の11月2日だった。
 彼は逮捕前、掘り出されたわずか8歳の長女の死体の前で号泣したそうだが、それが空涙であったかどうかはわからない。ただ世間の目はそれをはっきりと「演技」と決め付けたほど冷たかった。
 彼ら2人に下った判決は、意外なほど軽かった。
 美佐子が懲役13年。社長が懲役1年8ヶ月、執行猶予3年。
 美佐子は情状酌量され、社長は実行犯でないために執行猶予が付いたのだろうが、この手の事件にしては異例の判決と言えるだろう。

 


スーザン・スミス

 1994年10月25日、アメリカはサウスカロライナ州警察の電話に、
「子供たちがさらわれた。カージャックです、すぐ来て」
 と半狂乱になって訴える女性の声が響いた。警官が彼女に詳細を問いただすと、
「3歳と、1歳2ヶ月の息子を車に乗せて、友人宅に行く途中でした。信号待ちをしていたら、突然黒人の男に襲われて……私を放り出すと、子供たちを乗せたまま、車で走り去ってしまったんです」
 と涙ながらに語った。彼女の名はスーザン・スミス。まだ23歳の若妻だった。

 ほとんど犯罪の起こらない平和な町に、突然降って湧いたように発生した幼児誘拐事件である。
 人種的偏見もあいまって、市民の間にも波紋はひろがり、警察はもちろん民間人も協力し合っての大捜索がはじまった。
 しかし大捜査網を敷いたにもかかわらず、犯人の行方は杳として知れなかった。
 スーザンはTVカメラの前で「子供たちを返して下さい。そのためなら私はどんなことでもします」と犯人に呼びかけ、さめざめと泣いた。その姿は3大ネットをはじめとする各局に配信され、ニュースは連日誘拐事件の続報を流しつづけた。
 国民は「悲劇の母親」に同情し、子供たちの無事を祈って、並木や車のアンテナなど、町の至るところに黄色いリボンが結びつけられた。
 しかしその評価が覆されるのは、事件から9日後の11月3日のことである。
 悲劇の母親であるはずのスーザンが、狂言誘拐容疑で逮捕されたのだ。

 署内でポリグラフにかけられたスーザンは犯行を自供。
 彼女の自白にもとづいて、湖からスーザンの自家用車だった赤いマツダが引き上げられた。後部座席には、幼児2人がいまだにシートベルトで固定されたまま、無残な溺死体となっていた。
 自供によると、
「マツダがゆっくりと水没していくと、窓越しに目を覚ました息子がシートベルトをはずそうともがいているのが見えました。息子が必死にあがいているのがわかりましたが、もうどうにもできなかったし、どうにかする気もありませんでした」
 ということである。

 スーザンは幼い頃から優秀で、高校時代には「最もフレンドリーな生徒」に投票で選ばれている。同級生の言によれば「完璧な女の子」だったそうだ。
 17歳のとき上級生のボーイフレンドと交際をはじめ、仲がこじれて自殺未遂をはかるなどのトラブルもあったが、20歳で彼と結婚している。
 しかし2人の子供に恵まれながらも、夫婦仲は次第に悪化していった。お互い不倫し合い、面罵の応酬の毎日の中、93年に別居。事件当時は離婚の申請中であった。
 23歳とまだ若いスーザンにはすぐに恋人ができた。相手は彼女の勤め先の社長令息で、家と車のローンと、子供2人を抱えた彼女にしてみればまさに玉の輿の相手であった。しかし彼は、
「ぼくは自分の子供でもない子の父親になるつもりはない。きみだけでなく子供の面倒までみろというなら、別れるしかない」
 と彼女に言い渡した。スーザンが子供たちを始末しようと決心したのは、このときである。

 裁判の過程で、彼女の生い立ちが明らかになった。
 彼女が6歳のとき、両親が離婚。悲観した父親は拳銃自殺している。義父はスーザンがティーンエイジャーの頃から性的虐待をはたらき、なんとそれは彼女の結婚後も継続していた。
 アダルト・チルドレンとしての心の傷に同情されて情状酌量になったらしく、スーザンは死刑をまぬがれ終身刑となった。しかし今後30年間は仮釈放の見込みはない。
 なお、彼女があれほど熱望した夫との離婚は、事件後の1995年5月に成立している。

 


レオン・デザイーズ

 猥褻目的の誘拐はそれだけでも充分卑劣な犯罪であるが、特に被害者の殺害という終末を迎えた場合、その後味の悪さは筆舌に尽くしがたい。

 1982年10月17日、南フランス、モンペリエ。
 洞窟の中から、ひとりの若い女性の死体が発見された。
 死体は下半身裸で両手を縛られ、猿轡をはめられ、絞殺されていた。身元はじきに発覚し、24歳のアメリカからの留学生、マルグリット・ヘリーズ・エドワーズであることが判明する。
 検死の結果、マルグリットは1週間ほど縛られたままの状態でおかれていたことがわかった。栄養失調状態にはなく、胃には食べ物が残っていたことから、どうやら犯人がまめに食事を口に運んでやっていたらしかった。
 彼女が失踪したのは7日、死体となって発見されたのが17日。この間、彼女はどこかに拘束され、犯人に「世話」されていたようなのだ。
 しかし下半身裸ながらも、彼女の体内から精液は検出されなかったし、犯された形跡すらも見当たらなかった。

 遺体発見から20日後の11月5日、マルグリットの自転車が大学の理学部校舎裏から見つかった。
 捜査員が校舎内を捜索したところ、彼女が監禁されていたらしい場所が判明する。そこは古道具や器材を保管する倉庫で、誰も普段近づくことのない陽もささない密室であった。
 マルグリットはそこで床のマットに転がされ、監禁生活を送らされていたようだった。マットには食べこぼしの染みがあり、バケツには彼女に排泄させたらしい痕跡が残っている。
 また死体の胃から検出された食物は、大学食堂のランチメニューと一致した。犯人は食堂から食事を運び、彼女に食べさせてやっていたと思われた。

 数日後、犯人が逮捕される。
 大学で修理保全係として働いていた、53歳のレオン・デザイーズである。
 自供によると、デザイーズは前々からマルグリットに目をつけていたのだという。
 10月7日、彼はマルグリットに「通訳のバイトを紹介してやる」と言って騙し、倉庫に連れ込むと両手足を拘束。猿轡をかませてマットに転がし、監禁したのだった。
 デザイーズは毎日彼女に添い寝し、恋人にするように甘く囁きかけ、母親が赤ん坊にしてやるように食事をスプーンで口に運んでやった。
「下の世話もしてあげたよ。彼女は恥ずかしがってたがね」
 と彼は平然と言った。そして彼女を下半身裸にし、弄んだが、彼は肉体的に不能だったので凌辱することはできなかった。
「できればずっとあの生活を続けていたかったんですが。警察の旦那方があの子を探しまわったりしなけりゃ、殺さずに済んだのに」
 デザイーズはそう言って、無念そうに溜息をついた。悔悛の念はその様子からは伺えなかったという。

 誘拐、監禁、殺害で有罪との審判が下り、レオン・デザイーズは終身刑を宣告された。

 


宮崎知子

 1980年3月6日、岐阜県の山林で若い女性の死体が発見された。
 絞殺されており、性的暴行を受けた形跡はない。翌日、家族の証言により、この死体は2月23日より行方不明となっていた富山県の女子高校生であることが確認された。
 27日にはこの家に「娘さんのことで話がある。近くの喫茶店まで出て来てほしい」という電話がかかってきている。
 が、いくら待っても犯人は喫茶店に姿を見せなかった。
 その前日の3月5日、長野県ではひとりのOLが行方不明となっていた。
 翌日、身代金請求の電話があり、女の声で、最初は「3千万円用意しろ」ということだったが、次にかかってきたときには
「私がまけるよう話してあげる。2千万円にしてやるから、午後4時に駅に持ってきなさい」
 と、いかにも主犯の存在を匂わせるような口ぶりであった。
 家族は2千万円をかき集め、駅に向かったが身代金の受け渡しに失敗。その後犯人から1度電話があったものの、それを最後に連絡はぷっつりと途絶えた。
 彼女の死体が聖高原で発見されたのは、それから26日後の、4月2日のことである。

 3月30日、殺害された女子高校生が「アルバイト先」と口にしていた『北陸企画』の共同経営者、宮崎知子と北野宏が逮捕される。
 さらに4月21日にOL誘拐殺人容疑で両名が再逮捕。
 マスコミは、真っ赤な高級車をのりまわし、流行のファッションに身を包んだ派手な知子に注目し、連日報道した。

 宮崎知子は、1946年2月14日に上新川郡月岡村(現在は富山市に編入)で生まれた。
 母親は前夫に先立たれたのち、所帯持ちの男と通じて知子を産んでいる。
 父が彼女を実子と認知したのは13歳のときで、それまでは庶子扱いであった。
 しかし認知するしないに関わらず、父親は知子を溺愛した。反対に、母親は兄2人のみに愛情を注ぎ彼女には見向きもしなかったらしい。

 知子は幼い頃からヒステリー性で、癲癇様の発作をたまに起こし、口から泡を吹いて失神することがあった。性格は内向的で親しい友人もなかったが、成績はつねにトップクラスであったという。また虚言癖はこのころから表れはじめている。
 東京の私立大学を受験し合格するが、学費の工面がつかず進学を断念させられた知子は、地元の保険会社に勤めたあと、上京して化粧品会社に就職した。
 23歳で結婚し、出産。
 しかし1972年に卵巣嚢腫になり、卵巣摘出手術を受ける。その闘病中に夫が浮気し、さらに彼が会社の金を使い込んでいたことが発覚したため、離婚せざるを得なくなった。
 失意のうちに故郷へかえった知子は重ねて腹壁ヘルニアにかかり、再手術を受けることになる。
 その上、退院してすぐ父が死去。知子はたてつづけに起こる不幸に、ほとんど茫然自失となった。
 老母と幼い子供をかかえ、生活保護を受給しながら知子は暮らすようになった。それまでは再婚が目的で通っていた結婚相談所だったが、もはや再婚などどうでもよくなり、紹介された相手に売春まがいの真似をして小遣いを稼ぐようになる。

 知子が電気工の北野宏と出会ったのは1977年のことである。
 知子は31歳。北野は25歳で、まだ新婚8ヶ月目であった。馴染みの売春婦から紹介され、知子を一目見た北野は、彼女の頭の回転の速さと都会的なセンスにまず惹きつけられた。彼は知子の
「父親が大地主の息子で、放蕩はしたけれど、かなりの資産を残してくれた。だからお金には困ったことがないわ」
 という嘘を信じこみ、且つその知性に全幅の信頼を寄せてしまう。
 確かに知子は知能が高かった。知能指数はのちの調べによると138。高知能で支配力高位の人間はどうしても野心的になりやすいが、それが環境や運で頓挫し、さらに異常性格とあいまった場合には犯罪者となる確率がかなり高くなる。知子はこの条件をすべて備えていたと言っていいだろう。
 1978年、ふたりは100万ずつ出資しあって『北陸企画』という会社を興した。
 収入はさほどでもなく、知子は
「こんな小商いじゃしょうがないけど、頭を使えば大金が入るわ」
 というのが口癖だった。

 1979年8月、知子は結婚相談所で紹介された男性に9000万円の保険金をかけ、殺害計画をたてる。
 共犯は顔見知りの喫茶店経営の女性を引きずりこんだ。男に「強精剤よ」と偽ってクロロホルムを嗅がせ、眠らせてから溺死させる腹づもりであったが、彼がいつまでたっても眠らず「頭が痛い」と訴えるだけだったので、仕方なくこの計画は中止になった。

 それから半年、知子は新たに結婚相談所で知り合った男から金を借りたり、北野の印鑑証明でサラ金から融資を受けたりなどして食いつないだ。
 しかしそのかたわら、当時の最高級車であるフェアレディZを無理に購入もしている。そのときの知子の台詞は
「私のようなエレガントな女には、このくらいのグレードの車でなくては」
 というものだった。

 1980年2月23日、知子は富山駅で女子高校生に「アルバイトを探している」と声をかけ、車に連れ込んだ。
 これが、のちに死体となって発見されることになる少女である。彼女は翌日、家に「アルバイトに誘われた」と電話したのを最後に行方がわからなくなった。
 のちの供述によると、25日の深夜に彼女は絞め殺されている。
 知子は少女の家に身代金要求の電話をするが、2度かけて2度とも両親ではなく祖父が出た。
 その様子があまりに頼りなさそうだったので、「これは、受け渡しはうまくいかないかもしれない」と判断し、以後の連絡をやめてしまう。

 新たなターゲットを探すべく、知子は富山を離れることにした。
 北野に「いい儲け話があるから」と持ちかけて『北陸企画』をたたませ、2人で長野へと向かう。
 3月5日、知子は長野市内のバス停で、OLに「このへんに店を出す予定なので、若い女の子の意見が聞きたい」と声をかけ、食事をともにする。
 その間、腎臓病で具合のよくなかった北野はホテルで待機していた。知子はOLに睡眠薬を飲ませ、車内で絞殺。被害者の財布から金を抜き取ると、死体を遺棄した。
 ホテルに戻った知子は、北野に
「これで美味しいものでも食べなさい」
 と、その中から5千円渡している。
 何も知らぬ北野は言われるがままにその金で肉を食べたが、のちに警察で金の出所を知らされ、ショックを受けたという。
 知子はふたたび身代金要求にうって出るが、計画が杜撰なため、これも失敗。
 結局この一連の事件は、誰に何の益もなく、ふたりの若い女性の命が奪われただけに終わったのだった。

 逮捕後、警察は「女ひとりにできる犯行ではない。主犯は男だ」と判断し、北野を苛烈に尋問。
 知子もその尻馬に乗るようにして「年下の恋人(北野)に捨てられたくない一心で、言いなりになった」と供述したため、北野は追いつめられ、自白調書に判を押させられるはめになった。
 しかしその後の弁護士の助言により、公判開始後は自白は強制されたものだとして容疑を否定している。
 だが、警察をかばうわけではないが、彼らが北野を疑ったとしても無理はないのではなかろうか。先入観があったのは否めないが、自分がホテルで待機している間に女が人殺しをはたらいてきているというのに、まったく気づかなかったというのは不自然だし、本当だとしたら相当間の抜けた男だ――そう思っても仕方ない部分はあるだろう。
 北野はのちの供述で
「彼女を女神のように崇拝していた時期もありました」
 と述べている。知子があえて北野を相棒に選んだのは、彼がくみしやすい、支配力低位の人間であったからだろう。
 支配者側の彼女はそれを敏感に見抜いたのだ。いわば彼らはイアン・ブレイディーとマイラ・ヒンドレーが男女逆転したような関係だった。しかしブレイディーがマイラを軽蔑しきっていたがゆえに犯罪の共犯に引きずりこんだのに対し、同じほど北野を軽蔑しきっていた知子は彼を共犯者にせず、足として使うだけで、犯行はすべて自分ひとりでやった。この差が性格によるものなのか、ジェンダーによるものなのかは不明だ。

 1986年、知子は3たび病に倒れ、子宮筋腫で刑務所内で手術を受けた。
 1988年2月、富山地裁は知子に死刑を宣告。対する北野を無罪とし釈放した。
 知子は控訴するが、1998年、最高裁で死刑が確定となった。


 最後に蛇足ながら、知子が『死刑執行停止連絡協議会』の総会に寄せた文章を一部、引用したい。
「本来、刑罰は、悪いことをした人を、二度と罪を犯さないように矯正するのが目的のものです。死刑という刑罰は、この基本に反します。“矯正の余地のない者のみ死刑”と決められていますが、余地がないと何故判断できますか。矯正の機会を与えないで、何故判りますか。死刑を廃止し、被告を矯正できる事、矯正の余地のない人間なんていない事を、どうか真剣に考えて下さい」
 上記した知子の半生を読んだのち、この一文を見て読み手がなんと受け取るかは、それぞれの自由である。

 


アクセル・ソイヤー

 一見誘拐と思える子供の行方不明事件でも、思いがけない結末を迎えることもある。以下は珍しい例なので紹介したい。

 1987年7月、ミズーリ州のセントラルパークで27歳の失業中の父親、アクセル・ソイヤーが
「うちの息子がいなくなった」
 と騒ぎ出した。
 姿の見えなくなった息子はまだ4歳で、金髪にブルーアイズの可愛い子供だという。
 周囲にいた大人たちも協力し、子供の名を呼んで探し回ったが見つからず、10分後に警察へ通報がなされた。しかし警察の捜索にもかかわらず、4歳の息子は発見されなかったのである。
 ソイヤーの話によると、妻は実家の母親の世話でいま里帰りしており、自分がここ数日、ひとり息子の面倒を男手ひとつで見ていたのだ、という。
 警官が万一の場合を考え、ソイヤー家に向かってみたが、やはり子供は家に帰ってはいなかった。
 家の中は奇妙に寒々しい雰囲気で、洗濯物を入れるバケツの中には汚れたおむつが突っ込んであった。警官は内心、「4歳にもなってまだおむつを付けさせてるのか」と驚いた。
 近所の女が心配げに様子を伺っているのが見えたので、警官は彼女に近寄り、「あの家の子供を知ってるかい」と訊いた。
 女は「あの子は泣き虫の赤ん坊だけど、母親があんなじゃ無理もないわ。いばりちらして、年柄年中怒鳴りっぱなし。子供だけじゃなく旦那にもそうなんだから!」と言った。警官は礼を言って離れ、それを署に報告した。

 捜査本部はソイヤー宅の捜索を決定した。するとソイヤーは激怒した。
 しかし息子がいなくなったことに対する不安と恐怖、狼狽はまったく感じられず、まるで「怒りの芝居」をしているように見えたという。
 そうこうしているうちに彼の妻が駆けつけた。彼女は半狂乱になって警官にくってかかり、
「警察は何をしてるの! 早く私のあの子を見つけてよ!」
 と泣き喚いた。その様子はいかにも我が子を心配する母親そのものであったが、当の父親はその横で、うんうんと頷いているだけであった。
「ソイヤーは妻を怖がってる。怒ったふりをしているのは、何かをごまかすためだ」
 と、警官は確信した。

 ひとりの鑑識課員が、ふと、セントラルパーク内にある美術館の表に、監視カメラが設置されていることを思い出した。
 カメラは公園の遊び場の付近も映している。撮影テープを確認すれば、あの日のソイヤー父子の様子がつぶさにわかるに違いなかった。
 警察は監視カメラの撮影テープを入手した。
 果たして、その日の朝ソイヤーは公園に姿を現したが、彼はどう見てもひとりだった。彼はしばらくベンチに腰をおろしていたが、やがて「子供がいなくなった」という狂言を演じはじめた。
 警察はソイヤー家の家宅捜索の鑑識結果が揃うまで待ち、その間にソイヤーの妻を事情聴取した。
 彼女は夫を「嘘つきの怠け者」と呼び、彼女自身、この行方不明事件について彼の言い分を信じていないことを明らかにした。
 警察は彼女を共犯者のリストからはずした。

 鑑識結果が揃うと、警察はソイヤーを呼び出し、証拠を目の前に突きつけた。
居間にちらばっていた大量の犬の毛。拭いとられてはいたが、あきらかに血痕反応の出た床や家具。血液型は消えた幼い息子のものと一致し、さらにキッチンの流しのふちには人間の脂肪がこびりついていた。家の裏手に置いてあったゴミ袋には、細かく砕いた人骨が入っていた。
 ソイヤーは泣き出した。そして、すべてを白状した。

 彼が目を離したすきに、近所のドーベルマンが家に入り込み、息子に襲いかかっていたのだという。
 息子は4歳になっていたが、今だおむつを付け、哺乳瓶でミルクを飲んでいるような発育不良の子供だったので、ひとたまりもなかったのだ。ソイヤーがやっと犬を追い払ったとき、彼の証言によると
「あの子はずたずただった。顔は裂かれて、目玉がひとつなかった。胸はざっくり割れていた。体は小刻みに痙攣して、うめき声をあげていた」
 という。
 ソイヤーは「これが妻にばれたら、あいつはどんなに怒り狂うだろう。俺はもうおしまいだ」
 と思った、という。
 彼は納戸から斧を取り出してきて、それで瀕死の息子を殴った。まだ痙攣をつづけていたので、何度も何度も斧を叩きつけた。完全に絶命したあとも刃をふるうのをやめず、幼い死体は細切れにされた。
 それから彼は、ドーベルマンをまた家に呼び戻した。
「息子を犬に喰わせたのか?」
 警官は愕然とした。
 ソイヤーは頷き、あらかた犬がきれいにたいらげてしまったので、流せるものはトイレやキッチンに流し、残りはゴミ袋に詰めておいたのだと言った。
 すべてを聞かされた妻は
「あいつを殺してやる」
 と叫び、錯乱状態に陥ったので鎮静剤を投与された。

 アクセル・ソイヤーは懲役35年の刑を宣告された。最低20年間は、仮釈放の見込みはない。

 


ウィリアム・ハーバード・ヒックマン

 1927年12月、LAの富裕な銀行家ペリー・パーカー氏の12歳になる娘、マリオンが誘拐されるという事件が起こった。
 犯人は担任教師に「マリオンの父親が事故にあった」と虚偽の電話をし、迎えの者だと言って彼女を車に乗せ、そのまま連れ去った。
 翌日、パーカー家に身代金を要求する手紙が届いた。
 署名は「FOX」。
 犯人に会合の場所を指示され、パーカー氏は定刻通りにそこへ出向いたが、警察の張り込みに気づいたらしく「FOX」は現れなかった。

 翌日、ふたたび犯人から手紙が届く。「警察に知らせたな。裏切ったらどうなるかわからないのか?」。そしてマリオンの手紙も同封されていた。
「パパ、はやくおうちに帰りたい。パパひとりで来てね。でないと、もう永遠に会えなくなるんだって」。
 その日の夜、犯人は公園で会うことを指定してきた。パーカー氏が待っていると、オープンカーに乗った若い男が現れ、身代金を受け取った。暗くてよく見えなかったが、助手席にはマリオンが座っているようだった。
「娘は、すこし先の角で降ろす」
 ほっとしたパーカー氏がその場所へ急いでみると、なにか塊のようなものが地面に落ちているのが見えた。
 それはマリオンの死体だった。
 むごたらしい有様で、両手足は切り落とされて達磨のような姿にされており、胴体は切り刻まれていた。首には針金が巻きつけてあり、先端は目のまわりに繋がっていて、両瞼が閉まらないよう目を突っ張らせてあった。眼球はとろんと濁り、死んでからかなりの時間が経過していることを物語っている。切断された手足は、近所の公園から発見された。

 手足はタオルに包まれて遺棄されていた。
 タオルに付いていた洗濯屋のマークを見て、警察はその洗濯屋の付近のアパートを重点的に捜索する。
 すると、マリオンの死体が着ていたワイシャツとそっくり同じシャツを着た男が、愛想のいい笑顔で彼らを出迎えた。
 男の名はウィリアム・ハーバード・ヒックマン。
 まだ23歳で、パーカー氏の銀行に勤めていたことがあったが、サイン偽造の罪で起訴され解雇されている。彼はこれをパーカー氏が密告したせいだと思い込んでいた。
 ヒックマンは逃亡したが、やがて逮捕され、「身代金で大学に行くつもりだった」と語った。そして、
「ずっと人間の体を切り刻んでみたいと思ってたんだ。あの子をナイフでばらばらにして、手足から血抜きをして、風呂場で丁寧に洗った。それから映画を観に行ったんだが、陰気な映画だったよ。ラストシーンはあんまり悲しくて、涙が出たな」
 と言った。
 彼はほとんど狂気に近いエゴイストで、自分が有名な犯罪者になったことを知ると、裁判中にはしゃいでしゃべりまくった。
 彼は有罪判決を受け、1928年、絞首刑に処された。
 


 

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