MURDER IN THE FAMILY

――家庭内殺人・または親殺し/子殺し――

 

 夫婦は「一番近い他人」とされ、妻が殺されれば夫が、夫が殺されれば妻が第一容疑者
となるのは世の常である。しかし親子の場合はどうか? そこには夫婦間よりなお濃い
愛憎があってしかるべきではないのか?
 しかし「親を殺す子供」と「子供を殺す親」では大きな違いがある。
現に日本にはつい最近まで尊属殺の重罰規定があったのだ。
 ここではその対比の意味もこめて、子殺し・親殺しをそれぞれ国内外とりまぜて
挙げてみようと思う。どう思われるかは、もちろん読み手の自由だ。

 


 

● 子殺し ●

◆ドニ・ラベ

 ドニは29歳のフランス人の秘書であった。彼女の恋人は、娘が産まれた直後に彼女を捨てたようだ。だがドニは娘のカトリーヌを愛していた。
 あるダンスパーティで、ドニは士官候補生のジャック・アルジャロンに一目ぼれする。4つ年下のアルジャロンは、当時の知識階級の若者がたいていそうであったように彼もニーチェの賛美者だった。(「
同性愛殺人者」のレオポルドとレーブを参照)
 この時代のニーチェかぶれというのは大部分が「超人思想」を真に受けており、我こそは超人と思い込んでしまうのが常だった。しかもアルジャロンは美男で並外れた頭脳と、性的魅力を持ちあわせており、しかもあきらかに支配力高位の人間だった。
 アルジャロンは「超人思想」をさらに勝手に解釈し、「超夫婦」なるものをつくりあげようとした。世俗的な価値や常識など超越した存在「超夫婦」には、夫に完全に隷属する妻が必要だと彼は考えた。さいわいドニは彼にぞっこんだったので、彼は彼女をこの候補者に据えた。

 アルジャロンはある日、ドニにこう言った。
「ほんとうの「超夫婦」になるためには、お互いのためならどんな犠牲もはらわなくてはならない。……ぼくの理論に対する絶対服従のあかしとして、カトリーヌを殺せるかい?」
 ドニはもちろんよ、と答えた。
 しかし彼女は本来そんなことのできる女ではなかった。迷ったあげく2歳の娘を運河に投げこんだりもしたが、結局人を呼んで救ってもらっている。アルジャロンはそんな彼女に苛立ち、娘を殺せないのなら僕たちの仲は終わりだ、と脅した。
 3度殺害計画に失敗したのち、4度目にようやくドニは娘を「殺すことができた」。しかしこれを恋人に報告すると、彼は「ぼくにはどうでもいいことだ」と言った。
 しかしこの死を疑った乳母の通報で、ドニは逮捕された。ドニは愛人に殺人を示唆されたことを供述したが、アルジャロンは「この女は、頭が変です」と証言した。
 ドニは罪を認めたが、アルジャロンは徹底してシラを切りつづけた。しかし判決はドニが終身刑、アルジャロンは重労働20年の刑だった。
 しかしそれでもまだドニはアルジャロンに未練があったらしく、被告席を去るとき、媚びを含んで彼の足もとに手袋を落とした。

 


◆ステュナム・シン・サンドゥー

 サンドゥーは39歳のインド人で、故郷では校長をつとめたこともあるインテリだった。彼は教養もあり人望も厚かったが、子供たちの将来のことを考え、インドを離れてロンドンに移り住んだ。
 だが彼にとって不運なことに、彼の秘蔵っ子である長女のサラは、インドを離れる前から身分の低い既婚者の従兄弟と恋仲だった。サラは父の言いつけどおりイースト・ハム大学の医学部に入学したが、ひそかに恋人とは連絡をとりつづけていた。
 サンドゥーにとって、それは裏切り以外のなにものでもなかった。彼は暴力をふるってでも娘と恋人の仲を引き裂こうとしたが、サラは家出をしてしまった。しかしその後まもなく、彼女は自分が妊娠していることを知る。もう胎児は6ヶ月で、あともどりはできなかった。サラは両親にすべてを打ち明け、家に戻った。

 凶行の朝、家にはサンドゥーとサラしかいなかった。妻と娘2人は間の悪いことに外出していた。
 ふたりは激しく言い争った。サラは自分の部屋に駆けあがると、睡眠薬を大量に飲んで「お父さんが結婚させてくれないから死ぬ、って遺書に書いたからね」と言った。
 サンドゥーは逆上した。石炭を砕く金槌をつかむと、それで娘の頭を数回殴りつけた。サラはぐったりして、動かなくなった。
 それからサンドゥーは近所の店まで歩いていって糸ノコを購入し、家にとって帰った。彼は部屋に血が飛び散らないよう、娘の体をポリ袋で包んでから、解体をはじめた。
 ノコで首を切断している最中、サラは一瞬息をふきかえし、刃を手でつかんだが(そのせいで親指が切断された)、父は委細かまわず実娘の首を切り落とした。ついで、胴体と足も切り離した。
 死体はあちこちに遺棄されたが、それぞれすぐに発見され、死体の身元が判明するとほぼ同時に犯人が父親であることもわかった。
 公判でサンドゥーは「かっとなって」やったと言い張ったが、これにはすこし疑わしい点が多々ある。彼は犯行当日、休暇をとっていた。娘が自分で飲んだはずの睡眠薬は、彼女が医者から処方されたことのないものであり、サンドゥーの勤務する化学会社で入手できる薬だった。また、ポリ袋も同様である。
 これは衝動的な犯行だったのか、計画的犯行だったのか? 娘はほんとうに自ら睡眠薬を飲んだのか?

 ともかく、サンドゥーはたった90分で陪審に有罪をくだされ、終身刑となった。

 


◆ヴェルナー・シュヴィント

 シュヴィントは妻との離婚後、ほとんど子供たちとは会わなかった。彼はおよそ家庭向きの男ではなかったのだ。
 だがある日、彼は突然に娘の勤務先に姿を現した。十数年ぶりの再会に娘は喜び、ドライブの誘いにもこころよく応じた。だが彼は娘を襲ってレイプしたのち(検死の結果、彼女は処女だった)、絞殺した。強姦も殺害も、すべてが事前に計画されたものだった。
 2週間後、彼は公園のベンチで致死量の睡眠薬を飲み、自殺をはかったが、発見されて助かった。
 彼は終身刑を宣告された。

 


◆開成高校生殺人事件

 長男でひとりっ子の少年Aは両親と祖母に甘やかされて育ち、幼稚園になってもボタンを自分でとめられなかったし、運動は苦手で、天気の悪い日には母親にしばしば車で送り迎えをされて学校に通った。
 しかし成績はいつも学年を通してトップであった。これについては母親は、
「わたしもずっと一番でしたから」
 と、当然のことのように語っているが、ともかく「勉強ができること」がこの家庭と、A少年の唯一のモノサシであったのはたしかなようだ。少年はあたりまえのように、名門開成中学へ、同高校へと進学する。
 中学時代のAの成績は上位であったが、高校になるとずるずると落ちだして、クラス50人中、40番という有様になった。少年が恐慌状態に陥ったのは、おもにこの頃からであると見られている。

 最初は母親や祖母に対して乱暴な態度をとったり、口ごたえをする程度だった。だがある日「勉強したら?」という何気ないつもりの(母親にしてみれば)言葉に激昂した彼は、「殺してやる」と言いながら母親を家中追いまわした。そしてこの日以来、タブーの糸は切れた。
 飲食店経営の父親は夜遅く帰ることが多かったため、被害はおもに母親と祖母に集中した。(祖父はすでに他界していた)
 洗面器で10杯ほどの水を頭からかけてぐしょ濡れにしたり、寝ているときに布団をはいで外へ放り投げ、部屋中を水びたしにして眠れなくしたり、毎日の殴打、食事をひっくりかえす、ものに火をつけて戸外へ投げるなども日常茶飯事となった。襖や障子、ガラスのたぐいはすべて割られた。
 またこの頃になると「醜形恐怖」の症状もAはみせており、
「鼻が低いから外を歩けない。整形手術したい」などとも言い出している。このことについてはよほどこだわっていたようで、事あるごとに両親に
「おまえらみたいなのがくっついて結婚したから俺みたいな鼻の低い子供が生まれたんだ」とぶつぶつ言い、気分が激してくると
「おまえら夫婦は教養も社会的地位もないクズだ。そんなやつらが一人前の顔して俺に説教するな。低脳夫婦」などとののしった。
 手あたり次第にものを投げつけ、怒鳴りちらし、かと思えば1日中泣きじゃくっていたりした。

 両親は彼を精神病院へ連れていった。病院では彼に「電気ショック療法」をおこなった。(これは現在ではほとんどおこなわれていない療法である) 初回には一時期赤ん坊のようにおとなしくなったが、効き目がきれると以前以上に凶暴になったようだったので、両親は何度も「電気ショック」を医師にお願いしてやってもらった。また、多量の精神安定剤、睡眠薬の投与、自宅での注射も許可されていた。
 暴力はエスカレートする一方で、生命の危機を感じた家族は一時アパートを借りて避難したりもした。
 Aは「俺の人生はもうおしまいだ。どうしてくれる。俺は夏休みもなしに勉強してきたんだ。なのに人生は破滅しちまった。俺の青春をかえせ、元の体をかえせ」とわめき、泣いた。
 事件の数日前には父親に包丁で切りかかり、重い皿で頭部を殴って怪我をさせたため、パトカーを呼んで精神病院へ収容しなければならなかった。
 Aは鍵についた独房に2日間入れられたが、母親がかわいそうだと言うので医師に頼んですぐに退院させてもらった。しかし戻ればまた暴力の日々だった。
 両親は「話しあおう」と言ったが、彼は、
「もう遅い。俺は薬漬けの半病人だ。もとの体に戻せ、青春を返せ、人生を返せ、全部おまえらのせいだ」
 と殴りかかってきた。
 暴れるだけ暴れると、Aは睡眠薬を飲んで寝てしまった。その夜、下帯を手にした父親は息子の枕元に正座してその寝顔を見つめた。こどもの頃はすべてがうまくいっていた。「また一番だよ」と満点の答案を持って家に駆け込んできたものだった。しかしそんな思い出は、すぐに現在の恐怖によって打ち消された。
 彼は帯を息子の首にまわし、無我夢中で絞めあげた。
 そのあと妻と相談の上、自殺を決意して浜名湖へ行くが死にきれず、自首した。

 世間の同情は両親に集まった。情状酌量の余地ありとして、裁判官も懲役3年、執行猶予4年という温情的な判決をくだした。が、それを聞いたのは父親ひとりだった。母親はすでに自責の念に耐えきれず、自殺していた。

 


◆徳田寛・ハマ

 事件の起きる数日前、その居間では親子が無邪気な遊びに興じていた。次男が発案したもので、そろえた両手に手ぬぐいを巻きつけ、間に結び目を作っておいて、これを口を使って解く、というものである。それだけを見るならば、まことに他愛ない遊びだった。

「すぐ来て下さい、兄が強盗に殺されました」
 数日後の深夜、そう言って寝巻き姿の姉弟が警察に飛び込んできた。巡査があわてて駆けつけると、犯人はすでに逃走しており、長男が刃物で滅多突きにされて息たえていた。
 母親のハマに事情聴取したところ、
「午前2時ごろ、30くらいの男が押し入ってきて、わたしに包丁を突きつけ、金を出せと脅したんです。60円ほど出して渡しますとそれをひったくって逃走しようとしましたが、騒ぎを聞きつけて降りてきた長男と賊がもみあいになりまして、男は息子を刺して逃げたのです」
 とのことだった。
 父親の寛は樺太で医院を経営しており、事件当夜もこの家にはいなかった。
 犯人の手がかりはつかめず、捜査は遅々としてすすまなかった。その間に、徳田一家には多額の保険金がおりていた。
 一方警察は外部犯行説から、内部犯行説にかたむきはじめていた。強盗ならば一突きしてすぐに逃走するものだが、これほど滅多突きにするのはありえない。それに侵入経路も不明だ。さらに父親の寛の女癖が悪く周囲の信用がないこと、医院の経営がいきづまっていたことなどから、保険金殺人の疑いが濃厚になってきた。
 最初に自白したのは長女だった。
「兄さんは学校にも行かず遊んでばかりで、かたっぱしからなんでも質に入れて、わたしたちは着替えにもこと欠く有様でした。父さんも女癖が悪くって、お医者の仕事もうまくいってなかったし――それにいつもあんな出来の悪いのができたのは、生まれの悪いおまえのせいだってお母さんをいつも責めてました。お父さんが兄さんを殺そうとしたのは、これが初めてじゃありません」
 事実、長男の殺害計画は6回にもわたって実行されていた。蒼鉛剤を「梅毒の治療」と称して注射したりモルヒネを打ったり、亜砒酸入りのコロッケを食べさせようとしたこともあった。
 凶行の夜、ハマは入念に包丁を研いで長男の帰りを待った。
 そしてまず父親の女関係についての相談から切り出し、ふと思い出したように、
「そういえば面白い遊びがあるんだよ。やってごらんな」
 と言って、例の手ぬぐい遊びをもちかけた。「こうかい?」と言いながら息子が口で結び目を解きはじめたのを見はからい、ハマは出刃包丁で力まかせにその肩口を刺した。
 長男は叫びながら倒れ、「ぼくが悪かった。真面目になるから許して」
 と泣きべそをかきながら廊下を這いずって逃げようとしたが、母親は息子をところ構わず刺した。声をあげようとする口は、長女がふさいだ。
 寛は事件後、帰京したが平然としたものだった。子供の不出来を自分の責任と感じていたハマが
「喜んでください、わたしがやりました」
 と畳に頭をつき、泣きながら報告するのを見ても、なんの反応も見せなかった。

 寛は主犯であることを否認しつづけたが、ハマと長女は全面的に罪を認めた。
 判決は寛が無期懲役、ハマが15年、長女が4年であった。

 


◆巣鴨子供置き去り事件

 1988年に起こった事件である。
 ことの起こりはここから15年前、ある男女が同棲したところから始まった。女は男が役所に婚姻届を出したと思い込んでおり、自分たちは夫婦だと認識していたが、実はそうではなかったのである。
 子供が生まれ、出生届の提出をまた男に頼むが、このときも彼は「出した」と口では言ったものの、役所には足も踏み入れていなかった。
 ある時期までは男がきちんと給料をもらってきていたので生活に破綻はなかったが、彼がほかに女を作り、会社の金を使い込んだうえ蒸発してしまってからはすべてが一変することとなる。

 ほぼ同時期、長男は小学校へあがる年であった。が、いつまでたっても就学通知がこない。
 おかしいな、と思いつつ母親が手をこまねいているうちに入学時期は過ぎてしまった。ようやく母親が重い腰をあげて役場へいってみると、そこでやっと事実があきらかになり、彼女は愕然とする。自分はまだ未婚なばかりか、家にいる子供は戸籍のない「幽霊児」なのであった。
 本来なら彼女はここで福祉事務所なり児童相談所なり、どこかの窓口を訪れるべきであったろう。しかし彼女の念頭にそんなことは思い浮かばなかったし、アドバイスしてくれる人もなかった。彼女は以後、すべてを嘘で固めて生きていくことになる。
 事件発覚後、彼女が周囲についていた嘘もいっしょに暴かれたが、それは悲しいと言ってもいいものばかりである。いわく、
「わたしは慶応大学を出て、いまは三越の外商部に勤務しています」。
「亡くなった夫は外交官でした」。
「息子は立教中学に通っています」等々……。
 そして、マンションへ入居の際には「これ、うちの職場で扱っているものですけど」と言って、三越の品物を隣近所に配り歩いたりもしていたという。
 その後も彼女は何人かの男性と知り合い、妊娠しては自宅出産するということを繰り返した。出生届は一度も出していない。
 結果的に彼女が産んだ子供は5人。そのうち次男は病死したが、なにしろ戸籍がないので埋葬届も得られないし、第一「生まれてもいない」とされているものをどうやって「死んだ」と届ければいいのか。――結局このときも、彼女はすべてが明らかになるのを怖れて、隠匿に精を出すことになる。
 彼女は次男の死体をビニールでくるみ、消臭剤を詰めて押入れに隠した。
 長男はそんな母親をみて育ち、下の子たちの面倒をみながら大きくなっていく。母親は長男を「とてもしっかりした子」と思い、下の子の世話を全面的に任せ、自分はデパートの売り子をして給与をもらい、子供たちを食べさせていた。

 しかしまた生活を一変させる出来事が起こる。
 1988年1月、母親に新しい男ができた。それだけなら過去何度も起きていたことだが今回は大きく違った点があった。彼女はその男と同棲するため、子供たちをマンションに置き去りにしたまま、出ていってしまうのである。
 彼女は家を出る際、長男に
「妹たちのことをお願いね。おかあさん、たまに様子みにくるから。お金は書留で送るわ」と言っている。
 当時、長男は14歳。妹3人はまだ7歳、3歳、2歳であった。

 

 母親が毎月仕送りしていた額は7〜8万だったという。あとはたまに電話をしたり、駅のマクドナルドなどに長男を呼び出して「家の様子はどう?」と訊く程度で、いつも子供たちの住むマンションには寄ることなく、彼女は男と住む家へ帰っていた。こうして子供たちだけの閉鎖された環境ができあがっていった。
 学校にも通わず、存在を秘匿された人間だとはいえ、長男は妹たちのために買い物にも行かなくてはならないし、家に閉じこもっているわけにもいかない。あたりをふらふらしているうち、彼にふたりの友達ができることとなる。
 ひとりはAといって、家庭が複雑なこともあり学校にもほとんど通っておらず、のちにはこの家に居候同然のかたちで住みついていた。もうひとりのBは家庭もあり、学校にも通っていたが攻撃性が高く、学校帰りにはほとんどこの家に寄り付いていたという。
 いかに長男が歳のわりにしっかりしていたとはいえ、しょせんは14歳である。幼い妹たちに食べさせるものは菓子かカップラーメンか、冷凍食品。家の中は汚れてくるし、下の妹ふたりはまだオムツをあてているが、マメに換えてやっていたのは最初のうちだけで、金が乏しくなってくれば新品も買えない。2ヶ月もたつと、1日1回換えればいい方、という有様になっていた。
 妹たちは発育盛りにちゃんとしたものを食べていないから、栄養不良で動作は緩慢だし、臭いし、しょっちゅうむずかる。
 長男はたしかに妹たち思いの子ではあったのだが、そういった毎日がつづくうち、だんだん「面倒くさい」「うとましい」という思いが先に立って、家に居ついた友達ふたりを優先させることが多くなってきていた。そんな中、事件は起こった。

 4月21日。Bが買い置きしておいたカップラーメンがなくなっており、空腹になった妹のうち誰かが食べたのだろうということになった。Bが問いつめると、どうやら三女が食べたらしい。怒ったBはまだ2歳の三女を殴って折檻した。この折檻には、長男とAも加わったようだ。
 ひとしきりそれが収まると、今度は三女がお漏らししたらしいことがわかった。Bがまた折檻すると言い出し、今度は長男とAは「勝手にやれば」と言って、隣の部屋でTVを見ることにした。
 Bは押し入れの上の段から三女を何度も落とし、何度もやっているうちに面白くなって、頭から落としたり、わざと落ちてくるところに足を出して腹を蹴りあげたりしはじめた。三女はボールのように蹴りまくられ、ぎゃあぎゃあ泣きわめく。その声が面白くてまた蹴る、の繰り返しで、行為はだんだんエスカレートしていった。
 ふっと長男が気づくと、隣室が静かになっている。覗いてみると三女がぐったりしてBの足元に倒れていた。
「大変だ――これ、死んじゃうかも」
 救急車、それともお母さんに電話、といろいろ考えるけれど、救急車を呼べばすべてが発覚してしまうし、お母さんに電話しても怒られるだろうし、結局どうすればいいかもわからないまま、見よう見真似の人工呼吸を施したり、布団をかけて体をあたためるなどした。それを後目にBは「7時だし、家に帰らなきゃ」と言ってさっさと退散してしまった。
 翌朝、長男が目ざめてみると三女はもう冷たくなっていた。
 死んだあとの処置はといえば、母親が次男が死んだときにやっていたことを真似るしかない。ビニール袋に死体を入れ、消臭剤を入れて押し入れにしまいこんだ。しかし消臭剤の量が足りなかったのか、たちまち臭くなり、ここに置いてはおけない、ということになった。
 26日、長男とAは三女の死体をボストンバッグに詰め、電車で秩父市の公園に行った(このときもBは責任のがれをして、ついてこなかった)。秩父を選んだのは昔Aが遠足に来たことがあるからと、長男が「妹に山を見せてやりたいから」という理由だった。ふたりは駐車場脇の雑木林に死体を捨て、上を木の葉や枝で覆った。

 

 7月に入って、「どうもあそこは子供たちだけで暮らしてるようだ」と大家が警察に通報。警察から福祉事務所に連絡がいき、相談員が訪問すると、子供が3人遺棄されているのが発見された。とくに長女と次女は栄養失調で衰弱がひどく、ただちに保護された。なおAとBはこのとき、この家にはいなかった。
 警察の家宅捜査の結果、次男の死体が押入れから発見される。事件はまたたく間にマスコミにも広がり、TVや新聞での報道がされる一方、母親への「どこにいるのか」という呼びかけが起こった。
 報道をみた母親は「これはひょっとして、私のこと?」と思い、警察に出頭。子供たちに引き合わされ、そこで初めて
「三女がいない。子供がひとり足りない」
 ということがわかった。
 まず母親が保護者遺棄、致傷で起訴。
 次女は全治1ヵ月半という重度の栄養失調だったため、さらに致傷罪が追加され、懲役3年執行猶予4年の判決がおりた。
 長男は三女に対する傷害致死、死体遺棄で起訴。しかし事情聴取するうち、A・B(とくにB)の関与が大きいことがわかり、長男には同情する余地が大きいとして、A・Bふたりは救護院送致(のちにBのみ保護観察で済んだ。この差は裁判官の認識の差とみられる)、長男は養護施設に送られ、そこから学校に通うことになった。
 長女・次女も保護センターから養護施設に送られるものの、この2人はのちに母親に引き取られている。長男がどうなったかは、資料不足のため、筆者にはわからないのが残念である。

 


 

 

● 親殺し ●

◆マーリーン・オリーヴ

 1975年の夏、マーリーンは恋人でもあり、彼女の崇拝者でもあるチャック・ライリーに両親殺しを依頼した。彼は一も二もなくこれに従った。マーリーンが日頃から「あのクソババアを殺したい」と公言していたのは、誰もが知っていたことだった。
 以下はチャックの証言をそのまま記す。

「オリーヴさんは俺たちの付き合いを禁止したがってたから、家に入っても見つかるのがすっごく怖くて、びくびくものだった。マーリーンは俺のためにハンマーを置いてってくれました。銃も持ってたし。で、部屋のドアをあけたら――オリーヴ夫人が寝てました。俺はその頭に何回もハンマーを振りおろして、最後の1発は頭蓋骨にめり込んじゃいました。
 ハンマーを抜くには彼女の頭を押さえつけなくちゃいけなくて、すごい力がいりました。全然抜けなくって、ハンマーのほうが壊れそうだった。血だらけ。すごい血。そこらじゅう血だらけ。ハンマーが抜けたら血が噴き出した。どばーっと。火事みたいに。いっぱい手にかかって、たまんなくって熱くって、手を何度も振った。払い落としたくって。ああ、たまんない。そんときあのひとのドレスの裾が目に入ったんで、手をそこで拭きました。……まだ死んでなかった。ぜんぜん死んでないんだ。おねがいです。神さま。この人を死なせてあげてください。こんなのって見たくない。ひどすぎる。あんまりだ」

 彼はオリーヴ夫人(名はナオミ)の胸をナイフで刺したが、それでも死ななかった。枕で窒息死させようとしていたとき、オリーヴ父娘が入ってきた。
 オリーヴは最初、父を殺すつもりはなかった。だから「入らないで」と彼に言ったが、笑い飛ばされた。しかし彼は家に入ってすぐ妻の死体を見つけた。チャックはほとんどパニック状態で彼に向かって全弾撃ちつくした。
 彼が呆然と立っていると、マーリーンが入ってきた。
「すっかり片がついたわ、チャック。万事OKよ。心配いらないわ、全部済んだんだから」。

 2人はその場で愛を交わした。それから中華料理を食べに行き、戻ってから死体を車に運びこみ、森の中の空き地で、すっかり灰になってしまうまで両親を燃やした。

 2人の失踪はすぐに知れ、マーリーンは事情聴取を受けた。あまりにもつじつまの合わない話に、捜査員はすぐに彼女に容疑を絞った。マーリーンはくるくると供述を変えたが、最後にはこう言った。
「わたしはあのひとたちに悪いことをしたなんて思ってないわ、ぜんぜんよ」。

 まず、マーリーンの養母であるナオミの話をしよう。
 ナオミの実母は精神病院で半生を過ごした。彼女は精神病が遺伝すると信じており、なぜか養女のマーリーンにもその疑いを抱いて、なにかと言えばいらいらと罰を与えた。
 ナオミはアル中で、妄想性の分裂症人格という診断を心理医師からも受けていたが、彼女は治療を拒んだ。また、もめごとが嫌いで見栄っぱりな夫も、かかわりを避けて同意した。
 そんな母親のもとで、マーリーンの人格も歪んでいった。緊張症、精神性の潰瘍、喘息――、それをやわらげるため、医師は鎮静剤を投与したが、彼女はすぐにその中毒になった。一方ナオミの病状は悪化し、複数の声色を使って、4〜5人が言い争いをしているかのようにしゃべりまくるようになった。が、父親は仕事を理由に、そんな家庭から逃げつづけた。

 ナオミはマーリーンを養女に迎えたとき、すでに病的だった。彼女は自然な愛情表現のやりかたを知らず、ただ娘をそばに置いておき、独占して閉じこもった。
 知り合いの家のディナー・パーティに招待されたときも、彼女はマーリーンと一緒にその家の寝室に閉じこもって出てこなかった。夫が料理を持った皿を持っていくと、しばらくして2人は口論になり、ナオミは皿を夫に投げつけた。招待した夫妻は壁に飛び散った料理の残骸を、ひと晩かかってこすり落とさなければならなかった。

 マーリーンが十代になる頃には、もう母娘の仲は破綻しきっていた。マーリーンが「このきちがいババア、あんたなんか拘束衣を着せられていつか病院行きよ」と叫べば、ナオミが「淫売の娘のくせに!」と怒鳴りかえすといったふうに。
 マーリーンがはじめて「わたしのほんとうのお母さんてどんな人?」と訊ねたときも、ナオミは「きっと汚らわしい淫売よ」と答えたのだった。ナオミはマーリーンを拘束するか無視するかの両極端で、正常な愛しかたは彼女には不可能だったのだ。
 娘が部屋の掃除をしなかったという、ただそれだけのことでナオミは
「おまえはやっぱり淫売の子だね」と言い、マーリーンは、
「きちがいの豚」と言い返した。
 それからとっくみあいの喧嘩になり、ナイフや鈍器が投げつけられあった。だが父親は「ふたりとも、おおげさすぎるよ」と言って、これをほとんど無視した。
 ナオミはことあるごとにマーリーンの母を売春婦であると決めつけた。
「おまえの母親はどっかのいかがわしい女で、おまえの面倒も見られずに放り出したんだ」
「それでもあんたよりはマシよ。飲んだくれの豚!」
「マシかどうか探してみればわかるわ、どうせ安っぽい売女でしょうよ」
「あたしの母親をそれ以上悪く言ったら殺してやる!」
 しかし度かさなるこの攻撃に、マーリーンも実母はほんとうに売春婦で、自分もいつかそうなるのではという恐れを抱いていた。ナオミはそれを知ってか、些細なことでもあげつらい、彼女の出生について嘲笑った。
 マーリーンをののしっていないときは、彼女は部屋に引きこもって浴びるほど酒を飲み、「複数の声」でしゃべりまくった。
 マーリーンは父親に泣きついた。すると彼は「母さんが神経質なことはわかってるだろ。波風をたてるのはやめろ」と言った。
 彼女は両親ともに見捨てられた、と確信した。殺意がはっきりと形をとったのはこのときである。

 マーリーンは未成年だったため、実刑をまぬがれた。だが彼女に残された道は、ほんとうに売春婦になることだけだった。
 一方、実行犯のチャックは終身刑となった。仮釈放は、早くても45歳のときとなるだろう。

 


◆ジェレミー・バンバー

 これは一般には、遺産目当ての甘やかされた若僧が起こした一家皆殺し事件であると思われている。だがここにはあきらかに彼の、両親に対する憎悪が見てとれる。彼にとって遺産など二の次だった。彼は養父母を「殺したかった」から殺したのだ。

 バンバー家の長男、ジェレミーの通報で警察が駆けつけたとき、ホワイト・ハウス・ファームのバンバー一家はすでに血の海にひたって沈黙していた。
 家の主であるネビルには激しい殴打のあとがあり、頭部を中心に8発の弾丸を食らっていた。また長女の双子の息子(当時6歳)は口に親指をくわえたまま、寝室でそれぞれ5発と3発の弾を浴びて絶命していた。さらにすすんでいくと主寝室で、ネビルの妻のジューンがかたわらに聖書を放り出したまま、蜂の巣になって転がっていた。1発は眉間を完全に撃ちぬいていた。
 最後に、ジェレミーの義姉のシーラが倒れていた。マガジンが空になったライフルを抱えており、家族を殺してまわったのち、自分の顎から脳を吹っ飛ばしたものと考えられた。

 バンバー夫妻は「地元を支える柱のような存在でした」と近隣の人間に証言された。
 夫のネビルは治安判事で、妻のジューンは敬虔なカトリック信者で、慰問や奉仕活動に熱心なことで知られていた。ただひとりシーラだけが浮き上がっていたようだ、とみなは証言した。
 シーラは美貌だった。実際ファッションモデルとしてデビューしていたし、「バンビ」というニックネームが浸透するほどに、そこそこの仕事をこなしていた。もしかして精神を病んでさえいなければ、トップモデルになることも夢ではなかったろう。しかし彼女はあきらかに重度の精神異常だった。

 だが捜査がすすむにつれ、疑惑の矛先はジェレミーに向かうことになる。彼があまり悲しんでいる様子のないこと。生前のバンビが銃の扱いなどほとんど知らなかったこと。そして何より決定的だったのは、凶器となったライフルの長さだった。これにサイレンサーを装着した場合、銃口を顎に押し当てた状態で自らひきがねを引くには、腕の長さがすくなくとも90センチ以上なければならない。
 良心の呵責と、ジェレミーの浮気が発覚したことによって、彼のガールフレンドであるジュリーがついに警察で証言した。真犯人は、ジェレミー・バンバーに他ならない、と。

 ジェレミーは公判中、なんの良心の痛みも後悔も感じていないことを態度で示した。あきらかに彼は情性欠如性の異常性格者だった。
 ここでひとつ疑問がある。ジェレミーもシーラも、バンバー夫妻の実子ではなく、ふたりに血のつながりはない。それぞれの親は事情があって子供を里子に出したようではあるが、そこに何らの精神病や、犯罪素因はなかった。ならばなぜ、子供たちはひとりが重度の精神病、残るひとりは性格異常者にならなければならなかったのか?

 バンバー家が厳格で、敬虔で、勤勉であったということしかもはや情報はない。家庭内の真実を語る者はもう一人もいないからだ。おそらくふたりは虐待されて育ったわけではないだろう――ただし、そこにすさまじい抑圧と束縛があったふしだけは見てとれる。シーラが「世の中のほとんどは悪魔で、自分は白い魔女だ」などという支離滅裂な宗教的妄想にとらわれたのも、もとはといえば義母ジューンの、やや狂信的とも言える宗教心に反発したものであったろう(事実、ティーンエイジャーになって異性に興味を示しはじめたシーラを、ジューンは「悪魔の子」と責めたてたりしていたらしい)。
 またジェレミーは義母を嫌っていることをほとんど隠さず、ガールフレンドのジュリーの母親をひどく慕って「ママ、ママ」と呼んで甘えていたという。

 ジェレミー・バンバーはたしかに金も欲しかったのかもしれない。だが主な動機はやはり憎悪と、抑圧の完全なる撤去だったはずだ。
 彼は5回の終身刑を言い渡された。

 最後に、余談としてオカルティックな話を付け加えよう。
 この一家惨殺が起こった風光明媚なホワイト・ハウス・ファームの、以前のオーナーは馬用の水槽で溺死するという不可解な死にかたをしている。また、その前のオーナーは首吊り自殺したが、その死にも「不審な点」があったという。……もちろんこれは、ただの蛇足だ。


◆マイルズ・ジファード

 1953年の冬、家政婦は雇い主の家のガレージが血だらけになっているのを発見して、びっくりして警察を呼んだ。ガレージには車はなく、息子のマイルズがどこかパーティにでも乗っていったのだろうと家政婦は言った。実際、それはいつものことだったからだ。
 捜査官が血痕をたどっていくと、雑木林を通りすぎた断崖の下に、ジファード家の主人であるチャールズ・ジファードが岩にひっかかっているのが発見された。夫人の姿は見えなかったが、数時間後、満潮となって岸に打ちあげられてきた。断崖のそばには手押し車が無造作に置きっぱなしになっていた。
 検死の結果、夫妻は鉄棒のようなもので殴打された挙句、手押し車でここまで運ばれ、上から投げ捨てられ
たものと判明した。とくに夫人は、投げ落とされたときにはまだ生きていた。彼女は岩に激突して、死んだのである。

 犯行が息子のマイルズによるものであることは明らかだった。また、彼はそれを隠そうとすらしていなかった。マイルズには子供のときから虚言癖があり、盗癖があり、夜尿症があった。
 父親のチャールズ・ジファードは土地裁判所の事務官という堅い職業についていたが、神経衰弱気味の不安定な人格で、しつけに一貫性がなかった。気分によって放任だったり、厳格だったりとくるくると態度を変えた。だがたいていの場合においては尊大で支配的だったので、近隣の人間にも嫌われていた。

 マイルズはどのパブリック・スクールでも虚言や奇行で問題を起こしたが、意外なことに軍隊に入った途端彼の性格は好転した。そこではなにも考えなくてよかった――規律にさえ従っていればよかったからだ。そしてその規律とは決まりきったものであり、父の命令のようにいつなんどき変わるかわからないようなものではなかった。彼はただ命令どおりに動いてさえいれば良く、それ以外のことはなにもしなくてよかった。
 マイルズにとって、それは初めておとずれた「楽な生活」だった。

 だが兵役を終えた途端、彼はまた元の木阿弥になった。大酒を飲み、父と喧嘩し、金を盗んだ。
 彼はこのころはもう完全な精神分裂病であり、「鏡をみても、自分が映っていない」などという妄想を抱くようになっていた。だが、入院にはまだ至っていなかった。父がまだ、彼を支配化においていたからである。

 凶行の日、彼はガレージで車のエンジンの調子をみている父に近寄り、鉄パイプで頭を殴った。それから台所へ行き、そこにいた母も同じように殴った。
 ガレージに戻ってみると父親は意識をとりもどしかけていたので、さらに数回、頭蓋骨が砕けるまで殴った。彼はそれから父のポケットをさぐって金目のものを取り出し、ふたりを手押し車に乗せて、断崖から投げ落とした。
 そして母親の部屋の宝石箱からありったけの貴金属を奪って、適当な店で、適当な値で売り払った。彼はガールフレンドに会いに行き、父母の血痕のついたネクタイを締めたまま、彼女に愛をささやき、両親を殺害したことを告げた。が、彼女は冗談だと思ってとりあわなかった。
 ふたりがタクシーで戻ると、もう警官が待ち受けていた。マイルズはおとなしく逮捕された。

 彼は精神異常を認められず、死刑宣告を受けた。

 チャールズ・ジファードは生前、精神科医にこう告げられている。
「あなたの息子さんの正気は、永久に失われようとしている」 ――と。
 しかし彼は息子を入院させず、自分の手元に……支配下に置いておいた。それは彼の犯した過ちの最大のものではあったが、唯一のものではなかった。その証拠が彼の息子と、ジファード自身の最期である。

 


◆トンプソン姉妹

 1988年、イギリスのランカシャー州で、57歳のトミー・トンプソンは癲癇発作の最中、実の娘ふたりの手によって射殺された。姉妹は彼の胸に銃口を押しあて、一発ずつ撃った。

 極貧の中で育ったという父親のトミーは、40年近くにわたって家族内の「絶対権力者」であり続けた。彼は肉体的、精神的、性的に妻とふたりの娘を虐待し、3人を完全に膝下に置くことに成功していた。(このような状況下にある人間に「なぜ逃げなかったのか?」と訊くのは無意味である。電気を流されつづけた実験用マウスが最後には諦めきって無抵抗になるのと同様、人間も恐怖と苦痛を叩きこまれれば、逃走
をはかる意志も気力もなくなるのが当然だ)
 彼女たちは食事の支度の間も、一切の音をたてることを禁じられていたという。カーテンの開け閉めの時間、家具の配置、食器棚の中のカップの置き方、パンにマーガリンを塗る方法や目玉焼きの焼き方にいたるまで、すべてトミーによってが厳格に規制されていたのだ。
 少しでも「規則」を破れば、激しい殴打が待っていた。彼は妻や娘に暴力をふるうときは、まず先に、これ見よがしに固いブーツをはいてから、それで脛を蹴りつけた。
 また、妻を殴るときは「おれが殴る間はしっかり立っていなければならない」として、両側から体を娘たちに支えさせた。もっとも勢いが強すぎて支えきれなくなることもしばしばで、妻がガラスのドアに倒れこんで、体じゅうにガラスの破片が突き刺さったこともあった。

 また彼は、長女のジューンを14歳のときからレイプしていた。そしてピルを飲ませ、15,6歳になると家に妻や妹がいようとおかまいなしに彼女を寝室に連れ込むようになる。避妊具は妻に買いに行かせ、妻もそれに従い、おとなしく買いに走った。
 妹のヒルダは13歳のときレイプされかけたが、なぜか父親は途中で気を変えたらしく未遂で終えたという。以来、ヒルダは完全に犯されることはなかった。だが「性的ないやがらせ」は執拗に受けつづけた。
 ふたりの娘は学校卒業後、同じ工場で働くようになったが、給料袋は封もあけず、そっくり父親に渡さなければならなかった。また、「男が寄ってこないよう」ふたりは左手薬指に指輪をはめさせられ、髪を短く刈りあげさせられた。
 トミーはまた、動物虐待もつねに行なっていた。金魚を金魚鉢からつかみ出し、カナリアを湯沸し機のガスで殺し、ウサギの首の骨を折った。殺すためにペットを飼いつづけているようなものだった。ヒルダに猫を溺死させるよう命令したこともあった。心の中で悲鳴をあげながら猫を水に押しつけている娘に対し、彼は「笑え」と命じた。ヒルダはほんの少し唇の端をあげることに成功し、殴打をまぬがれた。

 やがて彼は妻の3回目の妊娠を知るが、産むことを許さず、自分の手でいたって乱暴で不潔な堕胎手術をほどこす。
 ジューンとの性行為は次第に乱暴なものとなり、殴打しながらか、首を絞めながら、が常となった。
 彼女たちは外に出るときはお揃いのジャケットを着て、父親の後ろを一列になって軍隊のように歩かなければならなかった。もしくは二列になり、トミーが監視しやすいよう娘ふたりが前に出なければならないのだった。
 母親は毎日の暴力でぼろぼろになり、妹のヒルダはウィスキーに依存するようになると同時に重度の鬱病になった。だが父親に「おまえが自殺したら残るふたりを殺してやる」と言われたので、彼女は自殺の衝動をなんとか抑えこんだ。ジューンは精神性なものか、父親の毎日の殴打によるものかは不明だが、軽い癲癇発作を起こすようになった。

 そんな中、トミーが脳卒中で倒れた。退院後、彼はしょっちゅう癲癇発作で倒れるようになった。一家が病魔にむしばまれているような状況となり、さらに母親が顔面の癌を発症し、娘たちが工場の人員整理で解雇され――一家はますます重苦しい空気にのみこまれていった。
 凶行の晩、癲癇の大発作を起こした父親を見おろしながら、ヒルダが、
「もうだめ。これ以上この生活に耐えていけそうにない」と呟いた。
 銃は父親の寝室からジューンが持ってきた。そして彼女たちは一発ずつ父親の胸に撃ちこんだ。白目をむいたまま、あっけなく父親は絶命した。ジューン36歳、ヒルダは35歳になっていた。
 銃声を聞きつけて母親がやって来た。彼女ら3人は浴びるほどウィスキーを飲み、トミーの死体を囲んで号泣した。
 通報は、母親がした。新聞はトンプソン一家を「怪物一家」と書きたてた。
 有罪判決は間違いないと思われていたが、裁判所はふたりに執行猶予つきの判決をくだした。

 


 

◆昭和27年、千葉県義父殺し

 これは昭和27年3月、千葉県君津郡で起こった事件である。
 ある夜、A男は妻の実家へおもむき、義父に向かって普段の憤懣をぶちまけた。といってもそれは、現実に起こっていることに比べれば、遠慮がちすぎるような言い方だったのだが。
 彼が言ったことは、こうであった。
「うちの妻とあんたとのことで、どうも近所に体裁が悪い。しばらく実家には帰さずに、おれのとこにずっとあいつを置いておかしてくれ」
 それを聞くなり、義父は激昂した。炭火の入ったコンロを投げつけるや立ちあがり、婿につかみかかろうとした。
 A男は念のためと隠しもっていた出刃包丁を、義父の胸に突き立てた。しかし柄が抜けて落ちてしまった。ふたりは組みうちになったが、傷を負っていたぶん劣勢になった義父は庭に走って逃れ出た。しかしA男はこれをつかまえ、馬乗りになった。そこへ、義父の長男(実子)であるB男が駆けつけてきた。
 A男は怒鳴った。
「包丁を持ってきてくれ」
 B男は父を助けるそぶりさえ見せず、言われた通り包丁を持って、とってかえした。A男はこれで義父の喉や胸を滅多突きにし、殺した。

 事件の背景はこうである。義父はもともと酒癖が悪く、粗暴だったが復員してからはさらに手がつけられなくなり、飲酒、賭博をくりかえし、すこしでも気にいらないことがあれば刃物をふりまわした。
 そして実娘であるC子(A男の妻)が17歳のとき、無理に凌辱し、以後は誰の止めるのも聞かず関係を強要し、二度にわたり出産までさせている。
 また昭和23〜26年にかけては、夫のいる女性を引き込んで同棲し、そのうえ25年には、長男のB男の嫁までも数度にわたって犯していた。そして同棲していた女が逃げるやいなや、ふたたびC子を襲いはじめたのである。
 結婚後もたびたび義父はC子を呼びつけて関係を迫り、彼女も暴力を恐れてそれに応じるという日々がつづいたので、嫁いだとはいってもC子はほとんどA男の家にはおれない有様だった。
 そして、いつか話をつけなくては――と悩んでいたA男が、ついに決心してこの家を訪れた結果、この凶行が起こったのである。

 当初、これは尊属殺人罪が適用されたが、東京高裁はこれを棄却し、A男、B男のふたりに執行猶予つきの判決を言い渡した。

 


◆昭和43年、栃木県父親殺し

 時刻はすでに11時近かった。雑貨屋の表戸をどんどんとせわしなく叩きながら、泣き声で「おばさん、おばさん」と呼ぶ声には聞き覚えがあった。すでに就寝していた雑貨屋のおかみは起き上がり、戸をあけて夜中の訪問者を迎えいれた。
 それは近所の市営住宅に住む顔見知りの女であった。女はおかみにしがみつくなり、
「おばさん、父ちゃんを殺しちゃった」
 と言った。おかみは絶句した。
 じつはこうなるかなり以前、おかみはこの女から「秘密」を聞かされて知っていたのである。

「あんたら夫婦、だいぶ歳が違うみたいだけど……」
 そう水を向けると、彼女は意外なほどあっさり答えた。
「だって、実の親子だもの」と。
 そして、また妊娠したらしくてこのところ気分が悪いのだ、とおかみにすがるようにして歩いた。彼女はすでに半べそ顔だった。16で妊娠して、次々に5人産んだ。その後に妊娠中絶を4回やった。今度もまたやることになるだろうが、あればっかりは何度やってもイヤだ、と――。
「じゃあ……いまの、そのお腹の子は?」
「父ちゃんのに決まってるでしょ」
「ずっと、そうなのかい?」
「14のときから、ずっと……」

 それが去年の春のことである。
 そんな以前からそれと聞かされていたおかみとしては、心がうずくものがあった。しかしそれが本当なら、自分たちの力でどうにかなるものではない。彼女は起き上がってきた亭主に警察に連絡するよう、うながした。女も反対する様子はなく、おとなしくうなだれていた。
 やがて警察が来て、連行されていく彼女の背中に、雑貨屋のおかみは何度も叫んだ。
「ごめんね、すまんかったね」と。
 こんなことになるのは目に見えていたのに、隣人としてどうして何もしてやれなかったのかと、おかみは繰り返し自分を責めては泣いた。

 

 じつは「目に見えていたのに」止めなかった人間はもうひとりいた。被害者の正妻で、加害者の実母である老女である。彼女は53歳になっていたが、土木作業の日雇いをして毎日の生計をたてていた。
「今回の事件については、いつかこうなるであろうことをかねがね予感しておりましたから、電話があったとき、ああついにあの子は父親を殺したな、とすぐ思いました。いままでの事情を考えますと、充分有り得ることなのです」。
 さらに老母はこうも言った。
「わたしとしては殺された夫に対してはまったく同情はありません。むしろ娘のほうが殺されずに済み、ほんとによかったと思っています。これがもし反対だったら、わたしも子供(孫)らもどんなにつらかったか、わかりません」。

 老母の証言によると、被害者である父親は性的欲望は強かったものの、それまで夫婦生活はふつうのものであったという。それが、長女が中学2年生になったとき、突然強引に彼女を犯したのである。ひとたび関係ができると遠慮がなくなり、2,3日にいっぺんというペースで布団にしのんでくるようになる。長女は1年近くこの苦行に耐えたが、やがてどうにもならなくなり、
「父ちゃんがへんなことをしてくるよ」
 と母親に訴えた。仰天した母が夫を問いつめると、彼は逆上してパン切りナイフを持って暴れ出した。
 長女はとくに早熟ということもなく、異性に対しての興味が発達しているというわけでもなかった。それに真面目な子で高校へ進学したいと言っていたし、母親もそのつもりだった。だが父親は、
「どこにも行かさんで、家に置く」
 と言い出した。妻はたまりかねて、他の子供4人を連れて家出した。長女は夫の監視が厳しく、とても連れ出せなかったのだ。長女がやっと逃げてこれたのは中学を卒業してからだった。
 母親は彼女を東京へ逃がす算段をつけようとしたが、計画なかばで父親が追いかけてきた。そしてそのままずるずると居座り、そこでも長女に襲いかかった。彼女が拒めば刃物を持ち出して暴れたし、妻の実家の男たちが押さえつけにかかると、自殺してやるとわめいた。仕方なく、最後は長女が、
「いいよ、父ちゃん、寝よう」
 そう言ってなだめるしかないのだった。

 16歳になったとき、母親の段取りで日雇い先の男と長女を駆け落ちさせた。が、父親が必死に「娘が誘拐された」とふれまわって探しまわったため、情報を提供する者があらわれて、結局1週間もたたないうちに引き戻されてしまう。さらに間の悪いことに、長女はもう実父の子を妊娠していた。
 父親は市営住宅の一棟を借り、無理に長女を連れ出してここで出産させた。以来12年、父娘はここで暮らすことになる。
 この間、長女は5人の子を産み、2人は生後間もなく死亡した。このほかに中絶手術を5回。6回目には医師の忠告によって不妊手術を受けた。これが、凶行の前年のことである。

 父親は植木職人だったが、腕のいいほうではなく稼ぎも悪かった。上の子ふたりが小学校にあがって手がかからなくなったので、長女も勤めに出ることにした。なにしろ、本来ならまだ30前の女性なのである。人前に出るようになってからみるみる綺麗になり、化粧もし、身なりにも気をつかうようになって、ようやく「年相応」に見えるようになった、というからそれまでのひどさが想像できるだろう。
 彼女はその勤め先で、初めての恋をした。相手も彼女を想ってくれた。すべてを話しても彼は受け入れ、
「不妊手術は、再生が可能だっていうから大丈夫だよ」とまで言った。
「それじゃあ、再生手術すれば、あんたの赤ちゃんが産めるんだ」
 そう言って彼女は泣いた。好きな男の子供が産めるなどとは、それまで考えたこともない人生だった。
 ただしふたりは数回手を握った程度の仲でしかなく、結婚を約束していたものの本当に「清い関係」だった。

 長女は父親が酒を飲んでいないときを見はからって、結婚したい相手がいると打ち明けた。しかし父親は、
「そいつはおまえを一時のなぐさみものにする気だ。大体それじゃ、俺の立場はどうなる。これからその若僧の家へ行って、火をつけてやる」
 と言って荒れた。しかも勤め先をやめろと迫り、毎日家にいることを約束させられた。
 恋人と連絡をとりたくとも、監視が厳しく、とてもできなかった。しかもその一件以来、毎晩1回だった父との性交渉が2回、3回と激しいものになり、異常性も増した。とくに長女は不妊手術以来完全な不感症となっており、精神的にも肉体的にも、苦痛以外のなにものでもなかった。怒りと憎悪が彼女の中で鬱屈していった。

 事件当夜、父親はいつものように実娘を犯した。長女がはっと目をさますと、父親は全裸で焼酎をあおっていた。彼女が目覚めたことに気づくと、いきなり父親は彼女をののしった。
「売女め。俺は苦労しながら今までおまえを育ててきたってのに――なんだ、十何年も俺を弄んでおきながら、捨てようってのか」。
 これにはさすがに、長女もかっとなった。そしてそれはすぐさま相手にも通じたようだった。
「なんだ、殺んのか、やれんならやってみろ」
「馬鹿言うな、父ちゃん」
「俺は頭にきてんだ、男んとこに行くんなら行け。子供は全部始末して、どこまでも追いかけてやっからな」
 そう言うなり、ふたたび彼女を押し倒そうとした。その肩を突きのけると、泥酔していた父は布団にあお向けに倒れた。彼女はそこへのしかかって押さえつけ、衝動的に浴衣の腰紐を手につかんだ。
「なにすんだ、殺すのか? ――へっ、やるなら、やれ」
 両手をどさりと投げ出したまま、父は無抵抗であった。彼女は泣きながら父親の首を絞め、こう訊いた。
「くやしいか?」
「くやしかねえ、くやしいのは、おめえのほうだろが」
「くやしくねえ、くやしくなんかねえ」
 嗚咽しながら、彼女は実父の首を絞めつづけた。やがて鼻孔から血が噴き出し、父は絶命した。 

 この裁判の弁護を無報酬で引き受けた大貫大八弁護士は、尊属殺人罪の適用をすべきではないと主張した。裁判官はこれをほぼ全面的に受け入れ、彼女を懲役3年とした。
 さらにこの年、最高裁は他に2件の尊属殺人事件の上告審をかかえていた。最高裁はこれらを一括して審理した結果、大法廷で尊属殺人は違憲であるとの判断をくだす。
 ちなみに15人の裁判官のうち、これを合憲としたのはたった1人であった。
 これにより、長女は懲役2年6ヶ月、執行猶予3年となった。

 事実上、日本史から尊属殺人罪が違憲とされて抹消された歴史的瞬間である。

 


HOME