一夜のマス・マーダラー
少し前の話だが、ネットで「杉沢村」という噂が流れたことがあった。
その内容というのが、「青森には『八つ墓村』のモデルとなった杉沢村という処が
あり、1人の村民が全村民を殺して自殺した。その村は呪われた村として、行政に
よって地図上から抹消されたが、今でもその村の跡地に迷い込んだ者が
失踪するという事件はあとをたたない」というものである。
下にも記す通り、『八つ墓村』のモデルとなった津山事件は青森でのことではないし、
戦時下であったから報道規制はされたものの地図上から消されたわけでもない。
それでも未だ「津山事件」が現代の人々の心の闇に訴えかける力を持っていることを
知り、筆者としては感慨深いものがあった。
ここでは「一夜にして、大量の人を虐殺せしめし」ケースを紹介させていただく。
シリアル・キラー(連続殺人者)が殺人を次第に自分の生活リズムに取り入れていく
のに対し、マス・マーダラー(大量殺人者)のそれは、まさに「爆発」である。
彼らが身の内に培養していた「狂気」「憎悪」が、ぱちんと弾ける瞬間がこれなのだ。
●都井睦雄
都井は大正6年、岡山県に生まれた。両親はともに肺結核で病死、姉と祖母との3人家族だったが、彼は祖母に溺愛されて育った。知能は高く、成績いたって優秀であったが、「病弱で学校を休みがち」だった。しかしその実は、祖母が可愛い孫を風雨の強い日などは外に出さないからであった。
小学校ではずっと級長をつとめたほどの優等生だったが、中学校には進めなかった。教師は強く推薦したのだが、祖母がうんと言わなかったためである。しかし都井はこれにさして抵抗せず進学をやめている。
とはいっても彼に百姓仕事などできるはずもなかった。彼は巡査と教員の資格をとるべく勉強をはじめる。が、軽い肋膜炎にかかり、彼はすぐ勉強を放棄した。彼の中には強い肺病への恐怖があった。(事実、両親だけでなく姉ものちに発病している)
この「肺病への恐怖」が強まったことが、都井の性格の変化の一因と見られている。彼は「陰性」「無気力」「怠惰」、かつ「自暴自棄」な男へと変貌していく。実際には病気はたいしたことはなかったのだが、自分より成績の劣っていた同級生たちが、経済的に豊かであるというだけで進学していったことも、彼の劣等感と被害妄想に拍車をかけたのかもしれない。
さて、この当時の山村にはまだ「夜這い」の風習が色濃く残っていた。村や集落の女を「共有」するという考え方にもとづくものである(だから他村の者がしのびこんできた場合には、発見されると袋叩きにされた)。
都井もまた、この風習に馴染んでいた者の1人だった。事件後、村民は村にこの習慣が残っていたことを激しく否定し、都井が「異常性欲」であったことを強調した。しかしこれは今、どの犯罪心理研究者にも信じられてはいない。都井の「異常な性的行動」はすべて事件後の証言でしかなく、実は村の誰もがやっていたことを、事件と呼応させてより醜悪に、奇怪に拡大したものでしかないようだ。
実際には当時の山村の貞操観念はきわめてルーズであり、それが普通とされていた。姦通罪はあったが、いさかいは相手の男が「酒を一升、夫に買ってやる」ことでたいていカタがついた。人妻であってもそれは「みんなのもの」だったのである。
それに都井は顔青白く、そのへんのがさつな農婦などよりよっぽど物腰の柔らかな繊細な感じのする美少年だった。女たちはどうも、最初はすすんで彼にちょっかいを出していたふしがある。だが事件が起こり、ことが明るみに出てしまってからは、都井の異常性を言いたてて押しとおすほかはない。本人は自殺してしまったし、死人に口なしということで、事実、「悪口の言い放題」であった。
都井は村の10人前後の女性と関係を結んでいた。上は50歳から下は19歳というから、村の「常識」をさしひいても、見さかいなしの部類に入るかもしれない。
それに、たいていの男は関係のある娘が嫁にいってしまったときなどは、関係を断ち切るのが普通だったが、都井の場合はそうではなかったようで、たしかにいささか女に対する執着は常人より激しかったようである。
都井は次第に村の女たちに疎まれることになる。最初は「ちょっとかわいい」からと媚態を示したものの、都井は病気でぶらぶらしているばかりで家も貧しいし、長く関係していたところでなんの得もないのだった。しかも彼はしつこかったし、肺病やみの家系でもある。女たちは急速に彼を避け、拒みはじめた。都井は戸惑ったが、しつこくすればするほど、女たちの拒絶はきつくなるばかりである。
のちに事件を起こした都井の憎悪の中心は、この女たちへのものであった。
彼は村の人間に村八分にされている、馬鹿にされている、と感じ、憎悪をつのらせた。もとより根拠のまったくないことではなかったが、優等生としてのプライドの崩壊、病気への恐怖などが過敏な神経をさらにいらだたせ、関係妄想を強めさせた。妄想が拡大した結果、復讐計画はますます大規模かつ周到なものとなり、ついには村全体を標的とするまでになったのである。
都井の復讐は実は、1回頓挫している。彼の様子がおかしいと近隣から通報を受けた警察が、家の天井裏から銃や刀を発見し、これを押収したからである。しかしこれによってみんなは安堵し、警戒をゆるめた。
都井は反省したふりを見せ、おとなしく過ごしながらも、ふたたび武器の入手をはじめた。今度は前回の失敗をふまえていたこともあって、みな怪しまなかった。
実行の夜が来た。都井は電柱に登り、ペンチで電線を切って集落を真っ暗にした。そして午前1時過ぎ、詰襟を着てゲートルを巻き、地下足袋を履いた。懐中電灯を頭の両脇に角のように取り付けると、それを押さえるための鉢巻をした。また自転車用のランプを首からぶら下げ、薬莢の入った袋を肩に下げ、日本刀一振と、匕首2本を腰に差し込んで、手にはブローニング銃、それに斧を持った。
彼はまず眠っている祖母の首を、斧で叩き切った。憎いからではなく、事件後に彼女を残していくのが不憫だったからである。斧はそのまま、家に置いていった。
都井は村中を走りまわった。日本刀で寝入っている人々を斬り、猟銃で撃った。不思議なことに、銃声に気づいて起きた者は少なく、ほとんどみなあえなく殺された。
彼は年寄りであろうと女子供であろうとかまわず殺したが、ある家では
「おまえはわしの悪口を言わなかったから許してやろう」と言って老人を逃がしている。だがそう言ったあと、「けど、わしが死んだら悪口を言うことじゃろうな」と言って苦笑したところからみて、彼は「悪口を言われた」ことにこだわっていながらも、意外に冷静だったことがうかがえる。
この一夜において、被害者総数は死者28名、重軽傷者3名(うち2名はのちに死亡)である。
都井は峠の頂上において、心臓を撃ち抜き自殺しているのが見つかった。
かたわらには遺書があり「うつべきをうたず、うたいでもよいものをうった」という言葉が見つかった。彼がもっとも憎んでいた「あれほど深い仲だったのに、病気になった途端、掌を返し」た女は、虫の知らせか、その数日前に転居していた。そして彼が男の中で憎んでいた「村の裕福者で、女たちを1人じめにしていた」者は、彼の女房が健気にも、撃たれながら必死で戸を押さえていたため殺すことができなかった。
これほどの死者を出しながら――なんとも、皮肉な話である。
この「津山事件」に関する著作としては筑波昭『津山三十人殺し』、松本清張『闇に駆ける猟銃』、それにもちろん横溝正史『八つ墓村』、西村望『丑三つの村』などがある。漫画としては山岸凉子の『負の暗示』、映画では若松孝二の『復讐鬼』がこの事件をモデルとして作られており、人々の関心の深さがうかがえよう。
●エルンスト・ワグナー
ワグナーは20世紀初頭において「世界一有名な大量殺人者」とされた。
彼は南ドイツの片田舎に、貧しい農家の10人兄弟の9番目として生まれた。両親ともに家系に精神病者が多く、本人たちは病歴こそないものの異常性格者だったと言われている。とくに母親は陰険で愚痴をこぼしてばかりいた。ワグナーは知能が高く、優秀な特待生だったが母から聞かされる陰鬱な話のせいで、年中不安と追跡夢想に悩まされていた。また母親は性的にもだらしなかったようで男性遍歴が激しく、このこともワグナー少年の性意識発達に影響を与えた。
20歳で彼は優秀な成績で教員試験に合格し、各地の国民学校で教鞭をとることになった。彼は洗練された物腰、穏やかで上品、礼儀正しかった。その反面、「田舎者の言葉」でしゃべるのを嫌って、訛りのない標準ドイツ語のみを使ったり、無神論の知識人を気取るなどの高慢な面も見せている。概して周囲の評判は良好だったが、酒癖だけは悪かった。
彼はこのときすでに、非常勤教員として各地を回らされることに対して「不当な扱いを受けている」と感じ不満をつのらせていたようだったが、誰も気づいた者はいなかった。
27歳のとき、彼は「運命の地」ともいえるミュールハウゼン村に配属された。彼はここである夜、居酒屋で泥酔した帰り道、獣姦の過ちをおかしてしまう。翌朝酔いがさめたワグナーはこれを思い出し愕然として、激しい罪の意識に襲われた。
彼はこの行為を「誰かに見られたのではないか」と恐れ、その恐れはじきに「見られたに違いない」という確信へと変わっていく。妄想はふくらみ、彼は、村のみんなが自分を振り返っては嘲笑い、さげずむような目つきで「自分の噂話ばかりしている」と思い込むようになった。
そうこうするうち、彼は居酒屋の娘と関係を持ち、妊娠させてしまう。この事件によって彼は当局から処罰を受けているが、ワグナーがこの件によって思い悩んだ様子は意外にも、ない。この事件は獣姦の一件とは違い、村にも公けにされた事実であったからプライドの高い彼にとって痛手でなかったはずはないのだが――彼によると、この娘とは責任をとって結婚したし、「愛情があったわけではなかったから、重要性もなかった」とのことである。
彼は新たな赴任地を転々としたが、32歳のとき、再び関係妄想が彼を捕らえる。それはミュールハウゼン村の人々が、この赴任先にまで「不名誉な噂」を故意に流したというものだった。彼は周囲が自分を白い目で見ていると感じ、それはミュールハウゼン村人の陰謀だと信じこんだ。彼は「あの村は滅ぼさなければならない」と思うようになり、計画を練りはじめた。
34歳のとき、彼の意志はますます固いものとなった。分単位にいたるまで細かい計画をたて、射撃を練習し、現場の下見を行なった。しかしそのかたわら、教職には熱心で人望も厚かった。
決行は39歳の秋であった。彼は「自分の死後、不名誉を受けることのないよう」、実行の前に妻子を刺し殺した。(はからずも都井と同じ行動パターンである。なおこれは「時計台の射殺魔」ことこれも大量殺人者のホイットマンも行なった行為だ)
彼は6丁の銃を携帯し、列車でミュールハウゼン村へ向かった。ワグナーはまず納屋など四箇所に放火し、歩行中の村人を次々に射殺した。しかし狙いは男だけだったようで、誤まって女児2人と女性1人、それに家畜2匹を殺傷したが、これについてはあとで非常に後悔していたそうである。
ワグナーは9人を殺し、12人に重傷を負わせたが、警官と村人によって取り押さえられた。
この瞬間の彼の関心は、村民たちが彼の性的過ちを口にするかどうかであったが――、それは一言も聞かれなかった。当然のことである。すべては彼の過剰な罪の意識からくる被害妄想に過ぎなかったのだから。
●マーク・エセックス
1960年代末期、マーティン・ルーサー・キング牧師がとなえた「非暴力運動」はもはや限界にきていた。1970年代はじめのアメリカは一触即発の状態にあった。人種差別のないユートピアははるかに遠く、正義は行使されはしない――。キング牧師の暗殺は、過激急進派の主張を裏づける結果となった。
白人は黒人を蔑み、黒人は白人を憎んだ。そして事件はそんな最中、1972年に起こった。
マーク・エセックスは信心深く、情愛に厚い両親のもと不自由なく育った。また彼の生まれ育ったエンポリアという町は、人種差別がほとんど存在しないという稀有な土地であった。彼はここで人生の不平等が何たるかを知らぬまま、いたって平和に過ごす。
問題が起きはじめたのは、彼の海軍入隊からである。エセックスは黒人差別の実態をそこでいやというほど知った。それまで「純粋培養」であった彼にとって、それはショック以外のなにものでもなかった。軍隊というナマのエゴ、ナマのイドがむきだしの場所にとっては「建前」や「理想」などクズ同然だった。彼はこの時期「白人は黒人から、尊厳もプライドもなにもかも、むしり取ってしまう」という言葉を残している。
エセックスは脱走をこころみ、軍法会議によって除隊を認められた。だが両親のもとに戻って来た彼は、もうもとのマークではなかった。
エセックスはもはや家族のもとでも安らげることはなかった。幼い頃から慣れ親しんだ宗教も、今となっては「白人のためのエセ宗教」としか思えなかった。
彼はなんの支えもないまま、住居を転々とする。体の中では不平等に対する怒りと憎悪が煮えたぎっていた。彼はアフリカ文化に傾倒し、いままでばらばらに拡散していた世界観をせめてそこに収斂させることで生き延びようとしていた。
ある日、彼は山ほどの銃器と弾薬をたずさえて「ハワード・ジョンソンズ・ホテル」に向かった。
エセックスがしばらく非常階段をのぼっていくと、シーツのはさまってできた隙間が見つかった。彼はそこからホテルに侵入した。
彼は通りすがりの黒人メイドに微笑みかけた。「大丈夫、なにもしないよ」。
「きみたち黒人は傷つけやしない。獲物は白人だ」。
彼は銃撃をはじめた。各階を目まぐるしく動きまわり、ジャケットを裏返して着るなどして複数犯の犯行であるかのように見せかける周到ぶりを見せた。人々はホテルのいたるところで殺戮がおきているのだと信じこんだ。
ホテル周辺は野次馬でごったがえし、救急車は完全に遮断されていた。特に黒人青年のグループは拳を振り上げ「白んぼをぶっ殺せ!」「暗くなったら加勢するぜ!」とわめいた。それがさらに、市民の恐怖をあおった。
エセックスは「アフリカ万歳!」と叫び、「新年おめでとう、白んぼども!」と嘲笑いながら銃弾を浴びせつづけた。警官は複数犯によるものだと信じきっていたから、どこから弾が飛んでくるのかと恐れおののいていたし、階下でも群集の制御はほとんど不可能、ラジオのDJはデタラメを吹きまくり、まさにパニック状態であった。
エセックスは叫んだ。「どうした弱虫ども、黒人のように正々堂々と戦えないのか?」
白人警官は歯ぎしりして、黙り込んだ。
だが彼にもやはり最期のときは来た。エセックスはライフルを撃ちながら、屋上から飛び出した。
「人民に力を!(パワー・トゥ・ザ・ピープル) さあ殺してみろ!」
四方八方から銃弾が降りそそいだ。彼は倒れ、動かなくなった。
しかし彼の死後も「共犯」がホテル内をうろついているという誤報にふりまわされ、多数の警察官が「ひとり相撲」で重軽傷を負った。それを除けば被害者総数は死者が9人、重傷者3人であった。
彼の死は、そして事件は賛否両論を巻き起こした。数日後、ひとりの黒人の強盗容疑者が警官に撃たれ、救急車で運ばれた。鉛のように重苦しい沈黙の中、群集から1人の老婆の声が飛んだ。
「あいつが来るよ! あいつが戻ってきて、あんたらみんなを皆殺しにするだろう」
白人警官は顔をそむけたきり、一言も反論せずその場を立ち去った。
●マルク・レピーン
マルク・レピーンの生涯について、とりあえずはっきり言えることは一つである。
彼は女を憎んでいた。
そもそもは彼の生い立ちにまで遡るのかもしれない。彼の父は徹底した男尊女卑主義者だった。女とみれば見境なく口説く反面、妻子に対しては完全な支配者だった。彼は男女の役割については一切の妥協を許さなかった。妻の作った料理を庭に投げ捨て、その上で彼女を叩きのめしたこともあった。子供たちもまた、歌を歌ったといっては殴られ、挨拶の仕方が悪いといっては殴られて育った。
特に父が楽しんだのは、来客の前で家族を辱めることだった。友人を招いてブリッジを楽しむ間、子供たちは壁際に直立不動で立っていなければならなかった。ゲームに参加しているはずの妻には、一切の発言権を与えなかった。
レピーンの両親は長い長い調停のすえ、離婚した。そのときレピーンは7歳。すでに最早、陰にこもりがちな無口な子供であった。彼は父親を憎み母を愛していたが、同時に母親が無力であったことも見抜いていた。レピーンの怒りに満ちた人生のルーツはここにあると考えることもできるだろう。
――踏みつけにされるくらいなら、その前に打って出たほうがいい。
長ずるに従って、彼はあれほど憎んだ父親と同じく、女性蔑視の思想へと傾きはじめる。
夫と離れた母親は当然のことながら働かなければならなかった。彼女は有能だったため、看護婦に復帰した途端、婦長となって活躍しはじめた。家庭はやはりおろそかになりがちではある、しかしそれが生活のためであることは勿論だ。だが、すでに父親によって歪んだ男女間関係を叩き込まれていたレピーンはそれを不満に感じた。女は家庭にいるのが当然であり、それをしない場合は子供を見捨てたも同然なのだ、と――。そんな女は、矯正するべきだった。
母親の再婚後、彼の変人ぶりは悪化した。彼の本名はそのとき「ガミル」だったが、まずファミリーネームをもとのレピーンに戻したいと望んだ。そしてファーストネームは「ぴんときた」という理由で「マルク」を名乗った。
レピーンは同性愛者というわけではなかったが、異性に対しては警戒心が強かった。知能こそ高かったものの、幼い頃より身に付いた非社会性はどうしようもなかった。彼は軍隊へも入隊できす、どの仕事場でも長続きすることはなかった。彼はしかしこのすべてを、「不当な仕打ち」と信じた。彼はある解雇の状況について、こう語ったという。
「見習い期間中に、一回だけミスをしたんだ。途端に出て失せろと言われた。……オレをクビにしたのも、あとがまに座ったのも女だったよ」。
彼はコンピュータの専門学校に通うことを決心した。成績はきわめて優秀だったが、クラスのすべての女性に対し敵対的だった。また彼は在学中、婦人警官の存在は許せないという弁舌をぶち、さらに「女にふさわしい職業なんか有り得ない」とも言った。だが女は無能だから雑用係に雇っておくのも悪くはないかもしれない、とも言い添えた。
明らかに彼の中で「平等に扱われるべきでない」存在――女への憎悪は沸騰しはじめていた。
1989年12月、レピーンはセミ・オートマティックのライフルを携えて大学へ向かった。その直前、彼は銃器店で、店員の「なにを撃つんです?」という問いに対して
「Small game(ちっぽけな獲物だ)]と答えている。それは彼にとってはたしかに偽らざる本音であったのだろう。
彼は女子学生を中心に、しかしその実はかなり手あたり次第に銃を乱射した。彼は引き金をひいている間、笑顔を絶やさなかった。
「楽しんでいるだけ、そんなふうに見えました」と生存者の一人は語っている。
死者は女性ばかり15名、重軽症者は男女合わせて14名。これだけの被害を負わせたのち、レピーンは自分の額を撃ち抜いて死んだ。レピーンの幼馴染みは事件後、この件について、こう述べた。
「誰が悪いとかじゃなくて――うーん、やっぱ社会が悪いとかそういうことじゃないかな?」。
果たしてそうだったのか? 答えは未だ不明である。
●マイケル・ライアン
イギリスでの連続殺人、ならびに大量殺人事件はアメリカの10分の1以下であるという。
その、稀なはずの殺人者の1人が、彼である。
ライアンはロンドンからかなり離れた田舎町で、労働者階級家庭の一人息子として生まれた。父親は気むずかしい完璧主義者で、家庭でも職場でも独裁君主ぶりを発揮していた。だが母親は世話好きのあたたかい性格で、一粒種の息子を溺愛した。
幼年期のライアンはおよそぱっとしない子供だった。背は低くずんぐりとして、成績はふるわず、運動神経も悪かった。無口で人とうちとけることがなく、友達は極端に少なかった。いじめられることもしばしばだったが、彼は歯むかうことすらしなかった。まるで、逆らうすべを知らないかのように。
だが母親はそんな息子のすべてを受け入れ、愛した。彼の欲しがるものならなんでも買ってやった。少年の関心はおもちゃの車から自転車へ、原付へ、オートバイへ、そして自動車へと移ったが、彼女はそのすべてを買い与えた。そして、銃も。
銃や自動車の力を借りて、無力な少年は「マッチョな自分」の夢をみていたのかもしれない。
ライアンが25歳のとき、父が癌で他界した。父親は病床で「自分で始末をつけたい」から枕元に銃を置いてくれ、と息子に頼んだ。一人息子は真っ青になって「銃はそんなことのために使うもんじゃない」と言い、これを断った。
父親の死後、ライアンの銃器コレクションは以前にも増してとめどもなく増えはじめた。
失業をくりかえしてばかりだったから、費用のほとんどは母親が出したものと思われる。口をひらけば車か武器のことばかりで、ほかのことは世間話すら満足にできないような有様にまで、この頃の彼はなっていた。
だが彼は苦しんでいた――現実と夢想とのギャップに。現実のちっぽけな、無能な自分と、彼が追い求める理想の自分には隔たりがありすぎた。しかし徹底的に打ちのめされ、等身大の己を彼に思い知らせてやれる人間はいなかった。友人はいなかったし、母親は甘やかすばかりで、本当に彼の自立のためになることなどしてはくれなかったからだ。
懊悩の毎日の中、ライアンに虚言癖がめばえはじめる。
いわく、ガンショップを経営していた。自家用飛行機の操縦免許をとった。軍隊のパラシュート部隊で活躍した。大金持ちの元大佐の後見人がいる。看護婦と近々結婚することになっている――。もちろん、そのすべてがデタラメだった。周囲の者すべてが、それらが全部嘘っぱちであることを知っていた。だが母親は息子を守りたい一心で、これとまったく同じ嘘を知人にふれまわった。
母親の知人たちは彼女に同情していたから、あえてこの悲しい嘘をあばくことはしなかったが、ライアンの同僚たちは違った。彼らは情け容赦なく彼を嘲笑い、嘘つき呼ばわりした。しかもそれはしつこく、長時間つづいた。
ライアンは激怒の発作を起こした。そのときはじめて同僚たちは彼が「常軌を逸した銃マニア」であることを思い出し、黙った。彼の復讐心をうすうす感じとった同僚のひとりが、彼がいつも銃を携帯していることを上司に報告した。そのせいかどうか、ライアンはじきにその職場を辞めている。
鬱屈をためこんだ青年の爆発は、1987年の夏に訪れている。
彼は森のピクニック場のそばに隠れ家を作っていた。そのすぐ近くに、ランチをひろげていた母子がいた。ライアンはその母親を森の奥に連れ去り、おそらくレイプしようとしたのだろうが失敗し、彼女を射殺した。彼はその死体を残して車で去り、ガソリンスタンドで満タンに給油したのち、そこでも発砲した。
それから彼は自宅に戻った。まず可愛がっていた愛犬二匹を撃ち殺し、そしてありったけのサバイバル用品と銃器を持ち、防弾ジャケットに黒のヘッドバンドという映画の「ランボー」まがいの格好をすると、歩いて出発した。行きがけの駄賃とばかりに、自宅に放火して――。
彼は地域の共有グラウンドめざして歩き始め、その間、見えるものならなんでも手あたり次第撃った。夫婦を撃ち、少女を撃ち、老婆を撃ち、犬の散歩中の男を撃った。またパトカーにも発砲し、巡査を即死させた。
彼は共有地の近くで警官隊に包囲された。が、彼は銃撃をやめなかった。そのとき、現場にライアンの母親が到着した。彼女は銃を持って立っている息子の姿を見、
「マイケル、やめて! やめてちょうだい!」と叫びながら息子に駆け寄った。
マイケル・ライアンは2発発砲した。どちらも命中し、母は道路にくずおれた。
彼は倒れた母に近づくと、至近距離からもう2発打ち込んだ。彼女はライアンの、8人目の犠牲者となった。
それからも犠牲者は続々と出つづけた。警察のヘリコプターがようやく到着した頃には、もう事件のあらかたが終わりかけていた。このときにはライアンは学校内にたてこもっていた。巡査部長が彼とコンタクトをとることに成功した。
この時点で被害者は延べ30人。死者15人、負傷者15人にも達していた。
「武器はあと何がある?」「銃が一挺、あとは弾薬だけだ」
それからライアンは、こう訊ねた。
「おふくろはどうした? 死んだか?」
巡査部長はこれに答えずはぐらかし続けたが、ライアンは自嘲したように、
「死んだよな。そうさ、そうに決まってる。――こんなの、なんかの間違いだ。悪い夢をみてるみたいだ。くそ、こんなことならベッドで寝てりゃよかった」
彼は弾倉を窓の外に放り投げた。事実上の投降であった。
「――おかしなもんだ。これだけ殺したってのに、自分の頭をぶち抜く度胸がない」。
だが結局のところ、彼にはその「度胸」はあった。
最後の一発を、彼は自分のコメカミに叩きこみ、死んだ。彼が死の瞬間に見つめ得たものは、果たして「理想の自分」だったのか「等身大の自分」だったのか。
●宅間守
宅間は2001年6月8日午前、大阪教育大付属池田小学校に侵入。2年生女児7人と1年生男児1人を出刃包丁で殺害、児童13人、教師2人に重軽傷を負わせるという大事件を起こした。
被害者のすべてが彼とはまったく関係のない無辜の者たちであり、宅間がそれまでの半生で培ってきたいわれなき怒りと憎悪を「エリートの子供たち」という漠然とした概念に向けたという、ただそれだけの凶行であった。マスコミと大衆はこの事件に騒然となった。
宅間守は1963年11月23日、兵庫県伊丹市に生まれた。家族は両親と7歳年上の兄がひとり。父親は伊丹市にある工場で工員として働いていた。両親の仲はお世辞にも良いとは言えず、父は子供たちに日常的に暴力をふるった。
兄はおとなしく勤勉な性格だったが、宅間はそうではなかった。危険な場所を好み、自分より小さい子供をいじめる性癖があった。また、病気の野良猫を拾い、新聞紙にくるんで火を放つなどの動物虐待癖もこの頃からはじまっている。
子供の頃から成績の良い兄と比較されて鬱屈気味に育った宅間は、小学校高学年になって急に「上を目指し」勉強をはじめる。彼が希望したのは大阪教育大付属池田中学校への進学であった。しかし両親ににべもなく反対され、学力テストの結果がかんばしくなかったこともあって、結局は地元の中学に通うことになった。
中学生になった宅間は、さらに反社会性をあらわにしはじめる。自分より小柄な男子生徒やおとなしい女子生徒をいじめ、猫や金魚を焼き殺した。好意をもった女子生徒の弁当に精液をふりかけたこともあったという。もちろん親しい友人はおらず、孤独な学生生活だった。
高校受験が近づくにつれ、「いい学校にいきたい」と気持ちは焦るものの、それまでまったく勉強をしていないのだから受験だけうまくいくはずがない。一生を通じて彼は「もっと上にいきたい、認められたい、みんなにもてはやされるような男になりたい」という灼けつくような権力欲を持ちつづけた。しかしそれに見合った努力をしたことはない。彼のそれは単なる「虫のいい幻想」でいつも終わり、そのたび宅間は打ちのめされ、憎悪をつのらせていくことになる。
1979年、兵庫県尼崎工業高校機械科入学。教師を殴る、家出するなどの問題行動を繰り返した末に、映画館で見かけた女性を強姦しようとして逮捕されるという事件を起こす。宅間はその直後、2年で高校を退学になった。
退学になって、宅間ははじめて精神科医の門をくぐる。彼は神経症と診断され、しばらく投薬を受けた。
その後、定時制高校に編入するものの、通学しなかったため除籍処分となる。親にもてあまされた彼は航空自衛隊に入隊し、パイロットを目指したが、半年も経たぬうちに家出少女をひっぱりこんで淫行に及ぶという事件を起こし、これも除隊となった。
それからほぼ1年、宅間は家でごろごろと寝て暮らす。母親に暴力をふるいはじめたのもこの頃からである。
そして彼が20歳になった頃、奇妙なことが起こる。宅間が母親を連れて、父と兄の暮らす家から出ていったのである。彼は母親とアパートを借りて暮らし、行き先は父親には教えなかった。この母親と2人きりの生活はおよそ半年つづいたようだが、この間どうやら宅間は実母と性的関係を持っていたとの説がある。しかし父親が彼らの居場所をつきとめ、連れ戻したことでそれには終止符が打たれた。アパートを訪れた父親に、宅間は鉄シャベルを振り上げて殴りかかったらしいが、父に反撃され、あえなく逃げ出したという。
宅間はそれから間もなく、たてつづけに3件の事件を起こす。家宅侵入しての強姦と、交通事故と傷害(相手の車を壊した上、錐を持って運転手を追い回した)、交通違反(高速道路の逆走)である。しかし3件目は精神病を言い立て、強姦事件を不起訴にするための狂言という見方が強い。事実、この直後から宅間は精神科にふたたび通いはじめ、幻聴や幻覚を訴えて精神分裂病と診断され、入院措置となっている。
前事件の余波も消えぬうち、さらに2件の傷害事件を起こす。だがまた彼は精神病院へ逃げ込んだ。そのうち強姦事件の裁判がはじまり、精神鑑定を受けるが「精神分裂ではなく人格異常である」と診断され、責任能力ありとして、少年院送致が決定した。
3年間の服役を終え、宅間は出所する。しかし次男の出所直後から母親の様子がおかしくなりはじめた。1日中無気力に部屋でぼうっとしており、目はあらぬ方向をぼんやり見つめている。皮肉にも息子のような詐病ではない、ほんものの精神分裂病の発症であった。
実母の発病後、宅間は家を追い出される。26歳になっていた彼は19歳年上(45歳)の看護婦と知り合い、医師だと偽って結婚した。だがその嘘はすぐにばれ、離婚を言い渡される。わずか12日間の結婚生活であった。
4ヶ月後、懲りずに2度目の結婚。相手は20歳年上で、小学校時代の恩師であった(蛇足ではあるが、SF作家小松左京の実妹だそうだ)。
宅間は伊丹市交通局に就職し、路線バスの運転手の職を得る。しかし生活態度は改まらず、乗客と喧嘩する、強姦容疑で逮捕されるなどしている。精神科への通院もまた再開しているが、「精神病とはいえず、神経症」との診断が下っている。
その頃、巷では伝言ダイヤルやテレクラが流行りつつあった。宅間はこれにどっぷりとはまり、挙句テレクラで知り合った女性に対し強姦事件を起こす。これがきっかけとなり、2番目の妻とも離婚。宅間はまたひとりになった。
だが、宅間は手を変え品を変えて、自分を庇護してくれそうな年上の女性を探す。次に餌食になったのは同僚の75歳の女性で、宅間は彼女を言いくるめて養子縁組を果たす。これはもちろん財産目当てのことであった。しかし翌々年、お見合いパーティで出会った女性に目をつけた宅間は、この老女を「用済み」と見なす。養子縁組解消に際して慰謝料200万をせしめ、彼は老女のもとを去った。
1997年、お見合いパーティで知り合った2歳上の女性と3度目の結婚。宅間は33歳になっていた。しかし結婚直後から彼は暴力をふるいはじめ、妻は間もなく実家へ逃げ帰る。その年の暮れには離婚調停がはじまり、宅間の精神科通いもまた再開。地裁で暴れたり、妻の実家へ怒鳴りこんだり、職場へ押しかけていやがらせするなど続けるが、結局は妻側が慰謝料200万を支払うことで離婚が成立した。
宅間は路線バス内で問題を何度も起こし、減給処分となった挙句、清掃局に移動となり、その後小学校に用務員として配置された。
離婚はしたものの、元妻に対するいやがらせは継続しており、復縁を迫って暴力をふるい、傷害で2度逮捕されている。また平行して交際していた女性にも暴力をふるって、これも傷害で逮捕された。
彼がそうしている間にも、実家の家族は彼の泥をかぶりつづける。精神病を発症した母はとうとう父の手におえなくなり、入院措置となった。また累犯者の弟の存在を理由として、兄が妻に離婚を言い渡されてもいた。
1998年10月、宅間4度目の結婚。相手はここではじめて年下となる。3つ下の32歳の女性で、以前傷害事件を起こした相手である。
翌年3月、兄が事業の失敗を苦に自殺。
同月、宅間は勤務先の小学校で、自分が服用している精神安定剤をお茶に混入し、教師たちに飲ませるという傷害事件を起こす。動機は「教師たちが自分を馬鹿にして、無視するのでやった」と自供。しかしこれは精神科通院の事実を重く見られ、心神耗弱を理由に不起訴となった。彼はなおも念を入れて幻覚・幻聴を訴え、分裂病との診断を受けて入院した。これを機に4度目の結婚も破綻。結婚生活は約5ヶ月間であった。
市職員の立場を失うことを恐れた彼は、病気のため働けないとして傷病手当金を申請。これは受理され、以後組合から月20万円の手当金を給付されている。
宅間の反社会的行動にはますます拍車がかかっていった。まず4度目の妻に復縁を迫り、いやがらせを繰り返したかどにより逮捕。以前養子縁組をしていた老女宅に押し入り、家宅侵入で逮捕。だがどちらも精神病歴を理由に不起訴処分となっている。
宅間は精神科への通院をつづけ、分裂病様症状を訴えつづけた。そのかたわら、自己破産の申し立てを行い、「3番目の妻の離婚請求は、精神病を患っていたため無効である」として提訴、1500万円の賠償金を請求したりもしている。もちろん復縁したいわけではなく、金欲しさに裁判を起こしているだけであった。
また、女性と知り合う手段としてふたたびお見合いパーティへの参加をはじめる。「年収600万以上の男性のみ(従来とは逆に女性が高額の参加費を払う)
」のパーティに医師と偽って出席。偽の名刺まで刷っておく念の入れようであった。
タクシー会社に就職したのとほぼ同時期に、市職組合からの手当金の給付が終わる。宅間は新たに「2級精神障害者保健福祉手帳」を申請。交付された途端、障害者基礎年金の給付をも申請する。これ以後彼は児童殺傷事件を起こすまで、ずっとこの月7万5千円の給付を受けていた。
その後、ホテルのボーイを相手に傷害事件を起こすが、検察も不審に思ったか、これは不起訴にはされなかった。宅間はこれでタクシー会社を解雇となる。年の暮れには資材会社に就職するも、あいかわらず障害者基礎年金はもらい続けていた。
年が明け、殺傷事件の起こった2001年がやってくる。
宅間は元養子縁組をしていた老女を相手に「3番目の妻と離婚したのは同女のせいであり、精神病になったのも同女が原因である」と訴え、裁判を起こす。もちろん目当ては賠償金であった。請求金額は300万円である。
そしてまたも傷害事件を起こすが、担当捜査官や検事らに精神障害者保健福祉手帳をこれ見よがしにちらつかせ、不起訴処分を暗に示唆した。暮れに就職した資材会社は解雇された。
これ以後、就職活動するも空振りが多くなる。マンションの家賃は滞納するほかなく、収入は障害者年金の7万5千円のみ。お見合いパーティで知り合った女性から金を引き出そうとするが、医師でないことがばれ、進めていた結婚話も破談となった。
なすすべもなく、3番目の元妻に電話をし「慰謝料を払え、とにかくなんでもいいから金を払え」と脅した。精神科への通院もつづけていたが、担当医師もさすがに「これは分裂病ではなく、ただの人格異常なのではないか」と思うようになっていた。
6月7日、夜。37歳の宅間守はもうすぐ追い出されるであろうマンションの自室で、「こうなったのもみんな、世間のやつらのせいだ」と独り言をつぶやいた。口に出して言ってしまうと、それはますます彼の中で真実味を帯びた。
「俺が自殺したって、親父やあの女どもが喜ぶだけだ。そんなことになるくらいなら、あいつら全員が、俺と関わったことを死ぬまで後悔するようなことをやってやる。世の中のやつら、誰でもいいから、できるだけ多くの人間を絶望のどん底に突き落としてやる。めちゃくちゃやってやろう。できるだけ多くの人間を殺して、そいつらの家族、友人知人、恋人に苦しみを味わわせるんだ。そして親父も女どもも、稀代の凶悪犯の関係者として一生白い目で見られつづけるがいい」
最初、彼は繁華街にダンプカーで突っ込むことを計画した。だがやがて「標的は小さくて弱い方がいい。子供なら逃げ足も遅いだろう」と考えて、小学生を襲うことに決めた。そして狙いをつけたのは、彼自身がはるか昔に憧れてはねつけられた、大阪教育大付属池田小学校であった。
翌朝、彼は金物店で出刃包丁を購入。池田小学校へ向かった。
公判は2001年12月より開始、宅間はまったく悔悛の態度を見せず、絶えず暴言を吐いた。
「謝罪する気はまったくない」
「世の中のやつら、全員敵や」
「幼稚園児だったらもっと殺せた。死ぬことは全然ビビってない」。
死刑の求刑を聞かされても反省の色を見せず、「死刑は望むところだ」と発言した。精神鑑定は責任能力ありという結果が出、心神耗弱で無罪という線は消えた。
2003年8月、死刑判決。宅間は被害者遺族を振り返り、「聞いたか? おまえらのガキ8人分合わせて、たった俺1人分の価値しかない命やったんや」と叫び、哄笑した。このあまりの態度に彼は強制退廷となった。
その後、弁護団が判決を不服として控訴したが宅間自身が取り下げ、死刑確定。獄中結婚による改姓を経て、2004年に刑が執行された。
――良くも悪くも、烈しい怒りが未来を創る。
――ラッセル・バンクス『この世を離れて』より――