VENGEANCE ―復讐―

人間が他の動物と一線を画していられる要素のひとつに、想像力がある。
我々は他者の思いを想像することができる。
他者の感情を、環境を、苦しみを、痛みを想像することができる。
いわば我々は己の想像力をもってして初めて、他者と繋がることができるのだ。
しかし、その力は同時に諸刃の剣でもある。
我々は自分の想像する枠内でしか、実は正義も悪も常識も推し量れはしない。

ここに紹介するのは「正義の殺人者」――いや、
「正義は法になく神になく、我の手にあり」と決め込んでしまった人々の物語だ。

 


アルフォンソ・エルバ

 

 1966年、北イタリア、ベルガモ市。
 それはいかにも奇妙な連続殺人であった。4件の殺人で、被害者はすべて男。警察が最初に気づいた共通点は、全員が殺される数日前に刑務所から釈放されていたことであった。

 しかしそれぞれが別の刑務所から、別の日に釈放されており、しかも7ヵ月という幅があったので、これらの事件が繋がるまでにはかなりの時間を要した。当時まだ、一般的な刑事捜査にコンピュータは導入されていなかったのである。
 被害者はみな、むごい殺され方をしていた。
 被害者A、B、Cは剃刀のような鋭利な刃物で性器を切断され、出血多量で死亡。Dは性器を切り取られた上、逃亡できぬよう膝を撃ち抜かれていた。
 彼らにはもうひとつ共通点があった。それは全員が性犯罪者だったということである。AとBは未成年者をレイプし、Cは若い女ばかりを狙う性的いやがらせの常習犯。Dは強姦殺人罪で起訴されたが、証拠不十分で減刑され、収監されたものであった。
 捜査は、しかし始まってすぐ行き詰まった。4件の現場には手がかりがほとんどない上、時間が経ちすぎていたのである。
 警察は記録を丹念に調べることで打開の可能性をさぐった。すると、被害者たちにもうひとつ共通点があることが判明した。それは全員が、その罪に対して非常に軽い刑罰しか受けていなかったことだった。4人が服役したのはいずれも1964年だったが、当時の新聞には刑の軽さに対する怒りの記事が連なっていた。
 4人の被害者たちが起こした事件はすべて、司法の軟弱さと生ぬるさを批判する恰好の例として、必ず記事に取り上げられるたぐいのものだった。捜査員はここでようやく、動機を確定することができた。
 これは4人の性犯罪者たちに対する、制裁であると。

 捜査員が被害者たちの所持品を調べてみると、A、B、Cは獄中で付けた日記や、ペーパーバックやお守りなどしか持っていなかったが、Dの持ち物からはアニタという女からの手紙が26通も出てきた。
 その手紙はいわゆるプリズン・グルーピー(新聞などで目にした記事から囚人に恋してしまい、文通や面会を求め、接触をはかろうとする女性たちの俗称)の典型的なもので、
「刑務所ではつらい生活をしてるんでしょうね」
「あなたが出獄したら、すぐ会いたいわ。迷惑かしら?」
「できるだけ早く返事をちょうだい」
「あなたのことを考えるだけで体が熱くなるの。毎晩ベッドに入る前には必ず、あなたの写真の前で裸になるのよ」
 という熱烈な文章が連ねてあり、最後にP.S. として、
「私の言葉はあなただけに宛てたものよ。ほかの男の目になんか触れさせないで。読み終えたらすぐに捨ててね、絶対よ」
 と書かれていた。そしてこの追伸は26通の手紙すべてに記されていた。
 そして、このアニタという女とDとの間を取り持ってやったらしいという男の存在が浮かび上がった。その男は彼と面会し、アニタのものとおぼしき住所をDに教えて去ったらしいのだ。
 そして、それと同一人物と思われる男が、A、B、Cの刑務所を訪れていた形跡があることも判明した。つまり4人すべてが、この男の紹介した女と文通をしていたと思われるのだ。ただしD以外の3人は彼女の「P.S.」を守って手紙を処分していたらしいが。

 Dは手紙だけを保存し、封筒は処分していた。しかし専門家の鑑定により、手紙に移ったわずかなインクから消印を割り出すことができた。また、一対の指紋も得ることができた。
 その指紋を前科ファイルと照合した結果、消印の町のファイルから一致する指紋が発見された。
 指紋の持ち主はアルフォンソ・エルバ。
 7年前、子供にいたずらをして有罪になった男に重傷を負わせた罪で、服役していた。

 エルバはすんなりと容疑を認めた。
 ひどく冷静で、やるべきことをやったまでだと言うように、終始淡々としていたという。
「連中の扱い方はわかってます。性格的欠陥を突いてやれば、思うがままに操れますよ。しょせんはただの変質者ですからね。私の手紙に誘われて、奴らはのこのこやって来ました。――連中が苦しんで死ぬのを見ながら、姪っ子の魂が解き放たれるのを私は感じた。機会さえあれば、何度でもやったでしょう」。
 彼の「姪っ子」とは、Dが強姦して殺害した女性だった。
 エルバは3件の終身刑を受け、10年後、獄中死した。最期の最期まで、後悔の念は見られなかったという。

 


マリアンネ・バッハマイヤー

 

 1981年3月3日、クラウス・グラボウスキーの裁判がはじまった。
 彼はもう10年以上も前から、幼児に対する性的いたずらの常習犯だった。1970年に初逮捕され、精神医にかかることを条件に釈放された。1975年には幼女をアパートに連れ込み、服を脱がせたところその子が泣き出したので、手で口をふさぐとぐったりして動かなくなった。慌てて水を顔にかけると少女は蘇生したが、裁判所は彼に、
「このまま外界に放つには危険な患者であり、収容施設で保護観察下のもとに生きるべき」
 との審判をくだした。
 だが、彼はある手術を受けることと引き換えに、このときも釈放されてしまう。
 その手術とは、睾丸除去手術である。このオペにより精巣が失われると99%の患者が性衝動を失うと言われている――が、グラボウスキーは「例外の1%」のひとりであった。
 彼は以前と少しも変わるところのない危険な小児性愛者として、社会に放たれた。その後、彼は前の失敗を踏まえていくらか狡猾になり、犯行を繰りかえした。また、隠れてホルモン注射を打ち、生殖能力をかなりのところまで回復させてもいた。


 グラボウスキーが冒頭の裁判にかけられることになった事件は、1980年5月に起こった。グラボウスキーは近所の7歳の女の子アンナを「おじさんちの猫と遊ばないか」とアパートに誘い、レイプして絞殺したのである。
 だが警察は彼の前科から疑惑を抱き、睾丸除去手術が彼の性衝動にさして影響を与えなかったらしいことを突き止めた。尋問の結果、グラボウスキーはアンナを殺して埋めたことを自白した。

 法廷で、グラボウスキーはのらりくらりと検事の追求をかわした。彼は
「俺はもう子供に興味なんかありません。俺はただ遊んでやろうとしただけなのに、アンナとかいうあのガキは、部屋に入ってすぐ俺をゆすって金をせびろうとしたんです。俺は面食らっちまって、前科のこともあるし、どうしていいかわからなくなって、つい首を絞めてしまったんですよ」
 と主張した。アンナは、彼女自身がはいていたタイツで絞め殺されていた。


 3月6日、2度目の審問が行なわれた。グラボウスキーは被告席に腰をおろした。
 そのとき、アンナの母親であるマリアンネ・バッハマイヤーがつと席を立った。そして法廷を堂々と早足で横切ると、グラボウスキーに近づき、22口径ベレッタの弾丸を彼の体に叩き込んだ。
 グラボウスキーは即死した。
 マリアンネは彼が死んだことを見てとると、銃を放り捨て、静かに捕縛を受けるべく両手を挙げた。

 マリアンネは旧ナチスのSS将校の娘として生まれた。が敗戦後は父親が酒に溺れ、両親は離婚。マリアンネは義父とそりが合わず、反目し合った。9歳のとき見知らぬ男にいたずらされ、16歳で妊娠し、家を出る。18歳でふたたび妊娠するが、出産前に近所の男にレイプされる。が、男はたった1年半の刑を受けただけであった。
 自らのレイプ体験から、彼女はグラボウスキーも大した罪には問われないであろうことを知っていた。司法はこの男にふさわしい罰を与えはしないだろう。娘の死への償いは、私がこの手で下すほかはない、そう思ってマリアンネは引鉄をひいた。
 当然のことながら、社会の同情は彼女に集まった。マリアンネは故殺にしては寛大な、6年の刑を宣告された。

 


バーナード・ゲッツ

 

 個人的な復讐ではなく、社会的制裁のつもりで行なわれた犯罪もある。
 1984年12月22日、N.Y。
 N.Yの地下鉄の治安は悪化の一途をたどっており、ナイフをちらつかせるギャング少年たちが我が物顔でうろつきまわっては、利用者に危害を加え、金を奪い取り、女性を暴行していた。ついには逮捕のため、専用ホットラインが設置されたほどだった。
 その日、セヴンス・アベニューを走る二番線の列車には、4人のギャング少年が獲物を探して徘徊していた。彼らはひとりの中年男に目をつけた。
 眼鏡をかけ、痩せ型でやや下腹の出た、いかにも弱々しそうな男である。少年らは男を取り囲むと、「おっさん、財布よこしな」と言った。
 男はうなずき、
「ああいいよ、全員で分けなさい」
 と懐に手を入れるやいなや、冷静に38口径S&Wを抜くと4人を一発ずつ撃った。
 全員が倒れたが、ひとりだけ軽傷でただうずくまっているだけの者がいた。男はそれに気づくと、
「なんだ、まだ生きてるじゃないか」
 と言って背中にさらに一発撃ち込んだ。弾丸は脊髄を損傷させ、少年は下半身不随になった。

 少年殺傷事件は大きな話題になったが、犯人を咎める声はほとんど聞かれなかった。それは、男が大晦日の夜に自首してからもまったく変わらなかった。
 男の名はバーナード・ゲッツ。ホットラインには「よくやってくれた」、「すかっとした」、「重い刑にしないでやってくれ」という声ばかりが寄せられ、電話は終日鳴りっぱなしだった。
 その市民の声を反映してか、ゲッツはほとんどの罪状で無罪になり、拳銃不法所持で禁固1年となっただけで済んだ。なお、N.Y地下鉄の警備を行なっている自警団『ガーディアン・エンジェルズ』の成立はこの事件がきっかけだったと言われている。

 


マケルロイ事件

 

 1981年、ミズーリ州スキッドモア。
 スキッドモアは人口450人の小さな田舎町で、ファーストフード店もなければ映画館もなく、雑貨屋と酒場があるだけの風光明媚な土地だった。かと言って皆が貧しいわけではなく、郊外に農場を経営する農場主も多かったが、それでも「とびきりの贅沢」といえばエアコン付きのトラックを買ったり、新しい鹿撃ち銃を手に入れる程度で満足できる、といった質素な人々であった。
 被害者のケン・レックス・マケルロイはそんな町で生まれ、死ぬまで君臨した。

 ケン・マケルロイは1934年、14兄弟の13子として誕生した。
 父親は大酒飲みのホラ吹きで、カンザスとミズーリの農村地帯を転々としながら多すぎる子供たちを養った。スキッドモアに農地を手に入れ、腰を落ち着けてからも貧困はつづき、食べるのがやっとの生活であった。
 父親は14子の末っ子を溺愛し、すぐ上のケンをあからさまに邪魔者扱いした。そんな父親の態度に、母や兄姉たちもならったようで、家族内でケンは愛されず、孤立して育つ。ケンはひどい癇癪持ちの、手のつけられない悪童に成長した。
 学校でも彼は持てあまされた。彼は子供の頃から体格がよく、粗暴で、反抗的だった。彼はいつでも不機嫌で、くすぶる炎のようにいつも怒っていた。何度か留年した挙句、15歳で退学したが、一生読み書きも満足にできなかったという。
 退学後、託児所に就職するが、保母に手を出して解雇される。18で最初の結婚をし、デンヴァーに転居。建築現場で働くようになるが、作業中、落ちてきた鉄材で頭を強打するという事故に遭う。以来、彼は慢性的な後遺症に悩まされるようになり、粗暴さはいっそう増した(多くの犯罪者にみられる特徴である。「
脳障害」参照)。

 事故後、マケルロイはミズーリに帰郷した。彼はアライグマ狩り用猟犬の訓練士をはじめ、これは性に合ったらしく成功した。彼は贔屓目なしで、とても腕のいい訓練士だったらしい。が、残念なことにマケルロイは真面目に働くよりも、楽をして金を稼ぐことが好きだったし、衝動を押しとどめる理性にも欠けていた。
 マケルロイは夜な夜な車を走らせ、戸締りの甘い農場に侵入しては、穀物や家畜を盗んだ。実入りよりも、窃盗という行為自体が好きでやっていたふしもある。鶏、家鴨から始めて、つぎに豚、ついには牛や馬まで盗みだし、州境を越えてカンザスやアイオワにまで手をひろげて荒らしまわった。
 盗みを見とがめられても、マケルロイは悠然としたものだった。あるとき犯行を見られて当局に訴えられたが、マケルロイは昼間その男に会いにいくと、ライフルの床尾を顔面に叩きつけ、鼻と歯数本を折った。告訴は取り下げられた。
 この傍若無人さは女性に対しても同じであった。マケルロイは背が高くハンサムで、押しが強かった。もともとアメリカの女性はマッチョに弱い傾向があるが、マケルロイはまさにマッチョイズムの(悪しき)権化である。彼になびく女はあとをたたず、喜んで彼の犯行の片棒をかつぐことまでしたという。

 1959年、マケルロイは最初の妻と離婚し、すぐに16歳の少女と再婚した。この少女は少し前、マケルロイに口答えしたところ、ショットガンで顎の下を撃たれて一生癒えぬ傷を負わされたばかりだったが、そこまでされても彼から離れられなかったらしい。
 少女の結婚生活はもちろん不幸なものだった。マケルロイは彼女を殴り、13歳の女の子を暴力でかどわかしてくると、家に連れ帰って妻と同居させた。妻は4人の子を産み、13歳の少女は3人産まされた。
 1964年、マケルロイは家出し、18歳の少女アリスと同棲をはじめる。4年後この少女との間に子供ができたので、彼は帰郷し、家にいた女ふたりを追い出すと、新しい家庭をつくった。
 マケルロイはあいかわらず窃盗をやめず、3年間のうちに1度起訴され、女房を殴り、大酒を飲んだ。アリスがたまりかねて家を出て行き実家に帰ると、マケルロイは怒り狂って
「てめえみたいな売女はどうでもいい。だが俺の子供は返してもらうぞ、邪魔するヤツは誰だろうとぶっ殺す」
 と言った。アリスの父親は「やれるものならやってみろ」と言い返したが、その後すぐ、家にやってきたマケルロイにライフルで太腿をぶち抜かれる羽目になった。もちろん刑事事件となったが、マケルロイは公判までの間ずっと、アリス宅に
「俺に不利な証言をしてみろ。てめえの一家全員切り刻んでやる」
 と一日中電話し、家の前をうろつき、家族を尾行してまわり、ナイフを突きつけて「証言するな」と脅した。しまいには酒場で飲んでいる父親の前にショットガンを持って現われた。マケルロイにはこれで恐喝の罪も加わったが、彼の凶暴さに怖れをなした住民たちは皆「自分はなにも見ていない」と証言したので、マケルロイは無罪を勝ち取った。
 アリスは彼のもとに戻ってきたが、マケルロイにはもう12歳の愛人トリーナがいた。トリーナとアリスは彼と同居し、等しく殴られ、等しく暴力的に犯された。14歳でトリーナは妊娠した。
 トリーナが耐えかねて逃げると、マケルロイは彼女を追ってつかまえ、折檻した。殴り、蹴り、ショットガンの銃身で彼女の顔面を打ちすえて鼻と頬骨を潰し、眉間を叩き割った。そして仕上げにトリーナの実家に放火した。
 この一件によりマケルロイは逮捕され、トリーナと子供たちは保護される。だがマケルロイはあいかわらずのやり口で証言者たちを脅迫してまわったので、証言台に立つ者は誰もなかった。
 トリーナはすっかり彼に依存していたので、じきに彼のもとへ戻った。彼女はそれからマケルロイが死ぬまで、彼と連れ添っている。

 1976年、ある農夫が自分の私有地で、マケルロイが狩りをしているのを見つけた。農夫が咎めると、マケルロイは丸腰の彼に向かって発砲した。鳥撃ち用の散弾が腹部の広範囲に突き刺さった。彼が膝をつくとマケルロイはつぎに頭部を狙って撃った。弾は額と頬をかすめ、マケルロイは三たび引鉄をひいたが、幸運なことにそこで銃が効かなくなった。マケルロイはトラックで逃走。農夫は全治一週間の怪我であった。
 マケルロイは逮捕されたが、おかかえ弁護士の活躍と、農夫一家に対する彼一流のいやがらせ工作が功を奏し、またも無罪放免となった。
 この決着に、スキッドモアの住民は心底がっかりした。妻を寝取られ、娘をかどわかされ、家畜や穀物を盗まれ、彼の暴力に怯えて暮らすのには、もうほとほとうんざりである。が、司法はマケルロイを裁くことができないのだった。
 つづいて1980年、雑貨屋でマケルロイの娘ふたりがキャンディを万引きした。店員がそれを注意すると、キャンディは返されたものの、その後すぐマケルロイ夫妻が店に怒鳴り込んできた。店主はマケルロイと口論になり「もう2度と店にくるな」と言った。
 その後しばらくは何もなかったので、それで終わったと皆が思いこんでいた、が、ある日店主の自宅前にマケルロイ夫妻がトラックに乗って現われた。
 マケルロイは家の前に仁王立ちになり、ショットガンを空に向けて2発発砲した。30分後にもう一度同じことをし、2日後にも現われてまた発砲した。ただし今度は家の横をめがけて撃った。保安官が来たが、これはマケルロイに言いくるめられてしまう。一触即発の空気がつづき、そうしてある日、酒に酔ったマケルロイが店主をショットガンで撃つという事件が起きた。店主は首を撃たれ、命はとりとめたものの左肩はその後一生不具となった。
 またもマケルロイは逮捕され、彼は証言しそうな者の家を巡回して脅してまわった。銃を持ってトラックを町じゅうゆっくりと走らせる彼の姿は、住民にとって脅威そのものであった。
 道にはめっきり人通りが減り、走りまわるのはマケルロイのトラックだけ。町の住民たちは外出をひかえ、子供たちには早く帰れと強く念を押し、帰宅するなり厳重な戸締りがされた。一日中聞こえるトラックのエンジン音が、マケルロイ一家にたてつくことの危険への警鐘として人々の耳には届いた。
 だが今回は彼も罪をまぬがれることはできなかった。彼は第二級暴行で懲役2年となった。――が、控訴したため、保釈となりまた町に戻ってくることになる。

 だが住民たちはもう限界にきていた。マケルロイは保釈中にもかかわらず、銃を持ってうろついている。これ以上の犠牲を出すのはもう御免だ、というムードが町を覆いはじめていた。
 町の男たちは自衛のため、自らも銃を持ち歩くようになった。また、マケルロイの保釈取り消しを求め署名活動をし、法廷に提出した。しかしマケルロイの弁護士が手を尽くしてこれを延期させたことで、町民たちは苛立ちを更につのらせることになる。
 町の有志60数人が、いまや完全にマケルロイに敵対していた。この中には保安官も含まれる。彼らは議論し、なんとかマケルロイの蛮行をやめさせられないものかと話し合った。そして、
「いっそのこと、あいつが死んでしまえばすっきりするのに」
 という台詞もしばしば口に出されるようになっていた。そして、凶行は起こった。

 1981年7月10日、自警団の寄り合いがあると聞きつけたマケルロイは、泰然とした態度を見せるジェスチャーのためか、町へ出向き酒場に入った。自警団はそれを聞くと、誰が言うでもなく1人ずつ酒場へ向かった。店はたちまち満員になり、カウンターに座るマケルロイを幾重にも人の輪が囲んだ。人波のあちこちから、
「よくおめおめと来やがったな」
「帰れ、くそったれ」
「2度とツラを出すな」
 という、さざ波のような囁きが無数に漏れ、マケルロイのまわりを雲霞のように覆う。その雰囲気にさすがに耐えられなくなったか、マケルロイは席を立ち、店を出るとトラックに乗り込んだ。
 次の瞬間、助手席にいたトリーナが悲鳴をあげた。
 銃声が響き、後部ウインドウが割れ、マケルロイの顔面が熟れたスイカのように破裂するのがひどくゆっくりと見えた。銃声はなおも続いたが、必要なかった。ターゲットはすでに絶命していた。
「ああ、ああ、ひどい! 人殺し! なにも殺さなくったって!」
 半狂乱になってわめくトリーナに、野次馬の中からぼそりと、
「いや、殺すしかなかったさ」と応える声がした。
「――あんたらがそう仕向けたんだ」。

 マケルロイ殺しの公判が開かれたが、スキッドモアの住民たちは判で押したように同じ証言を繰り返した。
「銃声は聞こえました。犯人は見ていません」
 トリーナだけはある住民の名を出し、犯人だと糾弾したが、この意見は採用されなかった。結局、犯人は特定されず、事件は迷宮入りとなった。
 トリーナはスキッドモアを去り、子供たちはばらばらに散った。また1982年の末、マケルロイ農場の母屋から原因不明の出火があり、焼失。マケルロイの痕跡はこれで町からほとんど消えうせた。

 さて、果たして正義は行なわれたのだろうか、行なわれなかったのだろうか?

 


グラスゴー、アベック殺害事件

 

 1957年、スコットランドのグラスゴーで、アベックが町のチンピラに殺されるという事件が起きた。
 ふたりは国立大学薬学部に通っており、卒業後は結婚する約束だったという。その晩はふたりともバイト明けで、待ち合わせて一緒に帰るところであった。
 バス停のある道に出るため、ふたりは角を曲がった。すると、向こうからべろべろに酔っぱらった20代の若者3人が、大声で喚きながらやって来るのが見えた。いかにも憂さ晴らしの種を探しているといった様子である。
 3人連れはアベックが来たとみるや、歩道にひろがって行く手をふさいだ。アベックの彼氏が彼女の肘をつかみ、車道へおろすと彼らの横を急いで駆け抜けようとした。だがその前に、男のひとりが彼女の髪を掴んだ。
 彼女が悲鳴をあげると、男は両手で彼女の頭を鷲掴みにし、力任せに体ごと引き倒した。彼氏が駆けよろうとした瞬間、鈍い音が響いた。
 もうひとりの男が、彼の頭に酒瓶の角を叩きつけたのである。彼氏ががっくりと膝をつくと、男はさらにその頭を数度殴り、とどめに頭頂部に渾身の一撃を加えた。瓶は割れ、彼は動かなくなった。
 男たちは怯えて動けない女の子の両手足を持ちあげてかつぐと、表通りまで運んでいった。そして、制限速度いっぱいのスピードで走ってきたバスの前に、彼女を放り投げた。
 少年は脳挫傷で死亡。少女も全身多発性損傷のため死亡した。

 捜査ははじまったが、成果ははかばかしくなかった。チンピラたちの人相風体はありふれたもので、バスの運転手も人を轢いたショックで犯人にまで気がまわらなかった。目撃者は数人いたが、皆あまりにも気の毒なアベックの方ばかりに目がいって、肝心の犯人の方は
「騒々しくて、酔っ払いで、下品。だらしない服装」
 という記号化されたようなモンタージュしか覚えていなかったのだ。
 そんな中、捜査員が少年の葬儀に出席すると、喪服姿の長身の男が近づいてきて、ていねいに自己紹介をした。
 彼は少年の兄で、シカゴ警察検死局の病理学者だと名乗った。名前はドクターS。彼は捜査員に、
「弟殺しの捜査はどのくらい進展していますか」
 と訊き、ほとんど手がかりはない状態だという答えを聞くと、やおら
「じつは、こちらに着いてからの4日間で独自の調査をしました。犯人のひとりを発見したと思います」
 と言い出した。ドクターSは毎晩事件現場に立ち、目撃者探しをした。草の根を分けるようなやり方である。その甲斐あって、ひとりの老人の口から3人のうち1人の名が知れたのだった。
 警察がその名前で犯罪記録を調べてみると、たしかにとんでもないゴロツキであることがわかった。5つの前科があり、他に不起訴になった事件が2件。またその交友関係から、他2人の身元もわかった。これもまた前科持ちの札付きである。
 警察は3人を尋問し、事件当夜のアリバイについて締めあげた。
 だが、あらかじめ3人は口裏を合わせていたようであった。辻褄の合わぬ部分のまったくない、パズルを合わせたようなぴったりした供述である。あまりにも不自然なその完璧さに、かえって捜査員は彼らの有罪を確信した。しかし、難攻不落の証言であることは確かで、釈放せざるを得なかった。

 3人が釈放されたことを聞きつけたドクターSは、警察を訪ねた。そして、
「私が望むのはね、弟と弟の恋人を殺したのがあいつらであるという確証を掴みたい、ただそれだけなんです。有罪にしたいとか裁判に引き出したいとか、そこまで望んでるわけじゃない」
 と言った。捜査員はつい彼に同情し、「個人的には、やつらは有罪だと思っています」と漏らした。
 数日後、ドクターSはグラスゴー警察の上層部にかけあって、唯一の遺留品である酒瓶の調査を申し出た。この酒瓶は彼の弟を殴り殺した凶器だが、粉々に砕けており、手がかりを得るすべはないと見られていた。しかし上層部はシカゴ警察での彼の功績を重視し、これを許可した。
 それからほぼ10日後、3人の容疑者のひとりが、死体となってクライド川に浮かんだ。死因は溺死で、死体には争った跡はなかった。
 さらに3日後、容疑者がもうひとり死んだ。死因はアルコール中毒で、なんの怪しいところもなかった。そして2日後、最後のひとりが勤め先の食肉問屋で、大型冷蔵庫の中に入って凍死しているのが見つかった。これも争った様子はなく、ドア押さえをちゃんと置いておかなかったことによる事故死としか思われなかった。
 これで3人の容疑者すべてが死んだ。死因に不審なところはまったくない。だが、捜査員にはこれがドクターSの仕業であるとしか思えなかった。
 モルグの検死官助手の口からも、ドクターSが彼一流のやり方で、瓶から指紋を採取してみせたことを聞くこともできた。だが3つの死は完全な事故死であり、そこに疑いの余地はない。事件性がない死に対し、捜査をはじめることはできないのである。

 ドクターSは、次男の死による心痛で倒れた母親が回復するのを待ち、シカゴへ戻った。彼は完璧に事件を解決した、ただそれを司法の手にゆだねることはしなかったのである。
 捜査員は彼についてこう語る。
「私は彼がやったと確信してますよ。私らが事件の入り口でまごまごしてる間に、彼は真相をあばき、解決し、一切の手がかりを残さず犯人たちを葬り去った。なんとも鮮やかな手並みじゃないですか。――犯罪者を賞賛するつもりは毛頭ありませんが、彼はその例外中の例外でしょうな」。

 


ベナベンテ事件

 

 1992年、スペイン。
 研究休暇にやって来た若い女教師が、白昼堂々誘拐されるという事件が起きた。彼女はヴァンに引きずりこまれてすぐ目隠しをされたので、犯人の顔は見ていない。
 彼女は町はずれの人気のない農場小屋に連れ込まれ、裸にされたのち、剃刀で下腹部と太腿をずたずたに切り裂かれた。痛みと恐怖で泣きわめき、血を流している彼女を男は乱暴にレイプすると、小屋に置き去りにして帰った。
 数時間後、低空飛行で巡回中だったヘリコプターのパイロットが、血まみれで岩場をよじ登っている全裸の女を発見。ヘリコプターを着陸させ、パイロットが近づこうとすると、犯人が戻ってきたと勘違いした彼女はパニック状態に陥った。なんとか彼女を説得して落ち着かせ、保護して病院に輸送するまでに、さらに数時間を費やした。

 数日後、自宅の庭で鶏に餌をやっていた主婦が襲われた。やはり目隠しをされたので、犯人の顔は見ていないという。
 彼女は鶏小屋の中の支柱に針金で縛りつけられ、服を剥ぎ取られた。そして1件目と同じく、剃刀で太腿と下腹をめちゃめちゃに切り裂かれ、レイプされた。犯人はさらに彼女の肛門に箒の柄を突っ込み、性器に移植ゴテを付け根の部分まで深々と突き立てた。
 犯人が立ち去ってから約1時間後、帰宅してきた夫に発見されて彼女は病院へと搬送される。輸血でようやく命をとりとめたほど出血がひどく、下腹部は数週間のうちに4度も手術しなければならないくらいに損傷されていた。

 さらに10日後、第3の事件が起きた。
 被害者は16歳の少女で、就職して2日目の帰宅途中に誘拐され、道路端の道具倉庫に放りこまれた。やはりさらわれてすぐ、目隠しされている。
 彼女は前2件と同様に太腿と腹をずたずたにされ、手ひどくレイプされていた。犯人はその後、彼女の性器と肛門に石をいくつも詰めこみ、腹や背中を殴ったらしい。肝臓が破裂し、乳首が片方切り落とされていた。

 この事件において幸運だったのは、毛髪と繊維の分析を専門にしていた、凄腕の法医学者が捜査に参加していたことである。彼は事件現場から犯人の毛髪と服の繊維を採取し、そこからコロンを特定した。また喘息吸入器に使われる薬品も検出されたため、犯人は喘息持ちであることも判明する。
 捜査員は地元の薬局をまわり、法医学者の作成したプロファイルに一致する喘息持ちの男を探した。そして、捜査を始めてたった2日で容疑者は逮捕される。名前はマニュエル・ベナベンテ。農場で一人暮らしをする孤独な男だった。
 ベナベンテが留置所に拘置されて3時間後、弁護士が到着。弁護士は接見のため監房に入り、ドアに鍵をかけた。
 その直後、悲鳴が起こった。
 担当警官が慌ててベナベンテの房に駆けつけ、ドアを開けると、彼は床でのたうって苦しみもがいていた。喉を耳から耳まで切り裂かれ、ひゅうひゅうと息の漏れる音がしている。
 その脇に立っていた弁護士が警官に歩み寄り、血まみれの剃刀を手渡した。ベナベンテはほどなく息絶えた。
 実は第3番目の被害者である少女は、この弁護士の義理の姪であった。
「かわいい姪があんなひどい目にあわされてからずっと、犯人を殺してやりたいと思っていました。弁護の依頼が来たときは、自分の幸運が信じられなかった」
 と、彼は供述した。
 この弁護士には同情が集まり、法廷は彼の精神を完全に正常と診断した上で、
「彼は姪の身に起こった不幸のせいで過度のストレスを受け、一時的に精神のバランスを欠いていた。よってベナベンテを殺害した時点では正常な精神状態になかったと言える」
 との判断を下した。
 弁護士は今後60週間の精神療法を受けることと引き換えに、裁判官の好意によりただちに釈放された。

 

 


◆国内編

 

徳永励一

 

 1974年2月、台東区の「消火器卸商・柿崎製作所」で、柿崎さん家族4人を含む5人が殺されているのが発見された。全員が鈍器のようなもので頭を割られており、打撃で死にきれなかったらしい者はさらに絞殺されていた。家族ではない5人目の被害者は、柿崎製作所でアルバイトのセールスマンをしていた国鉄職員で、おそらく一家惨殺に巻き込まれたものと見られる。
 現場には不用意な遺留品が多かったことから、容疑者はすぐに絞られ、指名手配された。
 容疑者は徳永励一という36歳の男で、過去に逮捕歴が5回あった。手配から30日後に彼は逮捕されたが、供述の間は顔色ひとつ変えず、
「長年の恨みをはらしました」
 と述べ、悔悟の言葉を洩らすこともなかった。
 徳永は5人兄弟の第4子として生まれた。父親は僧侶だったが、なぜか寺を捨てて炭鉱夫となり、その後肺結核で死んだ。一方、母親は子供を親戚にあずけて上京し、住み込み女中として働く。母が再婚してやっと引き取られたとき、徳永は7歳になっていた。
 12歳のときに窃盗で逮捕されるが、「IQ60の愚鈍」と判定され、医療少年院送りとなる。とは言ってもこの数値は彼がほとんど学校教育を受けていないせいもあるようだ。徳永はようやく平仮名が書ける程度の学力しかなかったが、日常生活にはとくに問題がなかった。
 継父は文盲同様で計算もできない徳永を我が子のように案じ、16歳のときからセールスマン見習いとして自分のあとをついて来させた。継父は腕のいい消火器のセールスマンで、柿崎製作所から卸された商品を売り歩いていたのである。消火器は利ざやが大きく、とくにこの時代にはいい商売であった。
 しかし柿崎製作所がセールスマンを雇わず、直接販売をするようになって事情は変わった。老いて病んだ継父は、得意先が減る一方だと嘆きながら死んでいった、と徳永は警察に語っている。
 父を失ってから、才覚もなく人あしらいもうまくない徳永はどうすることもできなかった。メッキ工や鳶職をして働くものの、どれも長続きしない。鬱屈は柿崎製作所への逆恨みへと形を変えて、溜まっていった。
 彼は「柿崎は小金を貯めこんでいる」と吹き込んで共犯を得、ついに製作所に凶器のハンマーを持って忍びこんだのである。

 最後に、彼が逮捕されたときも持っていた、「これが犯行動機のすべて」と言われた手記を模写しよう。

「かきざきさんおれのとうさんのときからのうらみだ。 おやこ二第(代)だまししょうばいするのはやめろ。 25年のうらみだ。 なんかいもいうたがだめ。 よくばりのいさおさん(息子)もがまんできない。 バカをおこらせた×(罰)。 かあさんに300まん円くらいためてあげたい。励一。さよなら母さん」

 


桜庭章司

 

 1979年9月、精神科医の藤井澹さん宅で、藤井さんの母と妻が刺殺されるという事件が起きた。現金が奪われていたため、最初はもの取りの犯行と思われたが、その夜、駅で警官に不審尋問を受けて逮捕された男がいたことから事件はただちに解決する。
 逮捕されたのはスポーツ・ジャーナリストの桜庭章司という男だった。また調査の結果、彼が15年前に藤井医師の診断によってロボトミー手術を施されていたことも判明する。

 ロボトミー手術とは、1935年にアントニオ・デ・エガス・モーニスという神経学者が考案した療法である。凶暴な精神病患者や自殺癖のある鬱病患者に絶大な効果ありというふれこみで、世界中にロボトミー手術ブームが巻き起こった。前頭葉の一部を切除するか破壊してしまうことで、患者の感情は壊死したように働かなくなり、完全におとなしくなるのである。
 モーニスはこの発表によりノーベル賞を受けたが、1950年代に入って後遺症などの欠陥が次々と指摘され、1960年代には人権思想の高まりもあってほとんど行なわれなくなった。
 桜庭が手術を施されたのは1964年。すでに多くの病院では手術を見合わせていた時代のはずであった。

 藤井医師が桜庭に「手術の必要あり」と診断した大きな理由は、彼に傷害の前科がいくつかあったからである。しかし実は前科の内容はたいしたことはなく、弱い者いじめをしたヤクザを殴ったり、不当解雇をした社長に談判したところ、逆に恐喝として訴えられたりなど同情の余地の大きいものばかりだった。
 手術のきっかけとなった暴行事件というのも、老いた母親を引き取る引き取らないで妹夫婦と喧嘩になり暴れた、というもので、後日妹夫婦はこの訴えを取り下げている。にも関わらず、警察は彼の精神疾患を疑い病院送致とし、担当医であった藤井医師は何もわからない桜庭の母を呼び出し、手術同意書にサインさせてしまう。

 桜庭の手術は成功した。彼は従順になり、精神的意欲をほとんど失った。仕事は以前の5分の1以下しかこなせず、やがてライターとしては完全に使いものにならなくなった。
 自分が廃人になったことを桜庭は知っていた。彼は弟が経営する会社に呼ばれ、フィリピン支社に勤めることになった。だがある日、その美しさで名高いマニラの海に沈む夕陽を眺めているうちに、彼は自分がいま何の感動も抱いていないことに改めて愕然とした。
「俺はもう人間じゃないんだ。だってその証拠に、なにも感じない」
 こうなったのもすべてあの手術のせいだ、そう桜庭は思った。彼は帰国し、藤井医師を殺して自分も死のうと決意した。しかし藤井医師の家に侵入したものの肝心の相手はなかなか帰宅してこなかったので、諦めて老母と妻を殺し、家を出たのである。
 桜庭は無期懲役となった。
 なお、ロボトミー手術を考案したモーニス医師も、1955年に自分の施術患者に殺された、ということを最後に付記したい。

 


森川哲行

 

 1985年7月、熊本市の谷ミツ子さん宅で、ミツ子さんと養女の則子さんが血まみれの惨殺死体となって転がっているのが発見された。2人暮らしの親子で、則子さんは事件当時まだ22歳であった。
 母子は全裸で、全身をくまなく滅多刺しにされていた。腹、胸はもちろん、ミツ子さんに至っては頭頂部にまで刺し傷が深々と残っている。ミツ子さんは41箇所、則子さんは35箇所を刺されていた。
 捜査員は、「こんな惨い死体を見たのは初めてだ。2人合わせて76箇所という刺し傷の数も、前代未聞の凶悪さだ」
 と語った。

 本事件の犯人である森川哲行は、ミツ子さんの元・義理の甥にあたる。森川の元妻の母親の弟が、ミツ子さんの夫(故人)だったのである。だが遠縁であり付き合いはまったくなく、則子さんは森川と会ったこともなければ、名前も知らなかった。
 だがこの凶行は森川にとってだけは「当然の報い」だったのである。

 森川は1930年に熊本の漁師町で生まれた。海の男が多く荒っぽい土地柄だったこともあってか、父親は彼が2歳のとき、喧嘩相手に刺されて死んでいる。母はその後、子供を捨て再婚。森川と兄は親戚に預けられたが、邪険にされるようなことはまったくなく可愛がられたようだ。兄はこの家庭でまっすぐ育ったが、なぜか森川はそうではなかった。
 小学校高等科1年のとき、学校を中退。15歳のとき傷害で逮捕されたのを皮切りに、前科は7犯を数える。20歳を過ぎると職を転々とし、全国を放浪しながら傷害事件を起こしては、刑務所と娑婆を往復する日々であった。
 そんな森川が熊本に戻って腰を落ち着けたのは、結婚がきっかけである。

 知り合いの営業マンから紹介された男を、谷三十郎さん(ミツ子さんの夫の実兄)が、長いこと親代わりに育ててきた姪である妙子さんに娶わせたのがそもそもの始まりだった。そしてその紹介された男というのが、他ならぬ森川なのである。
 森川は見合いの席で完全に猫をかぶり、
「下戸で酒は一滴も飲めません」
 などと語った。これは大嘘で、彼は大酒飲みである。しかし谷夫妻は彼を信用してしまい、妙子さんとの結婚を許し、新居まで建ててやった。これが1959年のことだ。
 結婚して2児が生まれたが、森川はじきに地金を出した。仕事に行かず昼間から一升酒をあけ、妻の着物を片っ端から質に入れ、その金で遊び歩く。妙子さんは日常的に暴力をふるわれた。バケツの水を浴びせられ、殴られ蹴られ、煙草の火を体中に押しつけられた。ときにはナタで斬りつけられ、防御するために出した腕にざっくりと刃が入り、医者にいくと骨まで傷が達していたこともあった。また、包丁を首筋に突きつけられたこともあったという。
 それでも妙子さんは子供のために辛抱していた。しかしある真冬の夜中、酔った森川によって、2歳の長男を抱いたまま彼女は小川に放り込まれる。這い上がろうとすると、頭を足で踏みつけられた。このままではいつか子供もろとも殺される、と妙子さんは恐怖を抱いた。

 1962年、妙子さんは離婚を決意し、家を出る。離婚の話し合いは仲人でもあった谷家で行なわれた。
 その席で森川は「仕事もしないで、暴力をふるう」となじられ、「なら金を取ってきてやる」と飛び出していった。しかし実はそのとき、彼は金を工面しに行ったわけでも何でもなく、金物屋に入って切り出しナイフを買っていたのである。
 いつまでたっても森川が戻ってこないので、妙子さんと、妙子さんの母親が谷家をあとにすると、バス停で森川が待ち伏せていた。森川は妙子さんに「戻ってこい」と言うが、彼女はうんと言わない。
 森川はナイフで、いきなり妙子さんに切りつけた。駆け寄る彼女の老母もかまわず刺した。ナイフは妙子さんの肺と横隔膜を切り裂き、老母の内臓をいくつか貫通した。
 妙子さんは一命をとりとめたものの、母親は死亡。
 森川は無期懲役となった。

 しかし獄中で森川は1度たりとも悔悟の念を感じたことはなかった。彼の頭にあるのは「復讐」の一念のみであった。
「妙子の母を殺したのも、仲人の三十郎たちが一方的におれを悪者にして、妙子と別れさせようとしたからだ。なぜおれがこんな目にあわなきゃならん。出所したら、刑務所でつらかった分まで仕返ししてやる」
 逆恨みとしか言いようがない。しかし森川はこの恨みをよりどころにして生きた。時間が経てば経つほど、恨みの念は強まった。
 一般に誤解している人がたまにいるが、無期懲役は終身刑ではない。だいたい15〜20年で出所するのが普通である。森川の場合は、14年で仮出所となった。1976年のことである。
 出所してから、森川は育ての親であった親戚の家に身を寄せた。しかし彼の態度がまったく改まらないので、叔母が注意すると、森川は逆に包丁を持って叔母夫婦を追いまわした。たまらず実兄が警察に通報し、森川は現行犯逮捕で仮出所を取り消され、刑務所に逆戻りすることになる。
 そしてこのときもやはり森川は一片の反省も持たない。それどころか育ててくれた叔父夫婦までも恨みの対象とした。
「ちょっと暴れたくらいで警察に届け出た叔父夫婦と、裏切り者の兄を憎んだ。そしておれをここまで追い込んだ、妙子や谷一族への怒りと恨みがいっそう強くなり、復讐に生きることを決心した」
 と、のちに彼は供述している。あきらかに無情性の偏執気質であり、重度の人格異常であろう。しかし刑務所はふたたび彼を野に放つことを決定した。
 1984年2月、2度目の仮出所。森川は54歳になろうとしていた。

 今回はさすがに身元引受人はなく、彼は保護観察施設で暮らすことになる。ここで彼は復讐計画を練った。
「1番に狙ったのはまず元妻の妙子です。仲人の谷三十郎はもう死んでいたので、2番目はその女房です。3番目は妙子を再婚させた、三十郎の弟。こいつももう死んでいるので、女房(ミツ子さんのこと)を殺す。
 それから裁判でおれのことを『死刑にしてくれ』と言った妙子の叔母。5番目はおれの仮出獄を取り消しにした叔父夫婦。それから兄貴。あとおれを無期懲役にした裁判官も殺してやりたい」
 と、逆恨みの対象は野放図に広がっていった。最終的にターゲットは30人以上にものぼったという。
 森川は妙子さんの居所を知るため、妙子さんの親戚宅を聞き込みにまわって歩いた。だが妙子さんは彼の「お礼参り」を恐れていたので、誰にも住居を知らせていなかった。
 そんな日々がつづき、なかなか妙子さんの居場所はつかめず、金も底をついてきた。森川は自暴自棄になった。
「もう妙子の居場所がわからんならわからんでいい。そのかわり恨みのやつらを全員殺す。一応居場所は聞くが、言っても言わんでも殺す。次々殺していき、その都度金を取って、逃走資金にしていきゃあいい」
 そう思い、彼は刃渡り20センチの刺身包丁を買って、仲人だった谷家に向かった。
 だが谷家にはその日、たまたま近所から預かっていた犬がいた。犬に吠えたてられ、森川は退散。仕方なくここで予定を変え、本件の被害者であるミツ子さん宅へ足を向けることになるのである。

 森川は深夜、ミツ子さん宅へ侵入。2人が抵抗するのもかまわず滅多刺しにした。その後、虫の息の則子さんが息絶えるのを冷静に眺め、「これだけじゃ気がおさまらん」と思い、裸にして吊るしてやろうと衣服を脱がせた。しかし足元は血でべっとりで、ぬるぬる滑ってうまくいかない。吊るすのは諦めて森川は自分の服に付いた返り血を洗い、乾かし、現金を奪って立ち去った。
 2人の死体が発見されるのは、翌朝のことになる。
 犯行から5日後、森川は逮捕され連行されるが、取り調べの際も
「簡単でした。そう血が噴き出たわけでもなく、大きな白い豆腐に包丁を刺しては抜き、刺しては抜き、ちゅう感じでした」
 と平然と述べた。供述を聞く捜査員の方が薄気味悪くなったほど、彼は冷静そのものであった。さらに、
「反省はしていないし、反省するくらいならこんな事件は起こしません。それより、2人殺したくらいではまだまだ足りない、それが正直な気持ちです」
 とも言っている。
 森川は死刑を宣告され、1999年9月、刑が執行された。

 

 

 余談になるが、筆者が調べた限り、日本には私的制裁や復讐の意で行なわれた殺人というものは少なかった。逆に多く見られたのが、この森川哲行のような累犯者による「逆恨みの、お礼参り殺人」である。
 民主主義も人権思想も、わが国では国民が自ら革命により勝ち取ったものではなく、過去に戦勝国から与えられたものを受容したに過ぎない。「自分の手をもって正義の刃とする」という考えは、日本では一般に現実的手段ではないのだ。農民一揆などは何度もあったが、結局制度をくつがえすに至らなかったことがその一因かもしれないし、耐えられるところまで耐える、という体質が染みついてしまっているのかもしれない。
 事実「正当防衛」という概念すら、昭和32年に最高裁で判例が出されるまで、ほとんど認められていなかった。日本には「喧嘩両成敗」という習慣が長くあったせいもあるだろうが、こういう背景もあって、「復讐を意図した犯罪」は森川のような流血沙汰を恐れない累犯者にのみ頻発することになる。
 危害を受けたときは、「自衛手段に出るより、お上の保護を待つ」という思想が日本には強く、これが国民性ともなっている。しかしこれは決して欠点というわけではない。この「一般市民は概して暴力から遠いところにいる」という性質ゆえに、諸外国に比べ犯罪率が低く、平和な社会を保っていられるのだと言えよう。
 ただしこのデータはあくまで過去のものであって、これからどうなるかは勿論わからない。

 

 


 

「公道を水のように、
正義を尽きぬ川のように流れさせよ。」

――アモス書より――

 

 

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