UNSOLVED MURDER CASE
――未解決事件――

 

殺人が発覚しないことは滅多にないが、真犯人がいまだ不明、という
事件は意外なほど多いものだ。
だが答えのわかってしまったクイズがもう無価値であるように、
これらの事件もまた、謎だからこそ我々を惹きつけてやまないのではなかろうか?

 


ゾディアック

 

 最初に、連続殺人犯「ゾディアック」の書いた犯行文を掲げよう。
 これは警察に届いた時点では暗号文だったが、解読マニアの一教師が解いてみせたものである。

「オレは人殺しがすきだすごく楽しいからだ森でけものを殺すより楽しい人間はもっとも危険な動物だからだ殺しはオレには最高のスリルだ女とセックスするより気持ちいいとりわけいいのはオレが死んで楽園で生まれ変わったときオレが殺した連中はみんなオレの奴隷になるからだオレの名前は教えないなぜならおまえたちは来世のためのオレの奴隷狩りを邪魔するかやめさせようとするからだ……」

 これを書き送った男は、これまでに3人殺し1人に重傷を負わせていた。
 署名の代わりには十字を丸で囲んだマーク。「ゾディアック(黄道十二宮)」は彼がみずから望んだニックネームである。
 彼は1968年から1年間、人々の恐怖の象徴であった。あるものは一瞬にして射殺され、あるものは刃物でめった突きにして殺された。
 にも関わらず彼は自己顕示をやめなかった。指紋を残し、多量の声明文を残し、あまつさえトーク・ショウに(声だけではあるが)生出演した。
 最終的に彼が殺したのは6人。その間にも彼の偽者はあとをたたず、警察は偽の怪文書の仕分けに四苦八苦していたが(彼は最後の手紙で、「37人殺した」と言っている。)彼はこれを機に、ぱったりと声明文も殺人もやめた。
 おそらく彼は殺人によって日頃切望していたもの――世間の注目と一種の名声を手に入れた。が同時に自分が大いなるジレンマに落ちこんだことにも気づいたに違いない。
 彼はたしかに有名人だ。と同時にまだ無名人なのだ。彼が本当に有名な殺人犯として脚光を浴びるには、彼は捕まり、素性を知られなくてはならない。ましてや彼はハッタリをやりすぎ、少々飽きられつつあった。
 世間に受け入れられたくて、注目を浴びたくて始めた犯行だというのに、現実にはいまだ彼は無名の境遇に甘んじたままでしかない。だがもう指紋も握られている今となっては新たな危険を冒す勇気すらない――。
 ゾディアック事件は、このたぐいの無用な殺人が単なる徒労と挫折に終わるということの典型例である。負け犬は、どこまでいっても負け犬でしかないのだ。しかしその「たかが負け犬」に、いつなんどき殺されるかわからぬという可能性を、我々みんなが持っているというのもまた避けようのない事実だ。

 


◆ジャック・ザ・リパー

 

 「切り裂きジャック」ことジャック・ザ・リパーについては少々語られ尽くした感があることは 否めない。近年も『フロム・ヘル』というジョニー・デップ主演の映画が封切られ、「ジャックブーム・再燃」をもくろんだ動きがあったほどだ。(余談だがこの映画には「エレファント・マン」ことジョン・メリック氏も出演している。彼が学会で見世物にされてた時期と事件とはわずかながらズレがあるのだが……ま、ご愛嬌ですな)
 事件の方は勝手ながら簡単に紹介させていただく。1888年、ロンドンの売春婦がたて続けに惨殺された。凶器は鋭利な刃物で、手ぎわは「外科医そこのけ」の見事なものだった。
 犯人とおぼしき男? から警察へ「ジャック・ザ・リパー(切り裂きジャック)」の署名の声明文が届いたことで市民のパニックはピークに達する。
「こないだの仕事でもらった血をインクにしようと思ってたが、ニカワみたいにねばねばで使いもんにならなかったぜ。赤インクもオツなもんだろ? オレのナイフはよく切れるぜ」、また次のときには、
「女から切り取った腎臓の半分を送るよ。残りはフライにして食っちまった。掴まえられるもんなら掴まえてみな」
 ひどく子供じみている。だがそれだけに不気味だった。その後彼は5人目にして最後の犠牲者を心ゆくまで完全に解体したのち、犯行をぷっつりとやめている。

 問題は、「ジャックが誰なのか?」という推理に人々が狂奔したという事実だ。手口があまりにあざやかであったことから「医師説」「肉屋説」がうまれ、被害者が売春婦ばかりであったことから「堕胎専門の産婆」(ジル・ザ・リパーと呼ばれた)、売春婦に梅毒を伝染され、恨みに思った「紳士説」、またあまりに犯人が検挙されないところから「貴族説」ならびに「王族説」まで出た。
「黒魔術師」ではないか? という噂も出たし、はなはだしきはギロチンで首を落とされる寸前「われこそはジャック・ザ……」とまで言いかけて死ぬ犯罪者まで出現した。

 いわばジャックはこの謎あっての「シリアル・キラーの元祖」でありシンボルなのだろう。
 彼の正体がわかることはもう金輪際有り得ない。それによって彼は「けちな売春婦殺し」でなく、「神話」となり得たのだ。

 

 詳細は「切り裂き魔たち」に記します。

 


◆ブラック・ダリア

 

 彼女の本名はエリザベス・ショート。
 第2次大戦後、もっともおぞましい猟奇殺人の被害者と言われたのが彼女である。しかもすこぶるつきの美女、それも場所は夢の都、ハリウッド近郊であった。
 発見された死体は無残の一言に尽きた。死体は全裸で、完全に血抜きされていた。全身には激しい殴打のあと、首、手首、足首にはロープの跡があった。美しい顔は口の端を耳まで切り裂かれ、いまわしい笑みを作っているかのようだった。
 何よりも凄惨だったのは、彼女が「まっぷたつ」だったことだ。
 ブラック・ダリアは上半身と下半身を完全に切断し切り離され、草原に放り出されていた。脚はいまだ男を誘うかのように大きく開かれ、死後も彼女を女として侮辱していた。
 検死結果、彼女は数日間の拷問を受けた末、殺されたことがわかった。胃の中からは人糞が発見された。ベスがすすんで食べるはずはない――拷問の末、無理に食わされたのだ。

 ベスは田舎町で人生を終えるには美しすぎた。彼女は全米中に雲霞ほどもいる
「女優志願の女」のひとりとなってハリウッドにひきつけられてきた。
 彼女は夢をみながら、軍人たちの集まるカフェでウエイトレスをはじめた。美貌の彼女はあっというまに人気をさらった。漆黒の髪、漆黒のドレス――。当時はやっていた映画『ブルー・ダリア』をもじって軍人たちは彼女をブラック・ダリアと呼んだ。

 「ダリア事件」は一大センセーションを巻き起こした。動員された捜査員は述べ250人余り。しかしそれでも犯人は挙がらなかった。怨恨ではなく性的な意味を持つ事件であることは確かである。現代ならこの犯人は容易に連続殺人者となったかもしれない、だがこの犯人は、これ以降の犯行をやめた。

 「ブラック・ダリア事件」は、栄華をきわめていた当時のハリウッドの光と闇を体現した事件である。ダリアは女優を目指していたはずでありながら、実際女優になるための努力をほとんどしていなかった。彼女がハリウッドという夢の都に対してぼんやりとした夢想をしか見ていなかったように、我々もまた、ダリアことベスに対して曖昧な幻影をのみ見出そうとするのである。
 ダリアはまさに、我々凡人が夢見たハリウッドの敗残物そのものだった。美貌、生きざま、死にかた、死後の噂、そして「伝説」になるまで――。

 だが、これだけは言える。彼女の美しさは永遠である。たとえそれが最早「オブジェとしての死体」の美でしかなくとも。

 


◆ニューオリンズの斧男

 

 この男は1911年から1919年の間、ノミで錠前をくり抜いて侵入し、住民の頭を斧で叩きつぶすという犯行を繰り返した。凶行は残虐そのもの、一片の共感をも感じ得ないものだったが、不思議と当時のニューオリンズの人々は、切り裂きジャックに対して起こしたようなパニックにとらわれてはいない。
 街には「謎の斧男ジャズ」という流行歌が氾濫し、謝肉祭にはそれまでにないほどのジャズ流行がわきかえった。
 これほど無意味で残忍な事件が、なぜこんなに受け入れられたのか?
 犯人の正体よりもそのことの方が大いなる謎であるかもしれない。

 


◆ディンゴ・ベイビー

 

 1980年、オーストラリアのある観光地でキャンプをするべく、チェンバレン牧師夫妻と子供たちは車で出発した。子供は7つと4つ、それにまだ赤ん坊のアザライアである。

 事件はキャンプ2日目に起こった。妻のリンディがテントの中で「どうしよう、ディンゴが赤ちゃんをさらっていった!」と叫ぶのが周囲のキャンパーたちにもはっきり聞こえた。ディンゴとはオーストラリア産の野生の犬で、家畜を襲う獰猛な肉食獣である。
 リンディの話によると、彼女はディンゴがテントから走り去っていくのを目撃し、同時に赤ん坊の姿が消えているのに気づいたのだという。
 これを聞いた約300人のキャンパーが一晩中あたりを探しまわった。が、アザライアは発見されなかった。
 捜索は警察の手に委ねられた。1週間後、赤ん坊の血で汚れ、破れたベビー服がキャンプ地からおよそ5キロ離れたディンゴの巣の近くで見つかった。
 が、その服に肉片はひとかけらも付いていなかった。また下着は完全に裏返しにされて脱がされていた。いったいディンゴにそんな器用な真似ができただろうか? それに、まるまる太った9ポンドもの赤ん坊をディンゴが一片も残さず食い尽くしたとは、ちょっと考えにくいことだった。
 しかもベビー服の破れ目は動物の歯で食いちぎったものではなく、あきらかに鋏のような器具で切られたものだった。
 検事はリンディの証言を「でっちあげ」とし、またアザライアは「完全に正常な赤ん坊」ではなかったらしいことから、彼女が娘をうとんじで殺したのだと主張した。法廷の意見はまっぷたつに割れた。が、それでも決着はついた。
 リンディ・チェンバレンは殺人で有罪、重労働終身刑。夫も事後共犯により有罪となった。

 裁判は終わった。だが多くの点が不明のままだ。死体も凶器も発見されてはいない。リンディは終始自分の証言をひるがえすことはなかったし、警察も「彼女がどうやって娘を殺したのか……厳密には明らかではない」と歯切れの悪い一面を持っている。それに動機だが、本当にアザライアは障害児だったのか、その証明すらなされてはいないのである。

 心の中に疑問を抱いた人は多かった。この判決ははたして正当なものだったのか?ほんとうにディンゴが赤ん坊をくわえて行ったのではないのか?
 リンディは現在赦免された身ではあるものの、まだ有罪判決が完全に無効になったという話は、聞こえてはこない。


◆井の頭公園バラバラ殺人事件

 

 1994年4月23日、三鷹市井の頭公園のゴミ箱から、男性のバラバラ死体が発見された。切断された遺体の断片は全部で27個。いずれも半透明のビニール袋に詰め込まれ、池の周囲に設置されたゴミ箱に小分けにされて捨てられていた。
 しかし断片は手足と胸部のみで、頭部と胴体は発見されなかった。指紋と掌紋は削がれていたが、やがてDNA鑑定から、捜索願が出されていた35歳の男性であることがわかった。

 警察は当初、手口が残虐であることから顔見知りの怨恨による殺人と考えた。が、いくら調べても被害者の周辺に、殺人にまで至るようなトラブルはなかった。

 死体の断片は司法解剖にかけられたが、ここで奇妙なことが判明する。ビニール袋から出された遺体のパーツひとつずつが、まるで定規ででも測ったかのように、きちんと同じ長さで切り揃えられていたのである。
 すべてのパーツが、ほぼ20数センチの長さできれいに切断されていた。それだけでなく、太さまでもが――肉を削ぎ、筋肉をけずるなどして――揃えられていたのである。
 通常のバラバラ殺人なら、関節の部分で手足を叩き切る。このように機械的に「長さ」で人体を測ることはしない。また遺体はじつにきれいに洗われ、血管から絞りだすようにして血抜きされていた。
 まるで儀式のようだ、と鑑定医は思った。

 死因もまた、判断がつかなかった。頭部や胴体がないので創傷や挫傷などをその部分に受けたのかどうかがわからないのだ。だが毒物は検出されなかった。発見されたパーツには傷がなく、死因を想像させるような手がかりはまったくないのである。また死亡時間を推定することすらできなかった。
 だがこれだけの作業を行なったことからして、犯人は複数で、流れ作業的に遺体を解剖したのではないか、ということだけは考えられた。

 捜査本部はここで、ひとつの仮説をたてた。これはもしやカルト宗教の仕業ではないのか? これほど緻密な遺体処理を黙々とやったということは、何らかのマンドコントロール下にあることが想像できる。
 教団から脱会しようとした人間の粛清、ということも考えられたが、被害者が新興宗教にはまっていた形跡はない。となると、これはもしかしてカルト宗教信者による、愚かな人間違い殺人ではないのか。だが、それを裏づける何らの物証はないのだった。

 事件当時、被害者は結婚しており、妻は妊娠中だった。彼女は心痛の中出産し、いまも親子3人ひっそり暮らしているという。被害者の父親は事件の解決を見ることなく、3年後に死去。新築されたばかりの二世帯住居だけが残された。
 事件解決のめどは今も立ってはいない。

 


◆ルナティック・アベック・キラー

 

 1946年、テキサス州で2月20日深夜、アベックが車の中でラジオの曲を聴きながら、ロマンティックな雰囲気に酔っていた。と、そこへいきなりドアが何者かに開けられ、アベックの男の方は頭を拳銃で殴られ、失神。女は引きずり出されて強姦された。
 夜があけて、2人は近くの民家に助けを求め、警察に通報した。警察は2人の証言した人相から捜査をはじめるが、物証もなく、すぐに行きづまってしまう。

 3月24日深夜、アベックが殺害されているのが発見された。男は至近距離から頭を撃たれ、女は強姦されたのち2回撃たれてナイフで切り裂かれていた。現場にはタイヤの跡があったが、これは前回の現場にもあったタイヤ痕と一致した。また、どちらの犯行も、満月で明るい夜に起こったということも共通点である。

 4月13日、ティーンエイジャーのアベックが殺された。ボーイフレンドの少年は射殺され、女の子は暴行の末、撃たれて切り裂かれている。手口はまったく同じだった。

 5月3日、この日のみ犯人は路上のアベックを狙わず、民家に入っていった。自宅でくつろいでいた亭主が射殺され、細君も撃たれたが、彼女は命からがら隣家へ駆けこんで助けを求めたので、一命をとりとめた。おそらく犯人は美貌の細君を見て悪心を起こし、家に侵入することにしたのだと思われた。

 捜査は大掛かりなもので、莫大な費用と、多勢の捜査官がつぎこまれた。だが物証といえばタイヤ痕のみ。囮捜査も決行したが、犯人はこの罠にはひっかからなかった。
 犯行は5月3日の凶行をもって終焉した。1954年になって、この一連の犯人であると言って出頭した男がいたが、これは明らかな虚偽であった。

 ただ、最後の犯行の2、3日後、犯行が頻発した地域で鉄道自殺した男が確認されている。人相も犯人に一致し、浮浪者といったタイプではなく、服装はさっぱりしていた。だが身元引受人はなく、そればかりか地域住民の誰も、その男が何者なのか知らなかったのである。男は無縁仏扱いで、共同墓地に埋葬された。
 この男が犯人であったのかどうか、確かめるすべはもうない。ただ、その後この地域で類似の事件は起こってはいない。

 


◆ウィリアム・デズモンド・テイラー

 

 1922年2月1日、米国映画監督協会会長をつとめる花形監督、ウィリアム・デズモンド・テイラーが射殺された。
 彼が住んでいたバンガロー型住宅には、映画界の大物たちが何人も住まわっていた。名優ダグラス・マクリーンとその妻フェイスもそのひとりであるが、その夜8時ごろ、フェイスは女中とともに銃声らしき音を聞いている。
 フェイスは「車のバック・ファイアだろう」くらいにしか思わなかったので、窓の外をふっと見ただけだった。するとテイラー宅のポーチに立っている男の影が見えた。だが彼女はそのままベッドに入り、眠ってしまい、翌朝になるまでそのことは思い出さなかった。

 翌朝、テイラーに朝食を運びに部屋へ入った召使が彼の死体を見つけた。彼は仰向けに倒れており、顔つきは穏やかだったが明らかに生きている人間のものではなかった。
 召使のあげた悲鳴で、隣人達が駆けつけた。ダグラス・マクリーンは彼の死体を見た感想を、
「まるでマネキンみたいだった。完璧なルックスで、傷ひとつないように見えた」と述べている。
 しかし警察が死体を持ち上げてみると、床に大きな血だまりが広がっていた。銃弾がテイラーの左脇腹に撃ち込まれていたのだった。

 当時の米国マスコミは、かの悪名高き「帝王」ことウィリアム・ランドルフ・ハーストのいやらしいイエロー・ジャーナリズムに席巻されていた。彼らは火種があると見なすや、事実かそうでないかには全く頓着することなく記事にした。
 テイラーの殺人事件は彼らの恰好の餌食となった。
 いわく、アル中同然の酒飲みである、同性愛者である、若い女と見るやすぐに手を出す、麻薬中毒患者である、ペデラストである――これらの嘘っぱちによって、テイラーは「不道徳な、殺されて当然の男」として一般読者にイメージ付けられた。今までもハーストの起こしたスキャンダルによって抹殺された映画人は少なくなかったが、その中でも最大規模のセンセーションが巻き起こされたのである。
 だが実際のテイラーは麻薬を忌み嫌っており、深酒をすることはあったものの、上品で礼儀正しく、ほとんど完璧と言ってもいい紳士だった。

 テイラーは俳優から演出家になり、監督になった男だった。もと俳優なだけあって美男で、タキシードの似合う優美なセンスの持ち主で、監督としても優秀だったので女性にはもてすぎるほどもてた。だが彼は身持ちが固く、仕事熱心で、目下の人間にも腰が低かったので誰からも高く評価された。
 当時の映画評論家、ウィリスは彼を評して、
「映画監督としてのテイラーの辞書に妥協の文字はない。彼は完璧主義の権化なのだ。そしてその仕事ぶりは自然体で、粘り強く、なおかつ熱心」
 と最大の賛辞を書いている。

 殺人犯として浮かび上がった人間は、おもに3人いた。
 ひとりは『赤毛のアン』で主役を演じたメアリ・ミンターの実母であり、強烈なステージママだった女性である。ミンターは誰の目にも明らかにテイラーに恋していた。テイラーは彼女の愛に応える気はさほどなかったようだが、
「スターになるためには絶対に恋愛禁止である」
 と娘に言い渡していた母親には、テイラーの存在は目の上の瘤以外のなにものでもなかったらしい。彼女はミンターとテイラーをヒステリックに責めたて、実際に銃を購入した。テイラー宅にいきなり押しかけ、
「娘はここにいるんでしょう! 畜生、あの子がベッドにいたらおまえを殺してやる!」
 とわめき、家捜しさせたことさえあった。だが勿論、ミンターはそこにはいなかった。
 ミンターと母親の仲は険悪になり、喧嘩が絶えず、自室でミンターが銃を乱射する騒ぎを起こしたことすらあったという。

 もうひとつの可能性は、人気コメディ女優だったメイベル・ノーマンドにまつわるものである。彼女は恋に破れて以来、麻薬に溺れるようになり、おそらく彼女を恋していたテイラーは麻薬をなんとかやめさせようと奔走したらしい。そして麻薬取締り運動を強化するよう働きかけ、反ドラッグの映画をつくり、撮影現場での使用を禁じた。
 この動きが、麻薬を扱っていたギャング組織を敵にまわしたというのは映画界では有名な話のようであった。

 また、テイラーがかつて秘書として雇っていたサンズという男がいる。この男は食わせもので、テイラーの懐にもぐりこんでから彼の財産を食い荒らした。サンズには逮捕令状が出たが、行方不明となり、まだ逮捕されてはいなかった。彼がまたテイラーのもとに金をせびりに現れ、断られて殺す、というのもいかにもありそうな話だった。

 が、犯人は結局特定できずじまいだった。ミンターの母親がもっとも有力な容疑者であったが、立証はできなかったのだ。ミンターはその後ふるわず、まだ20歳という若さでパラマウント社からお払い箱になった。
 ミンターと母親は田舎にひっこみ、なにがしかの秘密を抱えたまま、母親が死ぬまで同居した。そして母が死去したのちも彼女はその家に住みつづけ、生涯独身で、おのれの悲運を嘆きながらぶくぶくと太り、82歳で死んだ。死の間際には頭もおかしくなっていたという。

 監督としてのテイラーの名誉がいまだ完全に回復されていないのは、真犯人が見つからなかったと同じほど無念な話である。

 


 

◆リジー・ボーデン

 

 「切り裂きジャック」を除いては、あそらくこれが一番有名な未解決事件だろう。今では伝説の域にまで達しているといっても過言ではあるまい。だがこれは本当に娘・リジーの犯行だったのか? そしてそれなら動機はなんだったのか? 多くの犯罪研究家がこの謎に悩まされ、かつ魅せられてきたのである。

 事件は1892年、マサチューセッツの小さな町で起こった。ボーデン氏は町の名士であり比較的裕福だった。家族は2番目の妻と、2人の娘だけである。
 ある日、ボーデン氏はここ数日間の腹痛と吐き気が耐えがたくなり、午前中に帰宅した。家にはリジーと家政婦しかいなかった。姉はこの前から友達の家に泊まりに行っていて留守だったし、リジーによると「お義母さんは誰かのお見舞いに行っていないわ」とのことだった。
 30分後、リジーの悲鳴が聞こえた。
 自室にいた家政婦があわてて階下におりていってみると、居間のソファでボーデン氏が頭を割られて死んでいた。また、いつ帰ってきたものか妻のボーデン夫人も、客室で頭蓋をめった打ちにされて殺されていた。
 医師はこの傷口を見て、ただちにこれが手斧で数撃から十数撃与えられたものだと判断した。のちに父親は9回、継母は17回打撃を受けていたことがわかった。ふたりとも、顔の判別はまったくつかないまでになっていた。

 当初こそ捜査は難航したものの、すぐに容疑はリジーに集中した。理由は普段から継母と不仲だったこと、当日に彼女しか家にいなかったこと、事件の数日前に「蛾を退治したい」と言って青酸を買いもとめていたことなどだった。
 彼女は逮捕され、裁判にかけられたが有罪となる証拠はなく、全くの状況証拠だけで、凶器すら見つからなかった。リジーは32歳の冴えない独身女で、およそそんな大それたことをするタイプには見えなかった。彼女は法廷で失神さえしてみせ、陪審員の同情をかった。
 だがもっとも陪審員を納得させたのは弁護士のこの台詞である。 
「もし彼女が犯人で、あれほど両親を斧でめった打ちにしたのだとしたら、すさまじい返り血を浴びたはずじゃありませんか? しかし血まみれの服なんか一着も見つかってはいないんです。しかもボーデン夫人は夫より1時間近く前に殺されている。もし彼女が犯人だとしたらこの貞淑なるボーデン嬢は、ヌードで屋敷内を歩き回って斧をふるったことになる。そんなの、考えられますかねえ?」
 リジーは「限りなく黒に近い灰色だが、黒とは言えない」として無罪になった。

 しかし実のところ、地下の物置で柄の壊れた、灰まみれの斧の刃は発見されていたのである。そして事件の数日後、台所で「古くなった服」を燃しているところを知人に発見されてもいる。後日この知人はリジーに、服を燃やすべきではなかったのではないか、と言った。するとリジーは不思議そうな顔をして言った。
「じゃああんたは、なぜあたしがそうするのを黙って見てたの」。

 それから4年後、新聞の見出しに「またもやリジー!」という見出しがおどった。内容はリジーがある絵画店から2枚の絵を万引きし、店主に「告訴されたくなければ、親殺しの告白を一筆したためてもらおうか」と持ちかけられたというものである。現在ではこの念書が偽造であることは明らかになっているが、どうやら窃盗の一件のほうは本当だったようである。

 また彼女には遺伝性の偏頭痛と、癲癇発作があったこともわかっている。側頭葉に損傷があるためで、彼女は最低でも年4回、主に生理期間中にこの発作に襲われた。ちなみに両親の惨殺事件が起こった当日も、彼女は生理日であった。
 リジーが逮捕される前から、町ではこんな戯れ唄が流行していたという。
「リジー・ボーデン斧を手に 義母さんぴしゃっと40回、 はっと気づいて父さんに41回目をくれたとさ」
 さて、「ぴしゃっと叩いた」のはやはりこの哀れなハイ・ミスの仕業だったのか?

 


「解かれることを望まない謎だってあるさ。」

        ――E・A・ポオ『盗まれた手紙』より――

 

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