RIPPERS ―切り裂き魔たち―


屠殺者ではありません。ユダヤ人とも違います。
ましてや異国の船乗りとは。
私はあなたが心を許す
親愛なる友、切り裂きジャック。

      ――ジョナサン・グッドマン『血まみれの短詩?犯罪の韻文』より

 


ピーター・サトクリフ

 1946年、イングランド北部に生まれたサトクリフは無口で引っ込み思案な男だったが、犯行はその外観にも似ず、非常に派手なものだった。
 工業地帯の郊外で妻とささやかな家庭生活を送る彼は、夜な夜な売春婦の闊歩する路地や酒場、人気のない裏通り、薄暗いビルの谷間などをうろつきまわっていた。彼の犠牲者選びはほぼ無作為だったが、手口は共通していた。
 犠牲者はハンマーで背後から殴られ気絶する(ときには頭蓋骨を割られることさえある)。次に彼は服をめくりあげ、腹部や陰部を繰り返し刺す。凶器はナイフを使うこともあれば、ドライバーのこともある。犠牲者が凌辱されたケースはわずか1件。どうやらサトクリフは女を刺すことで性的満足感を得るタイプだったらしい。
 タブロイドは19世紀最大の殺人者、切り裂きジャックにあやかって彼を“ヨークシャー・リッパー”と名づけた。

 サトクリフは子供の頃から一種の「異端児」であった。父親は社交的だったが女好きで、母親は敬虔なカトリック信者だった。彼は母親を熱愛し、彼女のスカートの陰に隠れていさえすれば満足だった。頭はけっして悪くないのだが要領が悪く、いつもヘマばかりしていたのでいじめられ、人付き合いを避けるようになった。学校卒業後も彼の気真面目と厭人癖は深まるばかりで、酒場では人波からぽつんと離れたところで、じっと1人座っているのが常だった。
 サトクリフは16歳のとき、将来の妻となるソニアと出会う。彼はカトリックらしい堅苦しいほどの礼儀正しさで、7年間にわたり彼女に求愛をつづけた。しかしソニアにしてみれば、彼はたしかに紳士的ではあったが、もの足りないものも感じていたのだろう。1969年8月、サトクリフは彼女がほかの男ともデートしていることを知ってしまう。
 傷ついたサトクリフは自棄になり、売春婦を買った。がやはり途中で気が変わり、「何もせず帰るからせめて半額、金を返してくれ」と言ったところ、鼻で笑われた。彼がなおも諦めずに食いさがると、女のヒモが現れて彼を追い返し、笑いものにした。彼はこの屈辱的な1件に、潜在的な暴力嗜好と憎悪をかきたてられた。
 それから1月もたたないうち、サトクリフは売春婦(彼を嘲笑った売春婦ではなく、人間違いだった)の頭を靴下でくるんだレンガで殴りつけ、重傷を負わせている。サトクリフは車のナンバーを見られていたので早々に逮捕されたが、被害者がそれ以上の訴えを起こさなかったので警告で済んだ。
 1970年にはサトクリフの崇拝するもう1人の女性が地に堕ちた。長年夫の女関係に苦労してきた彼の母親は、地元の警官と不倫関係になっていたのである。それを知って激昂したサトクリフの父は、警官の名をかたって妻をホテルに呼び出し、子供たち2人とソニアを連れ立って待ち伏せした。
 その場に現れた彼女に、サトクリフの父親は寝室から見つけた「新品のネグリジェ」を投げつけた。
 サトクリフは女神のように崇めていた母親の不倫を知り、女性に対する絶望を感じた。
 両親は結局離婚することなく和解したが、以来母親は罪の意識によるかるい精神障害をわずらうようになる。
 1974年、サトクリフはソニアと結婚した。しかしその頃にはサトクリフの悪癖ははじまりつつあった。まず彼は売春婦と楽しむことを覚え、毎週のように赤線街をうろつくようになった。

 結婚して約半年後、彼は最初の犯行を犯した。1人歩きしていた売春婦の背後からハンマーで3回頭蓋を殴り、彼女が倒れると、ナイフで胸から腹に幾度も切りつけた。この売春婦は長時間に渡る脳の大手術ののち、なんとか一命をとりとめた。
 次の犯行は6週間後。彼は46歳の掃除婦をハンマーで殴りつけ、彼女の服を脱がせ、弓ノコで彼女の胴体をウエストのくびれから切断しようとした。だが路地の向こうに人の気配を感じて逃げたため、またも殺人は未遂に終わった。
 3ヵ月後の1976年1月、42歳の売春婦が殺害された。彼女は2発の強打で頭蓋をつぶされ、全身にドライバーで52箇所もの刺し傷を付けられた。
 1977年2月、28歳の売春婦殺害。
 同年4月、32歳の売春婦殺害。
 この頃にはマスコミは「ヨークシャー・リッパー」報道で加熱していた。
 同年6月、売春婦ではない靴屋の16歳の店員、殺害。
 同年10月、ふたたび売春婦殺害に戻る。
 1978年1月、22歳の売春婦殺害。粗大ゴミのソファに詰められていた馬の毛で窒息死させ、彼女の胸の上でぴょんぴょん飛び跳ねて胸郭をつぶした。
 同年5月、売春婦殺害。翌1979年4月、19歳の女子銀行員殺害。9月、20歳の女子大生殺害。彼女は頭蓋を粉々に砕かれ、体に8ヵ所の刺し傷を負っていた。
 1980年8月、47歳の公務員を絞殺。同年11月、20歳の女子大生を殴り、切り裂いて殺害。
 いまやヨークシャー・リッパーのターゲットは売春婦だけではなくなったことを知り、民衆は憤怒にかられた。デモと抗議が路上にあふれた。
 しかし殺人者の逮捕劇はあっけないものだった。1981年1月、売春婦と車に同乗していたところを警官に尋問されたサトクリフは、トイレに行くふりをしてハンマーとナイフを捨てた。しかしそれを発見されるやいなや、サトクリフは胸のつかえを下ろすかのように13件の犯行を自供した。
 彼の乗っていたトラックには、彼自身が書いたカードが吊るしてあった。
「このトラックに乗っている男は、その内に秘めた天才を解き放てば国を揺るがし、その精気は人間すべてを圧倒する。この男を眠らせるべきか否か?!」
 この台詞についてコリン・ウィルソンは「近代以降多くの殺人者に共通する、目のくらむような狂気のエゴの発散」と述べている。
 ピーター・サトクリフは終身刑を受けた。

 


◆ジョセフ・ヴァシェル

 「フランスの切り裂き魔」ことジョセフ・ヴァシェルは1869年に生まれた。暴力と激怒の症状を見せる定期的な発作があり、彼自身はこれを8歳の頃狂犬に噛まれた後遺症と主張し、一連の犯行についてもこの言い訳を使ったが、信じる者はなかったようだ。
 彼は自己憐憫の強い、被害妄想的な人間だった。自分は迫害され、世間のすべてに辛くあたられると思いこんでおり、手あたり次第に腹をたてていた。
 殺人者となる前も、ヴァシェルの人生は痙攣発作的なものだった。
 彼は若い頃熱烈に宗教に傾き、修道僧を志したことがあったが、同僚の僧に同性愛をせまったため、追い出された。徴兵による軍隊時代には期待していた昇進が延期になったことで、自らの首をかき切って自殺をはかった。除隊後、ある女性に求婚するが断られたため、彼女を撃ち無理心中をはかった。女性は助かったが、ヴァシェルが自らを撃った弾丸は右耳を貫通し、彼を聾にした。また顔面の右半分が麻痺し、一生を引き攣れた顔のままで過ごさねばならなくなった。
 ヴァシェルは精神病院へ入院するが、1894年退院。
 彼が「殺人者」として跋扈しはじめるのはこの直後からである。
 同年5月、彼は20歳の女性を襲い、首を絞めて気絶させた。それから彼女の喉を切り裂き、右の乳房を切除し、腹を足で踏みつけてから、死体と交わった。これがヴァシェルの手にかかった11人の被害者の、最初のひとりである。
 彼が犯行に及んだ期間はここから1897年までの3年間だが、7人が女性(年齢は16歳から58歳まで)、4人が男性(14歳から18歳まで)である。ヴァシェルは完全な両性愛者だったようで、男女を問わず被害者はすべて凌辱され、内臓を抉られ、性器を切断、切除された。また死体の幾つかには、ヴァシェルの深い歯型が残っていた。
 1897年8月、彼は森で松かさを拾っている女性を襲った。が彼女は意外に強く、助けが駆けつけるまで悲鳴をあげ、抵抗しつづけたので助かった。ヴァシェルは取り押さえられ、警察に連行された。
 なぜかヴァシェルは獄中で裁判官に、過去3年間の犯行を自供する手紙をしたためた。彼は「狂犬に噛まれた」一件を持ち出し精神異常を主張したが、医師団は正常と診断した。
 1898年の大晦日、ヴァシェルは処刑された。

 


◆ルドヴィッヒ・テスノー

 ヴァシェルとほぼ同時代、ドイツ西部の村でふたりの少女が姿を消した。彼女たちはのちに、近くの森で死体となって発見された。手足が切断され、全身が切り裂かれ、内臓が広い地域にわたって撒き散らされていた。
 渡り大工をして生計をたてていたテスノーという男が容疑者として取調べを受けたが、証拠不十分で釈放された。
 それから3年後、バルト海の島で幼い兄弟が失踪し、死体が森で発見された。彼らもまた手足を切断され、引きずりだされた内臓をばらまかれていた。
 しかしこの兄弟とテスノーが話しているのを目撃していた者がおり、彼は逮捕された。着ていた服には血痕とおぼしき汚れがあり、なおかつ洗い落とそうとした痕跡さえ認められた。テスノーはこれを材木の樹液の汚れだと主張した。しかし警察は3年前にドイツ西部で起こった事件を思い出し、容疑者の名を問い合わせた。名前はやはりテスノー。警察は彼の犯行を確信した。
 また彼が故郷に戻ってきてすぐ、野原で6頭の羊が切り裂かれ、殺された事件が起こっている。
 警察は彼の汚れた衣服を、大学病院の検識官にまわした。当時、ようやく血液と他物質を見分ける試験方法は発見されたばかりだった。
 実験により、血液は人間と羊のものであることが判明した。テスノーは有罪となり、処刑された。
 19世紀末、ヴィクトリア朝時代の倫理下にある社会において、過剰に抑圧された性欲は暴発するやいなや、容易に狂気の奔流となったのである。

 


◆ウィリアム・マクドナルド

 1961年7月4日、シドニーの公衆浴場の脱衣所で、男性の惨殺死体が発見された。遺体には30箇所以上の刺し傷があり、性器と首に切断を試みようとした跡がまざまざとと残っていた。
 それから5ヶ月後の11月20日、シドニー郊外の公園内の便所で、また男の死体が発見された。前回と同じく、執拗に刺され、切り裂かれている。今度は完全に性器は切断されていた。公衆浴場、公衆便所という現場から推察されることは、犯人と犠牲者が性的目的で連れ立って入ったことを示している。犠牲者はどちらもホームレスで、金目当てで犯人の誘いに乗ったと思われた。
 警察はこの「切り裂き魔」を相手に大掛かりな捜査網を張った。しかし4ヶ月後、みたび犯行は繰り返された。
 この男は発見されたときまだ息があったが、なにも言い残すことなく失血死した。
 翌1962年の11月、シドニーの保険衛生局に「いやな匂いがする」との苦情が入り、担当者がコンコードの一角の家を訪れた。するとその家の床下から「めった切り」にされた死体が出てきた。手口は前3件とほぼ一致する。
 死体は腐敗がすすんでおり、身元の特定は難しかった。が、この家の住人――ウィリアム・マクドナルド――であることに間違いはないだろうとされた。彼は現に、11月頭頃から姿を見せていなかった。
 この家からは、主人の蔵書と見られる2冊のペーパーバックが押収された。
 1冊は「切り裂きジャックのすべて」そしてもう1冊はコリン・ウィルソンの「暗黒のまつり」である。

 翌1963年4月22日、ジョージ通りを散歩していた男性が「死んだはずのウィリアム・マクドナルド」が自分の前を横切ったのに仰天し、警察に連絡する。
 知らせを聞いた警察はただちにモンタージュ写真を広く配布した。それから半月後、スペンサー通り鉄道駅で、書記2人がこのモンタージュを目にし、同時に驚きの声をあげることになる。
「こいつ、うちで働いてる補助員のアランじゃないか?」
 ふたりはためらうことなく警察に電話した。
 逮捕された「アラン」は、尋問であっけなく「本名はウィリアム・マクドナルドです」と認めた。
 アランの名で借りていた部屋で、警察はコリン・ウィルソンとパット・ピットマンの有名な共著「殺人百科」を見つけた。
「なんだってこんなくだらない本ばっかり読むんだ?」
「読んで楽しいと思うのは、そのテの本だけなのさ」
 そう言ってマクドナルドは肩をすくめた。
 しかし彼の生い立ちが明らかになるにつれ、マクドナルドが「そのテの本」にかぶれる以前からサディスティックな性癖を持っていたことがはっきりした。

 彼は英国にいた15歳のとき、陸軍の下士官にレイプされて以来、憤怒と殺意の発作にみまわれるようになったと述べた。しかし実際には彼は公衆トイレで男を漁る、積極的なゲイだった。
 立ち居ふるまいや仕草などから一見してゲイとわかる彼は、どの職場でもうまくいかなかった。彼は迫害されない職場を探し、仕事を求めてイギリス中を渡り歩いた。しかししまいに神経症となってしまい、静養を取る意味でもオーストラリアへ移住した。しかしそこでも事態は好転せず、また職場を転々とする日々がつづいた。
 彼の心の中には、自分を「除け者」にする社会への憎悪と憤懣がつのっていった。それはたやすく暴力への衝動と結びついた。
 とうとうある日、友人の家で酒を飲んでいるとき、彼は
「こいつを絞め殺したい」
 という欲求にあらがえなくなった。彼は友人を殺し、死体を上掛けに押し込んで立ち去った。
 マクドナルドはそれから数日、警察が逮捕状を持って訪れる光景を想像し、おびえ暮らした。しかし新聞に載った友人の死因は「事故死」というものだった。
 彼は胸を撫でおろし、そして「殺人は、身の内の暴力衝動と憎悪を癒してくれる最良の方法だ」と悟った。
 マクドナルドは以来、ホームレスをひっかけて酔いつぶし、めった切りにして殺すことを始めたのだった。
 しかしまだ表面的にはマクドナルドはまともな男だった。小さな店を持ち、そこそこ繁盛させてもいた。だがある日、彼はまた衝動に負ける。自宅に連れ込んだ男を酔っぱらわせ、床も壁も血しぶきで真っ赤になるほど切り裂いたのち、死体を床下に埋めて逃亡したのである。
 それから彼はしばらく郊外をさまよい、ロシア人の知人を標的にさだめて訪問したが、幸運なことに彼は留守だった。
 マクドナルドは精神分裂病と診断され、死ぬまで白い壁を見つめて暮らした。

 彼がもし、ゲイであることをおおっぴらにして生きていけるような社会に属していたとしたら、殺人犯にならずに済んだだろうか? そうかもしれない。
 執拗に「切り裂く」「刺す」という行為は憤怒のあらわれである。自分だけが除け者にされているという感覚、世の中の「正常な嗜好」に生まれついた人々への憧憬と憎悪。自分以外はすべて幸福に見え、なんの悩みもなく生活していると思い込む。
 インテリの同性愛者はしばしばこう言う。
「いいか、歴史における天才はすべて同性愛者だ。ミケランジェロしかり、ダ・ヴィンチしかり、プラトンしかり、チャイコフスキーしかり……」
 しかしこういった方法で自らを慰めることのできない者(同性愛者に限らず)もたしかに存在するのだ。
 半生を「除け者」「異常者」として自らを認識して過ごした者は、世間への復讐に燃えている。彼らは同胞への同類感を完全に喪失し、相手の「正常さ」を唾棄し、憎悪する。犯行のこの上ない残酷さは、そのゆえである。

 


◆“マッド・ブッチャー”

 最初にお断わりしておくが、この「マッド・ブッチャー(気違い屠殺人)」による一連の犯行は、迷宮入りとなっている。
 1935年から1938年にかけて、この屠殺人は最低でも12人を殺害し、死体をばらばらに切り刻み、首を胴体から切り離した。頭部がついに発見されないままに終わり、首なし死体だけがあとに残された、というケースも少なくなかった。
 1935年、オハイオ州クリーヴランドのスラム街で、めったやたらに切り裂かれた首なし死体が2体発見された。被害者はどちらも男性で、ひとりは28歳、ひとりは40前後(年齢が曖昧なのは、身元が最後まで判明しなかったためである)。犠牲者が男性であることから、犯人はサディストのゲイだろうと思われた。
 しかしその4ヵ月後、前回からさほど遠くない場所で、今度は42歳の売春婦が首なし死体となって見つかった。手口は同じで、死体は気違いじみた凶暴さで切り刻まれていた。警察は同性愛者の犯行説を引っ込めざるを得なかった。
 さらに翌年、同地区で3体の首なし死体が発見される。被害者はいずれも男性であったが、犯人の手口は残虐さを増しており、中には原型をとどめないまでに「解体」されているものすらあった。
 この残酷さは一体何に所以するものなのか? 憤怒と逆上。性的興奮。そして鬱屈の爆発か?

 1937年2月には、ふたたび被害者は女性になった。頭部は切断され、死体は人間としての尊厳を失うまでに徹底的に解体されていた。
 6月には黒人女性がばらばらにされて麻袋に詰められ、スープを取られた豚のような姿で橋の下に放置されていた。7月に発見された9人目の死体は男性で、やはり解体され尽くしていた。
 翌1938年には女性2人と男性1人が同様の手口で殺害された。
 どのケースでも共通していたのは、首を切断していること。12人の被害者のうち、きっかり半数の6つの首が発見されぬまま事件は迷宮入りとなった。
 しかしクリーヴランド警察の当時の責任者は、「アンタッチャブル」でアル・カポネと頭脳戦を繰り広げたことで有名な、かのエリオット・ネスであった。彼は「マッド・ブッチャー(当時の新聞の命名)は売春婦や浮浪者をターゲットにしている。ならば、獲物をいなくしてしまえばいい」
 と計画し、浮浪者の溜まり場から住民を立ち退かせ、掘っ立て小屋を焼き払った。あまりにも手荒い仕打ちだが、たしかにこれで犯人は狩るべき獲物を失った。マッド・ブッチャーの犯行はこのネスの大胆な対策で、一応の終息を迎えたのである。
 ネスは同時に、犯人像をこうプロファイリングした。
「おそらく相手の抵抗をいなせるだけの大男で、怪力。死体を運搬する自家用車を所有。他人の目に付き
にくい、閑静な場所での一人暮らし。すなわち、裕福な暮らし向きの男だ」
 彼が描いたこの犯人像にぴったりの男は果たして実在した。大男の両性愛者で、偏屈な妄想症、そして資産家であった。が、この男は警察が証拠を見つけ出す前に精神病院へ収容され、1年後に病院内で死亡した。ネスはこの男がマッド・ブッチャーであることに絶対の自信を持っていたというが、立証はできずじまいであり、一連の事件書類は「未解決事件」の棚にファイルされることとなった。
 が、その男の死後、マッド・ブッチャーの犯行が2度と起こらなかったこともまた事実である。

 


◆レンウィック・ウィリアムズ

 「この男が一体何者か知らなかったので、世間は“モンスター”と呼んだ。これは実に適切な呼び方だった」として18世紀の『英国裁判判例集』に登場する男がいる。名前をレンウィック・ウィリアムズと言った。
 彼がロンドンで“モンスター”として跋扈したほぼ1世紀後、“切り裂きジャック”が現れることになるのである。言い換えれば我々が猟奇殺人なるものに出会うまでは、まだ1世紀を待たなくてはならなかったということだ。
 さて、このモンスターが一体何人の男女を殺したかと言えば、答えは「ゼロ」である。
 だが彼は「サディスティックな性欲を満たすための犯罪」の祖であったと言える。彼は暗い夜道に待ち伏せて女性の衣服をナイフで切り裂き、または花束を手にして背後から女性に声をかけ、「この芳香は貴女にふさわしい」とそそのかして香りを嗅がせては、花束に隠した鋭利な凶器でその女性の顔をずたずたにした。また群集にまぎれこみ、若い女性の尻や乳房をアイスピック状の凶器で突いてまわることもあった。
 つまり現代で言うならば彼は「典型的な変質者」である。性的フラストレーション、劣等感、女性憎悪、内向した怒り……等、現代なら誰もが口に出さずとも察することのできる心理が、当時はまだまったく未知のものであった。セックス犯罪の時代は19世紀からである。さしたる理由もなく女性を切り裂いて悦ぶ男の心理など想像することすらできないロンドンっ子たちはパニックに陥り、ふるえあがった。
 やがてウィリアムズは、彼がナイフで尻を切り裂いた女性に顔を見られ、名指しで訴えられることになった。
 しかし当時の英国に「動機もなく女性の衣服や体を切り裂く男」を裁くための刑罰はなかった。仕方なく、彼は「財産損壊」「衣服毀損」の罪で裁かれ、6年の禁固刑を受けた。
 だがこのケースは殺人としての被害者こそ出なかったものの、「容易にエスカレートしていったであろう、その末路」はいつの時代も同様だっただろうと思わせる。
 時代によって“モンスター”も形を変える。レンウィックは「憎悪と抑圧の怪物」の雛型であったと言えるだろう。

 


◆ルツィアン・スタニャック

 1964年、ポーランドの共産政権は、旧ソ連軍によるワルシャワ解放の20周年を祝うため、沸き立っていた。7月22日にはワルシャワで盛大なパレードが行なわれることになっており、まさに国を上げての一大イベント前夜、といった態であった。
 だが7月4日、そんなお祭ムードに水をさすかのように、有名女性誌の編集部に匿名の手紙が送りつけられてきた。蜘蛛の足のようにのたくった文字で、奇妙にべたべたした赤インキを使って、
「涙のない幸福はなく、死のない生はない。注意せよ! 我はおまえに涙を流させよう」
 と記してある。この抽象的とも言える怪文書の内容はしかし、女性誌とはなんの関わりもないところで進行した。

 7月22日の大パレードの晩、17歳の少女がダンス・パレードに参加しに行ったまま戻らなかった。彼女は翌朝、公園の園丁によって、茂みの中で死体となって発見された。あきらかに強姦されており、下半身はジャック・ザ・リッパーがお得意としたやり口で、めちゃくちゃに切り裂かれていた。
 24日、例の赤インキの手紙が今度はワルシャワの新聞社宛てに送られてきた。
「我は先日、露を含んだ花を摘めりしが、どこかでまた摘むつもりだ。葬式のない休日などないのだ」。
 インキを分析した結果、赤い油絵具をテレピン油で溶かしたものであることがわかった。

 1965年1月ワルシャワ新聞は、この年のパレードの学生リーダーに選出された16歳の美少女の写真を掲載した。彼女はパレードで自分の役目を終えた後、ヒッチハイクで自宅まで帰ろうとした。ポーランドはアメリカやイギリス、ドイツ等に比べ格段に性犯罪の発生率が低い(共産党圏にありがちな統計である為実際の数値かどうかは不明だが、国民に危機感がうすいことは確かだ)のである。
 彼女は翌日、自宅近所の工場地下室で死体となって発見された。この犯行はあきらかに綿密に計画されたものであり、犯人は工場の窓の格子をはずして、中で待ち伏せしていた。そして彼女が通りかかったところに、頭から針金の輪ナワをかけたのである。男は彼女を地下室に連れ込んで凌辱し、彼女の性器に6インチの大釘を突っ込んだまま立ち去った。
 この少女の捜索中、「彼女の死体のありか」を教えるべく、またも赤インキでしたためられた手紙が、警察のもとに届いた(ペーター・キュルテンを思わせる手口だ)。犯人像はまだ皆目見当もつかないものだったが、ともかくこの男は芝居っ気たっぷりな自信家であろうと思われた。国民の祝日を犯行の日に選び、手紙で生と死について思索する。
 この犯人は、蜘蛛の足のようなその筆跡から「赤蜘蛛」と呼ばれるようになった。

 赤蜘蛛は次に、10月1日の万聖節を犯行日と定めた。被害者はブロンドの美しい受付嬢。貨物列車の人気のない終着駅の荷造り所で、彼女は凌辱され、スクリュードライバーで殺された。死体の切断の仕方が「あまりに徹底していて、おぞましいもの」だったので、ポーランド当局はその詳細の発表をひかえた。
 赤蜘蛛はしかし、上半身を傷つけることにはまったく無関心だったらしく、この点で他の多くの「切り裂き魔たち」とは異なっている。彼は新聞社に、また例の調子の手紙を書き送った。
「悲しみの涙だけが、恥辱の染みを洗い落とすことができる。苦悩だけが、欲情の火を消すことができる」。
 1966年のメーデー、17歳の少女が自宅裏の物置で殺された。彼女は下腹を裂かれ、引きずり出された内臓が、冷たくなった両腿の上で幾何学的な模様を描いていた。

 警察は、赤蜘蛛が「祝日に殺人を犯す」ことは有名だが、「そのほかの日」にも犯行を犯しているのではないかと推論した。セックス殺人のルールは、次第に犯行の感覚が短くなってゆくことである。ことにこの犯人のような男が、きちんと暦通りに自分を抑えて待っていることなど有り得ないことだと思われた。すると1964年の最初の殺人以降、祝日以外で起こった「切り裂き殺人」が13件あることが判明した。いずれも近くはないが鉄道網の中で、汽車で行ける土地で起こっている。
 1966年のクリスマス・イヴには、汽車の仕切り客室(コンパートメント)で、下半身をめった切りにされた少女の死体が見つかった。凌辱の痕跡はあきらかで、腹部と腿の切り裂かれぶりは犯人の逆上ぶりを表わす凄まじいものだった。
 新聞社にはまた例の手紙が届いた。
「我、罪を犯せり」。
 しかしここで意外な事実が判明した。汽車の中で殺された少女は、1964年に殺害された少女の妹であった。ここには何か因果関係が感じられる、そう思った警察は、コンパートメントを予約した男の洗い出しにかかった。結果、赤蜘蛛がこの被害者の少女と顔見知りで、一緒に旅行することを承知させ、切符を予約したらしいことが明らかになった。彼は乗って10分ほどで少女を殺し、何食わぬ顔で汽車を降りていったのである。
 被害者の両親は、「姉妹ふたりとも、絵画のモデルをやっていました」と言った。

 警察はふたりがモデルをした美術学校と、美術愛好クラブを訪れた。美術愛好クラブには会員が180人ほどいたが、この中に「生命の輪」という奇妙な絵を書いた男がいた。花が牛に食べられ、牛が狼に食べられ、狼が狩人に撃たれ、狩人が女の運転する車に轢かれ、女は草原で腹を裂かれて横たわり、その死体からは花が咲いている、という構図の絵である。
「この絵を描いた方は?」
「ルツィアン・スタニャックという翻訳家の方です」。
 彼は26歳の翻訳家で、仕事柄、たびたびポーランド全土を旅行した。彼は鉄道の割引切符をつねに持っていた。
 警察は彼のロッカーを見せてもらいたいと言った。ロッカーの中にはナイフがずらりと揃っていた。クラブの管理人は、
「スタニャックさんは絵を描くとき、パレットナイフではなく本物のナイフを使うのですよ」と言った。
 そういえば、例の手紙のインキは絵具をテレピン油で溶いたものである。警察は犯人を発見したことに確信を抱いた。
 警察はただちにスタニャックの済むアパートに駆けつけたが、彼は留守だった――赤蜘蛛は、最後の犯行を犯している真っ最中だったのである。彼は駅の待合室で18歳の少女の頭をウォトカの瓶で殴って気絶させ、凌辱して、切り裂いた。
 スタニャックは翌朝逮捕された。発見されたとき彼は一晩中酒を飲んでいて、ぐでんぐでんだった。彼は26歳で、たいへんな美男子だった。逃げる見込みがまったくないことはわかっていたようで、20件の殺人についてすらすらと自白した。

 スタニャックの両親と妹は、氷の張った道路を横断しているところを、スリップした車にはねられて死亡した。運転していたのはポーランド空軍飛行士の若い妻で、スピード違反だった。その女は無謀運転で起訴されたが、無罪になった。
 スタニャックは最初の被害者の少女を新聞の写真で見て、その飛行士の妻に似ていると思った。それが犯行の動機だった。彼は飛行士の妻本人を殺す気はなかった。そんな真似をすれば、捜査線上に自分の存在が浮かびあがるのは時間の問題である。彼はせっせと「代償殺人」にいそしんだ。不思議なことに、身代わりたちを殺せば殺すほど、怒りはつのった、
 スタニャックは死刑を宣告されたが、のちに減刑となり精神病院に送られた。

 


◆ジャック・ザ・リパー

 イギリスでは17世紀前半まで、ワインやビール、シェリーや蜂蜜酒や林檎酒が飲まれていた。イギリス人は多量の酒を飲んだ。ひとつには水が煮沸しなければ飲めなかったからだが、庶民(ほぼ半数が貧民)には、人生は飲んだくれて忘れてしまいたい憂さで満ちていたから、というのが大きな理由である。
 そんな中現れたのが、ジンであった。ジンは安く、製法が簡単だったのでただちに広まった。また、1690年には法令によって誰にでもアルコールを製造し、売ることができるようになったので、イギリスのどの町にもジンの販売店が急速に溢れかえった。
 その有名な宣伝文がこれだ。
「1ペニーで酔っぱらい、2ペンスでぐでんぐでん、清潔なストロー付き」。
 ビールやワインは高価だったが、ジンは1ペニー稼ぐか、恵んでもらえる者なら誰でも口にすることが出来た。必然的に犯罪発生率は上昇した。
 売春婦、追いはぎ、物乞い、スリ、かっぱらい――、ジンを得るためなら人々は何でもした。当時イギリスでは年間800万ガロンのジンが飲まれ、ロンドンだけでも、1人平均14ガロンのジンが飲まれた。
 ジャック・ザ・リパーが現れたのは、そんな貧民窟の一角、ホワイトチャペルである。

 1888年、8月31日の早朝、出勤途中のトラック運転手がホワイトチャペルのバックス通りで地面に横たわっている女を発見した。スカートが腰の上までめくれあがっている。彼は最初、強姦だと思った。だが顔に手を触れてみて、女が死んでいることに気づいた。
 女は首を、一方の耳からもう一方の耳の下に至るまで深く切り裂かれ、ほとんど頭が体から切断されかけていた。その上、下腹部を大きく切開されてもいる。すべての傷は右から左へ走っており、犯人は左利きであろうと思われた。また、あまりの鮮やかな手口に、かなり解剖学的知識のある者だろう、との見解が出されることになる。
 被害者の名はメアリ・アン・ニコルズ。42歳で5人の子持ち。アル中の売春婦だった。

 第2の殺人は9月8日に起こった。被害者の首はねじれて壁際を向いており、切り落とされかけた首を胴とつなぎとめておくためか、白いハンカチが結わえてあった。
 死体は万歳するように両手をあげ、足を開いて膝を立て、大きく広げられていた。スカートは第1の殺人と同様たくしあげられ、腹部はめちゃめちゃに切り裂かれていた。耳から耳までを一気に切り裂かれたのが死因で、その後犯人は彼女の腹を裂き、腸を引きずりだし、肩に乗せた。子宮、膣の上部、膀胱の3分の2が完全に切りとられていた。
 被害者の名はアニー・チャップマン。もともとは中産階級の出で、ジャックの犠牲者中唯一の教養ある女性であった。が、魔がさしたのかアルコールに溺れ家庭を壊し、売春婦に落ちぶれたのである。しかし気位の高さで仲間内の評判は悪かった。年齢は45?47歳。深酒と肺結核のせいでひどく老けて見えた。

 第3と第4の殺人は同夜に起こった。
 第3の被害者は「のっぽのリズ」の愛称で知られた、エリザベス・ストライドという44歳の売春婦である。彼女は喉笛を切り裂かれ、鼻から頬にかけてを切りひらかれ、右耳の一部を切除されていた。また、右目が潰れていた。殺されてからまだ間がなかった。
 リズはもともと平和な家庭夫人だったが、遊覧船の沈没事故で夫と2人の子供を失い、失意のうちに街角に立たなくてはならない身の上になった、という触れ込みだったが、この殺人によりそれが悲しい嘘であることが明るみに出た。彼女は虚言癖のあるアル中で、精神に異常もきたしていたのである。
 そしてその直後に起こった第4の殺人の被害者はキャサリン・エドウズ、43歳。
 犯人はリズで果たせなかった残虐な死体損壊をキャシーで遂げていた(リズのときは、馬車が来る気配がしたため、早々に逃げていたのだ)。
 キャサリンの腹部は数回にわたり切り裂かれ、内臓は露出し、腸が肩の上に掛けられていた。肝臓が切りとられ、左側の腎臓がそっくり切除されていた。
 また、壁に例の有名なチョークの殴り書きの、
「ユダヤ人はみだりに非難を受ける筋合いはない」
 という文句が残っていたのもこのときである。が、これは反ユダヤ暴動を怖れた警視総監が巡査にいち早く消させてしまったため、証拠としては残らなかった。
 さて、「切り裂きジャックの挑戦状」(これがジャックを犯罪者としての「スターダム」に押し上げることとなった、といっても過言ではあるまい)が初めて届いたのは9月28日のことである。

「親愛なるボスへ。
 おれはな、売春婦に恨みがあるんだ。お縄を頂戴するまでやめないぜ。おれを捕まえられるもんならやってみな? こないだの赤い血をインキにして使おうとジンジャー・エールの瓶に溜めといたんだが、ねばねばして使い物にならなかったよ。アッハッハ!
 お次は女の耳を切り取って旦那たちのお楽しみに送るからな。おれが次の仕事をしたら、世間に知らせとくれ。おれのナイフはよく切れるよ。      ――あんたの親愛なる切り裂きジャックより――」

 この手紙が真犯人からのものなのか、あるいはただのプラティカル・ジョークなのかは現在に至るも判然としない。だがこの「ジャック・ザ・リパー(切り裂きジャック)」という名が与えられた瞬間から、彼がただの変態猟奇殺人鬼から一段上の存在になったことはほぼ間違いがない。
 これ以後、本物か偽者かも知れぬジャック名義の手紙はひきもきらず警察に押し寄せることとなった。中にはアルコール中毒の腎臓の一部と共に、

「地獄より。
 ある女から切りとった腎臓の半切れを送るぜ。残りはフライにして食っちまったよ。いける味だったぜ」

 と書かれた手紙すらあった。これはエドウズの腎臓なのでは? と思われたが、警察はこれもいたずらの1つだと思い、正確な鑑定を行なわなかった。(ちなみにこの手紙の書き出しは勿論、映画の「フロム・ヘル」の元ネタだ)
 こういった手紙はスコットランド・ヤードに1400通近く届いたという。しかしそのうち「ひょっとしたら、犯人本人からかもしれない」と目されるもののうち、いくつかは同一人が筆跡を変えて書いたとおぼしきものがある。そして明らかに故意の誤字、無教養な言い回しをしているところからして、ジャックが無学文盲の人間などではなかったことがわかる。そしてこの事実がさらに、ジャックを謎めいた存在にしているのである。

 第5の――そして最後の殺人は11月9日に起こった。
 被害者はメアリ・ジャネット・ケリー。25歳と、今まででもっとも若かった。
 彼女は自分の借りた貸間長屋で、死体となって発見された。ジャックは彼女の若く美しい体をもって、己れの残虐趣味を心ゆくまで満足させたものとみえる。
 彼女は素裸で、両足を開いた格好で死んでいた。首は胴と皮一枚でかろうじてつながっていた。腹部は切開され、肝臓、子宮、乳房が切りとられていた。腸は壁の版画の釘に吊るしてあり、心臓は枕の横に、乳房や残りの内臓はテーブルの上にきちんと置かれていた。耳と鼻はきれいに削がれていた。この「解体」には少なくとも1時間はかかると思われた。

 さて、ジャック・ザ・リパーの正体は今もって不明である――。
 シャーロック・ホームズの研究家が「シャーロッキアン」と呼ばれるがごとく、ジャックの研究家は「リッパロロジスト」と呼ばれてきた。それほどにジャックは、人々の探究心をそそったのである。
 容疑者として頻繁に名が挙がった人々の中には、ヴィクトリア女王の孫であるクラレンス公さえいる。その他やれ医師であるとか、産婆であるとか、黒魔術師であるとか、いろいろな仮説が飛びかった。
 ちなみに1988年、ジャック生誕100年祭?として全英で放映されたTV番組において、FBI捜査官のジョン・ダグラスはジャックについて、こうプロファイルした。
「性的不適応者。女性全般に対する強い怒り。どの事件も被害者の不意をついて襲っているところからみて対人的にも、対社会的にも自信がないことがわかる。弁舌が不得意。おそらくは貧民窟にいようが明るい道路の下にいようがまったく関心をひかない、およそドラマティックなところのない人物――」
 またコリン・ウィルソンは彼を「アウトサイダー」と定義している。「社会から離れた者」「疎外された者」つまりそれは一種の浮遊感、非現実的感覚をともなう。人を殺すか、人殺しの白昼夢をみているときだけ、その非現実感は消える。
 その後次々に現れる「アウトサイダー的殺人者」の、彼はまさに先駆けといった存在であった。
 彼は事件後100年以上経った今でも、ヴィクトリア朝世紀末の象徴的存在、そして現代犯罪史における伝説としても生きている、稀有な例である。

 


◆「グレイト・ワーリー・ミステリイ」

 1903年、グレイト・ワーリー地方で、動物のバラバラ事件が頻発した。何者かが深夜、家畜にそっと忍び寄り、剃刀か鋭利なナイフで腹をかき裂くのである。
 犠牲となったのは馬、羊、牛などで、ときには競走馬までもが殺された。警察へはジャックのときと同様、得意げな犯行声明文が送りつけられた。
 この事件の容疑者にされたインド人のイデイルジという27歳の弁護士は、かのコナン・ドイルに助けを求めた。ドイルは現地に赴き、彼自身が創造したホームズのごとくに事件を慎重に調べあげた。
 結果、ドイルは近眼で虚弱なイデイルジにこの犯行は無理であるという結論に達し、真犯人はイデイルジの元学友、シャープという男だと信ずるに至った。

 いずれにせよ、犯人は性的サディスト(まだ人間を殺してはいないにしろ)に間違いない。これらは快楽のために成されたのである。家畜の惨殺は、悪戯や悪ふざけ程度で片づけられるものではない。ドイルはシャープの筆跡が匿名の手紙と一致しているという鑑定家のお墨付きをもらい、証拠をがっちり固めたが、イギリスの体制側は気乗りせず、起訴にはならなかった。
 ちなみにシャープは13歳のとき、虚言癖と破壊性癖のせいで学校を退学になっている。ナイフが好きで、通学途中、列車の座席の裏側を切り裂いて中身の馬毛を散乱させたこともある。
 退学後は、家畜屠殺人の見習いになった。その後船員になるが、彼が航海中は、決まって匿名の手紙は途絶え、彼が下船するやいなや、動物の切り裂きが始まることもドイルは発見した。
 シャープの家族の友人である女性が彼を訪れ、家畜惨殺事件について話すと、彼は戸棚から大きな馬の解体用メスを持ってきて、
「ほら、こいつで切り刻んだのさ」とうすら笑った。
 彼はあきらかにその女性のショックを楽しんでいた。

 悪戯とナイフの切れ味にしか興味を抱かない、子供じみた男。もしジャック・ザ・リパーの一連の手紙がジャック本人の書いたものであるとしたら、彼もまたシャープのような男だったのかもしれない。
 幼い頃からトラブルを起こしつづけ、周囲に適応できぬことに腹を立てつづけたまま大人になった、悪意の塊のような人間。「切り裂き魔」の正体は往々にして、その程度のものに過ぎない。

 


「恐怖に震える売春婦がふたり
真夜中居心地良い戸口を探す
ジャックのナイフが閃いて、たったの1人ぽち
それこそジャックの願ったりの獲物」

     ――ジャック・ザ・リパーの署名文にあった詩の一部より――

 

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