白鳥由栄
僕の青春は悲惨な嵐に終始した
時たま明るい陽射しも見たが
雷雨にひどく荒らされて
赤い木の実は僅かしか僕の庭には残っていない
シャルル・ボオドレール『敵』より――
ここに記す「白鳥由栄」という男は、けして怪物的連続殺人者というわけではない。
しかし犯罪者であり、異端児であることは間違いなく、番外編としてここに紹介させて頂くことにした。
しかしこれは殺人者・犯罪者の半生というよりも一種の「超人伝」であることを最初にお断りしておく。
白鳥由栄は明治40年青森に生まれ、25歳で強盗殺人を犯した。
昭和11年、青森刑務所を脱走。
昭和17年、秋田刑務所を脱走。
昭和19年、網走刑務所を脱走。
昭和22年、札幌刑務所を脱走。
その後、府中刑務所に移送されてからは脱獄を試みることをやめ、模範囚として過ごし、のちに仮釈放となった。
26年の獄中生活、4回の脱獄、合計3年余の逃避行という恐るべき記録は、資料として歴然と残っているものである。しかもただの一回も看守に怪我を負わせるような「強行突破」はしていない。まさに「脱獄美学」というものを白鳥は持っていた。
当時の看守にすら、彼を評して「一世を風靡した男と」言わしめたほどである。
白鳥は母の顔を知らない。さらに2歳のとき父が死に、親類の豆腐屋へ養子に出された。生まれつき頑健な体だったので朝早い仕事も苦にせず、父の借金を返して田畑を買い戻し、自作農になるという目標を持っていたという。
21歳のとき、世話をしてくれる人があり所帯を持った。子供にも恵まれ、1男2女を得る。しかし出稼ぎで2回蟹工船に乗り、そこで博打を覚えたことから人生の転落がはじまる。
白鳥の性格についてよく言われるのが
「頑固で生真面目。愛憎の起伏が激しく、こうと決めこんだらそれしか目に入らぬような偏執的な面があった」
ということである。そしてこのときも彼は「偏執的」に賭博にのめりこんだ。
しかし豆腐屋の稼ぎでは使える金はたかが知れている。彼はいつしか、土蔵荒らしの常習犯となっていた。
そして昭和8年4月、とある雑貨商に仲間と二人で忍び込んだ際、家人に見とがめられて逃走。追いかけられて組み伏せられ、もみあううちに牛刀で家人を刺してしまう。
共犯が先に逮捕されたことを知り、白鳥は観念して自首した。
この共犯の自白により白鳥は主犯にされてしまった、と巷間では言われているが、この点に関しては白鳥が口を閉ざしつづけたため、いまもって不明である。しかし警察が最初から「主犯」「従犯」を決め付けて相当強引な取り調べをしたことは間違いないようだ。
拷問に近い取り調べを受け、留置場の独房に4ヶ月間据え置かれ、看守に毎日「人殺し野郎」「よく平気で生きていられるな」と嘲笑され、冷酷な仕打ちを受けるうち白鳥は鬱屈していった。
白鳥は、この青森柳町支所を脱獄した直接の動機は看守への不満が原因だった、と話している。
ともあれ彼は怒りを内向させ、次第に脱獄への決意を固めていくことになる。
昭和11年、6月18日未明。
県警課長宅の電話が鳴った。受話器を取ると
「白鳥が逃げました」
といううわずった声が聞こえた。
刑事課長は絶句した。刑務所からの逃走は、構外作業中、または護送中に限られると言ってよく、構内からの逃走は雑居房の囚人たちが集団の力を利用して実行する例が稀にみられるに過ぎない。
白鳥は死刑を求刑された未決囚として独居房に収容され、昼夜厳重な監視下におかれていて、とても脱獄したとは信じがたかった。
「逃走時刻は?」
「5時20分から30分の間で――発見時刻は5時30分です」
脱獄からまだ時間はそれほど経過していない。
もっとも狭い範囲に警戒網をしく緊急指令が出され、青森市を包囲する非常線が張られた。
刑事課長は現場の独居房に向かった。
白鳥の収容されていた房の鉄格子の扉は、錠前を合鍵であけたらしく、自由に開閉できるようになっていた。しかも廊下の鍵まであいていたのである。
看守の交替時間は午前1時で、次の看守が勤務をひきつぐ。
房を巡視する看守が白鳥の房の前を通過し、引き返してくるまでの間は約10分で、5時30分に房内を覗いた。白鳥は寝ているはずだったが布団の盛りあがりが小さい気がして声をかけた。しかし何度呼んでも返事がないので、交替した看守を起こしてふたりで房内に入ってみると、布団の中にはバケツや枕などが押しこんであるだけだった。
凶悪犯が脱獄、ということで青森市内はパニック状態となった。
市民はかたく家の門を閉ざし、自警団が街角に立った。
しかしその頃、白鳥は山中に潜伏していた。そして3日を山で過ごしたが病人を装って下山したところを逮捕された。このときの写真が残っているが、白鳥は顔に笑みを浮かべている。
脱獄についての取り調べが行なわれ、合鍵づくりには驚くべき周到な手段がとられていたことがわかった。
彼は入浴時に手桶にはめられていた金属製のタガをひそかにはずし、房内に持ち帰った。
さらに、房の錠前の下に食器を出し入れする小窓があり、それだけは中からあいたので、汚物を捨てるため房外に出たときに、錠前の位置と小窓の位置を目測で計り、後日、小窓から手を出して、入浴でふやけた掌を鍵穴に押し付け、鍵穴の型をとった。
また看守の巡回時間を覚え、15分の空白があることを確かめた。足音を数えて時間をはかり、ミスがないようにと、何十日も確認に時間をとった。
鍵をあけたのは房、舎房、裏門の3つだが、すべて1本の針金製の「合鍵」で開けてしまったという。
この脱獄は白鳥にとって初脱獄だが、それにしてはあざやかな手順である。
青森刑務所では彼の再脱獄を防ぐため、独居房に入れた上に頑丈な革手錠をかけ、看守を増員して監視にあたった。
しかしある夜、看守が覗いてみると革手錠をかけていたはずの白鳥が、両手を左右にひろげ、大の字になって寝ているのが見えた。
看守は驚き、事務所に戻って非常ボタンを押した。そのベルの音で所内の看守がすべて集まってきたが、彼らが駆けつけてみると、もう白鳥はふたたび手錠をはめた姿で横になっていた。
この出来事に狼狽した所長は監視を倍にし、足錠もかませた。
11月5日、白鳥の無期懲役が確定し、彼は宮城刑務所へ移送された。
宮城刑務所で3年、小菅刑務所では1年2ヶ月を過ごし、ここでは白鳥は問題を起こしてはいない。
だが開戦により囚人たちは秋田刑務所へ「疎開」することになり、白鳥に対する看守たちの処遇は一変する。
彼はここで、二度目の脱獄をすることとなる。
秋田刑務所で白鳥を待っていた処遇は、小菅とは打って変わり“不良囚”の処遇そのもので厳重を極めた。
「札つきの脱獄囚が送られてくる」というので、刑務所側では彼のために特別に作った鎮静房と称する独房まで用意していた。
この鎮静房とは昼でもろくに陽のささない部屋で、高い天井に薄暗い電球がひとつきり、灯り窓は天窓だけ、三方は銅板で張られ、扉には食器を出し入れする小窓すらなかった。
白鳥はこの房で手錠をはめられたまま一冬を過ごすことになる。
房外での作業などもってのほかだったし、日がな一日中薄暗い房の中で正座させられて、少しでも足を崩しているのが見つかれば、ただちに看守の叱責が飛んできた。
コンクリの床の上にはうすべりが一枚ひいてあるだけで、じっとしていては厳しい寒気にとても耐えられるものではない。
こうした待遇への不満から、白鳥の態度は次第に不遜なものになりはじめていた。
正座の規則にそむいて、房の中を走りまわり自分の体で暖をとったり、布団を頭までかぶって眠る。
些細なことではあるが、白鳥相手ともなるといつ脱獄されるかわからぬ恐怖から、看守たちはぴりぴりしていた。またひどい寒さは囚人たちだけでなく、看守たちの精神をも不安定にさせていた。
「白鳥、布団から顔を出せ!」
「これは子供のころからの癖なんで、なおりませんよ。そんなに厳しくしないで、夜くらい寝かせてください」
「規則を守らんなら、罰則を与えるぞ」
すると白鳥はうすく笑って、
「わたしゃいつでも逃げられるんですよ。そんな厳しいことを言うと、あんたが当直のときに逃げちまいますよ」
そう言ってまた布団をかぶる。看守はさらに怒声をあげる。
ほとんど毎晩がこんなことの繰り返しだった。
そんな毎日の中で、次第に看守たちの間に、彼の監視を担当することを厭う心理がきざしはじめた。
自分の当直日に逃げられれば、どれほど重い処罰を受けるかわからない。悪くすれば免職もありうる。手錠を難なくはずし、錠前をあける白鳥の腕前ならば、あの言葉も単なる強がりとも思われない。
白鳥なら逃げるかもしれない。ただし、自分の当直以外の日であってほしい――彼らはそんな気持ちをいだくようになっていた。
昭和17年6月15日、未明。
5時30分の全舎房の点検が終了し、各舎担当の看守部長が看守長の前に整列し、
「異常なし」
と報告した。
敬礼ののち、解散しようとしたまさにそのとき、夜勤の看守が駆けこんできて、看守長の前に立った。
顔からは血の気が失せていた。
「鎮静房の白鳥が、逃走しました」
しばらく看守長は声もなかった。
「逃走した?」
看守長が悲鳴のような声をあげた。稲荷房、またはトーチカ房などと異名を持つ鎮静房から、逃走可能なはずがない。すべての看守部長に作業中止を命じ、看守長は白鳥のいた第一号鎮静房に駆けつけた。
扉は施錠されたまま、閉ざされていた。
錠をはずされ、中に一歩入って、彼らはまず上方から雨が落ち、空の布団が濡れているのを見た。
上に視線を向けて彼は短い叫びをあげ、立ちすくんだ。天窓がはずされ、そこから雨が落ちているのだ。
天窓までの高さは3・2メートル。そこまで登ることなどできるはずもない。またレンガ作りの外塀は4・5メートルもの高さで、これも容易に越えられるものではなかった。
しかし現に白鳥は忽然と姿を消している。
彼らは所長室へ走った。
「なぜ、あの房が破られたのだ」
報を聞き、所長は呆然としていた。
検査の結果、天窓は四角い木枠に厚いガラスがはめこまれ金網に覆われていたが、枠が腐りかけていたことがわかった。
房の点検は一日一度必ずあったが、天窓は高すぎたため、検査をまぬがれていたのである。
しかしこのなめらかな壁をどうやって登っていったのか?
唯一足場になるものといえば布団だが、それは床に敷かれたままで使われた形跡はない。
どのようにして脱獄したのか、所長には想像もできぬことであった。しかし白鳥が破獄したのは事実だ。ただちに県警に連絡、非常線を張ってもらい、東北地方の県警にまで協力を要請した。
捜索隊は血まなこで白鳥の行方を追った。しかし翌日の午後になっても報告はなく、彼がどの方向に逃走したのかすらつかめなかった。
彼の破獄から5日後、東北地方の視察を行なっていた東条英機総理が秋田をおとずれ、翌朝市の内外を視察。
この警備に多数の警察官が動員されたため、白鳥の捜索は事実上中止となってしまった。
そうこうするうち、白鳥が脱獄してから、三ヶ月が経過した。
9月18日。
東京、小菅刑務所看守長、小林良三宅の戸を深夜叩く者があった。
小林がどなたです、と声をかけると、
「白鳥です。白鳥由栄です」
という声がした。
小林は仰天し、まさか、と思った。白鳥が6月に脱獄したという話は小菅にまで伝えられている。むろん全国指名手配である。その男がこんなところにのこのこやって来るはずがなかった。
しかし鍵をあけて戸の外を見やると、そこに立っていたのは、髪も髭も伸び放題で日焼けしてはいたものの、たしかに白鳥であった。
「……なんで、ここに来た」
「主任さんに会いにきました」
「自首だな」
小林はうなずき、彼を中に入れた。妻に声をかけて茶を持ってこさせると、白鳥は両手に差しいだくようにして、有り難そうに茶を飲んだ。
小林はその間に刑務所長に電話をしたが、受話器の向こうで所長も絶句していた。
開戦後で食糧事情が悪いことを説明し、これしかないが、と小林は白鳥にふかした薩摩芋を出した。芋にむしゃぶりつきながら、白鳥はぽつぽつと話しだした。
「小林主任さんはよくしてくれたから、話を聞いてくれると思った――」
彼は、脱獄の動機を「刑務所内の処遇改善を司法省に直訴したかったが、自分が言っても無理だと思った」と語った。
「あそこでもう一冬越すのは、考えただけで耐えられなかった」
と。
「刑務所がいやになったわけではないです。でもあそこのことはなんとか訴えたいと思い、主任さんならちゃんと聞いてくれると、それだけを信じて脱獄しました」
と言った。
その日の明け方、小林に付き添われて白鳥は小菅警察署に自首した。
司法省が訴えを取り上げたかどうかは不明だが、自首後、秋田刑務所の鎮静房が廃止されたことは事実である。
のちに小林は白鳥の人間性について、
「とにかく律儀でしたね。恩義には必ず報いるが、仇も絶対に忘れずに返す。愛憎の変転というか、感情の起伏が激しかったです。だが根は真面目というか、昔気質な男でした」と話した。
白鳥は警察に留置後、東京地検に告発され東京拘置所に収容された。
尋問は主に脱獄方法、そして逃走経路であった。
彼は常人をはるかに超えた体力と腕力の持ち主であったが、加えて特異な体質を持っていた。
関節腔と靭帯の可動域が異様に広く、あたかも猫と同じように首さえ入るところがあれば、肩、手足、腰など、ほとんど全身すべての関節を自由に脱臼して抜けることができるのだった。
また手足の裏の皮膚を収縮させ、吸盤のようにして貼りつくすべも心得ていた。
彼は看守が視察にくる時間を綿密にはかり、天窓の木枠が腐りかけているのを知って、脱獄の成功を確信した。
逃走の夜は暴風雨で、音も足跡も消してくれる絶好の日だった。
彼は少し体を傾けて、両足の裏を一方の壁に密着させると、両掌を他方の壁に押しつけた。そして足裏と掌を交互にずりあげていく。さながらヤモリのように彼の体は上方へ難なく登りはじめた。
体が傾いたまま天井に達すると、あらかじめゆるませていた天窓を頭突きで破り、瓦屋根に飛びのった。
地上に飛びおり、裏手にまわると軒下から外塀を乗り越えるための丸太を探しだし、それで4・5メートルのレンガの塀を越えた。この一連の所作にかかった所要時間は40分足らずである。
その後は民家から野良着を失敬し、畑から作物を盗んだり、山の栗やわらびを食べながら腹を満たした。
昼はなるべく動かず、夜にだけ動くようにしていたため、東京に着くのに三ヶ月もかかってしまった。普段の彼の足ならば、一日に三十里(約120キロ)は駆けたというから、いかに細心にふるまっていたかがわかる。
ようやく荒川の官舎地帯に着いたが広くてどこが小林の家かわからず、一軒一軒探し、50何軒目かにようやく探しあてたという。
脱獄したその足で、小林ならば話を聞いてくれると信じこみ、三月もの時間をかけて訴えに出たというのだから、信じがたい愚直さとも言える。が、この性質――1度こうと思い込んだら、曲げることができない――は、まさに白鳥という男を象徴するものでもあった。
この脱獄により彼は「逃走罪」で懲役3年を受け、無期刑にプラスして有期刑も背負うことになった。
そして判決後、5度目の移送先が決まる。
極寒の地、網走刑務所である。
網走刑務所といえば、共産党員で投獄された徳田球一が網走での生活を『獄中十八年』という著書に書いているが、
「真冬には零下30度になることも珍しくない。そんな日には暖房の入った監房でさえ、零下8〜9度を
示す。自分の吐いた息で、眉毛や睫毛が凍る、しょっちゅうもんでいないと、凍傷で鼻の頭がどろどろに
腐って落ちてしまう――」
という場所であった。
その厳寒の中、白鳥は夏物の単衣一枚で独房に放り込まれた。
しかも手錠、足錠をかけられたままの拘禁である。
獄舎内で手錠、足錠をかけるのは暴力のおそれがあるか、逃走の気配が濃厚な場合に限られる。
しかし白鳥に限っては、最初から警戒してのこの処遇であった。彼は憤りを隠そうとせず、終始無言で看守の呼びかけにも答えようとしなかった。
ある朝、看守が巡回中に彼の房を覗くと、白鳥はいつものとおり顔を伏せ気味にして正座していた。
看守はふと、彼の膝の前に黒ずんだものが置かれているのを目にした。目をこらして見る。思わず呻きが口から漏れた。それは手錠で、ふたつの環がこれ見よがしに正しく並べられていた。
通報により慌てて集結した看守たちは白鳥の腕をつかんで立たせ、体中をさぐった。
すると体内からパラフィン紙に包まれた金属片が出てきた。これが合鍵となったのはあきらかだった。
これをどこで手に入れた、と怒鳴りつけても、白鳥は返事をせず、口もとに薄笑いを浮かべているだけだった。
この行為は刑務所に対する明白な挑戦であると思われた。
罰として白鳥の食事は半分に減らされた。
もともと彼は房内外の作業をしないため、食事はほかの囚人の半分量に近かった。それをさらに半減ということは4分の1である。この処置は5日が限度とされていたが、白鳥はそれに耐え、罰の停止を懇願する気配もなかった。しかし顔はやつれ、座っているのも大儀そうであった。
その後しばらくたって、また手錠をはずす騒ぎがあった。白鳥は引き据えられ、新たな手錠がはめられた。
「はずしてくれ。最初の日からずっとこうだ、一日くらいはずしてくれ」
白鳥が低い声で言うと、看守は反射的に怒鳴りつけた。
「うるさい、規則だ! 鍵がなけりゃおまえだってただの人間だ、はずせるもんならはずしてみろ!」
白鳥は上目で看守を睨むと、上膊部を両脇に押し付け、胸の前で手錠をねじるように交差させた。一瞬、顔が紅潮する。看守は彼の手にはめられた手錠の鎖が、音をたてて千切れるのを目にした。
看守はしばらく、白鳥の顔を見つめてぽかんとしていた。
彼らは無表情に立つ白鳥の体を縄できつく縛り、ふたたび持ってこさせた手錠を今度は後ろ手にはめた。
白鳥にはふたたび減食(今度は7日間だった)が課せられ、運動も禁じられた。
翌日、特製の手錠と足錠が届いた。
それは20キロほどもある分厚い鋼製のもので、鎖は大人の指ほどの太さがあった。
両環のつなぎ目にはナットが埋め込まれる仕組みになっており、看守がそれを白鳥の手足にはめ、二人がかりでナットを締めた。しかもその上からハンマーでナットの頭部を叩きつぶしたのである。完全な「鍵穴のない手錠」だった。
しかも手錠は後ろ手にかけられた。手錠と足錠はさらに太い鎖でつながれ、寝転がることしかできなくなった。それも仰向けに寝たのでは、腹や胸に20キロ以上の重みがかかるため、横向きにしかなれないのだった。
「後ろ手錠で、どうやって飯を食うんだ」
白鳥は叫んだが、看守たちは取りあわなかった。なんとしてもこの男を脱獄させるわけにはいかない、その一心だった。
「貴様ら覚えてろ。逃げてやる、絶対逃げてやるからな。そのときになって後悔するな」
白鳥はわめきつづけた。が、応える声はなかった。
その日から白鳥はアルマイトの食器をくわえて、犬のように顔をつっこんで食うしかなかった。
また手錠、足錠はもうはずせないため(はずすとしたら、一時間以上かけてヤスリをかけなければならなかった)入浴はできない。立ち上がることもできないので排泄もほとんど垂れ流しであった。
しかもはめられっぱなしの手首と足首には摩擦で傷がつき、化膿した。その傷には蛆がわき、暖かい季節になると成虫に孵って、窓の金網が真っ黒くなるほど、ハエが一面にべったり貼りついた。
看守の一部からも「あまりにも惨めだ」という声があがったが、逃走させるわけにはいかない。
それにこの処遇に踏み切ったことで白鳥の憎悪は頂点に達していた。いますこしでも手をゆるめれば、必ず脱獄するだろう。その判断により、白鳥は生き地獄のような環境で放置された。
白鳥にとって網走の脱獄を考えることは唯一の希望であり、生死を賭した大勝負でもあった。
昭和19年8月26日、午後9時過ぎ。
独房舎の巡視にあたっていた看守が見張り所の近くまで来たとき、突然大きな音が聞こえた。
彼が振りかえってみると、獄舎の最先端の上部にある天窓にさっと人影が見え、またたく間に窓の外へと消えた。さきほど聞いた音は天窓が破壊された音にちがいなかった。
しかし看守の頭にとっさに「脱獄」の文字は浮かばなかった。
網走刑務所の独房はとにかく厳重をきわめる。逃走できるはずがなかった。
だがようやくにして彼は我に返り、看守長室に向かって走り出した。
「逃走、逃走です!」
狼狽する彼から報告を聞き、看守長は非常ベルを押した。
大正11年に網走刑務所と改名されて以来、はじめて獄舎内で鳴った非常ベルの音であった。
独居房では次々に視察窓があけられ、確認が行なわれていた。囚人たちの多くが非常ベルの音に驚いて飛び起き、ぽかんと立っていた。
特製手錠と足錠をかまされた白鳥はほぼ逃走不可能とされ、後回しにされた。
しかし看守部長は予感がしたらしく、まっすぐに彼の房へ向かった。視察窓を覗こうとして彼は、叫び声をあげた。
視察窓が枠ごとなくなっており、房内は布団がたたまれ、白鳥の姿はなかった。
「白鳥、逃走!」
看守たちは繰り返し怒鳴りながら、構内を走り回った。
所内は騒然となった。
破壊された天窓の外は獄舎の屋根であり、そこから飛び降りたと思われた。
窓が破られて数分で非常ベルが鳴らされているので、まだ構内にひそんでいることは確実、と誰もが思った。周囲には4・5メートル以上のレンガ塀がぐるりと取り囲んでおり、いかに秋田刑務所の壁をはいあがったとは言え、ものの数分で乗り越えられる高さではなかった。
看守部長はいまだ房内で唖然としていた。
布団がきちんとたたまれ、その上には枕と、白鳥の獄衣がたたまれて置かれていた。
その横には特製手錠が並べて置かれていた。二人がかりで締め付けたはずのナットがはずされ、環が開かれている。
視察窓の枠は太いネジで上下左右に扉に取り付けられていたが、枠ごとはずされて、これも床に並べられていた。視察窓は横長の形で、頭部がぎりぎり入るくらいの大きさである。白鳥がここに頭を入れ、関節をはずして抜け出たことは明らかだった。
白鳥は看守の巡回が終わるのを待って視察窓から抜け出し通路を走り、壁をはいあがって天窓を破り、屋根に出た。
その音に看守が気づき、逃走報告に至った、という経路である。
特殊錠がなぜはずされたのか、また視察窓がどうやって破られたのかは後日の検証を待たなければならなかった。
構内の探索にあたっていた看守たちの顔は次第に暗いものとなっていた。信じがたいことだが、白鳥は所外に逃走してしまったらしい。彼らは刑務所の裏手にある山内の探索に走らなければならなかった。
しかし午前2時過ぎ、看守たちは山内の捜索をあきらめた。
未明になり所員全員が召集され、白鳥の追跡に全力をかたむけるようにとの指示が出された。
そのころ、構内を調査していた看守が、工場の暖房用煙突が倒され、支えだったはずの丸太が2本ともレンガ塀にたてかけられているのを発見した。
白鳥はどうやらこの丸太を梯子がわりにのぼって塀を乗り越えたらしかった。しかし丸太は煙突の支柱だっただけあって、土中深く突き立てられ、まわりを石灰で固めてあったのである。
これを煙突とともに引き抜き、丸太を2本かついで塀にたてかける、とは人力では到底なし得ぬことである。看守たちは改めて白鳥の異常な体力にぞっとした。
駆けつけた刑事たちも倒されて割れ、散乱した煙突の土管を眺め、呆然としていた。
どれほどの力をこめて揺さぶったものか、地面には大きなくぼみができている。
「なんて野郎だ」
白鳥由栄の調書をめくる刑事たちは驚愕の色をあらわにしていた。
地元住民にも警戒令が出され、路にも田畑にもあっという間に人がいなくなった。
捜索は連日つづけられた。が白鳥の情報はなく、彼の消息は絶えた。
9月になり下旬になっても、白鳥の行方は知れなかった。
所内では、白鳥がいかにして手錠と視察窓をはずしたか、を警察とともに検証することになった。
じきじきに訪れた警察署長も刑事も、目にしたこともない造りの手錠に驚きの色を見せていた。
手にとって刑事のひとりが調べてみると、ナットはたしかに深く打ちこまれていたが、意外にも腐食していることがわかった。腐食の度合いは激しく、何十年もかかったような状態にまで朽ちていた。
表面に浮いた錆を舐める。塩からい。
ついで視察窓の枠を止めつけていたネジにも同様の腐食が見られることがわかった。ネジは同じく強い塩の味をしていた。
どうやら白鳥は食事のたび、味噌汁を少し飲み残してはそれを口からナットに垂らしていたものらしかった。
味噌汁に含まれた塩分がナットを酸化させ、やがて腐食してゆるみ、引き抜くことができたのである。視察窓にも同様の手段が取られたと思われた。
のちの白鳥の証言によると、最初のネジがはずれたのは味噌汁を垂らしつづけてからほぼ1ヶ月後で、以後は最初に抜いたネジをドライバー代わりにして次のネジを抜くことを繰り返し、他人の目にはわからないよう、軽く締めつけておいたという。
手錠、足錠、腰の鎖もいつでもはずせるよう、ゆるく締めつける状態にまでなったのは8月を過ぎてからだった。
看守の目さえなければ後ろ手錠は彼には意味をなさない。手錠と足錠をつなぐ鎖さえ腐食ではずれてしまえば、関節をはずして前手錠にし、腐食作業をつづけることができたのである。
それからはひたすら準備期間であった。
本来ならば決行の予定日は8月25日であったが、たまたまその日は白鳥にも優しく声をかける看守が夜勤巡回の日であった。仕方なく白鳥は決行を一日延ばし、26日に脱走した。
白鳥の行方が知れたのは、終戦を迎え終えた昭和21年の8月14日のことである。
彼は山中にじっとひそんでいた。その日数、じつに665日間。終戦を知らず山中生活を送りつづけられたのはひとえに彼の超人的な体力のゆえであるが、しかし独房で長い年月を過ごした彼ですら、人恋しさには耐えがたくなった。
夜中、人里におりて国民学校に忍び込み、そこで新聞を読んだ白鳥ははじめて日本が負けたことを知ったのである。
自分のような重罪犯はどうせ死刑になる。そう思った白鳥はそれならいっそ町で死のうと思い、山をおりることにした。
札幌に向かった白鳥は、そこで重罪を重ねることになる。
二度目の殺人である。
民家の野菜畑に踏み入ってしまった彼は野荒らしと間違われ、弁明するものの聞き入れられず木刀で袋叩きにされ、その場を逃げようと短刀をふるった。
その刃が畑の持ち主の下背部に刺さり、のちに出血多量で死亡することとなったのである。
ただし白鳥は前とは違い、この件に関しては正当防衛を主張しつづけた。
彼の弁護を引き受けた斎藤忠雄弁護士は、白鳥の
「先生、わたしゃ私利私欲で脱獄したわけじゃないし、今回のことも畑泥棒と間違われ、木刀で滅多打ちにされて、殺されると思いついやってしまったんです。……しかしやったことはやったことなんで、納得のいく判決なら刑に服します」
という供述を聞いて弁護をする気になった、という。
しかし熱の入った弁護にも関わらず、一審は死刑であった。
「被告はどの監獄に入れても脱獄してしまう。矯正不能で死刑以外の刑罰はない」
というのがその理由であった。弁護人は量刑不当としてすぐに控訴させた。しかし脱獄をおそれた当局が身柄を拘置所から、札幌刑務所に移送してしまったのである。
死刑判決は予期していたこととはいえ、白鳥は瞬間カッとなった。彼は法廷で、
「必ず脱獄して、あんたらの寝首をかいてやる」
と判事や検事を白目で睨みつけた。
この不穏当な啖呵は官舎住まいの判事・検事の奥方連中の耳にも入り、彼らは白鳥の脱獄を恐れてのきなみ門柱の表札を剥がしてしまったという。
正月が明けてすぐ、白鳥は刑務所に移送されることとなった。
24時間体制で、2人一組の看守が2組、拳銃を携帯しての監視である。
死刑判決を恐れた白鳥はここで、初めて自己保身のための脱獄をはたらく。
幌つきの護送車に乗せられ、拳銃を腰にした看守6人に囲まれて白鳥は札幌刑務所に送られた。彼は第二舎の特別房に入れられ、看守は長時間の見張りで集中力が下がらないよう、2時間交替で見張りに立つ、という厳戒さ。
刑務所当局はあらかじめ彼の過去の脱獄歴の調書を取りよせ、房扉、天井、採光窓、鉄格子などを新たに補強し、破獄に対し万全の体勢をとっていた。
白鳥は一日一度の検身と、居房捜検を受けた。
房から出られるのは週に一度の入浴時のみで、その際にも拳銃を携帯した看守が4人、つきっきりで監視にあたった。
白鳥はとくに反抗する様子もなく、毎日「異常なし」の報告が看守長のもとに届いた。
そんな折、看守のひとりが、
「数日前からなのですが――ときおり天井や小窓に視線を走らせる挙動が見られます」
との報告をした。ほかの囚人ならばいざ知らず、白鳥由栄の怪しい所作は見逃すわけにはいかない。
看守長はすでに白鳥が脱出の準備をはかり、天井付近に工作をはじめているのではと判断し、翌日白鳥に特別に30分運動場へ出る許可を(もちろん監視付きではあるが)与えた。
彼が房外へ出てしまうと、看守たちはただちに彼の房へ入り、探検にあたった。天井を棒でつつき、板の継ぎ目、鉄格子のゆるみを徹底的に調べた。
しかし30分経っても異常は見つからず、白鳥は房に戻された。
だがその後も白鳥が上方にちらりと目線を走らせる動きはつづき、看守たちは彼が入浴のたび、房の天井、小窓を入念に調べた。
昭和22年4月1日、寒さがぶりかえして気温は零下2℃まで下がった。
午前5時、看守長宅の電話のベルが鳴った。時刻が時刻であるだけに彼は不吉な予感を覚えながら受話器をとった。
電話は当直の看守からであった。
「逃走です。白鳥、逃走です」
うろたえきって繰り返すその声を聞きながら、看守長は青ざめて立ちすくんだ。
彼はあわただしく身支度をととのえ、官舎を出て庁舎へ走った。第二舎に走りこむ。
特別房の前には看守たちが集まって人だかりになっていた。
房内に一歩入り、看守長は呻いた。
半月ほど前から白鳥が上方に視線を走らせていたので、脱出した場所は採光窓か天井に違いない、と予想していたのだが、看守たちの視線が向けられていた先は、床であった。
床は厚さ6センチの堅い楢の板が使われている。その一角がノコギリででも使ったかのように切られてはずされている。床下には50センチ以上空間があいており、下方は土であった。白鳥はこの隙間に体を入れ、もぐらのように土を掘りすすんで脱獄したのだった。
看守長は白鳥の計略に自分たちがまんまと踊らされたことを悟った。
彼が上方に視線を走らせていたのは下に看守たちの関心を向けないためであり、実際は床下に工作をすすめていたのである。
全所員に召集がかけられ、捜索隊が出された。
警察の要請もあおいだ。
白鳥は山中に逃げ込むことを得意とする。
山への緊急配備もおこたりなかった。
検証のため訪れた刑事たちと看守長は、特別房に残った。
床板は布団を敷く位置にあたる一枚が中央部分で横に切られ、壁に端のはめこまれている板が引き上げられていた。一箇所を切っただけで脱出口を作ったのは、さすがという他ない。切り口は鋭利な刃物を使ったようになめらかであった。
道具は何か、といぶかしんだが、やがて便器にはめられた鉄タガがはずされているのが見つかった。また、床下の穴から、どこで手に入れたものか古釘も発見された。
どうやら白鳥は便器の鉄タガの接合部分を手で引きちぎってはずし、古釘を使ってタガに鋸状の歯を作って使用したものらしかった。
また、板の切り口を調べていた刑事が、そこに塵を混ぜて練った飯粒が付着していることに気づいた。
捜検の際、看守たちが板の切断に気づかなかったのはこのゆえである。板を切ったときに出る木屑と飯粒を練り合わせ、切り口にすりこんでおいたため、肉眼ではほかの床板の継ぎ目ほどにも目につかなかったのである。
脱出穴からはアルマイトの食器も見つかった。白鳥は手と食器を使い、穴を掘りすすんだものと考えられた。
床穴から出た白鳥は2・5メートルの外塀を越えなければならない。が、塀の内部にのこった足跡から、白鳥が塀をななめに駆け上り、飛びあがって塀の上端をつかみ、そのまま乗り越えたものらしかった。
塀の外側には飛びおりたらしい足跡のくぼみが残っていた。
さらにその外には高さ2メートルの鉄柵があるが、白鳥ならなんの困難もなく乗り越えられるに違いなかった。
白鳥の破獄の足跡を目で追いながら、看守長はいつしか自分の中に白鳥に対する畏敬の念がきざしはじめていることに気づき、狼狽した。
白鳥は学歴もなにもない豆腐屋のせがれだ。小柄で猪首の短躯であり、外観的にはいかにも頑健そうではあるが鈍重に見える。
これに対し、充分な教育を受け経験をそなえた刑務所幹部や老練の看守たちが、あらゆる対策を練って逃走を阻止しようとあたったというのに、白鳥はその意表をついて脱獄する。
脱獄犯は過去にも例がないわけではなかったが、白鳥のように緻密な計画性と大胆な行動力、超人的な体力を兼ねそなえた男は皆無であった。
だがこれほどの能力を、彼は破獄にしかそそぐことができない。
もし彼がもうすこし上の階級に生まれ、働きに出て賭博を覚えることさえなかったら、その比類なき能力でひとかど以上の人間になれたかもしれないのだが、しかし現実には彼はこの先一生、凶悪犯として生きていくよりほかないのだ。
そう考えると、看守長には彼が悲運な男にも思えた。
今回もやはり、白鳥は包囲網には捕らわれなかった。彼の足取りは消えた。
白鳥がふたたび新聞紙上にその名をあらわすのは、脱獄から295日後の昭和23年1月19日のことである。
札幌にほど近い琴似町で、警邏中の巡査が大きな風呂敷包みを背負った男に出会い、闇物資を運んでいるのではないかとにらんで職務質問に呼びとめたのがことの始まりである。
男は木村と名乗り、これから出稼ぎに行くところだと答えた。
「駅は違う方向だよ」と巡査が言うと、「いや、金がないので歩いていきます」と言う。
これは少しあやしい男だと思い、荷物を見せてもらうことにした。
中身は鍋、釜、茶碗、米などで、闇物資らしきものはなかったが、日本刀が一振出てきた。しかし1人でこれだけの荷物をよく背負って歩いたものだと感心しながらも、巡査は泥棒ではないか、との疑いを持った。
するとそのとき男が、
「旦那、煙草1本くれませんか」と言った。
当時の煙草はまだまだ貴重品である。
しかし巡査は手持ちの「光」から1本抜いて男に分け与えた。男はうまそうにしばらくそれを吸っていたが、やがてぼそりと呟いた。
「旦那、実は私は昨年札幌刑務所から逃げた白鳥という男です」
一瞬、巡査はなにを言われたのかわからなかった。
札幌から逃げた白鳥といえば、白鳥由栄のことである。
彼のことは手配書で毎日毎日見ている。角ばった顔、太い眉。体格はぎゅっと押し固めたようで、小柄だが筋肉の塊のようだ。間違いない。大物中の大物の捕り物である。巡査は膝ががくがくするのを押し殺しながら、白鳥を派出所へ連行した。
白鳥はおとなしく付いてきた。
ほどなくして警察署から刑事が駆けつけた。白鳥は「お手数かけてすみません」と刑事たちと巡査に頭を下げ、札幌警察署へ護送されていった。
取り調べの際、白鳥は、
「不審尋問されたとき、煙草をくれましたのでホロっとし、つい名乗ってしまいました。オイコラ式で威張ってこられたら、日本刀で強行突破したかもしれませんがね……。いや、煙草1本で気持ちがくじけました」
と言った。
それからすぐして、白鳥の公判が再開され、斎藤弁護士の弁護もはじまった。
約4ヵ月後に出た判決は、懲役20年。
野荒しと間違えられたときに犯した殺人は、正当防衛こそ認められなかったものの殺意なしとされ、傷害致死となった。これと逃走罪と合わせての20年である。
これで白鳥が背負った刑は無期に懲役3年と、懲役20年。
このとき白鳥は40歳になっていた。
死刑判決が下らなかったことで、白鳥の心境には変化が起きていた。
――もう逃げる必要はない。
残るは刑期で、無期にプラスする23年の刑である。先のことを考えるとまいってしまうので、ともかく“どこでその刑期を送るのか”だけが気がかりとなった。
移送先が決まったのは7月下旬。
府中刑務所であった。
当時は終戦後まもないことで、占領軍の天下であった。
白鳥の護送は東京までと長距離なので列車となる。しかし一般人と彼を一緒に護送するわけにもいかず頭を悩ませていたところ、白鳥の評判を聞いたGHQが「そんな凶悪犯にはいくら警戒してもしすぎることはない」とのツルの一声を発し、郵便貨車の貸し出しが許可された。
昭和23年7月30日、列車は出発した。
白鳥は網走で使用されたのとほぼ同じ特製手錠と足錠をかけられ、7人の看守に囲まれての移送となった。
約1週間かけての長旅、しかも気のゆるみなく看守たちは監視をつづけなければならない。仮眠は交替だが実際はほとんど眠れず、へとへとになってしまった。
看守たちは白鳥を観察していて、彼が寝なくても平気らしいことに驚いた。
それだけの体力があったからこそ山中で何年間も隠遁生活ができたのだろうが、調書でしか読んだことのない白鳥の強靭さを目のあたりにして、内心彼らは舌を巻いた。
府中刑務所に到着したのは8月6日である。
公安が「もっとも厳重な刑務所」として対・白鳥用に指定したというこの刑務所に、彼は13年4ヶ月という歳月を過ごすことになる。
初日、所長室に通された白鳥と面接した所長は、白鳥が予想していたような男ではないことを感じた。
彼は今、もう一度の脱獄かおとなしく刑に服すかの間で揺れている。とすれば、その気持ちをはぐらかしてみようと思った。
彼は看守のひとりを呼ぶと、
「白鳥の手錠と足錠を切ってやりなさい」
と命じた。
看守がヤスリをかけはじめるのを白鳥はきょとんとして見ていたが、やがて目の前の椅子に腰をおろし、無表情でされるがままに任せた。
白鳥は入浴を許され、体を洗い流した。房は特別房だったが一輪挿しがあり花が活けてあった。
冷笑をもって白鳥がそれを眺めるのを見つつ、所長は愚者にしばらく徹する覚悟だった。
厳しい態度でのぞめば白鳥は反発し、看守たちをおびやかすような言動をはじめ、やがてその心理戦に失うものを多く持つ側の看守が負ける。優位に立った白鳥は難なく脱獄を果たす。それを挫くにはまず、反発が不要なものだと彼に知らしめることであった。
最初の5年間は、白鳥はやはりどちらかといえば不良囚であった。
模範囚として勤めを果たすか、あくまで脱獄を目指すかの葛藤で彼は揺れた。
しかし所長の措置で花壇の花づくりの仕事を与えられるにあたって、白鳥の態度は確定する。
もともと彼は自分の畑を持つことを夢としていた男である。手先も器用だったし、花づくりは性に合った。
所内の運動会や相撲大会に出場する機会まで与えられた。40半ばを過ぎてさえ白鳥の怪力は健在で、米60キロ入りの俵を両手にそれぞれ持って、手が水平になるところまで持ち上げることができたという。
所長は1度、運動場で座りこんで休んでいる白鳥に声をかけたことがある。
そこには2メートル余りの塀があるきりで、それを越えれば外である。若い頃より衰えたとはいえ、まだ白鳥になら労せずして越えられる高さのはずだ。しかし白鳥はただ座り込んでいるだけだった。
「なにか辛いことはないか?」
声をかけると白鳥は顔をあげた。
「出所したやつが、また何かやらかして戻ってくるでしょう。そうすると『あれ、まだいたのか』と言われる。それが辛くてね、いっそ逃げようかとも思いますよ」
「なぜ逃げんのかね」
すると白鳥は苦笑して、
「もう疲れましたよ」
と言った。
11年間に4回の脱獄、3年の逃避行、そして逮捕。
それに費やした体力と知力、労力を想像すると、たしかに疲れたという言葉はふさわしいように思えた。
所長は白鳥の仮出獄の申請を行なうことに決めた。
しかし仮出獄の許可が出るまでには、それから十年近くを待たなければならなかった。
白鳥は模範囚となり級を上げ、昭和33年には1級を取得した。
昭和36年12月21日、白鳥由栄、仮出獄。
出所後はしばらく保護司のもとに身を寄せるが、やがて「世話になるのが心苦しい」と言ってその家を出、転々と住居を変えつつ日雇いをして暮らした。
だが白鳥由栄ですら、老いと病には勝てなかった。彼は生活保護観察所が指定した都内の病院で心筋梗塞で死亡した。
享年71歳。昭和54年2月24日のことである。
彼が仮出獄後の日雇い時代、仲良くしていたという「近所の女の子(当時5歳)」だった女性が彼の遺骨を引き取ることを申し出たため、白鳥は無縁仏となることを免れた。
彼の遺骨は富士山を望む墓所に埋葬された、とのことである。