アーサー・ショウクロス

 

 

「じゃ、これが地獄なのか……。こうだとは思わなかった。
硫黄の匂い、火あぶり台、焼き網など要るものか。
地獄とは他人のことだ。」

――ジャン・ポール・サルトル『出口なし』より――

 


 

 

 アーサー・ショウクロスは1946年6月6日、メイン州に生まれた。
 幼児の頃から空想癖があり、内向的な性格だった。弟妹が生まれてからは特に夜尿症、言語発達の遅れ、家出などの問題行動が多く見られるようになったという。
 だがやはり彼の一生の性質を決定付けたのは、九歳のときに始まった両親の不和と、それによる家庭の崩壊だったと言えるだろう。

 

 

 きっかけは、軍人であったショウクロスの父が赴任先のオーストラリアにも妻子を持っているのが発覚したことである。
 この一件により両親の仲は冷え、母親は夫の子供たちに対する愛情を完全に捨て去った。幼いショウクロスには事情はわからなかったが、「パパとママの間になにかあった」ことは察した。そして彼らの愛がもはや、自分の上にないことも。

 母親はショウクロスに暴力をふるうようになり、「おまえはいらない子なんだよ」と面罵した。
 父親はたまに帰ってきては、「おまえさえいなきゃ、こっちで結婚することもなかったんだが」と言って溜息をつき、睨みつけた。
 冷えきった家庭に帰るのがいやさに、ショウクロス少年は近所に住むウエイトレスの誘いにのり、ほとんど性的虐待とも言える交渉を持つようになる。彼はこの行為に耽溺した。だが我に返ると自分の行為に恥じ入り、肉体的欲求と罪の意識の板ばさみになって混乱した。
 この関係が終わるとほとんど同時に、人間の女に対する反発もあってか、彼は獣姦にのめりこむようになる。家畜の山羊や羊を襲っては、犯しながらナイフで切ったり突いたりして(キュルテンも同様の行為にふけった)快感を得るのである。夜遅く、家畜の返り血を浴びて帰ってくる息子を見ても、母親はなにも言わなかった。


 この頃からショウクロスは学校でも「奇行のある問題児」として扱われるようになっている。
 夜尿症は悪化し、独り言は前よりも頻繁になり、大声になった。弟妹たちをはじめとする小さい子へのいじめ行為も見られ、幾度か憤怒の発作も起こしている。



 

 ある日、ショウクロス少年が学校から帰る途中、話しかけてくる男があった。
 赤いコンバーティブルに乗っており、身なりも普通で、話し方もまともに見えた、と後年ショウクロスは彼について語っている。
 男に道を尋ねられ、ショウクロスは彼なりに説明したが、男は「ちょっとよくわからないな」と首をひねり、
「わかりやすいところまで、同乗して案内してくれないか」と言った。
 少年が車に乗り込むと、男は豹変した。男は人気のない道で少年の首を絞め、下着を剥ぎ取るとオーラル・セックスをしはじめた。しかし恐怖にすくむ少年は勃起しなかったので、男は激怒して彼を殴りつけた。さらにショウクロスを押さえつけてレイプしながら、男は声をあげて笑った。
「俺の上で大口をあけてげらげら笑ってた。よだれが顔にぼとぼと落ちてきて、俺は気が狂いそうだった」。
 男は欲望を遂げると、少年を路上に置き去りにして消えた。
 出血した体を引きずって、ショウクロス少年は歩いて家に帰らねばならなかった。家には母親がいたが、彼女は息子の顔が腫れあがり、シャツもズボンもぐしゃぐしゃにされているのを見ても、なんら注意を払わなかった。

「家に帰ると、母さんがキッチンにいた。俺は傷ついてたし、慰めが欲しかったから『ママ、ぼく、ひどいことされたんだ』って小さな声で言ってみたんだ。そしたらあの女、『そうね。おまえを見たら誰だってムカつくだろうからね』って言ったよ。そしてそのまま振り向きもせずに、キッシュを焼いていやがったっけ」。

 また、これとほぼ同時期に母親にも性的な虐待を受けたこと、妹や叔母とも性的関係を持ったことをショウクロスは証言している。しかし親族側はこれを完全否定した。
 彼をレイプした「赤いコンバーティブルの男」は発見されていないし、母親が彼に性的暴力をふるったかどうかも証拠はない。だが後年ショウクロスが刑務所内で退行催眠をかけられ、母親に箒を肛門に挿入されて痛めつけられた記憶を呼び覚まされて、
「痛い、痛い、ママ。僕にそんなことしないで」
 と啜り泣くさまがCBSテレビで放映された。そして、直後に「母親の人格」に豹変し、
「あたしとあの子の間を邪魔する奴は殺してやる。淫売ども、雌豚」
 とわめき散らすさまも。
 これが演技だったのかどうか我々には判断するすべはない。が、少なくとも陪審員はこれを茶番であると決め付けた。


 ともあれショウクロスによれば、このレイプ事件以来「性的嗜好が完全に一変してしまった」のだという。暴力的なセックスでなければ、満足できなくなってしまったのだ、と。

 留年を繰り返し、家宅侵入で保護観察処分を受けるなどしながらも、ショウクロスはなんとか大人になった。
 18歳で結婚し一児をもうけるものの、幸せの絶頂のはずの状況で「自分でも得体の知れない欲望」に突き動かされて、ショウクロスは女遊びにのめりこむ。やがて家庭は崩壊し、離婚。
 その後再婚したが、彼は自分に新婚生活を楽しむいとまも与えず、ベトナムに従軍した。1968年のことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ベトナム戦争がいかにアメリカという国を打ちのめしたかについては、溢れるほど多く作られた映画群が雄弁に物語っているだろう。兵士たちは初めて「前線のない戦場」を体験し、ベトコンの兵士だけではなく、非戦闘員であるはずの女子供からもゲリラ攻撃を受けた。
 かたときも油断ならない日々。不安はデマを呼び、隊内を飛び交ってふくれあがったデマがまた新たな不安と緊張を生む。結果、ベトナム戦争はそれまでの戦争とは比べものにならないほど多くの「戦争神経症患者」を生みだしたのである。
 そして、「帰国後の精神破綻」は、とくに「ベトナム後遺症の典型例」とされた。
 ショウクロス自身の証言によれば、彼はここで食人嗜好に目覚めたのだという。
 彼は2人の少女を捕らえて木に縛りつけ、1人が見ている前でもう1人の首を切断し、腿の肉を切り取って食べたと証言した。それを見ていた少女は発狂寸前になったそうだが、この話に裏付けはなく、ショウクロスが主張したのみである。が、勿論それが行なわれなかったという証拠もない。すべからく戦場では、どんな酸鼻きわまりない光景でも毎日のように見ることができるものだ。

 

 



 ショウクロスは1969年に帰国した。
 彼はまっさきに母親のもとへと向かったが、彼女にとって息子が「歓迎すべからざる客」であることには何の変化もなかった。
 彼女は息子が五体満足で帰ってきたことを見るや、恩給が手に入れられなくなったことを嘆いた。そして戦争での苦労や、家を離れてからのことを話しつづけるショウクロスに癇癪を起こし、
「いいかげん黙るんだよ。女みたいにべらべらとしゃべって、おまえはオカマかい。まさか尻で軍隊にご奉仕してたんじゃないだろうね」
 と吐き捨てた。
 ショックを受けたショウクロスは家を飛び出し、我が家へ戻った。家には従軍前に再婚した妻が待っていた。
 だがベトナム後遺症による幻覚や悪夢に悩まされるようになったショウクロスは、結婚生活を楽しむどころではなかった。彼は精神科医にかかりカウンセリングを受けた。入院は、クリスチャンサイエンスの信徒であった妻が教義に反するとして拒否した。
 1970年後半あたりから、ショウクロスは放火・窃盗・婦女暴行を犯しはじめるようになる。彼は自分が働いていた製紙工場や、チーズ工場にも放火した。製紙工場への放火は28万ドルもの被害を出した。
 ショウクロスは懲役18ヶ月から5年という判決を受け、服役。収監中、妻には離婚を言い渡された。
 刑務所の中で、本人の弁によれば彼は3人の黒人囚にレイプされたという。そんな折、刑務所内で受刑者たちの大暴動が起きる。多数の死傷者を出した、未曾有の規模の暴動であった。
 しかしここでショウクロスは偶然に怪我した看守と行き会い、結果的に彼を助けることになる。これが功績として認められ、ショウクロスの刑期は大幅に短縮されて彼は2年で仮釈放となった。
 出所したショウクロスは、3度目の結婚をする。相手は幼馴染みで、妹の元クラスメイト。
 

ときは1972年。ショウクロスは26歳になっていた。

 


 彼は今度こそやり直す気だった。しかし夜の夫婦生活はみじめなもので、おまけに妻は彼の子供を流産した。ショウクロスの頭の中にまた幻聴が満ち、悪夢がぶりかえすまでに長くはかからなかった。
 1972年6月4日、ショウクロスはその日もまた、幻聴とフラッシュバックと闘っていた。
 ふと自分を呼ぶ声がするので振りかえると、近所に住む少年がこちらに駆けてくるところだった。釣り場でよく一緒になる男の子で、当時10歳。なぜかショウクロスになついていた。
 ショウクロスはすこしだけ少年の相手をしてやり、その後は「家に帰れ」と言ったが、少年は帰るそぶりを見せず彼についていった。
 いらいらが頂点に達しつつあったショウクロスは何度も「帰れ」と言いながら、ひとりになれる場所を探して歩いていった。自然と足は森に向かう。しかしそれでも少年は彼についてきた。
 うんざりしたショウクロスは少年をまこうと、走り出した。
 その時、背後で水のはねる「バシャッ」という音が聞こえた。
 それは少年が水溜りを飛び越えそこなった音に過ぎない。だがショウクロスにとって水のはねる音は、ベトナムで何度も聞いた「水の中に潜んだゲリラどもが立ち上がり、こちらに銃を向ける音」であった。
 それからはほとんど本能的にショウクロスの体は動いた。彼は振り向きざま、10歳の少年の首を殴りつけ、頚骨をへし折った。少年の体はぐしゃりと泥の中に倒れこんだ。
 しばし呆然としていたショウクロスはやがて正気づくと、少年の死体を森に埋めて帰宅した。
 3日後、ショウクロスは森に戻り、少年の死体を掘り起こした。季節は夏に向かいかけており、気温は高く、死体はすでに腐りはじめていた。肉の腐る匂いは、ショウクロスにふたたびベトナムを思い出させた。
 ショウクロスはアーミー・ナイフで死体から首を切り離した。そして腹を断ち割ると内臓を取り出し、性器と睾丸を切り取って口に含んだ。彼はゆっくりゆっくりそれを噛み砕き、やがて飲み込んだ。
 「食事」が終わると彼は生首の髪を掴んで立ち上がり、あたりの木々に手あたり次第、叩きつけてまわった。少年の首はやがて鼻がもげ、耳が取れ、頭蓋骨が割れて脳漿がにじみ出た。ショウクロスはそれを地面に投げ落とすと、渾身の力をこめて顔面を踏み抜いた。
 さらにショウクロスは腐乱臭を放つ少年の首なし死体にまたがると、屍姦した。そして家に戻った。

 4ヵ月後、釣りに出かけたショウクロスは幼い少女が溺れているのを発見した。彼は女の子を引き上げると、瀕死でぜいぜいと喘いでいる様子にはかまわず、レイプした。そして口の中に泥を押し込み、窒息死させた。
 彼はこのときも少女の死体を解体し、性器や乳房などのセクシュアルな部分を切除し口に入れた。胴体と手足は切り離し、それぞれ別の場所に放置した。
 死体は数日後に発見され、被害者がまだ八歳だったことをショウクロスはこの時点でやっと知った。
 やがて捜査線上に、事件当日に現場付近でアイスクリームを食べていたショウクロスの姿が目撃されていたことにより、彼の存在が浮上。警察は以前の10歳の少年殺害の容疑も含め、彼を尋問した。六時間にわたる尋問の末、ようやく彼は容疑を認める。
 しかしこれほど残虐な大事件にもかかわらず、有罪答弁取引という制度とベトナムでの経歴が彼に味方し、ショウクロスはわずか25年の懲役刑にとどまった。この判決は地域住民と警察を激怒させた。しかしこれをくつがえすことはできず、ショウクロスは服役した。
 彼が出所するのは15年後のことである。
 その時、アーサー・ショウクロス、41歳。

 

 

 

 

 1987年4月30日に出所したショウクロスは、事件を犯した土地に戻ることを禁じられていたため、各地を転々とした。文通で知り合った女、ローズが彼についてきた。そしてようやく、誰も彼の過去を知らないニューヨーク州ロチェスターに落ち着き住居をかまえることになる。
 だがじきにショウクロスは「近隣の女性に誰彼の区別なく婚約指輪を送りつける」という奇行に出はじめた。そしてサラダ調理工場で働くうち、クララという女と知り合い、愛人関係になる。しかし2人の女を得ながらも、ショウクロスの衝動は止まらなかった。

 1988年3月、ロチェスター北西部の郊外を流れる川に、27歳の売春婦が殺されて浮いているのが発見された。のちに逮捕されてからショウクロスは、
「あの女、オーラル・セックスの最中に俺のを噛みやがったんだ。血が出たんだぜ。『噛むのが好きなのよ』って笑ってやがった」
 と証言する。その女の行動は戦場でゲリラ活動をしていたベトナム女性を思い出させた。ショウクロスは激昂して女を絞め殺し、死体を川に捨てて立ち去った。
 同年九月、二八歳の売春婦が下町を流れるジェネシー川に死体となって浮かんだ。
 1989年10月、同じくジェネシー川で59歳の女性浮浪者の死体が発見される。
 その一週間後、25歳の売春婦が絞殺死体で発見された。殴打され、肛門を犯されていた。
 11月初旬、五人目の犠牲者である売春婦が行方不明リストに載る。
 11月11日、22歳の売春婦が死体で発見される。同じく肛門を犯された形跡があった。
 11月23日、ローズの友人で軽度の知的障害がある30歳の女性が、ジェネシー川で死体で発見された。ショウクロスは彼女の死体を解体し、内臓を取り出して、性器を食べた。「自分が体から抜け出て、死体を切り刻んでる自分を空から見下ろしてるみたいな気がした」という。
 11月27日、29歳の売春婦が殺害される。
 捜査に行き詰まったロチェスター警察は、FBIに協力を求めた。FBI特別捜査官は事件を検討し、連続殺人犯のプロファイルを作成。それは次のようなものであった。
 「30代の白人男性。行動範囲が広い。女性たちが安心して車に乗り込むような、信頼に足る雰囲気の人物」。
 しかしこれに該当する人物は捜査の網にはひっかからなかった。
 その年の暮れにはさらに3人の売春婦がショウクロスの手にかかり、行方不明者リストに名を連ねることになる。

 ショウクロスは犯行を重ねながらも、精神的には混乱のきわみにいた。死体からえぐり出した内臓を袋に詰め、ハンドル片手に袋の中身をいじくりながら帰途をたどるうち、「俺はいったいどうなってしまうんだろう」という思いに涙が止まらなくなったこともあったという。
 最後の犠牲者である34歳の娼婦を撃ち殺した後、彼は、
「そうだ! この女の部品をクララ(愛人の名)の息子におみやげに持って帰ったら、きっと喜ぶぞ」
 という思いに取り憑かれ、内臓と性器をタオルでくるんで袋に詰め、いったん家に帰ることにした。しかし信号待ちをしている間に、彼はいつものように袋に片手を突っ込んでそれをいじくり出し、我慢できなくなってついに食べてしまう。
 それを噛み砕きながら彼はマスターベーションし、ふと我に返ると、バックミラーに血まみれの自分の顔が映っているのが見えた。彼は自分が完全に駄目になってしまったことを今更ながら悟った。

 

 


 1990年1月、遺体と性交しに現場に戻ったショウクロスを、警察のヘリコプターが発見した。
 彼は拘束され尋問を受けたが、44歳で白髪頭の、太ったショウクロスはFBIが作成したプロファイルとあまりにかけ離れていた。しかも彼は車を持っておらず、運転免許は失効していた。
 しかし彼の前科が知れるや、捜査陣は色めきたった。加えて彼が使っていたレンタカーを押収して調べてみると、被害者のひとりが身に付けていたイヤリングが発見された。売春婦たちがよく現れる小路でショウクロスの写真を見せてまわると、彼がそうとうな常連であることも判明する。
 ショウクロスは逮捕され、長い尋問の末、屈服して自供をはじめた。

 10月に彼の裁判がはじまり、弁護側はショウクロスの精神異常を訴えた。
 ショウクロスは退行催眠をかけられ、幼い日「赤いコンバーティブルの男」にレイプされた記憶、母に性的にいたぶられた記憶を呼びさまされ、許しを乞うて啜り泣いた。さらには「13世紀の人食い“アリーメス”の霊に取り憑かれている」と言い、奇妙な声でまくしたてた。
 最終的に、陪審員は「すべて演技である」という検察側の意見に同意。
 ショウクロスは懲役250年の刑を宣告された。

 

 FBI捜査官をはじめ、犯罪学専門家たちは事件解決後も、プロファイルと現実の犯人であるショウクロスとの年齢差に首をひねった。
 しかし一部の専門家の説によれば、刑務所で過ごした15年間、彼の殺人衝動は「仮死状態」になっていたのだろう、ということである。その眠りは1987年の釈放によって破られた。だから現実の年齢は40代であっても、殺人衝動そのものは15年前のまま、その続きとして犯されていたのではないだろうか――と。

 ショウクロスの家族は面会を拒絶し、いっさいの接触を断っているという。
 独房の中からショウクロスは何百通となく母親に手紙を出したというが、返事が来たことはない。

 


「一枚でいいから、家族みんなで写ってる写真が欲しいな。それがありゃ、もう自分が騒ぎを起こしたりすることはないような気がするんだけどなぁ」。

 


 


 

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