近代科学捜査

 



もし二十世紀が科学の世紀と呼ばれるようになるのだとすれば、
その科学のかなり大きな部分が、犯罪者を捕まえるために捧げられたと記録されることだろう。

―『不完全犯罪ファイル』コリン・エヴァンス著 序文より―






◆ジョセフ・クリストファー 

 

 1980年、ニューヨーク。
 9月22日、14歳のアフリカン・アメリカンの少年がスーパーマーケットを出たところを射殺されるという事件が起こった。
 翌日、同様の手口で2人の黒人男性の射殺死体が発見される。
 さらに翌日の24日には、近隣にあるナイアガラの滝で、4人目の被害者が射殺された。いずれも被害者は黒人であり、目撃証言による加害者の風体は「見知らぬ若い白人男性」であった。警察はこれらを連続殺人事件であるとみなし、捜査を開始した。

 被害者はすべて、至近距離から「銃を紙袋に隠して」撃ち殺されていた。
 銃を紙袋に入れて撃つことの利点は、被害者や目撃者の視点から銃が見えないということのほかに、現場に薬莢を落とさずに済むという点である。使用済みの薬莢が自動的に中へ落下するため、紙袋さえ掴んでいれば瞬時に銃と薬莢をまとめて持ち去ることができるのだ。
 この手口からして、殺人は衝動的なものではなく、あくまで計画的なものであると推測された。
 しかし24日の殺人において、犯人は薬莢をひとつ落としていくというヘマをやらかしていた。
 ニューヨーク市およびバッファローのメディアはこの犯人を「22口径の殺人者」と名付けた。
 2週間後、2日つづけて犠牲者が出た。被害者はどちらもタクシー運転手であり、黒人だった。死体は森の中に無造作に捨てられていた。
 そのうちひとりは相当な膂力により、頭蓋骨にドライバーを突き刺されて死亡していた。もうひとりは頭部を金槌で殴打されていた。2人とも胸骨を貫通するほど深く何度も刺されており、しかも心臓が抉りとられていた。
 心臓の切除は困難な作業であるはずだが、死体にはほとんど余計な傷がなく、ためらった痕もなく鮮やかな手口であったという。
 連続殺人者の多くは同じ手口を使い、同じような犠牲者を選ぶ。
 しかしマスコミがいったん「22口径の殺人者」と名付けるやいなや、この犯人はあっさりと凶器を持ちかえた。捜査員は犯人像を「狩猟の知識があり、腕力に自信のある向こうみずな男」であると推定した。
 しかしこの犯人はそれから数週間ものあいだ、飽きてしまったかのように殺人をぴたりと止めてしまうのである。
 凶行が再開したのは、12月もなかばを過ぎてからであった。

 12月22日、マンハッタンの中心部で、わずか数時間のうちに黒人5人とヒスパニック系ひとりが通り魔に襲われるという事件が起きた。彼らはいずれも突然駆け寄ってきた男に、無言で刺されていた。うち4人が死亡、2人が重傷。
 マスコミはこれを「ミッドタウンの切り裂き魔」と呼んだ。しかしこの突発的犯行ののち、切り裂き魔がこの路上に現れることはなかった。
 当初、「ミッドタウンのリパー」と、「22口径のキラー」を結びつけて考える者はなかった。
 あまりに手口が違いすぎ、間隔もあいており、また場所も400マイルは離れていたからだ。
 だがバーデンという検視医が、これらの事件における被害者の身体的特徴がどれも似通っている――みな痩せ型で、髭をたくわえており、有色人種である――ことを指摘。
 犯人はさらにバッファローで黒人男性ふたりを刺殺し、数名を負傷させ、この推論を裏付けた。
 その間に、警察は着々と手がかりを集めていた。
 一連の殺人現場からは、紙袋では受け止めきれなかった薬莢が五個採取されていた。薬莢は被害者の体内にあった弾丸とともに、ワシントンDCのFBI研究所へと送られた。
 分析の結果、この弾丸を発射できる銃は4種、ライフルなら1種きりであるところまでが絞られた。
 さらに銃の特定をすすめるため、撃針によってつく刻印を分析。これによって3種の銃が除外された。残りは銃1種、ライフル1種である。いずれもコネティカット州のルガー社製のものであり、ルガー社の仕様書から、完全に銃種は特定されることとなる。
 凶器はルガー社、22口径ライフル。また紙袋に隠せるサイズになっていたことから、銃身を切り詰めたものに間違いなかった。

 翌年1月、事件は思いもかけぬ進展をみせる。
 ジョージア州フォート・ペニング駐屯地に入隊したばかりの兵士が、同僚の黒人兵を殴って逮捕された。
 男の名はジョセフ・クリストファー。拘留中、みずからを剃刀で去勢しようとし、精神病院へと送られた。病棟でクリストファーは看護婦に向かって
「俺はニューヨークでもバッファローでも、ニガーどもを殺してまわったんだぜ」
 と得意げに吹聴した。彼の所持品の中には、22口径の弾丸があった。
 一連の凶行がやんでいた期間は、彼の入隊時期とぴったり重なった。しかも「ミッドタウンのリパー」が6人を殺傷した12月22日の前日には、彼は一時休暇をもらってマンハッタン行きの切符を買っていたのである。
 クリストファーはバッファローにいた頃、母親と妹とともに住んでいた。
 警察はこの家を捜索し、地下室から誤射されたとおぼしき弾丸を一発採取した。これは薬莢がはずれておらず、撃針の刻印はかつてFBI研究所で分析された弾丸の刻印と完全に一致した。
 捜査員の見込みどおり、クリストファーは狩猟にたけていた。
 一家は狩猟用ロッジを所有していた。そこには父親ゆずりの膨大な銃のコレクションとともに、銃身を切り詰めた22口径ライフルと、同じく22口径の弾丸が数箱発見された。実際に殺人に使用された銃は見つからなかったが、法科学的な証拠としては充分であった。
 しかし意外なことにクリストファーは明解な人種差別意識を持っていたわけではなかったらしく、動機に関しては
「なにかがせりあがってきて。それで、なにかしなくちゃと思った。だからやった」
 と言うだけだった。なぜ髭を生やした痩せ型の有色人種の男性だけを狙ったのか、彼自身にも説明がつかないようであった。

 彼はあきらかに正常な精神の持ち主ではなかったが、終身刑を言い渡された。




◆ピーター・グリフィス 

 

 1948年5月、イギリス、ブラックバーン。
 ランカシャー州ブラックバーン近郊にある病院の小児病棟で事件は起こった。
 看護婦が深夜の巡回中、ジェーン・ディバニーという3歳の少女がベッドから忽然と消えていることに気付いたのである。1時間前の巡回では、この子はぐっすりと寝入っており、なんの問題もなかった。入院の理由となった肺炎はすでに治っており、朝になれば帰宅する予定であった。
 付近を捜したがどこにもジェーンの姿は見あたらない。病院の責任者は警察に連絡することを決心した。
 午前3時すぎ、捜査員が病院の壁際でジェーンの死体を発見。検視官はこの幼女の受けたむごたらしい外傷について、以下のように記している。

「頭蓋骨複雑骨折。鼻孔より出血。
 左足に数箇所の傷。これは足首を掴んだときにできた爪痕と思われる。
 頭蓋への損傷は、頭から壁に叩きつけられたことによるもの。私見では、少女は足首を掴まれ、頭を壁に叩きつけられ絶命したものと推測される」

 しかもわずか3歳のジェーンは強姦されていた。左の尻肉にはくっきりと歯形が残っていた。
 病棟の床には足跡が残っており、犯人は靴下をはいた足で侵入したことがわかった。サイズは10インチ半、間違いなく男性の足である。単独犯。また、犯人は病室内のものをいくつか動かしており、無菌水の瓶からは指紋が採取できた。もちろん病院関係者のものとは誰とも一致しない指紋である。
 ランカシャー州指紋鑑識課長は15時間かけてこれらの情報を掴み、持ち帰った。だが案に相違して、過去の犯罪者リストの指紋と、その指紋とはどれも一致しなかった。
 捜査はここでいったん手づまりになってしまった。
 しかし事件の指揮官である警視が、
「暗くなってから病院の敷地に入り、通り抜けることは難しい。犯人に土地勘があることは疑いがない。よって、ブラックバーンに居住するすべての16歳以上の男子の指紋を採取すれば犯人に突き当たるだろう」
 と提案した。
 それまで全住民の指紋採取、というのは前例がなかった。選挙名簿で見た限りでも、ブラックバーンには3万5千軒もの家がある。このすべてを廻って、全員の指紋を採取するというのは容易なことではなかった。
 だが警察は、この捜査に踏み切った。
 プライバシー保護のため、「調査後、事件に無関係とわかった指紋は破棄する」と公的に発表し、強制的な採取はしないとも住民と約束した。この公約は完全に守られた。
 それでなくとも、たった3歳の幼女を強姦し、足を掴んで振りまわし、壁に叩きつけて殺した犯人への義憤は全住民の胸にあったのだ。この捜査に対する市民の抗議はほとんどなく、指紋採取を拒否した者もいなかったという。

 警官たちは一軒一軒をたずね、男性市民の指紋をカードに記録してまわった。
 4万人以上の男性が捜査に協力したが、7月なかばになっても合致する指紋は見つからなかった。選挙名簿に載っている家は調べつくしたにもかかわらず、犯人が捕まらないということは、初動捜査からして誤っていたということであろうか。しかし、実際はまだ漏れがあったのだ。
 当時はまだ戦後であり、すべての成人イギリス人は「配給手帳」を持っていた。
 この配給手帳リストと選挙名簿を突き合わせてみると、まだ200人の男性が未調査であることが判明した。
 ピーター・グリフィスはその200余のうちの1人であった。22歳の粉ひき人夫であり、確かにブラックバーンに居住していた。8月11日、警官が彼をたずね、指紋を採取。グリフィスはとくに抗う様子もなく採取に同意した。
 そして翌日の午後、鑑識課の捜査員が歓喜の声をあげることになる。
「見つけたぞ! こいつだ、バーリー・ストリート31番地在住、ピーター・グリフィス!」
 
 逮捕の直後こそグリフィスは否認していたが、やがて「罪の報いを受けたい」と自白した。
 事件当時、病院には彼の姪が入院していた。
 当夜、大量のアルコールによって酩酊した彼は「子供のころから遊びなれていた」病院をなぜか訪れ、靴を脱いで小児病棟へ侵入した。グリフィスの背広からはジェーンのパジャマと同じ繊維が発見され、病院に残された足跡も、指紋と同様彼の足と完全に合致した。
 彼の主張によると
「ベッドにつまずいて子供を起こしてしまった。子供が泣きやまないので、かーっとしてやった」
 ということだが、3つの子供が泣きやまなかったからといって、それが病院の外へ連れ出し、強姦ののち壁に叩きつけて殺害することへの正当な理由になるだろうか。もちろん誰もがそれにNOを突き返した。
 陪審員は彼に有罪の評決を下した。
 1948年11月、死刑執行。
 世界ではじめて全住民の指紋採取がおこなわれた殺人事件の結末である。




◆ジャン・ミーン
 

 オランダのドルデレヒト村は政府が用意した「村型の、独居老人ホーム」であった。
 各戸に居間、寝室、簡易キッチン、バス、トイレが付き、小さな裏庭は請負の庭師が手入れをしていた。「退職老人たちの独立性をおびやかすことなく援助する」というのが主なる意図であり、日に三度巡回する常勤役員が、その安全面を保証していた。
 村にはこうした住宅が約二十軒立ち並んでいた。この制度がはじまったのは1959年のことである。

 1961年、ドルデレヒト村で最初の殺人がおこった。
 被害者は63歳の女性で、居住者の中ではいちばん若かった。彼女は居間の椅子に腰かけたまま絶命しており、かたわらのテーブルからはラジオが流れたままだった。週末には息子と出かける約束があり、これまで病気ひとつしたことのない健康な女性だったという。
 検死解剖がおこなわれたが、心臓血管気管にはまったく異常がなかった。仕方なく医師は
「心臓を停止させる不特定の薬物、もしくは大きな障害を受けたための死である」
 と結論づけた。要するに「なんらかの理由で心臓が止まったが、理由はまるでわからない」ということだ。被害者が今まで頑健であったため過去の診断書もろくになく、死因を探る手だては皆無と言ってよかった。

 10日後、ふたたびの死者が出た。今度の被害者は病弱な86歳の男性で、同じく椅子に座ったままこときれていた。この被害者には長らく心肺機能の疾病があったため「慢性の心臓病による死」であると診断された。
 さらに10日後、3人目の死者が発見された。72歳の男性。同じく椅子に座って死んでおり、直接の死因は不明だった。
 偶然にしても重なりすぎではないのか、という声が出たのはごく自然なことだった。管理事務局はまずガス漏れか、農薬等の有毒物質の空中散布を疑った。検視官は被害者たちの死体を発掘し、仔細に調べあげた。
 ガスや一酸化炭素中毒による死ならば皮膚はピンク色を帯びるのが常である。しかし3体ともその兆候はなかった。脳を切除してもみたが、脳幹神経質の変質もみられなかった。
 検視官は語る。
「ふたたび死体表面の観察をおこなったところ、ひとり目と3人目の被害者の手首裏側に挫傷を見つけました。これは銀行強盗や誘拐、暴行事件の犠牲者によくみられる傷――つまり、襲撃者の掌の付け根が擦れてできる傷なのです」。
 暴れる犠牲者を押さえつけるため、相手の手首の裏側に自分の掌の付け根をぎゅっと押しつけ、死ぬまでそうしていると、この挫傷ができるものなのだ、と。
 だがわかったのはそこまでだった。脳にも胃の内容物にも異常は見あたらなかった。

 次の犠牲者は80代前半の女性だった。やはり椅子に座ったまま死んでおり、手首には擦過傷があった。
 その直後、事件には多少の進展があった。2人目の被害者の遺族が遺品を整理していると、かなりの額の金品が失われていることがわかったのである。この頃はまだおおっぴらに殺人事件として捜査されてはいなかったが、
「どこかの人でなしが、父の金を盗んでいった」
 と大変な剣幕だったという。老人たちのほとんどは自活するために金品を身の回りに置いていたし、管理事務所もその点は彼らの自己判断に任せていた。
 あらためて捜査してみると、四人合わせて約5000米ドルが奪われていることがわかった。これでやっと動機がわかった。単純なことに、金である。
 捜査員たちは管理事務所の職員および退職村を日々仕事場とする人々を洗いなおした。すると結果は意外なものだった。
 村の巡回職員6人のうち3人は前科持ちで、残る3人のうち1人は前歴詐称の亡命者。気のいい庭師は幼児強姦で検挙された経歴があった。しかし最終的には、彼らのすべてがこの事件に関しては白であると判断された。

 そして同時期、ロッテルダムの老人病院でも同一の事件が起こっていることが判明する。被害者はやはり老人で、手首に擦過傷があった。
 あいかわらず死因は不明で、手がかりらしい手がかりはない。鑑識は現場から塵、髪の毛、繊維を採取した。目につくものならすべて、あらいざらいかき集めて科学捜査研究所へ送った。そこでようやく、かすかな糸がつながれた。
 被害者の頬に透明な油性の物質が付着していたのである。識別は不可能だったが、これはかつて4人目の被害者の老女からも採取されていた物質だった。
 分析の結果、サリチル酸メチルから成る冬緑油(関節炎の緩和に使われる軟膏)と判明した。被害者はすべて老人であり、関節炎に悩む者は珍しくない。それでもこれは一縷の頼みのつなであった。
 そんなさなか、また犠牲者が出た。検死解剖の結果、頬にまた冬緑油がついていることが明らかとなった。
 捜査員はドルデレヒト村の職員をもう一度洗いなおした。冬緑油の匂いをさせている者がひとりでもいないかと探したのである。それほど捜査は難航しきっていた。なにしろいまだに明確な死因すらわかっていないのだ。
 結果、窓ふき業者と牛乳配達の男からそれらしき匂いがすることがわかった。だが窓ふき業者にはアリバイがあったため除外された。

 牛乳配達の男が呼び出された。名はジャン・ミーン。
 明るく、面倒みが良く、村の誰にも慕われていた。体の弱った老人たちのためにポストへ手紙を出してやったり、電球を交換したり、蝶つがいに油をさしたりしてやる「親切な男」として評判だった。
 捜査員の前でも彼はにこやかで、素直で、協力的だった。冬緑油は彼の若年性リューマチの緩和のため、常用されていたものだった。
 ミーンは最初こそ犯行を否認したものの、やがて認めて
「確かにわたしはあなたたちが探している男です。こうなってほっとしています、自分では自分を抑えきれなかったので」
 と言った。
「最初に殺しをやったとき、どんなものか試したくて、わざと強い若い相手を選んだんです。これはくせになりそうだと思いました。だって特別な悦びを与えてくれるものって、何でもくせになってしまうじゃないですか」
 ミーンは終始、笑顔だった。
 捜査員は目の前にいる男が精神病質者――サイコパスだと瞬時に理解した。
 彼の自白によると、あれほど検視官を悩ませた凶器は、「ヴェトナム沖で捕れる、大型のエイの皮膜」であった。一辺が丸くなった袋状のもので、ひどく薄いのに水も空気もまったく通さない。これは兄がヴェトナムから買ってきてくれたものだ、と彼は語ったそうだ。
 その袋を彼は眠っている被害者の頭にかぶせた。薄すぎる皮膜は一瞬にして顔に張り付き、空気を遮断し、心活動を停止させる。犠牲者がもがこうとも、ミーンは彼らの手首を押さえているだけで良かった。
「苦しめたことは一度もないはずですよ。もがいたとしても、それはただの反射運動に過ぎませんから」
 捜査員は問いかけた。
「きみはただ、金のためにやったのか」
「ええ、そうです」
 いったん頷いてから、ミーンは肩をすくめた。
「いや、理由は他にもあるな。楽しかったから、うん、きっとそうですよ。だから何度もやったんです。誰かが死ぬのは感動的だったし、これを自分がやってやったんだと思うと誇らしかったですね」
 村で騒ぎになったから場所を変えた、でも一生このままずっと同じことがやり続けられるだろうと思っていた、とミーンは淡々と語った。
「もちろん悪いことだとは思ってました。抑制がきけば良かったんですがね。でもわたしは自分じゃそれができないんです」
 捜査員が、「きみが捕まったのは冬緑油が手がかりになったせいだよ」と言うと、ミーンはやはり笑顔でこう言った。
「そうですか。誰かに密告されるよりは、全然ましですよ、そう思いませんか?」




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