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聖職者たちの犯罪


 

 

子供を教え諭す教師。人の命を救う医師。
愚昧なる民を正しき信仰に導く神父もしくは牧師。
本来「アウトサイダー」たる殺人者たちの対極にあるはずの彼らが
なぜ境界線を踏みはずしてしまったのか?
一時の激情か? 退屈からか? はたまた高慢からか?
――それは彼らが自ら求めた甘美なる堕落だったのか? 

 


◆ハンス・シュミット

 

 

 1913年9月の早朝、ハドソン川を見渡す断崖に建つ自宅のポーチからじっと川を見ていた幼い姉弟が、流れに奇妙な包みが浮かんでいるのを発見した。
 なんとなく好奇心にかられて外へ走り出、包みを拾って包装紙を破り捨てると、中にはおそろしく派手な模様の枕が入っていた。
 枕には長い切り込みが入れてあり、そこから手を入れて破ってみると、何やら羽毛にまみれたものが、ごろんと転がり出た。
 出てきたのは女の白いトルソオであった。
 それも四肢を断ち切って、首を切断してしまった胴部分をさらにウエストのところから二つに切ってあるのである。つまり女性の下腹部と性器だけが付いた肉の塊が、枕カバーから西瓜のようにごろりと現れたわけで、姉弟は仰天して家に逃げ帰った。

 また後日、胴体の上半分はハドソン川の下流で発見された。
 それにしても被害者は素晴らしく肌理の細かで、真っ白なすべすべした肌の女であると思われた。
 警察はまず枕カバーの出どころから捜査を始めた。
 枕の生地はいかにも高級なものだったが、問屋に訊いてみると模様が派手すぎてちっとも売れなかったとかで、それでも何とかさばけた幾つかの買い手のうちに、いかにも新婚ほやほやとしか思えぬ仲のいい若夫婦がいたという。


 店が配送した住所をたどってその夫婦のアパートを訪ねてみると、中には死体が包まれていたのと全く同じ枕が一個、床には女の衣類や下着が散乱し、エナメルの浴槽には洗っても落ちきらなかったらしい色あせた血痕が、無数に残っていた。
 部屋に残っていた手紙などから、被害者の名がアンナ・アミューラーであることが判明した。手紙の送信者の1人である神父は、去年までアンナを女中として雇っていたが、ある日「結婚するので、オハイオに行きます」と言って暇をとっていったのだと証言した。
「失礼ですが、彼女のご亭主になった男をご存知ないですか?」
「存じ上げません。だが――」
 迷いながらも神父は、アンナがこの土地にいた間、交際していた相手なら知っている、と言った。

 男の名はハンス・シュミット神父。32歳の、太った坊や然とした顔の青年であった。
 警察に踏み込まれ、シュミットは気絶せんばかりにうろたえたが、やがて観念したように刑事たちに同行すると言った。
「私にアンナを殺させたのは、聖エリザベス様の霊なのです。エリザベス様は私の子供の頃からの守り神で、そりゃあ燃えるような交歓が永年続いたものです。それがアンナが現われて――ああ、アンナはあまりに綺麗すぎた。生かしておくにはあまりに美しかった――私の心が傾いたもので、聖エリザベス様はすっかりお怒りになって、しまいにはアンナを生贄にせよと言ってきかないのです。それもただ殺すだけじゃなく、多量の血――、血と臓物の匂いにむせぶほどの――アブラハムの生贄のように、血の川に押し流されて溺れるようなあれです。私はアンナを愛しておりました。苦しいほどに。ああ、しかし私には信仰があったのです。アンナか神か、選べるものではない。それで私は聖エリザベス様に手をとられるようにして、アンナをあのような姿にしたのであります」

 この異様な証言に陪審は撹乱されなかった。
 1916年、シュミットは電気椅子に座った。

 


◆セオドア・デュラント

 

 

 1895年、ブランシュという名の女学生が料理学校の帰り、バプティスト教会の日曜学校の教師として顔馴染みのセオドア・デュラントと道で出会い、連れ立って教会へ行った。
 デュラントは日曜学校の教師と医学生を兼ねており、美男で愛想が良く、信仰心に厚く評判のいい青年だった。
 前々から彼はブランシュに恋していたふしがあるが、彼女はこのあからさまな賛美の目を少々迷惑に思ってはいたものの、たいした警戒心は抱いていなかったらしい。
 デュラントは教会の鍵を持っており、いつでも入れる立場にあった。彼は彼女を図書室に案内し、
「ちょっと忘れ物を取ってくる」
 と言って退室。待っている彼女の前にふたたび現れたとき、彼は全裸であった。
 悲鳴をあげる少女の首を絞め、彼は死体を鐘つき台に引きずりこみ、凌辱した。
 ブランシュの行方不明がまだ取り沙汰されている一週間後、デュラントは次にブランシュの親友であるミニーという少女を襲った。同じように彼女を図書室にとり残してから全裸で現れ、ミニーの喉深くに布を押し込み、悲鳴を殺してから彼女を強姦した。
 その後、ナイフで彼女を狂気のように滅多矢鱈に突き刺し切り刻んだ。
 ナイフが彼女の胸の中で折れると、激情を抑えるためもう一度強姦した。

 翌朝早くデュラントは、州兵の訓練を受けるため故郷を離れた。
 死体を発見したのはイースターの飾りつけをするために教会に訪れたボランティアの婦人たちである。
 警察はミニーの滅多切りの死体を見て、教会をくまなく捜査させ、ブランシュの死体も発見した。彼女の死体は冷暗所にあったためか、大理石のように真っ白くなっていたが、教会の床におろすとたちまち黒ずんで腐敗しはじめた。
 デュラントは逮捕された。近隣の住民は「彼にそんなことができるはずはない」と弁護したが、デュラントが同じ手口で襲おうとし、難を逃れた女性が発見されたため、彼の犯行は確実なものとなった。
 1898年、デュラントは絞首刑となった。

 


◆バック・ラックストン

 

 

 1935年9月、イギリスのリン川の岸辺にいくつもの小包のようなものが散乱し、そのうちの1つから人間の腕らしきものが飛び出していると通報を受けた警察は、捜索の結果、叩きつぶされた2つの頭部を含む、70数個の肉片や骨片を発見した。
 死体は2人分だと思われたが、顔面の特徴や指先など、すべて男女の判別さえ付かないまでに損壊され尽くしており、身元を隠すための行為だということは明らかだった。
 警察は検死の結果出された死亡推定日付から、2〜3日前後に行方不明となった人物に被害者を絞りこんだ。結果、ランカスターのラックストン医師の妻と女中がほぼ同時期に失踪していることがわかった。

 インド生まれのペルシャ系のバック・ラックストン医師は、もともと気ちがいじみた嫉妬心の持ち主だったようで、警察沙汰になるような暴力をしょっちゅう妻にふるっていた。
 細君は貞淑で、まったく身に覚えのないことで殴られる日々だったため、2人の関係はつねに破綻寸前にあった。
 細君が失踪した、と聞いても周囲の人間は「ついに家出したか」と納得しただけだった。
 ラックストン家を捜索すると、時間をかけて徹底的に掃除した痕跡があったが、それでもあちこちに無数の血痕があり、排水管には人間の脂肪がべっとり詰まっていた。
 被害者たちの2つの遺体は完璧なまでに破壊されていたが、かえってそれがアダとなった。ラックストンは被害者たちの「特徴的な部分」を特に念入りに損壊したのである。たとえば女中は斜視で、腕に痣があり、盲腸の傷あとがあったが、目玉は抉られ、腕の皮膚は剥がされ、下腹部の皮膚もめちゃくちゃに傷つけられていた。
 細君は出っ歯で鼻が大きく、足首が太かったが、遺体の歯は抜かれ、鼻は削がれ、足は切り刻まれて肉塊となっていた。
 ラックストンが医師らしい熟練の手口をふるったことが、かえって彼の犯行と被害者の身元を裏づけるという皮肉な結果となったのである。
 ラックストンは1936年、処刑された。そのとき公開された告白文によると、
「激しい嫉妬にかられ、妻を殺害した。女中がそれを目撃したのは彼女にとっても私にとっても不幸なことだった」
 とのことであった。

 


◆エティエンヌ・デシャン

 

 

 1888年、ニューオリンズ。腕のいい大工だったデイシュはエティエンヌ・デシャン医師に初めて出会い彼にいたく感銘した。
「私はオカルトに精通し、催眠のパワーも備えている。ついては力を強めるための霊媒として若い処女を探しているのだが」
 この言葉に、デイシュは一も二もなく12歳になる娘のジュリエットを彼に差し出した。
 ジュリエットは知恵遅れだったが体の発育はきわめて早かったという。さらに9歳の妹、ロランスも「お姉ちゃんに付いていきたい」と駄々をこねたため、父親はこの50歳の医師に幼い姉妹を委ねてしまった。
 姉妹が彼の家を訪れると、デシャン医師はジュリエットに服を脱いでベッドに横になるよう命じ、次いで自分も服を脱ぐと、クロロフォルムを染み込ませたハンカチでそっと姉の顔を覆った。
 デシャンはつねに姉妹に「ここであったことをお父さんに言わないと約束しなさい」と念を押した。

 そして、1989年1月のことである。
 父親のもとに妹のロランスが泣きながら駆け込んできた。
「おねえちゃんが寝たまま起きてこない。ドクターの先生も、死にそう」
 慌てて父親は医師の家へ走ったが、鍵がかかっていて入れない。彼は警察に電話し、娘が中にいて
入りたいので何とかしてくれ、と叫んだ。
 警察が中に踏み込むと、12歳のジュリエットは裸でベッドに横たわっており、傍らには毛深い大男がやはり裸で横になっていた。
 男の胸からは血が流れており、少女はすでに死んでいた。
 検死の結果、少女はすでに純潔ではなく体中に愛咬のあとがあり、過去半年の間に、数十回に渡って凌辱された痕跡があった。
 デシャン医師の胸の傷は浅く、彼は生き残った。彼の部屋からはジュリエットが書いて署名した手紙が何通か見つかった。
「大好きな先生へ」「先生の可愛い恋人、ジュリエットより」……。

 しかしジュリエットの知能程度からして、こんな文面を綴れるはずはない。これはデシャンが先に下書きし、少女にそっくり写させたものだった。こうすれば2人の間に恋愛関係があり、少女が自らの意志で彼の誘いにのったと主張できるからである。
 しかしジュリエットの死は偶発的な事故だったのか、それともデシャンが殺したのか?
 デシャンはもちろん無罪を主張したが、陪審員は納得しなかった。
 彼は絞首刑になった。

 


◆トマス・ニール・クリーム

 

 

 トマス・ニール・クリームはカナダで医師免許を取り、1891年にロンドンへ渡ってきた。
 斜視で禿げ頭のこの医師は、軽度ではあるが絶えず精神異常に悩まされており、男女かまわず奇妙な手紙を書き送る常習者だった。
 彼はまったく無動機に、若い売春婦を拾ってはストリキニーネの入ったカプセルを飲むように薦め、後日、自分の与えた毒薬がどんな効果をおよぼしたかを何とか知ろうとし、かつ、できるだけ騒ぎを大きくすることに悦びを覚えた。
 彼の動機は強いて言えばサディズムと、自分自身に対する存在確認であった。彼はつねに不安と強迫症にさいなまれていた。
 彼の与えたカプセルで4人の売春婦が命を落とした。クリームは著名人を人殺しと糾弾するわけのわからない手紙を書きちらし、スコットランド・ヤードに出頭して「警官に尾行されてはなはだ迷惑だ」と文句をつけた(勿論、尾行など誰もしていなかった)。
 彼は逮捕後も知り合いの売春婦に、手紙で
「ある国会議員が私の汚名を晴らしてくれるはずだ。彼は私のために200人以上の証人を揃えてくれるだろう」
 とまったく事実無根のことを書き送っている。
 またクリームは、逮捕される以前、別の売春婦ににたにた笑いながらこう言っている。
「今こうして生きているのはセックスのためだけだ。私の梅毒は、今がたぶん第三期に入っていると思う。――脳軟化だ」
 自分の脳髄が使いものにならなくなっていくのを、はっきりと知覚しながら性に惑溺するのはどんな気分がするものなのか、我々常人にははかりがたい。

 現代ならば陪審員の評決は「有罪、ただし精神異常」だったろう。しかし当時の判決は死刑だった。
 コリン・ウィルソンは彼をこう評している。「19世紀における最も奇妙な人物の1人」「彼の犯行に関する事柄で、正常と言えるものは何ひとつない。クリームは一種の白昼夢の世界に住んでおり、すべてが非現実的だった」。

 クリームはジャック・ザ・リパーと同世代の人物であり、彼は絞首刑執行の直前、
「我こそは、ジャック・ザ……」
 と言いかけ、そのまま吊るされた。が、彼がジャックでは有り得ないことは、当時ですらはっきり証明されている。

 


◆ヴァレリアン・トリファ

 

 37歳のルーマニア正教会司祭のヴァレリアン・トリファは1950年7月、イタリアからアメリカに移住した。
 野心家である彼は、その後わずか2年でデトロイトの司教の座を手に入れた。
 しかし彼の不遜な態度がやがて告発者をまねき寄せた。告発の内容は、トリファ司教が戦時中のルーマニアにおいてナチ支持者であっただけでなく、1941年のブカレストでのユダヤ人虐殺の指導者であるというものだった。

 1975年、アメリカ司法局は、トリファが市民権を得るにあたって偽証した可能性があると考え、調査をはじめたが、その頃トリファは大司教の地位にまで昇っていたので、むざむざ政府からの圧力に屈する気はなかった。
 1980年、ついに市民権を剥奪されたときも、彼は憤然として疑惑を否定した。

 しかし1984年、トリファがナチ親衛隊長ヒムラーに宛てて書いた絵葉書が発見され、そこに残っていた指紋が現在の大司教のものと完全に一致したことから、ついに40年にわたるトリファの嘘は暴かれることになった。
 1941年のユダヤ人虐殺とは、ルーマニアのナチ親衛隊である鉄衛団がブカレストのユダヤ人居住区を襲い、住民を皆殺しにし、すべてを破壊し、焼き尽くした事件を指す。狂気の殺戮は約3日間つづき、約6000人が屍となって転がった。
 鉄衛団は犠牲者を市営屠殺場へ引きずっていき、彼らを裸にして『おまえらの教義にかなったやり方で殺してやろう』と言うと、ユダヤ教徒が家畜を屠るのに用いている伝統的な方法を真似て、彼らの首をかき切った。この方法で200人以上のユダヤ人が命を絶たれた。
 この大虐殺の指導者のひとりが、他ならぬトリファ大司教だったのである。

 1984年、ヴァレリアン・トリファは合衆国を離れ、そのまま2度と戻らなかった。

 


◆パメラ・スマート

 

 

 1990年、23歳の女教師、パメラ・スマートは15歳の教え子ウィリアムを家に招き入れ、映画『ナインハーフ』のビデオを一緒にソファに並んで観せたあと、ベッドに誘いこんだ。
 まだ15歳の少年は彼女にのぼせあがった。パメラは少年が求めるままにどこでも身を任せ、自分のセミヌード写真を彼に渡した。
「わたしの人生にはもうあなたしかいないわ。ああ、夫さえいなかったらあなたとずっと一緒にいられるのに。あなただってそう思うでしょう?」

 パメラの夫グレゴリーは、結婚7ヵ月目に不貞をはたらいた。
 彼はただ1度の過ちなのだし、結婚生活はこれからの自分の態度如何でいくらでも修復可能だと思い込んでいた。しかしパメラの方はそうではなかった。
 パメラはもう一人、頭の切れる女生徒を仲間に引きずりこんだ。
 その女生徒が入手した拳銃を彼女はウィリアムにそのまま手渡し、「さあ、夫からわたしを奪って」と囁いた。
 最初の3ヵ月のうちにウィリアムは2度グレゴリーを襲撃し、パメラの手前、殺そうとする振りをした。しかしパメラはそれが芝居であるということを見破った。
 叱咤され、ウィリアムはパメラを失いたくない一心で殺意を固めた。

 彼はクラスメイト2人を共犯にしてとうとう5月の夜にグレゴリーを射殺した。グレゴリーは6日後の結婚一周年のため、パメラにフロリダ旅行をプレゼントするお膳立てをしていた矢先、殺されたのだった。
 夫をなくした妻パメラの態度はいかにも奇妙なものだった。彼女は夫の死を知らせに来た警官に、
「それよりうちの犬がどこにいったかご存知ない?」
 と言い、通夜の席では涙ひとつこぼさず、自分からマスコミに電話して、インタビューを申し出たりした。
 警察がパメラに目をつけ、周囲をうろつきまわるウィリアムを不審に思うのに時間はかからなかった。
 又拳銃の入手に協力した女生徒がパメラの態度に不信感をつのらせた結果、警察の捜査に協力することに同意したため、事件は一挙に解決に向かった。
 法廷に立たされたウィリアムは、このときすでに17歳になっていた。涙ながらに自分への「真実の愛」を告白する彼を、パメラは能面のような無表情で一瞥した。
 下った判決は、パメラが終身刑、ウィリアムが28年の懲役であった。

 しかし不可解なのはパメラの本当の動機である。彼女はウィリアムを手先に使っただけで、愛していた訳ではない。
 また夫にかけられていた保険金の存在も彼女は知らなかった。
 そしてウィリアムだけならともかく、信用もできない共犯を何故無作為に増やしていったのか。検察側は仕方なく「不倫が明るみに出ると職を失うため」という動機を挙げたが、裁判官も陪審員もそれは判決に採用しなかった。
 そういう意味で、この事件の最大の謎はパメラ自身なのである。
 陪審員の1人は、彼女に精神分裂病の疑いすら抱いたというが、その点はあやふやなまま、パメラは刑に今も服している。

 


◆妻殺しの医師たち

 

 

 1910年、イギリス。ホーリー・クリッペンという奇形的に小柄で、道化のように丸い目をした医師が、高慢で底意地の悪い浮気性の妻を殺し、かねてから恋仲だった秘書のエセルと駆け落ち同然の逃避行の旅に出た。
 ふたりはカナダ行きの客船に乗り込み、エセルに男装させ「親子」のふりをしての船旅を計画したが、その男装は子供の目にも見破れるようなもので、しかもクリッペンは今は息子のはずの彼女に、人前もはばからず腰にさわったり、囁いたり、サラダや肉を自分の皿から取り分けてやったりした。
 彼らに乗客の注目が集まったのは自然な成り行きで、クリッペン宅の地下室から、行方不明になっていた妻の、生石灰に覆われた腐乱死体が見つかったのも、ほぼ同時期だった。
 船長の通報によりふたりは逮捕された。エセルは無罪となったが、クリッペンは絞首台送りとなった。
 彼の死体はエセルの写真と恋文に囲まれて埋葬され、アーネスト・レイモンドがこの一件を『我等、被告人』という一編のロマンス小説にしたため、以後クリッペン事件は映画、演劇、ミュージカルで「悲恋物語」という扱いを受けるようになった。――しかし実質はただの、ありふれた殺人に過ぎない。

 

 1888年、サンフランシスコ。ミルトン・バワーズ医師は妻3人を次々毒殺したが、裁判でも陪審員を何とか言いくるめるのに成功し、以後1905年まで4人目の妻とともに幸福に暮らした。

 

 1909年、カンザスシティ。億万長者の姪と結婚したクラーク・ハイド医師は、その遺産獲得に邪魔になる7人の親類縁者すべての毒殺を企てた。
 まず資産家本人と財務助言者が死に、妻と従兄弟たちが次々と腸チフスのような症状をみせて倒れた。しかしハイド医師が旅行でこの地を離れた途端、彼らの病状は改善した。疑いは当然のごとく彼にかかった。ハイドは追いつめられた末に、青酸カリのカプセルを雪道に捨てるという誤りを犯した。彼のあとを尾けていた従兄弟がこれを発見し、ハイドは逮捕された。
 しかしその時すでにハイドには裁判に金をかけられるだけの財力があった。彼は無罪放免となった。

 

 1967年、シカゴ。ジョン・ブレイニオン医師はまず友人の名で登録されている銃を譲り受け、アリバイ工作をした上で、日頃から仲の悪かった妻の体に3発の銃弾をぶち込んだ。
 しかしアリバイはお粗末なものだったのですぐに崩され、ブレイニオンは裁判で20〜30年の刑を宣告された。だが投獄直前になってブレイニオンは国外逃亡し、ウガンダに亡命するとアミン大統領のお抱え医師として働いた。
 アミン大統領の死後、彼はアメリカに強制送還されたが、1990年に脳腫瘍のため獄中死した。

 

 1965年、フロリダ。カール・コッポリーノ医師は、まず1963年に愛人の夫に筋麻痺剤を注射したのち絞殺し、その2年後、妻に同じ「人工クラーレ」とでも呼ぶべき筋麻痺剤を注射して、今度は彼女が自ら窒息死するがままに任せた。彼は6万5千ドルの保険金を手にした。
 愛人はてっきり彼が自分と結婚するだろうと思っていたが、しかしコッポリーノが再婚相手に選んだのは、地元の裕福な名士の女性であった。しかも式は妻が死んで、たったの41日後のことである。
 愛人の通報によりコッポリーノは逮捕された。彼は麻痺剤が死体から発見されることは決してないとタカをくくっていたが、検死班毒物課は麻痺剤が体内で分解されてできる化学物質とその量を割り出し、死体からの検出に成功した。コッポリーノは終身刑を受けた。

 

 1892年、ニューヨーク。酒癖と女癖の悪いロバート・ブキャナン医師は、妻が愛想をつかして出ていくやいなや、売春宿の経営者である20歳も年上の女と再婚した。女は年増ではあるものの肉感的な美人で、小金をたくわえていた。しかし彼女が遺言状を書き換えて彼を遺産相続人に指定し、裕福な患者が増え出すと、途端にブキャナンは彼女が邪魔になった。
 彼は妻にモルヒネを注射して殺害し、毒物死による瞳孔の収縮を防ぐためアトロピンを点眼した。そして何食わぬ顔で、最初の妻を呼び戻して再婚した。
 裁判の証言台に立たされたブキャナンはぬけぬけと嘘をつき、矛盾を指摘されるとなす術もなくうろたえ、ひどい有様だった。彼は電気椅子にかけられた。

 

 1969年、ヒューストン。石油成金の娘の3人目の結婚相手となったジョン・ヒル医師は、妻の後ろ盾もあって開業医としてたちまち成功したが、すぐに感謝を忘れ女あさりを始めた。そのうち、妻は原因不明の急性炎症の症状を見せて死亡した。ヒルはその後1年の間に結婚と離婚を繰り返した。
 ヒルが妻に与えるタルトを自分で選んでいたことや、冷蔵庫に入っていたパイを食べようとしてヒルに止められたという愛人の証言などが出るうち、彼の容疑は固まっていった。
 しかしヒルは逮捕されることはなかった。彼の犯行を確信した義父は、法の裁きを待たず殺し屋を雇ったのである。ヒルはあっけなく射殺された。

 


◆ジョン・ウェブスター

 

 

 ジョン・ウェブスターはハーバード大学の化学・鉱物学教授であり、医学博士の肩書きも合わせ持つ「19世紀のアメリカが誇るインテリ」と言ってもよいほどの地位にいた男だった。
 裕福な家に生まれ、何不自由なく育った彼は贅沢に馴れていたが、いつの時代も学者の給料は安いものである。彼はじきに借金で首がまわらなくなった。
 彼に金をいつも融通してやっていたのはハーバードの同窓生で、不動産業者のパークマンである。
 しかしウェブスターはさらに他の人間からも借金を重ね、ついにパークマンへの抵当に入っていた鉱石のコレクションまでも二重抵当にして差し出してしまった。
 堪忍袋の緒が切れたパークマンはウェブスターに借金の返済を迫った。
 1849年11月23日、2人は会う約束をした。そしてその日以来パークマンは行方不明となった。
 5日後、パークマンはウェブスター教授の研究室で、ほんの一握りほどの死体のかけらとなって発見された。彼はすでにばらばらにされ、鉱石分析用の炉で形がなくなるまで焼かれていた。しかしウェブスターが気づいていなかったことがひとつあった。被害者は入れ歯をはめていたのである。
 炉の灰の中からパークマンの入れ歯が、骨のかけらと共に発見された。ウェブスターは砒素入りのカプセルを飲み下したが、致死量に足りていなかったため、ひどい苦痛を味わっただけに終わった。
 ハーバード大学が公開処刑によって教授を失ったのは、このときが最初で最後である。

 


◆マルセル・プショー

 

 

 1944年3月、ついにパリのエトワール地区住民はプショー医師宅の煙突から立ち昇る黒煙の臭いに耐えられなくなった。
 いつからその煙が立ちはじめたのかは定かではないが、放たれる脂じみた悪臭は近隣一帯を覆い、人々の衣服に染みついた。
 ついに煙突が悪臭だけでなく、火花を盛大に吐き出しはじめた。警察は煙突の内部に引火しているとみて、消防隊を呼んだ。
 突入した消防隊は、焼却炉に山積みになった死体を発見した。
「わたしのものさ、そいつらは」
 プショー医師はにやにやしながら、自慢げにそう言った。
「実はこれはわが国のレジスタンスが始末した親ナチ派の死体で、わたしが秘密裏にその始末を任されたのだよ」
 そのあまりの堂々とした態度に、警察は彼の言葉を信じて引き上げてしまった。プショーはその夜、妻子を連れて行方をくらました。

 しかしパリ陥落ののち、新聞がこの事件を三行記事に扱ったのを観て、プショーは愚かな「目立ちたがり屋」ぶりを発揮した。前言をひるがえし、彼は「あの死体どもはゲシュタポの置き土産」と書いて新聞に投書した。この筆跡がもとになって、プショーは逮捕された。

 プショーは子供の頃から盗癖があり、第一次大戦に従軍した際には医薬品を闇で売りさばき、市長になったときには公金を着服した。
 そしてフランスがドイツ占領下に置かれるやいなや、ユダヤ人たちを「脱出させてやる」と騙して自宅におびき寄せ、殺して金品を奪うことに熱中した。彼はドアにのぞき穴のついた防音の地下室を作り、被害者たちに毒物を注射し、彼らが死の苦しみにのたうつさまを見て愉しんだ。
 エトワールの彼の実家には、ばらばら死体の山と、無数の人骨のかけらと、15キロもの焼け焦げた肉塊が転がっていた。
 離れと厩舎には巨大な石灰槽があり、その底をさぐると山のような死体と、死体のかけらが浮かびあがってきた。石灰漬けの腐乱死体の悪臭に、警官の多くがその場で嘔吐した。
 またおびただしい量のスーツケースが押収された。警察はそこから、おそらく死を目前に身ぐるみを剥がされたであろう犠牲者たちの、1691枚もの衣服を発見した。
 1946年、プショー医師はギロチン台に上った。「小用を足したいのだが」と彼は申し出たが断られた。
「――まあいい。船出するときは、荷物はすべて持っていかんとな」
 それが彼の最期の言葉だった。

 


◆シグワルト・テュルネマン

 

 

 テュルネマンは1908年に生まれた。
 虚弱体質で体が小さかったので嘲りの対象となり、劣等感の塊のような少年に育った。
 それを補うため超常的な力を身につけようと、10代のうちからオカルティズムに傾倒し、精神科医の資格を取得したのちは、自ら魔術サークルを主催した。彼はここでメンバーに自分への絶対服従と秘密厳守を誓わせ、はじめての権力に酔いしれた。

 彼の武器は催眠療法をもとにした催眠術だった。
 バイセクシャルだった彼は幼い女の子を術でかどわかし、不要になれば奴隷商に売り払った。男色の愛人だったメンバーもいたが、彼が金銭面でしくじるやいなや、暗示をかけて自殺させた。
 テュルネマンは独裁者となりつつあった。
 ぼろを出した側近を暗示で自殺させ、麻薬の密輸に関与し、最終的には大金持ちになって南米へ移住することを夢みた。
 彼は大学の同窓生で、彼のシンパでもある親友に
「きみにいつも話して聴かせていた、僕の想像上の『完全犯罪』を、そろそろ実行に移してみようじゃないか」
 と言った。テュルネマンの支配下にあった親友はもちろん賛同した。

 彼らはストックホルム近郊のサラという小さな町に腰を据えた。テュルネマンはその頃20代の終わりにさしかかっている。
 牧歌的そのものだった小さな町に、奇妙な犯罪の波が押し寄せたのはそれから間もなくである。
 強盗や窃盗、放火が頻発した。鉱山会社の社長夫妻が射殺された上で邸宅に火を放たれ、富裕な未亡人が同じく殺されて、家を燃やされた。
 これらは強盗殺人として処理されたものの、手がかりはまったくなかった。住民は自警団を組織して夜な夜なパトロールに出なくてはならなくなった。
 もちろんこれら事件のすべてはテュルネマンが陰で糸を引いたものだった。

 テュルネマンは自分の患者に暗示をかけ、犯罪の手先に使った。口を割りそうだと判断された者は、彼の親友が手をくだして殺した。
 しかしこの親友から足が付き、彼が「ひんぱんに連絡を取る人物」としてテュルネマン医師の名が浮かびあがったことで、彼は最終的に逮捕された。
 テュルネマンは「最後の大仕事」として銀行強盗をもくろみ、36キロものダイナマイトまで用意していた。が、これは逮捕によってすんでのところで回避された。
 1936年、テュルネマンは他のメンバー4人とともに裁判にかけられた。判決は全員、終身刑だった。
 しかしテュルネマンは刑期が半年に満たぬうち、発狂。
 精神病院に移送され、以後刑務所に戻ってくることは死ぬまでなかった。

 


「でも堕落は快楽の薬味なのよ。
堕落がなければ快楽も瑞々しさを失ってしまうわ。
限度を超さぬ快楽なんて、快楽のうちに入るかしら?」

 マルキ・ド・サド『新ジュスティーヌ』より――

 

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