リチャード・ラミレス

 

俺は自分を氷詰めにする――もう言ったかな?
それで彼奴等の超低周波スコープを遮ぐ
俺は聖歌を知っている、 護符を持っている
お前らは俺を捕まえたつもりだろうが、
俺はお前らを粉砕できるぞ、いますぐにでも

 

              ――スティーヴン・キング『パラノイドの唄』

 


 

 「ナイト・ストーカー」ことリチャード・ラミレスは1960年2月28日、テキサス州エル・パソで生まれた。
 7人兄弟の末っ子であり、両親は敬虔なカトリック教徒で、躾は厳格だったらしい。いわゆる労働者階級で富裕ではなかったが、暮し向きはそう悪くはなかった。
 ラミレスは幼い頃から、ひどく孤独な少年だった。友達はひとりもなく、彼の「生まれ持った独特の雰囲気」が自然に人を遠ざけていたという。
 かなり幼少の頃から行動異常、性格偏奇などの症状をみせているところからみて、厳しい家庭での抑圧と、先天性の精神疾患が考えられる。さらに長じてからは、ヘンリー・リー・ルーカスと同じく麻薬と慢性的な栄養失調によるダメージが脳に蓄積し、細胞の一部が萎縮・壊死した。
 彼は不良グループに加わることはなかった。彼の行動はつねに反社会的ではあったが、これは単独でのことに限られていた。
 学校を休み、人を避け、孤独を好み、無口。無為な生活を送り、服装はだらしなく、食事することすら億劫がる。表情は変化にとぼしく、冷たい凄みのある顔つきとなる。また独り言、空笑いが見られるなど、彼の幼児期は「早発性自閉症」の症状そのものである。これは1905年にド・サンクティスが発見した精神病で、いわゆる分裂病の小児版だ。
 8年生になったころ、彼は麻薬に手を染める。最初はシンナー、マリファナなどだったが、コカインに走るのに長くはかからなかった。
 のちに彼は、
「おれは小学生のガキのときから悪魔を崇拝していた。サタンはおれの守護者だと、あるとき悟ったんだ」
 と言っているが、彼の逮捕後の態度はおよそ不真面目なものだったので、これが真実かどうかは疑わしい。少なくとも彼に判決を下した裁判官は、彼が本気で悪魔を信仰しているとは思っていなかった。
 高校中退後、ドラッグの所持で2回逮捕されたあと、彼は22歳で故郷を捨て、カリフォルニアに向かう。

 

 家を出てから、彼は堕落の一途をたどった。
 コカインで腕は穴だらけ、たまの食事はすべてジャンクフード。よれよれのバックパック一個をかついで、寝る場所はといえば鍵のかかっていない車の中か、他人の家の軒先である。
 彼はカリフォルニアを出、サンフランシスコを経て、LAへ流れついた。
 1982年から1983年にかけて、彼の生計を支えていたのは車泥棒と窃盗だけだ。その間、車泥棒で1度逮捕され、投獄されている。

 出所してからも彼の生活は変わらなかった。昼はカーテンを閉めきった部屋にとじこもり、AC/DCを壁が震えるほどの音量で聴きつづけた。そして夜になると外へ出て、目的もなくふらふらとさまよう。
 そんな彼が「ジャンキーの浮浪者」から「ナイト・ストーカー」へ変貌したのは、1984年6月のことである。

 

 その朝、LA南部のアパートの一室で79歳の老婦人が惨殺されているのが発見された。ひどく手荒にレイプされた上、ナイフで滅多突きにされている。首のあたりに攻撃が集中しており、首は胴体から薄皮1枚でやっとつながっている有様だった。
 本格的な犯行がはじまったのは翌1985年の3月からである。
 34歳の会社員が自宅で頭部を撃ち抜かれ、同じ夜、台湾系の30歳の女性が車から引きずり出され、レイプののち射殺された。
 2ヶ月後、アジア系の老夫婦宅が襲われた。66歳の夫は眠っているところを射殺され、63歳の妻は夫の死体が横に転がっているベッドの上で強姦された。

 ラミレスの犯行はそこから一気に加速した。ときには1日おきに殺人がつづいたこともある。
 手口はいつも同じで、夜間、手あたり次第に家宅侵入し、セックス、強盗、殺人のいずれか2つか、もしくは全部やれる機会をとらえることができれば、それを闇雲に犯す、というものだった。
 彼は1984年6月から1985年8月までの1年3ヶ月間に、14人を殺し、数え切れないほどの強姦事件を起こした。まるで吹き荒れる暴力の嵐を体現したかのような犯行である。
 被害者の年齢は30歳から83歳までと幅広く、人種もまちまち。共通していたところといえば「自宅で殺された」という一点のみである。これほど被害者を選り好みしなかった連続殺人犯は、キュルテン以来だろう。

 男たちはすべて眠っているところを射殺または刺殺され、女たちは歳がいくつであろうと殴打され、強姦され、性的にいたぶられた。殺害方法は射殺、絞殺、刺殺とさまざまである。
 子供は男女の区別なく被害にあった。わずか6歳の少年ですら、おかまいなしに犯された。子供たちは自宅でか、もしくは誘拐されて強姦され、肛門姦された。レイプ後、自宅から何キロも離れた地点で路上に放り出された子もいる。
 また被害者の両目をえぐって持ち去ったこともあれば、被害者の首にナイフを突きつけ、
「私は悪魔を愛します、と言え」
 と強要することもあった。
 そして時たま、被害者の死体か家の壁に、口紅で五芒星(悪魔主義と結びつけて考えられることの多い、丸で覆われた星じるし)を書きなぐることもあった。

 マスコミは彼を「ナイト・ストーカー(夜に忍び寄るもの)」と名づけ、書きたてた。LA郊外の住人はこのサディスティックな犯人に恐れおののき、この時期LAの銃器所有者の数は倍以上にハネ上がっている。
 ラミレスの犯行はあきらかに「愉悦」を感じさせるものである。他人の命を掌握し、弄び、破壊することへの悦び。彼を喜ばせたのはレイプそのもの、殺人そのものではなく、それによってもたらされる被害者の恐怖と苦痛、屈辱である。
 彼はそれを貪ること以外はほとんど執着がなかったようだ。彼は気まぐれに目撃者を生かしたまま立ち去り、家のいたるところに指紋をべたべた付けていった。

 殺人現場で採取された指紋から、前科のあるラミレスの名が浮上したのは1985年8月のことである。
 ラミレスはまだ25歳という若さだった。
 法務執行機関はこれ以上の犯行を防ぐため、マスコミに顔写真の公開を許した。
 まもなく、マーケットの店員がラミレスの正体を見破り、通報。ラミレスは街に逃走したが、通行人の女性のハンドバッグをひったくろうとして、怒った群集に追われ、ヒスパニック地区であわやリンチ寸前というところまで追いつめられて、駆けつけた警官に、
「助けてくれ! おれは、あんたらが探してる男だ!」
 と叫んだ。
 あれほど猛威をふるった「ナイト・ストーカー」としては少々しまらない最後であると言えよう。

 

 ラミレスは逮捕後もしたたかであった。
 弁護士の選任でさんざん渋り、裁判が行なわれる場所が犯行現場に近いと文句をつけて
「陪審員に先入観を持たれてるに決まってる、不利だ」
 とごねた。すべては公判引きのばしのためだった。この策は成功し、実質的な裁判がはじまるまでに3年半もの時間が無駄になった。
 さらに公判が始まるやいなや、ラミレスに熱をあげる「グルーピー」が大勢現われた。ラミレスは逮捕当時、麻薬と栄養失調で骨と皮だったが、拘留後は少し太り、見ようによってはハンサムでないこともなかった。
 また、検事や裁判官を前にしても悪ふざけや、野卑な態度を改めない彼は「野性的で、すてき」「権力に屈しないなんて、男らしい」と見えたらしい。グルーピーたちは全米からはるばるラミレスの公判に馳せ参じ、傍聴席の前列を陣取った。ラミレスは時おり、彼女たちに向かって、「てのひらに書いた五芒星」を見せてやる、というサーヴィスまでしてみせた。

 しかし裁判は評決までわずか半年しかかからなかった。物的証拠も目撃者も揃いすぎるほど揃っていた。
 1989年9月、14件の殺人中、12件が第一級殺人とされ、さらに殺人未遂・婦女暴行・強盗など30もの重罪が認定された。
 判決は、12回の死刑。
 ラミレスはそれを聞くと高笑いし、報道陣に向かって自分の悪魔主義的信念についてひとくさり演説すると、
「たいした扱いだ。死は縄張りとともにやって来る(地獄を自分の領土とするという意味か?)」と言い、
「では、ディズニーランドで会おう!」と手を振った。
 なおディズニーランドとは、「デス・イン・ランド(Death In Land)」のもじりである。

 彼はいまサン・クエンティン刑務所に拘留され、控訴の結果を待っている。
 1996年10月、グルーピーのひとりであった女性と獄中結婚。刑務所内で結婚式を挙げた。
 噂では監房の壁に自分の血で五芒星を描き、いまも悪魔に祈っているということだが、果たして何を祈っているのかは不明だ。

 

 


        

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