ペーター・キュルテン

貴様のその山犬のような根性は もともと狼にやどっていたものだ。
人間を食い殺したために首をくくられて その魂が貴様の中に入り込んだのだ。
だから貴様の欲望は獣のようで 血なまぐさく飢えてがつがつしている。

――シェイクスピア『ヴェニスの商人』より

 


 

 ペーター・キュルテンは「ジャック・ザ・リパー」と並ぶ、19世紀を代表する殺人者である。
 ただしジャックが「謎」であるがゆえに伝説となったのとは対照的に、彼の場合はベルク博士という犯罪研究家によって、心の深奥を分析されたという点でほとんど初めての殺人者だからだ。
 その研究ゆえに、われわれはキュルテンという人物について知ることができる。それはおそらく彼のほんとうの姿の、半分にも満たないものでしかないだろうが。

 

 キュルテンは1883年、ケルンミュルハイムで生まれた。
 父親は鋳型職人だったが、粗暴で、虚言癖があり、アル中であったため稼ぎはほとんどなく、(この父方の血統には、アル中や精神病者が多かった。祖父は窃盗癖があった)また子だくさんで11人もの子供がいたため、一家は極貧状態だった。
 この父親は精力過剰だったらしく、子供の目の前であろうとおかまいなしに、しばしば妻を犯した。また、実娘を強姦した罪で服役もしている。
 こういった家庭環境で、まともな性意識が育つわけもない。キュルテンは妹のひとりに「ベッドに誘われた」ことがあったが、この妹には手を出さず、父が犯した姉のほうと寝た。姉のほうが美しかったためかどうか、理由はわからない。

 8歳のとき、彼は近所の野犬捕獲人と仲良くなった。男はキュルテンに「犬をおとなしくさせる術だ」といって、犬に自慰をしてやる行為を教えこんだ。また、動物虐待の現場も、このわずか8歳の少年の目の前で委細かまわず見せつけた。

 9歳のとき、彼は最初の殺人を犯した。
 友達とイカダ遊びをしている最中、友達を河に突き落としたのである。もうひとりの友達が助けようとして飛び込むと、キュルテンはその子の頭をイカダの下に押さえこんだ。友達はふたりとも溺死した。(この犯行の動機は不明である。衝動的なものとしか言いようがない)

 13歳から16歳ごろまで、キュルテンはせっせと獣姦にはげんだ。相手は羊や山羊などであるが、交わりながら家畜を刺すと快感が強まることに気づき、以来これが常習となった。
 また同時期に家出をし、追いはぎをしながら浮浪生活を送ったりもしている。

 16歳のとき、鋳型工の見習いになったが、待遇が悪かったので金を盗んで逃げ、売春婦と同棲した。この女はどうやらマゾヒストだったらしく、彼の性的嗜好にまた新たな変化をもたらした。
 窃盗はすぐにばれ、彼は投獄された。(これが初犯で、以来17犯を重ね、計27年間を監獄の中で送ることになる)
 2年後、出獄してみると母は離婚していたので家には戻らず、倍も年上の売春婦と同棲した。
この女にもマゾヒスティックな傾向があったようで、彼のサディズムはますます強まっていった。

 キュルテンは1900年から1913年まで、監獄と娑婆を往復して過ごした。罪状は窃盗、詐欺、放火、暴行などいろいろである。
 彼は服役中、拘禁精神病にかかり、「俺は蚕(かいこ)だ」と言って絹布にくるまり、床に転がったりした。また、社会への復讐を夢見、殺人の空想にふけった。その空想が、もっとも彼の性的興奮をかきたてた。

 1913年、キュルテンは「おとなになってから、最初の殺人」を犯した。(ここから、動機は完全に性的なものとなる。)被害者は10歳の少女で、自宅の寝室で喉を切り裂かれて死んでいた。いたずらされた形跡もあった。現場には「P・K」とイニシャルの入ったハンカチが落ちていたが、不幸なことに被害者の父親も同じイニシャルだったので、これは重要な証拠としてとりあげられなかった。
 この事件については、少女の伯父(父親の弟)に嫌疑がかけられたが、証拠不十分で無罪になった。
 数週間後、キュルテンは荷馬車に放火し、ふたりの女を絞殺しようとしてまた監獄送りになった。
 彼はこの8年間の服役によって、第一次世界大戦への兵役をまぬがれた。

 1921年、彼は出獄した。
 この時期キュルテンは、彼が生涯で唯一、人間らしい愛情を抱くことのできた女と出会っている。彼女もまた、殺人の前科があった。結婚詐欺の被害にあい、相手を撃ち殺したのである。
 彼女は痩せこけて、実年齢よりかなり老けて見えたし、美人でもなかった。だがキュルテンは彼女に熱烈にプロポーズした。はじめ彼女はこれを断ったが、「結婚してくれないと殺す」と脅されたため、結局これを受けている。
 キュルテンの妻に対する愛情は生涯変わらなかったが、貞淑であったわけではなかったようだ。一度などは見知らぬ女と腕を組んで歩いている夫に道でばったり出会い、妻がくってかかったこともあった。ふたりの女はつかみあいの喧嘩になったが、キュルテンはボタンホールに挿してあった薔薇で、妻の頬を軽くひと撫ですると、立ち去ってしまった、という。

 結婚後2年間は、わりとまともな生活を送った。家政婦を虐待したとして2度ほど訴えられはしたが、その程度である。

 

 1925年、彼はデュッセルドルフへ帰った。
 「デュッセルドルフの恐怖時代」の事実上のはじまりである。この日、彼は夕陽が血のように赤いのを見て、暗示的だと喜んだ。
 これから3年間のうち、彼は絞殺未遂4件と、放火14件を起こした。

 1929年に入り、「恐怖時代」は完全に幕をあけた。
 2月3日、女性が24箇所を刺され、数ヶ月入院するほどの怪我を負わされた。
 2月9日、8歳の少女が建築現場で、13箇所を刺された死体となって発見された。性的にいたずらされており、鋏で性器まで刺し貫かれていた。また、石油をかけて焼こうとした形跡があった。
 2月13日、45歳の機械工の男性が、同じく鋏で刺し殺された。頭部を含む20箇所を刺されていた。
 ここで特筆したいのは、キュルテンの犯行が完全に性的興奮を求めることが動機だったというのに、被害者が老若男女を区別していないことである。キュルテンのサディズムは、もはや「相手かまわず」の域まで達していたのだろう。

 それから数ヶ月、キュルテンはなぜか殺人よりラヴ・アフェアのほうが楽しいという期間に入ったらしく、多くの女性と関係をもった。だが情事の最中、首を絞めるのは彼の常套手段だった。
 あやうく絞め殺されかけた女が、
「あんたってひどい人ね」
 となじると、キュルテンは平然とこう答えた。
「愛とはこういうものさ」
 その通り、キュルテンにとって愛とは「そうしたもの」でしかなかった。

 8月に入ると、情事に飽きたキュルテンは凶行を再開した。親しくしていた女を絞殺し、河に投げこんだのが手はじめだった(この死体は発見されなかった)。
 つづいて、2人の女性と1人の男性が路上で刺された。だかどれも命に別状はなかった。
 8月24日、5歳と14歳の少女が絞殺され、喉を切り裂かれて死んでいるのが発見された。
 翌25日、市場へ行く途中の少女が一人の男に話しかけられ、森の中に連れこまれた。
「あんたと寝るくらいなら死んだほうがマシよ」
「じゃ死ね」
 男はナイフを振りあげ、彼女を何度も刺した。だが彼女は命をとりとめ、警察で男の人相を証言した。
「わりと感じのいい、特徴のない40くらいの男でした」と。

 9月になった。キュルテンは3人の娘を襲い、ひとりを絞殺して河に投げ込んだ。さらに下旬になって、女中をしていた娘をハンマーで殴り殺し、レイプした。
 10月にも同様に、少女が殴り殺された。また25日には、路上で2人の女性がハンマーで殴られ、重傷を負った。
 この時点でもはやデュッセルドルフはパニック状態であった。

 11月7日、5歳の少女が行方不明になった。2日後、新聞に一通の手紙が届き、子供の死体はある工場内で発見されるだろうと書いてあった。ご丁寧に地図まで同封してある。さらに手紙は、もう一体の死体のありかまで教えていた。署名は「天才」。
 手紙の指示どおりに掘りかえしてみると、少女の死体がたしかに見つかった。絞殺され、35箇所も刺されていた。そしてもう一体の死体とやらも、地図どおりの場所に埋まっていた。8月から失踪していた少女である。
 この少女は死後暴行され、ソドミー行為を受けたあげく、体内に木の葉や泥を詰め込まれた。キュルテンはこの少女が気に入ったらしく、彼女をいったん埋めたがまた掘り返し、キスしたり愛撫したりした。それから2本の立ち木の間にはりつけのようにして縛りつけようとしたが、死体が重すぎたのであきらめ、別の場所に埋めなおした。また、しばしばこの場所を訪れては自慰をした。

 犠牲者が見つからなかったときは、白鳥の首を切り落とし、血を飲んだ(もちろん嘔吐した)りもした。また死体が発見されると野次馬の中にまじって、周囲の人々の恐怖にひきつった顔を見て、オルガズムに達した。
 彼のお気に入りの空想は、彼が「怪物」をつかまえて人々をこの恐怖から救い、英雄として、たいまつ行列をもって迎えいれられる、というものだった。あきらかに矛盾している――が、わからなくもない。怪物の正体を知っているのは事実上彼ひとりだったし、それについて彼は賞賛を求めていたのだから。

 

 逮捕のきっかけは、まったくの偶然だった。マリアという少女が、1929年5月にあった「怖い体験」を手紙で知人に書き送ったが、宛名が間違っていたため、違う人のもとに届いてしまったのである。
 手紙の内容は、マリアがデュッセルドルフへ旅行したおり、駅で見知らぬ男に声をかけられ、泊まるところを探してあげると言われ、ついていった。すると優しそうな容貌の男が近づいてきて、
「その子をどこへ連れていくつもりだ」
 と問いつめた。詰問されて男はすごすご逃げ出した。その親切そうな男性は代わりに彼女をお茶に招待しましょうと言ったので、彼女はよろこんでこれに応じた。
 この男性――キュルテンは彼女を自宅に入れ、ミルクをご馳走した。そしてホテルまで送ってあげると言った。が、人気のないところまで来ると彼はやにわに態度を変え、森で彼女をレイプした。それから
「俺の家を覚えているか?」
 と言ったが、彼女が否定したので、キュルテンは彼女をおいて立ち去った……というのが、手紙のあらましである。
 これを開封した人物が、手紙の内容を警察に通報した。警察はわらにもすがる思いでマリアを探し出し、「その男の家」まで案内させた。
 マリアは迷いに迷ったあげく、「たぶん、ここだと思う」とある一軒の家を指さした。
 女家主に案内されて、警察とマリアが階段をあがろうとすると、ひとりの男とすれ違った。男は瞬時に青ざめ、立ち去った。マリアもその男だ、と気づいた。
 家主は警察に男の名を告げた。
 ペーター・キュルテンと。

 キュルテンはすっかり観念した。
 そして妻に、「じつは今世間を騒がしてる殺人鬼ってのは、俺だ」と告白した。妻は最初冗談と思ってとりあわなかったが(なぜかキュルテンは、彼女に対してだけは異常なセックスの相手をさせなかった。「空想しながら」彼女と性交渉することはあったが、その程度だった。やはり愛していたからだろう)
 妻はしまいには信じ、ふたりで自殺しましょうと言った。
 しかしキュルテンは、
「殺人鬼を捕縛した者にはきっと恩賞金が出るだろう、これが入ればおまえの老後くらい持つに違いないから、おまえ、俺を通報しなさい」
 と言った。
 妻はとことん自殺を言い張ったが、最後には折れて、通報した。
 1930年5月24日、キュルテンは逮捕された。彼は突進してきた刑事たちに向かってにっこり笑い、抵抗はしないよ、と言った。
 そしておとなしく連行されていった。

 冒頭に記したベルク博士はキュルテンに非常に興味を持ち、著書をものにした。彼によると
「わたしはこの自供をとっている速記者の白い喉をわくわくしながら見つめ、それを絞めたいと思いました」
 と述べたという。さらに、
「残された最後の望みは、自分の頭が切り落とされ、血しぶきが噴き出す音をこの耳で聴くことです」
 とも言ったという。

 1931年7月2日、彼は最後の食事を残さずたいらげ、ギロチンで首を落とされた。
 最後の瞬間まで、とても愉快そうに見えた、という。
 彼が自分自身の首が落ちる音が聴けたかどうかは、さだかではない。

 


HOME