THE  PAYOFF  IN  BLOOD
―配偶者殺し―


 


◆夫殺し◆

マルグリート・ファハミィ

 そのふたりが恋に落ちたのは、1922年のことであった。
 男の名はポール・アリ・ケミル・ファハミィ。エジプトの富豪で、プリンスの称号を持っていた。歳はまだ20代になったばかりである。
 彼が恋した女性は、パリ在住の美女、マルグリート・ローラン。プリンス・ファハミィよりも10歳年上で、彼と出会ったのは、最初の夫と別れた直後だった。
 おりしもその前年の1921年には「世界の恋人」ことルドルフ・ヴァレンティノが映画『シーク』で砂漠のプリンスを演じ、世の女性たちをうっとりさせていた。そしてふたりが出会うのとほぼ同時期に、ツタンカーメン王の墓が発掘され、空前のエジプト・ブームが起こる。
 マルグリートはたしかにプリンス・ファハミィを愛していなかったわけではないだろう。しかし彼女が漠然とこの東洋ブームに魅せられ、「エジプトの王冠をかぶる夢」に酔ってしまっただろうことは想像に難くない。
 プリンスは彼女に「あくまで名目だけだから」と言い、イスラム教への改宗をせまった。イスラム教では、妻から夫への離婚申し立てはできず(逆は可能)、しかも一夫多妻制で、男は4人まで妻を持つことが許される。しかしマルグリートはそんなことは何も知らず、プリンスの言うがままに改宗した。
 1922年12月、ふたりは結婚した。
 しかしもともとプレイボーイでならした砂漠のプリンスは、じきに貞淑な夫の仮面をかぶるのをやめた。東洋人の夫と西洋人の妻との間の文化的ギャップは予想をはるかに上回った。プリンスは妻に従順と貞淑を求めたが、自分にはそれを課さない。そしてマルグリートは、自分の人権を認めない男などに従う気はさらさらなかった。
 彼ら夫婦はしょっちゅう殴り合い、人目もはばからず罵りあった。
 「女ってのは、厳しくしつけてやらなきゃいかん生き物だ」
 プリンスは妻を24時間にわたって部屋に監禁し、さんざん打ちすえたあと、召使いに向かってそう笑ってみせたという。
 ファハミィ夫妻の夫婦喧嘩の激しさは、じきにパリやカイロ、
ロンドンの上流社会でも話題になった。彼らは誰の目の前でも、どんな場所でも平気でいさかいを起こした。妻が夫に殴りかかり、夫が妻を平手で張り飛ばす。パーティの最中にそんな光景を見せられる賓客はたまったものではなかった。

 1923年初夏、ふたりの憎悪は頂点に達していた。
 夫妻はロンドンのサヴォイ・ホテルに泊まっていた。サヴォイはクラシック・オペラの著名なプロデューサーであったR・カートによって建てられた、世界最高クラスのホテルである。
 7月9日、その最上階のレストランで食事をとっていた夫妻は、またしても喧嘩をはじめた。ジャズバンドのリーダーがその不穏な空気をとりなそうと、マルグリートに「リクエストはありませんか」と訊くと、彼女は
「音楽を聴きたい気分じゃないわ……たったいま、夫から殺してやるって脅されたばかりなのに」
 と答えた。バンドリーダーはそれを冗談だと思い、
「そうですか。明日の朝まで生き延びられるとよろしいですね」と応じ、微笑んだ。
 プリンス・ファハミィが妻マルグリートの手によって射殺されたのは、その日の深夜のことであった。

 マルグリートの公判は1923年7月23日にはじまった。マルグリートは夫から受けた数々の暴力を訴え、異常な性行為を強要された、と涙ながらに述べた。そして銃の弾丸が発射されたのは、不幸な事故であった、と。
 殺されたプリンス・ファハミィの秘書、サイード・エルナニは主人と同性愛関係にあったことを認め、プリンスが妻を殴って顎をはずしてしまったことがあると証言した。
 検事は彼女に死刑を求刑したが、マルグリート側の弁護士マーシャル・ホールの熱弁がこれをひっくり返した。いわく、
「彼女は西洋の女なら誰もが犯したかもしれない過ちを犯しました。東洋の男ではなく、東洋と結婚したことです。彼女は夢をみたかもしれない、しかし女性が夢をみることについて、我々に裁く権利がありますでしょうか? エジプトの文明が世界的にすばらしい文化であることを認めるに、私はやぶさかではありません。だがその文明の皮を一枚はぎとってみれば、そこには東洋そのものが現れる。西洋で生まれ育った女性が、『夫から受ける当然の扱い』と思うものと、東洋的な女性の扱いに、食い違いがあるのは当たり前です。そしてそれに女性が傷つくのもまた、当然のことではありますまいか。
 陪審員の皆様、私はこの西洋の女性にあなたがたが門を開けてやり、暗い砂漠ではなく、彼女の友人たちのもとへ――偉大なる西洋の太陽の下へ帰すであろうことを信じます」。
 陪審員団はこの言葉を容れ、1時間もかけずにマルグリートを無罪放免にした。この結末に、当然のことながら原告エジプト側は「東洋全体に対する侮辱だ」と猛烈に抗議した。しかしロンドンっ子はこの判決に熱狂。弁護士マーシャル・ホールは一躍有名人となった。
 マルグリートはのちにマイナー映画の女優となったそうだが、いつしか銀幕からは姿を消した。彼女の名は、サヴォイ・ホテル殺人事件のヒロインとしてのみ、いまは残っている。


 


キャサリン・ヘイズ

 キャサリンと、ジョン・ヘイズが結婚したのは1705年のことだった。キャサリンはまだ15歳、ジョンは21歳になっていた。
 ふたりは田舎で6年暮らしたが、若い妻は都会暮らしに憧れはじめ、夫をせっついてロンドンに移住させる。夫の実家はいい顔をしなかったが、結局はこれを許したようだ。
 ロンドンで、ジョンは石炭商、質屋、高利貸しと手広く商売し、成功した。だがジョンは生来、病的に吝嗇だった。「金がかかるから」その一言で、キャサリンが産んだ嬰児をふたりも殺してしまったという。対するキャサリンはもともと派手好きで、贅沢を好むたちだった。
 せっかく成功したのだから金を使わせろ、という妻と、おまえなどに使わせる金はない、と言う夫。彼らの仲は険悪になっていった。

 1725年、キャサリンは「古い友人だ」と夫に紹介して、ビリングスという仕立て屋を家に泊まらせた。ジョンが仕事でロンドンを離れると、キャサリンとビリングスはこれ幸いとベッドで情事を愉しみ、ジョンの貯金を湯水のように使った。帰宅したジョンは激怒して妻を叩きのめしたが、なぜかビリングスを追い出すことはしなかった。
 さらに、ウッドという「キャサリンの友人」がもうひとり現れ、彼もまた同居人となる。ジョンが彼らの存在をどう思っていたのかは不明だが、うすうす妻と関係があることは知っていただろう。しかしそれでも彼は、2人に「出て行け」とは言わなかった。
 キャサリンは2人の情夫に「夫が死ねば、1500ポンドの遺産が手に入るわ。あんたら、それを手に入れてみたくない?」とそそのかす。最初は渋っていた2人の男は、ついにこれに同意した。
 1725年3月、ウッドとビリングス、そしてジョン・ヘイズとで酒の飲み比べをした。もちろん話をうまい方向に持っていったのは、キャサリンと2人の情夫である。挑発にのったジョンは1パイント瓶ワインを6本飲み干した。夫が朦朧となっていることを見てとったキャサリンはその手元にさらに1本追加した。ジョンは本数を数えようともせずにそれも飲み干し、ついに昏倒する。
 彼が気を失ってしまうや、ビリングスは斧でその後頭部を一撃した。頭蓋骨が砕け、ジョンの体は苦悶にのたうった。ウッドが斧を奪い取り、さらにジョンを2回殴りつけた。ジョンは絶命したが、その音を聞きつけた隣人が「うるさい」と苦情を言いに来た。キャサリンは丁寧にそれを詫び、隣人をうまく追い返すことに成功する。彼女は外面のいい女だったのだ。
 この時点で彼らの部屋は、ベッドといわず床といわず壁といわず鮮血が飛び散り、男ふたりはあらかた気力を失ってぐったりと座り込んでいる。だがキャサリンは夫の死体を始末すべく、てきぱきと動いた。
 彼女は死体の首の下に血受けのバケツをあてがい、大型の肉きり包丁で2人に首を切り落とさせた。キャサリンは生首の身元がわからぬようにするため、
「肉が離れるまで、お鍋で首を煮ましょう」
 と提案。しかし情夫たちはこの考えに怖気をふるい、協力を拒んだ。
 キャサリンは隣人たちに聞こえるよう、大声で「あなた、これから仕事に出かけるの? 大変ね、こんな夜中に」と芝居をうち、2人に生首を抱えさせテムズ川に向かわせる。その間、彼女は部屋中の血が固まらないうちにと掃除をした。しかしワックスをかけていない床板はスポンジのように血を吸っており、丹念に拭き取って、さらにナイフで削ってさえも血痕は消えなかった。
 2人の男は首をテムズ川に遺棄したが、これには目撃者がいた。生首は警察の手によって引き上げられ、きれいに洗われて、身元判明のため教会構内の杭に刺されてさらされた。これを見た若い職人が「ヘイズさんに似ている」と思い、ヘイズ夫人に注進に走ったが、キャサリンは
「お黙り、おかしな噂を流したらただじゃおかないよ」
 と若者を一喝し、追い返した。

 3人はジョンの死体を斧でばらばらに切断し、池に投げ捨てた。そしてキャサリンは何食わぬ顔で夫の稼業をつぎ、貸し金の回収に精を出す。
 そうこうしているうちにジョンの首は腐り、悪臭を放ちはじめたので、警察はアルコールを満たした瓶にこれを保存した。その生首が、失踪したジョン・ヘイズに似ていると証言する者はあとを絶たず、ついに判事は重い腰を上げ、キャサリンを事情聴取に訪問することになる。
 判事が訪ねたとき、キャサリンとビリングスは情事の真っ最中であった。キャサリンはなんとか取り繕ったが、裸足でベッドに腰をおろしていたビリングスの姿は、どう見ても弁明のできぬものであった。
 キャサリンは無実を主張しつづけ、アルコール漬けの生首を目の前に突きつけられると、ひるむ様子も見せず
「ああ、わたしのいとしいあなた、あなたの首!」
 と叫んで、瓶をかき抱くと、狂ったようにキスを浴びせた。そして失神するふりをした。
 だが彼女ほどの強靭な精神力を持たぬ2人の情夫は、じきに観念して自供。2人の男は絞首刑、キャサリンは火炙りの刑を宣告された。ウッドは監獄で熱病に倒れ、病死したが、ビリングスは刑をまぬがれ得なかった。
 キャサリンの最期は凄惨そのものである。当時の焚刑の習慣として、火が足元にせまる前に彼女は絞殺される予定であった。しかし手筈が狂い着火が早すぎたのである。処刑人は火のまわりの早さに、慌てて縄を掴んでいた手を離した。縄はキャサリンの首にかけられており、それで絞殺されるはずだったのだが、その手段を失って彼女は生きながら火に炙られた。せめて彼女の意識を早く失わせようと、薪がどんどんくべられる。しかしキャサリンは意識を失うことなく、絶叫しつづけた。
 彼女の死体が完全に灰になってしまうまで、たっぷり3時間を要したという。

 


ニーナ・ハウスデン

 1944年12月20日、オハイオ州。
 全州がクリスマスを間近に控え、赤と緑と金色の飾りつけに埋もれて浮き立っている中、彼女は故障した車を修理工場に牽引してもらっている真っ最中であった。その後部座席には、赤いリボンをかけられ、サンタ模様の包装紙でくるまれたプレゼント箱がいくつも置いてあるのが見える。
 ボンネットを開けて中を見た修理工は、気の毒そうに彼女に告げた。
「エンジンがすっかり焼け付いてしまってます。修理に2日はかかりますね」
 彼女は愕然と目を見ひらいた。そうとう先を急いでいるようだ、とその顔つきを見て修理工は思った。しかし前言をひるがえすことはできない。しまいには彼女も諦めた様子だったが、それでも
「できるだけ急いでやってちょうだい。私は作業中も車の中にいて、いつでも運転できるよう待ってるから」と言った。おかしな女だ、とは思ったが、修理工は「いいですよ」と答えた。
 日が暮れ、真夜中になり、朝が来ても彼女はフロントシートから動くことはなかった。そして工場の中にいた子供にワインとサンドイッチを買いに行かせると、そこに座ったままで食べはじめた。ワインは瓶に直接口をつけてのラッパ飲みである。
 午後になると、工場内には熱気がこもりはじめる。それにつれて、車の後部座席から異臭が漂いはじめていた。たまらず、修理工のひとりが、
「お客さん、車に何を積んでるのか知りませんけどね、臭くてしょうがないんですが」
 と言った。すると女は瓶を口から離して、
「先週、ミシガンで鹿を撃ったの。鹿は熟成させなきゃ美味しくないでしょ。腐りかけがいちばんの食べごろよ」
 と笑った。そしてなおもワインを飲み続ける。こんなに臭けりゃ腹を壊しちまうよ、と言いたいのを修理工は飲み込んで、離れていった。
 しかしついに悪臭は耐えがたいほどになった。運転席に陣取ったまま酔っ払って寝てしまった女を見て、修理工たちは「いまのうち、腐った肉をどけさせてもらおう」と話し合い、ドアをそっと開けて、きれいに包まれたクリスマスプレゼントの箱を運び出した。
 車から出してしまうと、悪臭はいっそうひどかった。首をひねりながら、修理工のひとりが箱のリボンを解き、蓋をはずした。途端、全員がぎょっとして、後ずさる。
 箱から出てきたのは、脛毛の生えた人間の脚だった。
 車に積まれていた箱のすべてに、五体ばらばらにされた男の死体が詰め込まれていたのである。
 彼らはただちに警察を呼んだ。刑事が駆けつけたときにも女はまだぐっすりと眠りこんでいた。アルコールと長時間の運転と、人ひとり分の体を解体したことによる疲労が彼女を深い眠りに落とし込んでいたのである。


 逮捕された女性は自分がデトロイトに住む主婦、ニーナ・ハウスデンであることを明らかにした。そして、死体が彼女の夫であることも。

 その3日前の12月18日、ニーナは完全に計画的に夫を殺害した。
 ふたりはすでに別居中だったが、ちょっとしたパーティをしようと夫を自分のアパートへ誘い、睡眠薬入りのアルコールを与えて、昏睡状態に陥ったところをロープで絞殺したのである。そして彼女は夫の死体から衣服を剥ぐと、彼のアパートへ出かけていってその服や帽子をクロゼットに戻した。
 自宅に戻ったニーナは夫の死体を見下ろし、
「ただいま、あなた。いい子にして、身動きひとつしなかったのね」
 と笑った。それから、自分のベッドにもぐりこむと熟睡した。
 翌朝、目覚めたニーナはさっそく死体の始末にとりかかる。下着一枚の姿になると、買ってきたばかりの肉切りナイフと切り分けナイフを取り出し、キッチンの床に横たわる死体の横にひざまずいた。
 ニーナはまさに鹿でもさばくように夫の胴体から四肢を切断し、首を落とし、それらを手際よく段ボールにおさめていった。作業がすべて終わってしまうと、香料を入れた熱い風呂に入って疲れを落とし、ふたたび眠った。
 翌20日、ニーナは死体を詰めた段ボール箱を、サンタとトナカイの模様がついた紙で丁寧に包んだ。そして飾り紐をかけ、リボンをつけた。どこからどう見ても怪しまれることのないプレゼント、それもまさに季節ぴったりのクリスマス・プレゼントである。ニーナはその出来栄えに満足し、後部座席に積み込むと、デトロイトを出発した。幼い頃に彼女が過ごしたケンタッキーには、死体を隠すに適した洞窟や砂利採取場が、いまも残っているはずであった。
 ニーナは車を走らせつづけた。目的地まで、ノンストップで走るつもりであった。
 オハイオにさしかかったところでエンジンが故障し、修理工場に運びこまれる羽目になるまでは。

 ニーナがすべての供述を終えるころ、日付はクリスマスイヴになっていた。彼女は完璧なまでに冷静で、日々の天候でも語るかのような口調で自分の犯行を語りつづけた。彼女がただ1度、声をつまらせたのはこう言ったときだけだったという。
「夫は悪い人じゃありませんでした。ただ、どうしようもなく浮気だっただけです」。
 1945年5月、ニーナ・ハウスデンは終身刑を宣告された。

 


エラ・ベサラヴォ

 のちにベサラヴォ夫人となるエラ・ミルテルは、1868年にフランスのリヨンで生まれた。
 26歳でジャックという絹商人と結婚し、娘のポールを出産。詩集を何冊か出版して、パリに「サロン」をひらくと、芸術家きどりで若い男をはべらかして愉しみ、ツバメを作ってはラブ・アフェアにいそしんだ。
 ジャック夫妻の結婚生活は約20年間つづいたが、それは当然のことながら平和なものではなかった。1度ならず、エラはスープに塩化水銀を仕込んで夫を毒殺しようとしたことがある。
 しかし決定的な破局は1914年に訪れた。夫のジャックが、商用で出発する前日の夕刻に、自宅で頭を撃ち抜かれた死体となって発見されたのである。凶器の銃は彼の手元に落ちており、警察は捜査の結果、これを自殺と断定した。未亡人となったエラは娘を連れ、メキシコに渡る。
 エラはメキシコでまたも妙な災難にみまわれる。彼女の経営する牧場に、頭巾をかぶった4人組の強盗がやってきて牧童頭を射殺していったというのである。この強盗団を目撃したのは彼女のみで、警察の熱心な捜査にもかかわらず、4人組強盗の行方はついに知れなかった。当時のメキシコは治安が良くなく、牧場主や旅行者が被害にあうことは珍しくなかった。しかし、どういうわけか近隣の同情はエラには集まらず、それどころかキナ臭い噂が飛び交うのだった。
 やがて、エラはルーマニア人の材木商人、ベサラヴォと出会う。彼女はためらうことなく牧場を売り払い、ベサラヴォと娘とともにフランスへ戻った。エラの美貌と才知、そしてベサラヴォの財産によって、夫妻はパリ社交界の花形となった。
 しかし、いいときは長くは続かない。やがて夫は若いタイピストに夢中になり、妻はまだ少年と言っていいような兵士に熱をあげるようになる。夫婦の仲は冷えきり、顔を合わせれば口汚い罵りあいが始まった。
 1920年7月8日、ついにエラは銃を持ち出して夫につきつけ、
「さっさと出ていかないと、あんたの首を吹っ飛ばすわよ」
 とわめき、引鉄をひいた。ベサラヴォが咄嗟に床に伏せなければ、その言葉は確実に遂行されていたことだろう。
 その一件以来、ベサラヴォ家には一触即発の空気が流れた。そんな折り、南米の消印のついた一通の手紙が舞い込む。それを見たエラとベサラヴォはなぜかパニックに陥り、家中のドアと窓に防犯ベルを取り付けた。ベサラヴォはこの時期、ごく親しい友人に「亡霊に殺される」と打ち明けたそうだが、詳しい言葉の意味は明かされないままだった。
 2通目の手紙が届くと、ベサラヴォは恐慌状態となった。そして数日後、彼の姿は消えた。
 この失踪によって、ベサラヴォの若い愛人と、彼の運転手が警察に捜索願を出した。しかし警察に問い詰められたエラは、「夫はメキシコに行きました」と冷然と答えるだけであった。


 1920年9月、残暑厳しいパリの東300キロにあるナンシー駅で、手荷物預かり所に置かれたトランクからひどい異臭が洩れているのが発見された。
 あまりの悪臭に気分の悪くなる者があらわれ、ほうっておけなくなった駅員が地元の警察に連絡。鼻の曲がりそうな異臭に耐えながら、警察がトランクの蓋をこじあけてみると、中からごろんと白い塊が転げ出てきた。
 トランクの中身は、防水紙に包まれロープで縛られた男の死体だった。手足を窮屈そうに折りたたみ、身につけているものは赤いフランネルのベストのみ。額の真ん中には銃弾の穴があいていて、そこから脳漿が垂れ流れていた。
 トランクを調べてみると、パリから汽車で運ばれてきたことがわかった。荷札にはベサラヴォと署名してあり、パリ警察へ問い合わせてみると、くだんのベサラヴォ氏は謎の失踪をとげていることがすぐに判明する。また荷札の筆跡は、エラの娘ポールのものであった。
 警察の連絡を受け、死体の身元確認に訪れたエラは、
「誰だかまったく存じあげませんわ。うちの夫は、こんな年寄りの醜男ではありません」
 とそっけなく言い放った。
 だがそれならどうして、彼女の娘はこの死体をトランクに詰めて田舎駅にわざわざ送るような真似をしたのだろうか? さらにポールが死体の梱包に使われた防水紙とロープを購入したことが証明され、エラ母子は追い詰められた。
 窮地に陥ったエラは、かつて牧童頭が4人組の強盗に殺されたと主張したときと同じように、いきあたりばったりな法螺話を作りあげはじめる。いわく、夫に脅迫状を送りつけてきたのはメキシコの秘密結社であり、トランクの死体は夫をつけねらっていた敵側のスパイである。ベサラヴォは追っ手をまくため、アメリカで暮らしているが、秘密結社を恐れるあまり、姿を現すことができない……等々。
 警察はもちろんこの話を採用しなかった。検察はベサラヴォの浮気癖に腹をたてたエラが夫を射殺し、死体の始末を娘にさせたのだと主張した。
 娘のポールは死体の始末を請け負ったことは認めたが、法廷では涙ながらに
「あの死体は父ではありません。父は生きております。父と子の約束によりすべてを語ることはできませんが、私はあの死体の男を殺したのは父であると確信しています」と述べた。
 しかし陪審員はこの母子の証言を却下。秘密結社も、スパイも、脅迫状も、判決文からはきれいに無視された。
 エラ・ベサラヴォは20年の禁固刑となり、年若いポールは情状酌量され無罪放免となった。しかし懲役だけはまぬがれたものの、ポールはパリで路頭に迷い、その後の半生は物乞いをして暮らすほかなかったという。

 


浅野美栄

 北海道十勝の『浅野牧場』の主人、浅野浩三が死体となって発見されたのは、1982年3月20日早朝のことであった。
 自宅近くの路上で頭を割られて死んでおり、傷口はザクロのように弾けている。昨夜からの積雪で周囲の足跡は完全に消されており、採取は不可能であろうと思われた。
 被害者の浩三は1948年に開拓者として北海道に入植し、東京で挙式した妻との間に4人の子供をなしていた。
 妻の美栄は、
「昭和52年(1977年)からの牛乳過剰生産、54年からの生産調整で打撃を受け、一時は30頭を数えた乳牛も次々に手放さざるを得ず、ついに55年には一頭もいなくなりました。それ以来、牧場とは名ばかりになって、野菜作りで急場をしのぐ状態でした。負債は増えるばかりで、夫も昨年7月からすっかり営農に自信をなくし、酒びたりの毎日になりました。今年に入ってからはまったく働かず、『おれが死ねばすむことだ』などと口走るようになり……自殺するのではないかと、目を離さないよう気をつけていた矢先に、こんなことになってしまって……」
 と証言した。


 この供述は大筋において間違いないことがすぐに証明された。浅野牧場の窮状は誰の目にも明らかで、30ヘクタールあった農地のうち14ヘクタールがすでに売却され、残る16ヘクタールも牧草地として同業者に賃貸している有様であった。そして当の浅野家といえば、その片隅のわずかな畑で野菜を作って糊口をしのいでいたのである。
 しかも近隣の証言によると、野菜作りをしていたのは妻の美栄ひとり。妻だけに働かせて、浩三は町へふらりと出かけていっては地元サークル『読書会』の面々に酒をおごり、議論をふっかけて勝ってはいい気分になっていたという。はたから見ていれば、金を払う人間にへつらって、皆がわざと負けてやっているのは明白だったが、浩三はお山の大将気取りでご機嫌であった。
「たまの出荷のときだけ浩三さんが青果市場まで運転していって、その売り上げは帰りにみんな奢っちまってたらしいよ」
「旦那さんの海軍式命令に、奥さんは絶対服従だった。浩三さんの飲み代のツケがたまって、残りの牛を全部売ってしまったときも、奥さんは文句のひとつも言わんかったそうだ」

 1970年代に入り、飲用乳の需要が爆発的に増えたころならいざ知らず、乳価格が据え置かれ、酪農家が軒並み苦しんでいるこのご時世に、呆れた乱行ぶりである。しかも経営がうまくいっているならまだしも、借金で首がまわらない状態になってもそれを改めなかったというのだ。
「奥さんは働きすぎて腰を痛めてたがね、でも浩三さん、口先で理想ばかり追って、自分では体動かさねえもの」
 近隣の牧場主は、被害者の浩三に対し冷ややかな態度を隠さなかった。
 しかしそれでもなんとか浅野一家が食べてこられたのは、浩三の実家からの資金援助があったからだった。それがなければとっくに浅野家は離散していただろう。浩三の実家は裕福で、北海道での牧場経営は、実家ぐるみの「夢」であり「ロマン」だったのだった。
 高度成長の波に乗り、浩三の兄が創立した会社は順調に業績を伸ばしていった。彼が弟に援助をつづけたのは、彼いわく
「北海道の大地に弟が牧場を経営していると思えば、無味乾燥な都会の生活にも救いがあります。まあ男のロマン、とでも言いましょうか……」
 という理由からだった。つまり彼自身の夢想をも弟夫婦に肩代わりさせたふしがあるのである。そしてこの場合、苦労をまるごと背負い込んだのは弟ではなく、その妻の方であった。
 ちなみにふたりが結婚したのは、浩三の父が美栄の「寡黙、忍耐強さ」を気に入って縁談をすすめた結果だったという。


 結婚後しばらくしてオイルショックがあり、物価の高騰で負債が倍以上にもふくれあがった。しかし浩三は事態を深刻に考えず、さらに設備投資をつづける。
 だがもともと現実離れした夢想家の浩三には、ビジネス面での先見の明はなかった。真冬の積雪量を計算に入れずに大型タンクローリーを購入したはいいが、雪で道をふさがれ牛舎への横付けができず、牛乳を大量に捨てるはめになったこともあった。
 その後も借金は増える一方で、牧場を切り売りするほかなくなった。損失は浩三の父の遺産で補ったが、しだいに兄にもどうにもならなくなり、ついに「弟に離農させよう」と、月々の送金の打ち切りを宣告した。それが、浩三が「営農に自信をなくした」という、昨年の7月のことである。
 せめてもと、兄は「東京に住みたいのだったら、いつでも来なさい」と声をかけたが、浩三に離農するつもりはなかった。彼は土地を処分し、借金返済のめどがついたところで、中国へ農業指導のボランティアに行きたいと美栄に言った。滞在期間は1年、旅費その他は中国側が持つとのことだが、ボランティアなので報酬は無い。その間妻子がどうするかは彼の頭にはないようだった。
 仕方なく美栄は義兄に手紙をしたため、
「あの人も働くのがいやなわけではなく、打ち込める仕事がないだけなのです。ボランティアの件、どうぞお力添えください」
 と書き送った。消印は2月22日付である。兄はさすがに「わが弟ながら、ここまできてもまだ夢ばかりみているのか」と呆れて、返事を出さなかった。

 それから1ヶ月後、事件は起こったのである。
 警察は美栄を被害者の妻ではなく、重要参考人として扱うようになっていった。美栄は最初の主張を崩さなかったが、やがて、東京から義兄が来て事情聴取に応じていることを聞かされると、動揺した。
 義兄が現れ、ねぎらいと弔辞を述べると、彼女はしばらく顔をこわばらせていたが、突然
「ご安心下さい。もう国にも浅野家にも負担はかけません。――あの人は私が殺して差し上げました」
 と頭を下げた。
 彼女はそのまま取調室にとって返すと、夫殺しを自供しはじめた。
 供述によると、20日午後8時ごろ、酒に酔った浩三と美栄は口論になった。酔うたびに浩三は「酪農に失敗したのはおまえのせいだ」と美栄をののしった。こんな毎日はもうたくさんだ、そう思った美栄は土間にあった薪で夫の頭を殴った。殴打は18回にも及び、出血多量で浩三は死亡。美栄は死体を帰宅する子供たちに見せたくないと思い、路上まで引きずっていくと朝まで放置した。
 しかし裁判がはじまると、近隣の農家一帯から同情の声があがった。いきあたりばったりの農政に振りまわされつづけた酪農家たちにとって、浅野夫妻の事件は決してひとごとではなかったのである。減刑嘆願書には、近隣の有権者の70%以上が署名するという異例の事態が起きた。
 美栄は懲役5年を受け、刑に服した。

 
 


宇野冨美子

 1952年5月10日、東京都足立区の荒川放水路で遊んでいた子供が、新聞紙に包まれた荷物のようなものが浮いているのを見つけた。油紙をひらいてみると、白い大きな瓜のようなものがごろりと転げ出た。それは麻紐で縛られた人間の胴体であった。
 連絡を受けて駆けつけた警察が検証したところ、被害者は20歳から40歳ほどの男性で、胴体は首と両手足がいずれも付け根から切断され、頸部に絞殺したあとがある。死後2、3日が経過しているとみられ、絞殺後に死体を切断して遺棄したのだろうと断定された。
 5日後、胴体が発見された対岸に、首が漂着する。胴体と同じく、麻紐で縛られた上、新聞紙に包まれていた。
 発見された生首は、水を吸ってふくれあがり、すでに変色していたため人相の識別は難しくなっている。そんな中、志村警察署の警部が捜査本部を訪れ、
「どうも、その首は当署に勤務していた巡査ではないかと思われるのだが……」
 と申し出たため、本部は騒然となった。
 なんでも警部によると、その巡査は27歳になる伊藤忠夫という男で、5月7日に彼の内縁の妻から
「親戚が来ましたので、9日まで休暇をとらせてください」
 と連絡があったのち、ぷっつりと消息不明になってしまっているのだという。内縁の妻、冨美子は10日に署を訪れ、
「じつは親戚が来たからと出した休暇届けは嘘です。ほんとうは酔った夫と口論になり、彼が家を飛び出したまま行方が知れませんので、そう言いつくろっただけです」
 と言った。警部はこれをあやしみ、伊藤巡査の失踪を調べさせていた矢先に、首が発見されたのである。しかし首の損傷があまりにひどかったので、首実験の結果ははかばかしいものではなかった。
 だが翌日の5月16日に両腕が発見され、指紋が伊藤巡査のものと一致したことで、ようやく死体の身元が断定される。現職の警官が殺害され、死体を切断されたのだから、犯人はよほど凶悪な人間であろうと捜査本部は慄然とした。
 しかし調べをすすめるうち、伊藤巡査が公務に似合った謹厳実直な男ではなかったことがわかってくる。彼は人あたりが悪く不遜で、酒乱であり、多額の借金を抱えていた。冨美子との夫婦仲も当然のことながら良くなく、酔って妻に暴力をふるう毎日であったという。冨美子は小学校の教師をしており、本来なら「教師と警官」というこの上ない堅い夫婦であるはずが、内情はこんなものであった。
 警察は冨美子に容疑を絞り、捜査をすすめた。
 やがて、伊藤巡査宅から血痕が見つかり、「自転車に荷物を積んで走る冨美子を見た」という目撃者が現れるなどして、容疑は固まっていく。はじめのうちこそ冨美子は、
「私は教育者です。夫を殺すなどという真似ができるわけがありません」
 と完全否定していたが、やがて追求に耐えきれなくなり、自供をはじめた。

 彼女の言によると、5月7日夜、伊藤は夜勤前だというのに泥酔し、冨美子にいつものように暴力をふるった。さんざん暴れると夫は寝てしまったが、冨美子はその横で眠る気にならず、畳に座り込んでいた。
 彼女は25歳のとき、大阪から東京の小学校へ赴任となり、そこで伊藤と出会い結婚した。伊藤が警察官であったから信用したのと、大阪に残してきた母や弟の面倒もみてもらえるのではないか、と期待したせいもあるようである。
 しかし伊藤は彼女が期待したような男ではなかった。多額の借金があり、毎月の給与はその返済でほとんど消えた。残りはほとんど飲んでしまう。おまけに泥酔しては彼女を罵り、殴った。籍さえ正式に入れてもらえなかった。
 冨美子は母と弟を呼び寄せ、4人で同居をはじめたが、このため夫はますます不満をつのらせた。居心地の悪い家に彼がしらふで寄り付くはずもなく、酒量は前にも増して増え、態度はすさんだ。
 そんな生活に冨美子はほとほと疲れきっていた。教員という仕事に人一倍プライドとプレッシャーを感じていた冨美子にとって、仕事はもはや生きがいというよりは重荷であり、さらに家庭はそれを癒す場ですらなく、修羅場の態であった。
 冨美子は寝ている夫を絞殺し、隣室で眠っていた母を起こすと、「夫を殺した」と告げた。
 それからは母子の懸命な解体作業のはじまりである。とにかく死体を始末しなければならない、だが女手ではとても死体を運ぶことはかなわない。運びやすいよう、こまかくするほかなかった。さらにその方が人目にもつきにくいだろうという計算もあった。
 出刃包丁と鉈でふたりが伊藤の五体を切断し、新聞紙にくるんで、新荒川大橋の上から投げ捨てたのが、9日から10日にかけてのことである。
 被害者が現職警官、加害者が現職教師でしかも内縁の妻、という構図は、当時の社会に大きな波紋を投げかけた。
 冨美子は取調室で、己のことを「つまらぬプライドにとらわれた半生を送ってきました」と述べた。
 東京地裁は1952年10月、冨美子に懲役12年、母に対し懲役1年6ヵ月の判決を下した。

 

 


 

◆妻殺し◆

フレデリック・スモール

 50歳になるフレデリック・スモールは、一見、何不自由のない隠居生活を送っているように見えた。経済的に成功して引退し、いまはニューハンプシャーの湖畔で糟糠の妻と穏やかな余生を過ごす、裕福な初老の男。それが周囲から見た彼のイメージだった。しかしその内実は、投機にことごとく失敗し、懐具合は破産寸前。さらに老妻にサディスティックな暴力をふるう、病的に吝嗇な男であった。


 スモールの趣味は発明で、できることなら彼はこれで一山当てたいと思っていた。しかしそれがうまくいかないため株に手を出したのだが、こちらの才能はもっとなかったようだ。彼の財産はみるみる目減りし、株券は買ったそばから紙くず同然になっていった。
 1916年9月28日。
 スモールは株式のチェックに、ボストンまで出かけた。運転手に駅まで送ってもらい、そこで地元の教師であり保険外交員でもあるコナーという男と落ち合う。ホテルにチェックインした後、ふたりは連れ立って映画に行った。
 夜中過ぎにホテルに戻ると、フロントの男が、
「お客様がスモール様ですね? 大変です。あなたの御宅が火事になられたそうです」
 と駆けつけてきた。慌ててニューハンプシャーに電話したところ、家はまだ燃えており、妻のフローレンスは中にいるらしいとのことである。
 スモールとコナーは車を雇い、夜通しかけてスモール宅へ戻った。
 到着したころにはもう夜は明けていた。朝日が白々と、すべてが灰になったスモール宅を照らしだし、ふたりはその前に呆然と立ち尽くした。

 妻のフローレンスは、焼け跡から焼死体となって発見された。手足の一部はすっかり炭化して崩れていたが、頭と胴は焼け残っている。そして、彼女の首にしっかりと扼殺痕が見てとれ、頭蓋骨からは32口径の弾丸も摘出された。しかも犯人は三重に彼女の死を確かなものにするべく、もとの形がわからなくなるほどに顔を殴りつけてもいた。
 犯人はすべての痕跡を消すため火を放ったに違いなかった。しかし火が強すぎたせいで寝室の床板が焼け崩れ、フローレンスの死体が寝室から階下の地下室へ落下。そのおかげで、地下室の床にたまっていた水が遺体を火から守り、全焼させなかったのである。
 火の勢いは確かにすさまじいものだったらしい。地下室のストーブはあまりの高温のため、溶けていた。
 この現象を解明するべく、鑑識は死体に付着していた樹脂と、マグネシウムと、針金と、点火プラグつきの目覚まし時計を発見した。また、スモールがボストンに出発する数時間前、5ガロンのガソリンが注文され、運び込まれていたこともわかった。
 発明狂のスモールがなんらかの発火装置をつくり、彼がボストンにいる間に爆発するよう仕掛けたのではないか、誰もがそう思った。
 彼がフローレンスに2万ドルの保険金をかけていたことが明らかになると、疑いはさらに強まった。そればかりか彼は、家にも3千ドルの保険をかけていた。

 スモールは無罪を主張しつづけた。運転手を味方につけ、自分に有利な証人に仕立てあげようとしたが、これには失敗した。運転手はスモールが睨んだほど、くみしやすい男ではなかったのである。
 検察は火災現場で採取されたと同じ材料で、発火装置を作って陪審員に誇示した。
 もしフローレンスの死体が丸焼けになっていたら、この殺人は完全犯罪となり、彼は金を手にすることができただろう。しかしそうはならなかった。それは偶然ではなく、ひとえに、彼の吝嗇が原因であったのだ。
 事件のすこし前、大工との口論の末、スモールは自分で安物の板材を使って、地下室の天井を張りなおしていた。ちょうどその真上にはフローレンスのベッドがあった。
 火災で安いきゃしゃな板が焼け、ベッドが落ち、地下室の水に浸ったせいで死体は焼け残ったのである。すべてはスモールが板材の材料費をケチったがゆえの失策であった。

 1917年1月、スモールは有罪を宣告され、死刑を言い渡された。

 


デイヴィッド・ヘンドリクス

 妻から逃れたいがために、子供たちまでも犠牲にしてしまう夫も少なくはない。

 1983年、イリノイ州。デイヴィッド・ヘンドリクスの設立した整形外科用具の販売会社はようやく軌道に乗りはじめ、それとともに他社からも注目を集め、一目置かれる存在となった。
 ヘンドリクスは家庭にも恵まれているようであった。厳格な清教徒派の教義を守るプリマス同胞会の信徒であるヘンドリクス夫妻は、結婚してもう10年にもなる。3人の子供たちも両親のもと、信仰心篤く育ち、なんの問題も起こしたことがなかった。
 11月3日、ヘンドリクスは明後日に予定されている地方への営業をひかえ、秘書に、
「明日の深夜零時くらいからウィスコンシンに向けて出発するつもりだ。夜通し車を走らせることになるだろうな」
 と言った。
「飛行機を使われないんですか? いつもそうしているじゃありませんか」
 秘書が尋ねかえしたが、彼は、いいんだ、と答えた。あとになって秘書は、「そういえばいつもなら、社長は出発時間さえ告げたりはしないはずでした。そんな細かいことはいちいち言う人じゃなかったから」と語っている。

 翌日の4日、ヘンドリクス一家はピザ・レストランで夕食をとった。午後6時半から午後7時半までその店におり、子供たちは食後に店内のゲームセンターで遊んだ。すっかり遊び疲れた子供たちは家に帰ってすぐ眠くなり、9時にベッドに入った。
 その後予定通り、ヘンドリクスは零時に家を出発して車を走らせ、商談相手の待つウィスコンシンへ向かう。
 
その週末、ヘンドリクスは家族の声を聞こうと電話をかけた。が、何度かけても応答がない。彼は警察に電話し、
「ヘンドリクスという名の一家が、事故にでもあっていないだろうか」と問い合わせした。
 警官はヘンドリクスという人間はひとりも事故や事件の被害に遭っていないことを告げ、「そんなに心配なら、見回ってきてあげますよ」と請合った。この時点では、誰もが彼を心配性に過ぎる、だが家庭を人一倍愛する男だというふうに見ていた。

 しかしその警官が発見したのは、凄惨な殺人現場だったのである。
 スーザン・ヘンドリクスと3人の子供たちは、滅多切りにされ、血の海の中で横たわっていた。全員が斧で頭を叩き割られており、天井や壁にも血は飛び散っている。凶器とおぼしき斧と肉切り包丁は、きれいに拭われてベッドの下に落ちていた。
 しかし室内はほとんど荒らされておらず、チェストの抽斗が抜かれ、ひっくり返されて、中身が多少散らばっている程度である。殺人に対しこれほどの残忍さを見せていながら、室内をおざなりにしか荒らしていないところに、警察は「わざとらしい演出」の匂いを嗅ぎ取った。
 そこへ、長旅からヘンドリクスが帰宅してきた。
 警察は彼にショックを与えまいと、家には入れず、外で事情聴取をした。

 ここでヘンドリクスが余計な真似をしなければ、事件はもしかしたら迷宮入りになったかもしれない。しかし取材に訪れたTVクルーに、ヘンドリクスは、
「強盗に入られ、室内を荒らされて何と何を盗まれた」
 など、
現場にいなかったにも関わらず、現場にいた人間にしか知り得ないことまで話したのである。警察は彼の気持ちを思いやり、室内の状況はほとんど伏せていたので、ヘンドリクスはほとんど情報を持っていないはずであった。
 これを知った警察は、彼のアリバイ崩しをはじめた。ヘンドリクスの証言によると、
「子供たちも、妻も、わたしが零時に家を出るまでは元気にしていた」
 ということだったが、検死の結果、これは嘘であることがわかった。子供たちの胃の中のピザはまったく消化されておらず、3人とも9時半前には死亡したものとみられる。
 突然の外傷は、消化のほとんどすべての過程を止めてしまうものだ。交通事故などで数日後に死んだ被害者を解剖すると、最後に食べた食事が胃の中にそっくりそのまま残っていることも珍しくない。ヘンドリクスはこれを指摘されると、自分の出発時間は午後11時だったかもしれない、と言いなおしたが、どちらにしろ子供たちがその時間まで生きていなかったことは確実であり、この言い訳は無意味だった。
 スーザンの解剖の結果、彼女の胃の内容物も、彼女が少なくとも11時より前に死んだことを物語っていた。

 ヘンドリクスは敬虔なプリマス同胞会の会員だった。しかし突然の成功が彼を変えたのである。
 金が手に入ったと同時に、小太りの地味な「昔のヘンドリクス」は消え、高級服が好きで、若い女が好きで、浪費が好きな「新しいヘンドリクス」が生まれたのだ。そして彼の変身にもかかわらず、妻のスーザンはあいかわらず野暮ったい、つまらない女のままだった。
 しかしプリマス同胞会の掟では、姦通は破門をまぬがれない重罪であり、離婚など決して許されることではなかった。彼は「離婚」以外の、妻と子供から逃げ出す手段をとったのである。
 ヘンドリクスは4回の終身刑を受けた。

 

 


野本岩男

 1994年11月3日、横浜市の京浜運河で、女性と赤ん坊の死体が発見された。ともに絞殺されており、ビニールで包まれ、重石をつけて沈められたとみられる。
 捜査の結果、死体はつくば市に住む31歳の主婦、野本映子とその長女(2歳)であることが判明した。捜索願は夫の野本岩男の手によってすでに出されている。野本は総合病院に勤務する医師であり、妻の映子の間には2人の子宝に恵まれた、一見何不自由ないエリートであった。
 数日後、横浜港近くの海で、1歳の長男の死体が上がる。検死の結果、3人は10月下旬に殺害され、海に遺棄されたらしいことがわかった。
 警察はじきに、容疑を夫の野本に絞った。

 野本岩男は1964年に茨城県の農家次男として生まれている。幼い頃から学業優秀であったが、性格には自己中心的なところが目立った。
 彼が、のちに殺害されることになる妻の映子に出会ったのは、25歳の夏である。映子は2歳年上の27歳。野本はまだ研修医だったが、映子は前夫との間に生まれた2人の子供を育てながら、看護助手をしていた。
 映子はぱっと見、ハイティーンにしか見えない幼い顔立ちの女性だったという。野本は一目見て彼女を気に入り、子持ちであることも気にかけず交際をはじめた。
 だが実際には、野本にはすでに大学生のころから付き合っている恋人がいたのである。この恋人は野本の女性関係のだらしなさをよく知っており、しょっちゅう彼の浮気には悩まされていた。だが今度もどうせすぐに飽きるだろう、そうたかをくくっていたのである。
 しかし計算外のことが起きる。映子が妊娠したのである。そうとわかるや映子は子供たちをさっさと前夫に引渡し、野本との新生活に向けて準備を整えた。映子と結婚するつもりなどなかった野本は動転し、
「籍は絶対に入れない。それでもいいなら生め」
 と言った。当然のことながら、恋人の女性は彼から離れていった。が野本はこの女性を追い、「あいつとは別れるからもう1度やりなおそう」と迫った。
 一方、映子には「おまえは本命の女じゃないからな、勘違いするな」と言いながらも同棲生活をつづけている。
 1991年11月、長女誕生。映子はあいかわらず入籍を彼に迫らず、子供の認知だけを頼んだ。その様子にさすがの野本もほろりとさせられ、彼は映子と結婚する。だがその翌日には、彼は生まれたばかりの赤ん坊と新妻をおいて、日立市に単身赴任するのである。

 勢いで入籍したものの、3日もすると野本は結婚したことを後悔する。そしてさっさと赴任先で新しい恋人を見つけた。相手は同病院に勤務する看護婦であった。野本は妻にも渡さない合鍵をこの看護婦に渡し、自分の身のまわりの世話をさせた。
 そのことを知って映子は激怒し、野本に詰め寄る。しかし野本は、
「彼女は自宅から通いだから、あっちの家に俺が行くわけにいかないだろう。ここしか会う場所がないから仕方ないじゃないか。そんなにうるさく言うなら、おれはいつだって離婚していいんだぞ」
 と突き放すだけだった。
 だがこの看護婦との関係は1年足らずで終わり、映子は第二子を妊娠する。その間も野本はちょくちょくつまみ食いをしていたが、まずまずの平穏な日々であったと言えよう。
 長男の出産後、野本はふたたび転勤する。そして当然のようにそこの看護婦たちに手を出した。中でも彼がお気に入りだったのは人妻の看護婦で、「妻とは別れるから結婚してくれ」と迫ったことも1度や2度ではなかった。しかし彼女の方はこれをラブ・アフェアと承知していたようで、断っている。また、ふたりの関係が病院内で噂になると、あっさり交際を絶ったのも彼女である。しかし野本は諦めきれなかったようで、高価なアクセサリーや服などを贈って彼女をつなぎとめようとした。
 これらの高価なプレゼントは、妻の映子には買ってやったことがないものばかりである。彼は妻には一切金をかけなかった。そればかりか生活費もろくに渡さず女に貢ぐばかりで、彼女は仕方なく、昼は事務員、夜はホステスをして養育費を稼いでいた。
 この頃になると、野本の女癖の悪さは病院内にも知れ渡っていた。副院長に呼び出され、注意を受けたことすらある。しかしそれでも彼の素行はおさまらなかった。野本の相手をする女はいくらでもいたのだ。

 事件の7ヶ月前、野本は24歳の看護婦に目を付けた。彼女にはすでに恋人(同病院に勤務する医師)がいたが、彼が他県へ勤務することが決定すると、これ幸いと寝取ってしまったのである。
「きみが好きだ。女房とは別れるから結婚してくれ」
 この言葉に負けて、彼女が野本との交際を本格的にはじめたのが1994年8月。事件の2ヶ月前である。
 映子はこの看護婦と夫の関係を知り、「ほんとうに離婚する気なの?」と野本を問いつめた。そして映子は直接この看護婦のもとへ単身乗り込み、
「どういうつもりでうちの夫と付き合っているの。こっちには子供も2人いて、守らなきゃならないのよ」と詰めよった。
 看護婦は「わたしは先生と結婚するつもりです」と答え、当然のことながら話し合いは物別れに終わる。
 映子は帰宅するなり、野本に、
「離婚するなら、慰謝料一億円と、養育費を月100万円ちょうだい。それができないなら彼女と今すぐ別れて」
 と告げた。もうひとりで苦労しながら子供を育てるのはまっぴらである。野本はこれを聞いて、映子に殺意を抱いた。
 野本はしばらく家族サーヴィスにつとめ、映子をなだめた。一方、看護婦には「1ヶ月待ってくれ、何もかもかたをつけるから」と言い聞かせた。
 だがそんなごまかしが長く続くはずもない。じきに夫婦喧嘩がはじまり、罵りあいの日々が再開する。
 何度目かの喧嘩で、野本は「もうたくさんだ」と思い、ついに映子を絞殺した。そしてまだがんぜない赤ん坊である2人の実子をも絞殺すると、ビニールに詰め、モノのように海へ投げ捨てた。
 殺害後、野本は看護婦に会い、
「今日は女房がいなくなったことなんかどうでもいいじゃないか。ほら、それより指輪を買ってきたんだよ。クリスマスにはホテルを予約したからね」
 と言った。さらに3日後には、北海道旅行の計画まで立てている。
 映子と赤ん坊の死体が横浜港で発見されたのは、その2日後のことであった。

 1996年2月、野本は無期懲役の判決を受けた。翌年2月、最高裁への上告を取り下げ、刑が確定した。
 

 


吉田勉

 1973年9月4日、大阪。
 豊中市のとあるアパートの一室で、女の死体が発見された。だが死体は血も流しておらず、死後かなりの時間が経過しているというのに、腐臭を漂わせてもいなかった。
 その死体は、屍蝋化していたのである。

 屍蝋とは、死体が長時間、水中や冷暗所などにあった場合、脂肪が分解して脂肪酸となり、かつカルシウムやマグネシウムと結合して石鹸様になったもののことだ。つまり女の形をした石鹸が転がり出てきたわけで、発見者であるアパートの管理人は腰を抜かさんばかりに驚いた。
 この「女体の石鹸」は、6月中旬に「部屋を借りたい」とやって来た男が置いていった荷物の中から発見された。男は荷物を運び入れ、手付金の5000円を払っただけで、あとは姿を見せることはなかった。
 それでも荷物を置いていったのだから、いつか戻るに違いない――そう思っていたが、なしのつぶてのまま2ヶ月半が過ぎた。しょうことなしに管理人が何か手がかりでもないかと荷物を調べると、大きなブリキ製の衣装箱が出てきた。開け口はガムテープできっちり目張りされている。
 ところがガムテープを剥がし、開けてみたところ、中には手足を折り曲げた屍蝋が詰まっていたのである。
 女は下着一枚の姿で、胸に数箇所の刺し傷があった。また衣装箱には防腐剤が入っており、数珠が添えられていた。

 死体発見から9時間後、死体の内縁の夫であった吉田勉が任意同行を求められた際、あっさり犯行を認めたため、事件はスピード解決することになる。
 吉田は当時、また新たな「内縁の妻」と住んでいた。彼が引越しのたび大事そうに抱えて歩くブリキの箱に、彼女は幾度となく「なにが入ってるの?」と訊いたそうだ。しかしそのたび吉田は、
「神聖なものが入っているんだ。けっして手を触れちゃいけない」
 と大真面目に答えていたという。
 吉田は1933年、大阪市に生まれた。散髪屋の次男として生まれ、生活に不自由した形跡はない。子供のころからおっとりして、穏やかなので「甘やかされた坊ちゃん」という印象を人に与えた。だがにこにこして素直に返事をするわりには、人の話をなにも聞いていないのが常だったという。
 工業高校から大学に進学するが、金銭的にルーズで、親に金の無心をしてばかりいた。卒業してもそれは変わらず、今度は「電気店を経営したい」と言って姉の夫に出資を頼む。しかし義兄が一千万にものぼる出資をしたというのに、彼は持ち前の怠惰さで、その店をつぶしてしまうのである。
 だがそんな彼にもとりえはあった。切れ目なく女を見つける才覚である。吉田は漁色家ではなく、女をまめに口説くわけでもないが、どうも女に「ほうっておけない」と感じさせる雰囲気があるらしい。最初の妻には逃げられたものの、じきに次の女の懐へもぐりこむことができた。そして女が彼のだらしなさに愛想をつかすまでは寄生して、放り出されればまた次の女のもとへ行く――その繰り返しであった。


 1969年、吉田はのちに屍蝋となって発見されることになった女と出会う。
 彼女は京都でホステスをしており、吉田の「店を出す」という口車に乗せられて300万円を出資した。当然のようにこの店はつぶれたが、彼女になじられ、債権者に罵られても吉田は平然としたものだった。
 口先では謝り、頭を下げてみせるものの、彼はまったく痛痒を感じない。真に自己中心的な人間は、他人をすべて見下しているから評価など気にもかけないものだが、どうやら吉田はまさにそういったタイプの男であったらしい。
 だが彼女にしてみれば、吉田のそういう態度はまったく理解できないものである。なぜ働こうとしないのか? なぜ人から金を借りて平気でいられるのか? そしてなぜ彼女の金で生活していくことを当然として、出ていこうとしないのか? それらすべてをぶつけても、吉田は「おっとりとした坊ちゃん顔」で受け流すだけである。
 彼女の舌鋒は次第に苛烈なものとなり、さすがの吉田もうんざりしてきた。

 1971年3月、夜の仕事から帰ってきた彼女に罵られ、カッとなった吉田は彼女を出刃で刺し殺す。それも、凶器をさらに果物ナイフに変えて滅多突きにするという容赦ないものであった。
 しかし殺してしまったものの、彼に死体を始末する才覚はない。頼れる相手もない。仕方なく死体をブリキの衣装箱に折りたたんで詰め、持ち歩いたのである。だが新たな女を見つけてもその同棲生活に衣装箱を持ち込み、押入れに昔の女の死体があると知っていてさえ、平気で同衾できた神経はやはり常人のものではないだろう。
 公判中、「死体を持ち歩いてどうする気だったのか」と訊かれた吉田は、
「べつに、どうするということも考えていませんでした」
 とぼんやり答えた。
 判決は懲役15年。控訴を断念したためこのまま確定した。なお、彼にさんざん迷惑をかけられてきた家族は、1人として面会に来ることはなかったという。

 


リチャード・クラフツ

 1986年、コネチカット州。
 「もし私の身に何かあったら、絶対それが事故だなんて思わないでね」
 そう、親友のリタ・ブオナーノに言い残し、パンナム空港のスチュワーデス、ヘレ・クラフツは姿を消した。

 ヘレはデンマーク生まれの39歳。ピーチズ・クリームの肌にブロンドの髪をしたモデル並みの美女で、アメリカ人の夫リチャードと結婚していた。
 11月18日の夜7時、最後のフライトを終えたヘレは同僚たちに手を振って別れた。その日は夜半過ぎからひどい嵐になり、稲妻が走り、雷が鳴り響き、雪が強風に巻き上げられながら降り積もった。積雪は約5インチ。送電線や木の枝がなぎ倒され、人々はたいへんな迷惑をこうむった。
 翌朝19日の午前中、ようやく送電機能が復旧し、リタはヘレに電話をした。
 しかしようやく通じた電話に出たのは、夫のリチャード・クラフツであった。
「妻がどこへ行ったかだって? さあ、知らないね」
 そう言って彼はにべもなく電話を切った。ヘレから、リチャードの不倫が原因で離婚訴訟になったことを聞いていたリタは、いやな予感を感じた。このリチャードの態度。そしてヘレの言い残した言葉。
 数日後、ヘレはパンナム空港で定期的に行なわれる研修会を無断欠席した。さらに前回のフライト報告も入れてはいない。
 心配した友人たちが、何人もクラフツ家に電話をかけてヘレの行方を聞いた。リチャードはあきらかに苛立った口調で、
「あいつは病気のお義母さんを看病しに、デンマークへ帰ってます」
 と答えた。しかし友人がデンマークに電話してみると、母親はぴんぴんしており、ヘレにはここしばらく会っていないということだった。
 ヘレの欠勤はつづき、このまま夫が緊急の休暇願いを出さなければ、会社を首になりかねないというところまできている。しかしリチャードはそれをしようとしなかった。
 11月25日、クラフツ家のベビーシッターをしているマリーが、「3日前、夫婦の寝室のカーペットに、オレンジ大の黒っぽい染みがあったのを見た」とリタに告げた。リチャードはそれを「灯油をこぼした跡だ」と説明したが、マリーは信じなかった。灯油は溶剤としても使うもので、揮発すれば跡など残らないものである。
 地元の警察は、リタや友人たちの訴えを聞いても、ほとんど取りあわなかった。もちろん失踪人の捜索届けが多すぎるせいもあるが、リチャードが道楽でパトロール警官の助手をしていることが一因だということも明らかである。リタは辛抱強く、何度も警察にかけあった。
 
12月2日、ついに警察が重い腰をあげる。刑事がクラフツ家を訪れ、事情聴取すると、リチャードは
「妻はニューヨークに住む、東洋人の恋人と駆け落ちしました」と言った。
 さらに、刑事が彼をポリグラフ(嘘発見器)にかけるが、見事に問題なくパスした。

 リチャードは1937年に、公認会計士の父と、子供用洋品店経営の母のもと、長男として生まれた。子供のころから秘密主義で、奇妙なものを収集する癖があった。学業成績は普通だったが、カレッジは一学期通っただけで中退し、海兵隊に入隊する。
 彼は優秀なパイロットだった。冷静沈着で、勇敢で、危険な任務を恐れない。また彼は女性に対しても凄腕で、一夜の相手には事欠かなかった。その中にはスチュワーデスも多く含まれていた。
 パンナム空港勤務のヘレと彼とが出会ったのは、1969年のことである。ヘレは、リチャードの気難しい短気な性格や、放浪癖や、暴力や精神的虐待にもかかわらず彼から離れられなかった。はじめての妊娠の際には、リチャードに暴力で無理やり堕胎させられている。
 しかし2度目の妊娠の時は、ヘレも強硬だった。ついにリチャードは折れ、ふたりは1975年に結婚する。
 ヘレの友人たちは皆、この結婚には反対だった。彼女はいつも顔に青痣を作っており、人前でも公然と夫に侮辱されていた。リチャードは高給取りだったが、金は自分のためにしか使わず、家計費はすべてヘレに出させていた。家族の車を買ったのも、ヘレの稼ぎである。
 こんな惨めな生活に加え、リチャードがニュージャージーに内縁の妻を囲っていることが発覚する。ついに耐えられなくなったヘレが弁護士に離婚手続きを依頼したのが、失踪する1ヶ月前のことであった。

 刑事はポリグラフの結果を検査官にまわした。検査官はそれを一目見て、
「これほど生理的反応の少ない被験者を見たのは初めてだ」
 と言った。リチャードは極端に情緒的変化の乏しい人間だった。だからこそパイロットとして大成できたのだろうが、この男が犯罪者になった場合、どうなるかは想像に難くなかった。
 警察はぼんやりとした疑いを抱いたまま、のろのろと捜査をつづけた。そんな中、クレジットカードの履歴を調べたところ、彼が奇妙な買い物をたて続けにしていることが明らかになる。
 買い物とは、業務用大型冷蔵庫と、ウッドチッパーであった。
 12月26日、警察は令状を持ってクラフツ家の家宅捜査に踏み入った。
 夫婦の寝室のカーペットにあった染みは、まぎれもなく血液であった。血液型はヘレのものと一致する。また、11月20日にフーサトニック川でトラックとウッドチッパーを見たという目撃者が現れ、川底の捜索がはじまる。
 その甲斐あって、凍てつく川の底深くから、チェーンソーと刃が発見された。製造ナンバーは削り落とされているが、鑑識の結果、リチャードが購入したものと一致することが明らかとなる。刃からは人肉と毛髪、繊維が検出された。
 クラフツの車のトランクからは、粗い木屑とともに、微量の肉片と、毛髪、骨片が採取された。
 さらに川岸一帯からは、59の骨片、指の一部、血液5滴、歯冠2つ、毛髪2660本、人体組織3オンス分、指の爪2枚が回収された。これらは人体のおよそ1000分の1にしか相当しないが、法医学テストにかけるには充分な量である。そしてテストの結果、これらは元ヘレ・クラフツの一部であったことが証明された。
 リチャードは逮捕された。
 彼はヘレを鈍器で殴り殺し、冷凍庫に死体を詰めて凍らせたのち、チェーンソーで切断。さらにウッドチッパーで、幾千の凍った肉片になるまで粉々に砕いたのである。

 長時間におよぶ尋問の間、リチャードはほとんど感情の動きを見せなかったという。担当警部はこう言った。
「あれほど完璧に感情をコントロールできる人間には、お目にかかったことがない。彼ならハリケーンの中をエンジン一機だけで着陸しても、汗ひとつ流さずにいられるだろうよ。――そして、凍った妻をミートチップにすることだって」。
 1989年11月、リチャード・クラフツは50年の懲役を宣告された。
 刑務所内では“有名な”囚人にニックネームが付けられることは珍しくないが、彼もまたその1人となった。
 彼の渾名は、「ミスター・チップス」である。
 

 



「家庭より価値のあるところは何処に?」
「いたるところに!」

――エルヴェ・バカン――

 

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