ヘンリー・リー・ルーカス
おお、これまで人間の悪行について
平衝を失った裁決を許したことのない復讐の女神よ!
人道にそむいた報復ゆえに その罪を責めさせた女神よ、
以前あなたの領土であったこの地に
わたしはあなたを塵の中から呼びいだそう!
――バイロン『ハロルド卿の巡遊』より
ヘンリー・リー・ルーカスは1936年8月16日に、その望まれない生を受けた。
母親のヴァイオラはありとあらゆる変態行為をよろこんで請け負うことで有名な売春婦で、12歳のときからこの稼業をやっており、ルーカスは彼女にとって11番目の子であった。
彼女は非常に商売熱心な女で、ルーカスが生まれる直前まで「妊婦の腹を蹴りとばしてみたいサド男」を募集していたし、新たな子供が生まれて、それがもし女の子だったら母娘で共稼ぎするつもりで、
「娘が生まれたらよろしくね。ふたりでいっぱいサーヴィスするわ」
などと顔見知りにふれまわっていた。
だが期待に反して、子供は男の子だった。
父が彼につけた名はヘンリー。しかしヴァイオラはその子を「ヘンリエッタ」と呼び、女児用の産着を着せた。
その子は男の子だ、よせよ、と諌める夫に対して、ヴァイオラはこう吐き捨てた。
「役立たずの男はあんただけで充分だよ」と。
彼女の夫はアル中で、泥酔中に徐行中の貨車に轢かれて両足を切断されていた。ルーカスの言によると「一生尻をついて歩きまわっていた」そうで、元鉄道員だったが、その時点では密造酒を作ったり、ミンクの皮はぎや、鉛筆売りでなんとか金を得ていた。だが密造酒の半分以上は自分で飲んでしまったし、蒸留器の番はほとんどヘンリーにやらせていた。おかげで10歳にならないうちから、ヘンリーは酒の味を覚えた。
ヴァイオラは赤ん坊の頃からルーカスを虐待した。意味もなく殴りつけ、夜泣きをすれば床に叩きつけ、焼けた針を柔らかな肌に突き刺した。
彼女は今までの子供はすべて施設に預けるか、売り飛ばすかしていたが、なぜかヘンリーだけは育てる気になったらしい。ことあるごとにヴァイオラは、
「おまえは、死ぬまであたしの奴隷なんだ」
とルーカスを嘲笑った。
彼女が度を越した異常性格者であったことは明らかである。
ヘンリー少年のもっとも初期の記憶は、客と行為を終えたヴァイオラが突然ショットガンを持ち出して、その男の脚を撃ち抜いた、というものである。
「ベッドから男が悲鳴をあげながら転がり落ちてきて……俺の全身にも血がはねかかった。おふくろは血まみれで、ゲラゲラ笑ってたっけ」。
ヴァイオラはロリコンの傾向がある客をとって、ルーカスに女の子の格好をさせたまま、その光景を見ているよう強制した。ルーカスは髪を伸ばしてカールさせられ、ドレスを着せられて学校へ行かされた。ただし、足は裸足のままだった。
またヴァイオラは夫に向かっても、
「せめて足でもありゃ、あんたにも女装させて客をとってやれるんだが」
といまいましそうに言っていたという。夫はぶつぶつ言いながらも、表立って反論することはなかった。
彼はマゾヒストで、足の切断部分をヴァイオラに踏みつけてもらうのが大のお気に入りだった。ヴァイオラもまた、好きなときに好きなだけ殴りつけられる相手を欲していた。夫とルーカスは彼女の気分によって、意味もなくつねに殴られた。
「どうしてそんなにぶつの、っておふくろに訊いたことがあったよ。そしたらあの女『おまえの脳味噌を床にぶちまけてみたいのさ』って言いやがった」
だがそんなルーカスの人生で、救いの手をさしのべてくれた人が3人いる。
そのうちの2人は小学校教師で、彼の家庭環境に同情し、ルーカスの髪を男の子らしくカットしてくれ、ズボンを買ってくれた。また生まれてはじめて彼に、「あたたかい食事」というものをふるまった人物でもあった。ルーカスは生まれてからというものずっと慢性の栄養失調で、父親といっしょに残飯をあさって飢えをしのぐことも珍しくなかった。
ヴァイオラはこの2人の出現に激怒し、パニック状態に陥った。
彼女の折檻は前にも増して苛烈なものとなった。ある日、ストーブにくべる薪を取りにいけと命じられたルーカスは、ちょうど靴ヒモを結んでいたところだったので「ちょっと待って」と言った。
それを聞くやいなや、ヴァイオラは少年の頭を2×4の角材で殴りつけた。一撃でルーカスは昏倒したが、激昂した彼女はなおも我が子を殴りつづけた。
頭皮が半分ほど剥け、頭蓋骨が割れた。ヴァイオラは彼を戸外に叩きだすと、酔っ払って寝てしまった。
それから3日以上彼は昏睡し、こわくなったヴァイオラのボーイフレンドがついに彼を病院に運んだ。ヴァイオラは医師に「梯子から落ちた」と説明した。
この負傷以来、しばしばルーカスは癲癇や失神の発作を起こすようになる。
そんなある日、3人目の救いの手があらわれた。ルーカスが8歳になったとき、雪道を裸足で歩く少年に仰天したトラック運転手が、彼を助手席に乗せ、靴と靴下を買ってくれたのだ。
ルーカスは礼を言って彼と別れた。
ヴァイオラは靴をはいて帰ってきた息子を見て激怒した。
「靴なんか買ってもらって、この馬鹿。なんで現金をもらってこないんだよ」
その日、ルーカスは気絶するまで殴られた。
数日後、その運転手が妻と共にルーカス家を訪ねてきた。子供がいないので、よかったらルーカスを養子に欲しい、というのである。しかしヴァイオラは、
「てめえらの股ぐらが役たたずだからって、あたしになんの関係があるのさ。おばちゃん、ほら見な、これがまともな女のもんってやつさ」
そう言ってスカートをめくりあげ、下着をおろして見せた。
夫婦は蒼白になって逃げ帰った。後年ヘンリーはこう語る。
「おふくろは、完全なきちがいだった」。
当時ヘンリーと、唯一親交があった腹違いの兄がいた。彼はヴァイオラの目を盗んで、この兄と遊んだ。
夏休み中のことだった。兄が森で、ナイフで枝を切り払って遊んでいると、偶然そこにルーカスが顔を出した。刃先がルーカスの左眼球をかすめ、血がほとばしった。ふたりは母親にこれが知れるのを恐れ、河の水で傷を洗って応急処置を施した。
顔に布をあてたヘンリーを見て、ヴァイオラは「間抜け」と嘲笑い、傷口を箒の柄で突いた。ふたたび出血がはじまった。それからもことあるごとに、彼女は息子の傷口をつついて愉しんだ。
傷はたちまち化膿した。顔面の左半分がふくれあがり、ぼんやりとしかものが見えなくなった。
夏休みが終わって登校したルーカスを見て、彼に好意的な2人の教師が愕然とし、病院へ連れていった。もはや眼球はかなり危険な状態だった。
だが不幸はここで終わらなかった。
その教師のうちひとりの授業中、いたずらをしている少年がいた。注意したが、その子はいたずらをやめない。教師が少年をぶとうと定規を振りあげた。しかし少年が頭を下げてこれをかわしたため、定規は真後ろにいたルーカスの、ちょうど左目を直撃した。
すさまじい悲鳴があがった。眼球が破裂したのだ。
学校から連絡を受けたヴァイオラは喜びいさんで、この教師をなじり、もうひとりの教師と共に、二度とルーカスに近づけられないよう、校長に承諾をとりつけた。
ヴァイオラは学校からの補償金で、いちばん安い義眼を彼に買い与え、残りは飲み代に使ってしまった。
以来ずっと、ルーカスは義眼をはめている。
ルーカスには、ペットがいた。ラバである。ルーカスはこのラバをとても可愛がり、寝食をともにした。
彼がラバと楽しげにたわむれているのを見たヴァイオラは、やにわにショットガンでラバを撃ち殺した。それから母親は、これでまたラバの死体を片づけるのに金がかかる、と言って彼を殴った。
ヘンリー・リー・ルーカスには誰に愛されることも、なにものかを愛することも許されなかった。
そんな折、父親が死んだ。
その夜彼はいつものように、妻が客と変態行為に耽るのを見物させられていた。彼は吐き気をもよおすまで我慢していたが、やがて雪の降りしきる戸外に出ていった。数日後、彼は急性肺炎であっけなく死んだ。
ルーカスは14歳。すでにもう、すべてを失っていた。
この当時から、ルーカスの奇行がはじまる。
ルーカスは学校に行くのをやめ、兄と近親相姦の同性愛行為にふけった。また、ペーター・キュルテンがしたように、動物の首をかき切りながら獣姦を行なった。
もう彼は家に帰るのはごめんだと思っていた。街へ行っては金や食べ物を盗み、森に住みついた。
しかし兄は年齢を偽って海軍に入隊し、この悲惨な生活からの逃亡に成功する。ルーカスもあとを追おうとしたが、左眼球のない少年を軍が受け入れるはずもなかった。
「ほれ見な。あんたみたいなクズをひきとってくれるとこなんかあるもんか。おまえは一生あたしの奴隷として生きて、くたばるんだよ」
ヴァイオラは勝ちほこって狂ったように笑った。
ヘンリーは当時15歳になっていた。ある日帰宅してみると、母親が客と重度のスカトロ行為の真っ最中だった。気分がわるくなり、彼はむしゃくしゃしたまま外へ出た。するとバス停でバスを待っている17歳の少女がいたので、彼はこれをつかまえ、レイプして絞殺した。これが彼の人生において初めての殺人である。
彼はしばらく、この件でいつ捕まるかとびくびくしながら過ごしていたが、案に相違して、この真犯人が知れるのは、33年後に本人の自供をもってしてであった。
同年、ルーカスは住居侵入の罪ではじめて少年院送りになる。だがヴァイオラの折檻に比べれば、鑑別所の扱いははるかにマシだった。この少年院こそすぐ出院になったものの、23歳になるまで彼は、ほとんど服役と出所を繰りかえすこととなる。
23歳で出所したルーカスは、義姉のもとに身を寄せ、そこで恋に落ちた。ふたりは結婚を約束し、ルーカスは生まれてはじめてまともに働こうと、職探しに奔走した。しかしそんな彼を、ヴァイオラは見つけ出した。
「おまえが実の兄とホモってたことはとっくに承知さ。いつから宗旨替えしたんだい。それもこんな不細工な淫売相手に、気でも違ったのかい」
人目もはばからずわめくヴァイオラに、ルーカスは、
「彼女の前でそんな下品なことを言うな」と言った。すると彼女は、
「なんだよ、お上品ぶりやがって。あたしのこいつでメシを食わせてもらってたくせに」
と、居酒屋のテーブルに仁王立ちになり、下着をおろして股をひろげた。
ルーカスの恋人は顔色を変えて立ち去り、二度と戻ってこなかった。
意気消沈するルーカスに、帰途の道すがらも、ヴァイオラは罵声を浴びせつづけた。
「あんな売女がいなくなったからってどうだってのさ。いいかい、あんたは死ぬまであたしのものなんだ。クズはクズらしく、クズのまんま死ぬのさ」
ルーカスは今までにない激しい頭痛の発作を感じ、うずくまった。もう母親の金切り声を聞くのは沢山だった。
彼は母親の喉を、ナイフでなめらかに切り裂いた。生まれてこのかたずっと聞かされていた金切り声が、ゴボゴボという空気の漏れるだけの音になった。彼は安心したが、充分ではなかった。もはやあの声は聞きたくなかったので、傷の裂け目に手を突っ込み、頚骨を引きずりだそうとした。
70%ほど頚骨が露出したところでやめ、ルーカスは母親を置きざりにして姿をくらました。14時間後、なりゆきを心配した義姉が様子を見に来て、瀕死のヴァイオラを発見する。が、もう手遅れだった。
ルーカスは第二級謀殺で、40年の刑を宣告された。
彼ははじめミシガン刑務所に護送されたが、自殺を繰りかえし、頭の中で「母親の声が聞こえる」と言って苦悩した。ルーカスはイオニア州立病院へ移送され、「典型的な、萎縮させられた人間」というレッテルを貼られる。「自信、独立心、自尊心、意志力のすべてがいちじるしく不足した人間」であると。
ルーカスは釈放されることを一度も望まなかった。
だが仮釈放審査会は彼を仮釈放にした(当時、囚人ひとりにつき、年間2万ドル近くの費用がかかっていたせいもある)。
「俺はまだ外に出て行けるような人間じゃない。約束しよう、出るやいなや絶対誰かを殺すぜ」
とルーカスは言った。だが審査会は彼を釈放した。
刑務所の門を出て数ブロックのところで、ルーカスはひとりの女性を絞殺し、金品を奪って去った。
ヘンリー・リー・ルーカスの殺人行脚が本格的にはじまった。彼はまだ、34歳であった。
ルーカスはのちにこう述べている。
「人生のすべてがいやでたまらなかった。あらゆる人間が憎かった。なにもかもだ。俺は敵意の塊だった。好きなものなんか何ひとつなかった」
彼は何度か女性と交渉を持ったが、あれほど嫌い、憎んでいたにも関わらず彼の選んだ女はいつもどこかヴァイオラに似ていた。そして結局その「ヴァイオラ的」なところに耐えられず、逃げ出す――その繰りかえしだった。
そんな生活の中、彼はのちの相棒、オーティス・ツールと出会う。彼は同性愛者だったが、ふたりは性的な恋人にはならなかった。彼らは殺人行為で「相棒」となった。
「おれたちはありとあらゆる方法を試した。毒殺以外は」
と、のちにルーカスは語った。
「切り刻んだし、吊るしたし、轢き殺したし、刺して、殴って……溺死もさせたし、あとえーと、磔にしたこともあったっけ。魚みたいにおろして切り身にもしてやったよ。焼き殺したし、撃ち殺したし、あともちろん絞め殺したしね」
オーティスに比べれば、ルーカスは実に淡々としたものだった。
相棒オーティスのお気に入りは犠牲者のアキレス腱を切り、両腕の関節をはずしてから野に放ち、これを撃ち殺すか轢き殺す、というものだった。ルーカスが「家のドアを開け閉めするように」簡単に殺人を犯すのに対し、オーティスの行為はいかにも異常者らしい。彼は被害者の舌を切り取ってそれを保存し、弄ぶのが好きだった。
だが「怪物」キュルテンにも生涯唯一愛する女がいたように、ルーカスにもまたこの世でただ一人の恋人が現われる。
オーティスの姪、フリーダである。彼女は出会った当時9歳だったが、じきにルーカスの内縁の妻となった。彼女は3年ほど鑑別所に叩きこまれたが、ふたりで脱走させ、殺人行脚の度に加わらせた。
ルーカスはフリーダを、愛をこめて「ベッキー」と呼んだ。
ベッキーは「なあに、パパ」と返事し、「あたしはパパの一生の恋人よ」と言った。
だが彼らの夫婦生活はままごとの域を出ないもので、ルーカスは彼女に可愛い服を着せてやり、髪をとかし、跪いてペディキュアを塗ってやったりして喜んでいたという。
ルーカスにとって愛とは、セックスとまったく無縁なものでなければならなかった。セックスがしたいだけなら、相手はいくらでもいる。ただ外へ出て行きさえすればいいのだ。
衝動にかられると彼は外へ行って気が済むまで犯し、そして殺し、彼女のもとへ帰った。もちろんベッキーはつねに彼の味方で、彼のすべてを許した。
ルーカスとオーティス、ベッキーの三人は家族のように暮らしながら、100件にものぼる殺人を犯しつつ南カリフォルニアまで下る。そこでオーティスは「ふたりで幸せになりな」と言って別れた。
ルーカスはベッキーといられるならなんでもする覚悟だった。はじめ、住み込みの家具職人の仕事をすすめられてふたりはテキサスへ向かった。だが流れ者のふたりを、土地の人間は信用しなかった。
仕方なくルーカスとベッキーはファンダメンタリストの説教師のもとに身を寄せることになる。
そこは「祈りの家」と呼ばれる、信徒だけの村だった。
ルーカスにとって、そこは我慢ならない場所だった。まず酒が飲めない。信仰心とやらもぴんと来ないものだった。しかしベッキーはそこにすぐ馴染んだ。彼女はすぐさま信仰に染まり、愛する「パパ」に、説教をして真人間になれと諭した。
悶々とするルーカスのもとに、相棒オーティスが戻ってきた。ルーカスがベッキーの変わりようを訴えると、彼は笑って「すぐ飽きるさ」と言った。ふたりはベッキーを残し、ふたたび殺人の旅に出た。
しばらくして戻ってみると、もうフリーダは「彼の天使・ベッキー」ではなくなっていた。
ルーカスは彼女を連れ戻すつもりだったが、彼女は「祈りの家」を離れたくないと言いはり、彼にとっては皆目意味のわからない、神だの原罪だのという言葉をふりかざした。
ルーカスはひたすらおろおろと狼狽し、ベッキーは自分の言葉に耳を貸さない彼に逆上して、その頬を殴った。
それからあとは、ほとんど条件反射的に行なわれた。
ルーカスはこの世でもっとも愛するものの喉を、なかば無意識に切り裂いた。
彼はしばらく呆然としていたが、やがて自分のやったことに気づき、その場に泣きくずれた。まるで母に眼前でラバを撃ち殺されたあの日のように。
ルーカスは相棒と一緒に彼女をばらばらにして埋めたが、その間ずっと、
「ごめんよ、ベッキー。ああ、愛していたのに。どうしてこんなことになっちまうんだろう」
と言って啜り泣いていたという。
また別の証言によると、オーティスはベッキーの死体を犯して、ぞの一部を食ったとも言われている――が、それが真実かどうかはわからない。ルーカスがそれを黙って見ていたという光景は、容易に想像できると同時に、まったくあり得ないことのようにも思えるからだ。
が、ともかくルーカスはそれ以来、完全に「糸が切れて」しまった。
彼はベッキーがなついていたグラニー・リッチを惨殺し、死体をレイプし、下水へ放り込んだ。
この殺人について、ルーカスはもはや証拠や痕跡を隠すことをまったくしなかった。嫌疑はすぐにルーカスにかけられ、彼は銃器不法所持であっさり逮捕された。
ルーカスは生育環境によって自己感というものがほとんど存在しない人間だった。自供をとられている間、彼は相手の望む答えを本能的に察知し、くるくると供述を変えた。
捜査官はいままでの未解決事件のほとんどを彼に押しかぶせることができるかどうか、試した。彼は瞬時にそれを察知し、相手に気に入られるよう供述した。彼は殻のない蝸牛のような人間だった。
「相手(母親)の気に添うようにしなければ、生き延びられない」という環境で育ったルーカスにとって、虚偽の証言はお手のもの――というより、身を守るすべだった。
この膨大な虚偽の証言のおかげで彼は「360人殺しのルーカス」という渾名をこうむる。
もっとも、彼がほんとうにそれだけの人数を殺していない、という保証もない。立証できた人数はあまりに少なすぎた。
ただルーカスが自分の殺人に対して持っている記憶は、抜群に正確であったという。この供述により、テキサスのハイウェイで起こった一連の殺人はほぼ彼の犯行であるとの裏づけが取れた。
捜査員は彼のどの証言が嘘で、どれが真実なのか踊らされ続けた。中には彼があまりにも事細かに語るのでほとんど担当捜査官が信用しかけた件でも、追って調べてみたところ被害者が実は故郷で健在だったということすらあった。
またルーカスは自分の犯した殺人のいくつかは、フロリダ沼地にある殺人結社「死の腕」の依頼によるものだ、と語ったが、これは現在ではほとんど信用されていない。
ルーカスは、自分の中にどうにもならない闇があることを誰よりも承知していた。これはカール・パンズラムにも共通する感覚である。
「他人といると、緊張しちゃって落ちつかないんだ。ずっと人といるのに馴れてなかったからかな。ほんと、ずっと一人だったからね――話すのも苦手だな。医者ってさ、俺のこと、どこもおかしくないっていう奴、けっこういたな。でも俺みたいな低脳にだってわかる。俺はおかしいって、わかってる。だってそうじゃなかったら、あんなに殺しばっかりするはずないもんな。でも仕方ないのさ。なにかが俺にそうさせるんだ。でもそれって治療できないんだろ? だったら、しょうがないじゃないか」
心理学者ノエル・ジョリスによると彼は「感情面で、また、社会的にも10歳未満で死んだ人間」なのだそうだ。脳は長年の虐待で重大な障害を負っていたし、精神的にも性的にもずっと、正常な人間として育成することを阻まれてきた。
彼が受けた判決は、殺人罪11件、死刑1件、終身刑6件、懲役75年を2件、同60年を1件である。
ヘンリー・リー・ルーカスは今、監房の中ではじめて宗教に目覚め、カトリックとなって、鉄格子越しに今までの自身が起こした捜査、解決に協力している。この行為が『羊たちの沈黙』のドクター・レクターのモデルになったことはもはや言うまでもないだろう。(だが原作のハニバル・レクターは「小柄で黒髪」であることからして、食人事件で有名な佐川一政をもモデルにしていると考えられる)。
逮捕後から判決後にかけて臨床的に調べてみたところ、ルーカスは長年の虐待により脳の神経系統に広範囲の損傷を受けており、前頭葉と側頭葉、脳下部にも傷が認められた。また大脳にも異常が見受けられた。
血液中からは、健常人の数値をはるかに超えるカドミウムと鉛が検出。また幼い頃からまともな食事を与えられなかったがゆえの慢性の栄養失調が、脳組織の発育をずっと妨げてきたに違いなかった。
彼が今まで毎日摂取してきたものはといえば、アルコールとドラッグとニコチンくらいのもので、血糖値は異様に高く、慢性のビタミン不足であり、それらは脳神経を覿面に蝕んだ。
この独房の中で、彼がいくらかの人間的発達を見せたとしても、それが完全となることはないだろう。彼にはもはや、他人への感情移入という機能はまったく失われており、回復する見込みはない。
彼は心理学者に向かって、こう述べている。
「人間? うん、それは俺にとって何でもなかった。ただの、白紙だった」。