LONELY HEARTS CLUB


 

20世紀なかばのアメリカでは、恋人・結婚相手を求める男女の仲介をするクラブを
俗に「ロンリー・ハーツ・クラブ」と呼んだ。
雑誌や新聞に広告を載せ、それを見て申し込んだ男女は写真同封で文通から始める、と
いうわけである。やっていることは今とさして変わらない。
だが心の隙間というのは得てして邪心につけこまれる基ともなる。
ここに紹介する殺人者は、主に金目当てで他人の心を弄び、ついには命まで奪った者たちである。

 


◆ベラ・キス

 

 1916年、ハンガリーの首都からかなり離れた田舎町で起こった事件である。
 この町に、都会から15歳ほども若い細君を連れて移り住んできた40過ぎの男がいた。彼はかなり手広く商売をやっているブリキ工場の持ち主とかで、羽振りもよく、大きな屋敷を借りていた。夫婦はともに心霊学マニアで、なにやら怪しげな書物や水晶玉などを集めているようだが、仲はいいようだし近所に迷惑をかけるわけでもないので、人々は「ただの物好き」と思いながら遠巻きにそれを見ていた。
 しかし亭主が週に1〜2回ばかり仕事で家をあけるたび、若い美人の細君が都会から美青年の画家を呼び寄せては森でピクニックやら、散策しているというのはすぐにゴシップとなって狭い町に知れ渡った。田舎ではなにも隠しておけない。いまも昔も、変わらない真理だ。

 夫婦が越してきて7ヶ月あまりが過ぎたころ、キスが仕事で留守にしている間に夫人が置手紙を残して蒸発してしまった。おそらく例の画家と駆け落ちしたに違いなかったが、このゴシップもまたたく間に近隣に知れ渡った。これを期に、キスは人ぎらいになったようで、ほとんど人前に姿を見せなくなった。
 家にこもりきりになったキスを訪れるのは、日雇いの家政婦くらいのものである。この婆さんのもとへ、自然とゴシップ好きな農民たちが集まり、こう訊くことになる。
「旦那はどうだい、どんな様子だった?」
「しょげちゃって、見ちゃいられないさ。逃げた奥さんの服だの靴だの、後生大事に部屋に飾ってさ。でもね、その部屋の奥にね――これは内緒だよ――向こうに隠し部屋がひとつあって、鍵穴から覗いて見たら、大きなブリキの樽が5つも置いてあったよ」
「へえ、樽が5つもねえ」
 この話もすぐに町中へ広まった。当時の山間には密造酒を作っている者は少なからずいたので、彼もきっと、きつい自家製の酒を買い入れてきて自棄酒を夜毎あおっているのだろう、ということになった。
 だがこの噂を聞きつけたキス本人は笑って、
「密造酒なんてとんでもない。あれは揮発油ですよ。知り合いの石油屋が破産しまして、法外に安い値だったから引き取ったんですが、実のところ少々もてあましているんです」
 これでともかく、ゴシップはいったんは鎮火した。が、またじきに新たな醜聞がキスのまわりを飛びかう。
 キスが都会の近くで、豪勢な身なりをした女と腕を組んで歩いているのを見たという者がいたのである。が、それっきりで、その女を2度とキスと一緒に見かけた者はない。そしてすぐに「また別の女と歩いていた」という噂もたった。しかしキスはいまや女房に去られた男やもめなのだ。誰と付き合おうが、悪いことはない。人々はにやにや笑って噂しながらも、決して彼を咎めているわけではなかった。


 そうこうしているうち、世界大戦が勃発し、ハンガリーはドイツと組んで連合軍となる。
 キスも召集されたが、彼は出征が決まると同時に町の鍛冶屋に頼んで、窓という窓に鉄柵を取りつけていった。本人いわく泥棒よけの用心だそうである。
 が、ここまで用心した苦労もむくわれず、4ヶ月後、キスの戦死通知が町庁へ届いた。
 町の戦死者の石碑にベラ・キスの名が刻まれ、町の人々は深い哀悼の意をあらわした。
 ちょうど同時期、町から首都へ向かう森で若い女の死体が二体発見された。また枯れ井戸からも女の死体が上がった。だが頃は戦時中である。警察はできうる限りの捜査をしたが、各地で出されている失踪届を一連の事件として考えることはまだ、なかった。


 ハンガリーは1916年、もう旗色悪く、陸軍から石油の徴発令が発せられた。田舎の隅々にまで徴発令は行き渡り、町民のひとりがふと思い出した。
「そういえば、戦死したキスの家に揮発油が樽であったじゃないか。持ち主はもう死んでるんだし、5樽もあればかなりの足しになるぞ」
 さっそく鉄柵を壊し、徴発員はキス宅へ入りこんだ。かつて家政婦の婆さんが言った部屋へ入ってきると、樽は5つではなく、7つであった。徴発員は聞いていたより2樽も多いので大喜びであった。しかしどうも揮発油であるか密造ブランディであるか定かでないということで樽の横腹に穴をあけ、舐めてみた。すると揮発油でもブランディでもないが、どうやらアルコールのようだ。とりあえず二人がかりで樽を動かし、開けてみた。
 中には手足を縛られた全裸の女の死体が入っていた。
 ひと樽にひとりずつ、体をふたつ折りにしてまるくなって入っている。
 空気が完全に遮断されていたため、中はさながら缶詰の肉のような保存状態であった。
 仰天した徴発員は警察へ連絡し、ただちに捜査がはじまった。結果、わかったことは、キスはいわゆる「ロンリー・ハーツ・クラブ」経由で新聞へ出会いを求める広告を出し、同時に恋占いの大家としても広告を出していた。私書箱には80通近くの彼宛の手紙が未開封のまま溜まっていた。どうやらこの広告で女をおびき寄せては絞め殺し、金品や宝石を奪うというのが彼の手口だったらしい。
 また庭からは10体、森を中心とする近隣の土地からは16体、計26体の死体が掘り出された。また庭から発見された死体のひとつは、画家と駆け落ちしたはずの例の細君であった。


 さて犯人ベラ・キスはといえば名誉の戦死をとげたあとである。これ幸いとばかり警察はばたばたと事件を片づけ、これほどの大事件にもかかわらず、ほとんど揉み消しも同然のやり口で後始末をした。
 だが一応の確認としてキスが死の間際収容された病院にひとりの警官が派遣され、彼の死を確認しに赴いた。ところがそこで息をひきとっていた「ベラ・キス」は二十歳やそこらの若者で、40過ぎのキスとはまるで別人であった。彼は野戦病院の混乱とどさくさにまぎれ、死にかけた若者に自分の名を押し付けて彼の名を盗み、逃げおおせたのである。
 ベラ・キスの行方は以後、杳として知れない。

 


◆ベラ・ガネス

 

 1903〜1908年、アメリカ各地の新聞個人欄に以下のような広告文が載せられた。
「求縁――インディアナ州ラ・ポーテにおいて、収穫多き大農場を経営する美貌の未亡人。教養あり、富裕な
男性の方との交際求む。日時を予約して来て下さる方、当方も真剣に考慮いたします」
 つまり金のある美しい未亡人が、再婚相手を募集しています、というわけである。こんなうまい話はそうそうないだろう、と疑えばいくらでも疑えるような話だ。
 だが、美しい未亡人と財産を持ち寄って、インディアナの広い青空のもと田園生活を送る……というのは、少しばかり人生や仕事に疲れた中年男たちの胸をときめかすには充分であった。
 この「美貌の未亡人」のもとには多くの手紙が届いた。そしてその中から、親類縁者のより少ない男性を選んでこんな返事が送られることになる。
「あなたこそわたしが探していた理想の男性です。あなたは今すぐこちらにいらして、わたしのものになるより他ないことを、わたし、誰よりもよく存じあげております。
 あなたがここへいらっしゃれば、王様のように幸福になれますわ。そして王をお迎えする女王の喜びはどんなに深く大きいことでしょう。わたしの農園はきっとあなたのお気に召します。屋敷はふたつの湖の間に、それは美しい緑に囲まれて建っておりますのよ。ああ、わたくしあなたのお名前を小声で呟いてみては、胸が高鳴るのを押さえきれません。早くいらしてこの鼓動を鎮めて下さい。あなたの花嫁より」
 相手によって多少ディテールは変わるが、このような熱烈な文章が一面識もない相手に対して綴られてくるのだ。おかしい、と思ってこの時点で文通を打ち切る者もいただろうが、それはそれ、ガネス夫人は深追いはしない。なにしろ「大農場」の「美貌の未亡人」のもとには手紙が絶えることはなかったのだから。
 しかしこのラブレターには、重要なP.S(追伸)が必ず付記されていた。
 以下のようなものである。
「けして疑うわけではありませんけれど、あなたもこちらに見合う財産がおありの証拠として、おいでの時、3000ドルの現金をお持ち下さい。あまり失礼な言い分なので迷ったのですけれど……お気を悪くなさらないでね。なにしろ女ひとりなものですから、財産目当ての一文なしの男性などに付けこまれてはと、つい疑心暗鬼に陥ってしまいますの。それと、大金ですから大事をとって上着の中に縫いこんでいらっしゃいましな。あたしお婆ちゃんですから、細かいところに気がつきますのよ。おかしいでしょう? ではお目にかかれる日を夢みて――」
 先にあったような熱烈な文章に目がくらむような男であれば、この追伸すらも
「なるほど、農場を経営しているだけあってしっかり者だ」
 と映るらしい。
 こうして多くの男性が、アメリカ全土の各地からラ・ポーテに集まった。
 そしてガネス夫人の農園から帰り得た者はひとりもなかった。


 しかし1908年、帰らぬ兄を探して農場に手紙で問いあわせた男がいた。彼の兄はガネス夫人の「王様」となるべく家を出たきり、行方知れずになってしまったのだ。
 ガネス夫人はさも取り乱した様子で返信を書いた。
「まあ、なんてことでしょう! お帰りになる最後の一瞬まで朗らかでいらしたあの方が……。あの方のためなら、わたし地の果てまでも探しに行きますわ」
 だが実際は庭の果てまで行けば十分だった。彼はほかの「王様」たちと共に、斧で頭を割られてそこに埋められていた。
 のちに警察が農場の敷地内から掘り出した完態の死体は37体である。夫人が身寄りの少ない男をあらかじめ選んだだけあって、多くは引き取り手もなく、身元の判別のつかないものも少なくなかった。
 だが共犯・従犯として逮捕された小作人の証言によれば、ガネス夫人は5年間この職業的殺人を休みなく続け、そのペースはだいたい1ヶ月に3人、といったところであったという。5年間で一月3人というと、総計180人ということになる。また夫人はラ・ポーテに来る前も殺人を犯しているとみられており、それも累計すると200人以上である。この数字は誇張されたものだと考えられているが、話半分としても100人、最低でも80人は犠牲になったとみて間違いはないだろう。
 手口は情交後、クロロフォルムを嗅がせて眠りこんだところを、西瓜でも割るように頭を斧で割る、というものであった。
 ベラ・ガネスは1859年、ノルウェーに生まれた。17歳でアメリカに渡り、結婚。しかし夫が死んだ為(死因は不明だが、不審死であったらしい)、彼女は保険金で下宿屋をひらいた。しかし火災によってこれが焼け、ふたたび火災保険が彼女のもとに下りた。
 さらにパン屋をひらくが、これも火事で丸焼けになる。保険会社は疑いを持ちながらもしぶしぶ金を払った。ただし、今度はよその土地で店を持ってくれ、と言い添えるのは忘れなかった。
 彼女はラ・ポーテに移り住み、そこで再婚してガネス夫人となった。ところが夫は結婚後まもなくして、「棚から斧が転がり落ちてきて」頭を割られて死んだ。またも保険金が転がりこんだ。が、以来彼女はもっと手っとり早い方法を考えついた。――すなわち、「求縁」の新聞広告を載せることである。


 しかし警察は彼女から自白をとることはついにできなかった。証拠固めをしているまさにその最中、ガネス農園は焼け落ち、家はもちろん、夫人も3人の子供も焼死してしまったのである。
 放火殺人罪で逮捕されたのは前述した小作人である。彼は、
「わたしは知りすぎてしまったんです。先に殺さなきゃ、わたしが奥様に殺されていたでしょう」と語った。
 彼女のこの連続殺人の動機については、のちに夫人の妹が法廷に現れて、
「姉は金のためにあんなことをしていたのではありません。全世界の、男尊女卑の男どもに対する報復としてです!」
 と大見得をきったそうだが、実際のところ、動機の大部分はセックスによるところが大きかったようだ。これはベラ・キスも同様であったし、このあとに書くことになる殺人者たちにおいても同様である。
 だがともかく金のためだけでなかったのは確かなようで、夫人はこの方法によって手に入れた金の大部分をシカゴの孤児院へ寄付している。

 


◆アンリ・デジレ・ランドリュー

 

 1910年、アンリ・デジレ・ランドリューという禿げ頭のフランス人が、新聞に「妻求む」の個人広告を出した。これに応募した未亡人から2万フランを騙し取り、懲役3年の刑となったのが、彼の人生の転機への契機と言えよう。
 ランドリューが殺人者となったのは、第一次世界大戦の兵役と、除隊後の母の死であると想像されているが、それ以外のことはほとんど不明である。ただ不健康な家庭環境で育ったという記録は一切ない。
 1915年1月、彼と交際をはじめた39歳の未亡人が行方不明となった。
 同年6月、ホテルを所有する裕福な未亡人が同じく失踪。
 同年8月、51歳の未亡人、失踪。
 同年12月、54歳の未亡人失踪。また45歳の未亡人失踪。
 1917年4月、19歳の女中失踪。この若い女はなんらの財産を持っていなかったので、最初は情婦として拾われたものの、のちには邪魔になって殺された、とみられている。
 同年4月、36歳の未亡人失踪。
 同年9月、ビュイソンという名の未亡人失踪。
 同年11月、夫と別居中の夫人失踪。
 1918年1月、下宿屋を経営する未亡人失踪。
 しかしここでビュイソン夫人の妹が警察に手紙を書いたことから捜査がはじまり、一連の事件に登場する「色男」が、同一人物だということが判明していくのである。


 ランドリューが著名な殺人者であるのは、彼が大量殺人者だからではない。彼は髭をふさふさと生やした禿げの小男で、風采のあがらぬ男と形容しても過言ではない――だが、彼は警察の尋問に対して恐るべきタフさを見せたし、また写真しか見ることのできない後世の我々にはわからないほどのセックス・アピールの持ち主でもあったようだ。
 彼の被害者のひとりはこんな言葉を遺している。
「彼がひざまずいて、わたしの目をじっと見つめると――ふっと気が遠くなったわ。麻痺したみたいに、わたしもう、動けないの」
 これはロシア宮廷内でラスプーチンに見つめられた奴婢のエピソードにも少し似かよっている。
 ランドリューは逮捕後、完全なる冷静さをもってすべてを否認した。声を荒げることもない。泣きごとも言わない、哀願もしない。感情の波すら見せず、ただ肩をすくめて「お前さんがたに立証は無理だ」とだけ言うこの小男に対し、警察は複雑な賞賛の声をあげた。敵ながらあっぱれ、というわけである。
 実際、ランドリューは死体さえ見つからなければ立証はできないと思い込んでいたらしい(これは、ジョン・ヘイも犯した勘違いである)たしかに警察は10体以上にものぼるはずの被害者の死体を、一体も見つけることができなかった。ただ彼の家の煙突から悪臭を放つ黒煙が立ちのぼったこと、彼が池の中に何かを投げこんだこと、同じ池で腐肉を釣り上げた者がいることなどが証拠として挙げられただけだった。
 彼の裁判がはじまると、傍聴席は彼のファンの女性たちで溢れかえった。ある日、女性傍聴人が席にあぶれているのを見た彼は、
「ご婦人方の中で、わたしの席でも宜しいという方がおられたら、席をお譲りしますが」
 と言って自分の被告席をすすめた。
 あまりに彼の顔を一目見ようと立ち上がる傍聴人が絶えなかったので、裁判官は、
「ここは劇場ではありませんぞ」と、たびたび注意しなければならなかった。


 だがたしかに「グルーピー」こそ多かったものの、彼の傲岸不遜な態度と冷ややかな侮蔑は、一般大衆の反感をかうには充分だった。状況証拠のみではあったが、彼は有罪となった。
 しかしギロチンで首を落とされるその瞬間まで、彼は頑として沈黙を守った。
「これはわたしだけの秘密だ。フランスの法律は沈黙の権利を認めている」。
 チャップリンの「殺人狂時代」のモデルは、彼だとも言われている。

 


◆ジェームズ・ワトソン

 

 1919年3月初め、さまざまな名とあちこちの住所を使って、以下のような個人広告がアメリカ各地の新聞に掲載された。

「当方、礼儀正しく、眉目秀麗。財産多く、会社経営に携わる。上品で知的な若い女性、もしくは未亡人との交際を希望。真剣に結婚を考える女性の手紙のみ待つ」

 これらの広告に飛びついた女性は、各地で数十人を下らない。しかし実際にはそのすべての広告が同一人物の出したものであり、「結婚を考える女性からの手紙のみ待つ」の一文以外はすべて嘘っぱちであった。
 この広告を出した男の名は、ジェームズ・ワトソン。彼は殺到した手紙を、細かい条件に沿って念入りにふるいにかけた。容姿や年齢は問題ではない。まず金を持っていること、親族が少ないこと、金は後くされなく、すぐに動かさせる状況にあること。
 まずワトソンは、アイダホに住むオールドミスの女性に目を付けた。ベティという名のその女性は家持ちで、銀行口座に金をたんまり所有していた。会って3日後にワトソンは彼女にプロポーズし、ベティもそれを受けた。3月25日のことであった。
 ワトソンは嘘をつくことと、それを女に信じこませることにかけては凄腕だった。天才と言ってもよかったかもしれない。どんな荒唐無稽なことであっても、彼の口から出る言葉である限り、女たちはそれを他愛なく信じた。
 彼はベティに、
「僕は実は、大統領が直々に宣誓就任させた、特殊諜報機関のスパイなんだ」と打ち明けた。
 ベティは仰天し、そしてすっかりそれを信じてしまった。第三者から見れば馬鹿げた話だが、わが国にも金髪に染めてパイロットの制服を着て、女性たちを騙しに騙した有名な結婚詐欺師がいる。彼女たちは「騙される」と言うより「信じたいがゆえに信じてしまう」のかもしれない。ともかくベティは夫を心から信じていたし、それに満足していた。
 ワトソンは、
「いつなんどき、任務への連絡がくるかわからない」
 と事あるごとに妻に言い聞かせていた。そして妻が彼に事業利益の委任状と、銀行口座の名義の書き換えを済ませた途端、その「任務」はやって来た。ワトソンは妻に別れのキスをし、バンクーバーへ飛んだ。
 
しかしバンクーバーで待っていたのはもちろん諜報活動の任務ではなく、ベティと同じく広告で引き寄せた恋人であった。彼女は裕福な未亡人で、ベアトリスといった。ふたりは出会って5日後の5月12日、結婚した。
 彼はベアトリスにも「任務」がいかに厳しいものであるかを説き、さらにワシントンへ移動する。そこにはバーサという小金持ちの独身女性が待っていた。

 ワトソンはまめな男だった。ベティにせっせと手紙を書いて孤閨の寂しさをなだめ、ベアトリスをベッドでかき抱きながら財産の相続を書き換えさせ、その妻たちの後釜候補を手練手管で引きつけながら、待たせておくのだ。しばらく彼はこれをうまくこなしていたが、いかなワトソンにもこれは重労働だった。
 ベアトリスの財産は、花婿の忠告に従って、共同預金口座へうつされた。その直後、親切な花婿は彼女に湖でのピクニックを提案した。幸せな新婚夫婦はボート遊びに興じ、その途中「不幸な事故」によって、花嫁は湖の底に沈んだ。結婚してわずか8週目のことであった。
 その足でワトソンはアイダホに戻り、ベティにただいまのハグをする。そして妻にこう言った。
「来週から、新しい任務に就かなきゃならない。でもね、次回は偽装工作のために女スパイと同行して夫婦を装え、という命令だ。そこで僕はうってつけの適任である女性を上司に推薦したんだ――きみだよ」
「私がスパイをするっていうの?」
「そうさ。これできみも諜報機関の一員になれるんだよ」
 この言葉にベティは興奮した。まさにドラマのような話である。6月19日、ワトソンとベティは「合衆国政府の秘密任務」にとりかかるべく、ワシントンの辺鄙な土地に赴き、小さなホテルに泊まった。
 ワトソンは翌日、「偵察に出るよ」と妻を連れて、人里離れた山腹にある小屋に車で向かった。しかし行きの車に乗っていたのは2人でも、帰りの車に乗っていたのはワトソン1人きりだった。ベティはシャベルで頭を割られた挙句、それと同じ道具で掘られた墓穴に放り込まれたのである。
 ワトソンは間をおかず、3人目の相手であるバーサに会いに行った。ふたりは7月30日に結婚し、9月初めには、財産相続に関する手続きのすべてが終了した。バーサは9月11日に急流渦巻く川に転落した。
 10月6日、ワトソンはさらに結婚式をあげる。相手はアリスという女性で、今までの妻たちとは違い、若く美貌でセクシーだった。しかしだからといって結果にも違いがあったわけではない。彼女は結婚10日後、湖の底に沈んだ。
 11月17日、キャスリンという長身のブロンド美人と婚姻。ワトソンはいつものように「大統領直々の任務だから」と彼女を言いくるめ、「任務」のためケンタッキーに向かう。ケンタッキーには未亡人が彼を待っており、12月5日に結婚が成立した。彼女は新婚旅行先で、ハンマーで頭蓋を割られ、砂漠に埋められた。
 ワトソンは心配性の若妻、キャスリンのもとへ帰宅した。
 しかし夫の身を案ずるあまりいてもたってもいられなかったキャスリンは、私立探偵を雇って彼が無事かどうかを調査させていた。その探偵の報告によりワトソンの所業は警察に連絡されることになる。キャスリンを抱きしめようと勇んで戻ってきたワトソンを出迎えたのは、戸口の前で待ち構えていた警官たちであった。

 ワトソンは法廷で、29回の重婚と5回の殺人において裁かれた。彼がかき集めた財産は当時の金額で10万ドルを超えた。
 彼は自分が騙し、殺害した女性たちについて、
「どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ。おだてて、すかして、適当に嘘をつけばいくらでも転がせる。金に関しちゃ、羊並みの脳味噌ときてるしね」
 と軽蔑たっぷりに語った。
 1920年5月、彼は終身刑を宣告された。

 


◆ジョージ・ジョセフ・スミス

 

 1913年、イギリスのブラックプールで新婚夫婦らしい二人が、新居となるべき貸間を探し歩いていた。途中、若い妻は何度か心惹かれた物件があったようだが、夫のほうは「浴室はありますか」とそれだけを重点的に訊ね、バスルームがないと知るや、問題外といった様子で妻をうながしてさっさと出ていく。
 そしてようやく夫の眼鏡にもかなう物件が見つかった。彼らはさっそく荷物を持って入居した。
 夫の名はアーネスト・ブラドン。妻の名はアリス。
 下宿屋のおかみの見たところでは、夫は少し頼りなさそうだが、妻がいかにもしっかり者といった様子なので、部屋を貸すことにしたということである。
 入居してすぐ、ブラドン氏がおかみに、
「このへんでいい医者はありませんか」と訊ねた。
 なんでも細君が頭痛がするとかで、大事になっては大変と夫は懸命に妻に医者に診てもらえとすすめているのである。新婚とはいえ、あの奥さんはこんなに旦那に愛されて幸せ者だ、とおかみは内心微笑ましく思い、近所に開業している医者を紹介した。
 アリスはそこで軽い鎮痛剤をもらい、夫はおおいに安堵して彼女を出迎えた。
 それが水曜日のことで、48時間経った金曜日の夕方、事件は起こった。


 アリスが入浴している間、ブラドン氏は妻の手料理のためと称して卵を買いに出かけた。
 そして戻ってきたところで、ドアの向こうから妻に向かって、
「おれも一緒に入るよ、いいだろ?」
 と声をかけた。アリスはもちろん「いいわよ」と答える。ブラドン氏は浴室に入り、服を脱ぎながらちょっと湯に手を入れて、
「ぬるいな。それにお湯も足りないようだ。ちょっと足していいかい」
 そう言って蛇口をひねる。ほとばしるお湯の音で、ほかの物音はほとんど聞こえなくなった。
 やにわにブラドン氏は妻の頭に手をかけ、そのまま彼女自身の足の間に押し込んだ。アリスは生理的反射で瞬時にもがいたが、頭と首の後ろをしっかりと押さえつけられて動けない。それに何しろ相手は「手馴れて」いた。
 しばらくのち、若い細君の体はぐったりと力を失い、髪が藻のように湯の中でひろがった。
 ブラドン氏は妻が動かなくなったのを確認し、部屋へ戻ると卵の入った紙袋を抱えてもう一度表に出た。
 数十分後、階下の部屋では天井からお湯が漏れてくるので大騒ぎになった。ブラドン夫人がお湯を出しっぱなしにしているに違いない。注意しなくては、と言っているところへ、ブラドン氏が紙袋を持って帰ってきた。
「明日の朝飯のために卵を買ってきたところなんですよ。いやあ、卵も高くなったもんですな――」
 と呑気なことを言う彼に、おかみが彼の部屋から湯が漏れていることを話した。
 彼は不審げな顔になり、階段の途中から、
「アリス、どうしたんだい。お湯がこぼれてるよ」
 と言いながら部屋に入っていった。だがすぐさま飛び出してくると、「妻が浴槽の中で動かない。様子がおかしいから医者を呼んでください」と叫んだ。ただちに近所の医者――つい2日前、アリスの頭痛を診た医師――が呼ばれ、溺死を確認した。医者は「2日前から体調不良を訴えていたこと、その診察の際、少し心臓が弱いように見受けられたこと」から、心臓発作による死と診断書を書いた。
 よほど苦しんだらしく、彼女は口いっぱいに自分の髪の毛を食いしめて絶命していた。
 一連の所作――あらかじめ医者に診せること、買い物に行くことで作られるアリバイ、そして殺人の手口
――が、夫の常套手段であることなど、この医師にはわかるべくもない。
 ブラドン氏が妻の死後からいくらも経たないうち、態度を一変させて妻の死を悼む様子もなくなったので下宿中の人間が腹を立て、彼を追い出すにあたった。彼の去り際、おかみが腹に据えかねて「ひどい人だね。奥さんが亡くなったばかりだっていうのに」と言うと、彼は
「死んだやつは、死んだやつさ」とうそぶいた。


 妻の保険金を受け取って下宿を立ち去ったこの男の本名は、ジョージ・ジョセフ・スミス。ひどく平凡な名だが、男本人は凡庸な男ではなかった。
 彼はこれ以前にも、1912年に同様の手口で「妻殺し」をはたらいている。
 スミスのつぎの犠牲者は1914年8月に出た。手口は何から何までそっくり同じ。
 また同年12月には最後の被害者が出た。今度はスミスは「トマトを買いに」出かけていたと言った。彼女は死後全財産を夫に譲るという遺言書を書かされた翌日、「浴槽の花嫁」のひとりとなった。もっとも、どう死のうと彼にとっては「死んだやつは死んだやつ」である。
 ジョージ・ジョセフ・スミスは1872年ロンドンに生まれ、9歳のとき、窃盗で8年の刑を受け感化院送りになった。それから25の歳まで入獄と出所を繰り返すが、以後は数えきれないほどの変名を使って結婚詐欺に精を出した。
 だがその傍ら、スミスは心から愛する女にも出会っている。彼女はスミスが骨董屋をやっているときに家政婦として応募してきた女性で、彼は「本職」で家をあけている間は、骨董品を収集するための旅行と偽っていた。
 いったい彼の被害者総数は、正確なところ何人にのぼるのか? スミスは「カタログを作ったことがないんで、わからん」と言った。言い換えればカタログができるほどの量だったということだ。マーク・トウェインは「ベッドほど危険な場所は無い。その証拠に人はたいていベッドの上で死ぬ」と言ったが、当時のイギリスでは浴槽も負けず劣らず危険な場所だった。
 ともかく、最後の事件が新聞に載ったことで過去の被害者の家族たちが不審を抱いた。あまりに似すぎている、というわけだ。
 被害者の遺族と、アリスに対するスミスの冷たさに義憤を感じていた下宿屋のおかみが警察に手紙を出したことから捜査ははじまり、やがてこの一連の事件の全容が明らかになるや、警察は本腰を入れて保険会社や各事件の起こった市町村を飛びまわり、証拠固めを行なった。


 1915年、スミスは当初公文書偽造の罪で逮捕されたが、これはもちろんのちに殺人罪に切り替えられた。
 9日間にわたる裁判で、スミスは頑として無罪を主張した。女たちを溺死させた手口について、法医学者が法廷に浴槽まで持ち込んで実演してみせたが、裁判長に「この通りかね?」と訊かれたスミスは笑って答えなかった。
 わずか23分の協議で有罪決定。控訴も上告も棄却され、死刑が確定した。
 1915年8月、彼はほとんど失神状態で絞首台にかつぎ上げられた。
 だがいつ死のうがどう死のうが、「死んだやつは、死んだやつ」だ。

 


いのちをたもつのも、いのちをほろぼすのも、
どちらもたのしいあそびだったら
ほろぼすことをえらんだからって、
どうしてそれがざいあくかしら?

――香山滋『海鰻荘奇談』より――

 

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