GOD  FORSAKEN  WRETCH
―宗教の狂気―


 

 


 

 ジム・ジョーンズ(人民寺院)

 

 ジム・ジョーンズことジェームズ・ウォレン・ジョーンズは1931年にインディアナ州郊外で生まれた。一人っ子だったこともあって母親のリネッタは彼を溺愛し、「生まれながらの聖職者」だと周囲に得々として語った。
 母親の期待どおり、彼は幼くして宗教家への道を歩みはじめる。8歳にして聖書をそらんじ、12歳にして近所の子供たちに「怒りの説教」を行い、もっともらしい洗礼を施した。ジムのポケットはそうしてせしめた小銭でいつもぱんぱんだった。
 また彼は異様なほどの動物好きで、しゅっちゅう野良猫や野良犬を拾って帰った。が、不思議なことに彼が拾って帰ったそれらの動物は、どれもじきに不審な突然死を遂げてしまうのだった。ジムはそのたび涙を流し、死骸をうやうやしく埋葬して、見よう見まねの葬儀を執り行なった。


 ジムは17歳にして、自分のもっとも熱烈な崇拝者(母親を除いて)となる女に出会う。
 彼女は21歳の看護婦マーセリンで、当時彼はメソジスト派牧師の実習生であった。二人はただちに結婚した。そしてほぼその直後、ジムはメソジスト派を脱退する。
 1957年、訪問販売で資金をつくったジムは、自らを教祖とする宗教を掲げる。
 看板には「人民寺院」という名が書かれた。当時インディアナポリスは、すさまじい勢いで住民が白人から黒人へと入れ替わりつつある真っ最中であった。
 人民寺院は急速に町の人々を惹き付けていった。ジムは精力的で演説の才があり、奇妙なカリスマ性を持っていた。
 時代は1950年代末。TVやラジオは市民運動と黒人の社会参加に共鳴し、アメリカ全土が揺らいでいる真っ只中、ジムは黒人住民へのアピールを計算し、自らを社会的宗教活動家としてセルフ・プロデュースすることに成功した。
 教会の規模はたちまち膨れあがり、1959年にはマーセリンとの間にもうけた2人の子供のほか、少数民族の子供を3人養子にし、彼ら自身が「レインボウ・ファミリー」と呼んでいた家族を作りあげはじめる。
 ただし、10代の頃のジムは明らかな白人民族主義者であり、唇を歪めて「ニガーどもが」と吐き捨てるような男であったという。


 インディアナポリスの町中に、人民寺院のポスターが貼られるようになった。
 そのポスターの宣伝文句によると、ジムは偉大なる説教師であり、預言者であり、同時に心霊療法士でもあった。
 人民寺院は恵まれない黒人たちにベッドと食事をふるまい、仕事を与えた。こうして生まれる安い労働力集団をジムは巧みに利用して、人民寺院に金を流れ込ませるためのビジネス基盤を着々と築いていったのである。
 この成功がさらなる信者を呼び寄せた。その中には富裕層も含まれており、人民寺院はみるみるうちに地域一の規模を誇る宗教団体となった。聖歌隊だけで100人を超え、日曜の礼拝には群集がつめかけ、ジムの行なうさまざまな活動に人々は我先に群がった。
 ジムは人種差別撤廃を訴えるデモを行い、新左翼の抵抗運動に参加してメディアの注目を集め、市の人権委員会の議長にまで任命された。
 しかしその活動ぶりとは裏腹に、彼の側近や幹部は白人で固められていた。一般信者は圧倒的に黒人ばかりであったにも関わらず、である。

 しかしそのあまりの派手な資金集めは、じきに周囲の疑惑を呼んだ。市の役人達は、ジムが心霊療法士として過剰な宣伝をしていることに目をつけ、監視をはじめる。
 ジムはその兆候にいちはやく気づいた。彼はつねに自分の身にふりかかるトラブルに対して敏感な男だった。
 1963年、彼はいきなり
「神のお告げが訪れた。世界のほぼすべてを焼き尽くす核の大殺戮がやってこようとしている。ただし我々正しき者たちのために、2箇所だけ安全な避難所が残されている。すなわりカリフォルニア州ユキアと、ブラジルのベロ・ホリゾンテである」
 と支持者に告げた。
 1965年、ジムは忠実な信者達100人余りを連れて、ユキアへ移動した。

 ユキアで彼はさらに成功した。1970年にはサンフランシスコへ移動し、礼拝には何千人という聴衆がつめかけた。ジムはひたすら天罰を説き、病を治し、かつてしたと同じように貧しい者へ食事と宿泊所を提供し、安いビジネス用の労働力を得た。ただし規模は以前よりずっと大きかった。
 彼は地域の委員会に参加し、政治家とコネをつくり、夜間学校の教師までやってのけた。
 ジムは大粒のダイヤの指輪をはめ、鰐革の靴をはき、キャデラックを乗り回し、豪勢な旅行を楽しんだ。彼は市長になり、国政に携わる政治家の訪問を受け、ロザリン・カーターと会食した。地元メディアは熱狂的に彼を支持した。――少なくとも、このあたりまでは。

 ジムは信者たちには禁欲を説いたが、彼自身は異様なほど旺盛な性欲の持ち主であったようだ。
 彼はバイセクシャルであり、一日に数人と交わったあとでも、まだ数十回自慰をしなければおさまらない体質であったという。そしてこの手の宗教団体にありがちなこととして、信者内に「ハーレム」を作っていた(その全員が白人だった)。
 その反面、彼は信者に禁欲を徹底させ、信者間の結婚による結びつきを弱めようとした。子供達はできるだけ両親と一緒にいないよう隔離された。家族の結びつきを弱くし、個人の欲望を弱めさせ、より彼らの目が「人民寺院」にのみ向けられるよう仕向ける。その結果すべての家族が、信者が、あらゆるものを寺院に寄進した。

 時が経つにつれ、次第にジムは「迫害」の強迫観念に取り憑かれるようになった。
 説教は宗教迫害と受難の話ばかりになり、自分のことを「父なる神」と呼ぶよう強い、「トランスレーション」という独自の理論をしきりに説くようになる。
 それは、最終的に信者全員がともに死に、その後一段となって他の惑星で永遠の至福を得る、という奇妙なものであった。が、ジムはこの考えに憑かれ、
「“神”のための“死ぬ準備”を怠るな!」
 と叫び、集団自殺に乗り気でない信者のリストまで作り、名指しで糾弾した。
 1977年ごろ、ようやくジムの搾取と腐敗、救世主妄想に嫌気がさして脱退する信者が出はじめた。そしてこれら元信者から洩れた証言で告発記事が発表され、マスコミや市民は一転してジムを非難しはじめる。
 が、その攻撃が本格化する前に、聡いジムはガイアナへ移動した。

 ガイアナへ移る拠金は100万ドルを超えていた。これをもとに、ガイアナに「ジョーンズタウン」なる集落が建設される。
 ジョーンズタウンは、事実上ジムと少数の側近(全員白人)が支配する植民地であり、黒人信者たちは灼熱の熱帯で奴隷のように農業に従事させられた。朝から日が沈むまで農作業はつづき、そののち強制参加の集会があり、それは午前2〜3時まで延々と行なわれた。
 集落は郵便と短波無線を除けばまったく隔絶されており、それらの通信手段ももちろん監視されていた。ジョーンズタウンはジムの独裁国家であった。
 信者は男女別に分けられ、子供は親から隔離されたところでシラミや伝染病に苦しんだ。
 ルールは無数といっていいほど定められ、少しでも違反した者は殴打された。懲罰は日ごとに激しさを増し、拷問と呼んでもいいものへと変貌した。女性信者への懲罰はしばしば性的な暴力に発展した。
 ジムは、もうしばらく前からアンフェタミンとクエルードを常用しており、妄想はひどくなる一方であった。暴力によって支配され、外界と完全に隔絶されたジョーンズタウンでは、誰もが彼の妄想に飲み込まれないわけにはいかなかった。
 集団自殺の予行演習が、いつの間にか日常化していた。信者はサイレンで集められ、ジムが「毒だ」というフルーツ味のジュースを唯々諾々と飲んだ。ジョーンズタウン最後の年、この予行演習は43回も行なわれた。

 だがアメリカ本土では、彼らをもう黙って放ってはおけなかった。
 1978年11月、レオ・ライアン議員が連邦政府に介入を要請し、ジャーナリスト一行を連れてジョーンズタウンを訪れる。
 当初、ジムに集落内を案内された一行は「平和」で「牧歌的」な光景に魅せられ、人民寺院の国内での評価はもしかすると誤りだったのではとまで思った。しかし翌朝、あたりを散歩していたリポーターの一人が、厳重に施錠され、病気の老人がぎちぎちに詰め込まれた小屋を発見したことでその認識はくつがえる。
 ライアン議員がこれを指摘すると、ジムはパニックに陥り、錯乱状態になってわめきちらした。
 一行が帰る時刻までに、15人もの信者が運良く彼らに「ここから逃がして欲しい」と訴えることに成功していた。ライアン一行は彼らを連れ帰るつもりであった――が、救出用のセスナへの乗り込み途中、ジョーンズの側近達が乗ったトレーラーが現れた。
 彼らは自動小銃を掲げ、乱射しはじめた。
 ライアンは蜂の巣にされ、NBCのカメラマンやリポーターも銃弾に倒れた。
 一機だけ乗り込みが終わっていた6人乗りのセスナが、かろうじて離陸。しかしそのあとの滑走路には死体がごろごろと転がり、その他、11人の負傷者が倒れていた。彼らは救出が来るまでの一晩を、痛みに呻きながら過ごさなければならなかった。

 その頃、ジムはパニックに襲われながら、最後の夜の開始を命じていた。
 収容所ではサイレンが鳴り響き、聞きなれたその音に合わせて、悪臭と疫病と蛆の湧く寄宿舎から、信者たちがおとなしく一列になって出てこようとしていた。
 そして彼らはこれまで何度も行なわれてきた「予行演習」と同じように、静かにコップを受け取った。
 赤ん坊には、青酸カリがスポイトで口にたらされた。
 子供達は大人の手から毒の入ったコップを受け取り、飲み下した。
 赤ん坊と子供達が死に絶えてしまったのち、大人たちが毒をあおった。
 断末魔の呻きがあたりを支配し、ジムはわめいた。
「早く終わらせろ、終わらせろ!」
 彼は地団太踏んで叫んだ。
「我々は黒人で、傲慢な社会主義者か? そうでなければ我々は何者なのだ?」
 だが実際には彼は白人で、ただの薬物中毒のイカサマ師だった。

 ガイアナの軍隊がジョーンズタウンにおそるおそる踏み入ってみると、そこにもう生者の姿はなかった。
 914の死体が薪ざっぽうのように並んで横たわり、そのうち267体が子供の死体だった。
 ジム・ジョーンズは祭壇の上で、右のこめかみに自ら撃ち込んだ一発の銃弾によって死亡していた。

 

 


 

 マグダレーナ・ソリス

 

 メキシコはジェルバ・ブエナスという小さな村で、その宗教は興った。
 1963年、エルナンデスという詐欺師の兄弟が、この無知で純朴な村人達を騙そうと思いついたのが事の起こりである。彼らはその甘言で村人に、
「山に住むインカの神に仕える者は、富と平安とを得る」
 と信じ込ませ、インカの高僧になりすますことに成功した(もちろんインカ帝国はペルーにあったのであり、この言葉はエルナンデス兄弟のでたらめである)。
 エルナンデス兄弟の弟はホモセクシュアル、兄はヘテロセクシュアルであり、彼らは2人とも、村人から金を吸い上げるとともにセックスの奉仕も強要した。しかし「ご利益」があまりに遅いことに不平をもった村人が出はじめたため、彼らはこのインチキ宗教をもっと大掛かりなものにすることに決めた。
 それには自分達2人きりでは心もとない。彼らは町へ下り、協力者を得た。
 それがマグダレーナ・ソリスと、エリーザの兄妹であった。妹マグダレーナは売春婦、兄エリーザはその斡旋をして暮らしている。エルナンデス兄と同性愛関係にあったエリーザは、
「インカの神様の役をやってくれ」
 と持ちかけられ、田舎者を騙すのはちょろい詐欺だと思って妹を伴い、ジェルバ・ブエナス村へ入った。
 彼らの演出した派手な儀式に、村人達は幻惑され、ただちに騙された。ソリス兄妹は美貌であり、彼らがもうもうたる煙の中から現れると、村人はその神々しさにすぐさま聖者であると信じたという。
 美しい兄妹によって怪しげな洗礼を受けた村人たちは、いったんは納得し、満足した。

 ブエナス村には、セリーナという一際目立つ美少女がいた。エルナンデス兄がすでに目を付け、「侍女」という名の愛人にしていたあとであったが、レズビアンであったマグダレーナはセリーナに目を付けた。他にもいくらでも相手を見つけることのできたエルナンデス兄はセリーナに特に執着がなかったらしく、彼女をすぐにマグダレーナに謙譲した。
 一方、ホモセクシュアルであるエルナンデス弟とエリーザは、美少年や若い農夫を「儀式によって、清める」という名目で体を弄んでいた。この時期、ルビオという村人が彼らを怪しんで接触したが、じきに仲間に引きずりこまれ、甘い汁の分け前をありつくようになっている。

 しかしじきにまた村人たちから不満が出はじめた。
 エルナンデス兄弟とソリス兄妹はそれを抑えるため、
「ご利益がないのは、村人の中に我らを信じぬ不心得者がおり、神々がそれを怒っているからだ。不信心者を生贄に出さなければならない」
 と言った。
 直ちに該当すると思われる村人二名が選出されて撲殺され、血を抜き取られた。その血は鶏の血と混ぜ合わされ、信者たちの杯に注がれ飲まれたという。
 その後2ヶ月の間に、さらに六名の村人がこの儀式によって殺された。

 が、マグダレーナの愛人にされたセリーナはもともと同性愛嗜好の気が薄かったようで、そのうちにまたエルナンデス兄の方へ、マグダレーナの目を盗んで「身を捧げ」はじめた。
 マグダレーナはこれを知り、激昂した。一般に、ホモセクシュアルよりはレズビアンの方が嫉妬心が旺盛であると言われる。少なくともマグダレーナはそうだったようで、この怒りは殺意へと変わった。
 1963年5月、マグダレーナは儀式の生贄にセリーナを選び、彼女を祭壇の十字架に縛りつけた挙句、意識を失うまでその体を蹴り、踏みにじって鬱憤を晴らした。セリーナはその後、信者たちによって嬲り殺された。
 セリーナの死体に火が放たれ、ほとんど興奮でトランス状態になったマグダレーナが次の不信心者を声高に名指す。するとその男はたちまち、周囲の信者たちに斧で殴り殺された。
 だが、この異様な光景を盗み見ていた者がいた。
 彼はセバスチャンという14歳の少年で、この狂信集団にはそれまで関わりがなかったので激しいショックを受け、すぐさま町の警察署に駆け込んでこれを知らせた。
 しかし、セバスチャンと、彼が助けを要請したはずの警官はいつまでたっても帰ってはこなかった。
 彼ら2人が行方不明になったとの報せを受け、警官隊がジェルバ・ブエナス村へ急行してみると、そこには切り刻まれた2人の死体が転がっていた。警官の大きく切り開かれた胸部からは、心臓が掴み出されていた。
 この後、警官隊と狂信集団との銃撃戦が起こる。が、やがて警官隊によって制圧された。
 警官が踏み込んでみるとエルナンデス兄は銃撃で死亡しており、弟は、その地位にとってかわろうとしていた村人ルビオによってすでに殺害されていた。信者たちは彼らの死を、
「インカの神々を冒涜したための報いだ」
 と言った。その「インカの神々」ことソリス兄妹は、捜索の結果、マリファナで眠っているところを逮捕された。

 1963年6月13日、ソリス兄妹と、他12名の信者はそれぞれ懲役30年の形を受け、刑に服した。


 
 


 ジェフリー・ラングレン

 

 1989年、アメリカ。

 ジェフリー・ラングレンは1950年、ミズーリ州インディペンデンスに生まれた。家は裕福で、両親ともにモルモン教の一派である「復元末日聖徒イエス・キリスト教会(以下略してRLDS)」の敬虔なる信者であったという。
 その妻アリスも同じくRLDS信者として生まれ育ち、夫に負けず劣らず信仰心が強く、そしてコリン・ウィルソン言うところの「支配力高位の人間」であったようだ。彼女がジェフに惹かれた何よりの理由は、彼のその押しの強さと強引な態度、自信過剰ともいえる物言いであった。支配力高位の女は、中位以下の男には見向きもしない、というのが定説のようである。

 モルモン教はアメリカで栄えただけあって、「現世利益」を追求する、ある意味合理的で楽観的な宗教である。
 死後の救済ではなく、あくまでも現世での幸福追求。
 モルモン教の教理が謳うのは、「経済的繁栄」、「男性優位」、「白人主義」、「禁酒禁煙」、「偶像崇拝」等々であった。
 開祖であるジョゼフ・スミスは債権者に追われた末、1844年に暴徒の手にかかって殺されたが、教団は残った。一派はユタ州ソルトレイクシティに移動し、もう一派はスミスの息子をいただいてオハイオ州カートランドでそのまま存続した。
 ユタ州へ渡った一派は信徒500万人を抱えるほどに成長しふくれあがったが、オハイオ州に残った一派は対照的に、信徒20万人足らずで細々とその活動を続けていかなくてはならなかった。
 彼らは、カートランドの田舎町で、救世主がふたたび現れるのをただじっと待っていたとも言える。

 1984年、ジェフリー・ラングレンは庭の芝刈りをしている最中、突然に「神の啓示」にうたれた。
 彼は当時34歳。退役軍人で、どの職についても長続きのしない、よくある「負け犬」のひとりだった。何の前触れもなく唐突に自分が預言者であると感じた彼は、妻と子供達に
「俺は主より選ばれた存在だったんだ。今までの人生がうまくいかなかったのは主のお導きで、俺が進むべき道をいつか見出すよう、主がお示しになられていたからだ。――俺は預言者にならなくてはならない。オハイオへ向かう」
 と宣言した。
 ラングレンも他のカルト宗教教祖たちと、ほぼ同じ特徴を持ち合わせていたようだ。すなわち、誇大妄想、虚言癖、権力と支配への固執、旺盛な性欲。そして暴力的であり、人種差別的であり、男権主義で、教義はハルマゲドンを想定した終末思想に根本を置いていた。過剰な性欲は当然のように倒錯的なものへと変質し、妻アリスはのちにラングレンの寝室での態度について、
「彼は自分の排泄物を性器に塗りつけて自慰するのが好きでした」
「私のネグリジェとストッキングで女装し、私にバイブレーターを持たせて肛門姦するよう強要しました」
「私を縛り上げて、胸の上に排便するのを好みました」
 と述べている。
 さらに彼は浮気の常習者で、SMやポルノの収集者で、妻や子をしばしば殴った。それでもアリスは彼を信じ、ついていった。

 オハイオで、ラングレンは本山のツアーガイドとして巡礼者を案内する任務に就いた。この仕事のおかげで彼は寄付金箱や、ギフトショップのレジに近づいてもあやしまれることがなかった。また聖書購読クラスのリーダーになれたことが幸いし、彼はひそやかに自分のシンパを増やしていった。
 長老たちが何かおかしい、と気付いたときにはすでに事態は手遅れであった。
 一部の信者からラングレンはすでに預言者として崇拝されつつあり、彼の説く異端の教義は内部から蝕む虫のように、RLDSを食い荒らしはじめていた。そしてレジや寄付金箱からは、ここ三年で、2万ドルもの金がかすめとられていた。
 RLDSはスキャンダルを恐れ、彼が黙って職を辞してくれるのなら罪を問わず、すべてを水に流そうと申し出た。
 これを受けたラングレンはシンパたちを連れて町の端にある農場へ引越し、
「信仰を忘れたよこしまな長老たちに中傷され、迫害された」
 として自分を演出した。
 さらに「聖書によると、預言者は必ず追放されるものである」と説き、信者もこれを聖書の再来であると信じ込んだ。
 ときは1987年。ラングレンは「神の軍隊」を作るべく武器を買いあさり、本山攻撃のための軍事訓練をおこたらなかった。構成メンバーは、農場に住んで共同生活を送っていた男女5人、ならびに近隣のアパートに住居をかまえていた3家族と男1人である。


 この閉鎖的な環境の中で、彼らは次第に歪んでいった。
 ラングレンの説教は日増しに狂的に、暴力的になった。妻アリスとその子供たちは「特権階級」とされ、他信者に奉仕させることを当然とした。とくに長男は軍事訓練のリーダーという立場を利用して、しばしば信者を殴り、地面に這わせ、靴に接吻させた。
 劣悪な環境と、外部情報からの遮断、単調な仕事と雑役、そして肉体的・精神的虐待。これらすべてが人間から反抗心を失わせるに有益であることは、今更言うまでもない。信者たちはより受身になり、従順になっていった。

 1989年には、軍事訓練は夜通し行なわれるようになっていた。
 ラングレンはつねに銃を携帯し(時には振り回し)、みずからを「イスラエル軍の陸軍大将」と呼んだ。あきらかに正気の沙汰ではないが、もちろんこれを嘲笑う者はいなかった。
 ラングレンの説教はついに、
「十二使徒と同じく、私とともに生き残れるのは12人のみである」
 と説くまでになった。そして罪は血で購わなければならない、罪深き者はその血で償わなければならないのだ、と。
 ラングレンは誰を殺し誰を生き残らせるつもりだ、とは明言しなかったが、誰もがまず真っ先に殺されるのはエイブリー一家だろうと知っていた。エイブリー夫妻は3人の娘とともにこの信徒に名を連ねていたが、「こんなに貢いだんだから、もうすこし待遇が良くてもよさそうなものだ」という愚痴を何度かこぼしたため、ラングレンの不興をかっていたのである。
 この時期、農場で共同生活していたうちから2人の逃亡者が出ている。彼らはそれぞれ警察に駆け込み、ラングレンが本山襲撃計画をたてていることを密告した。これにより、警察の警戒と監視は強化された。
 が、彼らの穴埋めをするかのように、この直後、女性信者がひとりと一家族が新たな仲間に加わっている。
 1989年4月10日、ラングレンは男性信徒ふたりに、墓穴を掘るよう命じた。
 エイブリー一家の処刑は4月16日になされるはずであった。しかしその前日、エイブリーがやっとマスターカードを取得できたことを報告したため、その処刑は1日延びた。ラングレンは彼を買い物に連れていき、限度額いっぱいまで銃器を買わせ、
「明日、家族を農場に連れてくるように」
 とエイブリーに言った。

 4月17日、エイブリー一家を含む信者たちは農場へ集まった。
 食卓で、エイブリーの幼い末娘が「トウモロコシは食べたくない」と言ってぐずった。ラングレンはこれを見て「邪悪と反抗のあかし」だと思い、殺害の決心をさらに固めた。
 エイブリー一家がまだ食事中であるのを放って、男たちは納屋に向かった。納屋の床には充分な大きさの墓穴がすでに掘られていた。
 まず呼び出されたのは一家の長であるデニス・エイブリーであった。彼は納屋に一歩足を踏み入れた途端、首にスタンガンを当てられ、縛り上げられたのち射殺された。
 次に皿洗いをしていたデニスの妻、シェリルが呼ばれた。彼女は縛り上げられ、夫の死体の横たわる墓穴に放り込まれたあと撃たれた。即死せず、しばらくは苦しみもがいていた。
 続いて、15歳、13歳、6歳の娘が同様に連れてこられ、家畜のように射殺された。6歳の末娘はラングレンの手によって、脳天に2発の銃弾を撃ち込まれ、墓穴へ転げ落ちた。

 ラングレンと信徒は数日後、ウエストバージニアへ移動し、そこでテントを張って暮らした。
 しかし生活は劣悪になり、貧窮する一方であった。ラングレンは女性信者にセックスでの奉仕を強要し、自分を「モーゼ」と称した。
 惨めきわまりない生活の中、信者はひとり、またひとりと櫛の歯が抜けるように脱落していった。そして、その間に、警察は農場へと踏み込んで墓穴の中のエイブリー一家を発見していた。

 ラングレンが逮捕されたとき、彼の周囲にいたのは妻アリスと、ほんの2、3人の信徒のみであったという。

 法廷でラングレンは5時間にもわたってみずからの教義を演説し、弁護士の思惑をめちゃくちゃにした挙句、死刑宣告を受けた。
 その他、犯行にかかわった男性信者も有罪判決を受け、妻アリスは150年の懲役刑となった。
 
 

  


 

 ジョン・シンガー一族

 

 ここで紹介するジョン・シンガーとその一族は、ただあまりに敬虔すぎた信徒であった、とも言えるだろう。

 だが社会においてそれが犯罪であるかどうかを決めるのは、往々にして「善悪」ではなく、「体制か、反体制か」だ。

 

 

 上のジェフリー・ラングレンの項でも述べた通り、モルモン教はアメリカで栄えた白人優位主義の新興宗教である。
 謳う教義は「信徒の絶対服従」、「一夫多妻制」、「現世利益」等々。しかし開祖が暴徒に惨殺され、いくつかの派閥に割れるにしたがって、彼らは社会への適応を余儀なくされていった。
 1890年に行なわれた一夫多妻制の集結宣言や、1978年の黒人迎合宣言などを代表的に、モルモン教は次第に変質しながらアメリカ社会の中へ溶け込み、さらなる繁栄を続けていく。
 それら約800万人の信徒は指導者のもと教義に従っていたが、その中には少数のファンダメンタリストが頑として存在していた。
 彼らはユタ州を拠点とした西部から動こうとせず、外部との接触を避け、白人優位主義と一夫多妻制を守って暮らしていた。
 そしてジョン・シンガーとその一族は、まさしくそのファンダメンタリスト中のファンダメンタリストだったのである。

 ジョン・シンガーは1931年1月6日、ドイツ系アメリカ人としてブルックリンで生まれた。
 母親は敬虔なモルモン教徒であり、父親は同じほど狂信的なナチス支持者であった。が、父親の思想はジョンにはほとんど影響を及ぼさなかったようだ。両親の離婚後、ジョンは一度も父に会うことなく母の説く教義を心より信じ、ゆるぎない信仰心を確立していった。
 第二次大戦後、一家はアメリカに戻った。ただし今度はブルックリンではなく、ユタ州に住居を構えることになる。
 そこには農場を経営する叔父(母の弟)もいた。叔父のグスタフは開祖ジョゼフ・スミスの熱心な崇拝者であり、彼がジョンに説いた教義はかなりファンダメンタルなものであったようだ。
 モルモン教徒の多いユタ州の中でさえ、彼らは「変人」であった。叔父と母に後押しされる形で、ジョンはまずます信仰心を深めていった。彼は何かにつけて聖書の言葉を引用し、現代モルモン教の欠点を誹り、指導者の中に女性がいることについて公然と批判した。
 彼は指導者たちの言葉に一切の矛盾を許さず、厳しく質問・糾弾した。そしてしまいには、指導者たちへの信徒の服従ぶりを
「ヒトラーに尻尾を振ったナチスどものようだ」
 と言ったことで、彼は決定的に「嫌われ者」となったのである。

 1961年、地元住民とジョンとの溝をさらに深める事件が起きる。
 彼の結婚である。
 相手はまだ18歳のビッキーという少女で、ジョンとは12歳の年の差があった。彼女は同じくモルモン教徒の家庭に育ち、聡明で明るく、ハイスクールの学園祭でクイーンに選ばれたこともある美少女であった。
 ビッキーの両親はもちろんこの交際に大反対で、彼女の母親は
「あんな男のもとに行かせるくらいなら、お前を列車に轢き殺させてやる」
 と叫び、叔母は彼女を精神病院送りにしようとした。
 当然のことながら、ビッキーはこれに反発。ジョンと駆け落ちし、ネバダ州で結婚式を挙げた。

 挙式後、2人はユタ州に戻り、グスタフ叔父がジョンに分け与えた農場で暮らした。
 鶏を育て、菜園を培い、木の実をみのらせ、地下に作った食料貯蔵庫に保存食や缶詰を貯めて冬に備えた。グスタフ叔父は彼ら若夫婦のもとを頻繁に訪れ、3人で熱心に聖書の勉強をした。
 彼らに外界は必要なかった。それはただの雑音に過ぎなかったからである。
 敬虔なるジョンとビッキーには、次々と子供が生まれた。それも最初は病院で産んでいたが、次第に自宅での自然分娩へと移行していった。彼らは7人の子を生み、モルモン教義に従って自給自足を目指した。
 彼らは鶏のほか、乳牛と肉牛を買った。薪と灯油もたくわえた。
 そしてモルモン教原理の教えに従い、夢でジョンがみた「預言」に従って、もう一人の妻を迎えた。彼女はシャーリイといい、ジョンよりひとつ年上でグスタフ叔父に傾倒している女であった。

 1970年ごろ、ジョンはすでに現行のモルモン教会に愛想をつかしていた。
 彼らはもう完全に信徒たちのつまはじき者であり、彼らが教会に顔を見せるたび衝突と論争が巻き起こっていた。ジョンは教会への寄付をやめ、我が子への聖餐式や洗礼を自宅でみずから執り行うようになる。これが教会側を決定的に怒らせることになった。
 1972年5月、ジョンとビッキーは正式に教会に破門された。
 
 翌年、ジョンは我が子たちが通う小学校に乗り込むと、
「教科書に、初代大統領とニガーを同列に扱うとは何事か。これはモルモン教の教義に反する、こんな教科書を平然と使う学校には通わせない」
 と怒鳴った。
 彼が開いたページには、ワシントンと、マーティン・ルーサー・キングの写真が並んで載り、その下には「もっとも偉大なるアメリカ人たち」というキャプションが付いていた。教師が驚いて義務教育法について説得しようすると、ジョンは、
「合衆国憲法は、州が個人の宗教理念について介入することを禁じているはずだ」
 と反論し、子供達を連れ帰ってしまう。
 ジョンは以後、この問題について州の教育制度や法執行機関相手に6年にもわたる裁判沙汰を続けることになる。
 子供達は自宅でジョンとビッキーから勉強を学ぶことになったが、当然、彼らの学力は平均値を大きく下回っていった。教育委員会はこれに対し苦情を言ったが、シンガー夫妻が子供達を学校に戻すことはなかった。
 しかし教育機関としては、彼らを放っておくわけにはいかない。「子供が教育を受ける権利を阻害している」として、養育放棄の罪でシンガー夫妻は1977年、法廷に立たされた。この際、シンガー一族は精神医による診断を受けている。
 結果として、ジョンの知能指数は121という、同年代男性のトップクラスに入る高数値。
 妻ビッキーは108と、これも平均以上の数値だった。
 しかしそれに反して、子供達の平均知能指数は両親より34ポイントも低かったのである。
 この水準の知能を持つ夫妻から、特に障害のない子供たちがこの数値を出すことは普通では有り得ない。あきらかに適切な教育を受けていないこと、そして外部との接触が不充分であることが原因であると考えられた。
 しかしジョンはあくまで子供たちを学校には返さないと言い張り、銃を携帯するようになった。

 1977年暮れ、ジョンが法廷からの召還を無視したかどで逮捕状が出た。
 だが一家はこれを無視したばかりか、農場にかたくなに引きこもった。
 また、警察がジャーナリストを名乗って無理に農場へ押し入り、逮捕しようとしたことでいっそう彼らは殻に閉じこもった。この際、ジョンが銃をもって抵抗したことで加重暴行の三つの訴因に課せられ、しかもジョンに対する武器携帯が許可されるという事態が警察内で起こることになる。
 マスコミはこの警察の手口について非難した。
 この騒ぎにより、警察はこれ以上の失態を犯すわけにはいかない、八方ふさがりの状況となったのである。
 警察は
「とにかく、ジョン・シンガーだけは、武力を行使してでも取り押さえなくてはならない」
 という結論を出した。
 1978年1月17日、警察隊は銃を装備しスノーモービルでシンガー一族の農場へ近寄る計画を決行した。彼らはジョンが郵便受けに近づいたところでスノーモービルで接近し、
「警察だ、銃を下ろせ、降伏しろ」
 と叫んだ。しかしジョンは走り出し、ピストルを抜いた。
 引鉄が引かれた。
 ジョン・シンガーの銃ではなく、警察隊のライフルの引鉄であった。ジョンはその場に倒れた。
 父の姿を家の中から見ていた子供達は半狂乱になり走り出たが、警察隊はジョンの死体をピックアップトラックに乗せて走り去る。ジョンは病院に運ばれたが、そのまま絶命した。

 ジョンの死後、ビッキーは逮捕され投獄された。
 夫の死に顔さえ見せてもらえずのこの所業に、彼らに反発していたはずの地元モルモン教徒たちさえ怒りを覚えた。そしてもちろん、遺されたシンガー一族は、復讐心を燃え立たせたのである。
 ビッキーも子供達も、ジョンの死の痛手から癒えることはなかった。ジョンの弟ハロウドはソルトレイクシティに掛け合い、子供たちがこれ以上ユタの教育委員会に煩わされずに済むよう、手配した。ビッキーは失意の中、預言の夢をみる――それは、ジョンが復活するだろうという夢だった。
 そして一縷の希望にすがりながら待つ一家の前に、新たな仲間が加わることになる。
 やはり敬虔なファンダメンタリストの、アダム・スワップという青年である。
 彼は1980年にビッキーの養子となり、ジョンの娘ハイディ、並びにシャーロットと結婚。意志強固で知的であり、高潔。非のうちどころのない青年であった――あまりに過度な信仰心以外は。
 これ以後は、ビッキーとアダムが一族を引っ張っていくことになる。
 しかし一族は相変わらず、彼らの望むように社会に「放っておいて」はもらえなかった。もっとも身近な問題としては、グスタフ叔父からもらったはずの農場の権利について、叔父の息子達から訴えられることが相継いだ。
 アダムはこれに激怒した。叔父の息子たちだけでなく、かつでジョン・シンガーの殺害に加担(彼がそう信じたもの)した人々について、書面で糾弾をはじめたのである。
 これについて、脅迫行為だと警察に駆け込んだ者が何人かいた。
 警察がこの要請に従って赴き、農場の「立ち入り禁止」の札を少し越えたところまで歩くと、アダムは彼らを銃で威嚇した。
 また警察はアダムと間違えてアダムの弟ジョナサンを連行しようとしたり、丸腰の娘に銃を向けるなどの失態を犯している。これがシンガー一族の怒りに火をそそいだ。
 さらに亡くなったジョンの遺品や射殺死体の写真などをビッキーが手に入れる(明確な入手経路等は不明)という事態に至って、最終決行への機は完全に熟したと言えたのである。

 

 1988年1月16日、モルモン教集会所センターに、アダムは81本のダイナマイトを仕掛け、爆破した。
 くぐもった音と共に衝撃波が広範囲にひろがり、60メートルもの火柱がのぼった。
 夜明けとともに消防車が到着し、警察が農場を取り囲んだ。
 このとき、母屋にはアダムとその弟ジョナサンを含む、14人のシンガー一族がいた。これ以後、警察を相手取って主に立ち向かうのは、アダムとジョナサンと、ジョンの長男であるティモシーである。
 アダムを逮捕するため、ユタ州の法執行機関ならびに警察は過去最高の武力を動員する。FBIが参加し、爆破事件であることも鑑みて連邦のアルコール・煙草・火器局までもが参加し、何百人もの捜査員が現場に派遣された。
 しかし、農場には子供たちがいる。発砲は厳重に禁じられた。――ただし、直接的な武力行使こそされないものの、この包囲戦はひどいものであった。
 シンガー一族はけっして折れる姿勢を見せなかった。篭城は長期戦に入りつつあった。
 19日、警察はシンガー一族を眠らせないため、軍用ジープに巨大な投光照明機を農場の窓に向け設置した。そして飛行機に農場の上空を飛びまわらせた。農場から投光機をねらっての発砲があったが、警察はそのたび灯りをいったん消し、銃声が鎮まるとまた点灯した。
 22日、業を煮やした警察は農場への電力供給を断たせた。飛行機は爆音をたてて飛び、捜査員はスノーモービルで敷地の周囲を走り回る。投光機の数も増やされた。
 包囲が始まって1週間が経った日、FBIは夜空に目もくらむような照明弾を打ち上げた。
 23日、水道が断たれた。また、敷地には1キロ先の住民さえ辟易するほどの騒音を撒き散らすスピーカーが設置された。
 スピーカーのサイレンと、飛行機の爆音と、投光機とでシンガー一族は不眠と緊張を強いられつづけ、気も狂わんばかりとなった。しかし10日目になっても、一族が降伏する気配はみられなかった。
 州知事はアダムとビッキーに対し、
「子供達はこの篭城の犠牲者だ、彼らのためにもこんな状態は解消すべきだ」
 と手紙を送ったが、シンガー一族の返事は、
「我々は独立国家であり、アメリカ政府の司法権を拒否する」
 というものであった。


 28日、アダムとジョナサンが農場から出てきたのを見た捜査員は、犬を彼らに向けて放った。それが終局への引鉄であった。
 アダムとジョナサンは犬が迫ってくるのを見るや走り出し、農場の中からティモシーがカービン銃を撃ちはじめた。
 のちにティモシーは犬を狙った、と証言する。が、実際にその弾丸を被弾したのはFBI捜査員であった。弾は防弾チョッキの縫い目をくぐりぬけ、腹部大動脈を切断して脇腹から貫通した。
 これを見た捜査員が、アダムとジョナサンに向け発砲。
 弾丸はアダムの右腕から入って肺で止まった。母屋までアダムはなんとか逃げ込んだが、傷はあまりに深手だった。
 これ以上の抵抗は家族をも危険にさらすことになる――そう判断したアダムは、傷口に押し当てた白いタオルを表に向かってのろのろと振った。
 白旗宣言であった。

 

 ティモシーに撃たれた捜査員は助からなかったが、アダムは一命をとりとめた。
 子供達は州に保護され、成人は留置所送りとなる。
 しかし農場に足を踏み入れた捜査員たちはあらためて愕然とした。そこにはショットガン、ライフル、拳銃などの銃器が16挺、弾薬8300発、ダイナマイト22本などが装備されていたからである。これだけの貯えがあれば、警察と彼らの全面戦争となっていてもおかしくなかったのだ。
 1988年5月、ビッキー、アダム、ジョナサン、ティモシーは法廷において有罪を宣告された。
 現在、ビッキーはすでに仮出所し再婚しているという。
 しかしアダム、ジョナサン、ティモシーはまだ服役中である。
 アダムは獄中において、こんな言葉を述べている。
「神は唯一無二だ。僕はジョン・シンガーの復活と、神の王国と、イエスの再臨を確信している、だから苦しくはない。――神はすべてであり、絶対で、ずべては神にゆだねられている。もちろん僕の人生もだ。
僕はただ、神を信じ、人々を愛していくだけだよ」。


 


 

 オウム真理教

 

 麻原彰晃こと松本智津夫は、1955年3月2日、熊本県八代市に生まれた。
 在日朝鮮人の父親は畳職人をしていたが家は貧しく、しかも7人の子沢山であった。松本はこの家の四男として生を受けたが、彼が物心ついたころにはすでに「極貧」とも言える状態だったという。
 家は傾きかかった掘っ立て小屋同然で、子供達が生のサツマイモを与えられてかじっているのを見た近隣の者もいた。時代は高度成長期で人々は急速に豊かに、華やかになっていたが、松本家は完全にその流れに取り残されたところで生活していた。

 松本の長兄は全盲で、熊本市内の寄宿舎制盲学校に進学した。松本も先天性緑内障で視力はひどく弱く、さらに五男も弱視であった。
 長兄は全盲であったが、松本自身はわずかとはいえ視力がある。しかし両親は松本と五男をも長兄と同じ盲学校へ通わせた。理由は、学費が免除されることと、寄宿舎費も食費もかからないことであった。態のいい口減らしと言えよう。
 まだ6歳の松本は「行きたくない」とかなり反抗したようだが、結局彼は盲学校へ送り出された。後年松本はこのときのことを振り返って、
「親に捨てられた、と思った」
 と語っている。
 この後、松本は盲学校で13年間を過ごすが、その間、両親が面会に来たことや電話してきたことはただの一度もなかったという。
 寄宿舎の寮母は、松本兄弟が入学した当時、あまりにも躾がされていないことに呆れて
「まるで猿の子供のようでした」
 とコメントしている。親なし子のように見えた、との言葉もあった。
 正月に全生徒が帰省する際でさえ、松本の両親が送迎に姿を見せたことはなかった。
 幼い3人の子供――それも1人は全盲、残る2人も弱視という境遇の子供を独力で帰省させる保護者というのは、我々の物差から鑑みて非常識を通り越し、冷酷と言うよりほかない。が、それが当時の松本家の現実であった。



 俗に『盲人の国では、一つ目が王様だ』というが、盲学校での松本はまさにその『単眼の王様』であった。
 松本は全盲の生徒を見下し、雑用をやらせたり、菓子や金を巻き上げたりするのが常だった。さからう者は暴力で支配した。
 彼は幼い頃から利害に敏く、利用できる人間は大事にしたが、それ以外の人間は奴隷扱いで、松本に殴られたことのない生徒の方が稀であったという。
 高等部では柔道を習い、中等部の生徒を殴って骨折させるなどの暴力沙汰を何度か起こし、謹慎処分となっている。
 高等部卒業まぎわ、耐えかねた生徒たちや父兄から「松本を退学にしてほしい」という声があがった。しかし周囲が「もう少しの辛抱だから」と宥めて、ようやく松本を卒業までこぎつけた。
 盲学校で松本はまず上記のように「暴力による支配」を行ない、さらに顕著な権力志向と、金への執着心をみせている。
 金に執着したのは、生い立ちの極貧に所以するものであろう。権力志向は常に他人の上に立ちたがるという形であらわれた。ちなみに生徒会長へは3度立候補したが、3回とも落選している。平成2年の総選挙出馬時の惨敗といい、彼はつくづく選挙という民主的な制度には向いていなかったようだ。

 高校卒業後、松本は専攻科に通って鍼灸やマッサージを学びつつ、大学進学を志した。それも目標は東大法学部である。盲学校の中で「中の上」レベルの成績だった松本に行けるようなところでは到底ない。しかし彼は真剣だった。後年のエリート志向も、この時点ですでに形成されていたと言えよう。
 1975年、盲学校専攻科を卒業。
 実家へは帰らず、松本は熊本市の鍼灸院でアルバイトをして生活した。しかし勤務態度は悪く、人間関係もうまく築けなかった。
 松本はここで院長に「将来は弁護士か、宗教家になりたい」という言葉を残している。
 1977年、上京。しかし当然のことながら東大受験は失敗した。

 

 のちに松本知子となる石井知子は、1958年に千葉県で生まれた。祖母と両親が教師という硬い家であり、真面目で成績優秀。
 現役での大学受験に失敗し、予備校に通う毎日を過ごしていたころ、電車内で偶然隣り合った松本智津夫と交際をはじめる。そして間もなく彼女は妊娠し、交際を親に打ち明けざるを得なくなった。
 1978年、入籍。松本は23歳、知子は19歳である。新居は船橋市に知子の両親の援助によって建てられ、松本はその近隣で鍼灸院をひらいた。しかし間もなく処方箋を無断使用し、調剤報酬の保険金を不正請求したかどで、670万円の返還を県に求められる、という事件を起こしている。
 1982年には、薬事法違反で逮捕されている。
 その後松本は「修行する」と言い、妻子を置いて船橋から一時姿を消した。
 船橋時代、松本の子供たちは地元の幼稚園に通わされていたが、ひどく不潔で協調性がなく、特にのちにアーチャリーというホーリーネームで知られることになる三女は、
「言葉を覚えるのが遅く、幼稚園になっても排便コントロールができず漏らしてばかりいた。知子さんは躾するでもなく、周囲に謝るだけだった」
 という。

 1984年、松本は天理教のお布施システムに習い、東京都にヨガ道場『オウム神仙の会』をひらき、名前を麻原彰晃とした。
 1985年、オカルト雑誌『トワイライト・ゾーン』に空中浮揚写真を掲載。
 1987年初頭、オウム神仙の会会員は600名に増え、同年末には1000人を越えた。同年8月、神仙の会は『オウム真理教』に改名した。

 

 オウム真理教の主要メンバーに付いては以下に簡単に記す。

 教団緊急対策本部長・上祐史浩。1962年福岡県生。父親は貿易商で不在がちであり、事実上の母子家庭といえる家で育つ。子供の頃は成績はトップクラスだったが、おとなしく影の薄い子だったという。
 早稲田大学時代には英語サークルに所属し、「ディベートの神様」と呼ばれるまでに活躍した。
 大学院を終了し、就職した直後、オウムに出家。空中浮揚写真を見たことがきっかけでヨガ道場へ通うようになり、松本を「父親」として慕うまでになる。

 オウム真理教附属医院院長・林郁夫。1946年東京生。実家も医院であり、子供の頃から成績優秀で、かつ努力家だった。慶応大学医学部卒。
 アメリカ留学中、妻りらと結婚。りらは高級官僚の父と、名医の家系の母との間に生まれた令嬢であった。人身事故を起こしてしまったことをきっかけに夫婦でオウム真理教へ入信。のちに一家で出家する。

 オウム顧問弁護士・青山吉伸。1960年大阪府生。中堅アパレル会社の創業者一族に生まれる。抜群の秀才で優等生だったが、目立たない子供だった。
 高津高校から京都大学法学部へ現役合格。21歳にして司法試験合格(史上最年少)。
 腰痛に悩んだことからヨガ道場へ通い始め、オウムの教義に触れて傾倒。1988年入信し、翌年出家。なおこの出家の一ヶ月前には、坂本弁護士一家失踪事件が起こっている。

 石井久子。1960年神奈川県生。真面目でおとなしい優等生として育つ。産業能率短大秘書科卒。OL時代の友人である飯田エリ子とともに健康のためヨガ道場へ通いはじめ、教義にのめりこんでいく。1988年出家。10年付き合った恋人と家族を捨て、結婚資金はすべて布施として捧げたという。松本智津夫が父であるとされる3人の子供の母親でもある。

 都澤和子。1965年東京都生。マンション経営の裕福な家に育ち、高校から飛び級をして短大の講義に出ていたほど成績優秀だった。上祐の元恋人であり、彼につき従うかたちで入信・出家。石井久子と同様、松本のとりまきとなる。

 土屋正美。1964年生。筑波大学農林学類から、同大学院化学科へ。大学院一年の春、交通事故で鞭打ちになったことからヨガ道場へ通うようになり、オウムへ入信した。

 林泰男。1957年生。工学院大学電気工学科(夜間)卒。昼間働き、夜学校へという生活の中で体調を崩し、体を鍛えるためヨガ道場へ通った。珍しくエリートでもブルジョワ階級でもない幹部である。

 

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 1989年3月、オウムは東京都知事に「宗教法人規則認証申請書」を提出し、反対運動が起こったもののこれを押さえ込み、8月に都の認証を受けて「宗教法人・オウム真理教」となった。信徒総数はこの時点で約3000人いたという。

 しかしこの申請書を提出する以前、1988年9月にはすでに、「真島事件」が起こっているのである。
 在家信者であった真島照之(25)が道場へ百日修行を受けにきたが、もともと薬物中毒の気味があり、行動が他信徒の修行の妨げになりがちであった。「頭を冷やさせろ」との命令を請け、女子浴室へ連れて行き数回浴槽へ頭を押し込んだところ、彼は溺死した。
 死体はドラム缶に詰められて護摩壇で焼かれ、骨はカナヅチで叩いて砕き、更にすり鉢で粉々にして上九一色村の湖へ捨てられた。

 1989年2月には、「田口事件」が起こっている。
 出家信者であった田口信二(21)が、真島事件において一部始終を目撃、また死体を入れたドラム缶を運ばされたことなどから教団に不信感を抱き、ワークに不平を言って帰郷を匂わせるようになった。
 それを聞いた松本智津夫は田口に独房修行を命じた。独房修行とは、通気孔のみで窓も電灯もない真っ暗な狭いコンテナに鍵をかけて閉じ込め、一日中、麻原の説法やマントラの録音テープを延々と聞かせるというものである。トイレはおまるが与えられるだけで、コンテナ内は自分の便臭で満ち、その中で食事もさせられる。
 しかし田口は翻意せず脱会すると言い張ったため、2月10日、松本から
「ポア(殺害)しろ」
 との命が下った。松本の言によると、ポアによってこれ以上の悪行を積まずに済むので幸福なのだという理論である。
 田口は首をロープで絞められた上、頚椎を折られて死亡した。死体は真島同様ドラム缶で焼かれ、遺灰は敷地内に撒かれた。

 

 同年11月には、「坂本弁護士一家殺害事件」が起こる。
 真島・田口事件とは異なり、教団内部の殺人ではなく、外へ向かった殺人である。
 この事件はあらゆる意味で、大きな転機となった。

 この事件は、6月に坂本弁護士らが「オウム真理教被害対策弁護団」を設立したことから起こった。マスコミを通じて弁護団はオウムを批判し、着々と被害者の会とともに訴訟の準備をしていた。
 11月3日、松本は殺害実行班へ、
「5分で死に至る注射でポアしろ」と命令。
 実行班は早川紀代秀(当時40)、村井秀夫(30)、新実智光(25)、岡崎一明(29)、中川智正(27)、端本悟(22)の6人である。
 11月4日午前3時ごろ、実行班は坂本弁護士宅へ侵入。早川は手袋を忘れたため、他の者がドアを開け、寝室で眠っていた
 坂本堤弁護士(33)
 妻・都子さん(29)
 子・龍彦さん(1)
 を、馬乗りになって上から押さえつけた。用意していた注射は何度も注入したものの、まったく効かなかった。暴れる坂本氏を端本が殴打し、岡崎が絞殺。
「お金ならあげます」
「どうか子供だけは」
 と言い、嘆願する都子夫人を新実が絞殺。龍彦ちゃんは中川が手で口をふさいで窒息死させた。
 坂本氏の鼻血のついた布団とともに、遺体は車で運ばれた。車内で、龍彦ちゃんを殺害した中川は、
「あははは、赤ん坊を殺してしまいました」
 と口走り、早川は彼を見て「少しおかしくなっている」と思ったという。
 村井は坂本氏に抵抗された際、指を噛まれ、その血痕が畳にわずかに散ったので、岡崎がこれを拭き取った。この時、村井が変装用のカツラを落とし、中川がプルシャ(教団バッジ)を落としている。カツラは早川が拾って帰ったが、プルシャは誰も気付かなかったため、そのままとなった。
 3人の遺体はそれぞれ、新潟、富山、長野に埋められた。
 新実はのちにこの事件について、端本に
「私は『すみません』とか『申し訳ない』とか、決して言わない。それを言うくらいなら最初からしない」
 と述べている。


 1990年2月、衆議院議員総選挙に、「真理党」として出馬、25人を立候補させる。
 公約は「消費税廃止・医療改革・教育改革・福祉推進・国民投票制度導入」である。結果は25人全員が落選。国民の記憶には、麻原彰晃(松本智津夫)の顔をしたハリボテをかぶって踊る異様なパフォーマンスだけが残り、失笑のまととなった。

 1994年6月、「松本サリン事件」。
 ナチスドイツが化学兵器として開発した神経ガス「サリン」を精製し、テストのため長野県松本市で噴霧したものである。死者7人、重軽傷者144人。
 第一通報者であるK氏が疑われ、マスコミは彼を連日実名で報道した。K氏はその後「地下鉄サリン事件」が起こり、オウムが正犯として逮捕されるまで「濃い灰色の人物」という色眼鏡で見られ続けることとなる。

 1995年2月、「公証役場事務長拉致・殺害事件」。
 目黒公証役場事務長である仮谷清志氏を、財産目当てで拉致したものである。彼の妹は在家信者であり、亡夫の遺産を6000万ほど教団へ寄付していた。残りの遺産もすべて吐き出させようと、オウム側は彼女にLSDを投与した上でイニシエーションを受けさせ、
「すべての財産を寄付し、出家する」と言わせた。
 しかし土壇場になって彼女が逃走したため、教団は兄である仮谷氏を拉致監禁し、麻酔剤と自白剤を大量に注射した。結果、心不全で仮谷氏は死亡。遺体は今までと同様ドラム缶で焼かれ、遺骨は粉々にされて湖へ投棄された。

 

 1995年3月、「地下鉄サリン事件」が起きる。
 3月18日未明、松本は林郁夫と村井秀夫、ならびに科学技術省次官の4人を呼び、
「近く警視庁が、公証役場事務長の件で、ここに強制捜査に入るらしい。そこで捜査の矛先をかわすため、3月20日朝のラッシュアワー時に、地下鉄の霞ヶ関あたりでサリンを撒き、首都を大混乱に落とし入れてほしい」
 と言った。
 その2年前から松本は
「米軍や自衛隊からの毒ガス攻撃があり、マスタードガス、サリン、VXガスにやられた弟子たちが、頭痛や吐き気など体の異状を訴えている」
 と説法で繰り返し述べている。
 これを真に受けた信者たちは「コスモクリーナー」と呼ばれる空気清浄機を取り付け、このおかげで被害が少ないのだと信じ込んでいた。
 なお松本は創価学会があるせいでオウムの信徒が増えにくいのだと信じていたため、名誉会長の池田大作をサリンで殺害しろと命じたこともあったが、このときは防毒マスクを忘れた新実が誤まってガスを吸い込んでしまったため、犯行は失敗に終わっている。

 1995年3月20日、犯行は実行された。
 午前8時、日比谷線、秋葉原近くを通過中の電車内で、林泰男が床に置いたポリ袋を傘の先で突いて、中のサリンを漏れ出させた。死者8人、重軽傷者2475人。
 午前8時、日比谷線、恵比寿近くを通過中の電車内で、豊田亨が同様の手口でサリンを散布。死者1人、重軽傷者532人。
 午前8時、丸の内線、御茶ノ水近くを通過中の電車内で、広瀬健一がサリンを散布。死者1人、重軽傷者358人。
 午前8時、千代田線、新御茶ノ水近くを通過中の電車内で、林郁夫がサリンを散布。死者2人、重軽傷者231人。
 午前8時、丸の内線、四谷近くを通過中の電車内で、横山真人がサリンを散布。重軽傷者200人。
 この一日だけで、死者12人、重軽傷者3796人を出すという未曾有の大惨事である。
 なお実行犯たちはサリン入りのポリ袋を包むのに「聖教新聞」と「赤旗」を選んで使用するという念の入りようであった。この新聞を購入してきたのは、新実だという。

 

 しかし当然のことながら、捜査の矛先をかわすことなど出来はしなかった。
 同年5月16日、麻原彰晃こと松本智津夫は、人ひとりが寝そべるのがやっとの隠し小部屋の中で排泄物にまみれているのを発見され、逮捕された。
 続いて、幹部が次々と逮捕されていくことになる。

 逮捕後も、松本に対する信者たちの信仰心と思慕はなかなか薄れなかったが、教団から離されたことと、根気強い捜査員の取調べにより自我を徐々に取り戻し、次第に重い口を開いていった。
 特に林郁夫は、教団弁護士の青山が逮捕され、その罪状が
「オウムへ毒ガス噴霧したかどで、教団近くの肥料会社を告訴。しかし逆に虚偽告訴の名誉毀損で逮捕される」
 という内容だったことにショックを受けたという。それまで彼は、教団への毒ガス攻撃という過激な宗教弾圧があることを、心から信じていたのである。理系のエリートを集め、高知能を誇る人材で固められた幹部たちではあったが、彼らの思考は一般の目から見ればおそろしく子供っぽかった。
 松本智津夫を崇めるためのアニメーションを作成し、「空中浮揚」なる超能力を信じ、コスモクリーナーという、アニメ『宇宙戦艦ヤマト』からとった名称をチャチな空気清浄機に付け、それで化学兵器の毒ガスを遮断できるのだと思っていた。
 総選挙でハリボテを頭からかぶり、テーマソングを作り、「歌い踊る」ことで票を集めようとしたというのも、まるで高校生の文化祭の延長じみたものに見える。が、彼らは真剣だった。(一方、マスコミを操ることには長けていた。この世代以降の国民として特有の感覚だと言えるかもしれない)
 林郁夫の裁判での証言によると、
「あらゆる極限修行を自らに課した。呼吸法では死んでもいいように息を止めた。舌の一部を切り取ったり、大便を食べたりして忠誠心を膨らませてきた」
 そうである。
 しかしそこまでして彼らが「師として、父として」慕った麻原こと松本智津夫は、現実には親の愛をまるで知らずに育ち、自己愛だけを肥大させた人間であった。

 被告席に立たされた松本は、名前を聞かれて「マイ・ネーム・イズ……」と英語でしゃべり出そうとしたり、支離滅裂なことを述べて、分裂病かガンゼル症候群のごとき様相を見せたが、証言台に立った元信者たちが何か不利益なことを言うたびに
「ふざけるな!」
「地獄へ堕ちるぞ!」
 などと恫喝しているため、詐病との見方が大きいようだ。

 1995年12月、オウム真理教へ解散命令が下る。
 残された信者たちの社会的受け皿を探そうと一部の運動家が奔走したが、当然のことながらそのような場はほとんどなく、信者たちはふたたび集まって肩を寄せ合った。要するに社会が彼らを求めていないのと同様、彼らもこちらの社会を求めてなどいないのである。
 2000年1月、出所した上祐史浩のもと、新教団「アレフ」が立ち上がる(のちに「アーレフ」と改名)。彼らの欲するユートピアがどこにあるのか、彼らがそれをどこに定めているのか、我々にはまったく不明である。

 

 現在、事件に関する判決結果等は以下に記す(2005年10月現在)

 

 松本智津夫  ……  教団代表(尊師)、一審死刑。控訴中。

 林郁夫     ……  地下鉄サリン、仮谷事件等に関与。無期懲役が確定。

 新実智光   ……  地下鉄サリン、松本サリン、坂本弁護士事件、田口事件等に関与。一審死刑。控訴中。

 村井秀夫   ……  地下鉄サリン事件、田口事件、坂本弁護士事件、仮谷さん事件など多くの殺人に関与するものの、山口組組員に刺され死亡。

 上祐史浩   ……  教団緊急対策本部長こと、マスコミ対処役。懲役3年を受け、1年後出所したのち「教団アーレフ」の代表となる。

 松本知子   ……  松本の妻。懲役6年を受け、1年後出所したのちは教団から去る。

 石井久子   ……  松本の子を3人出産。懲役3年8ヶ月を受け、1年後出所したのちは教団から去る。

 青山吉伸   ……  教団顧問弁護士。高裁懲役12年が確定。

 岡崎一明   ……  田口事件、坂本弁護士事件等に関与。死刑確定。

 横山真人   ……  地下鉄サリン事件等に関与。高裁死刑。控訴中。

 井上嘉浩   ……  地下鉄サリン、仮谷事件等に関与。高裁死刑。控訴中。

 林泰男    ……  地下鉄サリン、松本サリン事件等に関与。高裁死刑。控訴中。

 豊田亨    ……  地下鉄サリン事件等に関与。高裁死刑、控訴中。

 広瀬健一   ……  地下鉄サリン事件等に関与。高裁死刑、控訴中。

 端本悟    ……  松本サリン、坂本弁護士事件等に関与。高裁死刑、控訴中。

 早川紀代秀 ……  田口事件、坂本弁護士事件等に関与。高裁死刑、控訴中。 

 土屋正美   ……  松本サリン、地下鉄サリン事件等に関与。一審死刑、控訴中。

 遠藤誠一   …… 松本サリン、地下鉄サリン事件等に関与。一審死刑、控訴中。

 中川智正   ……  松本サリン、地下鉄サリン、坂本弁護士事件、仮谷事件等に関与。一審死刑、控訴中。

 

 

「エリート中のエリート」、「頭脳集団」と呼ばれた彼らが、自分の生きがいと居場所を探し、自己のすべてを預け得る父性を欲した結果がこれらの判決と、被害者総数であるということを、我々は社会の一員としても個人としても、重く受け入れざるを得ない。

 

 

 

 
 

 

 


白昼夢を追う者は危険な人間である。
何故なら彼らは、目を開けたまま自分の夢を演じ、これを実現することがあるから。

――アンドレ・マルロー『書簡集』より――