第一次大戦後/ドイツ

 

 ベルギーの数学者、L・ケトレーは社会統計学を作ったことでも知られている。
彼は社会政策の失敗・成功が犯罪の増減に反映されるということを
統計学的に明らかにした。それによって、犯罪が社会病理現象の一つ
であることが証明されたのである。

 第一次大戦後のドイツは経済的にも精神的にも、破綻しきっていた。
闇屋と闇市、悪徳商人と浮浪者、犯罪者があふれかえったこのアノミー都市のもと、
跋扈した三人の犯罪者がいる。
 彼らはいずれも大量連続殺人者であり、人食いだった。

 


◆ゲオルグ・カール・グロスマン

 彼は1914年から1921年までの間、ベルリンの自分の部屋に誘い込んでは殺害した被害者の肉を食べて生きていた。
 被害者のほとんどが女性で、被害者総数は不明だが、おそらくハールマンの50人という記録を優に超えるだろうと言われている。
 一般には彼はホットドッグ売りで、人肉をソーセージにし、商品として売りさばいたとされているが、どうやらこれは嘘のようだ。グロスマンはホットドッグ売りではなかった。彼はただ女を殺し、解体し、それを肉屋に売っただけである。彼はアパートの自分の部屋へ入る専用の入り口と、台所の独占使用を家主に無理やり認めさせていた。
 グロスマンの前科はほとんどが子供に対する性的な暴行である。もとより重篤な変質者であったことは確かだが、時代が彼の狂気に拍車をかけたのかもしれない。
 逮捕されたのは、家主がグロスマンの台所から争うような物音を聞いたのがきっかけだった。通報を受けて踏み込んだ警察は、殺されたばかりの女性がベッドに縛りつけられているのを発見した。捜索の結果、グロスマンがここ3週間以内に女性3人を殺し、解体したことを示す証拠が見つかった。
 グロスマンは日記に被害者の名前を記録していた(おそらくはドイツ人らしい几帳面さで?)死刑判決を聞くと彼は笑い出し、躁病の発作を起こした。しかし刑が執行される前に、彼は独房内でサスペンダーを使って縊死した。

 


◆フリッツ・ハールマン

 ハールマンは1918年から1924年までの間に、およそ50人の若い男を同性愛行為の末に殺害し、死体を食肉として自分の店で売っていた。「ハノーヴァーの屠殺人」の異名をもって彼は知られている。

 1875年10月25日、フリッツ・ハールマンは6人兄弟の末子として生まれた。両親は不仲で、母親っ子だったハールマンは飲んだくれの父親を憎んで育った。母親は彼を甘やかし、女の子のように躾て人形で遊ばせたので、父親の方もなよなよした息子を疎んじたようだ。なおハールマンの次兄は幼女暴行で長く懲役し、3人の姉は全員が売春婦となっている。
 16歳で陸軍学校へ入るが、癲癇の兆候があったため退学となり、その後は職を転々とし、幼い子供にいたずらしたり、窃盗を繰り返して少年院に送られた。
 25歳で従軍、28歳で除隊。その後も泥棒や詐欺などで刑務所を出入りし、ハノーヴァーに戻ってきたのは1918年のことである。彼は43歳になっていた。

 この年、ハールマンはツェラルストラッセ通り27番地に肉屋を開く。彼は小太りでちょび髭を生やしたいかにも人の良さそうな顔つきで、愛想がよく、まさに「町で人気の肉屋さん」というイメージにぴったりだった。血だらけの前掛けをしてシャツの袖を肘までまくりあげ、にこにこしながら店頭で肉を切るハールマンの姿は、じきに人々の目になじんだ。
 大戦直後のことだけあって食料はどこでも不足がちだったが、ハールマンの店にはいつでも新鮮な肉があった。しかもそれが、破格に安い。人々はみんな、さぞ彼は闇市で「いい顔」なのだろうと思っていた。
 ハールマンは手際よく肉を切りさばき、少し古くなったら自慢の腸詰を作った。その腸詰がまた美味で、飛ぶように売れたという。
 誰も彼の商売が、趣味と実益を兼ねたものだとは思いもしなかった。

 彼はまた、肉屋をやるかたわらで警察の密偵をやっていた。ちょっとした情報を集めて密告したり、手先として働いたりと、スパイなどという大袈裟なものではないが、ていのいい便利屋だ。しかしこれをやっていたおかげで、警察も彼の微罪は大目に見る、という暗黙の了解が成り立った。
 つまり、彼がホモセクシュアルで、浮浪児にちょっかいを出すくらいなら見て見ぬふりをした、ということである。

 1918年12月23日、ハールマンは12歳の美貌の浮浪児を拾い、家に連れ帰って4日間情交した。しかしその後、彼の寝室からもその美少年の姿は消えている。
 だがその少年には実は母親がおり、彼女の嘆願で行方不明の捜査がはじまった。やがて目撃者が見つかり、どうも肉屋のハールマンが少年を連れ帰ったらしいことが判明する。
 刑事はハールマンの家の勝手を知っていたので、訪れてノックもせずドアを開けた。するとハールマンは1人の少年と情交の真っ最中であった。しかしそれは例の失踪少年ではなく、同じく美貌だが14歳の浮浪児だった。さすがに言いのがれができず、ハールマンは猥褻罪の現行犯で9ヶ月の懲役を食らうこととなる。
 だが警察はあまりに呆気にとられたためかハールマン宅の捜索をろくにやらず、結局少年の失踪事件を迷宮入りにさせてしまう。実際にはストーブの後ろに、無造作に新聞に包まれた少年の生首が置いてあったのだけれど。

 1919年9月にハールマンは出所し、今度はすぐ近所のノイエストラッセに新しい店をかまえた。そしてその直後から、戦争で家をなくした浮浪少年たちが続々と姿を消すことになる。
 彼の手口は、行くあてもなく駅で寝泊りしている少年を警察のふりをして叩き起こし、顔を上げさせて美醜を確認して、お眼鏡にかなう容貌だと見るや、「かわいそうに、飯を食わせてやる」「寝床を提供してやる」と言って家に連れ込むといったものである。
 のちに彼は48人殺した、と警察で自供した。もちろん大戦後のどさくさのうちに起こったことだから、正確な総数はわからない。ハールマン自身ですら、覚えていなかったというのが実際のところだ。
 ともかく、ハノーヴァーをうろついていた哀れな少年たちは、下が10歳から上が23歳まで、美貌でさえあれば軒並み彼の毒牙にかかったのである。

 そのうちハールマンは、ハンスという24歳の美青年とねんごろになった。2人は同棲し、ハンスはハールマンの犯行の片棒をかついだばかりか、肉のストックが少なくなると彼をせかして浮浪児を拾いに行かせた。ハールマンはのちに法廷で、
「ハンスに肘でちょんちょん突っつかれて、甘い声でせがまれると何でもしてやりたくなりました」
 とのろけている。が、その実これはハンスにそそのかされてやったのだ、という責任転嫁が大いに混ざった言葉である。
 またハールマンはまだ警察の密偵をやめておらず、その恩恵も今だこうむっていた。1度などは彼の店に来た客が、カウンター下のバケツに突っ込んである肉塊が、いかにも産毛の生えた人間の尻肉そのままに見えたので、慌てて通報したこともあった。だが警察はこれをろくに調べもせず、「豚の肉だ」といって片づけた。

 1924年5月、ハノーヴァーの川から4つの頭蓋骨が引き上げられた。ここに至って警察はようやく重い腰をあげ、ハールマンに疑いの目を向けはじめる。
 ベルリンから刑事が派遣され、ひとりの絶世の美少年が囮として放たれた。案の定ハールマンはこの子に手を出し、家に連れ込んで今しも強姦しようとしているところに警察に踏み込まれた。ハールマンは猥褻罪で現行犯逮捕。警察はそのまま家宅捜索し、被害者の遺留品とおぼしき衣類を山ほど押収した。
 また、川からは続々と骨片の詰まった袋が発見され、鑑定の結果、少なくとも23人分の骨であることが判明した。

 ハールマンの裁判は大々的に行なわれ、傍聴人が引きもきらなかった。
 彼が警察の内情に明るく、いろいろと秘密を握っていたからか、判事は彼にやたらと甘かった。ハールマンは傍若無人で尊大だったが、それでも傍聴人には不思議と人気があった。
 ハールマンは1度、「なんでこんなに、法廷に女をたくさん入れるんだ」と怒ったことがある。すると判事は詫びるように、
「いや、女性だけ拒むというわけにはいかないんでね」と言った。
 またあるときは、ハールマンは「この少年も行方不明なのだが、見覚えはあるかね」と一枚の写真を見せられ、ちょっと見つめたあと、不愉快そうに顔をそむけて
「ふん。こんな汚い男、誰が食うか」
 と言った。こういう傲岸不遜な態度が、見ようによっては面白かったのかもしれない。

 ハールマンは死刑を宣告され、妻役のハンスは12年の懲役となった。
 フリッツ・ハールマンは刑の執行前に長い告白文を書いたが、それは懺悔や悔悟録とは程遠く、殺人がいかに甘美で快楽をもたらすものかを綿々と綴ったものであった。

 


◆カール・デンケ

 1921年から1924年にかけて、デンケは浮浪者を殺しては死体を手ごろな大きさに切り、塩漬けにして樽に保存していた。目的は純粋に食用である。
 デンケは地元では「パパ・デンケ」と呼ばれ、非常に尊敬されていた男だった。大きな屋敷と土地を所有しており、広大な農地も持っていた。また日曜教会の達者なオルガン奏者でもあった。
 第一次大戦後のドイツは飢饉に苦しんでいた。経済観念の発達していた彼は、自分の財産を売り払ってまで、高い食費を払う気にはなれなかったらしい。
 しかしある日、デンケのアパートの上の階の住人が悲鳴を聞いて、家主の身になにか起こったのかと、階下へと助けに駆けつけた。しかし彼がそこで見たのは、斧で頭を割られ、瀕死であえぐ若い浮浪者だった。住人は慌てて警察を呼んだ。
 デンケの家を捜索した結果、12人の浮浪者の衣服と、塩漬け肉の入った樽が2つ出てきた。また、30人以上の男女の遺留品が発見された。
 グロスマンと同じく、彼も被害者の名前、体重、死亡年月日を手帳に付けていた。そしてこれもグロスマンとまったく同じ方法で――独房で、サスペンダーで縊死した。

 


1920年代なかば、ドイツの子供たちの間で流行ったジョーク。
Q.「世界でいちばん怖い人殺しはだあれ?」
A.「ハールマン・イッヒ・デンケ」

意味は「ハールマンだと僕は思うよ」
もうひとつの意味は「ハールマン、デンケ、それに僕だ」

 

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