アルバート・フィッシュ

 

 

「ふふんだ! もしこの行為が自然を侮辱するものなら、
なんだって自然はあたしたちに復讐しないのさ? やればできるのにねえ。
この足元にたちまち噴火を起こして溶岩をあふれさせ、
あたしたちを一呑みにしてしまえばいいものを!」

             ――マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』より

 


 

 彼は鑑定医ですら「まっさきに子供を預けたくなるような」と形容したほどの穏やかな容貌の持ち主だった。だがその皮膚の一枚下では、狂気が煮えたぎっていた。

 1928年5月、マンハッタンはチェルシー通りにあるアパートのドアを、一人の男がノックした。
 アパートの住人であるバッド家の家人が出てみると、そこにはいかにも紳士然とした老人が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
 老紳士はフランク・ハワードと名乗り、新聞に出ていた求職広告を見てやって来た、と丁重に述べた。
 求職広告を出したのはバッド家の長男である。ドアマンをしている父の収入だけでは彼らの生活は苦しく、彼はなんでもして稼ぐつもりだった。そんな彼にハワード老人は、
「真面目に働くなら、週15ドル払ってもいい」
 と言い、家人はそれに素直に喜んだ。
 翌々週、ハワードはふたたびバッド家を訪れた。手土産に上等なチーズを携え、金のかかった品のいい身なりをした、温厚な紳士。それが誰の目にも映ったハワード老人の姿であった。
 そんな彼に、10歳になる娘グレースをパーティに連れていってあげたいのだがどうか、と持ちかけられて、バッド家の人々が断るはずはなかった。ハワード老の話によるとコロンバス通り137番地に住む彼の妹の家で、盛大なバースデイ・パーティが行なわれるのだという。
 両親はグレースに、礼拝へ行くための一張羅の白いドレスを着せ、出来る限りのお洒落をさせて送り出した。
 老人はグレースの小さな手を握り、彼らに一礼して、出て行った。
 しかしグレースは翌朝になっても戻ってはこなかったのである。
 両親はハワードの言った妹の家の住所へ娘を探しに行った。しかしコロンバス通りは109番地までしかないことがわかり、彼らは慌てて警察に駆け込むことになる。
 しかしグレースの行方はおろか、ハワード老の身元さえ、誰もその後杳として掴めなかった。
 真実が明らかになるまでに、それから6年を彼らは待たなければならない。



 


 1934年11月、グレース・バッドの母親は署名のない一通の手紙を受け取った。
その内容は、以下のようなものであった。

「わたしには船乗りの友人がおり、彼には人肉嗜食のくせがありました。つね日頃彼の話を聞いては実行してみたい、と思っていたわたしでしたが、あの日お宅で昼食をご馳走になった際、膝の上に乗ってきたお嬢さんの笑顔を見て決心したのです。この子を食べてみよう、と……」

 手紙はなおもつづいた。

「わたしの家に訪れた彼女は喜んで花壇の花を摘みはじめました。わたしは全裸になって彼女を呼びました。最初はにこにこして部屋に入ってきた彼女でしたが、わたしを見ると狂ったように叫びはじめたので、仕方なく首を絞めました。
 それからわたしは彼女をこまかく切り分け、しばらくの間彼女を食べて暮らしました。お宅のグレースさんの肉は柔らかく甘く、オーブンでとろとろと焼き上げると最高の味がすることをご存知でしたでしょうか。お嬢さんは9日間かかってわたしのおなかの中に消えたのです」

 そして、まるで両親を安心させるかのような丁重さで、

「どうかご両親においては失望なさることにないように。わたしは彼女を犯しませんでした。彼女は純潔のまま、神に召されたのです――」

 グレースの母親は悲鳴をあげ、卒倒した。
 手紙の投函場所と、筆跡、封筒の出所から投函者はただちに知れた。3週間後、刑事はその容疑者アルバート・フィッシュのドアをノックし、中に入った。
 フィッシュはテーブルに座って、ちいさなカップで紅茶を飲んでいた。
「まるで『無害』という言葉が服を着て座っているようだった」
 とその刑事はのちに語っている。
 刑事が彼に任意同行を求めると、小柄な老人はわずかに身じろぎした――ように見えた。そのとき刑事が瞬時に身をかわしていなければ、剃刀の刃は確実に彼の頚動脈を裂いていただろう。
 刑事は慌てて老人の手をねじりあげ、剃刀を取り上げた。
 老人は微笑んだ。
「わかった。きみの勝ちだ。行こうか」
 フィッシュの自供により、グレースの死体は彼の以前の住居のコテージから発見された。完全に、白骨化していた。

 

 

 

 アルバート・フィッシュは5歳のとき、父の死によって孤児となり、施設にあずけられた。
 そこでの戒律は厳しいもので、些細なことで子供たちは鞭でぶたれた。
 
のちにフィッシュは「惨めさと苦痛は、犯罪のよい肥やしになる」と捜査員に語っているが、彼はここで鞭打ちの苦痛と屈辱を、性的な快感にすり替えるすべをすでに身につけている。
 虐待を受けたが、ティーンエイジャーで自殺もせず生き延びた者を、アメリカでは「生存者(サヴァイヴァー)
」と呼んでいる。意外なことに、そのうちには多重人格者も含まれる。
 彼らは生命力が強いのである。だから、虐待の肩代わりをさせるべく「別の人格」を体内から排出してでも、生きのびようとする。脳が死に屈服することを拒み、逃避というメカニズムを発動させるのだ。
 そしてフィッシュの場合、それは「苦痛を快感に変換すること」だった。

 また、彼の生き別れの兄は海軍を除隊したあと、たまに施設を訪れたが、そのたびに幼い彼にエロ写真を与えたり、軍隊で見聞きした「人肉食い」のグロテスクな話をして聞かせた。
 さらに12歳のとき、彼は年長の電報配達夫と性的な関係を持った。相手も未成年ではあったものの、それはいささか性的虐待に近いものであった。だがフィッシュはすぐにそれに惑溺した。
 その青年は、すでにマゾヒストであったフィッシュに、相互サディズムのやり方と、スカトロジーを混じえた性行為を教えこんだ。この関係は数年つづいた。



 しかし、14,5歳になるまでフィッシュがまともな性的環境に一度も置かれたことがないというのは、やはり当時の社会状況をさしひいてさえも驚くべきことである。だが彼はこれらのすべてを「受け入れ、順応」することで適応していった。フィッシュは精神的にひどく、タフだったのだ。

 

 

 だが彼にも最後のチャンスが――まともな愛情をはぐくむ人間になれるかもしれない最後の機会が訪れた。結婚である。彼は塗装工の仕事をしながら、この妻との間に3人の子供をもうけた。
 が、結婚19年目にしてこの夫婦関係は破綻する。きっかけは妻の浮気であった。
 彼女は近所の精神薄弱の男と駆け落ちし、数日後帰ってきた。それだけならまだしも、
「このひとと一緒にここで住ませてほしいんだけど」
 と彼女は言ったのだ。
 済んだことは水に流してやってもいい、だがそれは無理だ、とフィッシュは至極まっとうなことを妻に告げた。妻はしぶしぶながらそれに同意し、愛人と別れると約束した。
 が数日後、フィッシュは信じられない光景を目にすることになる。追い出したはずの精薄の男がまだ彼の家にいて、彼の妻と抱きあっていたのだ。
 じつは妻は彼に内緒で、その低脳の従順な愛人を屋根裏部屋に住まわせ、こっそり食事を運びながら情事にふけっていたのである。
 この事実はフィッシュを打ちのめした。その上2人は駆け落ち費用としてフィッシュ家にあった家財道具のすべてを持ち出し、売り払って出ていった。
 彼のもともと不安定だった精神が、完全に均衡を失いはじめるのは、この瞬間からである。

 

 だが殺人をはじめるのは、もっと後の話だ。
 彼は例の電報配達夫以来の「理想の恋人」を見つけることはとうとうできなかった。その代わり、彼は「代償行為」でその隙間をただちに埋めた。
 フィッシュは自分で自分を痛めつけることを好んだ。釘を植えたパドルで自分の全身を叩いたり、真っ赤に焼けた金梃子を押し付けたりもした。彼はあいかわらず塗装工だったが、ペンキを塗っている間はオーバーオールの下になにも着けず、幼い少年が通ると「前をはだけて見せる」などという典型的な露出行為にも励んでいたようだ。
 また、家に遊びに来た息子の友達に、鋲を打ちつけた板を手渡し、ズボンを脱いで四つんばいになると、その裸の尻を血が出るまで殴ってもらった。しかし長ずるにつれ息子たちはこれを嫌がったので、彼はまた自傷行為に戻った。
 彼のあみだした自傷行為の中でもっとも有名なものは、陰嚢に針を突き刺すこと(彼の骨盤周辺を撮ったレントゲンは、彼を紹介した著作にはたいてい掲載されている。そこには錆びた針が太いのも細いのも、折れたのも腐食しかけたのも混じって、27本映っている)と、直腸にアルコールをひたした綿布を詰め込み、火をつけて、体内が燃える感覚に身悶えることだった。 

 彼はグレースをたしかに犯さなかったのかもしれない(発見当時はすでに白骨化されていたため確認は不可能だった)、しかしその後の犯行はすべて少年少女に対する凌辱殺人である。
 彼の対象はなぜつねに子供でなくてはならなかったのか。純粋に小児(ペ ド)愛好者(フィリア)だったのか、それとも無害な弱者だったから狙ったのか、それとも惨めな自分自身の幼少期をそこに重ねあわせ、抹殺することを望んでいたのか?
 ただ、フィッシュ自身はこう言っている。
「いついかなるときでも、私は子供を憎いと思ったことは一度もない」と。



 彼は自分の幼児殺害が「彼らを貧しい悲惨な境遇から、将来出会うであろう人生の恐怖から救ってやる崇高な行為」であると信じていた、と述べている。
 だがそう真顔で言い切る反面、彼は少年を去勢することに性的快感を感じ、彼らを解体しながら射精し、グレース・バッドに至っては、切断した耳と鼻を新聞紙に包んで常時持ち歩き、それを電車の中などで尻に敷いて興奮したことも認めている。
 フィッシュは警察で、400人の子供を殺したと供述した。この数字にはなんの根拠もなく、誇張ととらえるよりほかない。だが少なくとも数十人の子供を殺したことはあきらかで、性的暴行を加えた子供の数は100人をくだらないはずだった。
 彼の犯行と確定しているものはウィリアム・ギャフニーという4歳の少年を拷問の上殺害した事件と、8歳のフランシス・マクドネルを同じく殺害した事件、並びにグレース・バッド事件のみである。
 が、1933年と34年には地下室で拷問を受け絞殺された子供達の死体が発見されており、前年の32年には、フィッシュが塗装を請け負っていた地区で16歳の少女が殺され、解体されるという事件も起こっている。そのほかにも、はっきりと立件はできなかったがきわめて疑わしい、とされている事件は数多い。
 彼はいつも貧しい子供達を狙った。食事か金銭で彼らを釣り、監禁して犯し、拷問した。フィッシュはどうしても犠牲者の悲鳴を聞きたかったので、いつも猿轡を噛ませずに彼らを刺し、切り刻み、突き貫いて甘美な快感に浸った。

 


 彼が犯行をおかしていた期間は約25年間だが、その間軽犯罪以外の罪に問われたことは一度もない。穏やかな容貌も上品な立ち居ふるまいも、すべてが彼にとって有利だった。

 犯行はあまりに歴然としていたので、裁判の論点はただひとつ、彼が狂気であるかどうかだけだった。
 フィッシュの強靭な精神は自殺を拒み、すべての苦痛を快楽としてとられることで永らえてきた。だがその代償として精神の均衡を失っているのは誰の目にも明らかだった。
 彼の精神鑑定を任された当時のアメリカ精神医学の権威、ワーザム博士は彼を狂気であると断定し、電気椅子ではなく病院へ収容すべきだと主張した。
 また彼は法廷で、こうも言っている。
「ここにいる男は治療も矯正もできないばかりか、“罰すること”すらできないのです。――なぜなら彼は死刑の苦痛と恐怖でさえ快楽ととらえ、それを毎日愉しみに待ち受けているのですから」。
 しかし、陪審員はフィッシュを正常と認め、彼を第一級殺人で有罪にした。

 

 

 

 記者に囲まれたフィッシュは、電気椅子送りになることについて、

「最高のスリルだ。――いままで試したことのない、唯一最大のスリルだ」

 と述べた。これはキュルテンの「自分の首が切断されるときの、その血の噴き出る音を是非とも聞きたい」という言に共通するところのある台詞だと言えよう。


 彼は65歳という高齢ながら、1936年、電気椅子に座らされた。
 アルバート・フィッシュは最期の食事としてTボーンステーキを残さずたいらげ、処刑場へ向かった。
 この処刑において、彼は自分の足を縛りつけるのをいそいそと手伝っただとか、体内の針のせいで電極がショートし機械が止まっただとか、あるいはその針のせいで電流が「流れすぎて」、目から青い火花が噴き出したなどという逸話が数多く残されているが、そのすべてがデマである。
 彼はふつうの死刑囚とまったく同じように、3000ボルトの電流でたやすく絶命した。


 彼の最期の言葉は、
「なんでまた私は、こんなとこにいるのかねぇ」
 というものだった、という。

 

 

 


 

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