The Play With Fire
――放火殺人――

 

火は太古の昔より人類の心をとらえて離さない。
燃える蝋燭のまわりを飛ぶ蛾のように、
その炎は催眠術に似た力で人間を惹きつけてきた。
火は権力、熱情、浄化、報復、生贄、罰、殉教を象徴する。
心理学者や精神科医は、
火を抑圧された敵意、攻撃性、破壊的傾向、サディズム、性的未熟、
病的復讐心とも結びつける。

――ロバート・K・レスラー『異常殺人者ファイル』より

 


ジュディス・デルグロス

 

 1978年1月2日、オハイオ州バーノンで、トレーラーハウスが火事になった。中にはまだ家長のドナルドと、妻の連れ子であるまだ5歳のクリストファーがいた。
 ドナルドの妻ジュディスと、6歳の息子と9歳の息子は助かったが、ドナルドとクリストファーは必死の消火作業にも関わらず、焼死した。
 事件を担当した地元警察は、しかし現場検証の結果とジュディスの証言に食い違いがいくつかあるのを発見した。
 まずジュディスは暖炉が爆発したと言ったが、その痕跡がなかったこと。次にドナルドの死体から右耳がちぎれており、焼け跡でそれらしきものが発見されているが、騒ぎの最中に紛失してしまったこと。現場から焼け焦げた黒魔術や悪魔崇拝の本が見つかったが、ジュディスが「知らない、見たこともない」と言ったこと。そして9歳の息子ジミーはもう証言できる年齢のはずであったが、貝のように口を閉ざしたまま何も語ろうとはしなかった。
 だが結局、この事件は「何者かの放火による犯行」とされ、迷宮入りとなった。

 それから15年後、レイプの罪で懲役12年から14年の刑を受けた若い男がいた。この男の名は新聞に載ったが、それを見てぴんときた者がいた。トレーラーハウス炎上事件の捜査にあたっていた刑事である。
 レイプ犯の名はジミー・コテンティン。火事の生き残りだったが何もしゃべらなかった、当時9歳の息子だ。
 刑事はジミーのいる州立刑務所に面接に訪れ、「15年前の事件の捜査員だ」と名乗った。
 するとジミーは目に見えて震えだし、顔を伏せて泣きはじめた。
「すいません。あのときは言えなかった。――はい、でも犯人はお袋です。お袋が親父の頭を灰皿で殴って、家に火をつけました」
 と告白する彼を、刑事はなかば呆然と見た。
 このジミーの証言により、ドナルドとクリストファーの遺体が掘り返され、人骨が検死にまわされた。ドナルドの頭蓋骨は強い殴打のため陥没しており、肋骨にはナイフでの刺し傷が何箇所も発見された。
 1993年11月、公判がひらかれ、42歳になっていたジュディスが召喚された。証言台に立ったジミーは「放火犯を指さしてください」と言われ、ためらいもなく自分の母親を指さした。
 犯行当夜、夫に不貞を責められたジュディスは口論の末、彼を灰皿で殴り、刺し殺したあと、家に放火して逃げた。クリストファーが死んだのは偶然で「連れていくのを忘れた」だけだという。またドナルドの耳を切ったのは「黒魔術に凝ってましたので、捧げもののつもりでした」と説明した。
 ジュディスは2回の終身刑を宣告された。保釈が認められる頃には73歳になっている計算である。

 


ゲリー・コーンウェル

 

 ゲリーは32歳の機械工で、アリスという恋人と同棲していた。しかし1955年の12月頭に、いきなりアリスに
「好きなひとができたので、別れてほしい」
 と言われる。アリスの新しい相手とは、ゲリーも顔見知りであるハンドという製鉄工だった。ゲリーは気の弱い男だったので黙ってアパートを出ていき、ハンドと立場を入れ替わってやった。
 ゲリーはその後も、2人と仲良く付き合った。「おれはもう、こだわっていない」という心の広いところを見せるつもりだったのか、それとも心底腰抜けだったゆえかはわからない。ともかく、
「クリスマス・パーティを一緒にやらないか」
 という2人の無神経とも言える誘いを受け、彼は聖夜をともに祝っている。
 ほろ酔いでパーティから帰る途中、ゲリーはふっと気が変わり、2人の済むアパートへ引きかえした。アリスとハンドがベッドで愛を交わし、やがて寝入ってしまうのを、彼は窓からずっと覗いていた。
 ゲリーは近くのガレージへ行ってガソリンを3ガロン買い、2人がまだ眠っているベッドルームへ堂々と歩いて入ると、ベッドにたっぷりガソリンを撒いた。
 彼が帰ったあと、ストーブのパイロット・ランプがガソリンに着火した。アリスとハンドはあえなく焼け死んだ。
 ゲリー・コーンウェルは終身刑となった。怒るべき時に怒れない人間は暴発の危険をつねに秘めているということを、本人も周囲の人間も忘れてはならない。

 


ジューン&ジェニファー・ギボンズ

 

 彼女らの犯行によって死んだ者はひとりもない。しかしあまりに特異な例であると思えるので、ここに紹介することとする。
 1963年4月11日にこの一卵性双生児は誕生した。父親は英国空軍管制官であり、母親は専業主婦。この双子以外には3人の子供がいた。
 ギボンズ一家は西部ウェールズの一角に位置するその町の、唯一の黒人一家であった。
 父親は家庭のことは一切合切、妻に任せきりの男だったという。妻はそれを受けてもともと家庭的な女ではあったが、夫が家族をかえりみないことには不満だったし、近隣の住民はいやがらせはしないまでも、肌の黒い一家に対してよそよそしい態度を崩さなかったので、余計に家庭と家事にのめりこんでいった。

 双子は健康に育ち、順調に立って歩きはじめたが、言葉の発達は遅かった。またお互いと離れるのをひどくいやがり、無理に引き離すと泣きわめく。こちらの言葉は理解しているし、読み書きも充分にできるのだが、積極的に応答はしないのでみんな往生したが、
「ひどい恥ずかしがり屋さん」
 ということで大人たちはこれを片づけてしまった。
 ふたりは学校でもうまくなじめず、一言もしゃべれない上に人種間の壁があったので、クラスメイトの嘲りの対象となった。いじめられると彼女たちは向かいあってお互いの肩を抱き、アルマジロが防御体勢をとるのとそっくりに、ボールのように丸くなって周囲の攻撃から身を守った。それはまさに彼女たちの「殻」そのものに見えた。
 双子は外界からまったく隔絶されているかのようだった。ふたりはいつでも寸分たがわずのろのろと同じ動作で動き、死んだような無表情で、腰をかがめて足を曲げたアヒルのような格好で行進するかのごとく歩いた。それは誰の目にも、いかにも奇妙だった。
 だがその「まったく同じタイミングで動く、寸分たがわぬ動作」が、お互いがお互いを監視し合っているせいだとはまだ誰にもわかってはいなかった。

 ふたりはお互いなしではいられないほど激しく愛しあっていたが、同時にこれ以上ないほど憎みあってもいた。おそらくは何らかの器質障害のゆえだが、彼女らは自分たち2人以外のものを実感として認識できなかったのである。ふたりはどこまで行ってもふたりきりしかいない社会に生息しており、そのほかの外界はほとんど意味のないもの(お互い同士が張り合う道具に使う以外は)だったのだ。
 知能は高かったが、IQテスト結果はさんざんだった。ふたりは理解力は優れていたが表現力がなく、興味のない科目には見向きもしなかった。
 彼女らは精神科医や面接官はもちろん、兄弟や両親にもほとんど口をきかず、隠れてお互いにだけ通じる特異な言語でしゃべった。ふたりの会話を録音したテープはまるで聞き取れず、人間がしゃべっているというより小鳥のさえずりのように聴こえたという。

 ハイティーンになると2人は「どちらがより女として魅力的か」と張り合うようになった。18歳のとき、彼女らは14歳のアメリカ系白人の少年に熱をあげ、処女を奪ってもらった。少年はふたりにアルコールとシンナー吸引を教え、体を求めながらも暴力をふるった。双子はそれでも「なんとか相手よりも多く歓心をかわねば」という一心で彼にまとわりついた。だが少年は2人を軽蔑しきっていたので、無視し、殴り、嘲り笑い、そうかと思うとところかまわず彼女らを犯した。
 双子はウオッカやブランデーをがぶ飲みし、ボンドを吸って例の奇妙な歩き方でうろついた。よその家のチャイムを押して逃げたり、男の子たちに「愛の脅迫状」を送りつけることもしばしばだった。しかし双子はこれが自分たちの仕業だとはばれていないと思いこんでいた。
 まったく悪意なくふたりは窃盗と放火を繰りかえすようになった。炎がめらめらと燃え上がるのを見ると、もうひとりの自分に繋ぎとめられ続けてきた苦しみがすこし和らぐような気がしたという。
 しかし双子は、「恋人の少年に無下にされると、火をつけたくなる」という因果関係には気づいていなかった。2人が意識上にのぼらせることができるのは、どこまでいってもお互いの存在だけだったのである。

 放火事件は繰りかえされた。あるトラクター会社は双子の放火により、10万ポンドもの損害をこうむった。
 だがやがて、双子は現行犯逮捕されることになる。双子は「サイコパス」と診断され、精神病囚人専用のブロードムア収容所に送られた。
 そこで2人は交互に過食と断食をし、同室にすれば激しく喧嘩し、引き離せば「自分の見ていないところで、あの子だけがいい目をみているのではないか」と疑心暗鬼になり憔悴した。
 ジューンとジェニファーはあいかわらず沈黙し、2人だけの世界にいる。そこは愛憎だけがある世界である。彼女らは反社会行動をとることでしか現実の社会とは触れあえなかった。回復する見込みはほとんどない。

 


エドウィン・カプラット

 

 アメリカ人の多くが「定年後は、気候のいいフロリダあたりでのんびり暮らしたい」と考えるらしい。その願いをかなえて終の棲家をそこに構える者は少なくないので、州は自然と、老人の多い穏やかな土地になっていく。
 そのフロリダで、1993年8月7日、火災が起こった。
 火事による死者はその家の住人で、80歳になる未亡人だった。家には煙探知機が設置されており警報が鳴ったはずだが、高齢のせいで聞こえなかったのか、彼女は黒焦げになっていた。
 8月17日、今度は72歳の未亡人宅が焼け落ちた。この時も探知機の警報が役に立った形跡はない。
 1週間後、80代の老夫婦が済む家が炎上。しかし消火活動が早く、ふたりは無事救助された――が、その頭部には強い殴打のあとがあったので、警察はこれを失火ではなく、誰かが老夫婦を殴ったあと放火したものであると見なした。そうなると、前2件の火災もあやしいものである。老夫婦は数日後に意識をとり戻したが、犯人の顔は見ていなかった。
 2週間後、79歳の未亡人が自宅で焼死するという事件が起きた。
 さらに数日後、87歳の未亡人が同じく焼死。だがここでようやく警察に運が向いてきた。この家は半焼で済み、遺体は皮膚こそ焼け焦げていたものの、検死不能なほどの損傷をこうむっていなかったのである。
 検死の結果、被害者は凌辱された上で絞殺されたことがわかった。よほど強い力で絞めたものか、舌骨と首が折れていた。また家具から採取された指紋が、過去の収監者データからコンピュータでピックアップされたため、事件は急転直下、解決することになる。
 犯人はエドウィン・カプラット。29歳の麻薬中毒者で、証拠不十分で起訴こそまぬがれたものの、放火の前歴があった。
 カプラットは定職を持たず、未亡人の家を訪ねてまわっては力仕事を申し出たり、庭いじりをしたり、話し相手になってやったりして小遣いを稼いでいた。
 彼はほとんど悪びれることなく自白した。
「婆さんたちは、たいていセックスすると心臓発作を起こして苦しがるんだ。だからあんまり苦しませちゃ悪いと思って、俺は首を絞めてやったんだよ」。

 


ミア・クラーク

 

 1957年7月、引退したサイレント映画俳優たちのための老人ホーム、「ロジャーズ・ハウス」から火の手が上がった。消火活動の甲斐もなく、建物は全焼。死者は17人を数えた。
 火のまわりが異様に早かったことに加え、風の強い日だったので被害者の多くはベッドから出ることすらできないまま焼死していた。出火場所が小さく、並外れた高温を発していた形跡があったため、発火装置を仕掛けた放火であると考えられた。
 やがて捜査にあたった警部補が、過去の記録から類似のケースを3件発見する。
 1件目はサンディエゴの退職者専用ホームの火災で、死者は9名。煙草の不始末が原因であろうとされていた。
 2件目はパームスプリングスの富裕な老人たちのホームで、入院患者20名のうち半分の、10名が焼死していた。
 3件目も同じくパームスプリングスの老人ホームだったが、被害はもっとも甚大だった。火がガソリンタンクに引火し、爆発。24人が内臓まで炭化した黒焦げ死体となって発見された。
 警部補はこの4件の火災を丹念に調べあげた。その結果、重大な共通項が判明する。

 
この4つの老人ホームすべてに、ある1人の看護婦が必ず勤務していたのである。しかもうち2軒では偽名で勤務していた。職員名簿と顔写真を首っぴきでチェックしなくては、とうてい明るみには出なかっただろう。
 看護婦の名はミア・クラーク。いかめしい顔つきの、白髪まじりの中年女だった。

 彼女の情報をなるべく多くの州警察に問い合わせてみると、デンバーから応答があった。クラークは情緒不安定の前歴があり、デンバーでも老人ホームに放火して、懲役2年の刑を受けていたのである。彼女は明らかに常習的犯罪者であり、典型的な「火に魅入られた」タイプの放火犯だった。
 彼女の手口は、ある無害な結晶とゼラチンのカプセルに、グリセリンを組み合わせた発火装置を使うことだった。分量・圧力・配合率さえ正しければ、100パーセント確実に高温で発火する仕掛けである。
 クラークの前歴をさらに調べたところ、彼女は看護婦になる前、高校で化学を教えていたこともわかった。例の発火装置はまぎれもなく、基礎化学の応用である。

 尋問中も、法廷でも、クラークは完全なる黙秘を貫きとおした。ただ法廷内で発火装置の実演がされ、火がめらめらと燃えあがったとき、はじめてクラークの顔つきが変わった。捜査員はこう語っている。
「彼女の眼は虚ろだが、爛々と輝いていた。熱にうかされたみたいに、燃えるカプセルを見つめてた――それからうなだれて、目をきつく閉じた。私はミアだけをじっと見てたんでわかったんだが、あの女、必死で笑いをこらえていたんだよ。まったく、とんでもなく頭のイカれた女だったね、ありゃあ」。
 ミア・クラークは60人を殺害したかどで有罪となった。だが量刑を言い渡される前、彼女は独房内で、囚人服のボタンを全部引きちぎって飲みこみ、自ら窒息死した。

 


ウィリー・マレー

 

 1990年1月27日、ミシガン州の一角にある一軒家でボヤ騒ぎが起きた。ただちに消防車が駆けつけ、小火はすぐに消し止められたが、捜索の結果、地下室から男性の焼死体が発見された。
 火はそれほど大規模なものではなく、地下室にまで回ってはいなかった。にも関わらず男は焼け死んでいるのである。事件性が認められ、この一件は殺人課にまわされることとなる。
 検死の結果、死体は半裸で、胸、背中、両腕、首が黒焦げになっていた。だが一番損傷がひどかったのは性器周辺で、ほとんど炭化するまで焼けている。頭部は激しく殴打されたらしく、人相の判別がつかないほど腫れあがっていた。
 指紋から男に前科があることがわかり、自動的に身元が判明する。被害者はローレンス・ホワイト。19歳で、前科といってもたいしたものではなく、少量の麻薬所持で逮捕されただけのことだった。
 警察はホワイトの交友関係から、麻薬売人のウィリー・マレーに目をつけた。しかし物証はなく、捜査は遅々として進まない。だがそうこうしているうち、ホワイトと共にマレーの下で売人として働いていた少女から密告があった。
「あいつらが、ホワイトを焼き殺しました。私はレイプされながらそれをずっと見てた、吐きそうでした」
 と、19歳の少女は顔を歪めた。
 原因は、マレーの隠れ家に貯蔵しておいた麻薬が袋ごとそっくり消えてしまったことである。マレーはそれをホワイトと少女の仕業だと決め込み、他3人の仲間と共にふたりを拷問した。
 ホワイトはさんざん殴る蹴るされた挙句、下半身(とくに局部)にアルコールをたっぷりかけられ、火をつけられた。また、ガスストーブで熱し、真っ赤に焼けた包丁を全身に押し付けられた。少女はその横で4人全員に輪姦されたが、
「肉の焼ける匂いが部屋いっぱいになって、失神しそうでした」
 というくらいの悪臭がたちこめたらしい。
 ホワイトは身に覚えがなかったようで、白状しなかったのでその後焼き殺された。一方、少女はお情けで解放され、のちに警察に駆け込むことになる。
 1990年11月、マレーは主犯として終身刑を宣告された。

 


ブルース・リー

 

 彼は1960年に、ピーター・ジョージ・ディスデールという名を持って生まれた。改名するのはずっとのちのことである。
 生まれたときから右腕が変形・麻痺しており、癲癇持ちで、知能は魯鈍レベルだった。売春婦だった母親は彼を産んですぐ、生家に赤ん坊を預けて家を出た。彼女がリーを迎えにきたのは3歳のときだが、やがて愛人とうまくいかなくなると、また彼を捨てて家出した。リーは施設に入れられ、そこから身障者用学校に通った。リーはここでゲイに目覚めることになる。
 彼は放火犯の典型例である。彼の感情の発散は放火でしかなし得ないものだった。
 9歳のとき、最初の放火。ショッピング・アーケードが炎上し、1万7000ポンドもの被害が出た。
 その後も発作的な放火癖はおさまらない。彼の手口は郵便受けに灯油を流し込み、マッチを擦ってそこに放るというものだった。死者が出た最初の放火は1973年のことで、彼は13歳になっていた。
 1977年には老人ホームに火が放たれ、11人の老人が亡くなり、6人の救助隊員が負傷した。
 またあるときには、鳩をいじめている現場を押さえられ、飼い主の老人に咎められたリーは「殺してやるからな、じじい!」とわめいた。数日後、その老人はアームチェアに座ったまま、焼死体となって発見された。警察はこれを不幸な事故として片づけたが、実際は老人がうたたねしているところにリーが侵入し、灯油を撒いて火をつけたものであった。
 19歳のとき、ピーター・ジョージ・ディスデールからブルース・リーへと改名。もちろん香港映画のカンフー・スターに憧れてつけた名前である。
 翌年、近隣一帯で悪評の高かった家から盛大な炎があがり、3人の息子が焼死した。警察は玄関ドアで灯油をしみこませた新聞紙を発見し、事件性ありとして捜査をはじめた。取調べを受けた人数は、のべ1万8000人にものぼった。
 そんな中、焼死した息子のひとりがゲイだったという情報が浮上。ゲイの溜まり場である公衆トイレに張り込みが付き、約40人もの容疑者が逮捕された。そのうちの1人にリーがいた。容疑者は皆「俺は知らない」と容疑を否定したが、リーだけは、
「そんなつもりじゃなかったんだ」
 と咄嗟に言ったため、そのまま拘留された。リーはそこで11年間の放火をすべて自供することになる。それによると、26人が彼の放火で命を落としていた。
 犯行は疑いのないものだったので、裁判はほんの数時間で終わった。
 検事は「残念ながら、彼の人生における唯一の存在証明も、誇れる自己表現も、これしかなかったということだ。彼には火しかなかった」と言い、リー自身は、
「俺の頭の中にあるのは火だけだ。火が俺の主人だ、俺は火に従う」
 と述べた。
 彼は無期限で、精神病犯罪者専用の特殊施設に送られた。

 


北村有紀恵

 

 1993年、東京。
 12月14日、午前6時20分。頬に冷気の吹き付ける早朝、5階建てアパートの階段を息を切らしながら上っていく女がいた。両手には満タンのポリタンクと、ガソリンを口まで詰めたペットボトルが5本。
 彼女は4階のある一室の前で足を止めると、合鍵でドアを開けた。そして居間に上がりこむと、ポリタンクとペットボトルの中身をそっくり床にぶちまけた。
 その部屋の世帯主であるAは、妻の運転で通勤駅へ向かっているところだった。夫を下ろしたあと、妻はアパートに戻り、子供たちを起こして朝食を食べさせる、というのがこの家の習慣であった。つまり、今この家には2人の子供しかいないのである。
 女は撒いたガソリンに、ライターで着火した。その途端、揮発ガソリンに引火したことによる爆発が起こった。爆風で女は玄関まで吹き飛ばされ、背中から叩きつけられた。一瞬気を失ったものの、すぐにはっと意識をとり戻し、そのままあとも見ずに家を出て階段を駆けおりる。
 炎のまわりは早かった。のちに焼け跡からは2人の幼児の死体が発見される。6歳の長女は頭蓋が割れて大脳が露出し、さらに両腕を焼失していた。また1歳の長男は両腕と膝から下が消失していた。
 犯人の女はアパートへ帰り、薬局で市販の傷あてシートを買い、自分で手当てした。その後、川崎市の病院へ通院。この通院記録がもとで、彼女への警察の容疑が固まった。
 捜査の手がせまっていることをうすうす感じた女は、2月6日、父親に連れられて自首した。
 彼女は焼け落ちた部屋の世帯主、Aの元部下だった北村有紀恵(27歳)であった。

 有紀恵は1966年、東京で生まれた。幼い頃から成績優秀でしっかり者、理数が得意で都立大学理学部数学科にストレートで入学した。女子の少ない数学科において、色白で愛嬌のある美人タイプだった有紀恵は男子生徒の間でも人気を集める。しかし当時、特定の相手はいないようであったという。
 卒業後はNECに総合職として就職。その研修中、指導にあたったのがAであった。ふたりは少しずつ親密になり、外で2人きりで食事したり、メールで連絡を取り合いデートを重ねるようになる。だがAはこのとき結婚3年目で子供が1人いた。
 有紀恵はAと会いやすいよう、ひとり暮らしをはじめる。男女の関係ができたのは1991年のことで、花火大会の夜、Aが有紀恵の部屋にやって来たのである。1度関係ができてしまうと仲が深まるのは早く、Aは多いときには週に2回も有紀恵宅に泊まっていくほどの入れ込みようだったらしい。

 12月、Aの妻の妊娠が発覚。翌年4月、有紀恵が懐妊するが、Aは「堕ろしてくれ」と言った。彼女はAの妻が臨月近いこともあり、時期が悪いのだと自分に納得させ、堕胎する。
 7月にAの妻が出産をひかえ実家に帰った。そのすきに2人は長野へ1泊2日の旅行へ行き、その後出産を終えて妻が戻るまで、Aは有紀恵の部屋に泊まりつづける。寝物語で「妻と離婚する気はある」、「ただの浮気なんかじゃない」と言うAを有紀恵は信じた。またこのころから、Aの避妊がそんざいなものになりつつある。

 年が明けたが、Aに離婚する様子はなかった。それでも口では「もう少し待って」、「長女が幼稚園に馴れたら、ことを起こすから」と繰り返す。
 3月末、有紀恵が2度目の妊娠。これも堕胎した。
 有紀恵はこの頃になると、さすがにもうAの真意はうっすらわかっていた。別れを考えるものの、しかしふんぎりが付かず、だらだらと関係は続く。それを断ち切るように、5月になってAの妻から有紀恵のもとに電話がかかってきた。
「なんで電話したかわかってますよね。あなた、主人に家庭があることをわかってて付き合ったんでしょ。だったら大きな顔できませんよね、うちの主人がレイプしたわけでもあるまいし。私は別れませんし、あなたにも落ち度があるんだから慰謝料なんか払いませんよ」
 と、受話器越しにまくしたてられ、有紀恵は動揺した。また、Aがまだ何も妻に話していないのだということもわかり、二重のショックを受けた。
 それから夜となく昼となく、Aの妻から電話がかかってくるようになった。不倫していたことへの自責の念と、妻の激しい連日の罵倒に神経がすり減り、10日で15キロ近く痩せた。

 夏になり、双方で弁護士を立て話し合いをすることになった。しかし協議にAは現れず、「離婚するなんて言った覚えはない。中絶の責任も俺にはない」と弁護士を通して一方的に言うだけだった。
 Aの妻からの電話もやまず、
「あんたなんか、子供を平気で腹から掻き出せる程度の女じゃないか」と勝ち誇ったように言われ、嘲笑われた。女にとってこの上なくつらい中絶経験を夫婦揃って侮辱するこの行為に、それまでの「私が悪いのだから」という気持ちが、白黒反転するかのように憎悪に変わった、とのちに有紀恵は語っている。

 有紀恵はガソリンとポリタンクを犯行2週間前に購入。A夫婦が朝、家を出る時刻まで調べあげていた。取調べの際、
「子供を失った気持ちを、あの人たちにも味わわせてやりたかった」
 と供述しているところからみても、最初からA夫婦ではなく、子供たちを狙った犯行であったようだ。
 地裁判決は求刑通り、無期懲役。ならびにA夫婦は有紀恵に対し、1億1300万円の賠償を求める民事裁判を起こしている。Aの妻は、
「彼女に支払い能力があるとかないとかは問題ではない。世間が同情しようが私だけは許さない」と語った。
 だが自分の夫のことは許したようで、事件直後に妊娠。その後も離婚はせずさらにもう一度妊娠・出産した。なお彼女は有紀恵を電話責めにしたこと、彼女を中絶の件で侮辱したことについては否定しているが、これは公判中の証言ではない。
 2001年夏、上告棄却。有紀恵の無期懲役が確定した。

 


工藤加寿子

 

 俗に、「女は自分の犯罪を黙っていられない。愚かな自己顕示欲で女は破滅する」と言う。そのアンチテーゼとも言うべき存在がこの工藤加寿子である。

 1984年1月10日の朝、札幌のある一軒の家で電話が鳴った。受話器をとったのは9歳のAくんだったが、なぜか家人の誰に替わるでもなく彼はそのまま話しつづけ、それから「ちょっと出かけてくる。渡辺くんのお母さんが僕のものを黙って借りたんだって。これから函館に行くみたいだから、僕、それを取りに行ってくるね」と早口で言った。
 そのときリヴィングには家族全員がいたが、みなAくんが何を言っているのか理解できず、ぽかんとしていた。渡辺といわれても市内にはどこにでもある姓である。が、特に親しい間柄の中に渡辺姓はいない。しかしその間に、Aくんはさっさと長靴をはき、家を飛び出して行ってしまった。母親が6年生になる兄に「ちょっと一緒に行ってやって」と頼み、兄もあとから駆け出したが、途中で見失ってしまう。
 以後、Aくんの姿を見た者はいない。

 兄がAくんを見失ったのはちょうど渡辺という家の付近だったが、そのとき留守番をしていた渡辺家の娘は、なんのことやらさっぱりわからない、といったふうであった。
 だがその近所のアパートに住むホステスが、
「今朝、家の前の道路で男の子に『ワタナベさんちはどこ』と訊かれた」
 と証言。警察は大々的な捜査を開始し、聞き込みに奔走し渡辺家の家宅捜査までしたが、何の手がかりも得られなかった。そのまま9歳のAくんは忽然と消え、2度と現れなかったのだ。
 そしてこのとき唯一の目撃証言者となったホステスが、他ならぬ工藤加寿子であった。

 それから4年後の冬。
 札幌から70キロ離れた新十津川町にある全焼した農家の納屋から、Aくんのものとおぼしき人骨が発見された。
 その家は前年の暮れに焼け落ち、世帯主の夫が死んだが、妻と娘は焼け出されて助かったものである。そして火事から半年後、燃え残った納屋の中を整理していた夫の親戚が、ビニール袋に入れられてて棚に置かれていた人骨を見つけたのだった。
 警察はこれがAくんのものでは、と疑いを抱くや、加寿子のことを思い出した。最後に少年を見たと言ったホステスが、この焼け落ちた家から助かったという妻その人なのだ。ただちに当時の加寿子の背景が洗い出され、彼女に多額の借金があったこともわかった。これは誘拐ではないか――と警察は睨んだ。電話を使って巧みに子供をおびき出し、誘拐したが思いのほか警察の初動が早く、発覚をおそれてAくんを殺したのではないか。
 だが加寿子は任意聴取には応じたものの、それからは完全黙秘を貫いた。人骨の身元がいまひとつ曖昧であることもあって、検察はいったん起訴を断念する。
 が、年月の経過につれDNA鑑定も進歩した。それから10年後、鑑識は骨をAくんのものと断定し、時効2ヶ月前、加寿子を逮捕に踏み切る。が、このときも彼女は完黙を通しきった。

 加寿子は1955年、北海道の小さな漁村で生まれた。中学卒業後、集団就職で上京するが、会社勤めはすぐに辞め、19歳からスナックで働き出すようになる。
 1982年、最初の結婚をし娘をもうけるが、翌年夏に離婚。加寿子は娘を連れ、札幌に戻る。Aくんの失踪はその半年後のことであった。
 2度目の結婚は新十津川で、見合い結婚である。相手は35歳になる農家の男性で、和歌寿美雄といった。すらりと背が高く、垢抜けた容貌の加寿子に和歌は一目惚れしてしまい、
「畑仕事なんかしなくていい。ただ俺と一緒に住んでくれさえすりゃあいいです」
 と拝み倒さんばかりにして口説き落とし、周囲の反対も聞かず入籍した。1986年のことである。
 加寿子は結婚後も、ほんとうに畑仕事は一切しなかった。パチンコ屋に入りびたり、ときには娘を連れて札幌へふらりと遊びに出かけ、そのまま10日も戻らないこともざらだった。家事もほとんどせず、毎日昼過ぎまで寝て、和歌とは寝室はおろか、冷蔵庫や洗濯機まで別々にしていたという。
 加寿子は左手の小指の先がなく、太腿には刺青を消したあとがあった。小指については、
「昔ヤクザの情婦だったとき、別れる別れないでモメて、落とし前として小指を男の目の前で詰め、それを顔に投げつけてやった」のだという。
 その話の真偽はともかく、気性の荒い女だったことは確かなようだ。少なくともおっとりした農家育ちの和歌に御せるような女ではなかった。
 和歌の親戚はあんまりな加寿子の素行に加え、和歌の貯金が彼女に使い込まれて底を尽きかけていることを知り、「無理にでも離婚させなきゃなるまい」と陰で真剣に別れ話を進めるようになった。が、その矢先、和歌宅から火が出たのである。
 前述した通り、この火災による死者は和歌だけで、加寿子と娘は助かっている。深夜の出火だというのに2人はきちんと身支度しており、持ち出した荷物もきれいに荷づくりされていた。また119番した形跡もなかった。
 和歌には2億円近い保険金がかけられていたが、加寿子はこれを請求することなく新十津川を去った。そして半年後、納屋からAくんの骨が発見されることになるのである。

 2001年、5月。札幌地裁は検察側の求刑・無期懲役に対し、加寿子に無罪判決を下した。
 だがこれは「殺人の否定」ではなく「殺意の否定」に近いもので、要するに「殺意のない偶発的な殺人だとしたら、傷害致死罪」なのだが、事件からあまりに年月が経ちすぎているため、傷害致死罪はもう時効になっているのである。そして本事件に関し、殺人の意図は確固たるものではなかった、との審判であった。
 無罪判決を聞いても加寿子は無表情を崩さなかった。公判中も完全黙秘を貫き、262回にわたって「お答えすることはありません」とだけ繰りかえした彼女は、まさに鋼のようであったという。男の、それも筋金入りの思想犯でもこれほど完黙を通した例は稀少である。
 重ねて2002年3月、検察の控訴を高裁が棄却。これにより加寿子の無罪が確定した。また和歌宅の放火嫌疑についても時効が成立。事件の真相は薮の中となり、加寿子もひっそりと一般市民の生活へと潜っていった。
 日本の犯罪史において、これほど憐憫を誘うところのない、傲然たる女は稀有であろう。

 


 

消えろ、消えろ、束の間の灯し火。
人生は歩いている影に過ぎぬ。

 ――ウィリアム・シェイクスピア『マクベス』より――

 

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