INFERIORITY COMPLEX
――劣等感――

 

アルフレッド・アドラーは、
「なんらかの劣等感に強くさいなまれる者は、
それを補償しようとして『権力への意志』を強めるが、
それが失敗すると無為、逃避、破壊衝動に陥る」という自説を公表した。

劣等感に悩み、克服するため、ひとかどの人間になろうとするが
ひとたびそれに挫折したとき、
ひとは他者の尊厳をむしり取ることで自らを慰めようとするのだろうか。
そして我々はそんな彼らを憐れむべきか、軽蔑すべきなのか?

 


◆ロバート・プーリン

 

 ロバートの父親は元空軍の軍人で、息子には男らしいスポーツマンに育ってくれることを望み、多大な期待をかけていた。しかしロバートは内気で孤独な少年であり、父の期待にはまったくと言っていいほど応えられなかった。父親は落胆し、彼がティーンエイジャーになる頃には息子を見捨てている。そしてロバートは勝手な期待と重圧をかけ、意に添わないと知れるや簡単に自分を見放した父を憎んだ。
 成長するにつれ、彼の劣等感には性的なものが多分に入り混じる。しかし彼には自己嫌悪による女性恐怖の気味があり、クラスメイトに挨拶程度の声をかけることすらできない少年だった。
 彼は鬱屈する一方の自分の性衝動について克明な日記を綴っている。1975年4月7日の記述はこうだ。
「ほんとに落ち込んで自殺を考えた。でも童貞のままじゃいやだ。女の子と1人でもファックしてからでなくちゃ。だから通信販売でモデルガンを買うことにした。これで通りがかりの女の子を脅してレイプしよう。親父のサヴァイバル・ナイフも持っていって、女の子が騒いだら刺し殺せばいい。どうせ自殺するんだから怖いものなんかない」
 また、18歳にしてすでに彼はポルノ雑誌のコレクターでもあった。ハードコアの写真や、ゴム製のダッチワイフまで通販で購入した。日記には、
「学校には、友達になりたい女の子が何人かいる。だけど申し込むことなんて僕には到底できない。女の子が怖い。でもなんとか克服しなくちゃ」
 と書き込んでいる。
 ロバートは「男らしい男」になるべく最後の望みをかけて、士官候補生の試験を受けた。結果はあえなく不合格に終わった。
 不合格通知を受け取った数日後の10月19日の朝、ロバートは近所に住む17歳の少女を「見せたいものがあるから、家に来ない?」と誘った。
 おそらく彼を傷つけたくなかった少女は、ついていった。ロバートは自室に彼女を連れ込むと豹変した。ベッドに縛りつけると強姦し、さらに肛門姦した。そして気が済んだ後、刺し殺した。
 彼は母親にピーナツバター・サンドイッチを作ってもらい、それを食べながら居間でTVを見た。お昼前になって母親が出勤していくのを見送ると、彼は自宅に放火し、学校へと向かう。
 午後2時20分、ロバートはウィンチェスター散弾銃を手にして教室のドアを開け、手当たり次第に乱射した。あっという間に7人の生徒が散弾を喰らって倒れた。ロバートはそれを見ると廊下に出、自分の頭に向けて引鉄を引いた。慌てて教師が廊下に走り出てみると、彼は顔面を半分がた吹っ飛ばされてすでにこときれていた。
 幸い、彼に撃たれた7人の生徒に死者はなかったが、プーリン家から火の手が上がっているのが消防署に通報され、消防士が犯されて刺し殺された少女の死体を発見する。
 ロバートの日記には家族への憎悪が綿々と綴られ、「皆殺しにしてやりたかったが、死の至福をやつらに与えたくはない」と記されていた。代わりに彼は自宅を燃やしたのだが、これほどの憎悪と厭世観がどう育まれたものか、詳しいところは不明のままだ。

 


◆ロバート・ハンセン

 

 アイオワ州の寒村で生まれたハンセンは、生まれつき醜くて人好きのしない子供だった。ドモリで、顔中が膿を出すにきびだらけだったハンセンはいじめの対象にすらされず、ただ嫌悪された。後年、彼は自分の青春時代について
「わたしは奇形児のような外見をしていたばかりか、しゃべり方も奇形だった。女の子と目が合うと、決まってそっぽを向かれたものだ」
 と語っている。
 成人して結婚したものの、すぐに細君に逃げられ、彼はそれを「自分が醜いからだ」と思い込んだ。だが再婚してアンカレッジに移住し、父の経営するベーカリーを継いで繁盛させることに成功する。
 しかしアンカレッジには無数のトップレス・バーとストリップ劇場があり、それらのポルノ産業は長い間くすぶってきたハンセンの性的衝動を突き動かすのに一役買った。ずっと女の子に無視されつづけて生きてきたハンセンにとって、「金さえ払えば女が従順になる」という発見は人生を揺るがすほど重大なものであった。

 1980年8月、ケナイ半島南側で、女性の射殺死体が発見された。それとほぼ時期を同じくして、アンカレッジ警察はトップレス・バーで働くダンサーが相次いで行方不明になっていることに気づく。ただしダンサーの多くが兼業として体を売っているというのは暗黙の了解であった。
 1982年9月、前年から行方不明になっていたダンサーのひとりが死体となって見つかった。ルガー・ミニ14型猟銃で3発撃たれていた。
 1983年9月、同じくルガー猟銃で撃ち殺されたダンサーの死体が発見される。
 捜査員たちは前科記録を調べ、何か手がかりになりそうなデータはないかと首っぴきで探した。すると前年6月に、手首から手錠をぶら下げた若い娼婦が必死の形相で走ってくるのを、警官が保護したという記録があった。彼女の話によると、赤毛でひどいドモリのあばた面をした男に「オーラル・セックスに応じてくれるなら200ドル払う」と言われ、承諾して彼のあとについて行くことにした。すると彼女は地下室に連れ込まれ、手錠をはめられてベッドに拘束されてしまう。それから1時間にわたって、彼女は体中を噛まれたり、ハンマーの柄を挿入されるなどの責め苦を受けた。そして男は縛めを解くと、
「これからおまえを自家用機で山小屋へ連れて行く」
 と言った。彼女はこれを聞いて「殺される」と思い、隙を見て男の手を振り払い、走って逃げた、というのである。
 彼女の証言した人相はアンカレッジでベーカリーを経営しているロバート・ハンセンという男のものと一致した。当初彼にはアリバイがあったが、のちにこれは同情した友人の偽証であったことが判明し、彼は逮捕された。

 ハンセンの自宅を捜索してみると、ルガー・ミニ14型猟銃と女性ものの装飾品が数点、そして様々な地点に星印を20個も付けた地図が見つかった。彼はこれを「女どもを埋めた場所」だと自供した。
 彼は3年間に60人もの娼婦を車で荒地に連れ出し、オーラル・セックスを強要していた。相手が満足させてくれた時にはまたアンカレッジまで引き返してやるが、そうでない場合には銃を向けて「脱げ」と言い、女が裸になると、「車をおりて一目散に走れ」と命じた。そして女が逃げると、獲物を狩り立てるように追い回し、くたくたになって女が走れなくなったところで撃ち殺した。

 法廷で検事はハンセンを「人間の道を極度に踏み外した変質者」と呼び、裁判長はそれを受けて461年の刑を宣告した。

 


◆丘崎誠人

 

 1997年5月4日、奈良県月ヶ瀬村在住の中学2年生、浦久保充代さんが卓球大会からの帰途、行方不明となった。
 失踪してから4日後、事件性を認めた県警が大規模な捜索活動を開始。事件が発生したと思われる現場からはタイヤのスリップ跡、充代さんの靴、着用していたジャージの繊維や自動車塗料片などが発見された。
 また、現場から2キロほど先の公衆トイレの浄化槽から、充代さんのジャージ上下、下着、リュックなどが見つかった。下着には半弧を描くように丁寧に切り裂かれた痕跡があった。なおこの公衆トイレは山中にあり、ほとんど地元民にしか存在を知られていないものである。
 奈良県警はほどなく、村民のひとりである丘崎誠人をマークしはじめる。遺留品が彼の所持品に酷似していたことに加え、無職でもともと素行が良くないと見なされていたこともあったようだ。
 7月23日、ついに県警は丘崎を逮捕に踏み切る。最初は頑強に容疑を否定していた丘崎だったが、9日目にようやく折れ、自供をはじめた。
「てんご(悪戯)するつもりだった」
 と彼は言った。その後、丘崎の自室からは多数のAVや成人雑誌が押収されるが、そのほとんどが「女子中学生・高校生レイプもの」であったという。下着を切り裂いて凌辱するシーンはそれらのAVによく出てくるシーンのひとつだった。
 丘崎は5月4日、ソープランドから車で帰る途中、路上で充代さんと出会った。「乗ってくか?」と誘ったが、充代さんは振り向くことなく足早に通りすぎようとした。その態度が丘崎をカッとさせたのである。
「断り方も知らんやつや。もうすぐ家だからいいです、くらいの言い方あるやろ。俺をよそ者と思ってるから返事もしやがらん。村の者はみんな俺を嫌っとる。この女もそうや。――車を当てて連れ去ったろ、これまでの恨みを晴らすええ機会や、と思った」
 と丘崎は供述している。
 彼は充代さんを車ではね、倒れた彼女を後部座席に乗せた。ビニールテープで手足を緊縛し、目隠しし口をふさぐ。もうこうなったら殺すほかない、これがバレたら家族までもが村に住めなくなる。そう考えた丘崎は殺害場所を探して山間部をぐるぐる走りまわった挙句、峠で充代さんを下ろし、ビニールテープで絞殺をはかる。しかし失敗したので、5キロほどもある人頭大の石で何度も頭を殴りつけて殺した。
 彼の供述通り、充代さんは峠の窪地で白骨死体となって発見された。

 しかし丘崎が「これまでの恨み」、「俺をみんなよそ者と思ってる」という被害者意識は、あながち故なきものではなかったようだ。
 丘崎の父母は内縁の夫婦で、ともに朝鮮人と日本人の混血である。丘崎は4人兄弟の3番目として生まれ、唯一の男子であった。家は民生委員のはからいでやっと借りられたあばら家で、ベニヤ板を打ちつけただけの壁にトタン屋根。下水道敷設の分担金が払えなかったので便所もなく、家族は裏山に穴を掘って用を足していた。
 母親は掃除や整頓に興味がなく、家の中は土と埃だらけで、鼠がしょっちゅう走りまわる。ほかの村民はすべて茶摘み農家だが、岡崎家だけは土木作業で生計をたてており、丘崎の姉は居酒屋で賄いをして暮らしていた。
 丘崎家はここに住居をかまえて35年になるが、村の一員としての「区入り」すら認められていなかった。年寄りが多く、旧弊な体質の残る村で、丘崎一家はつねに「この朝鮮が!」「貧乏人!」と蔑まれて過ごす。
 丘崎は子供の頃から、他の家より貧しい我が家を恥じ、文盲で家事もせず村の男と浮名を流す母を憎み、愛人をつくって家庭を顧みない父を嫌悪していたようだ。
 彼が小学3年生のとき、公民館が放火されるという事件が起きたが、何とはなしに「丘崎の息子の仕業」という噂が立ち、周囲の人間の彼に対する態度もがらりと変わった。その後も何件かの放火や窃盗事件があった。容疑者はいずれも「丘崎の息子」とされたが、子供相手のことゆえ刑事事件として訴えることはされなかった。村民の中には「あの子に金を盗ませて、あそこは生活しているんじゃなかろうか」と言う者もいた。
 中学2年から不登校となり、卒業式にも出なかった。同級生が家まで届けた卒業証書を、丘崎は破り捨て、燃やしてしまっている。
 月ヶ瀬村を出て就職するがどこも長続きせず、転々とした挙句、行き場がなくなり村に帰ってくることになった。だが事件の1ヶ月前あたりから完全に仕事をしなくなり、毎日昼まで寝て、夕方になるとドライブに出かけ、またふらりと戻ってくる、という生活を繰り返すようになる。
 丘崎の支えは父に買ってもらった車と、ビデオとTVゲームだけだった。丘崎家にはTVが一台しかなかったので、ゲームをしたりAVが観たくなったときは自室に運び込む。家族を憎んでいながら彼は家族に依存することしかできなかった。

 2000年6月、無期懲役が確定。2001年9月4日、丘崎は独房内で自らくびれて死んだ。遺書はなかった。
 彼の遺骨は両親が引き取ったが、墓を建てる金もないまま、それは今も実家の片隅に置かれている。

 


◆ウィリアム・ハイレンズ

 

 1945年6月5日、43歳の未亡人が首を刺されて殺されるという事件が起きた。
 つづいて12月10日、30歳の女性が自宅で首を刺され、銃弾を2発撃ち込まれて死亡しているのが発見された。彼女は全裸で、バスタブにもたれかかるようにして崩折れており、死体は丹念に水洗いされていた。そしてリヴィングの壁には、真っ赤な口紅で次のような殴り書きが残されていた。

 頼むから、これ以上殺してしまう前に
 僕を捕まえてくれ
 自分を抑えられないんだ

 この殴り書きを受けて、マスコミは彼を「リップスティック・キラー」と名づける。彼はさらに翌年1月7日、7歳の少女を誘拐して殺害し、五体を切断した。4箇所の下水道から少女の左脚、腕、右脚、胴体がそれぞれ発見され、頭部はマンホールの蓋の下から見つかった。なお3人の被害者すべてに、性的暴行を受けた痕跡はない。
 またそのほか、シカゴ大学のキャンパス周辺では女性が銃で撃たれたり、鉄棒で殴られ縛られるなどの事件が多発していた。

 ハイレンズが逮捕されたのは6月26日に、アパートに押し入ろうとしたところを取り押さえられたからである。暴れたため警官に花瓶で殴られて昏倒し、彼はそのまま連行された。
 ウィリアム・ハイレンズは17歳でシカゴ大学の2年生、大変に優秀な学生であった。女子学生の多くが、ハンサムで頭もいいのにシャイな彼を「かわいい」と思い、好意を抱いていたという。
 彼の指紋が3件目の現場に残っていた指紋と一致したため、警察は自白剤を用いて尋問をはじめた。ハイレンズは
「ジョージがやった。彼があの子を殺してばらばらにした。ジョージは5歳上で、学校で知り合った友達だ」

 と朦朧状態で自白した(のちにこのジョージとは、彼の想像上の存在――もしくは第二の人格――であることが判明する)。

 ハイレンズは1928年11月15日に生まれた。ひどい難産で、彼は鉗子で無理やり子宮から引きずり出されることによってようやく産声をあげた。
 彼は肉体的にも精神的にも虚弱な子供で、しょっちゅう病気にかかり、吐いてばかりいた。怪我も多く、腕を折ったり、階段の上から転げ落ちて頭を強打したこともある。父親は彼が成長するまでに何度か破産し、母親は麻痺をともなう神経衰弱に2回かかった。この両親はまた敬虔なクリスチャンで、彼に「セックスは不潔で悪いこと。病気になってしまう」と教えこんでいる。
 だが教えに反してハイレンズは性的に早熟な子供だった。彼は己の性衝動を恥じ、自分を汚らわしい存在だと感じた。鬱屈はかえって彼を極端な行動に走らせることになる。ハイレンズは9歳のときから女性の下着を盗み、それを身につけて興奮した。
 美少年だったので彼に近づいてくる女の子は少なくなかった。それをいいことに女の子たちの体にさわったりしてみたが、それで快感を味わうどころか、彼はすっかり動転して泣き出してしまう。また女の子とデート中、たまらず嘔吐してしまったことすらあった。
 ハイレンズはただひたすら自分の「正常な男子としての性衝動」が厭わしかった。彼は女の子といちゃつく代わりに押し込み強盗をはたらき、家宅侵入して床の上で排泄し、放火することで愉悦を感じた。
 14歳のとき強盗容疑でついに逮捕され、更正施設に送られる。彼はそこで1年を過ごし、カトリック寺院に移ったのち優秀な成績をあげてシカゴ大学にスキップ入学する。しかし彼の性癖に何らの改善点はなかった。

 彼は女性ばかりを殺しながら、強姦しようと考えたことは一度もなかった。
「現実にセックスするだなんて、考えただけでもぞっとします」
 とハイレンズは証言している。
 精神科医は彼を「性的サイコパス」と断じた。1946年7月、判事は3件の殺人と26件の強盗訴因により、ハイレンズに3度の終身刑を宣告した。

 


◆パトリック・パーディ

 

 パーディは1966年に、アルコール依存症の両親のもと生まれた。彼が幼い頃に両親は離婚し、母親は再婚したがそれもすぐ破綻した。以後、彼は両親の間をいったりきたりして過ごしている。
 彼は孤独な少年で、友人はひとりもいなかった。空想にふけるのが好きで、夢の中では彼はつねに戦争の勇者だったようだ。彼はアーミー・ジャケットを着、ハイティーンになってもおもちゃの戦車や兵隊人形で遊ぶのをやめられなかった。しかし軍隊に関する知識はそう多いわけではなかった。彼は生涯読み書きがおぼつかなく、まともに本が読めなかったのだ。そして両親と同じように、すでに大酒飲みであった。
 16歳のとき父が亡くなり、軛をひとつ失った彼は家を出、高校も中退して放浪生活に入った。彼が糊口をしのいだ手段は主にポン引き、麻薬の密売、ひったくりなどである。
 パーディはずっと人生に絶望していた。彼は自分の生きる意味がわからなかったし、自分の無能さを思い知らされるのにも飽き飽きしていた。21歳のとき、森林で発砲したかどにより逮捕された彼は、拘置所で自殺をはかっている。しかし失敗し、精神病院送りとなった。そこで彼は、
「彼自身にも、他人に対しても危険な存在」
 との診断を受けたが、警察は彼を釈放することを決定した。

 自由の身となったパーディは、相変わらず浮浪生活をつづけるしかなかった。ほとんど全米を転々とし、その日暮らしの生活を送った。
 1988年暮れ、彼はたまたま泊まったみすぼらしいモーテルの一室に、ノートを置き忘れていった。その中の一節はこうだ。
「おれは、すごくばかだ。 小がく生のがきよりも、ばかだ」。
 そしてさらに、文章はこう続く。「おやじと、おふくろも、ばかだった」。
 年が明けて、1989年1月。彼はモーテルから腹違いの兄に電話し、
「もうすぐ俺はニュースに出るよ、見てくれよな」とだけ言って切った。
 翌朝、パーディは迷彩色のシャツを着て、AK47突撃銃と、トーラス製9ミリ弾用半自動式銃を車に積み込むと、出発した。彼が向かった先は、かつて自分が通っていたクリーヴランド小学校である。
 彼はまず自分の乗ってきた車に火を放つと、銃をたずさえて校庭にゆうゆうと歩み入った。ちょうど時刻は昼休みで、約400人の生徒たちがそこで遊んでいた。響く笑い声、嬌声。子供たちの笑顔。パーディはAK47を構えると、彼らに向かって何の躊躇もなく発砲した。
 事件の目撃者によるとパーディは至極冷静で、「自分の仕事に没頭しているように」見えたという。子供たちはばたばたと倒れ、悲鳴と怒号が一瞬にして渦巻いた。弾丸は一瞬の休む間もなく降りそそぎ、校舎の壁を突き抜け、スティールの梁を貫いた。
 パーディが撃った100発以上の弾丸によって、生徒5人が死に、29人が重軽傷を負った。やがて誰かが通報したらしく、パトカーのサイレンの音が近づいてくるのをパーディは聞いた。彼は銃を自分の眉間に当て、引鉄をひいた。

 警察がパーディの最後に泊まったモーテルに踏み入ってみると、そこには所狭しと戦車のプラモデルや、おもちゃの兵隊が並べられていた。そしてそのすべてが、侵入者に向けて「構え」の姿勢をとって待ち受けていたという。

 


◆ノーマン・ジョン・コリンズ

 

 1967年8月7日、郊外の野原で遊んでいた少年ふたりは、近くにある廃屋の裏手に車が止まった音を聞いた。そしてドアの閉まる音の後、急発進で走りさったらしい音も。少年たちが「なんだろう」と探検気分で廃屋の中を覗いてみる気になったのも、無理からぬことであった。
 だが少年たちが発見したものは、強烈な腐敗臭を放つ肉塊だった。それが両手足を切断され、腐って膨れあがった若い女性の死体であると判明するのは、警察が到着してからのことである。
 死体は全裸で、強姦されたのち胸から首にかけて少なくとも20回は滅多刺しにされていた。両手足は死後に切断されたものと見られる。指紋がないにも関わらず、彼女の身元はすぐに判明した。ミシガン大学に通う18歳の女性で、7月10日から行方不明となっていた。
 2日後、彼女の遺体が安置されている葬儀社に、見知らぬ男が現われ「遺体の写真を撮影したいんだが」と申し出た。社員が断ると、男はひどく怒り、社員を怒鳴りつけながら帰った。社員はすぐ警察に連絡したが、男は2度と現れず、その正体も判然としないままであった。

 ほぼ1年経った1968年7月6日、ふたたび死体が発見された。前回と同じくミシガン大学の学生であり、同じく強姦され、47箇所もの刺し傷が残されていた。下半身が排水口の冷たい場所にかかっていたため、上半身のみが腐乱していたという。
 このとき目撃者が現われ、彼女がノーマン・コリンズという21歳の同大学生と歩いているのを見たと証言。しかし彼は「週末は実家に帰って家族と過ごした」と言い、警察もこのアリバイを認めた。

 1969年3月21日、小さな男の子が墓地の中にショッピング・バッグが落ちているのを見つけた。男の子の母親が門から覗き込んでみると、草の上にレインコートが落ちており、それはいかにも何かを覆っているらしく盛り上がっていた。
 通報により駆けつけた警察の手によって、それが第3の被害者であることが判明。またもミシガン大学の学生で、22口径銃で胸を撃たれ、ストッキングで絞殺されていた。なお暴行はされていなかったが、これは彼女が生理中だったからだろうと思われた。
 4日後の3月25日、新たな犠牲者が発見される。彼女は大学生ではなく、地元では有名な16歳の不良少女であった。彼女は重い金属のバックルがついたベルトで鞭打たれたらしく、深いみみず腫れが無数に残っていた。死因は鈍器による殴打で、頭蓋骨が陥没している。喉の奥に布切れが詰め込まれ、性器には木の枝がねじこまれていた。

 4月16日、13歳の少女の遺体が見つかる。暴行された上、絞殺されている。腹部と性器がアイスピックで切り裂かれていた。
 6月9日、第1の被害者が発見されたと同じ野原で、6番目の被害者が発見される。22口径銃で頭を撃たれており、胸と性器を40箇所以上突き刺され、死後に強姦されていた。彼女はミシガン大学の卒業生であった。
 この時期、警察当局は事件解決に功績のある超能力者、ピーター・フルコスに協力を要請。フルコスは何の情報もない状況から、
「若い男。頭が切れ教養もある。学生だろうか、子供っぽい顔。筋肉質でがっしりした体型。……もう1度、殺人が起きる。食い止められない、起きてしまう」
 と告げ、最後に、
「もう1度、事件ファイルを見直してみて下さい。あなたがたは過去にこの男に会っている」
 と示唆した。
 彼の言った通り、最後の被害者が出た。7月26日、ミシガン大学の18歳の女生徒が、下水道で死体となって発見されたのである。腐食性の液体をかけられたらしく、胸は焼けただれている。手足には縛られたあとがあり、性器には無残な歯型がいくつも付けられ、前歯が折れていた。検死の結果、性器の奥深くに彼女自身の下着が詰め込まれていた。この下着には無数の細かい頭髪が付着していた。

 この検死結果を聞いて、ミシガン州警察のレイク刑事は、つい最近の休暇旅行の間、妻の甥に愛犬の世話を頼んだときのことを思い出した。彼が帰宅して地下室へ行ってみると、床に黒いスプレーが撒き散らされていた。よく見るとその下には赤い染みが点々と見える。しかもその地下室は、レイク自身が旅行前に、幼い息子を散髪してやった場所でもあった。
 妻の甥の名とは、ノーマン・ジョン・コリンズである。
 鑑識の結果、この頭髪はレイク刑事の息子のものであることが判明。赤い染みはワニスであったが、その他の箇所から最後の犠牲者と同一タイプの血液が検出された。

 逮捕され、頭髪と血痕のことを追求されると、コリンズは泣き出した。調べの結果、彼には窃盗や住居侵入の常習歴があった。
 コリンズはハンサムで、魅力的な男だった。テッド・バンディと同様、どう見ても女の子には不自由しなさそうなタイプである。実際彼はありとあらゆる目ぼしい女の子に声をかけていたし、もててもいたようだ。
 コリンズには母親と姉がいたが、彼はこのふたりを幼いころから激しく愛していた。しかし母親は男癖が悪く、大酒飲みで暴力をふるう男と結婚しては、離婚を繰りかえした。自分より新しい男を大事にする母親に嫌気がさし、いつしか彼は姉のみに愛情をそそぐようになる。
 しかし姉はハイティーンになってボーイフレンドをつくり、妊娠した。コリンズはこれを知ると激怒し、姉と男をめちゃくちゃに殴りつけた。逮捕後、事情聴取の際にも、姉のことを訊かれたコリンズは
「あれは“非行に走った”んだ。男にたぶらかされて売女になり下がった。汚らわしい」
 と吐き捨てた。事実、それっきり彼は姉とは口もきかなくなった。彼がセックス過多の女たらしになったのは以後のことであると言われている。
 彼は何人もの女の子を部屋に連れこみ、車に乗せて「モノにしようと」した。たいていは成功した。だが女の子がちょっとでも焦らすような素振りをすると、彼は激昂し、「ブタ女、死ね!」とわめいて彼女を殴りつけると外に放り出した。
 コリンズの被害者6人のうち、少なくとも3人が生理中であった。普通の男なら、激しいネッキングのあと、女の子に「ごめんね、今日生理なの」と言われたら、内心舌打ちし、もしかしたら彼女を突き飛ばして1人で家に帰りたいと思うかもしれない。だが、たいていはうわべだけでも「ああ、そういう日もあるよね、仕方ないな」と言って彼女を家まで送ってやる。「また次があるさ」と思う者もいるし、「女はこいつだけじゃないんだ」と思う者もいるだろう。
 だがコリンズにとって「女性に拒まれる」というのはほとんど「全存在の否定」に等しかったようだ。母親にも姉にも一番に愛されなかったこと(少なくとも彼はそう思っていた)が、彼のコンプレックスの根であった。女性は彼をひとときでも優しくセックスで包み込んでくれねばならず、縛ったり殴ったりの彼の要望を完全に受け入れてくれねばならず、そうでなければ全て「敵」であった。

 コリンズは大学時代の論文に、
「欲しいものを奪うかどうか、他人に銃を向けて引鉄を引くかどうかは、個人が選択することでしかない。社会がそれについて善悪をどう判断するかは、関係ない」
 と書いて提出している。
 ノーマン・コリンズは重労働を含む、最低でも20年の禁固刑を宣告された。

 


◆日高広明

 

 当時34歳のタクシー運転手、日高広明はわずか5ヶ月の間に、女性4人を絞殺して遺棄した。

 日高は昭和37年、宮崎県に生まれた。幼い頃から成績優秀で、高校は地元一の進学校に進んだ。そこでも優秀な成績をおさめ、かつスポーツも万能で、友人も多くガールフレンドにも恵まれている。まったく問題のない10代を過ごしたと言っていいだろう。
 だが、彼の人生を一変させる出来事が起こる。大学入試であった。
 日高は教師を目指していた。彼自身、私立大学出の教師など馬鹿にしていたため、志望は当然国立大学である。3年時の担任が筑波大学への推薦入試をすすめ、彼も同意して受けたが、結果は不合格。また、100%確実と踏んでいた福岡教育大学にもあえなく不合格であった。結局、彼が合格したのは、自身が蔑んでいた私立大学法学部だった。
 私立大学出身の教師など、生徒も頭から馬鹿にしてかかるに違いない、そう思い込んだ日高は教師への道を諦めた。大学へ通うものの、
「俺は筑波大学を推薦で受けたんだ。運がなくて落ちたが、最初からここしか行き場のなかったおまえらとは格が違うんだ」
 という態度をあらわにし、彼は孤立した。程度の低いやつらと授業を一緒にするのなどまっぴらだ、という心境になり、ついつい出席率も低くなる。その間、日高は酒を覚え、ギャンブルを覚えた。4年に上がった時点で留年は確実になっていたが、あれほど見下していた同級生たちが次々と就職先を決めていくのを目にし、ようやく日高は自分の置かれた状況を悟ることになる。
 日高は大学を中退し、実家に帰った。周囲には「司法試験に失敗した」と嘘をついた。そして親戚のツテで市役所の臨時職員として働くが、酒はやめられなかった。
 故郷は彼を癒しはしなかった。日高はバイクの酒気帯び運転で逮捕されたのを皮切りに、遊ぶ金欲しさにひったくりをするようになった。そしてついには、家宅侵入し家人に包丁を突きつけ、現金を奪うという事件を起こす。昭和61年1月のことである。
 日高は強盗容疑で逮捕され、2年の実刑を受けて服役した。そこにはもう優等生だった昔日の面影はない。出所後、彼は故郷を逃げるようにして去り、叔父のいる広島市へ移った。

 広島で、日高はタクシー運転手の職を得る。しかし客の中には彼が目指していたような大企業のエリート社員や、国家公務員なども多かった。自分がなったであろう、しかしなりそこなった姿を目の前に突きつけられるたび、日高の鬱屈はつのった。
「俺は本当なら運転手なんかしている人間じゃないんだ。大学にさえ受かっていたら、今頃は……」
 日高は酒と女に給料をつぎこみ、足りない分はサラ金から借金して賄った。
 だが日高にもやり直すチャンスはあった。平成4年、叔父の紹介で彼は結婚したのである。彼の借金はすでに500万に達していたが、妻の貯金と、家のローンを400万余計に組むことで借金は返済された。翌年、長女が誕生。日高の人生において二番目に良い時期であったと言えよう。
 だが長女が誕生してすぐ、妻が統合失調症を発症。空を見てぶつぶつ呟き、時折り奇声をあげるようになった妻を入院させ、赤ん坊は妻の実家に預けるより他なかった。
 日高はまた酒とギャンブルにのめりこむようになった。サラ金の借金はふくれ上がり、妻の病状はいっこうに良くならない。滅多に会わぬ娘はなつくはずもないし、強盗事件を起こした故郷にも帰れない。堂々巡りの中、思考はいつも
「あのとき、推薦入試で受かってさえいれば」
 というところに戻る。いまや日高にとって、「国立大学を推薦で受けた過去」だけが自己のよりどころであった。

  平成8年4月、日高は公園で、援助交際をしている16歳の女子高校生を拾った。ふたりは日高のタクシーでホテルに向かい、部屋をとった。すると2万円渡したところで少女はいきなり泣き出し、
「父の借金を返すために援助交際をしてるの、あと10万で返済が終わるんだ。いまも10万持ってて、呉市まで返済に行く途中」
 と切々と語った。日高が同情の言葉をかけると、少女はぱっと笑顔になり「ありがとう、じゃあしなくていいよね」と言った。はめられた、と日高は悟った。しかし今更懇願する気にもなれず、「呉市まで送ってやろうか」と申し出た。
 少女を乗せ、呉市に向かううち、日高はむらむらと腹が立ってきた。そういえば少女は10万持っていると言った。それに自分が渡した2万を足して12万。サラ金の借金に追われる日高にとって、12万の金は魅力であった。
 人気のない道にさしかかったところで彼は車を止め、ネクタイで少女を絞殺した。だが、持ち物を漁ってみると、彼女の所持金は彼が渡した2万を含めて5万円しかなかった。つまり少女の話は何から何まで嘘だったのである。
 腹立ちまぎれに日高は少女の死体を田圃の土管に遺棄して帰った。

 8月13日、日高は第2の凶行に及んだ。
「ホテルを出てから殺して、金を取り返せばタダで女とやれる」
 それが動機のすべてであった。彼は23歳のスナック勤務の女性を3万円で買い、ホテルに連れ込んだ。そして帰途の車内で彼女を絞め殺し、死体を山林に捨てた。
 9月7日、彼は以前から顔見知りだった45歳のホステスを3万円で買った。そして前2件と同じく車内で絞殺し、所持金を奪った。
 9月13日、以前に何度か遊んだことのある32歳の売春婦を4万円で買う。車を止めると、女性は気配に気づいたのか怖がって逃げ出したので、追いかけて捕まえ、ナイフで脅して車内に連れ戻した。日高は怯える彼女を失神するまで殴りつけた後、絞殺。死体は山林に捨てた。
 だが第4の殺害で、日高が被害者女性をタクシーに乗せるさまが目撃されており、9月18日に県警は日高の犯行と断定。彼は逃亡するが、21日、捕縛された。
 取調べ中、刑事に「ほかに何か隠していることはないか」と訊かれた日高は、「警察はもうすべて知っているに違いない」と誤解し、前3件の殺害を自供。彼によれば
「警察はすべて知っているけれど、私の情状酌量のため自白を待っているのだと思った」
 ということである。どこまで行っても、彼には自己中心的な考え方しかできなかった。

 平成12年2月9日、一審判決は死刑。控訴しなかったため、死刑が確定した。

 


◆ボビー・ジョー・ロング

 

 ボビー・ジョー・ロングは1983年に逮捕されるまでに、50人以上の女性をレイプし9人を殺害した。彼の旺盛すぎる性衝動は5度にわたる頭部外傷での脳損傷によるところが大きいとされているが、それを除いて考えたとしても、彼の人生は複雑なコンプレックスに満ちたものであった。

 ロングは1953年10月14日にウエスト・ヴァージニア州で生まれた。ロングの父は妻に対し日常的に暴力をふるう男で、時にはナイフで脅して妻をレイプしたことさえあったという。ロングがまだ幼い頃に両親は離婚し、彼は母親とともにフロリダへ移ったため、それ以後父親に会うことはほとんどなかった。
 ロングの母親は夜の仕事に就き、大勢の男とデートし、時には男を彼ら母子の住むアパートへ連れ込んだ。しかしそのアパートは一部屋しかなく、ロングは母とベッドまで共有しなくてはならなかったのである。その生活はロングが12歳になるまで続き、彼を恥じ入らせた。
 また母親は頻繁に仕事を変え、勤め口さえあればどこへでも転々と住居を変えた。その間、ロングは近所の子供たちと友情を育めるほどの期間、ひとつの場所に定住できたためしがなかった。自然、ロングは孤独な少年時代を送ることになり、唯一の親しい存在は母親だけという歪んだ閉鎖的環境がつくられることになる。しかもその母親はひっきりなしにデートの相手を変え、ロング少年の激しい怒りと嫉妬をつねにかきたてた。

 10歳になるまでに、ロングは4回頭部に怪我を負っている。
 1度目は5歳のときで、ブランコから落ちて気絶したのだった。やがて意識を取り戻してみると、左瞼に棒切れが刺さって深々と食い込んでいたという。1年後、自転車で転んで頭に怪我。さらに1年後、車にはねられ、歯を数本折るほどの強さで地面に叩きつけられて失神した。その1年後、今度はポニーの背中から振り落とされ、頭から落下。めまいと吐き気がその後数週間にわたって続き、「まっすぐ立っていられないほど」だったらしい。
 さらに思春期にさしかかろうとする11歳のとき、ロングは自分の胸が少女のようにふくらみ出してきたことに気づいた。これは遺伝性の内分泌系異常、つまり性ホルモンのアンバランスによる疾患である。ロングの場合、これは手術を要するほどの重症で、彼は胸から6ポンド(約2.7kg)もの組織を切除しなくてはならなかった。
 手術後も彼には一生、月の満ち欠けに対する過敏さが残った。これははっきりと月経周期を思わせる現象である。
「俺には、カレンダーなんか見なくても満月のときはそれとわかった。気がへんになったみたいに、じっとしていられないんだ。うろうろ歩かずにいられない、ちょっとしたことでカッとなる――満月になると、いつもだよ」。
 体が成長とともに女の体へ変わりだしたことへの不安は、ロングに生涯つきまとった。そして彼の人生をもっとも支配し、左右した存在もまた、女――母親であった。

 ロングは13歳のときからシンディという女の子とデートするようになったが、これはまるっきり「小型版の母親」だった。口うるさく、支配的で、ああしろこうしろと彼に始終指図し、攻撃的。そして何より、彼を意のままに操るすべに長けていた。ロングはシンディと絶えず口論しながらも、彼女から離れられなかった。彼はハイスクール中退後、軍隊に入隊し、シンディと結婚した。
 ところが入隊して半年後、ロングはオートバイ事故を起こす。かぶっていたヘルメットが粉々になるほど頭部を強打し、何週間も意識不明の状態がつづいた。意識を取り戻してからも目の焦点を合わせることができず、何ヶ月もの間瞳孔がひらきっぱなしになり、また生涯つづいたひどい頭痛もこのときから始まったと言われている。
 が、何より変わったのは彼の性衝動だった。彼は自分でも「気が狂いそうなくらい」と形容したほどの激しい性衝動に苦しめられるようになった。
「それまでは妻とは週に2、3回だったのが1日2回になり、さらに自慰までしなきゃおさまらなくなった。知り合いに会っても見知らぬ女とすれ違っても、頭の中はそればっかりだ。それしか考えられなくなっちまった。頭痛はいっこうに消えない。顔の左側はまったく感覚がない。それと音。どんな小さな音でも、俺の頭には爆発音のように響くんだ。耐えられない」。
 また彼はひどく気短になり、暴力的衝動を抑えることもできなくなった。それは嵐のように突然訪れ、そして同じく急激に過ぎ去る。そして彼はその間のことをほとんど覚えていないのだった。

 事故から2年後、ロングは除隊し、レントゲン技師の職に就いた。しかし女性患者に不当に接近するとして次々に職場を解雇された。シンディとは5年間の結婚生活で2児をもうけていたものの、離婚。
 1980年から1983年にかけて、ロングは「3行広告暴行魔」となって跋扈した。これは新聞の3行広告(不要になった家具や家庭用品を売りたい、というたぐいの広告)に載っていた電話番号にかけ、主婦がひとりで家にいる確立がもっとも高い昼間に「買い手」として会う約束を取り付けると、家を訪問し被害者をレイプし金品を奪う――というのが主な手口であった。だが彼はこの「暴行魔」でいる間、ほとんど手荒い真似はしていないし、殺人も犯してはいない。彼は自分のことを「本質的に、女性に親切」だと思っていた。

 彼が最初の殺人を犯したのは1983年になってすぐのことである。ストリップ・バーで娼婦に声をかけられたロングは、彼女が車に乗ってくるやいなや、縛り上げてレイプした。そして絞殺し、ハイウェイの道路脇に死体を捨てたのだった。
「自分が何をしてるかはわかってたが、抑えがきかなかった。その女が憎かった。でも殺すつもりはなかったんだ、レイプするつもりさえなかったような気がする。でも俺は掴みかかって、彼女を襲った。朝になると自分のしたことが信じられなかった。気分が悪くて、ほんとに大変なことになっちまったと思った。でもそれから数日してまた女に声をかけられ、そしてまた同じことの繰り返しだった」。
 それからも次々に6人の被害者がロングに引き寄せられるように近づき、そして命を落としていった。
 1983年11月のある夜、ロングは夜勤を終えてドーナッツ・ショップから自転車で帰る途中の少女を見つけた。ロングは彼女を自転車から突き落として縛り上げ、車に乗せてさらった。だがこの少女は今までロングが殺していたような娼婦ではなかった。少女が語ったところによると、家は貧しく、継父は無職で車椅子暮らし。少女はこの継父から幼い頃、性的虐待を受けていた。そして今は家族を養うため、ドーナッツ・ショップで夜勤をしなくてはならないのだという。しかも彼女は学生だった。
 ロングは殺意が萎えていくのを感じた。しかしそれでも、彼は少女を自分のアパートに連れ込んだ。聡い少女は目隠しの隙間から車外の様子と、アパートの様子を覗き見してのちの警察への証言に備えた。ロングは少女をレイプしたが、彼女をはじめに拉致した場所へ連れ戻ると、解放した。
「彼女と話しだしたときに、これですべてが終わったと思った。彼女を放せば、すぐにも警察に通報するだろうこともわかってたがね」。
 だが彼がまた自分でもどうにもならない衝動に襲われたのは、それからわずか2日後だった。
 彼はドライブの最中、酔っ払い運転らしく蛇行している車を発見した。ドライヴァーは女である。彼は女に声をかけ、車に乗せた。女は筋肉質のがっしりした体格で、一目見てロングは嫌悪を覚えた。
 彼女が車に乗ってすぐロングは襲いかかった。女は抵抗し、格闘になったが、やがてロングが彼女を押さえつけて縛り上げた。そして何度も首を絞め、しまいには絞め殺してしまう。だがレイプする気にもならず、ロングは彼女の死体を町はずれの道路に捨てていった。
 ドーナッツ・ショップ勤務の少女の通報によってロングが逮捕されたのは、その4日後のことである。
 ボビー・ジョー・ロングは31歳であった。

 「俺がレイプして殺した女はドラッグ中毒や売春婦ばかりだった。殺されても仕方ない連中がいるとは言わんけど、連中は聖女だったわけじゃないんだぜ。俺は病気だ。脳がどうかしてるんだってことはわかってる。なにしろふつうじゃないものを感じたから。死んでから俺の頭をひらいて見れば、よく言うように脳の一部が真っ黒になって、ひからびて死んでるのがわかるだろうよ」。
 彼は殺人・誘拐・レイプに対して有罪と判断され、死刑を宣告された。

 


「コンプレックスを持つとは、何か両立しがたい、同化されていない、
葛藤を起こすものが存在していることを意味する。
多分それは障害であろう。
だがそれは偉大な努力を刺激するものであり、
そして多分新しい仕事を遂行する可能性の糸口でもあるのだ。」

――カール・グスタフ・ユング――

 

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