虐待の連鎖


 

 † ボビー・トンプソン&ジョン・ベナブルズ


 1993年、イギリス。
 リバプールのある郊外ショッピングセンターで、母親が目を離したすきに2歳児が行方不明になるという事件が起こった。幼児の名はジェイムズ・バルガー。3歳の誕生日を来月に控えた、人見知りしない愛らしい子であった。
 警察も両親も善良なる市民たちもジェイムズの捜索に全力を尽くしたが、2日後、彼の死体が線路で発見されることとなる。
 死因は頭蓋骨折で、殴打されてできたらしい痣が全身に散っていた。下唇は顎からちぎれかけ、口内にも裂傷がみられた。下半身は裸で、性器の包皮がめくられていた。死体は線路に置かれていたため貨物列車の通過によって切断されており、上半身と下半身は発見されたとき4メートル以上も離れていたという。

 目撃者集めは難航したが、ショッピングセンターの防犯カメラが決め手となった。
 そこには少年2人が、幼いジェイムズの手をひいて連れ去るさまがはっきり映っていたのである。
 6日後、画像解析を終えた警察はボビー・トンプソンとジョン・ベナブルズの逮捕に踏み切った。どちらもわずか10歳の少年であった。


 ロバート(ボビー)・トンプソンは1982年、アルコール依存症の父と摂食障害の母の間に、5番目の子として生まれた。
 父親は女房と子を殴り、母親は殴られた鬱憤をこれも子供たちにぶつけた。
 母親の体重が110キロを超えたころ、父親は他に女をつくって家を出た。夫に捨てられて以後、母親は酒びたりになり、朝からパブに入りびたるようになった。もちろん子供たちの面倒などみれる状態ではなかった。
 トンプソン家の長兄はまだティーンエイジャーで、たくさんいる弟妹たちをもてあました。彼は泣きわめく弟妹たちをおとなしくさせようと殴り、縛りつけ、ときには鳩小屋に放りこんで鍵をかけた。
 ネグレクトされた6人の子供たちは、当然のことながら次々と非行に走っていくことになる。
 兄の1人はボビーを連れて近所を泥棒してまわり、ある兄は放火を繰りかえし、またべつの兄は幼い子供に性的いたずらをしたとして警察の取り調べを受けた。ボビーが8歳になったときには、すでに3人の兄が施設に収容されていた。
 母親はパブでひっかけた男とねんごろになり、また子供を産んだ。
 このころになるとボビーは学校へはほとんど行っていない。働かず酒びたりの母と異父弟のため、食べものを盗んでくることもしばしばだった。
 ロバートが10歳のとき、最後に残っていた兄がついに母親に愛想をつかした。この兄はそれまで弟妹たちの面倒をみ、学校へ連れていき、食事の世話をしてやっていた。その息子を、母親は感情にまかせて杖でぶん殴ったのだ。
 すべてがばかばかしくなったのだろう、兄は以後弟妹の世話をやくのをやめ、施設行きを希望した。

 バルガー事件の起こる一ヶ月前、ボビーは弟を運河に連れて行き、こっぴどく殴りつけた上、その場に置き去りにしている。彼はもともと母親思いの優しい少年だったが、両親や兄から殴られて育つうち、弱いものいじめと顕著な放浪癖が見られるようになっていた。
 これとほぼ同時期、彼の兄が2人自殺をはかっている。が、どちらも胃洗浄によってことなきを得た。


 ボビーの「相棒」となるジョン・ベナブルズは重度の鬱病歴を持つ両親のもとに生まれた。
 彼の兄と妹は発達障害があり、特殊学校に通っていた。母親は手のかかる2人の子供にかかりきりで、ジョンを放置しがちであった。また、バルガー事件について長編ノンフィクションをものにしたブレイク・モリスンは、著作の中でジョンの母親の2度にわたる自殺未遂をほのめかしている。
 ベナブルズ夫妻はジョンが3歳のときに離婚。だがその後もつかず離れずで、ともに暮らしたり、また離れたりの繰りかえしだった。
 トンプソン家とは違ったかたちで、ベナブルズ家もまた崩壊家庭であった。
 ジョンは母親の気をひこうと兄の真似をして奇声をあげ、癲癇発作を起こして倒れるふりをした。そのうち本当に発作を起こすようになり、ついには兄以上の奇行を見せるようになった。
 彼は壁を頭に打ちつける、鋏で体を傷つけるなどの自傷癖を繰りかえし、他の子供たちにも暴力をふるった。ものを投げつけ、鉛筆を突き刺し、しまいには物差しで首を絞めて窒息させようとした。そんなときのジョンは、大の大人でも2人がかりで押さえつけるのがやっとの有様だった。

 ジョンは特殊学校に通う兄と妹のことでからかわれ、友達がいなかった。
 ボビーも学校をさぼってばかりで友達はいなかった。弟にさえ無視されがちであった。
 ある日ボビーが「学校なんかずる休みして遊ぼうぜ」とジョンを誘った。ジョンはすぐに「いいよ」とうなずき、2人は急速に親しくなる。ジョンもじきに、ずる休みの常習犯となった。

 バルガー事件の起こった1993年2月12日も、2人の少年は学校をさぼっていた。
 彼らはショッピングセンターで「弱くてちいさな」獲物を探した。ボビーもジョンも、それまでに家庭内のストレスを何度も年下いじめで発散してきていた。自分よりちいさな、赤ん坊同然の子を狙うことにすでに抵抗はなかった。
 彼らは何度か幼児を誘いだそうと試し、3人目でようやく成功した。それが冒頭に書いた被害者、ジェイムズ・バルガーである。
 ボビーとジョンはまだ2歳のジェイムズを、4キロもの距離にわたって連れまわした。
 腕を掴んで振りまわし、頭から投げ落とし、「帰りたい」と泣くジェイムズを「おとなしくしろ、間抜け」と怒鳴りつけた。しかし当然ジェイムズはおとなしくならず、2人は苛立ちをつのらせていった。
 ジェイムズがあまりに泣くのでボビーとジョンは癇癪を起こし、彼にレンガを投げつけはじめた。
 さらにはショッピングセンターから万引きしたプラモデル用の青ペンキや石を、2歳の幼児めがけて投げた。ほとんどは幼児の顔面に当たった。
 それでもジェイムズが立ちあがろうとするので、ボビーは「くそ、寝てりゃいいんだよ」と怒鳴り、さらにレンガを投げた。
 鉄パイプで頭を殴ると動きがにぶくなったので、彼らは電池(これも万引きしたもの)を口に突っ込んだ。
 この行為については「人形のようにジェイムズを生き返らせようとしたのでは」という説があり、ノンフィクション・ライターのキャロル・アン・デイヴィスが『チャイルド・プレイ3』に
「人形チャッキーが映画のラストで青いペンキを浴び、遊園地の列車の上で死ぬ」
 シーンがあることを指摘し、少年のうちどちらかがこのホラー映画を見たのではと推測している。ともかく、ジェイムズの口腔内に傷ができた理由は、このとき押しこまれた電池によるものである。
 少年2人はさらにジェイムズを殴り、蹴り、踏みつけ、下半身の衣服を脱がせた。
 ジョンによると、性器をいじったのはボビーだそうだ。ボビーの兄は子供にいたずらをした嫌疑をかけられていたし、彼も性的虐待の犠牲になった可能性はかなり高いという。おそらくボビーは自分がされたことを、ジェイムズにやりかえそうとしたのだろう。だがそのときすでにジェイムズには意識がなかった。
 彼らはジェイムズの死体を線路上に置き、「もう顔を見たくない」と思ったのでレンガで顔を覆った。
 そして家へ帰った。


 警察はボビーとジョンの態度を見くらべ、「ボビーが主犯でジョンが従犯だろう」と見なした。
 実際、ジョンはすぐ「ぼくたちが殺した」と泣きながら認めたが、ボビーは終始無罪を主張し、タフガイぶってふてぶてしい態度を見せていた。しかし彼らに善悪の区別がろくに付いていないことは明らかで、警察の目にも弁護士の目にも、2人は歳のわりにひどく幼稚だった。
 差し入れのチョコレート・バーやテイクアウトの中華料理に声をあげて喜び、「もうおうちに帰ってもいい?」と何度もまわりに尋ねた。
 ボビーにいたっては面会に来た母親に
「ぼくがいなくてもちゃんとお水とお薬飲んでる? 看護婦さんに診てもらってる?」
 と訊き、自分が拘留されていることなどそっちのけで心配していたという。
 
 この「子供による子供殺し」はイギリス国民を激怒させた。
「悪餓鬼どもを絞首刑にしろ」という『善良なる市民の声』があまりに高まったため、ボビーとジョンは厳重警備施設に送られた。2人は外にも出られないほど怯え、かつてのボビーの母のように食べ物で不安をまぎらわすことにした。彼らはたちまち15キロ近く太った。
 裁判が行われたのは事件から9ヶ月後のことである。
 ボビーもジョンも11歳になっていた。ジョンはときおり涙を流したが、ボビーはやはり「なめられたくない」という思いでタフぶった態度を崩さなかった。
 精神科医は2人の少年どちらにも知能障害はみられず、責任能力ありと認めた。ただ少年たちの情緒障害については言及しなかった。陪審員の出した結論は、全員一致で有罪だった。

 ボビーとジョンは、ともに18歳で釈放されている。
 これに関しては1999年に欧州人権裁判所が「11歳の少年らが陪審のいる成人裁判所で裁かれたのは不当である」と判決を下したことが大きい、とされている。
 出所後、2人に対してはマスコミがプライバシーを侵すことがないよう、徹底した緘口令が敷かれた――が、もちろん完全に守られてはいない。






 †
 ジョニー・ギャレット


 1981年10月、17歳の少年ジョニー・ギャレットはフランシスコ女子修道院の網戸を破り、ガラスを割って侵入した。
 彼がナイフを持って襲ったのは、就寝中の76歳の尼僧シスター・キャサリンである。彼女は敬虔なカトリック教徒だった。ジョニーはシスターが叫びださないよう手で口をふさぎ、彼女の衣服を剥ぎとった。
 ジョニーは主への祈りを唱えつづける哀れな老尼僧を手ひどくレイプし、窒息させたのち、ナイフで切り刻んだ。
 数時間後に発見されたとき、シスター・キャサリンは裸で床の上に転がされていた。殴打されたせいだろう、彼女の鼻孔から流れた血は壁の上部にまで飛び散っていた。

 ジョニー・ギャレットは1964年、テキサス州で生まれた。
 ひどい難産で、生まれてすぐかかった酸素欠乏症のせいで脳にかるい損傷があり、知能が正常に発達しなかった。重ねて不運なことに、彼の脳はその後いくたびも外傷を負わされることになる。
 ジョニーの母は若く、彼を産んだときにはすでに精神病院と外界を行き来していた。父親は暴力的な男で、ジョニーの兄を日常的に野球のバットで殴りつけていた。年若い妻は彼の暴力を止めることができず、ただノイローゼの発症と回復を繰りかえすだけだった。
 ようやくジョニーが歩きはじめた頃、またも母の精神病院への入院が決まった。
 ジョニーと兄は母方の祖父母に引きとられることになった。祖父母の家はおそろしいほど不潔で、寒く、兄弟は食事もろくに与えられずにしょっちゅう殴られた。その家には従姉のキャスリーンも住んでおり、彼女もまったく同様の仕打ちを受けていた。

 母親が退院したのはジョニーが3歳のときである。
 彼女は暴力夫と離婚し、またすぐ同じような男と結婚してトレーラーハウスに住みついた。新しい父親はジョニーの尻を叩き、彼の柔らかい皮膚を焼けたストーブに押しつけた。この火痕は彼の体に一生残るはめになったが、母親は新しい夫と別れるそぶりも見せなかった。
 母親はジョニーを守りはしなかった。それどころか夫といっしょになって息子を殴り、何度もノイローゼを再発させては育児放棄した。母親の病気が悪化するたびジョニーは祖父母宅へ送られ、そこでも虐待を受けた。
 祖母は彼に肉体的な暴力を、祖父は性的な暴力を加えた。
 祖母はジョニーを「私生児」と呼んで嘲り、頭部を狙って殴った。またジョニーにわざと女の子の格好をさせてから、祖父の部屋へ行くよう命じた。祖父の部屋で為される「行為」は週に2度ずつ行われたそうで、そのたび従姉のキャスリーンは
「ジョニーが悲鳴をあげるのを聞いた」
 という。

 数年後、またも母親は再婚した。彼女は「子供たち全員と暮らす」ことを望み、ジョニーは彼女のもとへ引きとられることになった。その頃にはきょうだいは兄だけでなく、弟と妹も増えていた。
 3人目の父親は性的虐待に熱心な男だった。
 彼は妻が仕事に出ると見るや、ジョニーに口淫を命じた。それは父親相手だけのこともあったし、父親が連れてきた男を混じえてのこともあった。彼はやがて義理の息子に肛門性交を命じるようになった。彼は子供に屈辱を与えることに興奮するタイプで、自分からかがみこんで足を広げるようジョニーに強要した。
 母親はじきにこの男とも離婚したが、男とジョーンの関わりが断ち切れることはなかった。
 男はチャイルド・ポルノを制作している友人のもとにジョニーを連れていき、男優や犬と性交させて、そのさまをフィルムにおさめた。男はジョニーに売春をも命じた。ジョニーはその頃13,4歳になっていたが、栄養不良で痩せており、歳よりずっと幼く見えたという。

 絶え間ない殴打と性的虐待はジョニーの精神を覿面にむしばんだ。
 わずか15歳にして彼は暴力的で偏執的な精神病質者となっていた。攻撃的で、人格乖離の症状をたびたび見せ、通りすがりの他人から襲撃されるという妄想にかられて暴れまわることもあった。肛門に瓶を挿入する異常な自慰にふけり、学校では錯乱してクラスメイトにガラスのタンブラーを投げつけた。
 同じ頃、アルコールに耽溺するようになった母親は、4度目の結婚と4度目の離婚とを果たしていた。

 錯乱状態で他人に暴力をふるうようになったジョニーは少年院へ送られた。
 釈放されたとき、彼は17歳になっていた。彼はふたたび母親のトレーラーハウスと祖父母宅を往復する日々に戻った。近所の女子修道院の存在に気づいたのは、たまたま近隣を散歩していたときのことであった。
 修道院には中年から老年の尼僧が多く在籍していた。彼を虐待しつづけた母や祖母と、まさに同じ年代の女性たちであった。
 凶行の起こった10月30日、彼は祖父母に侮辱されて家を出、酒を飲んでトレーラーハウスに戻った。そこで何があったのか、ジョニーは正確なことを覚えていないという。ただ彼が覚えているのは母親に「すごくいやな気分にさせられた」ことと、母親が下着姿だったということだけである。


 目撃証言や物的証拠で、ジョニーはすぐに逮捕された。
 彼は死刑判決を受け、独房に収容されたが、そこで彼はひっきりなしに架空の友人や、複数の別人格を相手に大声でしゃべりまくった。会話は一晩中続けられることもしばしばだった。彼は「多重人格」もしくは「精神分裂病」と診断され、あまりにも異常な囚人として看守の多くを悩ませた。
 数名の医療専門家および修道院の尼僧たちが、彼が重度の精神病患者であること、虐待の被害者である17歳の少年であることを理由に減刑を嘆願した。しかし当局はこれを却下した。
 1992年、死刑執行。
 ジョニーの最後の言葉は、
「おれをどうにかして救ってくれようとした友人たちに感謝する。いろいろと手助けしてくれた精神科の先生にも、おれを愛してくれた家族にもだ。……残りのやつらは、俺の尻でも舐めやがれ」
 というものだった。
 死刑は注射によって行われた。
 ベッドに横たわって天井を見つめているうちに彼の意識はゆっくりと消え、そうしてその苦難の多い人生ではじめて、彼は安らかになった。

 


 

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