THE BLOOD SUCKER
―吸血鬼―


 

 




おまえは眠たげに紅い唇で
紅く濡れた彼女の傷ぐちを吸う。

彼女の血が吸血のために涸れて
身を地に沈めるとき、おまえは燃える。
飽くなき眼 輝かせ、
飽くなき口は 渇いて。


――チャールズ・スウィンバーン――

 


 

ジョン・ジョージ・ヘイ

 
 「ロンドンの吸血鬼」と呼ばれたジョン・ジョージ・ヘイは、1911年にイギリスのヨークシャーで生まれた。
 炭鉱夫だった父は度はずれたプリマス同胞教会の信者で、家族にはすべての娯楽を禁じていた。書物のたぐいはいっさい禁止で、新聞さえ読むことを許されず、手にしていいのは聖書だけであったという。また、
「悪魔の侵入を防ぐためだ」
 と言い、家を高い高い塀でぐるりと囲ってしまい、家族に隠遁者まがいの生活を強要した。生活はすべてにおいて禁欲的で、質素というよりは貧乏に近いものであったようだ。
 母は占いに傾倒しており、とくに夢占いに凝っていた。ヘイは長じてからも夢の予言性と魔力を信じていたようだが、これは母親の影響だろう。この両親のもとに育ったヘイの犯行は、当然のことながら悦楽的というには程遠く、むしろ狂おしいほど宗教的なものである。
 彼の人生は、一貫して夢と現実とが等価であった。

 ヘイ少年が聖書の中で印象深かった箇所は、主に「いけにえ」の部分であったそうだ。彼はしばしば、十字架の上で責めさいなまれるキリストの夢をみた。
 それでも他のティーンの男の子たちと同じように、彼も親の目を盗んで女の子たちとデートはしたようだ。だが少女とキスをしているとき、彼は不意に、相手の唇を噛み切って血を舐めたいという抑えがたい衝動にかられた。が、このときはなんとかその誘惑に打ち勝ったという。
 1944年、復活祭の日、彼にとって決定的なことが起きる。
 以前、ヘイの父親の額に、石炭のかけらが飛んできて傷をつけたことがあった。父はこの傷をヘイに見せ、
「これは悪魔がつけた傷だ。わたしが昔に犯したささいなあやまちにも、こうして印が付けられるのだ」
 と言った。以来、ヘイは毎晩自分の額に手をあて、傷がないか確かめるようになったという。
 そんな彼が、自動車事故にあったのである。彼の車が貨物自動車と衝突し、横転。ヘイは額に傷を負った。車からようやく這い出たとき、額から流れる血が彼の口に流れこんだ。ヘイはその血を舌で舐めた。
 その夜のことである。
 ヘイは夢をみた。彼は、十字架が無数に乱立する森の中に立っている。
 それらがやがてざわざわとよじれ、身をくねらせると、腕が木の枝のように伸びて樹木になった。森は雨にかすみ、枝の先から水滴を垂らしている。――が、それは近づいてみると水の滴ではなく、血であった。
 突然、木々が苦悶するかのようにうねり、身をよじりだす。血が幹にじくじくと滲み、真っ赤に染まった枝からしたたり落ちてくる。その木々の中に、ひとりの男が立っているのが見えた。彼は杯に血を満たし、ヘイに歩み寄ると、こう言った。
「飲め」。
 ――目が覚めて、ヘイは、自分の喉がからからに渇いているのを知った。

 
 ヘイがウィリアム・ドナルド・マクスワンを殺害したのは、この夢に操られてのことだったかもしれない。
 彼らが出会ったのは1936年のことであった。詐欺罪で服役し、出所したヘイは、ドナルドが遊技場のマネージャーを募集しているのを見て応募。1年間彼の下で働いたが、詐欺の方がやはり実入りがよかったため退職した。
 その後、ふたたび服役し、出所して彼らは再会する。ドナルドは小金を蓄え、会社を興したがっており、口のうまいヘイを相談相手に選んだのである。彼はすっかりヘイを信用していたらしく、老いた両親にまで引き会わせている。しかしこれはもちろん大きな間違いだった。
 1944年9月、ヘイはドナルドを自宅の地下アトリエに招待した。
 殺害の瞬間については、ヘイ自身あまり記憶にはないらしい。ともかくヘイはドナルドをガス管のパイプで殴り殺し、ナイフで咽喉を切り裂いた。流れ出る血をコップに受けようとしたがうまくいかなかったので、傷口に直接唇をあて、舐めたという。ヘイは逮捕後、「コップに何杯も血を満たして飲み干した」と証言したが、これは人体の構造上不可能である(血液には催吐性の物質が含まれている)。おそらくは舐めたか、口いっぱいに含んだのち、吐き出したかだろう。
 その夜、ヘイはふたたび血をしたたらせる森の夢をみた。すると、今度は男から杯を受け取り、血を飲んで満ち足りることができたのである。ここでははっきりと、夢と現実の逆転が行なわれている。
 ヘイは墓場から金属製の樽を拾ってきてアトリエに運びこみ、そこに自動車部品を加工するための硫酸を満たした。ドナルドの死体は、硫酸樽に放り込まれるとすさまじい白煙をあげたので、ヘイはその場から逃げ出さなくてはならなかった。
 戻ってくると死体はすでにあらかた溶解していた。下水の蓋をあけ、そこに残りを流し込む。こうしてドナルドの残骸はロンドンの河口を経て、やがて海へと流れていった。

 翌1945年7月、ヘイはドナルドの両親を殺害した。ヘイは彼らには、ドナルドの失踪について「徴兵忌避のため身を隠した」と説明していたらしい。
 ヘイにはいくつかの犯罪的才能があったが、その中でもひときわ優れていたのが、筆跡偽造の技術であった。のちにスコットランド・ヤードの鑑定家が、
「詐欺犯罪史上、まれにみる傑作」
 と絶賛したほど、その腕前は見事だったらしい。
 マクスワン夫妻は殺され、息子と同様に硫酸風呂で溶かされた。ヘイは以前の経験を踏まえて、いくぶん慎重になり、防毒マスクをかけ、ゴム手袋と長靴を着けて死体処理を行なったという。そして自慢の書類偽造技術を使って、マクスワン家の遺産をそっくり詐取した。

 ヘイの次なる犠牲者はヘンダーソン夫妻である。
 夫のアーチボルド・ヘンダーソンは上流階級相手の富裕な医師で、妻ローズも医師の家に生まれた評判の美人であった。ヘイはヘンダーソン夫妻が家を売るために出した不動産広告を見て、買い手を装い彼らに接近した。
 もちろん家の売買は不成立に終わったが、そのころにはヘイはすっかり彼らの懐にもぐりこんでしまっていた。彼はヘンダーソン宅にしばしば招かれ、夜をともに過ごした。ヘイは応接室のピアノで夫妻のためにブラームスを奏で、愉快な話題を提供し、洒落たジョークを飛ばして彼らを退屈させなかった。
 とくにヘイは夫妻の飼っているセッター犬を可愛がった。ヘイは並外れた犬好きだったらしい。サイコパスの特徴のひとつに「動物虐待癖」というパターンがあるが、また同時に、「過度な動物愛好」というパターンも存在する。動物愛好家のサイコパスは、人間の命には無感覚なのに対し、動物の命は宝物のように扱うのが常である。
 1948年2月、ヘイはヘンダーソンを地下アトリエに招き、射殺。次いでローズをおびき出し、殴殺した。ヘイはふたりの血を舐め、硫酸風呂に放り込んだ。一昼夜も経つと、夫妻の体は溶けた巨大な砂糖の塊のようなものに変わり果てていた。
 ヘイは彼らの死によって8000ポンドを得たが、まだ足りなかったので、ローズの筆跡を真似て、ローズの兄を呼び出した。兄はまんまと騙され、ヘイの硫酸風呂につかる一歩手前までいったものの、直前に実母が急逝したためロンドン行きをとりやめたので、難をまぬがれた。

 1949年2月20日、ジョン・ヘイは隣人であるコンスタンス・レーン夫人を連れて、警察署の窓口を訪れた。
「われわれはオンズロー・コート・ホテルに滞在している者だが、同じホテルの住民であるディーコン夫人の姿が見えないので、心配している」
 口ひげをはやした気障な身なりの小男はそう言った。デュラント・ディーコン夫人は69歳になる富裕な老婦人で、2月18日の朝に出かけたきり、姿を消したという。レーン夫人が、
「じつはここにいらっしゃるヘイさんが、ご自宅のアトリエにご招待されたんです。夫人は付け爪とマニキュアのご相談にのってもらいたかったそうで、それで……」
 なおも言いつのろうとする夫人を制して、ヘイは「いや、ディーコン夫人は待ち合わせの時間にお見えにならなかったので、それで心配しているのです」と言った。
 警察は夫人の失踪について、詳しい事情を聞くべく、コート・ホテルのヘイを訪ねた。ヘイは協力的だったが、その話はとりとめなく、あまりに調子がよすぎた。同行した婦人警官は、帰途の車内で、
「あの男には――ジョン・ヘイには好感が持てないわ。いえ、それを別にしても、あの男はクロだという気がする」と言った。
 果たしてヘイの身元を洗ってみると。彼には詐欺と窃盗の前科が複数あることがわかった。
 2月26日、ヘイ宅の「地下アトリエ」に警察の捜査が入る。警官はそこから、ガスマスク、ゴム手袋、血のついたゴムの前掛け、最近発射された形跡のある38口径の銃、デイーコン夫人が着ていたはずのコートの、クリーニング預り証などを発見した。
 
2月28日、ジョン・ヘイは逮捕される。
「夫人はどこにいる?」
 そう詰め寄った刑事の鼻先で、ヘイはせせら笑った。
「彼女はもうこの世にはいませんよ――。跡形もなく、すっかり消えうせてしまいました。硫酸で始末したんです。レオポルド通りに溶けかすが残っていますが、夫人は影も形もありません。死体がなくて、さて、どうやって殺人を立証するというんです?」
 青くなる刑事をよそに、ヘイは休憩を希望した。そして紅茶とチーズとサンドイッチをつまんだのち、供述をはじめた。

 しかし、「ディーコン夫人が完全に消滅した」というヘイの言い分は誤りであった。
 警察はヘイが、ディーコン夫人の溶液と、溶けかすを捨てたという庭を捜索した。そして24フィート四方の土地から、表層の土を3インチ、慎重に剥がし、スコットランド・ヤードの法医学研究所に送ったのである。
 その中から、さまざまな遺留物が発見された。かかとの骨と骨盤の一部。足首の骨。ヘアピン。胆石。入れ歯。ハンドバッグと中身。そして28ポンドの黄色い脂肪の塊である。

 1949年7月、ヘイの裁判は行なわれた。
 弁護側の証人である精神科医は、ヘイを「偏執病的気質の持ち主であり、養育環境によってさらに助長されたとみられる妄想性精神異常」と主張。
 しかし陪審員はたった17分で、ジョン・ヘイを有罪にした。判決は死刑である。
 その判決後、法廷地下の控え室に連れていかれたヘイを見て、教誨師が「あの男に、心ばかりの慰めが必要かどうか尋ねてくれないか」と看守に言った。看守はヘイのもとへ行き、尋ねた。
「神父さまが、面会に来ようかとおっしゃってるが」
「さあ、あまり意味がないように思うがね。きみもそう思わないか?」
 ヘイはそう言うと、紅茶をゆったり飲み干して微笑んだという。
 彼はその半月後の8月6日に処刑され、無縁仏として葬られた。獄中での彼の希望は、マダム・タッソー蝋人形館に自分の肖像が展示されることであった。以下はそれに関する遺言書の中の一文である。

「私は、自分が公判中に着ていた衣服を、私の人形に着せるべく、マダム・タッソー蝋人形館に寄贈されることを望む。同じく私のお気に入りのソックスと、ネクタイもつけていただきたい。
 なお、タッソー館の管理人が、私のズボンにつねにきちんと折り目をつけておくよう、注意されることを切望する。獄中で皺だらけにしてしまったが、これは不快である。人形に使う際には、もっとぴったりした線を残していただきたい」。


 


リチャード・チェイス

 
 1978年1月23日。
 凍てつくような寒さのその日、“吸血鬼”はウォリン家の戸口に立った。

 22歳の若妻テリーザは、その日仕事を休んで家事をこなしていた。妊娠3ヶ月の体は、まだ動きに難を感じるほどではないが、何がしかの重みはつねに意識させられる。彼女はゴミ袋を手に、玄関のドアをあけた。
 そのとき、目の前に見知らぬ男が立っていた。髪はぼさぼさ、骨と皮ばかりに痩せこけ、見るからに不潔ななりをしている。ほとんど生理的に彼女が男から身を避けようとしたとき、男の手に銃が握られているのが見えた。
 男は2度、発砲した。テリーザの頭と腕に銃弾が食い込み、彼女はよろめいた。
 ひどく冷静に男は彼女の脇にまわりこむと、テリーザの左こめかみを撃ち抜いた。
 テリーザの死体が発見されるのはその日の夕方であるが、殺害現場を目撃した保安官助手は、その後何ヶ月も悪夢にうなされる羽目になったという。現場は、それほど惨たらしい有様だった。
 テリーザは半裸にされ、腹を切り裂かれていた。胸から臍までをナイフで切開し、さらに傷口の中でナイフを動かしたらしく、体内にも損傷がみられる。その上、犯人は臓器を抜き出して切り刻んでもいる。
 彼女の口には動物の糞便が詰め込まれ、玄関付近に散乱したゴミの中から拾いあげたらしいヨーグルトの空き容器が、べっとりと血に染まっていた。あきらかに、その容器に血を満たして飲んだのであろうと思われた。

 それから4日後の1月27日、吸血鬼はまた現れる。
 今度のターゲットはウォリン家から1マイルほど離れたマイロス家であった。被害者は36歳のイーヴリン、その6歳の息子、友人のダニエル・メレディス。さらに、マイロスの甥である1歳の赤ん坊がいなくなっていた。
 被害者はすべて銃殺されており、イーヴリンはテリーザと同様、腹を切り裂かれている。取り出された内臓もやはり切り刻まれ、顔面と性器を中心に、全身を無数に刺されている。さらに殺害後、肛門性交された痕跡も見つかった。
 誘拐されたらしい赤ん坊のためのベビー・サークルは血で染まり、薬莢が転がっている。バスタブの水は血で色づき、脳の一部と糞便がぷかぷか浮いていた。そしてここでも、犯人は血を飲んだらしかった。
 地区の保安官は「28年この仕事をやってるが、これほどグロテスクで、無意味な殺人ははじめてだ」と語った。

 これほどの惨劇を起こしたものは何か? それは1人の男が10年以上の歳月をかけて、脳の中で紡ぎだした妄想である。
 その妄想の主――リチャード・チェイスは、1950年にカリフォルニアで生まれた。中流階級で、生活に特に不自由はなく、本人も内気でやさしい子供だったという。しかし彼が12歳になったころから、両親の不仲が急激にあらわなものとなった。
 彼の母親はもともと境界線型の人格異常の気味があった。それがはっきり病的なものとなったのがこの頃である。彼女は夫に、
「あんたは女狂いだ!」
「ヤク中! 麻薬漬けになってるんでしょう!」
「あたしを毒殺して、新しい女を家に入れようとしてるんだ!」
 とわめきちらし、幼いリチャードは自室に丸くなって、壁越しに聞こえる母の狂的な声に耐えた。その後一家を面接した精神科医は、チェイスの母親について、
「きわめて攻撃的で、挑発的。他人に敵意を抱いており、威圧的」
 と語っている。
 人格異常の親を持った子供に、自殺者が多いというのは統計上の事実である。さらにその生き残りのうち、何割かが鬱病を中心とする精神病者となり、さらに何割かが、犯罪者となる。いわゆる「魂の殺害」である。リチャード・チェイスは自殺こそしなかったものの、重度の分裂病患者になり、そして殺人者となった。
 彼が精神に異常をきたしはじめたのは、おそらくティーンエイジャーの頃からである。彼は孤独で、反抗的で、毎日を無為に過ごした。部屋は掃除されることもなく、服装はだらしなくなり、酒や麻薬にも手を出すようになった。


 高校はなんとか卒業できたものの、それ以後の彼は坂を転げ落ちるように、正気を失っていく。
 体を清潔に保つことへの興味を失い、しゃべる言葉はどんどん意味不明なものになっていった。友人達は潮がひくように彼から離れていったが、チェイスはなんら気にしなかった。
 彼の眼はすでに、外界には向いていなかったのである。そのころからすでに、彼の興味を引くものは「自分の体内」のことだけになっていた。
 チェイスは自分の血が日を追うごとに薄まっていき、そのせいで心臓が弱まり、ついには死んでしまうと信じていた。この当時、彼が周囲に訴えた「体の不調」は、すでに常軌を逸したものである。
「肺動脈が盗まれた」
「心臓が、定期的に止まってしまう」
「からだがばらばらに崩れ落ちる」
 等々――。
 そして1976年春、彼は不可解な中毒症状を起こし、病院にかつぎこまれる。「心臓を強くするため、ウサギの血を飲んでいた」と彼は医師に語った。また、静脈にウサギの血を注射しようともした、とのことである。
 彼は精神病院に送られた。

 しかし精神病院でも、彼はきわめて危険で異様な患者だった。小鳥の頭を食いちぎって顔中を血だらけにしながら院内を徘徊したり、小動物を殺して血を抜き取ったりしたのだ。医師や看護婦は彼に「ドラキュラ」という渾名をつけた。
 だが幸か不幸か、医師たちの不安は1年で解消された。チェイスが退院したためである。
 彼は客観的に見て、あきらかに野放しにしてはいけない危険な精神病患者だったが、チェイスの母親が無理に退院させたのである。
 退院後、チェイスは母親の監督下にあるという名目で、サクラメントのアパートに1人暮らしをはじめる。彼の狂気はこの孤独な生活の中で、さらにふつふつと煮えたぎっていく。
「ナチが自分をつけ狙っている」
「自分を暗殺しようとしている組織がいる」
「UFOが毎晩、部屋の近くに飛んでくるので困る」
 これが、この頃チェイスが他人に対して訴えていたことのほとんどすべてである。もう、彼の中には妄想しかなかった。
 この頃、彼のアパートの近隣では、ペットの犬猫がつぎつぎと姿を消す、という事件が起こっている。と同時にチェイスはペットショップにいりびたり、「食料」として小動物を買い込んでもいた。
 1977年8月、彼はネヴァダ州の砂漠で、血まみれで突っ立っているところを逮捕された。その血は牛のものだったため、彼はすぐに釈放された。――しかし警官たちには知るよしもなかったが、実はそのとき、チェイスは奇妙な食物連鎖の道をひた走りつつあったのである。
 すなわち、小動物から大型動物へ。そしてさらに、万物の霊長へと。
 1977年12月29日、彼は51歳の男性を射殺している。
 そして年が明けて、冒頭に記したテリーザを殺し、4日後にマイロス家を襲撃した。

 チェイスが逮捕されたのは、目撃証言と似顔絵のおかげである。
 彼の家に警察が訪れたのは1月28日。マイロス一家殺害の翌日のことであった。
 彼のアパートに踏み込んだ捜査員は、目を疑った。床といわず壁といわず、ベッドといわず浴槽といわず、そこには血が飛び散り、こびりついていた。
 キッチンに置かれた3つのミキサーには、乾いた血と、筋肉組織がへばりついている。また冷蔵庫からは、いくつかの人体の破片と、脳組織が見つかった。


 1979年5月、マスコミによって「サクラメントの吸血鬼」と名づけられたリチャード・チェイスは、6件の第一級謀殺で有罪とされた。しかし彼は電気椅子に座ることも、ガス室に送られることもなかった。
 1980年12月26日、彼はしばらく前からこっそり溜めこんでいた、幻覚抑制のための抗鬱剤を一気に飲み干した。致死量である。


 看守が発見したときには、「吸血鬼」は監獄の粗末なベッドに縮こまったまま、すでに硬くなっていたという。
 

 


19世紀のヴァンピール

 
 このふたりは明らかに「吸血鬼」というよりは「カニバリスト」であるが、19世紀当時には彼らを「吸血鬼」として見るむきが多かったそうなので、こちらに分類させていただくことにする。

 

 22歳のイタリア男性であるヴィンツェンツオ・ヴェルツェーニは、女ばかり6人を絞殺し、その陰部やふくらはぎに噛み付き、血をすすり、肉を噛み切った。
 彼は正常な性衝動を持たぬ人間であったようだ。女の首を絞めているうちに、強烈な勃起と射精が起こるので、たいていの場合は女を殺してしまう前に満足して手を離すことができたが、たまたま射精が長引いた場合、被害者は不運にも息絶えてしまったのである。
 発見された死体はきまって全裸で、手足を切断され、腹部は切り裂かれ、内臓を抉られていた。
 ふくらはぎや陰部の肉は、切り取られて持ち去られているのが常だった。のちに彼はこれを、
「家にもって帰って、焼いて食べるつもりだったから」
 と説明した。
 彼の被害者たちはもちろん、ひとりとして強姦されてはいなかった。ヴェルツィーニは、女たちに「性器を接触させる」ことすら思いつかぬふうであったという。

 

 21歳のフランス男性、ウージェーヌの症例も奇妙である。
 ある日、パリ市街を警邏していた警官は、公園を通りかかったところで我が目を疑った。
 ベンチに座っていた若い男が、はさみで自分の左腕の肉を切り取っている真っ最中だったからである。警官は慌てて彼を止め、事情を問いただした。すると、彼はこう答えた。
「僕は13歳くらいのころから変な妄想を抱くようになりまして、色の白い女の子を見ると、どうしてもその体の一部を噛みちぎって、むしゃむしゃ食べたくなってたまらないんです。でも女の子の肉を歯で噛みちぎるなんて、大変でしょう? だから大きなはさみを買ってきて、街をうろついて手頃な女の子を探してたんですが、チャンスがなくって。
だもんで、しょうがないから自分の腕のいちばん白くて柔らかそうな部分を切り取って、頭の中で『これは若くてかわいい女の子の肉なんだ』と自分に言い聞かせながら、食べてたってわけです」
 彼はただちに病院へ送られ、ガルニエという教授によって症例を報告された。

 

 彼らは我々現代人の目から見れば、あわれな異常性欲者たちだ。
 しかし19世紀当時、また心理学や異常性欲について知識を持ち合わせなかった多くの人々は、彼らを「人間の突然変異」もしくは、「妖怪、吸血鬼」とみなしたのである。

 


ジョン・ブレナン・クラッチリー


 「フロリダの吸血鬼」ことジョン・ブレナン・クラッチリーは1945年に生まれた。
 両親はインテリであり富裕層だったようだが、愛情深いとは言えなかったらしい。彼は幼い頃、マンソンやルーカスがそうであったように女の子の格好をさせられて育てられるなど、性的に混乱する環境に置かれていたという。
 思春期には精神科医によるカウンセリングを受け、自分がバイセクシャルであること、また性的サディストであることを自覚していたようだ。長じてからは人並みに結婚もしたが、やはり性癖は抜けないばかりかますます昂じ、スワッピングや集団セックスに溺れ、妻にもしばしばサディスティックな性行為を強要した。

 クラッチリーの性癖が表沙汰になったのは、1985年の事件によってであった。
 その朝、フロリダ州マラバー沿いに車を走らせていた男性は、道路に裸の女が這っているのを発見した。慌てて車を止め、駆け寄ってみると、彼女はまだ10代の少女であった。しかも両手足に手錠をはめられ、顔色は異常なほど真っ白だった。
 少女は男性に声をかけられるとパニック状態に陥ったが、説得され、車に乗ることを承諾した。少女は道すがら、ある家を指さして、
「あの家よ――おねがい、あそこを覚えておいて」
 と彼に頼んだ。彼女が指したのは、いかにも小綺麗で裕福そうな一軒屋だった。彼はそれを承諾し、警察に連絡してから彼女を救急車に引き渡した。
 のちに病院で確認されたところによると、少女は体内の血液を、40%〜45%も抜かれていた。また両手足と首に、緊縛された擦過傷が認められた。


 病院の処置により回復した少女の証言によると、彼女の血を抜いたのは「身なりのいい知的な中年男性」だったという。
 ヒッチハイクをしていた彼女を拾ったその男は、家にいったん帰る用事があるから、と言って少女を自宅に連れ込み、背後から紐で首を絞めて気絶させた。そして少女が意識を取り戻したときにはすでに縛られて体の自由を失っており、全身がライトで照らし出されていた。
 男はビデオカメラをまわしながら、少女をレイプした。
 それから注射器で、少女の腕から血を抜き、
「おれは吸血鬼なのさ。血が必要なんだ」
 と言いながらそれを口にした。
 少女はたった今、自分から採取された血が男に飲み込まれていくのを呆然と見守った。
 男は少女をバスタブに押し込んで出て行き、また戻ってきてレイプし、さらに血を採った。
 翌朝にもまったく同じ行為が行なわれた。レイプと、採血。そして男は「あとでまたやってやるよ」と言い、出て行った。
 少女は彼の姿が見えなくなったのを確認し、バスルームの窓を押し開けてなんとか外に這い出ることに成功した。あともう1度血を採られていたなら体の半分以上の血を失うことになり、おそらくは命を落としていただろう。


 少女は、救助してくれた男性に「あの家よ」と指した家をまだ完全に覚えており、警察に証言することができた。
 その家の主はジョン・ブレナン・クラッチリー。39歳のシステムエンジニアであった。
 警察が家に踏み込んだとき、彼の妻子は感謝祭のため、妻の実家に帰省中だった。彼は誘拐と性的暴行による罪と、押収された麻薬の所持によりただちに起訴されることになる。
 警察はビデオカメラ、麻薬、性的玩具、また誰のものともわからぬクレジットカードの束や、貴金属、女性ふたりの身分証明書などを発見した。これらはクラッチリーにあきらかに余罪があることを指し示していたが、彼はもちろん愚かではなく、容易にしっぽを掴ませる気はなかった。


 事件の前年、フロリダ州ブレヴァードでは女性の変死体が4体発見されていた。警察はこれらはクラッチリーの犯行ではないかと睨み、捜査を開始したが、結果は思わしくなかった。
 二度目の捜索ではすでにクレジットカードの束は処分されていたが、代わりに、彼が海軍の兵器や通信に関する極秘情報を違法に入手し、フロッピーに保存していることが明らかになった。
 また、彼はいままで関係した70人以上にものぼる女性のデータカードを作成し、そのすべてに個人情報と、クラッチリーが判定した「セックス能力のランク」が記されていた。そしてこのうちの何人かが、彼に暴行されたことをのちに証言することになる。
 警察がクラッチリーの過去を洗ってみると、1978年に女性秘書が殺された事件で、彼が最後の目撃者になっていることがわかった。しかし警察は彼を怪しんではいたものの、起訴はできずじまいだったのである。
 そのほかにも、彼の住んでいた地域で女性が行方不明になったり、死体が発見されたりしている例が何件か発見された。しかしそのどれもが、クラッチリーとの関連性を明らかにするには至っていなかった。


1986年、クラッチリーは法廷に立たされた。
 FBI捜査官のロバート・レスラーは彼が連続殺人犯であると半ば以上確信しており、彼になるべく重い刑が課されるよう尽力した。レスラーの考えによれば彼の自宅にあったクレジットカードや貴金属はあきらかに「戦利品」であり、クラッチリーは野に放たれるべき人間ではなかった。


 レスラーの主張はあらかた聞き入れられ、誘拐とレイプだけの罪に対しては異例の「50年の仮釈放付きで25年から無期」という刑が彼に宣告された。
 クラッチリーは本当に殺人者だったのか、また何人の血を啜ったのか、正確なところはもうわからない。
 ただ彼が自らくびれ死んだことで、それらの罪を間接的に認めたと信じている者は、けっして少なくはない。
 
 

 


ジル・ド・レエ


 彼のその36年という短い生涯は、くっきりと明暗に分けられている。
 すなわち前半を、フランス王室に匹敵する財と権力を持ち合わせた領主、さらにオルレアンの戦いでジャンヌ・ダルクとともに闘った陸軍元帥として。
 そして晩年を、中世最高の幼児殺戮者として――である。

 1432年から1440年までの8年間、つまりジル・ド・レエが死に至るまでの晩年、フランス地方の子供という子供はのきなみ行方不明になってしまっていた。そしてそれらの事件は、ジルが居を変え、城を移動するたびにあとを追うようにしてついてまわった。
 裁判所の記録によると、彼の犯罪は性的なものではなかった、ということである。たしかに彼は子供の腹を裂き、手足をばらばらにし、生暖かい臓腑のどろどろに浸りながら精液を排出したが、彼が何よりも望んでいたのは、性的快楽よりも「殺すこと」への純粋な悦びであったという。

 ジルは勇敢な武人であり、そのはたらきはジャンヌを助けて英国軍を破り、フランスの危急を救った。
 だが、危機を脱して統一国家への道を歩み始めたフランス国家は、もはやジルの属した「封建社会」を必要としなかったのである。
 オルレアン解放後、ジャンヌは火刑に処され、ジルは失意のうちに戦場から引退した。しかし生まれながらにして「戦争を最大の遊戯」として見なし、極端な浪費癖や貴族趣味にどっぷりつかっていたジルは、社会の変化にはついていけなかった。
 いわばジルは、「最後の中世人」であったのかもしれない。

 ジルは1404年ごろ、アンジュー地方のシャントセ城で生まれた。
 彼が10歳のとき、父親は猟で死亡。母はそれからまもなく、ジルと弟を捨ててほかの男と結婚した(弟を生んですぐ死んだ、という説もある)。
 両親のいない子供たちを育てた後見人は強欲で動物的な人物であり、彼らを放任したという。ジルはこのような環境のもと、学問や芸術に惹かれながらも、他人の言葉に引きずられやすい、子供のような大人に成長した。
 1432年、祖父が死亡。ジルは28歳の若さで、おそらくフランス一と言われたほどの莫大な財産を手にした。だが幼児のごとき経済観念しか持たなかった彼は、晩年にこの土地や城を次々と手放している。
 彼の人生はつねに衝動的であり、反省という言葉はなかった。

 

 彼が殺戮に手を染めはじめるのは、ジャンヌが焼き殺され、王の寵愛を失い、自分の城に閉じこもるようになってからであった。
 しかも、イタリアの魔術師プレラティにそそのかされたことがもとで、彼は一気に降魔の術や、いけにえの儀式などの怪しげなものに急激にのめりこむようになる。
 子供の残酷性を残したまま大人になってしまったジルの凶行はとどまるところを知らなかった。バタイユはこれを「聖なる怪物性」と評している。
 逮捕後、裁判にかけられた従僕の証言によると、ジルの犯行は以下のようなものであったらしい。
 まず浚って来た子供(男女は問わない)を裸にし、性器を子供の腹にこすりつけて射精する。それから子供たちの首を切断させる。特にゆっくり死ぬように、首のうしろに切り傷をつけ、それを深くしていくようにしながら斬っていくと、ジルはことのほか興奮したという。
 そして子供たちが血を流し死にかけている間に、ジルはふたたび自慰をはじめる。たいていは腹の上に飛び散らせたが、時には死んでしまってからも、体のあたたかいうちは続けたらしい。
 切断した首を並べ、「どの子がいちばん美しいか」と家臣たちに尋ねるのもお気に入りだったという。

 だが同時に彼は敬虔なキリスト教徒でもあり続けた。
 興奮がおさまると彼は部屋にひとりでひざまずいて、さめざめと泣き、苦行を神に誓い、慈善基金の設置を約束し、贖罪の夜を過ごした。
 だがそれらの夜が過ぎ去ると、またジルはまたも乱行に走るのだった。
 彼は子供を連れてこさせると、無我夢中でむしゃぶりついていって、目をえぐり、血みどろの汁を指でこねまわし、それから棘のついた棒を掴むと、頭蓋骨から脳漿が飛び散るまで頭を打ちのめした。これらは、ユイスマンスの言によるものである。

 いったい、ジルは何人の子供を殺したのか――。
 ジル自身は「覚えていない」と証言しているが、裁判記録に寄ると「800人からそれ以上」ということになっている。この数字は誇張ととらえるほかはないが、のちの評者や学者によると「少なくとも140から200人」ということになっているようだ。それでも膨大な被害者数であることには変わりがない。

 しかしジルの凶行にも終止符が打たれるときがくる。
 彼は1440年、逮捕され、公判の席に立たされた。彼は最初、駄々っ子のようにふてくされ、裁判官をののしっていた。しかし教会から「破門」の宣告を受けた途端、彼は豹変した。
 ジルはひざまずき、泣いて「破門の撤回」を乞うた。
 そして、むせび泣きながら罪の告白をし、「神よ、どうか許しを憐れみを」と叫んだという。

 

 ジルの処刑の日、刑場まで彼に付き従うようにして行進した民衆は、なぜか憐憫の情にとらえられ、お祈りや聖歌を口ずさみながら粛然として行列にしたがったそうだ。
 彼らがジルの死に何を見出したのかは、さだかではない。
 


 


ヴラド・ツェペシュ


 15世紀は、小国がまだ分立していた時代であった。
 そこに、三つの巨大な勢力がぶつかりあいを始めたことで、歴史が動いた。ひとつは中央ヨーロッパ。ひとつは東ローマ帝国。そしてもうひとつがオスマン・トルコである。
 この三大勢力のせめぎあうワラキア、トランシルヴァニア地方に、半独立化した小領主国があった。
 その領主が、ヴラド・ツェペシュ。またの名を「串刺し公(テペス)、」「悪魔(ドラクル)」という。

 

 ツェペシュ一族は、トランシルヴァニアの名家であった。
 ヴラドの父が俗称「悪魔公」と呼ばれ、ヴラドの息子達が「小串刺し公」、「悪党公」などと呼ばれていたところからみても、代々に受け継がれた暗い気質がみてとれる。
 この一族は何代にもわたりこの土地を支配してきたが、そのやりくちは「無慈悲な支配者」以外の何ものでもなかったようだ。
 近隣の国々に対しても信義にもとる違約行為はしょっちゅうで、領民に対しては徹底的な暴君であったという。だがこの気質は長所として表れる場合ももちろんあり、狡猾さは巧妙な外交手腕ともなり、残虐さは勇猛果敢な軍事家として評価されたりもした。事実、歴史家の間では、ヴラド・ツェペシュを名君とみている者も少なくない。

 が、彼が残忍な支配者であったことはやはり疑いないようだ。

 

 ヴラドは13歳から17歳にいたる思春期を、トルコ軍に幽閉され、人質として過ごした。この時期に内心ではぐくんだ憎悪と怨念が、後年の彼の性格を形成する一要因になったことは否めない。
 ツェペシュ一族はそろって冷酷であったが、その中でももっとも暴虐をふるったのが彼ヴラドである。
 父は1447年、政敵に毒殺された。
 翌1448年にトルコとワラキアとの間で大きな戦闘があり、ようやくヴラドの幽閉がとかれる。そして亡き父のあとを継ぐかたちで、ヴラド・ツェペシュ公が誕生するのである。

 新領主はただちに、積もり積もった憎悪をトルコ軍に向けた。
 こんなエピソードがある。トルコ側の使者が彼の城を訪問したときに、使者はターバンをつけたままであった。
「わたしの前でターバンをとらぬとは無礼な」
 ヴラドがそうなじると、使者は、
「わが国では、ターバンは人前であっても、王の眼前であっても脱がないのです」
 と答えた。
 それを聞いたヴラドは、「ならばもう二度と脱げないようにしてやろう」と言い、部下を呼んで使者の体を押さえつけさせ、ターバンの上から頭蓋に釘を打ち付けて殺してしまったという。
 

 だが彼の名を後世に知らしめたのは、やはり何と言っても「串刺し」である。
 彼は捕虜を生きたまま、木杭に肛門から口へと抜けるまで刺し込み、そのまま地面に突き立てた。彼の手で拷問を受け、杭に刺し貫かれた人間の数は、敵味方合わせて数千にのぼったという。たとえ臣下であっても、少しでも意にそわぬことがあれば容赦なく杭は突き立てられた。
 ヴラドの最大の愉しみは、杭刑にした敵の死体の前で酒池肉林の宴をくりひろげることであったらしい。腐臭に気分の悪くなる者が出ると、
「もっと空気のいいところへ送ってやろう」
 と言い、いちばん高い杭に串刺しにしてしまったという。
 このほかにも、自分の意に反した者へは、耳や鼻をそぐ、性器を切断する、または生皮剥ぎの刑罰、体の各所に釘を打ち込むなどの拷問を次々と考案した。
 さらには、生きたままの火炙り、釜茹で、生き埋め、緊縛したまま荒野に放置して、鳥や獣の餌食にするなどということまでしたそうだ。中でも無残だったのが「共食い刑」で、敵の捕虜を処刑したのち、その肉をほかの捕虜達の食事として出したというのである。まるで、マルキ・ド・サドの小説のような残酷さといえよう。

 

 しかし1453年に東ローマ帝国がトルコに滅ぼされたことで、勢力に変化が起こる。
 ヴラドはトルコ相手に変わらぬ憎しみをもって戦ったが、敗れ、1462年にハンガリーへ亡命した。
 しかしハンガリーは中立的立場であり、ヴラドを討ち取ることもしなかった代わりに、援助もしなかった。これ以降の14年間、ヴラドはハンガリーで事実上の軟禁状態に置かれる。
 当時のロシア大使は、幽閉されたヴラドを見たことがあるらしく、こう書き記している。
「独房内の彼は、監視兵にいつも小動物の差し入れを依頼していた。監視兵が小鳥や野ネズミを持ってきてやると、彼はそれらを楽しげに細い棒で突き刺し、切り刻み、羽や手足をそぎ、最後には首を引き抜いて八つ裂きにしてしまうのである」。
 これには記録者の誇張もあるのかもしれない。が、やはりヴラド本人にはこうしたエピソードを生ませる「何か」が身にそなわっていたのだろう。

 その後、なぜか彼はハンガリーの王女と結婚し、カトリックに改宗する。
 だが、それが功を奏した。カトリック文化圏の中央ヨーロッパが、対トルコには「カトリック教徒であり、トルコへの強烈な復讐心」を持っている兵士がやはり必要であると考え、ヴラドの幽閉をといたのである。
 戦場に戻ったヴラドは、おそろしいほどの戦績をあげた。1476年、彼の率いる軍隊はブカレストを占領した。
 しかしハンガリー軍が帰国してしまったのち、ヴラドははっと気づいた。故郷に帰ってきたはいいが、彼を支持する領民がほとんどいないということに。
 彼のために戦うことを表明した領民は、たった200余名であった。
 この状況をトルコ軍が見逃すはずはなく、あっけなく戦況は逆転した。
 乱戦状態となり、ヴラドは友軍と離れ、孤立した。周囲はトルコ軍ばかりである。ヴラドは誇りも何もかもかなぐり捨て、トルコ軍兵士の死体から衣服を引き剥がし、それを着てトルコ兵になりすました。
 彼はまんまとその場をやりすごすことができた。――が、その後、トルコ兵の姿のままでいるところを味方に見つかり、槍で突き殺されてしまったという。
 あれほどの暴虐をふるった男にしては、なんとも侘びしい、つまらない最期であった。

 ヴラドの遺体はその後トルコ軍に発見され、コンスタンチノープルに運ばれた。
 首は切断され、槍に突き刺されて、風雨で朽ち果ててしまうまで城門に晒された。首なしの遺体は葬られたが、墓碑銘すらなかったそうだ。
 

 余談ではあるが、1940年にブカレストを襲った大地震の際、「串刺し公の怨念のせいだ」という噂がたったという。
 ヴラド・ツェペシュの悪名は、彼をモデルとして書かれた「ドラキュラ」の名とともに、不滅の生命を得たのかもしれない。
 
 

 


その他・近代の吸血鬼たち


●エステリタ・フロレンシオ

 停車場で遊んでいた幼児を床に叩きつけて頭を割り、傷口から血を啜っているところを目撃され、逮捕された。以前から吸血衝動にさいなまれていたが、それは生理日に限られていたという。

 

●ルーカス・ロイマー

 おもに幼児や女性を狙って殺し、血を吸った。67歳のとき、妻を殺害し吸血行為に及んでいる現場を発見され、精神病院へ送られた。周囲には小心なほど温厚な人物であると思われていた。

 

●クノー・ホフマン

 はじめは墓あばきの常習者だったが、やがて新鮮な血を求めて女性を殺害するようになったという。

 

●ビンセント・ベルチェーニ

 14歳の少女を殺害し、咽喉ぶえに噛み付いて血を啜ったといわれる。

 

●ジェームス・ブラウン

 ボストン沖を航海中の船倉で、船員2人を殺害。死体の血を吸っているところを発見され、逮捕された。

 

●トレーシー・アブリル・ウィッギントン

 同性愛で、3人の愛人と共謀し男を殺害。平常時から吸血衝動をみせており、しばしば牛や豚の首をかき切って血を飲んでいたという。ときには愛人たちの手首を切り、そこから流れる血を啜ってもいた。
「血を飲まないと生きていけない」と法廷で証言。判決は終身刑であった。

 

 


 

俺は 自分の心臓の吸血鬼
永遠の笑いの刑に処せられて、しかも微笑することも最早できない
あの偉大な見捨てられた人たちの中のひとりだ。


――シャルル・ボードレエル――

 

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