MAD FOR YOU
―ストーカー殺人―

                     


●リチャード・ファーレー

 

 ローラ・ブラックとリチャード・ファーレーは会社の同僚だった。
 ローラは電気技師、ファーレーはソフトウェア技師。出会って1週間もしないうち、ローラはファーレーにデートを申し込まれたしかし彼女はこれをやんわり断った。
 この拒絶にもかかわらず、ファーレーは毎日彼女を誘いに別の部署からやって来た。やがて彼はローラに住所と電話番号を教えるよう強要しはじめた。しまいにローラにも我慢の限界がやってきた。彼女は強い態度で彼の誘いを断った。
 ファーレーはさも意外そうに
「NOと言われるなんて、思わなかったな」と言ったという。

 ファーレーは元来、陰湿でパラノイアの傾向を持っていた。幼い頃に兄を釘で刺したり、年下の子の指を踏み折ったことさえあったという。だが当時の同僚はみんな彼をおしゃべりで明るい男だと思っていた。
 彼はローラを誘うのをやめず、プレゼント攻撃をはじめた。それはたいていにおいて女性の趣味嗜好を無視した奇妙なもので、おもちゃのブルドーザーや、花を活けたプラスティックのアヒルや、ハート型の鏡などだった。ローラはこれらすべてを秘書に頼んで彼に返してもらった。
 その後も依然としてファーレーはローラを訪ねるのをやめなかったが、変化がひとつあった。それは彼女のもとに顔を出す時間が、昼間でなく夜残業をしているときや、ひとりで休日出勤をしているときなどを狙うようになったということだ。
 ローラの緊張は、日ごとにつのっていった。

「ひとめ見たときから、彼女を愛していたんです」
 ファーレーは裁判で、堂々とこう述べた。
 彼はローラのすべてを知るため、人事部へ行って「彼女の誕生パーティをしてやりたいから」とプロフィールを調べさせ、それを肩越しに覗いて住所を暗記した。またローラの机上の書類をチェックして、彼女のスケジュールを把握しようとつとめた。
 彼はせっせとラブレターを書き、デートに誘うかたわら彼女の個人情報を集め、キャビネットや机の合鍵をこっそり手に入れた。それは「愛ゆえの行為」として、彼の中では至極当然のこととされた。

 身の危険を感じたローラは社の人事部に相談した。社はファーレーにカウンセリングを受けるようすすめた。だがそれでも彼のつきまといはやまず、ファーレーは職務怠慢とセクハラを理由に、ついに解雇された。
 しかし彼の執念はおさまらなかった。むしろエスカレートする一方だった。何度引っ越しても彼はローラの新しい住所を探りあて、ドアの開閉コードナンバーを解読することまでやってのけた。
 ローラはついに彼を告訴した。ファーレーは彼女に一切の連絡をとることと、300ヤード以内に近づくことを禁止された。

 禁止令の出された9日後、ファーレーはショットガンと、マグナム2挺とライフル、それにセミ・オートマティックのピストルとモスバーグを持ってローラの会社へと向かった。
 彼はこの日7人の社員を殺し、4人に重軽傷を負わせた。ローラは肩を撃たれ、7回の復元手術でも完治しなかったほどの傷を負わされた。

 ファーレーは警察に包囲され、5時間半にもわたって篭城したが、降伏する際にはこう言った。
「もう面白くなくなったからやめる。……ローラに伝えてくれないか、これは全部、きみのせいなんだって」。

 


●ジョン・ヒンクリー・ジュニア

 

 1981年3月30日、いましもリムジンに乗り込もうとしていたレーガン大統領に向かって、6発の銃弾が発射された。そのうちの1発は大統領の胸にあたり、肋骨をかすめて心臓から数インチの肺に達した。
 犯人はただちに護衛にとり押さえられ、大統領は病院で一命をとりとめた。

 この大統領暗殺犯の名はジョン・ヒンクリー・ジュニア。
 夢想家で孤独、ややナチズムに傾倒していた。ミュージシャンを志していたが、夢破れ、失意と疎外感にうちのめされていた。
 そんなある日、彼はある映画に出会った。デ・ニーロ主演の「タクシー・ドライバー」である。
 この映画のあらすじは
「ヴェトナム帰還兵の主人公、トラヴィスはNYを漂う孤独なタクシー・ドライバーで、町の悪を一掃しなければならないという妄想にとりつかれ、戦闘のトレーニングを開始する。
 そして強盗をたまたま射殺し、売春婦をしている12歳の少女を、深手を負いながらもケチな組織から救い出し、新聞で英雄扱いされ――そしてまた、タクシー・ドライバーの生活に戻ってゆく」
 というものである。
 いわばアメリカン・ヒーローものの陰気なパロディとも言えるこの映画は、ヒンクリーを熱狂させた。彼はこの映画を15回も観たという。
 そして主人公のトラヴィスに自己投影したヒンクリーは、12歳の売春婦役を演じた女優、ジョディ・フォスターの虜ともなった。

 ヒンクリーはジョディにラブレターを書き、ひかえめな口調で電話し、これをいちいち録音した。彼はファーレーとは違い、臆病なストーカーであり、愛というよりそれは崇拝だった。
 犯行の当日も、彼はジョディに遺書めいた手紙を書いている。

「ジョディへ
 僕がレーガンをやろうとして殺されるのは間違いない。だからこそ、今この手紙をきみに
 書いているんだ。
 ジョディ。きみの心を我がものにして、世間から忘れさられようがどうしようが、死ぬまで
 一緒にいさえすれば、レーガンを殺るなんて考えやしないのに。
 言っておくがこれをやるのは、きみに気に入ってもらえるまでもう待てないからなんだ。
 これは全部きみのためにやるんだってこと、はっきりわかってもらうには何かしなくちゃ
 ならないんだ! 
 ジョディ、どうかきみの心にたずねてくれ。せめて、僕がこの英雄的行動できみの尊敬
 と愛を手にするチャンスを与えてくれ。             ――永遠の愛をこめて」

 また、逮捕されたとき彼の財布には、レーガンとナンシー夫人の写真、ならびにジョディへのメモ書きが入っていた。
「素敵なカップルだね。ナンシーはじつにセクシーだ。いつかきみと僕がホワイトハウスに住むことになるさ。そしたら田舎者どもは妬いてヨダレをたらすだろう。だからそれまで絶対に処女でいておくれよ。きみ、処女なんだろう?」
 ヒンクリーは精神異常で無罪となった。
 その後精神病院に強制入院させられ、こんな台詞をも残している。
「僕が彼女を世界一有名な女優にした。誰もがジョンとジョディについて知っている。彼女が望むかどうかは別として、僕らは歴史的カップルだ。……ジョディはスターで、僕はただのファンだった。でも今は違う。僕はナポレオンで彼女はジョセフィーヌ、僕はロメオで彼女がジュリエット。そして僕はジョン・ヒンクリー・ジュニアで、彼女はジョディ・フォスターだ」。

 ――この当時流行ったアメリカン・ジョークとやらを紹介してみよう。
「なぜイスラエルはレバノンを爆撃したんだい?」
「ジョディの気をひくためさ」。
 ウィスコンシンで「ゲイナーズ・ジョーク」が流行り、リジー・ボーデンが戯れ唄になったように、ヒンクリーもまた「伝説の中の人物」として、こうして生きつづけていくのである。

 


●ロバート・バード

 

 これもスターに対するストーキングの果ての殺人である。
 ロバートは事件を起こすずっと前から暗殺を研究し、殺人者に憧れていた。とくにジョン・レノンを殺したチャップマン、前述したヒンクリーなどである。加えて彼は、スターに対するストーキング常習者だった。
 彼が最初に熱をあげたのはサマンサ・スミス。
 彼女にラブレターを送ったところ返事が来たため、バードは「両思い」だと思い込んでしまい、母親の財布から金を盗んで、彼女の住むメイン州へ向かった。しかし母親がこれを通報したためことなきを得た。
 母親は息子の抱えている問題を知っていた。通報したのは息子に金を盗まれたからではなく、純粋にサマンサの身が心配だったがゆえである。

 16歳のとき、彼はTVドラマに出演した新進女優、レベッカ・シェイファーに夢中になった。
 バードは3、4回、本気でレベッカに会おうと計画をたてているが、父親に「まさかジョン・ヒンクリーみたいなことする気じゃなかろうな?」と言われ、計画を諦めている。
 しかし奇妙なことに、まったく同時期にバードは歌手のティファニーをも「熱愛」している。コンサートで彼は、ティファニーが自分だけを見つめ、愛のサインをしてくれたと思い込んだ。しかしこの「追っかけ」は長続きしなかった。彼女の警備が固すぎたためである。
 次に彼の関心はデビー・ギブソンに移った。しかしこれも警備が厳重で、会えなかった。
 彼の歪んだ愛はふたたび、レベッカ・シェイファーのもとに舞いもどることになる。

 バードはレベッカにファンレター(彼にとってはラブレター)を書きつづけた。
 しかしその内容はしだいに過激なものになっていったため、手紙のチェックをしていたエージェントは途中からそれを彼女に渡すのをやめてしまった。またバードはスタジオに2度彼女を訪ねていっているが、1度目はテディ・ベアと花束を、2度目はナイフをたずさえていた。だが幸い、2度とも彼は警備員に追い返された。

 ある日、バードは映画館で愛するレベッカがベッドシーンを演じているのを目撃した。彼女はティーンエイジャー向けの女優から、大人の女優に転身しようとしていたのである。また雑誌のインタビューに彼女は、従来のイメージより少し背伸びしたコメントを寄せていた。バードはそれを見て「高慢で、生意気になった」と感じた。
 愛は怒りへと転身し、一気に燃えあがった。

 1989年7月18日、レベッカのアパートのブザーが鳴った。
 自分をそれほど大物とも思っていなかった彼女は警備もつけておらず、バスローブ姿のまま、無防備にドアをあけた。
 そこには見知らぬ若い白人男が立っていた。彼はものも言わず、レベッカの胸をマグナムで撃った。

 バードは中学時代から、奇行と情緒障害の傾向をみせていた。彼自身は兄に虐待を受けつづけてきたことを主張しており(彼に銃を調達してやったのはこの兄だった)、精神科医が「彼の生育環境は崩壊していた」と判断をくだしたものの、両親はこれを認めず、彼の精神病院への長期入院も許さなかった。
 「いまも彼女をもちろん愛してます」
 と法廷で述べたバードは、終身刑となった。
 余談ではあるが、レベッカが殺されたのは映画『ゴッドファーザーPART3』のある役の候補となり、コッポラ監督に会おうとしていたその矢先のことだった。

 


●キャロリン・ウォーマス

 

 1989年1月、ポール・ソロモンが帰宅してみると、家の明かりは消えており、TVだけが付けっぱなしだった。居間には妻がうつぶせに倒れていた。
「おい、ベッドで寝ろよ」
 そう言って抱き起こした妻の体は冷たく、手にはねっとりした血の感触があった。
 彼は慌てて警察に通報した。妻は9発の弾丸を全身に食らって絶命していた。
 警察は妻が殺されればまず夫を疑うのが定石である。しかも彼が不倫していることが発覚し、嫌疑はますます強まった。
 不倫相手はキャロリン・ウォーマスという25歳の美貌の女性であった。しかもインテリで、ソロモンとはかつての同僚の教師。若さ、美貌、知性、どれをとってもソロモンの死んだ妻以上の女である。なるほど彼女を手に入れるためなら、妻殺しも不思議ではない――警察は当初、そう思った。彼女の経歴を調べるまでは。

 キャロリンは1964年、富裕な家に生まれた。
 だが夫婦仲は彼女が生まれたときすでに絶望的で、幼少時代を気の休まらない環境で送った。彼女が6歳のとき両親は離婚し、彼女に対する親権が全面的に争われた。だがそれは両親が彼女の存在を求めているからではなく、相手から「権利」と名のつくものを根こそぎ奪いたがっているだけだというのは誰の目にも明らかだった。
 その証拠に、再婚を機に母親は親権を紙クズのように放棄した。

 長じてからのキャロリンは、典型的なアダルト・チルドレンそのものである。すなわち自分に自信がなく、他人との正当な関係が築けず、愛情としがみつきを混同して、なおかつそれに自覚症状がない。
 彼女はハイスクール時代、「100ドルあげるから、男の子を紹介して」と言うのが口癖だった。
 キャロリンほどの知的な美人なら何もせずともボーイフレンドは引く手あまただったが、彼女は自分に異性――いや、他人を惹きつける魅力があるという自信がまるでなかった。また、金で釣るという手段が相手に対する侮辱であるということも理解できなかった。彼女の父親は愛情うすく、金だけを湯水のように注ぐ男だった。彼女にとって愛とは「そうしたもの」でしかなかったのだ。
 結果、キャロリンのもとには金めあての男ばかりが残ることになる。

 大学で彼女は初めてストーカー事件を起こした。恋人が心変わりしてその女と同棲したと知るや、押しかけてわめきちらし、彼の子を妊娠したとキャンパス中にふれまわったのである。
 抗議した彼に、彼女はこう言った。
「どんなタフな闘いになるか、あなたは気づいてたはずよ、あたしを相手にしたんだから――。実際、あなたの勝ち目はゼロね」。

 彼女は大学卒業後も男性と知り合っては、相手に妻子がいようがいまいがすぐに結婚を迫り、相手にすこしでも躊躇の姿勢が見えればストーキング行為を開始した。それは次の恋人が見つかるまでつづいた。

 キャロリンはソロモンの妻の葬儀の最中ですら、人目もはばからず彼に抱きつきキスをした。ソロモンは彼女のしつこさにうんざりしたが、決定的な拒絶の態度は取らなかった。そして彼女が精神科に入院している間に、新しい恋人とプエルトリコへ旅行に飛んだ。
 この卑劣な態度にキャロリンは激昂し、ただちに彼を追って、彼のホテルへメッセージを残した。
「予定どおり着いたわ。あなたのCより」
 もちろんこの行動は、ソロモンの心を彼女からさらに離れさせただけだった。

 警察は彼女が25口径サイレンサー付きの銃を入手していたことを突き止め、逮捕に踏み切った。
 若く美しいキャロリンは懲役25年の刑となった。
 彼女は判決を聞き、こう叫んだ。
「わたしの罪は――彼の愛の言葉を真に受けたという、その愚かさなのでしょうか?」

 


●ゲイリー・ウィレンスキー

 

 あやうくストーカーから助かったケースも紹介しておこう。

 1988年、数々の賞を受賞した有名なテニスコーチ、ゲイリー・ウィレンスキーは11歳と12歳の少年、そして13歳の少女をストーキングした疑いで逮捕された。
 ただしこのときは精神科医にかかるという契約に応じたため、告訴はとりさげられている。

 しかし彼の性癖はもちろん変わらなかった。
 1990年、彼はまた10代の少女へストーキングを始めた。さらに2年後、彼は16歳の美少女、ジェニファー・ローズのコーチとなり、またもこの少女と愛をはぐくむ妄想にとらわれた。
 ウィレンスキーの態度はあからさまで、みずからの行動を恥じる様子もなければ、隠す気配もなかった。ジェニファーの母親はすぐに彼の態度を不審に思い、ウィレンスキーにカウンセリングを受けるよう忠告した。彼もいったんはこれに同意したという。しかしその治療はまったく役に立たなかった。

 四ヶ月後、彼はジェニファーの監禁計画をたてた。自宅にいたジェニファーを訪問し、襲いかかったのである。
 彼はすでに人里離れた山小屋に、ムチや鎖、手錠などを用意して準備をととのえていた。ウィレンスキーは彼女の頭を牛追い棒で殴りつけ、叫びながら床に倒れるのを見て、なおも殴りつづけた。
 娘の悲鳴を聞いたジェニファーの母はただちに駆けつけ、棒を持ったウィレンスキーがそこに立っているのを見た。母親は迷わず彼に飛びかかった。ウィレンスキーは母親をも殴ったが、そのすきにジェニファーが彼の手を逃れ、外へ飛びだした。助けを求めに駆け出していく娘を見とどけるやいなや、母親はウィレンスキーに向かって
「あたしの娘にこれ以上、指一本触れてみなさい。あんたを殺してやる」
 と叫んだ。

 ウィレンスキーは警察が到着する前に逃げ、母娘は救急車で病院へ運ばれたが、ふたりあわせて100針も縫う大怪我だったという。
 通報から1時間後、ウィレンスキーは自分の車の中で発見された。ライフルを口にくわえて引き金をひいたらしく、すでに息絶えていた。

 


※日本国内でも、もちろんこのたぐいの事件は起こっている。


●藤田博さん宅襲撃事件

 

 事件は平成9年に起こった。
 はじまりは無言電話であったが、じきに投石で家のガラスが割られる、車が傷つけられる等のいやがらせが起こるようになった。
 深夜、早朝を問わず無言電話は続いた。業を煮やした藤田さんが「おまえは誰だ」と電話口で怒鳴ると、「反省したか? わけは娘に聞け」とだけ言って電話は切れた。

 その後も無言電話、投石はやまなかった。警察に相談したが、「まだなにも起こったわけではないから」と、さしたる対処はしてくれなかった。
 ある日、車に石を投げつけるような音が聞こえた。藤田さんは表に出て、不審な人物を探した。
 ものかげに若い男が隠れているのが見つかった。
 藤田さんがこの男を懐中電灯で照らすと、
「なにするんです、あんた変ですよ」
 と男は言った。
「何をするもなにも、きみこそ……」
 藤田さんが唖然と言い返す。しかし男は、
「あんた変ですよ、あんた変ですよ、あんた変ですよ、あんた変ですよ」
 と繰り返すばかりで、まったく会話にならなかった。数日後、娘の高校の卒業アルバムで藤田さんが男の顔を見つけたことで、正体はあきらかになる。彼は藤田さんの長女の同級生だった。しかし親しくはなく、顔と名前を知っている程度だと長女は言った。

 その後もやはり無言電話や投石はやまなかった。
 そんなある日の朝8時、藤田さん宅に土足で突然男があがりこんできた。
 彼はまず、包丁で藤田さんの妻を刺し、駆けつけてきた老母を「ババアに用はねえよ」として、これも刺した。
 細君は助けを求めに外へ飛び出し、「人殺し」と叫んだ。そして家に戻る途中、玄関先で力尽きて倒れた。老母は長女を守ろうと部屋へ向かったが、これもなかばで倒れている。
 下の騒ぎに気づいた長女は、部屋から出てきて一階へとおりた。
 するとそこには、かつての同級生が刃物を持ってぼんやりと立っていたのである。あたりは血の海で、母と祖母がその中に倒れていた。長女はあわてておりたばかりの階段をのぼり、自室に鍵をかけて閉じこもった。
 警察がかけつけたとき、長女はまだ自室の中で震えていたという。
 犯人はといえば、老母の隠居部屋にたてこもっていた。そこで首と手首を切って自殺をはかったものの傷は浅く、全治2週間程度でしかなかった。

 藤田さんの母は命をとりとめたが、細君は亡くなった。
 犯人は精神分裂病と診断され、告訴はとりさげられた。一家はいまだ、このトラウマに悩まされている。おそらく一生、この精神外傷から完全に解放されることはないだろう。
 

 


●1991年女子アナウンサー殺人事件

 

 これは日本版ロバート・バード事件である。

 1991年4月、札幌市で39歳の女性が自宅マンション廊下で刺し殺された。
 胸、背中、腹部、そして顔を刺されていた。深くえぐったような傷口であった。
 被害者の女性、Aさんは元・北海道TVの女子アナウンサーである。幼い頃から美貌で成績優秀であり、将来の夢はスチュワーデスになることだった。しかし身長が規定に達していなかったため、第二志望であるアナウンサーになったのだ。事件当時はすでに結婚して退社しており、フリーの身となっていた。

 対する加害者は18歳の無職の少年である。
 高校中退後は新聞配達員となるが、事件当時はそれも辞めて、無職だった。
 少年はAさんが出演していたCMをたまたま目にしたことがきっかけで、Aさんに恋してしまったのだという。「ファン」などというなまやさしいものではない。まさに「恋」としか言いようのない感情だった、と彼は述べた。
「はじめて見たときから、夢中になりました。とにかく、僕のものにしたかった」
 逮捕後、彼はそう語っている。
 それでも彼女の出演番組をまめに録画したり、熱心なファンレターを書くなど、最初は穏当なものだった。だがそのうちに
「こんなに好きなんだから、彼女はこの想いに応えるべきなんじゃないか」
 という思いがきざしてきた。
 1度そう思ってしまうとその感情は強迫観念にも近いものとなった。

 少年は彼女の自宅の電話番号を調べ、しばしば電話した。しかしAさんは熱にうかされたようなことばかり言う少年の電話をろくに相手にもしなかった。そのうち彼からだとわかるやいなや、切ってしまうようになった。もちろん至極当然の反応なのだが、少年はそうは思わない。
「俺がこんなに愛してるのに、理不尽だ」
「冷たい。生意気だ」
 そう思って彼は怒りを燃やした。
 凶行の日、彼はまずAさん宅に電話し、留守電が応答するのを聞いて不在を確かめた。
 そして刃渡り16センチのナイフを懐に、Aさんが帰ってくるのをマンションの1階で待った。帰ってきた彼女のあとをつけ、彼女の済む部屋の前の廊下で彼はやおらナイフをふるった。攻撃を予想していなかったAさんは滅多刺しにされた。

 犯行後、彼は札幌中央署に電話し、「Aは俺がやった」と告白した。
 応対した少年課の刑事は、うまく親身になるふりをして話を引きのばした。そのため簡単に逆探知されてしまい、公衆電話で話しているところを彼はあっさり逮捕された。

 


●桶川女子大生ストーカー殺人事件

 

 1999年に起こった事件である。
 被害者の詩織さんが加害者の小松和人と出会ったのは、同年1月のことだった。
 きっかけはゲームセンターで声をかけられたことだった。「優しそうな人だ」と思いそれ以後付き合うようになったのだが、実は小松はそのとき名前も年齢も詐称していた。
 また「外車のディーラーをやっている」と詩織さんには言っていたが、実際は兄とともに、風俗店を7軒も経営していたのである。

 小松は羽振りがよく、最初は優しかったが、1ヶ月も経つとやがて地金が出てきた。
 彼女の行動を異様に束縛し、高価なプレゼントを無理に押し付け、返そうとすると怒鳴りつけた。
 次第に暴力的になり、病的な嫉妬心をみせるようになった小松に、詩織さんは怯えた。
 3月に入り、詩織さんは小松と別れることを決意。しかし小松は頑として受け入れず、逆に「俺と切れるんならお前の家族をめちゃくちゃにしてやる」と言って脅した。
 この時期、詩織さんは友人に
「殺されるかもしれない」と漏らしている。

 6月、耐えきれなくなった詩織さんはついに完全な別離を小松に言い渡す。これに逆上した小松は兄の武史を連れて詩織さんの自宅を訪れ、両親に
「おまえの娘にさんざん貢がされた。その上アタマまでおかしくなった。賠償しろ、誠意をみせろ」
 と2時間にわたって脅迫した。
 詩織さんはこのやりとりをテープに録音し、警察に提出した。しかし埼玉県警上尾署署員は、
「これは民事ですね。われわれは民事不介入ですから」
 と門前払いを食わせている。
 これ以後、無言電話が頻繁にかかってくるようになった。また家の前で「出て来い!」などと怒号をあげられる、などということが相次いだ。
 幾度も警察に相談に行ったが、そのたび
「しょせん、男と女のいざこざでしょ」
「いっぱいモノ買ってもらってますしね」
 などと言われ、取り合ってもらえなかった。なお詩織さんは別離後、プレゼントはすべて小松に送り返していた。

 7月、詩織さんの顔写真と裸身が合成された風俗店まがいのチラシが、家の壁にずらりと貼られるという事件が起きた。チラシは自宅だけでなく、近隣の家、詩織さんの大学、詩織さんの父の会社にも貼られていた。
 文面は「男を食いものにするふざけた女。不倫、援助交際なんでもこいの女」という誹謗中傷だった。
 警察は連絡を受けて事情聴取に来たが、「告訴はあとでもいいでしょう」と言っただけでろくに捜査もせず帰っている。

 8月になり、詩織さんの父の会社、ならびにその親会社に手紙やFAXが何百枚と届く。詩織さんが援助交際をしている、父親はギャンブル狂いで借金漬けである等の、根も葉もない誹謗で紙面は埋められていた。
 警察はこれを見て
「いいコピー用紙使ってますね、ははあ、金かかってるな」
 と笑い、やはり、まともにはとりあわなかった。

 9月、詩織さん宅は警察に告訴状を提出。しかし片桐敏男警部がこの事件記録を見て「被害届にしてもらえ」と部下に命令する。
 告訴を受理すると、捜査の進み具合を定期的に県警本部に報告しなければならないからである。面倒のたねを減らしたい一心であった。また逮捕率が下がることを厭った彼らは調書を書き換えて改竄。
 しかも詩織さんたちに、
「告訴状は犯人が捕まってからでも間に合います。また簡単に出せますから、いまは取り下げて下さい」
 と頼んだ。これは真っ赤な嘘で、実際には1度取り下げた告訴はもう2度と再告訴できない。意図的かつ悪質きわまりない捜査放棄であった。

 10月26日、詩織さんは駅前で、小松が金で雇った男に胸と腹を刺され、出血多量で死亡した。
 警察は事件の記者会見上で、詩織さんの服装について「厚底ブーツ」「プラダのバッグ」「ミニスカート」と一部を強調して発表。これを受けてマスコミは被害者である詩織さんについて、「ブランド狂」で「風俗嬢、もしくはキャバクラ嬢」と連日ワイドショーで報道した。独自に取材することは一切なく、警察発表を鵜呑みにして被害者を叩きつづけたのである。
 これを見た視聴者はおのずと
「ブランド好きで、派手で、風俗でバイトしていた女。男にさんざん貢がせたあげくに冷たく捨て、逆上した男に殺された自業自得のあばずれ女」
 という印象を持った。いまでも当時の報道を信じ、彼女をそう認識している一般人は少なくない。

 12月、実行犯並びに小松の兄・武史をはじめとする3人が逮捕され、行方不明の小松が指名手配される。
 1月、小松が北海道で水死体となって発見される。自殺と断定された。
 4月、上尾署署員が正当な捜査を行なわなかったとして内部調査が入った。結果、片桐警部ほか2名が調書改竄などで懲戒免職、ほか6名が減給処分となった。

 5月、ストーカー規制法、成立。しかし代償はあまりにも高いものだったと言えよう。

 


※ストーキングは被害者にとって深刻な問題であると同時に、
被害者およびストーカー自身の親族にとっても深刻な問題である。
末期のストーカーにとって被害者の家族も自分の家族も、
もはや同じ「邪魔者」でしかないという所に、彼らの追いつめられた精神状態が見てとれる。
以下はその数例だ。

●マーク・ヒルバン

 ヒルバンは元職場に襲撃をかける直前、自宅で63歳の母親と愛犬を撃ち殺した。

●マイケル・ベリー

 ベリーは事件を起こす前に、自分の家族5人と親戚を殺害した。

●ラルフ・ノウ

 ノウはオリビア・ニュートン・ジョンのストーカーだったが、8歳になる腹違いの弟の頭蓋骨を斧の柄で叩き割った。