SKELETON  IN  THE  CLOSET

 

[skeleton in the closet]とは
直訳すれば“箪笥の中の骸骨”であるが
成句としては“外聞をはばかる家庭内の秘密”という意味になる。
家族内の秘密の共有は、それがどんなささやかなものでも
良かれ悪しかれ結託を強くする作用があるものだ。
だが、その秘密が「殺人」である場合はどうだろう?

 


◆メットヤード母娘

 

 18世紀中頃、仕立て屋を営むセアラ・メットヤード母娘が奉公娘2人を殺害したかどで告発された。
 この仕立て屋に職を世話されてくる女の子はほとんどが孤児で、どんな仕打ちをされても逃げ帰る家もなければ、訴え出る親族もなかった。メットヤード母娘はそれを承知の上で、奉公人たちを虐待した。
 奉公娘のひとりに、アンという病身の少女がいた。彼女は妹とともに住み込みでこの仕立て屋で働いていたが、知能に少し問題があり物覚えが悪かったので、母娘の怒りをかった。
 彼女は食事もろくに与えられず、殴打される毎日だった。彼女は2度逃亡をはかったが、どちらのときも連れ戻された。
 アンは殴られ、縛られて食事も与えられず放置された。3日目にようやく縛めが解かれベッドに戻ることを許されたが、彼女は衰弱しきっていた。翌朝彼女が起きてこなかったので、怒り狂ったメットヤードの娘が彼女を靴で蹴りつけると、もう彼女は冷たくなっていた。
 ほかの奉公人には「アンは逃げた」と話したが、アンの妹はそう簡単には納得しない。母娘は妹をも絞殺し、姉妹の死体をばらばらに解体して包むと、通りへ出て塀越しにそれを投げ込んだ。杜撰な犯行だったが、母娘は疑われることはなかった。
 しかし4、5年も経つと、この母娘の間に波風が立ちはじめる。母親は口ぎたなく誰彼かまわず罵る、不満の塊のような女だった。娘に対してもその態度は変わらなかったので、娘を憐れんだ男が現れ、彼女が母親を残して男のもとへ出奔すると、母親は烈火のように怒った。
 母親は娘の新居をたずね、玄関前で罵り散らした。何度転居しようとも彼女のいやがらせは果てしなく続いたので、根負けしてある日娘が母を招きいれると、母親は彼女に殴りかかり、
「おまえだって同じ人殺しのくせに、ひとりだけ逃げようったってそうはいかないよ」とわめいた。
 どうにか母親を家から追い出したものの、愛人は「人殺しって何のことだ?」と彼女に尋ねる。仕方なく彼女がすべてを男に話すと、男は
「大丈夫、当時きみは未成年だったんだから罪には問われないさ。警察に行こう。しょっぴかれるのはお義母さんだけだよ、これでやっとあのうるさいキチガイババアから解放される」と言った。
 しかし彼は間違っていた。メットヤード母娘はいずれも刑罰から逃れることはできなかった。
 2人は処刑台で死んだ。

 


◆マクレアリー一家

 

 1972年、シャーマン・マクレアリーと、その娘婿のテイラーとがカリフォルニアのスーパーマーケット強盗をはたらき、逮捕された。2人は他2件のマーケット強盗についても起訴され、彼らの家族も「犯人隠匿罪」で有罪となった。
 だが警察がこの一家の過去を洗いはじめるやいなや、彼らがただの強盗常習者などではないことがわかってきた。
 マクレアリー一家はファミリー総出の放浪団であり、1971年から1972年初頭にかけて、少なくとも22件の殺人を犯していた。
 1971年8月、17歳の少女が誘拐され、暴行の上射殺された。その一週間後、20歳の女性が暴行殺害。9月には26歳の女性が消え、12月に人骨となって発見された。いずれもレストランやパン屋などの店のレジスター係で、レジからは現金が奪われていた。
 10月、16歳の少女が暴行され射殺。同日夕刻、少女が働いていた食料品店の店主夫妻が死体となって発見された。11月には美容院で2人の女性が殺害され、1人が誘拐された。彼女は翌年6月になって、裸体の白骨死体となって見つかった。
 基本的にはこの一家はアメリカ南西部各地を、仕事を求めて移動していた。だがその合間合間に強盗をし、女を凌辱殺害することも、彼らにとっては当たり前のことだったのだ。
 この殺人行脚を続けていた一家の内分けは、シャーマンとその妻と19歳の息子。シャーマンの娘とその娘婿のテイラー、そしてその息子3人の総勢8人である。
 シャーマンの妻とテイラーの妻(シャーマンの娘)はどちらも「夫を心から愛している」と言い、「家族の揃わない家庭なんて想像ができません。どこまでも夫に付いていくつもりです」と涙ながらに語った。

 


◆ウォードロー姉妹

 

 サウスカロライナ州最高裁判事ウォードローには、上からキャロライン、メアリー、ヴァージニアという3人の娘がいた。いずれも父親の血をひいて知能的には優秀だったが、吝嗇で情動性のうすい人格異常者だったようだ。
 末っ子のヴァージニアだけは結婚せずに女子大学の学長となったが、上の2人は結婚し、それぞれ子供をもうけた。3姉妹は仲が良かった、というより自分たちを「運命共同体」と考えていたふしがあり、嫁いでからも近くに住まうことをやめなかった。
 ある日、次女メアリーの長男が駆け落ちした。長男はすぐに連れ戻されたが、2日後、彼は自宅で火だるまになって床を転げまわり、断末魔の悲鳴をあげているのを発見された。検死医は死因を自殺であると断定。保険金がおりた。
 しかしこの一件は黒い噂を呼んだので、3姉妹はしばらく別の土地でばらばらになって暮らすことにした。
 長女のキャロラインは夫と娘を連れてニューヨークへ移住したが、ある日、彼らの部屋から異様な声が聞こえるのに家主が気づいた。家主が慌てて駆けつけると、キャロラインの夫は床に転がって胸をかきむしっていた。娘は不潔なボロ同然の服を着て、部屋の隅のベッドに身を硬くして座っていた。キャロラインの夫は自然死と診断され、またも保険金がおりた。
 末っ子のヴァージニアが新しい地で学長の座を得たことを知ると、ほかの2人もすぐに合流することにした。3姉妹の次のターゲットはキャロラインの娘、オーシーだった。彼女らはオーシーと、次女メアリーの次男とを勝手に結婚させた。彼は母親の言いなりで、叔母たちにも絶対服従の身であった。
 3姉妹はこの頃から喪服をつねに身にまとうようになっていた。陰鬱な死の匂いが家中にたちこめる中、オーシーは食事を与えられず、餓死寸前にまで追いこまれた。
 オーシーを診察に訪れた医師は、3姉妹の家がその社会的地位の高さにかかわらず、非常に不潔でみすぼらしいのに驚いた。医師はオーシーのひどい飢餓状態に「警察に連絡する」と言ったが、「余計な真似をするんじゃないよ」と3姉妹に一喝された。
 だがやはり倫理にそむくことのできなかった医師の働きにより、やむなく3姉妹は一時撤退した。
 叔母と母親が消えたことにより健康をとりもどしたオーシーは、ようやく普通の結婚生活を営めるようになり、子供をみごもった。しかし夫はまだ母親の呪縛から抜けきれてはいなかった。
 オーシーの夫(メアリーの次男)は、子供が生まれる直前になると「やはり出産には母や叔母たちの手助けが必要だ」と彼女を言いくるめ、3姉妹の住むカナダへ合流した。
 出産は無事済んだが、姉妹はその子を生後すぐに孤児院へ捨て、オーシーには「死産だった」と告げた。オーシーはまた食事を与えられなくなり、それでもなかなか餓死しなかったので、最終的にはバスタブに押し込まれて溺死させられた。
 だが当時のカナダ警察はアメリカより数段優秀だった。彼らはオーシーの死に不審な点があると見抜き、多額の保険金がかけられていた事実をつかんだ。黒衣の3姉妹はついに逮捕された。
 末っ子のヴァージニアは獄中で食事を拒み、餓死。次女のメアリーは関与がうすいとされて無罪を得たが、主犯扱いの長女キャロラインは懲役7年となった。
 しかしキャロラインは投獄後まもなく発狂し、正気を取り戻すことなく精神施設で死亡した。

 


◆バニシェフスキー一家

 

 1965年、インディアナ州で起こった事件である。ガートルード・バニシェフスキーは離婚後、7人の子供を女手ひとつで養育しなければならなかったが、彼女がソーダ売りをして稼ぐ金と、前夫からの養育費だけでは育ち盛りの子供らはとても養えるものではなかった。毎食毎食、缶詰のスープだけの食事では成長するためのカロリーにはほど遠かったのだ。
 経済的に困窮した彼女が思いついた副職は、ベビーシッターであった。それも長期預かりのベビーシッターである。彼女が募集をかけてすぐ、興行中のサーカス一座から「うちの娘たちを預かってほしい」との連絡が入った。ガートルードは喜んでそれに応じた。
 そうしたいきさつでバニシェフスキー家にやって来たのは、姉のシルヴィア・ライケンと妹のジェニー・ライケン。どちらも顔立ちのはっきりした美少女であった。
 ガートルードはライケン姉妹に対し、最初から思いやりや愛情らしきものは見せなかった。そしてライケン姉妹の両親が、支払い期日に金を振り込まなかったと見るや、その晩からただちに虐待をはじめた。
 彼女は姉妹を拳で殴り、「タダであんたの売女根性を叩きなおしてやるんだから、有り難く思いな」とわめきながら、打ちすえた。実際には支払いはたった一日遅れただけで何かの手違いかもしれず、翌日には契約通りの金が振り込まれたのだが、ガートルードの虐待はやまず、それからもエスカレートする一方であった。
 ガートルードは最初は姉妹どちらにも暴力をふるっていたが、やがて姉のシルヴィアに標的を絞りはじめた。シルヴィアが抵抗すると「じゃあ代わりにあんたの可愛い妹を殴ってもいいのかい」と脅した。ガートルードは始めのうちこそ素手で彼女を殴っていたが、いつしか革のベルトで鞭打つようになり、末期には木の板やボートのオールで殴打していた。
 バニシェフスキー家の年かさの2人が、いつしか母の虐待に参加するようになった。また近所の子供たちの多くが、この一家で少女が監禁され、虐待されていることを知っていたらしく、そのうちの何人かが面白半分にこれに加わった。
 シルヴィアをいじめることに馴れ、またそれが誰からも咎められず、むしろ大人(ガートルード)が後押しすることで子供たちは完全にこれを「娯楽」として愉しむようになった。彼らはシルヴィアをサンドバッグ代わりに殴り倒し、コンクリートの壁に顔を叩き付け、階段のてっぺんから突き落とした。
 シルヴィアは16歳になる美しい少女だったため、虐待には性的なものも入り混じった。ガートルードは彼女の服を脱がせ、子供たちに押さえつけさせてから、その体に150回にわたって煙草の火を押し付けた。
 ある夜、衰弱したシルヴィアはついに立てなくなり、マットで失禁した。怒り狂ったガートルードは彼女にいっさいの食事を与えず、糞尿を食うことを強要した。いたましいことにシルヴィアはこの命令に従わざるを得なかったようだ。
 シルヴィアは自分と同年代の子供らが見ている中で裸にされ、嘲り笑われ、膣にコーラの瓶を挿入されて辱められた。ガートルードはそれだけでは許さず、焼けた針で彼女の体に「あたしは淫売で、それが自慢なのよ!」という言葉を刻み込んだ。
 なんとか逃亡をはかろうと、シルヴィアは隣人の気を引くため窓からサインを送った。だがそれはガートルードたちに発見され、彼女はコンクリートの床に殴り倒されて、絶命した。
 警察が駆けつけたとき、死体は尿でずぶ濡れのマットにほとんど裸で横たわっており、痩せこけ、体中に火傷や殴打のあとがあった。腹には例の「あたしは淫売……」の文字がみみず腫れになって浮き上がっていた。
 ガートルードは「あの子は勝手に出てって、どっかの男の子たちにひどい目にあわされて、やっと家にたどりついたとこで死んだんです。そうなることは承知で出ていったんでしょうから、自業自得ですよ」
 と言った。だが彼女の証言は採用されず、妹のジェニーの証言を警察やマスコミは信じた。
 事件にかかわったガートルードの子供たちも、未成年でありながら新聞で顔写真を公開され、「本事件の、悪魔的登場人物たち」として書きたてられ、相応の施設に送られた。
 ガートルードは終身刑を宣告されたが、1985年に仮釈放されたとのことである。
 なお、この事件をもとにジャック・ケッチャムが『隣の家の少女』という作品を書いていることを付記したい。

 


◆マコーミック父子

 

 1986年、コロラド。マコーミック父子はこのあたりでもっとも広い土地を所有し、牧場と農場を経営していた。総資産は200万ドル(約1億8000万)以上と噂された。父は敷地内に飛行場とエンジン搭載の自家用飛行機を持っていたし、息子はメルセデスやポルシェを何台も車庫に並べていた。
 しかし際限のない彼らの贅沢三昧は、1981年にいったん終焉を迎えた。作物の値が急暴落し、殿様商売にあぐらをかいて市場調査をおこたっていた彼らは破産してしまったのである。
 父子はやむなく屋敷と広大な土地を手放し、一軒家に移り住んだ。破産は偽装だとの噂は根強かったが、債権者は彼らの隠し財産を見つけることはできず、いずれ諦めた。
 3年後のある日、車検事務所に送られてきた一台のトラックが、係官の目に止まった。
 トラックの製造番号が1度消され、その上から巧妙に書き換えられていたのだ。また売り手の身元証明書は偽造されたものだった。
 調査の結果、トラックの前所有者はマコーミックの息子であることが判明した。だが警察の事情聴取を受けたあと、息子は失踪。父親は「どこに行ったのかは知らん」と言い張った。
 そのうち、この父子が以前農場を経営していた際、雇い人に対したびたび傷害事件を起こしていることがあきらかになった。はなはだしいときには、ショットガンで足を撃ちぬいたことすらあったのだ。
 捜査が進むうち、やがて息子が発見され、身柄を拘束された。
 警察は例のトラックの正式な所有者であった男が、以前彼らの農場で雇われていたことを知った。男は1983年、仕事から帰る途中にトラックごと失踪したことになっていた。
「殺したのか、おまえが?」
「やったのは俺じゃない」
「じゃあ誰だ?」
「……親父だよ。親父にとっちゃいつものことさ。ちょっとカッとなると、すぐやっちまうんだよ」
 彼の証言によると、父親は町へ出かけては季節労働者たちに声をかけて農場で働かせていたが、いつも契約通りの賃金を支払うことを渋って労働者たちと口論になり、激怒して彼らを撃ち殺していたというのである。死体はすべて、息子が農場に穴を掘って埋め、畑の肥料としていた。
 翌87年から農場の掘り起こし作業がはじまったが、農場のいたるところから頭蓋骨や人骨のかけらが発見された。中には死後10年以上経過しているものもあり、また土地が広大すぎたため、結局何体の死体が埋まっているのか正確なところははかりかねたが、少なくとも15人以上が殺されたことは確実であるとされた。
 マコーミックの父親は終身刑になったが、父に不利な証言をする代わり、息子は懲役刑で済んだという。

 


◆ストーントン兄弟

 

 24歳のルイス・ストーントンが36歳のハリエットという女性との結婚を決めたのは、ひとえに彼女の4000ポンドの資産を狙ってのことであった。ハリエットは醜く、ぶくぶくと太っている上、知能に先天的な障害があった。だが大金を相続するためなら、彼はその醜さにも目をつぶる覚悟だったし、自分の愛人をメイドとして家に住まわせればいい話だ、と思っていた。
 1875年、ハリエットの母の反対をおしきって2人は結婚した。ルイスはハリエットに、「きみが一切の家事をしなくて済むよう、兄夫婦といっしょに住むことにしよう」と言い、右も左もわからない彼女はこれに同意した。ルイスはメイド(じつは彼の愛人)を連れて、兄の家に転がり込んだ。
 兄の家で、ハリエットは屋根裏部屋を「居場所」として与えられた。窓もドアもすべて外側からロックされ、食事は階下の食卓で食べ残された残飯を、豚の餌のように丼に突っ込んだだけのものを出された。彼女はスプーンも与えられず、それを手づかみで食べなければならなかった。しかもストーントン兄弟はしばしば彼女の存在を忘れたため、1日や2日、食事が与えられないことはざらだった。
 誰にも話しかけられず、誰にも見られず過ごすハリエットから、いつしか発語能力が消えた。ただぶつぶつ言うか鼻を鳴らすだけで、一度も洗われない服も体もおそろしいほどの不潔さ。もう彼女は女でも人間でもなく、昼夜も分かたぬ暗闇で這いずりまわり、蠢くだけのグロテスクな動物であった。周囲の人間が彼女に望むのはただ、彼女の「死」だけだった。
 ストーントン兄弟はしかし、この家でハリエットが死ぬのは怪しまれる原因になると思い、彼女を下宿屋へ移すと、そこで彼女が餓死するに任せた。1877年4月、ハリエットはついに死んだ。
 兄弟はハリエットが死んだその日に葬儀の手配を済ませ、遺体の埋葬料を払い、自分たちは葬儀に出席することなく、妻と愛人を連れて自宅へ帰った。この冷淡な態度とあいまって、ハリエットの遺体の異常な不潔さと、体重が30キロ以下になるほどの痩せかたに不審の目が集まった。
 看護婦と土地の人間がハリエットの母親に連絡し、葬儀の中止命令が出された。解剖の結果、ハリエットは長期の栄養失調と遺棄行為により死んだことがあきらかになった。
 ストーントン兄弟と、兄の妻、弟の愛人の4人はいずれも死刑を宣告された。が、のちに減刑となり愛人は無罪に、他3人は終身重労働刑となった。

 


◆デュモラール夫妻

 

 19世紀、リヨン。モンタヴェルンの森で強姦されて殺害された若い女中の死体が発見される――という事件が、6年間のうちに頻発した。彼女たちはすべて、「いい働き口を世話してやる」と言われ、疑いもなくついていって殺されたのだった。
 ただし、この殺人鬼の手から辛くも逃げおおせた娘も少なくなかった。彼女たちはみな一様に、
「農夫のような粗野な男。上唇に腫瘍があって、おまけにそこに大きな傷跡がある」と証言した。
 警察の捜査はなかなか始まらなかったが、開始されるやいなや、捜査線上にマルタン・デュモラールという男が浮かんだ。デュモラールの容貌はまさに被害者たちの証言そっくりで、おまけに毎晩夜歩きをする癖があった。
 デュモラール家を捜索すると、衣類、肌着、ハンカチ、切りとられたレースやリボン、アクセサリー、靴などが1257点も発見された。衣服には血の付いたままのものもあったが、ざっと洗われているものも多かった。どうもデュモラールの細君がこれらをとっかえひっかえして着ていたらしいことがわかると、警察は慄然とした。
 先に自白を始めたのはデュモラール夫人のほうだった。夫人は人殺しに手を貸したことはなかったが、夫が連続殺人者であることは知っていた。夫はふらっと家を出ていっては戻ってきて、
「森でまた1人殺した。これから埋めてくる」
 と言うだけだった。彼女はそれを聞いてもなんとも思わず、彼が被害者から剥いできた着物をもらうのだけが楽しみだったようだ。デュモラールもそれを承知していたようで、なるべく衣類に傷がつかないよう、被害者たちの首に輪縄をかけて殺すようにしていた。
 彼らの家から発見された遺留品の点数からして、少なくとも18人が殺害されたとみられたが、裁判では5件の殺人と10件の誘拐暴行殺人未遂が問われただけであった。しかしその罪だけでもデュモラールはギロチン送りに、夫人は懲役20年になった。
 デュモラールは異常に額がせまく、前に突き出ていて、頭頂部が円錐形に尖っているという奇形的な頭蓋骨の持ち主だったらしく、ギロチンで首を落とされたのち、その頭蓋骨はリヨン大学の骨相学研究室へ送られた。また夫人の方はといえば、筋骨たくましく、魁偉ないかつい容貌で、黒々とした髭までたくわえていた。いろいろな意味で似合いの夫婦だった、と言えるだろう。

 


◆ゴンザレス姉妹

 

 1963年、メキシコ西海岸の警察は若い女性の失踪者が頻発していることに頭を痛めはじめていた。女たちの大部分が職を求めており、その最中に姿を消していた。
 その年の暮れ近くなって、病気の父親を抱えた16歳の少女が行方不明になった。この少女が最後に言葉を交わしていた相手が、目撃者の証言により、女衒の常習犯であることが判明した。
 逮捕された女衒は、警察の保護の約束を取り付けるとようやく自供をはじめた。少女はゴンザレスという姉妹の経営する「天使農場」という名の売春宿に売りつけた、ということだった。
 天使農場に踏み込んだ警察は、監禁されて客をとらされていた13人の女性を保護した。その中には行方不明になった少女もいた。少女はここに連れてこられてからまだ3週間にしかなっていなかったが、すでに精神錯乱状態にあり、廃人同然であった。
 少女は売春宿での最初の夜、複数の男によってたかって暴力的に凌辱され「仕込まれ」た。彼女は翌朝、起き上がることすらできなかった。彼女が「立ち上がれない」と訴えると、2人の男に痣ができるまで叩きのめされ、その晩も多数の客をとらされた。それから町じゅうの売春宿をたらい回しにされた挙句、この「天使牧場」送りになったのである。
 監禁されていた中にはまだ14歳の少女すらいた。彼女は誘拐され、売り飛ばされてこの農場で客をとらされており、性病にかかっていた。
 働かせられていた女はほとんどが10代で、最年長でも20代前半だった。あまりに劣悪な環境のため、栄養失調と荒淫で女たちはすぐに若さと美しさを失ったが、ゴンザレス姉妹は容色の衰えた女は殺して始末した。女の代わりは、金さえ出せばいくらでもいた。
 ゴンザレス姉妹の宿管理は徹底した恐怖支配だった。少しでも反抗した女は拷問され、妊娠すると天井から吊り下げられて腹を殴られ、流産させられた。ほぼ半数の女たちが性病にかかっていたが、病気が悪化した者も殺され、埋められた。
 姉妹は女たちに麻薬を与え、薬づけにして脱走意欲を失わせていたが、それでも逃げる者がまったくいないわけではなかった。あるとき、ひとりの少女が脱走をはかった。少女は姉と共にこの「天使農場」で体を売らされていたが、姉の方はすでに完全な麻薬中毒者であった。ゴンザレス姉妹は少女を捕らえると、麻薬中毒の姉を引きずり出してきて、おのおのの手に武器を握らせた。
「闘いな。勝ったほうを生き残らせてやろう」
 この果し合いは、正気を失った姉の方に分があった。姉は実の妹の脳天にハンマーをふりおろし、頭蓋骨を砕いて殺した。
 また、ゴンザレス姉妹は客を殺すことも珍しくなかった。アメリカに出稼ぎに行っていた労働者たちは、帰郷前に売春宿に寄っていくことが多い。彼女らはそんな客を麻酔薬入りの酒で酔わせ、殺して、出稼ぎで得た給金を奪った。
 農場のまわりからは夥しい数の死体が見つかった。男の死体が11体、女の死体が80数体、そして生まれたばかりの赤ん坊の死体がごろごろ出てきた。
 姉妹は40年の懲役を宣告され、長年のうちにたくわえた資産は、すべて被害者たちへの補償金として分配されたという。

 


ケニス・ビアンキ&アンジェロ・ブオーノ(従兄弟)

 

 アンジェロ・ブオーノは1935年生まれで、14歳で少年院送りになった。初婚は20歳のときだったが、妻に残虐と言っていいほどの暴力をふるい、肛門姦を好む性癖があったため、その後3回結婚したがいずれもうまくいかなかった。40歳で内装工場をひらき、繁盛させてからは暮らし向きは良くなったらしいが、相変わらず粗野で残忍で、10代の少女を言葉巧みにたぶらかすのが趣味だった。従弟のビアンキと再会したのは、工場開設の翌年である。
 ケニス・ビアンキは1951年に売春婦の私生児として生まれ、わずか生後3ヵ月で養子に出された。幼少期のビアンキは誕生時の愛情を受けていなかったせいか、無意味な嘘で周囲の人間を惹きつけていなければ気のすまない子供であった。明るくて知能も高かったが、意志薄弱で、他人の権利を認めることができなかった。と言うより他人の尊厳を理解できるだけの素地が先天的に欠けていたのだろう。
 彼は際限なく嘘をつき、人のものを盗み、自分に少しでも冷たくした女には暴力をふるった。11歳のときから精神科医にかかることを周囲に薦められていたが、養母が拒んだため通院はしなかったらしい。職についても長続きせず、24歳のとき、尊敬する従兄のブオーノと同居するようになる。
 ビアンキはブオーノが少女を犯したり、無理にオーラル・セックスを強要するのを目の当たりにして、ひどく感心した。だがビアンキは同居後も職を転々としたので、ブオーノはあまりにもだらしない従弟に少々うんざりし始め、ついにビアンキに、「ポン引きを手伝わないか」と話をもちかけた。
 ビアンキはあるパーティで16歳の少女を「写真モデルをやってほしい」と誘い、自宅に連れ込むと、殴打して強姦した。彼女はそれから売春を強いられるようになった。彼らはその後も家出娘や街角で見つけた娘をかどわかしては売春婦にさせた。少女たちはあまりにも頻繁にブオーノに肛門姦されたため、直腸にタンポンを入れていなければならなかったという。
 だがあるとき派遣した元・家出娘の売春婦が、客に「どうして娼婦なんかになったの」と訊かれ、本当のことを打ち明けてしまった。ビアンキたちにとっては間の悪いことにその客は弁護士だった。彼は少女に逃げることを薦め、故郷までの航空券を買ってあげた。ブオーノは怒り狂い、弁護士に脅迫電話をかけたが、逆に弁護士の知り合いの暴走族に赤子の手をひねるようにあしらわれ、追い返された。この一件はブオーノのプライドを激しく傷つけたらしい。だが彼のねじくれた論理は弁護士の方へは再び向かうことなく、「売春婦どもがすべて悪い」という怒りに変わっていった。
 このことがあって間もなく、ブオーノは不要な顧客リストをひとりの売春婦に騙されて売りつけられた。ブオーノは激怒したが、その売春婦本人を見つけ出すことはできなかったので、ブオーノとビアンキは身代わりにその友人の娼婦を誘拐して輪姦し、しまいに車の後部座席で、暴行しながら絞め殺した。これが「ヒルサイド絞殺魔」の最初の殺人である。
 殺人の経験はこの凶悪な従兄弟を満足させた。
 1977年10月、ふたりは15歳の娼婦を拾って自宅に連れ帰り、輪姦と肛門姦のあと、ビニール袋を頭にかぶせ、最後に手で絞殺した。
 次の被害者は失業中のダンサーで、2人は警察だと偽って彼女を自宅まで連行し、そこで手錠をかけて彼女の衣服を切り裂いた。2人は彼女を清涼飲料水の瓶で辱め、首を絞めて失神させてはまた蘇生させ、また絞めるという作業を繰り返した。もちろん最後には「ちゃんと」絞め殺した。
 その数日後、ビアンキはバス停で知り合った女子学生を家へ連れ込み、ビニール袋を頭にかぶせて強姦し、クライマックスと彼女の窒息死が同時に訪れるようにはからった。
 11月に入り、2人は今度は子供を狙おう、と意見を一致させた。彼らは12歳と14歳の少女が万引きしたのを見つけ、警察の者だと言って同行させた。少女たちは強姦され、殺された。
 また、ビアンキが「以前俺をふった女に復讐したい」と言ったので、ブオーノは喜んでこれに協力した。2人は彼女を誘拐し、輪姦したのち、洗浄液を注射した。しかし彼女は死ななかったので、頭にかぶせた袋に石灰ガスを吹き込みながら、手で絞殺した。
 2人は被害者の遺体をロサンゼルス地区のヒルサイド(山腹)か道端に、無造作に車から投げ落とすのが常だった。警察・マスコミは被害者たちが必ず拷問ののち絞殺されていることから、この犯人を「ヒルサイド絞殺魔」と呼んだ。
 11月28日、2人は不倫の情事のあと帰宅途中の女性を掴まえ、自宅で輪姦。体に電流を流したが死ななかったので、絞殺した。
 12月に入って、斡旋所から呼んだ売春婦を強姦、殺害。
 翌年2月、ブオーノの工場を訪れた20歳の女性を誘拐し、自宅で2時間にわたって凌辱と肛門姦を加えた末、絞殺。死体は彼女自身が乗ってきた車に押し込み、崖下に墜落させた。
 しかしこの頃になると、ブオーノは従弟のあまりのだらしなさと無責任さにほとほと愛想を尽かしていた。ビアンキの恋人が里帰りしたのをきっかけに、ブオーノは「おまえも彼女についていったらどうだ」と猫撫で声を出した。ビアンキは自分が厄介払いされることに気づき、傷ついた。ブオーノはそれまで彼の憧れの対象であり、ヒーローだったのだ。
 ヒーローに裏切られ、怒りと失望にかられたビアンキは「ブオーノの援助無しでも、俺はひとりで殺人ができる」と考え、それこそが自分の独立の証だと思い込んだ。
 彼は1979年1月、元同僚の女性とそのルームメイトとに「就職を斡旋する」ともちかけ、ふたりとも強姦して殺した。しかしこの元同僚の女性は、ビアンキとの「誰にもこのことは言わない」という約束を守らなかったので、ただちに彼は逮捕される羽目になった。
 拘置所でビアンキはブオーノに「きみのことは一言も言わないから」と匂わせた手紙を送った。ブオーノがここで下手に出れば、ビアンキはかつての英雄崇拝の気持ちを思い出して彼をかばいつづけたかもしれない。しかしブオーノは激怒し、「余計なことを一言でも言ったら、てめえの家族(このときビアンキは恋人と結婚しており、子供もいた)を皆殺しにしてやる」と書き送った。ビアンキはこれを読み、ブオーノを警察に売る決心を固めた。
 ビアンキは裁判で「自分は幼少時、虐待された」と言い、「そのトラウマで多重人格となった。殺人を犯したのは俺の別の人格だ」と主張した。だがビアンキの「多重人格演技」は数人のセラピストは騙せたものの、検察側の用意した精神科医に暴かれた。ビアンキに人格分離の前歴がないこと。別人格の登場の仕方が大袈裟すぎ、支離滅裂であること。「本物の多重人格なら3つ以上の人格を持っているはず」と指摘された途端、第3の人格を発現させてみせたこと。逮捕されて間もなく、TV映画の『シビル』を観ていることが確認されたこと、等々……。
 詐病をあばかれたビアンキは仕方なく、ブオーノに不利な証言をする代わりの減刑取引を要請し、終身刑を受けた。
 ブオーノも終身刑。ただしビアンキは5件の殺人について有罪だったが、ブオーノは7件について有罪とされた。
 なおこの事件には後日談がある。刑務所内からビアンキは文通していた女性に、「ぼくへの愛を証明してくれ。ぼくに力を貸してくれ」と懇願した。彼の要望は「ロスで女性を絞殺し、体内に精液を注入して、ヒルサイド絞殺魔がまだ野放しになっているように見せかけてほしい」というもので、ビアンキに熱を上げていた女性はこの計画を快諾した。
 しかしこの女性は犯行に失敗して被害者に逃げられ、あっけなく逮捕されて殺人未遂で終身刑を受けた。新聞は彼女に「物真似絞殺魔」との渾名を付けて書きたてたという。

 


◆アレクサンダー父子

 

 1970年12月22日、サンタクルスの一角にある鍵のかかったアパートのドアを、刑事ふたりと医師ひとりがこじ開けて中に入った。
 ブラインドはおろされており、室内は薄暗かったが、それでも壁や床のいたるところに血が飛び散っているのは見てとれた。刑事のひとりが、木製の串に突き刺された肉塊を見て、
「これはなんだ?」と訊ねた。
 医師はそれをしげしげと見たあと、吐き捨てるように言った。
「人間の心臓だ」。
 彼らがここに来るに至ったことの起こりは、その日の昼過ぎのことである。ハロルド・アレクサンダーは息子フランク(16歳)をともなって、娘のサビーネ(15歳)が働く診療所に訪ねていった。サビーネが現れると父ハロルドは彼女を優しく抱いて、
「いま、おまえのお母さんと、お姉さん2人をみんな殺してきた。時が来たのだよ」
 と穏やかに言った。それを聞いた娘は静かに父の頬を撫でて、
「お父様は成すべきことをなさったのよ」と彼をいたわった。
 この会話を聞いた診療所の医師は仰天し、警察に電話した。連絡を受けた警察がアレクサンダー一家の住むアパートに踏み込んだのは一時間後。床にはアレクサンダーの妻と、長女、次女が冷たくなって転がっていた。彼女たちにはいずれも激しい殴打のあとがあり、死体は切り裂かれ、摘出された心臓が木の串に突き立てられていた。
 アレクサンダー一家は10ヶ月前にサンタクルスに移住してきたばかりだったが、引っ越してきた当初から誰とも近所づきあいせず、昼間からずっとブラインドをおろしたままで、絶え間なくオルガンを弾きつづけて暮らしていたという。
 父ハロルドは若い頃、突如として「自分は神の預言者である」という啓示を受けたと思い込み、旅の説教師となった。彼は自分の教えに賛同する女と結婚し、子供たちを成した。彼はひとり息子のフランクが生まれると、「この子こそ、地上における神の代理人」だと考えたらしい。ハロルドと、彼に絶対服従する母娘たちは、フランクを敬いながら育てた。
 この一家は下界は堕落しきっており、もはや救うすべがないと考えていたようだ。
「いつか神より啓示がくだる。そのときのため死ぬ用意をいつでも整えておきなさい。われわれの魂は醜い下界を去り、天上へとはばたくことができるのだから」
 と父はいつも家族に説いていた。
 凶行の朝、フランクは母に「妙な目つきで」見られたと感じた。
 居心地悪く感じた彼は、ハンガーでいきなり母を打ちすえた。母が気を失って倒れるまで殴打はつづいた。
 それを見るや、父は「時が来た!」と感じとったらしい。彼は重い水準器を手にとると、長女と次女の頭を殴った。3人とも悲鳴もあげず、抗う様子もなく床に崩れおちた。彼女らも「これが定めだ」と心得ていたからである。
 ハロルドはフランクに「神の言葉を聞いたな?」と問うた。息子があいまいに頷くと、父は倒れた3人を、完全に絶命するまで金槌で殴った。いよいよ、穢れきったこの世界に別れを告げるときがきたのだ。
 母娘たちが息絶えると、フランクはオルガンを弾き、ハロルドが死体を裸にし、腹を裂いた。父が疲れると彼らは役目を交替し、ハロルドがオルガンを弾いて、フランクが死体から心臓を抜き取り、手製の串に突き刺した。そして、メモに
「真の自由を得るためには、最も愛する者を殺さなければならない」と書いた。
 この父子は、精神病者用の刑務所施設へ送られた。

 


◆ホセイン兄弟

 

 1969年12月29日、イギリスの著名な新聞社副会長であるマッケイ氏が自宅へ帰ってみると、玄関の鍵が壊されて開いており、夫人の姿はどこにも見当たらなかった。電話線は引きちぎられ、夫人のハンドバッグの中身が床に散乱している。彼はすぐさま警察に連絡をとった。
 深夜1時過ぎ、犯人からと思われる電話がかかってきた。
「我々はアメリカン・マフィアM3だ。女房は預かった。水曜までに100万ポンド用意しろ」
 この滑稽なほど大袈裟な文句をマッケイ氏に告げたのは、誘拐犯人であるホセイン兄弟だった。彼らは実に間の抜けた誘拐犯で、およそ失敗つづきであったが、この時点ではまだ誰にもそれは判りようもなかった。
 兄弟は実は会長夫人を狙っていたのだが、会長夫妻は休暇でオーストラリアへ帰郷しており、彼らの使っていた社用車のロールスロイスをたまたま副会長が借りて使っていたのである。ホセイン兄弟はこのロールスロイスのあとを尾行し、副会長マッケイ氏の自宅を会長宅と勘違いして襲ったのだった。
 2日後、要求確認の電話がふたたび入り、つづいてマッケイ夫人の筆跡での手紙が届いた。
「あなた、私は目隠しされていて、暖房もない部屋に毛布だけを与えられています。このままでは長くもちそうもないわ。お願いだから犯人の言うとおりにしてちょうだい。どうしてこんな目にあわなきゃならなかったのかしら――愛をこめて」。
 その後18回もの電話でのやり取りがあり、ようやく身代金についての具体的な指示があった。ホセイン兄弟にはものごとを早急かつ事務的に片づける能力も、合理的な思考力もだいぶ不足していたらしい。この時点で1ヶ月以上も監禁されていた夫人の手紙には、
「身も心も衰弱しています」
 と記されている。
 身代金は2回に分けて引き渡すようにと兄弟は指示した。さらに電話が3回、脅迫状1通、夫人からの手紙が2通。異様にまわりくどく、時間ばかりかかるやり方である。「警察には連絡するな」とは言われたものの、これではマッケイ氏が業を煮やして警察の協力を仰ぎたがるのも、無理からぬ話であった。
 1度目の現金引渡しは、現場に150人を超える警官と、50台の覆面パトカーが張り込んでいたため、さすがの兄弟もこれに気づいて近づけなかった。
 2度目の引渡しの際には、マッケイと娘になりすました警官が指定場所に金の入ったふたつのスーツケースを置いてきたが、何とこれは通行人に落し物と勘違いされて拾われ、近くの交番に届けられてしまった。交番の警官は迷った末、このスーツケースを受け取った。
 この2回の張り込みの最中、紺のボルボが何度も何度も引渡しの指定場所を往復しているのが確認され、車の持ち主を調べたところ、ただちにインド系イスラム教徒であるホセイン兄弟の名が浮上した。兄弟はイングランド中部のはずれに農場を買い取って暮らしていた。
 農場を探索すると、マッケイ夫人の姿は影も形もなかったが、代わりに彼女がここに監禁されていたという状況証拠は山ほど見つかった。陪審は彼らをすべての容疑について有罪とし、終身刑に加えて恐喝・誘拐での懲役刑を加算した刑を下した。
 しかしこれほど誘拐犯として不手際だった彼らは、皮肉にも殺人及び死体滅却には優れた手腕を発揮した。マッケイ夫人は衰弱した体に薬を飲まされたのち射殺され、死体をこま切れにされて、農場の豚の餌になったのである。雑食の貪欲な豚は彼女をかけらも残さずきれいに喰いつくし、哀れな副会長夫人の死体は完全にこの世から消え去ったのだった。

 


◆カリンジャー父子

 

 ジョゼフ・カリンジャーは愛情というものの存在しない家庭で育った。彼の母親は、「焦げるまで掌を炎の上にかざしておきなさい」と命じ、ときにはハンマーで殴りつけ、彼が泣き出そうものならさらに折檻した。
「男は泣いちゃいけないんだよ。どんなに痛くても我慢できるような強い男にならなきゃいけないんだ」
 という母の叫びは、のちのちまで彼のトラウマとなった。
 長じて自分の家庭を持つようになると、ジョゼフも自分の親をそっくりなぞったような暴君になった。子供たちが反抗すればベルトのバックルでぶん殴り、帰宅の遅かった娘の股間に焼きゴテを押し付けた。
 1975年、ジョゼフは「やつらを痛めつけろ、さんざん苦しめてから殺せ。それがおまえが本当の男になる道なんだ」という頭の中の声を聞いた。
 ジョゼフは16歳の息子マイクルを共犯に引きずりこみ、見知らぬ家に侵入しては強盗とレイプを繰り返した。そして被害者の男性2人の性器を、まだ息があるうちにマイクルに切り落とさせた。
 彼らの最後の犠牲者はジョゼフの13歳の息子(マイクルにとっては弟)だったが、彼が凄惨な拷問の末、「パパ、どうか助けて」と叫んでついに絶命したとき、ジョゼフは激しいオーガズムに達した。
 父子は逮捕され、ジョゼフは終身刑となったが、マイクルは保護観察のみで現在は完全に自由の身であるという。

 


◆伊勢崎市、金井一家

 

 2001年11月12日夕刻、群馬県伊勢崎市消防署に119番通報があった。
「女房が死んでるみたいなんだが、来てくれないか」
 受話器の向こうの声は落ち着きはらっていた。救急隊員が現場である金井家に駆けつけてみると、問題の遺体は仰向けに寝かされ、毛布がかけられている。
 隊員が毛布をはぐと、通報者が「妻」と言ったその遺体は異様なほど痩せこけていた。のちに司法解剖により、彼女は158センチの背丈に対して26キロの体重しかなかったことがわかる。おまけに死因は餓死であった。彼女は長期にわたって家族に食事を与えられず、じわじわと死んだのである。
 「未必の故意」による殺人容疑で逮捕されたのは、被害者の内縁の夫、金井幸夫(37歳)と、その両親と姉の4人。彼らは被害者が死ぬであろうことを知りながら、何の手だてを講じることもなく放置したのだった。

 金井幸夫は1964年に生まれた。きょうだいは年子の姉と2歳下の妹がいる。親子5人は市営住宅に住まいをかまえており、入居当時はごく平凡な家族のようであったという。
 だが金井の両親にはこれといった定職はなかった。難聴気味の父親は工員や左官などをしていたが、どこも長続きしない上に競輪好きで家に入れる金はほとんどない。母親も工場にパートで出ていたが、すぐ辞めてしまっている。この母親の幸夫に対する躾は一貫しないもので、「長男だから」とべたべたに甘やかす反面、近所にも幸夫の泣き声が響きわたるほどの虐待もはたらいていたらしい。
 甘やかされながら突き放される、という不安定な躾を受けた幸夫は、内気で人見知りのする子供に育った。しかし自分より弱い者を探すのには聡く、小さい子をいじめながらこき使うような真似もしていたという。
 そんな彼は「普通学級で勉強についていくには難あり。家庭環境も恵まれず勉強できる環境にない」という学校側の判断で、特殊学級に配置される。そこでクラスメイトとして出会ったのが、本事件の被害者である長谷川三根子であった。
 幸夫も三根子も勉強についていけないという程度で、外見的にはさして普通学級の生徒と変わらなかった。それが彼らをクラスの中で結びつけたのかどうかはわからないが、幸夫は卒業後もときおり三根子に連絡をとっていた。

 しかし幸夫は学校に真面目に通っていたわけではなく、不登校気味であった。それは年々ひどくなり、母や姉に暴力をふるうようにもなっていく。幸夫の怒声と女たちの悲鳴はたびたび町内の空気を震わせた。
 ことに幸夫が思春期にさしかかるにつれ、姉に対する暴力は身体的なものばかりではなく性的なものへ移行していったらしい。姉が「やだよ」「死んじゃう」「痛いよ」と泣き叫ぶ悲痛な声を、当時近隣の何人もが聞いている。
 その泣き声は最初、幸夫と姉がふたりきりで家にいるときにだけ聞こえた。だがそのうちに幸夫の友人数人が家に上がりこんでいるときも聞こえるようになった。通りに面した窓からは仰向けに倒された姉と、そのまわりに下半身裸の少年たちが居並ぶさまが丸見えだったという。それが終わるまで家には鍵がかけられているのだが、家の中で娘が息子とその友達に犯されていることを知りながら、両親は庭でつくねんと待っているのだった。
 幸夫は周囲の人間から金を借りまくり、「返せないから姉ちゃんの体で払う」と言っては誰彼かまわず家に引き込んでいた。両親は体格で勝る幸夫をもう抑えることができず、暴力で支配されるがままであった。
 ついに姉は精神をわずらい、精神病院へ入院。以後、これで手に入れた姉の障害者手帳が一家の大きな収入源となる。

 幸夫は20歳と24歳で2度結婚しているが、どちらも彼の暴力により破綻した。そのほかにも家出少女を見つけては家にひっぱりこんでいたようだが、彼女らにも同じふるまいに及んでは逃げられている。幸夫は女性との正常な距離のとりかたを知らなかったようで、依存し束縛し、乱暴しては去られ、寂しがる、この繰り返しである。
 そんな彼がまた三根子に連絡をとりはじめたのは、2度目の離婚直後からであった。

 三根子は24歳で結婚し、女児をもうけ幸せな結婚生活を送っていた。夫は彼女の知能がやや低いことなど気にしていなかったし、何よりその素直な性格を愛していたようだ。
 しかし彼女は幸夫に「家を出てこい」と言われ、1993年と1998年に2度家出をしている。1度目は両親や夫の手によって連れ戻されたが、2度目は無事帰宅することはかなわなかった。彼女自身が餓死したからである。なぜ彼女が幸福な家庭を捨て、幸夫のもとへ行ってしまったかについて正確なことはもうわからない。
 ともかく、彼女は金井家にやって来た。しかし一家にとって三根子は「異物」でしかなく、皮肉なことにそれまでずっとばらばらだった金井家は、彼女を虐待することによって初めてひとつに結びついた。
 主に暴力をふるっていたのは、幸夫と姉である。食事は最初は朝夕の1日2食だったが、そのうち1食になった。さらに2年目には2、3日に一回となり、三根子はみるみる衰弱していく。がそんな彼女の目の前で一家は平然と自分たちの食事をとった。
 幸夫に長い間虐げられてきた母と姉は、鬱憤ばらしの手頃な標的を見つけたようなものだった。しかも暴力が三根子に向いている間は、自分は殴られずに済む。はじめのうち残飯をあさって餓えをしのいでいた三根子だったが、やがて足腰も立たなくなり一日中放心しているだけになった。
 このままでは死んでしまうことは誰の目にも明らかだったが、こうなっては実家に帰すわけにもいかない。警察沙汰にならぬよう一家はさらに結託し、三根子を監視した。三根子は体力の限界になる直前2度脱走しているが、いずれも捕まって連れ戻されている。
「みんなが御飯をくれない。叩かれて怖いよ、痛いよ。おうちに帰りたい」
 骨と皮ばかりの姿になって細い声で泣く三根子を、一家は黙殺した。
 2001年11月に入ると、一家は彼女の死がいよいよ近いことを知り、幸夫の父は仕事を休んで三根子の様子をみる。と言っても看病するとか食事を与えたとかいうわけではない。ただいつ死ぬかと観察していただけである。
 ある日、気まぐれに幸夫が食べ残しの飯を三根子に与えると、受け取ろうと出したその手を姉がぴしゃりと叩いた。床に落ちた米粒を三根子は急いで口に入れたが、衰弱しきっていた彼女の喉も胃もすでに固形物を受けつけなかった。
 11月10日の朝、三根子はすでに冷たくなっていた。その後2日と半日経ってようやく、幸夫は119番通報している。

 逮捕後も金井一家はほとんど悪びれることなく、
「ほっといたら死んでしまった」、「世話してただけだよ」と供述している。事実彼らは本気でそう思っており、三根子に対して何らひどいことをした意識はないようだった。
 骸骨に皮がはりつき、ミイラのように干からびた三根子の遺体を見て、彼女を捜しつづけていた両親と夫は愕然とした。
「どんな姿になってもいいから、生きて帰してくれればそれでよかったのに」
 夫は肩を落としてそう呟いたが、もう詮無いことであった。三根子は最後まで娘を捜しつづけたものの、志なかばで亡くなった父の墓石の隣に埋葬された。

 


◆ボルジア一族

 

 ボルジア家の家長であるロドリゴ・ボルジアが教皇アレクサンドル6世に就任したのは、1492年のことである。
 後世の歴史研究家たちは、口をきわめてこの男を罵ることになる。
 いわく、「これほど堕落し、神に背き、野心的だった教皇は空前絶後」「血と淫欲にまみれた聖座」。J・H・プラムに至っては「アレクサンドル6世の名が示すもの、すなわち肉欲と頽廃、残忍」と切って捨てている。
 聖職者は建前上、一生不犯である。しかし彼はローマ中の高級娼婦をかき集めて野外乱交パーティをひらき、気にいらぬ人間はすべて「ボルジア家の毒薬」と言われた特別精製のカンタレッラで毒殺し、財産の没収に血まなこになった。
 このアレクサンドル6世が愛人ヴァノッツァとの間につくった私生児は4人いた。
 
チェザーレ、ホアン、ルクレツィア、ホワレである。ボルジア家はまれに見る美貌の血統で、この兄妹4人が4人とも、ラテン系人種の古典的な美質をあまさず備えていたといわれている。
 ホアンは美貌であり父からは溺愛されていたものの、性質は怠惰でお世辞にも有能とは言えなかった。対して兄のチェザーレは情熱的で、有能な野心家である。教皇がどちらを片腕に選んだかは言うまでもないだろう。
 のちにホアンが暗殺されるや、チェザーレは以前にも増して、表立って権力をふるいはじめた。
 またボルジア一族は近親相姦の血統でもあったようだ。ルクレツィアは10代になる前から兄2人の愛人になっていたらしく、またそこに実父である教皇が加わったこともあったらしい(なおこれには諸説がある)。
 チェザーレは母親からは溺愛され、妹からは崇められ、父親からは舐めるように可愛がられて絶対的な庇護を受けた。もともと自尊心の強い性質にもってきて、この環境では彼がローマ皇帝のような暴君に育ったとしても無理はない。16歳で軍人になってからは、彼はきらびやかな武器をたずさえて、ローマを馬で駆け回った。たいていはお気に入りの愛人を側に連れていたが、妹の体におおっぴらに手をまわしていちゃつくことも珍しくなかったようだ。
 ブルクハルトの説によれば、チェザーレは夜中に護衛官をともなって、おびえあがったローマ市中を飢えた狼のごとく放浪していたという。そしてそれは単に民衆に顔を覚えられることを避けるだけではなく、生来の毒殺殺人者の欲望を満足させるためでもあったというのだ。
 教皇とチェザーレはローマの枢機官を何人も毒殺し、彼らの財産を次々と没収して私財を肥えふとらせた。
 ルクレツィアは2度政略結婚させられたが、チェザーレは妹に他人の手が触れることが我慢ならなかったらしく、1度目は「白い結婚」つまり、夫婦間の交わりのない婚姻を強いた。しかしこの第1の夫はチェザーレに毒を盛られる前に、それと悟って命からがら逃げ出した。
 その半年後、ルクレツィアは男児を産んだが、この子が前夫の子だと考える者は誰もいなかった。口さがないローマ市民はこう噂した。
「あの子は教皇のお孫さまでもあり、お子さまでもあられるそうな」。
 普段から愛人を共有することを人前でも恥じなかった教皇とチェザーレは、もちろんルクレツィアを共有していることも皆に知られていたらしい。
 ルクレツィアの2番目の夫は若い美少年で、彼女もこの夫のことは愛したようだ。しかしこれを面白く思わなかったチェザーレはこの夫を殺害した。ルクレツィアは悲しみに沈んだが、しかし兄が家に訪ねてくると、彼女は抱きついてその首に腕をまわした。もちろん夫を殺したのが兄と知っていて、である。
 さて、ボルジア家に隆盛をもたらした「カンタレッラ」であるが、正確にどういったたぐいの毒物であるかは定かではない。ただし「雪白な味のよい粉末」であり、プトマイン(屍毒)をベースとしたものではあったようだ。一説には「逆さに吊って撲殺した豚の内臓に亜砒酸を加え、それを腐らせて乾かすか、もしくは液状にしたもの」だそうである。この毒薬は調合次第で遅効性にも即効性にもなったという。
 ボルジア一族は栄華をきわめるかに見えた。
 しかしある夜、ある枢機官の家に招かれ食事を共にしたところ、召使が枢機官に盛るはずの毒を誤まってボルジア父子の杯に入れてしまった。もちろんこの毒とはカンタレッラである。逃れようのない毒を体内に入れた父子は、10日後に倒れた。
 夏なので腐敗が早く、当時の資料によると、
「教皇の死体は腐敗し、その口はまるで火にかけた鍋のようにぶつぶつと泡を吹きはじめた。それがあまりにも長く続くので、埋葬もしかねる有様であった。また死体はおそろしく膨れあがり、もう縦横の区別もつかないほど、もう人間の形とは思えぬほどであった。人夫がその足に縄を結んで、死の床から墓地まで引きずっていった。とても手で触れるわけにはいかなかった……」
 というほどの惨たらしさだったらしい。
 一方チェザーレはといえば、高熱にふるえる彼を召使たちは冷水の桶に漬けた。そののち、牝騾馬の腹を裂いてその胎内に押し込み、熱いどろどろの血や臓物に浸からせたという。これは古代から伝わる一種の解毒法だそうだ。
 なんとか一命はとりとめたものの、チェザーレは頭の毛が一本もなくなり、かつての稀に見る美貌も、あとかたもないほど醜く崩れてしまったという。
 その後のボルジア家に神が微笑むことはなかった。父教皇の死によってチェザーレは勢力を失って捕らえられ、スペインへ流されナヴァールに逃れた末、包囲戦で斬り殺されて果てた。
 ボルジア家を語るにおいて、最後に澁澤龍彦の言葉を引用したい。
「彼らボルジア家の人間は、すべて残忍な毒殺愛好家であるとともに、洗練された文化や芸術の保護者でもあったのだ。いささか奇矯な言辞を弄すれば、文化の洗練と殺人の洗練とは、おそらくいつの時代にも並行して達成されるのであろう」。

 


※「犯罪者家系」については「ネオ・ロンブロジアン」を参照お願いします。

 

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