POISONER

――毒殺者たち――


 

すでにギリシアの昔から、毒薬は人間の間に劇的シチュエーションを
つくりだすための、欠くべからず要素であったとおぼしい。
ギリシア悲劇の中には、毒薬がしばしば、あたかも不吉な運命の神ででも
あるかのごとくに登場するのである。

            ――澁澤龍彦『毒薬の手帖』より――

 


◆グラハム・ヤング

 

 グラハム・ヤングは1947年イギリスに生まれた。
 母が彼の生後まもなくして死んだため、彼の幼少期は孤独なものとなった。
 知能が高く孤独な少年にありがちな傾向として、彼もまた反社会的な独裁者――ナチスの思想にかぶれた。一種の選民思想、超人思想である。ヤングは周囲の人間を軽蔑し、侮蔑しながら成長した。
 彼がはじめて周囲に毒を盛りはじめたのは、14歳のときである。
 家族の毎日の食事に少しずつ、酒石酸アンチモンを混ぜていったのだ。父と姉、継母は目に見えて衰弱した。ヤングは家族に対して憎悪を抱いていたわけではなく、純粋に「毒物の影響に対する興味」からの犯行であった。
 家族の衰弱を見ても、ヤングはアンチモンの混入をやめなかった。父親の病状があまりに進んだので医者に診せたところ、砒素中毒という診断がくだり、それを聞いたヤングは
「医者が聞いてあきれる! 砒素中毒とアンチモン中毒の区別もつかないのか!」
 と嘲笑した。
 それを聞き、家族ははじめて彼の異常に気づいた。ヤングは逮捕され、ブロードムア精神異常者用刑務所に送られた。

 彼が出所したのは9年後のことだが、その間に囚人がひとり、不可解な中毒死をしている。
 ヤングが就職した会社では、彼の入社とほぼ同時に、社員の多くが腹痛や手足の痺れを訴えだした。
 彼の毒によってふたりの社員が神経系統をやられ、激痛と苦悶のうちに死んでいった。またほかにも二人の社員が手足の麻痺と胃の激痛に悩まされ、しまいには頭髪まで抜けはじめた。
 多くの毒殺者がそうであるように、ヤングもまた、自分の大罪の逐一をぶちまけたいという誘惑に抵抗できなかった。毒殺者たちにはある一定のタイプがあり、たいていが「自分で手をくださずとも他人の生命を左右できる」という感覚に酔いしれており、尊大で自己顕示欲が強い。のちにそれが万能感にまで達したとき、彼らの命運は尽きるのである。
 あまりの異常な事態に、社に医師団が派遣された。社員ひとりひとりが医師の面接を受けたが、その席でヤングは死亡した社員の症状について、並々ならぬ医学知識を得々と披露した。また、専門的な質問を医師にぶつけ、「タリウム中毒の症状というのは一般に一定しているものですか」などと訊いた。

 逮捕されたとき、ヤングは詳細な日記をつけていたことが発覚した。
 彼は裁判で終身刑となったが、サディスティックな毒殺犯としてヤングは典型的な例であると言える。少量の薬物によって、他人の生き死にを支配できるという甘美な感覚に、彼は早く出会いすぎてしまったのだろう。

 


◆ステラ・ニッケル

 

 1986年6月11日、銀行員である40歳のスー・スノーが、出勤の支度をしている途中、浴室で倒れた。
 救急隊員が駆けつけたときにはすでに呼吸困難、意識混濁に陥っており、搬送されて間もなく彼女は死亡した。
 症状は動脈瘤か薬物の過剰摂取を示しており、医師は首をひねった。スノー夫人は健康で、痛み止め以外の薬は飲まないタイプだ。しかしその朝、彼女は頭痛を止めるためにエキセドリンを2錠飲んでいたことがわかった。
 検死官がエキセドリンのカプセルを調べたところ、青酸カリが含まれていた。警察はただちにエキセドリンを全米の薬局から撤去させた。同じく青酸カリに侵されたカプセルは、市内と隣町でそれぞれ一瓶ずつ発見された。

 事件から6日後、ステラ・ニッケルという名の42歳の未亡人が警察に電話をしてきて、奇妙な話をした。ちょうど12日前、52歳の夫がエキセドリンを飲んだ直後に突然死したというのである。ステラは、
「夫の死とスノーさんの事件にはなにか関係があるのではないでしょうか」と言った。
 調査の結果、ニッケル氏の検死報告は肺気腫だったが、死体の血液サンプルからは青酸カリが検出された。
 警察はニッケル氏とスノー夫人の関連を探したが、なにも出てこなかった。
 しかしここでFBIの化学捜査官が、汚染されたカプセルから家庭用の水槽に使われる殺藻剤を少量、検出した。どうやらカプセルに穴をあけた人間は、前に殺藻剤の錠剤を砕くのに使った容器で青酸カリを混ぜたようだった。
 またステラが夫の生命保険の掛け金を上げていたこと、近所のペットショップで殺藻剤を買ったこと、汚染されていた5つの瓶のうち2つを所持していたことなどから、彼女への容疑は強まった。

 ふたりの娘がおり、孫に囲まれる生活のステラは傍目には殺人を犯すような人間とは思えない。
 近隣の人はニッケル夫妻の仲のよさを証言したし、ステラは明るい働き者で評判だった。
 しかし捜査が進むにつれ、本当のステラがあきらかになってきた。

 彼女は小切手偽造、文書偽造、幼児虐待でそれぞれ有罪を言い渡された前科があった。また借金を抱えていたが返済できず、生家は彼女のせいで離散していた。またニッケル夫妻は実は破産寸前で、ステラは相当な無理をして保険金の掛け金を上げるための工面をしている。
 ニッケル氏には3万1千ドルの保険金がかけられていたが、事故で死んだ場合はさらに14万5千ドルが上乗せされるようになっていた。つまり17万6千ドルもの大金が、病死でなく事故死ならば全額ステラの懐に転がりこむのである。しかし医師は夫の死を「肺気腫」と診断した。
 なんとしても、夫が事故死だったということにしなくてはならない。ステラの画策の結果が、この大騒動なのだった。

 事情聴取でステラは殺藻剤の購入も、保険の額を上げたことも否定した。だが嘘発見器では、あきらかな動揺を示した。しかし決定打となったのは彼女の実娘の証言である。
「母はよく、父を殺す、殺し屋を雇ってもいいと言ってました。青酸カリのことについても、図書館で調べていたようです」
 捜査官は近隣の図書館に出向き、ステラの借りた本を片端から調べた。『死に至る収穫』という毒草の本は、ニッケル氏が死んだ一日前にステラが借り出したもので、青酸カリの頁にはステラの指紋が山ほど付いていた。
 ステラ・ニッケルは2件の殺人と5件の殺人未遂により、90年の禁固刑を課された。
 しかし彼女が最初に支払われた3万1千ドルだけで満足していれば、これは完全犯罪となったはずである。

 


◆エレーヌ・ジェガード

 

 彼女は1833年から1851年の18年間に34人もの人間を毒殺した、典型的な「毒に魅入られた者」である。
 エレーヌが女中として住み込んだ家では、一家全員が死に絶えることも稀ではなかった。表面はいかにも信心深く、利口で気がきき、まさに理想的な女中と思われたので、神父も奉公先の主人たちも、まったく彼女を疑うなどということはなかったという。
 彼女がもちいたのは砒素だったが、愚かな医者は彼女の犠牲者たちをクループ喉頭炎と診断し、スグリのシロップを飲ませるなどの馬鹿げた治療をしていた。エレーヌはそれを腹の中で嘲笑しながら、甲斐甲斐しく看護をつづけた。
 逮捕されたときには、すでに大部分の事件が時効となっていた。それでも1843年以後に11件の窃盗、3件の毒殺、3件の毒殺未遂を犯していた。
 法廷で彼女は平気で矛盾したことを述べたり、気に入らなくなると牡蠣のように黙りこんでしまったので、最後には弁護士も彼女を「道徳観念の欠如した殺人モノマニア」つまり、一個の精神病患者として弁護する以外、打つ手がなくなってしまった。
 エレーヌは罪をまぬがれることはできず、ギロチンで首を落とされた。

 


◆ロバート・ジェームズ

 

 1935年8月、メアリ・ジェームズが自宅の庭の池に顔を突っ込んで溺死していた。
 彼女は妊娠中であり、しばしば卒倒の発作を起こしていたこともあって事故の可能性もあった。が、彼女の夫に対する疑問点があまりに多すぎたので、この死は簡単には片づけられなかった。
 夫であるロバート・ジェームズは数ヶ月前にメアリと結婚していたが、初婚ではなかった。
 彼はそれまでに5回結婚しており、3回は離婚、1回は婚姻無効、そして残る1回は死別だった。5番目の妻は浴槽で溺死していたのだ。妻が続けざまに溺死、という状況は疑うに足るものだった。
 検死の結果、メアリの脚にはいくつかの小さな刺し傷があったが、これについての説明はつかなかった。
 警察はロバートが殺人者であることをほぼ確信していたが、なかなか突破口は掴めなかった。そんなある日ヘラルド紙のベテラン記者がバーで、ぐでんぐでんに酔っぱらった元水夫に
「ある男が女房を殺すのを手伝ったことがあるんだが、いくらでこの話を買う?」
 と持ちかけられた。元水夫はその日のうちに警察に拘引され、尋問を受けた。最初は否定していたが、やがて観念して元水夫はすべてをぶちまけた。
「酔ってたんです。金も欲しかったし――そいつは大金をくれると約束してくれました」
「その男の名は?」
「ジェームズ――ロバート・ジェームズです」

 元水夫が金に困っていることを知ったロバートは彼に殺人幇助を持ちかけた。
 彼は最初こそ渋ったが、やがて金に負けてその話を受け入れた。
 彼がまずやったのはペットショップで毒蛇を買うことだった。まずウサギで毒の効果をためしたが、ウサギはボールのようにまんまるく膨らんだだけで死ななかった。別の蛇でも同じことだった。黒後家蜘蛛まで試したがやはりうまくいかなかった。
 そうこうするうち、元水夫はガラガラヘビの入手に成功した。長さは1メートル50センチ、胴まわりは10センチもある代物だった。
 ロバートは元水夫を家に連れ帰り、「旧知の友人」と紹介して三人で食卓を囲み、ワインを飲んだ。
 メアリのグラスにロバートが薬を入れ、眠りこんだところで、彼女を二人で抱えあげて脚をガラガラヘビの籠の中へと突っ込んだ。5分後引き上げると、脚には深い噛み傷が点々と付いており、早くも紫色に膨れあがりはじめていた。
 しかし二人が祝杯をあげている間も、メアリはなかなか息をひきとらなかった。業を煮やしたロバートは彼女を浴槽に押し込み、溺死させると、元水夫に手伝わせて庭に運び、あたかも池で溺死したかのように見せかけた。
 ロバートは第一級謀殺の罪で逮捕された。
 裁判には「実行犯」である二匹のガラガラヘビが召喚され、そのうちの一匹はガラスの水槽から逃げ出して十分ほど法廷の床を這いずりまわり、ようやく取り押さえられる一幕などもあった。
 医師によれば、「溺死させなくとも、いずれ被害者は咬傷で死んだだろう」とのことだった。
 元水夫が、二人でどうやってメアリを抱えあげ、ヘビの籠へ脚を突っ込ませたかを実演したときには、ロバートはのけぞって大笑いした。
 元水夫は終身刑、ロバートは絞首刑となった。

 


◆アンナ・フォール

 

 1979年、北フランス地方の南方3つの町を統括する地区警察の署長を務めていた男が、在任4年目を祝うパーティで死んだ。彼はパーティの最中、急に気分が悪くなったと言い、「視界の色が……変だ」と口走って倒れた。
 彼は家族と客たちの見守る中で息絶えた。
 彼が示した兆候から、毒を盛られたことはあきらかだったが、どんな毒薬だったのかがまるでわからなかった。
 検死結果でも不明であり、特別な分析を行なうには国立研究所に依頼するしかなく、最低でも10日はかかってしまう。その間に犯人が証拠隠滅をたくらむことは容易に想像できた。

 その3日後、市長が急逝した。被害者が死ぬ前に食べた食材が調べられたが、変わったものはなにも発見されなかった。地元の商店で売られたものと、自家栽培の野菜だけであった。
 捜査がつづく中、3人目の犠牲者が出た。
 地元の中学の校長を務める男である。夕食を終えて10分後、突然体を強張らせ、意味不明の叫びをあげて倒れたのち死んだ。
 短期間の間に地元の名士が3人、不審死をとげたのである。警察は「威信をかけた捜査になる」と思わざるを得なくなった。
 焦燥のうち、ようやく研究所からの検査結果が届く。それを見て捜査員は「一世紀前にタイムスリップしたようだ」と思ったという。
 結果は「毒キノコによる死」というものだった。彼らが食べた食用キノコの中に少量ながらも、猛毒かつ幻覚作用のあるキノコが混じっていたのである。しかしこれらが偶然に混じったとは考えられず、また毒を混入した人間も、かなり高度な知識を持ち合わせていなくてはならない。
 ひとまずは地道に被害者3人のつながりを洗うことから始めなくてはならなかった。
 しかし3人はそれぞれカトリックとプロテスタントであり、多忙をきわめていて親交はまったくなかった。捜査はいきづまった。

 そこへ4件目の事件が起こった。今度は初の女性で、素早い対応が功を奏し、胃洗浄で一命をとりとめた。それでも数日間は予断を許さぬ状況がつづき、ようやく捜査員が話を聞けたのは一週間後だった。
「些細なことでもいいです。教えてください。あなたと他の3人の間になにか接点はありませんでしたか」
 彼女はまだ病に朦朧とする頭で必死に考え、ようやく答えた。
「そういえば……わたしたちみんな、ピクニック委員会の委員でしたわ」
 ピクニック委員だって? 捜査員はがっかりした。
 見込み薄に思われたが、それでも彼らは藁にもすがる思いで捜査をつづけた。しかし捜査するうち、バスの添乗員任命に関する提案や、弁当業者、テント設営委員や余興を頼むための名簿づくりなど、これが驚くほど膨大な人数をまきこむ一大行事であることがわかり、捜査員は緊張しはじめた。

 そんな中、とあるバス会社と委員会のトラブルが発見された。
 そのバス会社はびっくりするような低価格でバスを3台提供したが、そのうち1台がポンコツだったのである。ピクニックの帰路、椅子がひとつ壊れて座っていた子供がかるい怪我をしたため、委員会では「もう、そこのバスは使わない」と裁決がなされていたのである。
 たいしたことではない。しかし手がかりと呼べるものなら何でも掴みたい。その一心で刑事たちはバス会社を経営するジュール・フォールを訪ねた。
 しかし会社はもはや娘であるアンナが引き継いでいた。ジュールが最近発作で倒れ、体に麻痺が残ったため、彼女が父親の看病もしつつ経営にもあたっているのだという。30代後半のアンナはいかにもしっかりした落ち着いた女性で、
「会社も小さくなってバスが数台残っているだけですが、食べてゆくには充分です」
 と笑って語った。刑事は気がすすまないながらも来訪の理由を話し、彼女は
「こんな大事件ですもの。そりゃあどんな小さな手がかりも見逃すわけにはいかないでしょう」
 と寛大だった。
「そりゃあ、ピクニック委員会の裁決はがっかりしました。でもいつかまたお役に立てれば嬉しいから――そう市長にも申し上げました」
 しかしフォール社がわだかまりなく入札を下りたという件に関し、4人目の被害者である女性を訪ねたところ彼女は驚いて、
「とんでもない。アンナは市長室まで乗り込んできたんですよ。彼をえこひいき、バスの座席をわざと外して父を陥れたんだろう、ってわめきちらしたんですから」。
 警察ではアンナの反論を聞く前に彼女の前歴を調べた。彼女は熟練した会計士だったが、このところ仕事が見つからないのは職場に迷惑をかけかねないと思われていたからだ――癇癪性で、意識消失や、硬直性痙攣を伴う大発作を彼女はしょっちゅう起こしていた――。この4〜5年は父と同居しパートで生計をたてていたが、例の一件と父の発作により暮らしぶりは良くなかった。

 警察は容疑を半分がた固めた。捜査員が彼女を訪問し、入札の件で偽証したことをやんわり問うと、彼女はいきなり、
「あんたもみんなと同じ、自分勝手で、自分の得しか考えないバカだ。なんでも規則規則で動かして、ほんとのことは何ひとつ見ようとしないメクラだ」
 と怒鳴り出し、
「今すぐ出てけ。出ていかないなら政府高官を呼んでやる。弁護士を呼んでやる。訴えてやる」
 とわめき、暴れた。捜査員はほうほうの態で逃げ帰ったが、その際に玄関に飾られた絵――バセドー氏病をわずらっているような、目の飛び出した女の肖像画――は目におさめていた。

 彼がその肖像画を気に止めていたのはまったくの正解だった。
 彼女の名はアデル・ジューヴ。危険なキノコの強壮剤を創り出した宗教団体『傾聴者』の創設者であった。彼女は原始的な生化学を身につけ、薬草剤を作る才能があった。ただし完全な狂人であり、同時にアンナの大叔母でもあった。
 アンナにアデルの名を持ち出した途端、彼女は狂乱状態に陥った。泣きだし、哀願しながら「もうやめて」と言った彼女はすでに自白したも同然だった。

 アンナの供述により、彼女がこの一連の事件を「復讐という大義」と考えていたことがあきらかになった。
 下調べは周到であり、夕食あるいはパーティの料理の手順を覗きによって確認し、隙を見て毒キノコのペーストを料理に混ぜこんだのである。
 計画をたてるがいなや、彼女はそれを決行に移している。彼女が精神科医に語った言葉を借りれば
「帳簿の決済が合った」
 ということだ。
 彼女は勘定がきちんと清算されるのを見るのがなにより好きだった。彼女はピクニック委員会の全部を始末し、清算してしまいたかったのである。
 公共の利益保護のため、アンナは心神喪失で精神病院に収容された。

 


◆ロンダ・ベル・マーティン

 

 1955年、ロナルド・マーティンは原因不明の下痢と腹痛、嘔吐に苦しめられていた。
 胃潰瘍の典型的症状だが、26歳の男性が胃潰瘍にかかることはほとんどない。
 医師たちの仔細な検査の結果、ロナルドは砒素を盛られていたことがわかった。それもここ2〜3ヶ月の間、定期的にである。総摂取量は致死量に匹敵していた。まっさきに怪しまれたのは妻のロンダだった。
 ロナウドとロンダは4年前に結婚し、いまは小さなアパート暮らしである。しかしロンダは夫より20歳近くも歳上で、またそれだけの若い男を惹きつけておけるほど美しくもセクシーでもなかった。誰もが、ロナウドの妻というより母親のようだと思った。
 しかしなんと、ロンダはほんとうに母親だったのだ。といっても実母ではない、義理である。
 彼女はロナウドと結婚する3年前、彼の父と結婚していた。しかし父が結婚後まもなく死んだため、ロナウドの妻になったのである。
 この不自然きわまりない関係に、当然司法当局は疑念を抱いた。またロナウドの父、クロードの死因にも疑問が持たれた。果たしてそれは当たっていた。クロードを死に至らしめた病気の症状は、激しい腹痛と下痢、嘔吐だったのだ。

 刑事たちはロンダの前歴を洗いはじめた。結果、クロードとは初婚ではなかったことがわかった。
 彼女は1928年にギャロットという男と結婚したが、彼は肺炎で死亡していた。ギャレット家の戸籍を見て刑事たちは慄然とせざるを得なかった。まるで死病が一家にとり憑いてでもいるかのようだった。
 ギャレット夫妻は5人の子宝に恵まれながら、それを1人ずつ順に失っていた。死亡証明書にはさまざまな病名が並んでいたが、どの子も一様に下痢と腹痛、嘔吐に苦しみながら死んでいた。さらにロンダの実母すら同じ症状を見せたのち亡くなっている。
 捜査官は、ロンダが20年以上にわたって「手腕」を発揮していたことを確信した。
 クロード・マーティン、ロナウド、前夫のギャレット、そしてギャレット家の子供たちにすら保険金がかけられていたことも判明した。
 クロードの死体が掘り起こされた。検査結果、彼の死体からは大量の砒素が検出された。
 逮捕後もロンダは平然としたもので、動揺の色もなく嫌疑を否認した。
「わたしが捕まっただなんて知ったら、ロナウドはさぞかし悲しむわ。彼のためにも早く家に返して」。
 あまりに不遜な彼女の態度に、当局は「あんたの母親と、ギャレット、それに死んだ子供らの墓もあばくぞ」と告知した。しかしロンダはそれにも動じなかった。

 しかしギャレットと娘のひとりを掘り出したところで、とうとうロンダも自供をはじめた。彼女はクロードとギャレット、実母、ロナウド、それに3人の子供らに毒を盛ったことを認めた。(子供のうち2人については、自然死だと言い張った)
 彼女はクロードの夕食のコーヒーに、蟻用殺虫剤として購入した砒素をスプーン2杯ずつ、3ヶ月にわたって与えつづけた。ギャレットには数日間、砒素入りウイスキーを与えただけで済んだ。
 また子供らには砒素入りミルクを与えた。中には「ママ、あれを取って」と彼女に頼んだため、むっとした彼女に毒を盛られて死んだ子さえいる。
 中でも苦しんで死んだのは11歳の娘で、1年にわたって盛られた毒のせいで手足がきかなくなり、ロンダは「不自由な体になった娘を、しばらく見ていた」あと、最後の一服を盛って彼女の苦悶を終わらせた。
 1957年、ロンダは電気椅子に座った。

 


◆ウィリアム・ネルム

 

 1847年、地区教育委員会副委員長のサミュエル・ネルムが砒素で殺された。
 人徳があり人望厚い人物であったので、捜査は難航するかに見えた。
 しかしネルム氏の死後10日経って、孫のひとりである12歳のウィリアムが窃盗で逮捕されたことにより、事件はあれよあれよという間に解決した。
 ウィリアムは7人兄弟のうちのひとりだったが、ずる休みの常習者で虚言癖があった。
 典型的な「正しい家父長タイプ」であったネルム氏は、ウィリアムに感情を爆発させることもしばしばだった。
 そして事件の一週間前、ウィリアムはネルム氏の懐中時計と金貨10枚を盗み、祖父にこっぴどく叱られ(彼は平手打ちされ、頭を壁に打ちつけられた)たことから、激しい恨みを抱いた。
 ウィリアムは殺鼠剤の砒素を持ち出すと、それを食卓の砂糖壷にあけた。それから口ぎりぎりまで砂糖を足し蓋をした。
 ちなみに祖父はたしかに甘党だったが、これは一家の者すべてが使う砂糖である。ウィリアムには思い直す時間は充分あった。しかし彼は砒素を回収する試みを一切していない。それからの一週間のうち、家族の数人が体調をくずした。中にはウィリアムの母親も含まれていた。どうやらウィリアムは復讐のために一家全員の死も辞さなかったようである。
 祖父の死体から砒素が検出されたことが判明すると、少年は子供らしいあっけなさを見せて自供した。
 ウィリアムの父親はすでに他界していたが(だからこそ祖父が父親の役割も担っていた)、彼もまた癇癪持ちで執念深く、またアルコール中毒でもあったという。
 ウィリアムは死刑を宣告されたがのちに減刑となり、一生を刑務所で終えた。

 


◆シェフ・ライク

 

 1871年1月、ある18歳の女性が一週間の胃痛を訴えたのち、死亡した。死因は食中毒と診断され、彼女の葬儀に出席した婚約者のシェフ・ライクはうちしおれて、見るも気の毒な有様だった。
 しかしそれからいくらも経たないうち、ライクはほかの女性と婚約した。この女性も3月の終わりごろから胃痛がはじまり、4月には死亡した。ライクはこときれた彼女の手を握ったままベッドの脇にしゃがみこみ、涙を流した。
 さらに3週間後、なんとライクは結婚した。しかしこの結婚生活は6週間しか続かなかった。原因はライクの異常なほどの嫉妬深さで、おかげで夫婦の間には喧嘩が絶えなかったのである。彼らは離婚したが、ひそかにライクを内偵していた警察はこの元妻に、
「胃痛を感じたことはなかったかね?」と訊ねた。
「ええ……そういえばずっと。でももう治ったわ。彼との生活がストレスだったんでしょうね」
 それからほどなくして、また別の女性がライクと同棲をはじめた。彼女も胃痛を感じ、母親にそれを訴えた。
 しかし彼女とライクはまったく同じものを食べているのに、ライクは健康そのものなのだ。
 母親はしばらく考え、こう訊いた。
「おまえ、食事以外になにかいつも食べてるものは? 間食はしないの?」
「ああ……ピーナツバターのサンドイッチを食べてるわ」
 ふたりはその瓶を調べた。母親が舐めてみると、なにやら金属くさい。彼女はそれを保健所に持ち込んだ。検査の結果、ピーナツバターにはネコイラズが混入されていた。
 しかしライクには妻や恋人たちに毒を盛る理由はまったくない。保険金をかけているわけでもないし、ほかに女がいて、邪魔になったというわけでもない。警察は動機探しに難渋した。
 しかし近所の園芸店の店主がライクにネコイラズを売ったことを覚えていたため、ライクは突如観念して自供をはじめた。
「女の子が苦しんでるのを見るのが好きなんです。つまり……“ああいう感じ”になるんですよ」。
 それが性的愉悦をさしていることはあきらかだった。しかし殺すつもりはなかった、と彼は言い張った。
 彼は2度の終身刑を宣告された。

 


◆マルタ・マレック

 

 1904年ごろ、マルタは生まれた。「ごろ」と不正確なのは彼女が捨て子だったからで、ウィーンのスラム街で、その中ですら最下層の極貧の環境で育った。
 目を見張るほどの美貌に成長したマルタは、地べたを這いずりまわるような生活から抜け出るチャンスを常に狙っていた。首尾よく町のドレスショップに就職した彼女は、すぐに容姿でも仕事ぶりでも群を抜く存在となった。

 1920年、さる富豪の老人が彼女の後見人になることを申し出た。彼女は喜んでこれを受けた。
 しかし老人との生活は正直退屈で、若い賛美者をいつもはべらせていなくては気が済まないマルタには物足りないものだったので、彼女はしばしば癇癪を起こし、不機嫌になった。哀れな老人は、
「わたしが死んだら財産の一部とこの家をあげるから」
 と約束し、彼女のご機嫌をとらなくてはならなかった。
 それからわずか1年後、後見人の老人は死んだ。彼の元妻は素性の知れない小娘に屋敷が遺贈されたことを知ると激怒し、遺体を発掘して検死させる、といきまいた。ただしこれは他の遺族の反対にあって、実現はしなかった。

 マルタは数ヵ月後、エミール・マレックという若い美青年の工科学生と結婚した。後見人が生前から関係のあった相手である。遺産と、恋人との結婚。マルタは思い描いた通りの人生を手に入れたはずだった。
 しかしマルタの身にはもう贅沢がしみついており、遺産は思ったよりも少なかった。エミールはまだまだ社会的にはひよっ子で、あてにはならない。若夫婦は遺産を使いはたしたばかりか、借金まで背負い込む身となった。
 マルタはエミールに、1万ポンドの傷害保険に加入させた。
 それから一週間後、ふたりは庭に下り、マルタは斧を手にとり、エミールは座り込み目を閉じた。
 斧の1撃が夫の膝に振り下ろされた。
 しかし1度では足りず、マルタは3度斧をふるわなければならなかった。
 ことが済むと、マルタは屋敷に戻った。庭から悲鳴が聞こえると彼女は召使と共に駆けつけ、片足を失って瀕死の夫を見つけた。ただちにエミールは病院に運ばれた。
 完全に膝から下を失ったエミールの傷口を見て、医師も警察も疑問を抱いた。大の男が斧でみずからの足をまるごと叩き切る、そんなことがあるだろうか? しかも角度的にも無理があり、傷口は3段になっている。
 マルタは「医師が傷口に手を加えたのを見た」と証言させようと看護人の買収をこころみたが、警察が看護人にこれを自供させたため、容疑はいっそう固まった。
 マレック夫妻は詐欺で告訴された。裁判官は片足になったことでエミールは充分罰せられていると考えたのか、買収だけを有罪にした。保険会社は故・後見人の遺骸の発掘をちらつかせることで、小額の支払いでことを解決した。マルクは遺体を発掘させるくらいなら、夫の片足を不問にさせることを選んだらしい。この一件はこれで終わってしまった。

 エミールはその後事業を起こすが、失敗。子供ふたりをもうけるが、食うや食わずの生活となり、マルタが市場で野菜を売る以外の収入はまったくなくなってしまった。やがて夫エミールは慈善療養所で死亡。「肺炎」と診断された。また一ヵ月後、下の娘も死亡。ふたりの死因に疑問を持つ者は誰もなかった。
 マルタは遠縁の老婦人の話し相手・兼家政婦として住み込みで働くようになった。
 この老婦人もほどなくして死んだため、マルタが遺産を相続した。彼女は好き勝手に遺産を浪費しながら、家に下宿人を入れた。
 この下宿人の中に、保険代理人と、老婦人とその息子という母子家庭があった。マルタは保険代理人に頼んで老婦人に保険をかけ、受取人を自分に指定した。やがてこの婦人も死亡した。
 マルタはしかしこの保険金さえすぐに使い果たし、今度は盗難詐欺をはたらいた。しかしこれで彼女の命運は尽きた。

 この詐欺の調査にあたった刑事は「エミールの片足切断」一件の担当者でもあった。彼は下宿人の老婦人の息子から「母は毒殺されたと思う」との証言を聞き、ただちに4体の遺体発掘の許可をとった。
 4体とは、元夫のエミール、下の娘、遠縁の老婦人、下宿人の婦人である。検死結果、そのいずれの死体からもタリウムが検出された。
 マルタにはまだもうひとり息子がいた。刑事がこの息子の行方を調べると、彼はウィーンのスラム街で床に伏せっていた。一見肺病にも見えたが、あきらかにタリウム中毒であった。少年はすぐに病院に送られ、一命をとりとめた。
 1938年、マルタはギロチンで首を落とされた。

 


◆ナニー・ドス

 

 1954年、オクラホマ州で58歳のサミュエル・ドスが死亡した。死の直前まで激しい胃痛で入院していたのだが、回復したので妻のナニーと共に家に帰宅したのである。妻は退院祝いに夫の好きなプルーン・シチューを鍋いっぱいに作った。夫サミュエルが死亡したのは翌日のことである。
 担当の医師は「たしかに彼の病状は改善していた。この急変ぶりは納得がいかない。検死解剖が必要だ」とナニーに告げた。ナニーは「もちろんですわ」とただちに同意した。
 果たしてサミュエルの胃からは12人分の致死量にあたる砒素が検出された。
 刑事から夫の毒殺容疑がかけられていることを聞いてナニーは、
「わたしの良心は健全そのものです」
 と屈託なく言い返した。
 49歳のナニーはふっくらして、まだ充分に色香の残る女だった。刑事たちにまで媚態ともとれるような艶かしい応答をし、あけすけなことまでしゃべった。
 しかし刑事が「リチャード・モートンという男を知っていますか」と訊き、ナニーが「聞いたこともない名前です」と答えたことから、彼女の証言は崩壊しはじめた。モートンは彼女の前夫で、死亡時に1500ドルの保険金を彼女は受け取っていたのである。
 ナニーはいたずらがばれた少女のように含み笑いながら、
「あら、わたしったらホントのこと隠してたみたい。たしかにわたし、この方と結婚しておりましたわ」と言った。
 さらに調査をすすめ、警察はサミュエルとモートンの前にも、彼女が3回結婚していたことを知った。しかも5人の夫のうち、4人までが不審死をとげている。刑事たちはここに至ってようやく、自分たちの相手が大量殺人犯であることに気づいた。
 ナニーのまわりで過去、「胃痛」および「食中毒」で死んだ者は4人の夫をはじめ、3番目の夫の孫、4番目の夫の甥、ナニーの母親と二人の姉など。警察は最初の夫が存命中であることを突き止め、彼から当時の事情を聴取した。
 彼とナニーが結婚したのは彼女が15歳のときだが、この結婚は失敗だった。なぜならナニーはとにかく移り気で、年中ほかの男に熱をあげ、駆け落ちを繰り返したからである。
 ある日、夫が家に帰ってみると子供ふたりが床の上に倒れて死にかけており、ナニーは愛人と駆け落ちしていた。
 これを機に彼はナニーと離婚した。


 ナニーはロマンティックな妄想に取り憑かれた女だったのだ。彼女の家には「ハーレクイン」や「トゥルー・ロマンス」などの薄っぺらい文庫本が山ほど転がっていた。
「わたしは生涯にわたって『夢の人』を探していました」とナニーは刑事に告白している。
 しかしレット・バトラーやヒースクリフのような男はいなかった。そうとわかれば彼女の熱はたちまち冷める。
 平凡な男との退屈な人生なんで御免だわ、と彼女は常に思っていた。彼女が命を奪った人数は11人(うち4人は子供)にのぼったが、彼女は終始それが悪いこととはぴんときていない様子であっけらかんとしていたという。
 ナニーは終身刑を宣告され、1965年に刑務所内で病死した。
 このケースは毒殺者にありがちな特徴――未成熟、空想、自己中心癖――のもっとも顕著な例だろう。

 


◆ブランヴィリエ公爵夫人

 

 彼女は幼名をマリー・マドレーヌ・ドープレと言い、1630年にパリ司法官の長女として生まれた。
 幼少の頃より美貌で利発であったが道徳的に情がうすく、浮気で、視野に狭いところがあった。また一種のニンフォマニア的な傾向があり、十代のころから弟たちと次々に肉体関係を持ったという。
 この不道徳な、栗色の髪に碧い眼の美しい少女は、21歳でブランヴィリエ公爵のもとに嫁いだ。
 この夫は賭け事好きで、膨大な妻の持参金をたちまち使い果たしてしまった。しかし彼が家に連れてきた遊び仲間のひとりであるゴーダン・ド・サント・クロワという美男の士官が、その後のブランヴィリエ夫人の人生を大きく左右することとなる。
 ゴーダンと夫人はただちに色よい仲となり、社交界に大っぴらにふたりで顔を出すまでになった。夫の方では自分の色事に忙しかったため気にも止めなかったようだが、夫人の父親は娘の乱行に目をつぶってやる気はなかった。彼は司法官である自分の立場を利用し、目ざわりな娘の愛人ゴーダンを牢獄に6週間ぶちこんでしまった。
 この獄中でゴーダンは有名な毒物学者と知り合い、指南を受けることになる。彼は内心、自分を獄に叩きこんだ夫人の父親に復讐してやろうと殺意を燃やしていたのである。
 ゴーダンにすっかりのぼせあがっていたブランヴィリエ夫人は父親を殺して遺産を手にすることに同意し、彼が出獄後はふたりで毒薬の実験にふけった。
 しかし本番の前にはやはり練習しておかなければならない。ある日夫人はお菓子や果物の籠を持って、パリの慈善病院を訪れ、患者たちにそれを配った。また夫人の家の小間使いも「喉にいいわよ」として毒入りの黒すぐりシロップを与えられ、これがもとで廃人となっている。夫人の目的は死体から毒が検出されるか否か、ということであったがこれは長いこと露見せず、夫人は「信心と慈善の鑑」と評された。


 こうして実験結果に自信を抱いた夫人は、父親に毒を盛りはじめた。父親は原因不明の病気となり、八ヶ月間苦しみぬきながら死んだ。病床には献身的な娘が付きっきりで、その最期をみとった。
 口うるさい父親がいなくなると彼女はよりいっそう放埓になった。
 夫の従兄弟との間に子をもうけ、子供の家庭教師とねんごろになり、あいかわらず関係をつづけていたゴーダンとの間には二人の子供ができた。財産はお洒落と火遊びのために湯水のごとく使われ、莫大だったはずの遺産も底をついてきた。
 そうなると遺産を独占するため、邪魔になってくるのは弟たちである。ゴーダンは5万5千リーヴルの謝礼で、この計画に手を貸そうと申し出た。
 ゴーダンの助手が毒を盛り、弟たちは次々に死んだ。
 もはや毒殺自体に性的興奮をともなう快感をおぼえはじめていた夫人は、さらに実妹と義妹を殺害し、さらに昔の恋人にまで毒を盛った。しまいにはゴーダンと男色関係にあるのではないかと疑って、夫までも殺そうとした。
 夫人はどうやら夫が死ねばゴーダンと再婚するつもりだったらしい。しかしゴーダンには夫人と結婚する気など毛頭なかった。彼は死にかけた夫にこっそり解毒剤を与え、ながらえさせた。哀れな夫は寝たきりのまま死ぬにも
死ねず、余生を送るしかなかった。
 ゴーダンにとっては夫人はもう金蔓でしかなかったのである。ゴーダンもその助手も、彼女の秘密の私信を種に、何度か彼女を脅迫しては金をまきあげている。
 夫人も次第にそれを悟りはじめ、ふたりの仲は険悪なものとなっていった。お互いがお互いの命運を握っている。とすればいつ相手に毒殺されてもおかしくない状況である。肉体関係をつづけながらも二人は複雑な心理戦を闘わせるようになった。


 そんなおり、ゴーダンが毒物実験の最中、事故死した(病死という説もある)。
 彼には相続者がなかったので財産はすべて国預かりで警察が封印することになったが、その際押収された小箱が問題であった。ゴーダンが死んだと聞かされた夫人は真っ先に「あたしの小箱はどうなった?」と叫んだというが、まさにその小箱である。
 果たして警察が開けた小箱には
ブランヴィリエ公爵夫人がゴーダンに当てた恋文と、毒殺を命ずる私信と、砒素やアンチモンや阿片がどっさり出てきたのである。
 夫人はただちに修道院へ逃げこんだ。
 修道院内は治外法権で手が出せない。しかし警察隊長がみずから僧侶に扮し、色仕掛けで夫人をだまして逢引の約束をし、まんまと彼女を外へおびき出すことに成功した。彼女は捕縛され、ひったてられた。
 彼女の日記には過去の毒殺が細大もらさず書きつけられていた。また少女時代の近親相姦、堕胎、鶏姦など、当時のカトリック倫理では、どのひとつをとっても死刑に値する淫蕩な体験までもが記されていた。
 獄中で夫人は看守を誘惑しようとあらゆる試みをしたが、無駄と知り、ガラスの破片やピンを飲みこんで自殺をはかった。体内に棒を突っ込んだことさえあったという。
 裁判中も彼女は改悛の念のかけらも見せず、証人たちをせせら笑った。
 昔の恋人のひとりが何とかして彼女から後悔の言葉をひきだそうと涙ながらにかきくどいたが、夫人は
「あなたったら泣いてるの! 男のくせに意気地のない!」
 と鼻であしらっただけだった。
 ついに彼女は「火刑法廷」にかけられ、そこで拷問を受けた。
 彼女が受けたのは「水拷問の刑」で、仰向けに寝かされ、口に革の漏斗を突っ込まれ、その上から息もつかせず大量の水を注ぎこみつづけられる、といったものである。この拷問についには彼女も屈服し、告白をせざるを得なかった。
 告白後、彼女は群集の前に引き出され、野次と罵倒を浴びながらギロチンで首を落とされた。
 死体は火に投げこまれ、灰は風に散らされた。


 ちなみにディクスン・カーがこのブランヴィリエ公爵夫人をテーマに、『火刑法廷』というミステリを書いている。一読をおすすめしたい。

 


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