LYNCH LAW ―リンチ殺人―

リンチとは本来、法の手を借りぬ私的制裁のことを指した。
だが昨今は、ただ多勢で無勢をいたぶる暴力を指すことの方が多いようだ。
人が多勢での拳を己の力と過信するさまは愚かしいが、
それが殺人に至るとなれば、そのものたちは最早「愚者」と呼ばれるに値しない。
彼らは憎むべき、呪わしい怪物どもと成り果てる。

 

「御婦人たちよ、これから地獄めぐりをするのだ。
ドレスの裾をからげなさい――」

   ――アレン・ギンズバーグ『吠える』より――


 栃木リンチ殺人事件

 1999年12月、栃木県のある山林で男性の異様な遺体が発見された。
 解剖の結果、絞殺されていた。異様と言ったのは、遺体表皮の約80%強が重度(三度)の火傷で覆われていたことである。さらに陰毛は剃られ、陰茎の先端にまで重度の火傷は及んでいた。肝細胞は一部変質し、あきらかに循環器不全の症状を呈していたという。
 調査の結果、被害者は日産自動車栃木工場に勤めていたZさん(当時19歳)であることが判明する。
 彼がリンチを受け殺害されるまでの2ヶ月間に、Zさんの両親は16回も警察に「息子が犯罪に巻き込まれた可能性がある」と訴えていた。
 にも関わらずの、この結果であった。

 被害者にこれほどまでの凄惨なリンチをくわえたのは、被害者少年の中学時代の同級生3人である。
 なお主犯Aの父親は栃木県警所属の警部補であり、このことは長くマスコミからの批判を浴びた。
 黒木昭雄著『栃木リンチ殺人事件』では、主犯A、準主犯B、Cのことをこう書きあらわしている。「A=狡猾な小心者」、「B=甘やかされたお坊ちゃん」、「C=付和雷同タイプ」。なお主犯Aもややエキセントリックな母親と、祖母にべったり甘やかされて育ったようである。
 もともとはB、CともにAに搾取される側であり、背後にヤクザがいることを匂わせるAに逆らえず言うなりに消費者金融で金を借りて渡していたのだ。しかしCが同じ職場で同級生のZさんを「身代わりのいけにえ」に差し出したことで、彼ら3人は一瞬にして共犯者となった。
 ちなみにCがZさんを選んだ理由は、ただ
「まじめそうで、おとなしかったから……」
 だけだという。
 1999年9月、Cの呼び出しに応じたZさんは「ヤクザの車にぶつけてしまい、修理代を要求された。金を貸してくれ」というCの嘘を信じ、預金をおろして彼に渡した。死後、Zさんの友人が口を揃えて証言したところによると、
「人に頼まれるといやとは言えないお人よし」
「自分よりいつも他人優先し、金にまったく執着のない、虫一匹殺せない男だった」
 そうだ。Zさんは同僚Cの窮状をほうっておけなかったのだろう。
 主犯Aは一目でZさんの資質を見抜き「いいカモ」、「いい金づる」であると判断した。そしてZさんはこれから、2ヶ月半にもわたって彼らに連れまわされることとなるのである。主犯Aは会ったその日のうちに「俺は美容師だ」などと言ってZさんの髪をめちゃくちゃに切り、しまいには3人がかりで剃りあげてしまっている。

 A、BはまずZさんにサラ金めぐりをさせ、それぞれの店で計30万を手に入れた。彼らはその金で風俗へ行き、車で待っていたZさんのもとへ戻ると
「シートに煙草の焼けこげがついた。弁償しろ、50万払え」
「車のドアをぶつけただろう、15万だ」
「俺のサングラスを壊した罪で100万払え」
 などと口々に因縁をつけた。彼らはZさんにサラ金めぐりをさせるだけでなく、Zさんの友達全員から金を借りることをも強要した。もちろん「Zさんが借りる」という名目で、である。彼らはZさんを利用したこの一連の金集めを「ご融資」と呼んでいたという。
 足りないぶんはZさんに命じて電話させ、Zさんの両親から振り込ませた。
 なおこうして手に入れた728万3000円もの金を、彼らは2ヶ月半のうちにすべて遊興費で使ってしまっている。主な使途は飲食代、パチンコ、ソープ、ファッションヘルス、ピンクサロン、パブ、ブランドものの洋服、北海道への旅費などである。

 9月末、主犯らは無理やりZさんに酒を飲ませ、昏倒させたあと「起こしてやる」と言い、熱湯シャワーを浴びせかけた。Zさんは飛び起き、叫びながら避けようとした。主犯らはこの反応を面白がり、TV番組の企画にちなんで「熱湯コマーシャル」と命名。このリンチ方法をZさんが殺害されるまでに、以後34回も行なった。
 北九州監禁事件の松永が「通電リンチ」を気にいって主に使ったように、リンチの常習者は同じ手口を繰り返し使う傾向にある。もちろんその手法が気にいっているから、使い慣れているからというのもあるだろうが、一番の理由はおそらく
「おい、アレやるぞ」
 の一言で被害者をすくみあがらせることができるからであろう。支配においてもっとも有効なのは暴力よりも、むしろ恐怖だからである。
 10月になってリンチはさらに凄惨さを増す。
 B、Cが噴霧型の殺虫剤に火をつけ、立ちのぼる火炎でZさんをリンチすることを思いついたからだ。逃げるZさんをB、Cは執拗に追いかけまわし、腹や手に火炎を浴びせた。火炎はZさんの性器にも目がけて噴射され、Zさんは身をよじって逃げたが性器先端と太腿に大火傷を負った。その後部屋の隅に追い詰められたZさんは背中一面にこの火炎を何分にもわたって浴びた。
 肉は腫れあがり、皮がべろりと剥け、異臭が漂う。
 そのうえ夜になってAが加わると、この大火傷を負った皮膚へ、3人はさらに熱湯シャワーを浴びせかけているのである。このことについてCは
「泣いて逃げるのが面白くてやった。どうせ火傷するのはZだし、自分が熱いわけじゃないから気にしなかった」
 と述べている。
 11月には従犯D(当時16歳)も加わった。
 治療されることのないZさんのやけどは悪化する一方であり、はちきれんばかりに水疱がふくらみ、じゅくじゅくと黄色い汁を垂れ流していた。彼らはその皮膚めがけて毎日熱湯シャワーを浴びせた。皮膚にこれほど広範囲に重度の火傷を負いながら、Zさんが2ヶ月半生きながらえたのはやはり若く、体力があったからだろう。しかしそれはかえって不幸なことであったかもしれない。事態の深刻さに気付かぬ犯人たちのリンチは面白半分にエスカレートする一方だったからだ。
 彼らはZさんを精神的にいじめ、いたぶり、椅子や拳で殴り、それに飽きると全裸にして熱湯を浴びせた。
 なお、この頃銀行の防犯カメラに、顔中にひどい火傷を負ったZさんが、犯人らに取り囲まれながら金をおろしている姿が映る。だが栃木県石橋署の署員はいつものとおり、両親の訴えをまともに取りあわず、
「もしかすると、刑事事件になるかもしれんなあ」
 と電話越しに言っただけだった。

 11月末、数十分にわたってZさんに熱湯を浴びせたのち、AとBはZさんに2人の精液入りのジュースを飲むことを強要する。Zさんはこの命令を受け入れざるを得なかった。また、Dに対する口淫を命じられ、Cの精液を混ぜた小便を飲むことも命じられた。
 これは犯人らが一線を越え、Zさんを「モノ」扱いしはじめるようになった瞬間とも言える。最初のうちZさんは「金づる」であり「いいカモ」だった。それが熱湯攻撃を境に「奴隷」に代わり、いまや性的な使役を強いることもできる「モノ」となった。モノに性別はないからである。
 彼らはその後もZさんに熱湯を浴びせ、消費者金融のCMを真似て歌い踊らせたあと、倒れたZさんを午前3時まで蹴りつづけた。
 Zさんの陰毛が剃り落とされたのはその2日後である。Zさんに口淫させ、熱湯を浴びせ、歌い踊らせたあとのことであった。彼らは焼けただれてべろべろに皮の剥がれたZさんを靴べらが折れるまで全身殴打し、睾丸を蹴りあげた。ポットの熱湯がなくなると「また沸かした。朝までやった」という。
 これらのリンチがAがいないときに行なわれると、Aは帰宅後「再現してみろ」と言い、もう一度やらせた。BとCは言われるがままにふたたびZさんに熱湯を浴びせた。Zさんが動けなくなると、頭から浴びせかけた。
 Cいわく「Zの皮膚はぜんぜん治療してなかったから、皮がべろべろで、汁みたいなのが出て、気持ち悪かった」。
 そもそもZさんを身代わりのいけにえとして差し出した、元同級生であり同僚の発言がこれである。

 11月30日、警察の決定的な失態となる電話が鳴る。
 Zさん両親が警察署に訴え出ているときにZさん父の携帯電話が鳴り、それに出た署員が「石橋だ、石橋の警察だ」と不用意に発言。もちろん電話はすぐに切れたが、署員は「あれ、切れちゃったよ」ときょとんとしていたという。
 この電話により警察が動いていることを知った犯人らは、Zさんの殺害を決意する。
 12月2日、犯人らは銀行に振り込まれていたZさんの最後の給与を引き出したのち、山林へ向かう。穴はAの命令でBとCが掘った。その様を見ながらZさんは車中から
「生きたまま埋めるのかな、残酷だな」
 と呟いた。この期に及んでも、AはZさんに消費者金融のCMソングを歌わせてなぶっている。そして、Zさんを車から降ろした。
「チャッチャとやってこい」
 犯人らはZさんに服を脱ぐよう命じ、「くせえから服は袋に入れろ」と言った。Zさんの手当てされることのない皮膚はすでに壊死し、全身から膿臭と腐敗臭が漂っていたのである。その後、犯人らはネクタイでZさんを絞殺。掘った穴に入れてセメントを流し、ベニヤ板を敷いて土をかぶせた。
 この夜、犯人らは『追悼花火大会』を行ない、
「15年(時効期間)を逃げきろう!」
 と祝杯をあげた。主犯Aにいたっては、そのあとガールフレンドとともに両親と会食している。

 だが12月4日、従犯Dが自首。彼は早々に少年院送致が決まった。
 事件発覚後、Zさんの訴えを一貫してしりぞけてきた主犯Bの母は、Zさん宅に電話をかけてきて「うちの子が逮捕されちゃったぁ〜」と泣きわめいた。Zさん母は激高し、
「なにが『うちの子が』だ! 生きてるだけましだろう。うちの息子はあんたのその子供に殺されたんじゃないか!」
 と我慢できず怒鳴り返したという。
 なおこのB母は裁判でも「主犯Aは執念深く息子を誘い、息子は逃れきれなかった。でもあの子は熱湯もかけてないし、一緒にいただけです。私たちは息子を信じているし、かわいいんです」などと証言している。
 そして犯人ら3人がZさんから巻きあげた728万3000円について、犯人側は一切の弁済をしていない。Zさん両親が苦労してなんとか全額返済したのである。

 地裁で公判が始まったのは2000年3月のことだが、全国での耳目が集まったのは2000年4月になってからのことだ。
 産経新聞栃木版の記事に目をつけた「フォーカス」記者が追跡し、報道したことによってであった。
 マスコミの攻撃は主に栃木県警と、同じく事件隠蔽に走った日産自動車に向かった。とくに警察に対する糾弾は厳しく、16回にもわたる訴えを無視し続けたこと、「石橋警察だ」と無造作に名乗り、被害者殺害のきっかけを作ったというのに何ら恥じることないその姿勢は連日批判された。
 そして主犯Aの父親が栃木県警に所属する警部補であることも、もちろん注目された。
 以下の石橋署副署長の言葉は、当時何度も引用されたものである。
「お父さんお母さん。あなたがZくんをかわいいと思うように、お巡りさんも自分の子供はかわいいんですよ」。

 その他、地元警察は「石橋警察だ」と名乗った署員が、Zさんの母が電話に向かって「うちに金はない、おまえみたいな馬鹿は死んじまえ、デレスケ野郎」などと罵倒したため電話が切れたのだ、と稚拙な虚偽証言をし、一審判決後までそれを撤回しないという無様な対応ぶりをも見せている。
 だがマスコミ側にもいっさいの非がないとは言えない。
 マスコミは最初のうちZさんを「暴走族の仲間」と報道し、不良同士の内輪もめであるような印象操作を行なっている。これは桶川ストーカー殺人や、綾瀬コンクリート事件でも行なわれた、警察の発表を鵜呑みにしたことによるマスコミの悪質な風評被害である。
 日本のマスコミには「記者クラブ」があり横並びの報道しかできないとはよく言われていることだが、それがなんの言い訳になるというのか、はなはだ疑問であると言わざるを得ない。

 2001年、AならびにB、無期懲役が確定。Cは5〜10年の不定期刑となった。
 公判中、Aはあくびをし、証言台においては涙も流さず大声で泣き真似をした上、「彼女と一緒に、Zくんの分まで頑張って生きたいです」などと発言した。
 なお2002年、栃木県警を相手取った訴訟の判決を見ることなく、Zさん母は脳出血で亡くなった。
 2007年、高裁は「警察の怠慢とZさんの死に因果関係は認めない」として一審判決を変更し、わずか県に1100万円の支払いを命じただけにとどめた。





 クー・クラックス・クラン(K・K・K)

 

 この団体は、アメリカ南北戦争直後の1866年に発足した。南部軍の敗北により黒人奴隷の解放が認められ、市民権が与えられたことを不満に思う南部連盟の旧軍人の一部が、白人優位の社会をもう一度取り戻すべく組織した秘密結社、それがこの悪名高きクー・クラックス・クラン―― 一般にはK・K・Kの俗称で知られる――である。
 この奇妙な「クー・クラックス・クラン」という名の由来にはいくつか説があり、一説には「旧式のライフルに弾をこめるときに起こる音の、擬声語」とも言うし、また「ギリシア語の kuklos(仲間)およびケルト語の clan(氏族)の転用」という説もあるが、はっきりしたところはわかっていない。

 初期のクランは無益な残虐行為を犯す気はさらさらなく、ただ「黒んぼどもの、無礼な、身分をわきまえない行ない」をこらしめてやることを目的としていたようだ。
 当時、奴隷身分から解放されたばかりの黒人たちはほとんどが文盲で、無邪気なほど迷信深かったので、彼らをだまして震えあがらせるのは簡単だった。目と口にのみ穴のあいた白頭巾、松明をかかげ異様な装束に身をつつんだ行列を見た黒人たちは、てっきり幽霊だと思い、怯えて夜の外出をいやがった。
 しかし南部の白人たちの多くが、いつか黒人たちに報復されるのではないかという怖れを拭いきれなかった。彼らは身体能力で勝る黒人に殴り倒されることを怖れ、美しい白人女に黒人男が憧憬を抱いていると思いこみ、妻や娘を犯される悪夢にうなされた。
 疑心暗鬼が肥大するにつれ、クランの活動は、有色人種に対する残忍なリンチや放火、殺人、略奪などに発展するようになる。彼らは白装束で街を巡察し、彼らの定めた時間以後に外出する黒人を鞭でひっぱたき、投票権を使用した黒人や、黒人に同情的な白人を脅迫し、はなはだしいときは吊るした。
 が、南北戦争後数年たつと、連邦政府は頑固な南部指導者に折れて妥協しはじめるようになった。選挙法は改正され、ふたたび黒人の手から参政権は奪われた。ふたたび白人は支配権をとり戻し、そうなればもうクランの活動は必要のないものとなった。
 1871年、クランは解散した――いったんは。

 1901年、当時20歳のメソディスト教会の牧師、ビル・シモンズは夢で「クー・クラックス・クランを再建せよ」という神の声を聞いた。彼はもともと絶対的な白人優越思想の持ち主で、他人種だけでなく他教徒にも厳しい男だった。
 シモンズは狂信的な夢想家だったが、幸か不幸か煽動と活動家としての資質にも恵まれていたようだ。彼の呼びかけにより集まった34人の同志によって、クー・クラックス・クランは復活した。
 ただし、新クランは以前のそれとは目的を微妙に異にしていた。旧クランの「こらしめる」「躾しなおす」などというなまやさしいやり方は論外で、シモンズたちの目的はより狂熱的な民族主義、全体主義的イデオロギーのための組織だったのである。彼らは「100%・アメリカニズム」の徹底を目指し、すべての他人種の排斥を唱えたのだった。
 第一次大戦後の恐慌と社会不安のさなか、アメリカ中産階級の人々はこの思想に飛びついた。クランはたった数年のうちに、おびただしい数の支持者を獲得することになる。

 1922年、テキサスだけで500以上の暴行傷害事件があった。1923年にはオクラホマで2300件ものリンチ事件が起こった。クランは反抗的な黒人や、彼らの同調者の家に「立ち退け」と脅迫状を送り、もし立ち退かなかった場合にはリンチを加えた。
 有名な「タール&フェザー」というリンチ法は、全身に溶けたタールを塗り、その上を羽毛でくるんで担ぎまわるものである。家に火をつけるなどは日常茶飯事で、その他、主な手口は酸を用いて体に焼印を押す、手足を切断する、古タイヤを首にかけてタイヤに火をつける、線路に生きたまま縛り付け列車の通過によって体を切断させる、首に縄をかけて木の枝に吊るす(ビリー・ホリデイの名曲『奇妙な果実』は、吊るされて枝で揺れる黒人の死体を果実に模した唄である)などだ。

 だがやがて世論や新聞が、クランのあまりの暴虐行為を非難しはじめる。それに加えてクラン内部での幹部間の抗争があり、1923年にはシモンズが陰謀により最高指導者の立場を追われ、100万ドル近い資本の横領などが暴かれるにいたって、クランは国民の支持を完全に失った。
 だが勿論それでクランの息の根が止まったわけではない。第二次大戦後、世論の反対やFBIの摘発によって弱体化しつつはあるものの、クランは健在であり、今でもアラバマやジョージア、ミシシッピなどでは定期的に黒人に対するリンチ事件が起こっている。
 1964年、ミシシッピで、3人の労働者がクランによる集団リンチで殺害された。逮捕された白人容疑者は19人だったが、ただちに「証拠不十分」として釈放になった。3年後、18人が再審の場に引きずり出されたが、そのうち3人は民間のリンチにあって射殺されダムに埋められた。残る15人の被告のうち7人が有罪となったが、いずれも保釈金を払って釈放され、8人は無罪となって社会に戻された。
 クー・クラックス・クランとその支持者は21世紀となった今も、絶えてはいない。

 


 トルーバー&フィリポヴィッツ&ワルナー

 

 10代の少年たちが無軌道なのはどの国でも同じである。これは1974年、オーストリアでの事件だ。
 1974年6月28日、オーストリアはウイーンで、50代の男性が死体となって発見された。顔は血まみれで、歯と肋骨が数本折れており、直接の死因は脾臓破裂。頭部には深い裂傷があった。警察は「殴り倒されたのち、よってたかって蹴りまくられた」とみて、ここ2週間、ウイーン市内で暴れまわっている少年3人組の最新の犯行であろうと目星をつけた。
 前2件の犯行は、70代の老婦人を殴り、気絶するまで蹴りつづけ、金を奪ったのち衣服をめちゃめちゃに破り裂いたものと、年配の男性を殴り倒して金と時計を奪ったというものである。そして3件目にして殺人。あきらかに犯行がエスカレートしており、警察は警戒を強めた。
 7月4日。少年3人組は20歳の女性を襲い、茂みに引きずりこんだ。「服を脱げ」という命令を彼女が拒んだので、ひとりがナイフを出して彼女の耳をそぎ、耳殻の半分がちぎれかけた。
 彼女は怯え、衣服を脱いだ。3人は彼女を輪姦したあと、「上になって動け」と命じた。彼女はこの屈辱を受け入れざるを得なかった。強姦ののち、彼らは裸のままの彼女をボールのように蹴りまくった。悲鳴を聞きつけて警官が駆けつけると、少年たちはさっさと逃走した。
 被害者の女性は「3人ともちゃんとした服装で、不良という感じじゃありませんでした。どっちかというと『いい子』『優等生』タイプです。長髪で、子供っぽく見えました」と証言した。
 それからも「子供っぽい、いい子」たちは年配者に対する強盗を繰り返した。必ず相手を殴り倒し、3人で蹴りつける。しかし幸い重傷者は出なかった。
 7月13日、ユーゴスラビア人の労働者がナイフで刺されて殺されているのが発見された。全身血まみれで、鼻は顔からちぎれかけており、27箇所も刺されていた。金が目的というより、ただの純粋ななぶり殺しであった。
 8月7日、若い女性が公園で茂みに引きずりこまれ、輪姦された。少年たちは彼女をナイフで脅し、性交が済んだのちも約1時間にわたっていたぶった。発見されたときの彼女のあまりの有様に、警察は「もっと人気のないところだったら、間違いなく彼女は殺されていただろう」と断言したという。
 3人組の犯行は殺人2件、婦女暴行2件、強盗22件を数えた。
 8月30日、68歳の女性が裏通りを歩いていると、向こうからやってきた三人の少年のひとりが、ものも言わず彼女の頭を殴った。
 怒った彼女はハンドバッグを少年の顔に叩きつけ、殴り倒すと、喉笛を蹴りあげた。あとのふたりが殴りかかってくると、彼女はひとりの股間を膝で蹴りつけ、もうひとりの顔を爪でかきむしった。反撃を予想していなかった少年たちは意外にもろく、喉を蹴られて動けない少年を残してふたりは逃げ去った。
 倒れている少年も起きあがりそうだったので、老婦人は少年の顔面をもう一度蹴っておとなしくさせた。
 駆けつけた警官が「例の3人組」の首謀者を捕らえたことに気づき、無線で応援を呼んだため、逃げたふたりもあっけなく捕まった。
 首謀者は17歳の少年でマンフレッド・トルーバー。ほかふたりは17歳のピーター・フィリポヴィッツと、19歳のワルター・ワルナーだった。しかしオーストリアの少年法に基づき、彼らはほんの数年服役しただけですぐ野に放たれたらしい。

 


 サーモンド&ホームズ制裁事件

 

 なまぬるい法に業を煮やした「正義の市民たち」の手によるリンチというものも紹介しよう。

 トマス・サーモンドとジョン・ホームズは1933年11月、大手デパートのオーナーの御曹司を誘拐してひとやま当てることを計画し、11月9日にそれを実行した。ただし、人質を生かしておく気は最初からさらさらなかった。
 手口は、御曹司――ブルック・ハートを車でさらい、殴打して気絶させる。さらにその体をコンクリートの塊に針金でぐるぐるに縛りつけ、海に投げ込むというものだ。やがてハートが意識をとりもどし、悲鳴をあげはじめたので、ふたりは彼を「黙らせる」ために銃で撃ちまくった。銃声は哀れな被害者が完全に波間に沈んでしまうまで続いた。
 サーモンドはその日のうちに、ハートの父親に電話した。
「おまえの息子を誘拐した。身代金4万ドルを用意しろ。警察に連絡したら息子の命はないと思え」。
 しかし父親は当然、警察に連絡した。ふたたび犯人から電話があったのは6日後。逆探知により居場所が割れ、サーモンドとホームズは拍子抜けするほど簡単に捕縛された。
 逮捕から3日後、ブルック・ハートの無残な死体が海から引きあげられた。
 卑劣な犯行に怒り狂ったサンノゼの市民たちは、大挙して刑務所をとりかこんだ。約1万5千もの大群集である。警察はホースでの放水と催涙ガスで市民を追い払おうとしたが、人数と熱狂度において差は圧倒的であった。刑務所の柵がなぎ倒され、人々が所内になだれこんだ。
 サーモンドの独房はもぬけのからだった。が、群集のひとりが上を見あげると、サーモンドが水道管にぶら下がっているのが見えた。彼はひきずり下ろされ、引き据えられた。
 ホームズは狂ったように群集と戦い、抵抗した。彼が表に蹴りだされたときには満身創痍で、眼球が眼窩から垂れ下がっていた。
 ふたりは公園で市民たちのリンチにかけられ、なぶり殺された。当時の州知事はこの事件に対し、
「リンチに加わった市民は国家に最良の教訓を与えた。わたしは彼らを罰するつもりはない。いや、起訴中の者が中にいたとしたら、ぜひ名乗りでてほしい。わたしの権限において、ただちに起訴を取り消そう」
 とまで公言した。が、それに応えて名乗り出た「正義の市民」はただひとりとしてなかったという。

 


 サン・ベルナルディノ事件

 

 1966年、カリフォルニアのサン・ベルナルディノで、5人の若者がウォッカをラッパ飲みしながら、あてどもなくドライブしていると、バスを待っている10代のカップルを発見した。
「バスはまだなかなか来ないぜ、乗ってけよ」
 そう誘うと、若いカップルは疑う様子もなくそれを受けた。
 しかし車は彼らの家の方角ではなく、人気のない町はずれへ向かっていったのである。5人はそこで車をとめると、カップルの女の子に襲いかかり、服をひきちぎって裸にした。恋人の男の子は押さえつけられていたが、手をふりほどいて殴りかかってきたので5人は怒り狂い、
「ほんとのレイプってのがどんなもんか、おまえらに教えこんでやる」と言った。
 彼らは男の子に「この女をどう思ってる」と訊き、「将来結婚したいと思っている」という答えを引き出すと、
「じゃあ、女がどうなるかちゃんと見てろ」
 と言い、その「将来結婚したいと思っている」少女の体に、3人同時に押し入った。口、肛門、膣を同時に犯され、泣きわめく彼女の姿から、少年は目を背けることを許されなかった。
 輪姦が済むと、ふたりはなぶり殺しにされた。死体が発見されたとき、警察はそのあまりのむごたらしい有様に動揺し、検死結果を待つまでもなく捜査をはじめた。
 不眠不休の捜査は何ヶ月にも及び、ようやく5人の若者が逮捕された。
 彼らの殺害の動機は金でもなく、快楽のためですらなく、ただ「退屈」の果ての凶行である。かつてはローマ皇帝にしか成し得なかったような無動機殺人を、いまや中流の怠惰な若者たちが平気で犯しているというのが現状だ。

 


 名古屋アベック殺人事件

 

 この事件は1988年、名古屋で起こった。1989年の「綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人」と双璧を成す、少年犯罪史上もっとも残虐な事件として今も知られている。

 事件の主犯の少年A(当時19歳6ヶ月)は中学を卒業後、鉄工所の作業員や、土工などで短期間勤めたが、その後暴力団員と懇意になり、付かず離れずの関係となる。事件当時は鳶職をしており、共犯の少女E子と同棲していた。
 彼らは名古屋市中区のTV塔付近にある噴水にたむろしていたので、「噴水族」「TV塔族」などと呼ばれていたようだ。少年Aは昼間は鳶で働き、夜はE子を連れてふらふらと噴水に集まり、仲間と合流するという毎日を送っていた。
 事件当夜、そこに集まったのは主犯のA、B(17歳)、C(18歳)、D子(17歳)、E子(17歳)に、暴力団の使い走りをしていた高志健一(20歳)の6人である。
 噴水まわりでシンナーを吸いながら何ということもなく「金が欲しいな」という話になり、ひどく短絡的に「じゃあ盗ろう」という結論が出た。車で公園や埠頭などを流し、いちゃついているアベックを脅かして金を巻き上げよう、と誰からともなく言い出し、全員がそれに賛同する。
 1度目の襲撃は失敗するものの2度目は成功し、それに味をしめた彼らは「もう1回やろう」と言ってまた車を出した。そして襲われたのが、本事件被害者となるYさん(19歳・理容師)とZ子さん(20歳・美容師)である。2人はお互い忙しいながらも、たまの休日や少し時間のあいたときなどにデートし、「将来ふたりでお店をもとう」と誓ってせっせと貯金していたという。Z子さんは敬愛の意をこめてYさんを「お兄ちゃん」と呼び、両親公認の非常に仲のいい恋人同士だったようだ。

 1988年2月23日、午前4時半。Aたちは2台の車に分乗し、Yさんの車に狙いをつけると、バックして逃げられないよう前後に車をぴたりと止めた。そしてウインドウを開け、「いちゃついてんじゃねえ」などと威嚇、挑発を繰り返した。
 Yさんは身の危険を感じ、車をぶつけてスペースを確保し、逃げようとした。だがそれが火に油をそそぐ結果となった。
 犯行に使われた車のうち一台はAの車だが、どうやら新車だったらしい。加えてもう一台は暴力団員の「兄貴格」から借りた車だった。この大事な二台を損傷され、Aたちは逆上した。
 激昂した彼らは最早金を奪うことは二の次となり、Yさんの車のフロントガラスを鉄パイプで割り、YさんとZ子さんを引きずり出した。
「この車、どうしてくれるんだ。ふざけやがって」
 怒鳴りながら鉄パイプや木刀でYさんを殴るうち、怒りはますます高まってきた。典型的な集団ヒステリーである。Yさんは抵抗したがやがて完全に叩きのめされた。それでもおさまらず、少年3人はZ子さんを押さえつけると、輪姦すると宣言した。ラリった少女ふたりは「やっちゃえやっちゃえ」と手を叩いたという。
 少年はZ子さんを輪姦し、殴打した。殴打があまりに長くつづいたので、Z子さんの顔がみるみる変形していくのを目の当たりにしたYさんは、命の危険を感じ、
「お願いです。彼女だけは助けてやって下さい」
 と泣いて懇願したという。しかし少年たちはYさんの腹を蹴りあげ、黙らせた。Z子さんへの暴行には少女2人も荷担し、体に煙草の火を押しつけたりライターで髪を焼くなどしたようだ。
 輪姦が終わり、少年たちも少し落ち着きを取り戻した。金を奪い、輪姦し、車は壊れている。発覚すればきっと逮捕されるだろうし、かといってこのまま2人を帰すわけにもいかない。仕方なく少年たちは瀕死のYさんと放心状態のZ子さんを車に乗せ、あちこち連れまわしながら、「これからどうしよう」と車内で相談した。
「車の修理代、どうしょう」
「俺、金ないよ。どうやって弁償すんの」
 話題は主に2人のことではなく、車のことだったという。車を借りた暴力団員に連絡をとろうと事務所に電話したが、なかなか連絡がつかない。やっと電話が通じたと思ったら、「面倒はてめえらで始末しろ」と投げだされてしまった。
 結局、なにひとつ具体案は浮かばない。持て余したAはついに、
「男はもうだいぶ怪我もしてるし、やっちまおう。女は売り飛ばせばいいや。その金で車を修理しよう、それでいいだろ」
 と言い出した。反対する者はなかった。
 彼らはYさんを車からおろし、両手をロープで縛ると、Yさんが哀願するにもかかわらず、Aがロープを二重にその首に巻きつけて首の後ろで交差させ、一方の端をBにわたした。そして、ロープの両端をそれぞれ2人ずつで持ち、綱引きの要領で両方から力一杯ひっぱって絞殺した。
 Z子さんはその間ずっと「ここどこですか、お兄ちゃんはどこに行ったんですか」と言いつづけていたという。
 Yさんの死体は車のトランクに積み込まれた。Z子さんは目隠しされていたのでそれを見ることはできなかったが、なんとなく全てを察知したらしく、車内ではずっとすすり泣いていた。
 24日、少年たちはZ子さんを連れ、BとCが同居しているアパートに泊まった。そこでまたZ子さんは輪姦されている。
 6人の少年たちはふたたび「これからどうしよう」と相談した。売り飛ばすことにしたはいいが、暴力団員に見放されてしまった今となってはもうあてがない。かっとなって犯行に及んだものの、ふと気がついたときには取り返しがつかない状況で、知恵も出てこなければ頼れる先もない。また、抑制する者もないからずるずると悪い方へ流れていくばかりである。
「女も殺そう」
 その結論にたどりつくまでに時間はかからなかった。
 25日深夜、少年たちはZ子さんを連れて三重県の森に車を走らせた。そこで少年らは交代で死体を埋めるための穴を掘り、Z子さんに「最後になにかして欲しいことはあるか」と訊いた。
「せめて、お兄ちゃんと一緒の穴に埋めて下さい。……最後にお兄ちゃんの顔をみせて」
 Yさんの死体から目隠しをはずし、顔を見せてやると、Z子さんは泣きながらいまだに死体の手首を縛ったままのロープを解いた。
 少年たちはZ子さんを穴の近くまで連れていくと、Yさんの殺害方法と同じく、ロープを首に巻きつけて両側から力まかせに引っぱりあった。
「綱引きだ」「この煙草、吸い終わるまでにやっちゃえよ」
 などと笑いながら殺した、というのは事件発覚当時、かなり有名になった話である。

 27日、目撃情報などから主犯が逮捕され、そのまま芋づる式に6人全員が捕まった。死体は自供どおり三重県山中から発見された。一審でAは「未成年だから死刑になるはずない」とうそぶいていたが、裁判長は「一片の情状酌量の余地もない」として求刑どおりの死刑を言い渡した。Bは無期懲役となり、高志被告は懲役17年。C以下3人はそれぞれ5年から10年の判決となり、AとBのみが控訴。
 その後、名古屋高裁は一審判決を破棄し、Aを無期懲役、Bを懲役13年とした。

 


 宇都宮病院リンチ殺人事件

 

 宇都宮病院が設立された1961年当時、ベッド数はわずか57床であった。それが23年後の1984年には920床まで増え、日本でも五指に入る大病院にまでなった。院長・石川文之進の年収は当時でも二億円を越えていたと言われている。
 「精神病院経営はもうかる」と俗に言われるが、それは経営者の良心によりけりだろう。だがそれにしても個人病院がここまで急激な成長を遂げるのは、それなりの裏がなくてはならない。この宇都宮病院が主に使っていた手口は次のようなものだ。

 1. 医師や看護者の数をできるだけ減らし、人件費をきりつめる。
 2. 患者を「作業療法」という名目で、徹底的に無償労働させる。
 3. 食事の質をぎりぎりまで落とし、基準給食費を横領する。
 4. 患者を薬漬けにする。
 5. 無用な検査を連日行なう(投薬や検査を行なう回数は医師の報酬に比例する)。
 6. 患者への差し入れ、小遣いの横領。
 7. 定床以上に患者を詰め込む。
 8. 入院させたら、症状にかかわらずなかなか退院させない。

 といったものである。病院の人件費の占有率は平均50〜70%であるが、当時の宇都宮病院ではわずか26%でしかなかったという。看護者の数を極端に減らし、また給与を値切りに値切った結果がこの数値だ。さぞかし利益率はべらぼうなものであったろうと推測される。
 当然これでは病院の運営は不可能である。そこで石川院長は、比較的症状のかるい患者を「看護人」として抜擢し、働かせることを思いついた。これなら有資格者に払う月給20余万が、たった1万5千円の手当で済む。バカ高い入院費を払わされながら、涙金で働かせられるのでは患者はたまったものではないが、さりとて反抗もできなかった。宇都宮病院では、看護者が患者に暴力をふるうことは日常茶飯事だったからである。
 無資格者である患者たちは、手があいていればなんでもやらせられた。注射、点滴、脳波検査、心電図検査、レントゲン撮影。院長からは「ノルマ、1日6人」と言われ、患者たちははやく退院したい一心でこれに従った。
 入院生活は最悪で、食事は小さなおにぎりとタクアンのみ。食事の時間が極端に短いため、食べている最中でも「薬を飲め」と並ばされるので、遅れて看護人に殴られるのが怖さに、食事を喉につまらせて窒息死した患者もいる。
 看護人は超過勤務と低賃金のストレスを患者に向け、すこしでも気に入らないことがあれば木刀で殴り、蹴りまわし、正座させて膝に重しを載せるなどの拷問を繰りかえした。怪我をしても手当ては一切しなかった。
 あまりに食事がひどいので、野良犬を殺して煮て食った患者さえいたという。元暴力団の患者もいたが、
「刑務所に入ったほうがマシだ。刑務所なら手紙を書けば外に届くし、面会もできる。風呂も入れるし手も洗える。でも、ここは……」
 と泣きを入れたほどだった。
 院長の患者に対する問診はひどいもので、男の患者には「童貞か?」「風俗(当時の俗称はトルコ)行ったことあるか?」で、女の患者に対しては「おまえ処女か?」と必ず訊く。
 そのあげくに「分裂かあ。分裂病なら3年入ってろ」で終わりである。これで3年の入院が確定するのだ。
 そして看護人には「いいか、患者になめられるな。反抗したら頭をぶち割ってもかまわない」と教えこんだ。完全なる医療の放棄である。事件はそんな状況の中、起こった。

 1983年4月、入院患者Aが食欲がなく、夕食を残したところ、看護人3人によってたかって殴る蹴るの暴行を受けた。最初は素手での暴行だったが、Aが抵抗したため看護人たちは激昂し、鉄パイプを持ち出してくると「野球のバットを振るようにして、反動をつけ」、肩や腰をかわるがわる殴った。
 Aが倒れると、また引き起こして殴った。Aは、
「痛え、もうやめてくれ、助けてくれよ」と泣き叫んだが、看護人の暴行はやまなかったし、周囲の患者たちから救いの手が差しのべられることもなかった。患者たちは彼から目をそむけ、食事を終えるといつものように薬をもらいに列をつくった。
 Aが力尽き、床に這ったので看護人たちは彼の体を踏みつけ、全体重を乗せて膝で打ったり、背中に飛び乗ったりしていたぶった。そのうちAは呻き声も出さなくなったので、看護人たちは興味を失い、その場を立ち去った。この暴行は30分以上に及んだらしい。
 その後、自分の病室のベッドに運ばれたAの容態が急変。呻き、苦悶しながら彼は嘔吐したが、吐遮物はほとんど血ばかりで、そのうち呻き声が小さくなり、やがて静かになったときにはもう絶命していたという。
 死因は外傷性のショック死。その晩、当直医だった院長は外出していたので、翌朝Aの死亡は確認され、遺体をひきとりにきた家族には「てんかん発作による衰弱死」という説明がなされた。

 1983年12月、入院患者Bが面会にきた知人に、
「こんなところにいたら病気がもっと悪くなる。殴られてばかりだし、正月も外泊させてもらえない。食事がひどい」
 と愚痴ったことを漏れ聞いた看護人3人(うち1人は、前の事件にも加担)が、「生意気だ」として彼を暴行した。
 最初は前回同様素手だったが、やがて興奮してくるとスチール製のパイプ椅子で殴ったり、一斗缶いっぱいの冷水を頭から浴びせたりした。
 いったんリンチはやんだが、Bの「反抗的な態度がなおらない」として、暴行が再開した。Bはその場に正座させられ、モップの柄で力いっぱい殴打された。Bはアルコール中毒患者で肝硬変がすすんでいたため、この暴行によって静脈瘤が破裂。翌朝の朝食後、急激に衰弱して死んだ。食道静脈瘤破裂による失血死であった。
 家族には「肝硬変による吐血で、失血死しました」と説明したが、遺体は内出血で赤黒い痣だらけであったという。

 この二件の「殺人」は、1984年3月14日、朝日新聞宇都宮支局の記者が特ダネとしてすっぱ抜いたことでようやく明るみに出た。
 判決は、二件において主犯とされた看護人が懲役4年、ほかに起訴された3人はそれぞれ1年半から3年の刑で、執行猶予が付いた。
 石川院長は「リンチ事件の責任あり」として一審で懲役1年。高裁では懲役8ヶ月とされ、いずれも執行猶予は付かなかった。しかし、2人の患者を虐待し死にいたらしめた刑罰としては、これが妥当なものであるかどうかはなはだ疑わしいと言わざるを得ない。

 


 連合赤軍総括リンチ事件

 

 70年安保をひかえ、急速に過激化しつつあった新左翼に刺激された日本共産党左派神奈川県委員会から、「思想問題も実践の中で解決していくべき」と強調する旧「警鐘」グループが委員会を解散させ、新しく「革命左派」として立ち上がった中に、このリンチ殺人の首謀者である永田洋子はいた。
 1969年9月、革命左派は外相の訪ソ訪米阻止のため、「反米愛国」の旗を掲げて羽田空港へ突入。当時の指導者であった川島豪は逮捕されたが、それと入れかわるように出所した坂口弘が革命左派の党員となり、やがてリーダー格にまでのし上がる。そして彼は永田の内縁の夫でもあった。
 1971年には栃木県の猟銃店を襲い、川島奪還のため十数挺の散弾銃と大量の弾薬を入手。これにより革命左派は武装化の一途をたどる。

 赤軍派は、本来は塩見孝也と田宮高麿というふたりのカリスマ的指導者を擁していたが、塩見が破防法で逮捕され、田宮が日航機ハイジャックで北朝鮮に渡った後は、森恒夫がそのあとがまに座る形となっていた。ただし森という男は元来は田宮の腰ぎんちゃくのような存在で、デモで初逮捕された際には警察で泣きじゃくって呆れられ、わずか2日で釈放されたり、明大和泉校舎衝突事件にいたっては、恐怖心にかられて土壇場で逃亡したりしている。
 革命左派は、中国亡命の可能性を探るため、そんな赤軍派と接触した。
 赤軍派は「女ぎらい」と言われたほど、女性党員が少なかった。その中の例外が、『ブンドのマタ・ハリ』こと、美しき才女、重信房子であるが、彼女はそのとき塩見の計画に従ってパレスチナへ飛んだあとであった。
 対する永田洋子は、週刊誌に「チビでブス」、「ぎょろ目で出っ歯の醜女」と書きたてられたような面相だった(永田はバセドー氏病をわずらっていたため、目が飛び出し気味であった)が、演説の才があり、ひたむきな革命への情熱は魅力的ですらあった。森は永田に「個人的な友情」を感じ、両派は合同計画を練りはじめる。
 のちに川島の進言もあり両派は「世界革命」を目指す『連合赤軍』として再結成することになる。なおこの頃には、永田と森の間には男女関係があったようだ。
 やがて彼らは亡命をあきらめ、山岳アジトの設置をはじめる。主な目的は警察の手から逃れるためと、「学習・討論・兵士の訓練」のためである。
 1971年11月、赤軍派から9人、革命左派から9人の合計18人で、榛名山中に「榛名ベース」と呼ばれるアジトを設立。実質これが彼らの最後のアジトとなった。この日からわずか100日で、この18人から8人の死者が出ることとなるが、彼らはまだ知るよしもない。

 それに先立って、革命左派ではちょっとした問題が起こっていた。
 メンバーの1人である向山茂徳が女性メンバーの早岐やす子を連れ、脱走したのである。しかも「永田のやってることは甘っちょろい『革命ごっこ』だ」と批判し、「テロリストとしてなら戦えるけど、もう思想のために駆けずりまわるのは御免だね」、「おれはこの闘争の経験を小説に書くつもりだ」とまで言った。
 森はそれを聞いて「処刑すべきだ!」と言い放ち、「そういえば向山のアパートの近くに警官がたくさんいた。密告する気だぞ」と根も葉もないことを永田に吹きこんだ。
 永田は向山のアパートへ5人のメンバーを差し向け、「処刑」を命じた。メンバーたちは向山と早岐を油断させて酔わせたあげく、ロープで絞殺し、死体を茨城県山中に埋めた。

 榛名ベース完成後、連合赤軍18名は共同生活をはじめる。指導者は森、中央執行委員は坂口、永田をはじめとする7名で、彼らはほかの兵士たちとは一線を画す特権階級であるとされた。
 12月20日、幹部会議で全員の「総括」を求めることが可決され、第一回目の総括が行なわれた。ここで筆者は広辞苑をひいてみるが、そこには「総括=別々のものをまとめ合わせること。全体を総合してしめくくること」と書かれている。が、連合赤軍で行なわれた総括とは「同志全員の前での自己批判」つまり公開懺悔であり、これを体験することこそが「革命戦士として生まれかわるための洗礼」とされていたようだ。だがこの「総括」の実体が「粛清」になっていくまでに長い時間はかからなかった。

 まず永田洋子が赤軍派の遠山美枝子に対し、
「化粧したり、髪を櫛でとかしたり、指輪をしたり――彼女は革命戦士としては失格だ」
 と批判。だがこのときは遠山が「この指輪は困ったときに換金しろ、として母が与えてくれたものだから」と反論し、森が彼女に味方したため、うやむやになった。
 12月26日、革命左派のメンバーである山本順一が妻・保子と赤ん坊を連れて榛名ベースへ合流。これは永田の承認を得てのことだったが、森はいい顔をせず、
「この点でいくらか手綱をゆるめた以上、ほかの点では厳しく鞭を入れなくてはならない」
 と主張した。永田もこれに賛同し、その夜中、総括が行なわれた。
 ターゲットは加藤能敬という22歳の学生で、彼の弟2人も革命左派メンバーであった(この2人はのちに「あさま山荘篭城」のメンバーとなる)。彼が批判された点は、
「検察で完全黙秘を通さなかった」、「官弁以外の食物を口にした」、「合法派と接触した」
 といったたわいもないことばかりだが、彼がそれらの批判をすべて認めたため、森が「有罪」と断じた。
 次に、加藤と肉体関係になったということで小嶋和子をも断罪。ふたりを正座させ、全員で「犬!」「日和見主義者!」と怒鳴りながら、気絶するまで殴った。長い山ごもりと粗末な食事に鬱積していたやり場のない感情がここで炸裂したと言ってもいい。
 失神したふたりは柱に縛りつけられた。顔面は変形してしゃべることもできず、失禁するほど衰弱していたが、彼らは食事も与えられずそのまま放置された。

 28日、21歳の尾崎充男が総括の対象となる。森は「対警官の実演演習」と称し、永田の元・夫である坂口を警官役に命じて、尾崎と戦わせた。
 これは坂口をなぶるためでもあったのだろうが、実戦経験で勝る坂口は尾崎を叩きのめした。しかし尾崎は手当てもされず転がされたままで、彼は鼻血と折れた歯の出血で窒息しそうになり、
「紙をとってくれ、息が出来ない」
 と訴えた。それを聞いた永田が「寝たまま人をこき使うような神経で革命戦士たり得るか!」と激昂。尾崎は柱に縛りつけられ、絶命するまで狂気のごとき暴行を受けた。
 尾崎は「日和った敗北者」と呼ばれ埋められた。加藤と小嶋は「臭くなってきた」という理由で屋外の木に縛りつけられた。

 1972年1月1日、21歳の進藤隆三郎が総括される。理由は「プチ・ブル的言動」、「女好き」、「幹部への尊敬の欠如」など。
 まず「女の敵」として永田をはじめとする女性メンバーが彼を殴り、つぎに男性メンバーが殴りかかった。失神すると、加藤と小嶋のもとへ連れていかれ、同じく木に縛られた。翌朝、進藤はもの言わぬ死体となっていた。死因は暴行による内臓破裂である。
 1日午後、小嶋和子死亡。死因は内臓内出血と、凍死であった。2日、加藤は屋外から小屋の中へ移された。
 2日、以前に永田が批判した遠山美枝子と、22歳の行方正時が総括される。遠山の罪状は主に「女を捨てていない。革命戦士らしくない」というものであるが、彼女が重信房子を崇拝していたことも永田には気にいらなかったようだ。
 行方の罪状は「日和見主義」、「警察で組織の秘密をしゃべった」等々。彼らは暴行を受け、柱に縛りつけられた。遠山は自慢の髪まで切られ、食事もなく放置された。
 4日、加藤能敬、死亡。顔は土左衛門のごとく膨れあがり、生前の面影はなくなっていたという。
 6日、あいつぐ死者の数にメンバーはほとんど狂気と化していた。彼らは恐怖と罪悪感から逃れたい一心で、遠山と行方への暴行を再開し、薪でぶん殴った。薪は遠山の性器にも押しこまれた。7日、母の名を呼びながら遠山、死亡。9日、行方が死亡。

 18日、幹部のひとりであった寺岡恒一が「永田批判」、「合法派との接触」を理由に総括の場に引きずり出される。ただし彼は殴殺ではなく、ナイフで胸をえぐられ、アイスピックで首と胸を滅多刺しにされた挙句、絞殺された。
 19日、21歳の山崎順が総括の的となる。理由は「幹部批判」。彼もナイフとアイスピックで刺された末、絞殺された。
 26日、赤ん坊を連れてベースに合流した山本順一が総括される。理由はもはやあってなきがごとしで、「運転を誤まった」というものである。彼は殴られず、極寒の山中で一晩中の正座を命じられた。――が、のちに寒さで失神し、倒れたことによって「態度がなってない」と暴行を受け、木に縛り付けられた。
 同日、「美人でいい気になっている」という理由で大槻節子が総括にかけられる。また、大槻をかばったことで、金子みちよも同罪となった。金子みちよは妊娠8ヶ月だったが、まったく容赦はされなかった。彼女たちは髪を切られ、歯が折れ顔が腫れあがるまで殴られた末、柱に縛られた。
 30日、山本死亡。苦悶のため、自分で舌を半分以上噛みきっていた。
 永田は「誰かを総括してないと、みんな退屈してたるんで困るわ」と公言。それを聞きつけ恐怖にかられたメンバーは大槻へのリンチを再開した。大槻は「目が、目がまわる。水、水」を最期の言葉として息絶えた。

 31日、森は「金子は裏切り者だが、腹の赤ん坊は大切な未来の闘士だ。帝王切開して赤ん坊を『奪還』しよう」と言い出した。が、技術者もいなければ器具もない。手をこまねいているうち、金子は死んだ。腹の子の父親は同じく連合赤軍のメンバーであった(あさま山荘に篭城した吉野雅邦)が、彼女が死ぬ直前、彼は永田の命令に従って金子を殴っている。また永田は金子が死んだ、と聞かされたとき、
「ちくしょう、赤ん坊まで死なせやがって!」
 とその死体を足蹴にしたという。
 2月2日、幹部のひとりである山田孝が総括にかけられ、13日まで生きのびたものの、両手両脚の凍傷による脱水症状を起こし死亡。最期の言葉は「水、水。なにが革命だ、ああ、俺はきちがいになってしまう」。

 ここまでの死者は14人である。「革命の理想」のためにこの14の死は必要不可欠なものであったと、この時点でメンバーの何人が信じていたかは定かではない。
 たださすがに一番冷静だったのは指導者の森で、「俺たちは捕まったら死刑だ」と言い、少なくとも自分たちがしていたのが「殺人」だということはわかっていたようだ。
 だがそれを聞いた永田は、「なんでそんなことを言うのだろう」と驚いたという。彼らが死んだのは己の弱さに負けたせいであり、自分たちが殺したわけではない、と彼女は信じこんでいたのである。

 2月4日、森と永田は「敵地調査」のため下山した。東京で彼らを出迎えた同志は、彼らがあまりに臭いので仰天したらしい。10体以上もの死体と同居していたのだから当然なのだが、ふたりはこれを、
「山に住む猪の匂いだよ」とごまかしている。
 一方、指導者のいなくなった榛名ベースでは3人の脱走者が出た。坂口は追っ手を出したが、誰も捕まらなかった。
 そうこうしている間に、彼らの山岳アジトは警察に次々発見されていった。森、永田と合流できないままに、残る9名のメンバーは榛名ベースを放棄して逃走。そのうち4名は買出しに下山したとき逮捕された。
 2月17日、警察の決行した山狩りによって、前日に東京から帰ってきていた森と永田は捕縛される。警察は永田のことは一目見てすぐわかったようだが、森のことはなかなかわからなかったという。逮捕に際しても、バセドー氏病で小柄な永田の陰に隠れようとしたり、森は一貫して「指導者の器にはほど遠い」男であったようだ。

 一方、残る5人のメンバー(坂口弘、坂東国男、吉野雅邦、加藤次郎、三郎)は軽井沢の別荘地に迷いこみ、2月19日、あさま山荘に篭城。のべ10日間、219時間という長期戦の末、警察の突入により完全降伏した。
 3月7日、吉野の供述により、山田孝の死体発見。この日から25日まで、死体は続々と掘り起こされつづけた。あさま山荘事件当時、彼らの「革命的行動」を賛美した進歩的文化人は、ここに至って沈黙を余儀なくされた。
 逮捕後、完全黙秘を貫いたのは坂口と坂東のただ2人。
 森は1973年の元旦、拘置所で首を吊って自殺した。
 坂口と永田は1993年に死刑が確定。いまは2人共に社会主義からは決別しているという。

 


 綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件

 

 1989年1月、少年ふたりが強姦と窃盗容疑で綾瀬署に逮捕された。
 家裁審理中、少年たちは鑑別所に収監されていたが、彼らの家を警察が家宅捜査すると女性の下着などが見つかったので、「これは余罪があるのではないか」ということになり、ふたたび取調べがはじまった。
 ところが警察が余罪について軽くカマをかけたところ、少年のひとりがぶるぶる震えだし、
「はい。すいません殺しました」
 と頭を下げたので、刑事は仰天した。彼はずっと被害者の死に顔が忘れられず、悪夢にうなされる毎日で、神経は限界まですり減っていたのだ。カマをかけられ、すぐ「あのことだ、ああ、やっぱりバレた」と思い自白してしまったのは自然のなりゆきであった。
 これが3月29日のことで、逮捕された少年とは本事件の主犯、AとBである。
 少年の自白に従って江東区の埋立地を掘り返したところ、ほどなく死体の入ったドラム缶が発見される。被害者の少女の死体はボストンバッグに詰められ、コンクリートを流しこまれて固められていた。
 死体はすでに腐敗しており顔の見分けもつかなくなっていたが、ひどく痩せこけて皮下脂肪が半分近くにまで減っており、頭髪がほとんどなかった。これは長期間なぶられ続けたストレスにより抜け落ちたものであろうと思われた。膣には小瓶2本が押しこまれたままだったという。
 被害者の少女は捜索願いの出ていた高校3年生のE子さんであった。4月からの就職先も決まっており、最後の学生生活を楽しんでいた矢先、彼女はいわれもない不幸に襲われたのである。

 自白から、少年A(18歳)、B(17歳)、C(17歳)、D(16歳)が猥褻誘拐・略取、監禁、強姦、殺人の容疑で逮捕された。なお彼らは被害者の少女を監禁している間にも、表へ出ては強姦事件を繰りかえしている。4人とも何らかの形での崩壊家庭に育ち、高校を中途退学したのちは職を転々とし、事件当時はシンナーにふけり、暴力団に出入りするなどして過ごしていた。
 彼らが本事件の被害者を監禁し、殺害に至った経緯はこうだ。

 1988年11月25日の夕方、AとCは「ひったくりか、強姦」か、どちらにしろいいカモを見つけようと思い、原付に乗ってふらふら走りまわっていた。
 プラスチック工場でのアルバイトから自転車で帰る途中だったE子さんは、そうしてまったく偶然に彼らに目をつけられることとなる。
 AはCに「あの女にしよう。おい、おまえちょっと蹴飛ばしてこい」と命令。Cが原付で近寄っていき、E子さんを力まかせに自転車ごと溝に蹴落とした。
 Cが逃げ去ったのを確認するとAは彼女のもとに駆けより、手を差しのべて溝から立ち上がるのを助けてやった。
「大丈夫? あいつさ、頭おかしいんだよ。俺もさっき蹴られたんだ。また戻ってくるかもしれないから、送ってってやるよ」
 と優しく微笑した。ナイト役登場、というわけである。陳腐な手だが、現実におびえている少女を騙すにはいい手なのだろう。Aは彼女を原付の後ろに乗せ、彼女の家ではなく人気のない倉庫に連れこんだ。
 そこでAはやおら豹変し、
「じつは俺はさっきの奴の仲間で、前からおまえを狙ってたヤクザだ。俺は幹部だから、いうことを聞いてりゃ命だけは助けてやる」
 と言って脅した。Aはすくみあがる彼女をホテルに引きこみ、強姦した。

 ホテルからAはC宅へ電話した。C宅は仲間たちの溜まり場だったので、そのとき部屋にはB、Dもいた。Aが、
「いま女をひとりやったとこ」と言うと、Bが、
「マジっすか、俺もやりたいから、帰さないで下さいよ」と言った。
 それを聞いたAは真に受け、B、C、Dを呼び出して待ち合わせると、E子さんを遠くから見せて、
「どうだ、あの女。どうする?」と訊いた。
「さらっちゃいましょうよ」
 とBが答えたことから、Aは彼女をこのまま家に帰す気をなくす。E子さんがこれから41日間にわたる監禁生活を送った発端は、こんな簡単な会話によってであった。

「おまえはヤクザに狙われてるんだ。俺はおまえを売り飛ばせと命令されてたんだけど、可哀相だから助けてやることにした。おまえの家のまわりはヤクザがうようよいて危ないから、かくまってやる」
 と言われ、なすすべもなくE子さんはC宅に連れていかれた。この日からE子さんはそのまま彼らの監視下に置かれることになる。
 11月28日、不良仲間ふたりが新たにC宅に来訪。Aは彼らにもE子さんを「ごちそうしてやる」と言い、必死に抵抗するE子さんを押さえつけて輪姦させた。性交後、彼らはE子さんの陰毛を剃りおとし、膣に火のついたマッチを突っ込んで、彼女が熱がるさまを見て笑い転げた。
 12月2日あたりから、彼らの行為は性的暴力から肉体的暴力に移行していく。つまり殴る蹴る、焼く、などの暴力になっていくのである。
 こんな状況をCの両親が気づかなかったはずはない。Cの父親は息子たちが外出した際、妻に「二階がどうなってるか心配だから、見てきてくれない」と頼まれ、これを断っている。また母親は「あの女の子は仲間の不良少女だと思っていました。帰るよう、さとしたこともあります」と証言しているが、「まったくわからなかった」というのはどう客観的に見ても有り得ない話だ。呻き声、悲鳴、少年たちの怒声など、階下に響かなかったわけがない。実際のところはCの暴力がこわいのと、世間体のために押し黙っていたに過ぎないだろう。

 E子さんは彼らの仲間内で、「カンキンオンナ」と呼ばれていたという。仲間の暴走族連中が集まった際など、ナンパしにいこう、と言い出した者に、Aは
「ナンパなんかすることねえよ。いま、ひとり監禁してるんだ。よかったら来いよ」
と公言していたらしい。
 Cもまた、「俺の家に面白いのがいるんだよ。家に来たらやらしてあげる」
と、あちこちで言っていた。
 過度の輪姦により被害者は気を失うこともあったが、少年たちは彼女にバケツの冷水を浴びせ、また犯していたというから異常というより他ない。
 そして、最終的には100人近くがこのことを知り、裁判記録に出ているだけで10人近くが強姦等に参加したことになる。あるときなど暴走族の女が面白がって、「化粧してやる」と言ってE子さんの頬にマジックペンで髭を書いたこともあった。
「なんでもするから家に帰して」と哀願する彼女に、彼らは自慰をさせたり、全裸にして「きちがいの真似をしろ」と強制。直径3センチほどもある鉄棒を性器に挿入し何度も出し入れしたあげく、その膣を灰皿代わりに使用した。

 12月初め、彼らはE子さんに自宅へ電話させ、「大丈夫だから探さないで」と言うよう強要する。
 同月上旬、E子さんが隙を見て警察に通報しようとしたのを発見し、少年たちは激怒した。彼女を殴る蹴るし、ライターで足をあぶって火傷させたり、無理にシンナーを吸引させたりして暴行した。
 このあたりから、彼女に加えられる暴力はタガがはずれたようになりはじめる。
 12月12日、E子さんは部屋にいた監視役のFに「私はどうなるの? 家に帰れるの?」と問うている。しかしFはそれに対し、「自分はしたっぱだから、わからん」とそっぽを向いた。
 これ以降、被害者が受けた暴行は数限りない。全裸でステレオの曲に合わせて踊らせ、全員でいっせいにシャウトの部分で腹を殴る。痛い、と口にするとまた殴られるので彼女が顔を歪めると、Cは「この顔が面白いんですよね」と笑った。
 また、肛門に瓶を挿入したり、酒を一気飲みさせたり、雪のちらつく寒い夜に裸でベランダに追い出したり、煙草を一度に2本吸わせ、むせる様子を見て愉しんだりした。
 火傷のあとにライターのオイルをかけて点火し、彼女が「熱い、熱い」と言って火を消そうとするのを面白がり、何度も繰りかえしたともいう。E子さんは「もう殺して」と泣いて哀願した。

 この頃からE子さんはろくに食事も与えられなくなった。たいてい1日に牛乳1本。たまに気が向くと食パンを1枚食べさせる程度で、連日の暴行と栄養不良により、E子さんはどんどん衰弱し、トイレに行くにも階段を這っておりる有様だった。が、そのうちそれもできなくなり、牛乳パックに排尿するようになった。

 連日の殴打に、あるときE子さんが失禁。座布団が汚れたといってまた殴打された。BはE子さんの別人のように腫れあがった顔を(「頬が鼻の高さまで腫れあがり、目の位置が判別できないほど」だったという)見て、「なんだおまえ、でけえ顔になったな」と言って笑った。
 翌日、「面白いから、Aにもこの顔を見せてやろう」とその場にいなかったAを呼び出すと、Aはその変わりように驚いたものの、「なぜか負けまいという気になって」自分も殴打。火傷あとに幾度もオイルをかけては焼いた。
 また「おまえはそろそろ殺そうかな、いや、やっぱりやめた」などと彼女を一喜一憂させたり、答えられない質問をわざとぶつけて責めたりなどして、精神的にも追いつめている。この時点から、E子さんの表情から感情の波が消えつつある。肉体的にも精神的にも、もう限界を越えていた。

 12月下旬、E子さんはもはや牛乳をわずかに飲みくだすのがやっとの状態になった。一日中寝ているだけで身動きもできないほど衰弱し、顔面は腫れあがり、火傷あとは膿みただれた。もちろん風呂にも入れていないしトイレにも行けないから、膿と垢と尿の悪臭で、彼女はもう完全に少年たちの性欲をそそる存在ではなくなった。
 ここに至って彼女は完全に「邪魔」になる。そこにもう人間としての尊厳はない。ただの「モノ」であり、「汚物」であった。

 1989年1月4日、Aは賭け麻雀に大負けして不機嫌だった。このまま家に帰ってもつまらないので、B、C、Dと合流することにした。なおC宅にはE子さんがいるので、このとき彼らはD宅にたむろしていた。
 D宅でちょっとファミコンをして遊んだが、麻雀で負けた鬱憤は晴れない。そこでAは、
「ひさしぶりに、カンキンオンナをいじめてスカっとするか」
 と言って、全員を誘ってC宅に向かった。
 E子さんはCの部屋で、身動きもできずに仰向けに寝ていた。少年たちは彼女に「Bを呼びすてにした」と因縁をつけ、殴る蹴るしはじめた。
 Aは蝋燭を持ち出すと、彼女の顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆いつくし、両瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てた。E子さんは最早ほとんど反応を示さず、されるがままであった。
 さらにAはE子さんが牛乳パックに排出した尿を無理に飲ませている。B、Cは彼女の顔面を回し蹴りし、E子さんが倒れると無理やり引き起こして、さらに蹴りつけた。E子さんは身を守ろうとする体力もなかったので、そのまま転倒して室内のステレオにぶつかり痙攣を起こした。
 Aはそれを見て「仮病だ」と激昂。
「てめえ、俺の前で仮病使うのか」
 そう怒鳴ると、いっそう激しく殴打した。E子さんが鼻血を出し、手足のただれた火傷から血膿がにじみ出たため、「汚い」と言って、自分たちの拳をビニール袋で覆ってからまた殴った。
 部屋にはキックボクシング練習器があったので、しまいにはその1・7キロもの鉄球を使って殴った。AはこのときになってもまだE子さんの体にオイルをかけて焼いている。が、彼女はわずかに手を動かして火を消すような仕草をしただけで、そのうちぐったりして動かなくなった。
 2時間にもわたる暴行の末、彼らは「飽きて」部屋を出、サウナに行っている。

 1月5日、彼らは見張りに残していたFから、E子さんが死んだという連絡を聞いた。死体の始末はどうしようということになり、Aが以前タイル工として勤めていた会社からセメントを調達し、ドラム缶に死体を入れてコンクリートを流し固めた。ドラム缶は江東区の工事現場まで運び、そこに投げ捨てた。
 そして、この死体は3月29日になるまで、発見されず放置されることとなる。

 警察が逮捕状を持ってC宅に捜査に訪れると、Cの両親は最初のうち抵抗したが、やがて諦めて「弁護士立会いのもとでなら」と中に捜査員を入れた。Cの部屋は壁、床はもちろん、天井にまで被害者の血が飛び散っていたという。捜査員のひとりは、
「人をただ殴っても天井に血はつかない。だらだら血を流している人間の顎をさらに殴り上げるようなことをなんべんも繰りかえしたのだろう」と語った。

 この事件が報道されるや、マスコミは争って報道し、国民は少年犯罪のレベルが「ここまで来たのか」と慄然とした。
 Cの両親は共産党党員だったので、当初「赤旗」に両親の談話と擁護記事が載ったが、やがて事件の詳細が知れるや、両親は離党し、同新聞には「この事件は日本共産党とはいっさい関係ありません」という一文が掲載された。
 写真週刊誌は被害者の水着写真などを載せ、ひどいときには被害者のことを「不良だった」、「加害者たちにナンパされ、ほいほい付いていった」、「加害者の仲間だったが、いじめがエスカレートしただけ」と報道した。中山千夏をはじめとするフェミニストがこれに激昂し「報道のセカンドレイプだ」と抗議。『彼女の悔しさがわかりますか』という本を出版した。
 マスコミにもっとも責められたのは勿論、監禁場所を「提供した」と言われるCの両親であるが、特にCの母親が裁判で、
「あの子には家に帰るようすすめました。でもあの子が『いいです』と言ったんです」と証言し、
「脅されていたんでしょう」と検事が突っ込むと、
「認識の違いで、申し訳ありません」
 と答えたり、さしたる脈絡もなく「あの女の子は煙草を吸っていた(被害者が喫煙者であったかどうかは未確認。本件とはどちらにしろ関係はない。ただ、「煙草を無理に2本吸わせる」ことを少年たちがいじめの手段として使っていたところからみて、可能性は薄いと思える)」などと言ったりしたことが批判された。のちにCの両親はこの批判的な報道に怒り、弁護士を通じて抗議している。

 公判でAは、
「いま思えば、人間だと思っていなかったですけど、そのころは、そういう人間とか、そういうものも考えてなかったです。死んでいるのを見ても、ああ、やっぱりこれがあいつの運命だったんだなぁと思った」と証言。
 同じくDは、
「やってるときは、何も思ってないです。(そして、やり終わったあとも)思ってないです」と証言した。
 また弁護士の伊藤芳朗氏は、公判で少年Bを担当した一人だが、
「初めて接見した時、Bは『彼女はかわいそうだったけど、遊んでやったんだからいいじゃない』と開き直っていました」と述べている(もちろん、その後改心し自分の罪に気づいた、という描写がつづく)。 
 E子さんの母親は少年たちの証言を聞いて激しく動揺し、精神科に頻繁に通院して投薬してもらわねばならない精神状態に陥った。

 1990年7月、東京地裁の判決はAが懲役17年、Bが懲役5〜10年、Cが懲役4〜6年、Dが懲役3〜4年。検察側は控訴した。
 1991年7月、高裁はAに懲役20年、Bに懲役5〜10年、Cに懲役5〜9年、Dに懲役5〜7年を宣告。また監視役のFを含めた3人を少年院送致とした。

 蛇足を承知であえて後日談として記すが、少年法改正について語るという目的で2000年11月28日に放送されたニュースステーションに、Fと、Dの母親が後ろ姿で出演した。
 この時点でFは結婚して娘がおり、Dは出所後、自閉的な引きこもりとなって母と姉(事件当時Aの彼女だった)に生活の面倒をみてもらっていた。
 放送後、番組掲示板に書き込まれた意見は、7割近くが番組とF、ならびにDの母親の現態度に対する批判だった。
 Fに対する批判の内容は主に、彼が淡々と「反省している」と口にしたそばから
「やれと言われて、こわくてやった。仕方なかった」
 と言ったこと、他人事のようになめらかな口調で事件の詳細を語ったことや、また「よく平気で結婚し子供を作れたものだ」という意見も多く見受けられた。だが総じて「常識人として極めて正常な反省の言を述べていたようだが、あまりに正論、奇麗事に過ぎ、正直、彼の本当の気持ちなのかどうか疑わしい」という意見が大多数であったようだ。
 Dの母親は、
「息子とはほとんど顔を合わせない。事件のことも話さない。まだあの子は事件と向き合う時期に来ていない」、
「どんな形ででも親は子供に生きていてもらいたいですから、私の死後はお姉ちゃんにあの子の面倒をみさせます」、
「遺族の方には謝りに行こうと思ったんですが、拒否されると聞きましたのでやめました」
 などの意見が多く非難され、「子供を更正させようという気がまったく感じられないし、親としての事件への反省も見られない」という書き込みが多かった。

 なお、主犯Aを除いては全員が出所している。Aの釈放は2008年前後であろうと言われているが、確かなことはわからない。

 


ひょっとしたらこの宇宙は、
なにかの怪物の歯の中にあるのかもしれない。

アントン・チェーホフ『手帖』より――

 

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