Lady Killers


 

主、男の肋骨にて1人の女を造り給い、男に見合わせり。
男、言いて――
「これぞ、私の肉の肉。私の骨の骨。男より取りたる故に是を女と名づけん」

 


●アルバート・デサルヴォ

 デサルヴォは1931年、イタリア系移民の息子として生まれた。
 6人兄弟の3番目で、父親は前科2犯の大酒飲みで、たまに思い出したように帰ってきては妻や子供を殴った。子供の目の前で妻を強姦することもしょっちゅうで、デサルヴォはそんな父親を恐れ、憎んでいたが、かといって積極的に母をかばうこともしなかった。

 彼の母は意趣返しででもあるかのように家事のいっさいを放棄し、家をゴミと腐った食べ物の山にしていた。おまけに摂食障害で、つねに絶えず食べつづけており、太って醜かった。
 犯罪者の父と無気力な母のもと、ネグレクト気味に育ったデサルヴォは、飢えないためには自分で食料や金を調達するしかなかった。
 すなわち万引き、強盗、かっぱらいの類である。
 当然のことながら彼は青春の多くの時間を少年院で過ごし、その後軍隊に入った。

 彼の所属した軍隊は西ドイツに派遣され、彼はここでイルムガートというドイツ娘と出会い、結婚した。彼女は彼の母のように自堕落ではなく、太ってもおらず、何より清潔好きだった。デサルヴォは心から彼女を愛していた。
 ところが不運なことに、ふたりの間にできた娘のジュディは先天性の障害児で、足が不自由だったのである。
 妻のイルムガートは以後妊娠を恐れ、デサルヴォを寝室から遠ざけるようになった。
 ところがデサルヴォは生まれつき(脳の一部の疾患だろうか)性欲が異常に強かった。
「一日に5回や6回くらい、なんてことなかった。妻とはそれまで、平均8回くらいやってた」
 と、のちに彼は平然として語った。

 しかし妻は娘の誕生以来、一切その欲求を受け入れなくなってしまったのである。
 普通の男性にとっても充分に「困った事態」と言えるが、デサルヴォにとってそれはまさに「死活問題」とも言えるものだった。だが彼は売春婦を相手にする気はなかった。商売女との交渉は汚らしく、両親のことを彼に思い出させた。彼は満たされない欲求で気も狂わんばかりになった。
 彼はアメリカに戻ってから除隊し、水道管工事夫となっていた。
 この仕事はいったん家を出てしまえば、あとの時間はまったく自由に過ごすことができる。
 デサルヴォはこの時間を自分の「お愉しみ」に使った。

 彼は「モデル斡旋業」を名乗り、あなたにTVのモデルの仕事をお願いしたいのですが、と若い女性に声をかけては、彼女らのアパートに入り込んだ。
 そしてクリップボードとメジャーを手に、彼女らのスリーサイズを計り、体にさわりまくった。
 しかし女性たちの多くはメジャーの使い方が少々大胆すぎるくらいでは警察に届けなかった。中にはすすんでベッドの中にデサルヴォがもぐりこむことを歓迎した例も少なくなかったし、「今度いつ来てくれるの」と言った女さえいたという。
 デサルヴォはいかにもイタリアンらしい甘いマスクと陽気さの持ち主だった。

 だがやはり、すべての女性が彼を許したわけでもなかった。彼は2年「採寸男」として跋扈した後、逮捕されて2年の実刑を受けた。
 模範囚として11ヶ月で出所したデサルヴォは、妻に新たな宣告を受けることになった。
「真人間になるまでは、指1本触れさせないから」。
 もとよりそれは彼を今後もベッドから遠ざけておくための言い訳じみたものだった。
 1年近くに渡る鬱屈した性的フラストレーションに加え、この冷徹な拒絶によって彼の内的な怒りは頂点に達した。
 怒りは彼を変身させた。無害な「採寸男」から「ボストンの絞殺魔」へと。

 最初の犠牲者は中年のお針子で、1962年6月に鉛の錘で頭部を強打され、犯され絞殺された。
 発見されたときには全裸で大の字に手足を開かされ、ハウスコートの紐が首の周りにかたく巻きつけられて顎の下で蝶結びになっていた。のちにこの両足を開いたポーズと蝶結びは、ボストンの絞殺魔のトレードマークとなる。
 2人目の被害者は85歳の老女で、デサルヴォにると「俺のばあさんを思い出させる何かがあった」そうだ。
 3人目は65歳の看護婦。強姦され絞殺されていた。両足は開かされ、体に歯型が残っていた。
 同じ夜、60代の女性がつづいて犠牲になった。彼女は犯されたのち体内にワインのボトルを突っ込まれ、そのまま放置された。ボストンの絞殺魔はまだ衝動がおさまらず、3人目を探したが、手頃な女が見つからなかったのでこの夜はこれでおひらきとなった。

 5番目の犠牲者は8月に出た。75歳の老婦人は犯され、体中を噛まれたあと絞殺され、両足を椅子にくくりつけて大きく広げさせられた格好で放置された。
 発見者が部屋に入って一番に見えるものが彼女の局部であるようにわざと取らせたその体勢は、あきらかに犯人の悪意と女性憎悪を物語っていた。
 6人目は67歳。暴行され、箒の柄が深く突っ込まれていた。
 7人目ははじめて20代の女性である。25歳のすらりとした黒人美女で、デサルヴォはひさびさに「採寸男」の手口を使って彼女のサイズを計った。彼は絞殺魔のトレードマークをすべて残して彼女の部屋を立ち去った。
 8人目は23歳の美人秘書。
 9人目は69歳の未亡人で、彼女はパイプで頭部がぐちゃぐちゃになるまで強打され、さらに料理用フォークで胸を何度も突き刺された。この犯行はあまりに残酷だったので、当初は一連の犯行とは別件であると考えられていた。
 10人目は23歳の大学生で、これも滅多矢鱈に刺されていた。検死の結果、体中に22ヶ所の刺し傷が認められたが、やはり死因は絞殺であった。
 11人目は58歳の寡婦。足は広げられ、蝶結びが残されていた。ただし死因は「犯人の素手による絞殺」だった。
 12人目は23歳の女教師。
 13人目は19歳の少女だった。デサルヴォは彼女の体内に箒の柄を突っ込み、「ハッピー・ニューイヤー」と書かれたカードを彼女の足の上に残して立ち去った。その悪意ある戯画に人々は震えあがった。

 1964年の秋、デサルヴォは家宅侵入と婦女暴行により逮捕された。
 しかし彼を「ボストンの絞殺魔」と結びつけて考えた者はなぜか誰もいなかった。彼は「分裂病と抑鬱症をともなう変態性欲者」と診断され、精神病院に送られた。
 病院で同室になった男は、デサルヴォの「性的な自慢話」を得々と毎日聞かされ、ひょっとするとこの男が絞殺魔なのではないかという疑いを抱き、密告した。弁護士と警察に尋問されるやいなやデサルヴォはあっさり自白した。
 (註:ただしデサルヴォの自白には矛盾した点もあり、じつは真犯人は彼を売った同室の囚人で、デサルヴォは冤罪であるという説もある)

 取調べにあたった刑事が「なんでまた、年寄り女ばっかり狙ったんだ? 彼女らにはお前さんを惹きつける魅力なんかなかっただろうに」
 と言うと、
「そんなことは関係ない!」
 デサルヴォは憤然として言い返した。
 彼は水道の工事夫として「あなたの部屋で水漏れしてるようなので大家さんに頼まれて来ました」と言って部屋に入れてもらうのを手口としていたが、
「彼女たちが俺を招き入れて……無防備に背中を向ける。その瞬間、衝動が爆発する。自分を抑えきれなくなるんだ」
 と供述したが、それがどういう意味を持つのか、彼自身もうまく説明することができなかった。

 また彼女らが絞殺される「凶器」として使われたスカーフやストッキングの端が蝶結びにされていた謎についてだが、精神科医がデサルヴォに
「蝶結びについて何か語ることはあるかね」
 と訊いたところ、
「娘のジュディの包帯の結び方だ」
 と答えた。
 ジュディは下半身にギブスをはめて生活しており、父親による毎日のマッサージが欠かせなかった。それは非常な激痛をともなうので幼い娘は毎日泣き叫んだが、医者から「そうしないと、娘さんは一生歩けない」と言われていたため、そうせざるを得なかったのである。
 そしてデサルヴォはこのマッサージが終わると、「よく我慢できたご褒美」として、ギブスの包帯を女の子らしく蝶結びにしてあげていた、というのだ。
 精神科医はこれを聞き、
「なるほど。きみは本当は娘さんのことが憎かったんだね。ジュディが生まれてから、奥さんのイルムガートは変わってしまった。ジュディさえいなければ妻は自分のところに戻ってくる、そう思っていたんじゃないかい? 君はジュディを殺したかった。でもそれはできなかったから、身代わりに殺した女性たちに蝶結びをくっつけていったんだろう」。
 それを聞くと、デサルヴォは半狂乱になって怒り、否定し、精神科医に飛びかかろうとした。

 デサルヴォは1967年、終身刑を受けた。
 彼は「望みはただひとつ、精神科の治療を受けつづけることです。そうでなきゃ、生きる意味も何もない」と言った。
 デサルヴォは1973年、囚人仲間に刺殺された。犯人が誰なのかは今もって不明である。

 


●レオナード・レイク

 1985年6月2日、チャールズ・ヌグという若い中国人が万力を万引きした罪で捕まった。
 ちょうど車のトランクに万力を押し込んだときに逮捕されたので、同乗者のレオナード・レイクという男が
「わたしが弁償するので、許してやってほしい」と申し出た。
 しかしその申し出ははねのけられ、警察に連絡された時点でヌグは逃走。
 車を捜索するとサイレンサー付きの銃が発見されたため、レイクは警察に銃器不法所持で現行犯逮捕となり、連行された。
 署で、レイクは「取調べの前に、水を一杯ください」と言った。刑事が水を与えると、彼は隠し持っていたシアン化物のカプセルを飲み下し、その場に昏倒した。そのまま意識を回復せぬまま、4日後に死亡。その4日の間に、警察はレイクの身元を調査した。

 結果、レイクは保釈中逃亡の罪により指名手配犯となっていることが判明した。
 レイクはポール・コスナーという偽名で車のセールスマンをしていた。警察はコスナー名義で彼が暮らしていたバンガローを捜索した。
 警察はそこで、思いもよらぬものを発見した。
 そのバンガローには、天井や壁面に鎖や鉤、手枷の取り付けられた地下室があった。装備からして「拷問部屋」にされていたことは間違いない。
 洋服戸棚には、着用した跡のある女性用下着が山ほど出てきた。また、薄手のネグリジェやナイトガウンも発見された。
 バンガローの裏手の山腹には焼け焦げた人骨が転がり、キャビネットからは写真のコレクションと手製のスナッフ・ムーヴィー、それにレイクの日記が見つかった。
 写真のほとんどは恐怖におののいた顔で、半裸で無理にポーズをとらされている女の姿だった。背景はすべてこのバンガローの壁であり、ここで撮られたものであるのは明白だった。
 スナッフ・ムーヴィはなまなましい殺人シーン、鎖につながれた女たち、埋められる間際の被害者の遺体、スープ状になるまで煮込んだ人骨を詰めた袋のスナップ写真などがちりばめられた凄惨なものだった。
 また、警察はバンガロー周辺一体に埋められた、最低でも20体の人骨と歯を発見した。
 刑事はスナッフ・ムーヴィーの1本(タイトルは「M女、キャシーとブレンダ」というものである)をデッキに入れ、再生した。
 画面に、後ろ手に手錠をかけられた白人の若い女が映る。
 画面の外から、男の声。
「ここにいる間、おまえは俺たちのために体を洗い、清潔にして、セックスする。おまえに選択の余地はないんだよ。もし死の願望があるんなら別だがな。これから数週間、おまえはもっと大きな不幸について、いろいろと思いめぐらすことができるだろうよ」
 そして、禿げ頭に黒い顎ひげ、いかにも精力的な顔つきの男が画面に現れる。
 彼は女に足かせをはめ、服を脱がす。アジア系の男が画面に入ってきて言う。
「準備OKだな」
顎ひげの男が笑う。
「ほどほどにしとけ、チャーリイ」。
 キャシーと呼ばれた女は中国人の男――ヌグとシャワーを浴びに連れていかれる。そのあとは緊縛とセックスの場面がつづく。
 この女はキャシー・アレン、18歳。恋人で麻薬売人のマイクを探しにやって来、レイクに捕らえられた。
 このビデオの中でレイクは彼女に向かって、
「マイクは殺して埋めちまったよ。まあおまえもじきにあいつと一緒になれるさ」
 と告げている。
 画面が変わり、別の白人女が映る。彼女の名はブレンダ・オコナー。内縁の夫と2歳の赤ん坊をレイクとヌグに捕らえられており、反抗を封じられている。
 ブレンダが訊ねる。
「あなたがた、どうしてこんなことするの」
 レイクが答える。
「俺たちはおまえが嫌いだ。それを書面ででも正式に提出して欲しいってのか?」
 しばしの沈黙ののち、ふたたびブレンダが言う。
「あんたたち、ふたりとも気ちがいだ」
 ヌグが笑って、
「このへんにいるのは、みんな気ちがい」
 と言いながら彼女の服を脱がせる。
「さて、いただいたモノを見るとするか」
「ブラを切ったらいや」
「おまえのものは、なんにもないの」
「赤ちゃんをここに連れてきて。なんでも言う通りにするから――」
「どっちにしろ、おまえは俺たちの言いなりさ」
「わたしがいなきゃ、赤ちゃんは死んじゃうわ」
「ガキもそのうち馴れるさ」

 このブレンダもキャシーも、そしてブレンダの赤ん坊も、のちに人骨となって発見された。
 レイクは来たるべき核戦争を生き延びるために、シェルターをつくる計画を持っていたらしい。その準備のひとつとして、隔離された部屋に閉じ込めておける「セックス奴隷」があったのだ。レイクはシェルターの中で、ローマ皇帝のように君臨する妄想を抱いていた。

 レイクの死からほぼ5週間後、ヌグは万引きをとがめられ、発砲して逃走。しかし追っ手に捕まり逮捕された。
 ヌグは自分は殺しには加担していないと言い、罪をレイクに押し付けようとした。話に信憑性はうすいものの、しかし主犯がレイクであることはほぼ間違いないと思われた。
 ヌグは香港に住む裕福な家庭に、1961年生まれた。
 しかし生来の盗癖のため次第に身を持ち崩し刑務所と娑婆を往復しながら職を転々とするうち、レイクと出会ったケチなこそ泥であった。

 対するレイクは、1947年7月20日に生まれた。
 母親の家系には代々精神病患者が異様に多く、またアルコール中毒も多かった。
 父方の家系もやはり同様にアル中患者を多く抱えていた。
 レイクが6歳のとき、両親はかさむ借金でもう彼を養っておけないと判断し、祖父に預けた。祖父はやはりアル中で、レイクを事あるごとに折檻した。(これは彼の父親も同様)しかし弟のドナルドは母に溺愛されていたため、手放されなかった。
 ドナルドは病弱で、ブランコから落ちたときの頭部の怪我によって癲癇性の痙攣発作病みだった。
 また動物虐待、放火、姉や妹への性的暴行癖があった。だがそれでも母の愛はつねにレイクではなくドナルドの上にあり、レイクが体を張って父や祖父の暴力から母と姉妹を守ったときですら、それは変わらなかった。

 このような環境はレイクを歪ませていった。
 彼はドナルドの強姦から姉妹を守ってやる代わりに、自分にセックスの代用行為をさせることを約束させ、ヌード写真を撮った。
 精神病歴のある彼の母親は、なぜか裸体に誇りを持つことと、写真を撮ることを日頃から奨励しており、この件に対してのお咎めはまったくなかった。レイクはこの写真を堂々とアルバムに貼った。
 レイクは子供の頃から強迫症の症状を見せている。
 不潔恐怖症、過書、過剰な神経質さ。そこに暴力的な傾向が加わるのは従軍以後のことである。

 彼の犠牲者となってバンガローのまわりに埋められた者の中には、彼の弟であるドナルドと軍隊時代の親友、ガンナーも含まれる。
 幼い頃から憎んでいたドナルドはともかく、ガンナーを殺した動機については、レイクが自殺したため不明である。だがレイクがいくつかの偽名のひとつとして、彼がガンナーの名前を使用していたのは確かだ。

 レイクの日記には、彼の抱いたさまざまな妄想が記されている。
 彼は女性たちを徹底的に支配し、小世界の皇帝となることを夢みていた。しかし日記が晩年に近づくにつれ、内容は陰鬱なものとなっていく。
 彼が夢みたような成功――大人物になること、出世すること、英雄的軍人になること――は全て泡と消え、家の周囲に埋められた遺体が増えるに従って、彼は幻想が自分を必ずしも幸福にしないことを認めざるを得なかった。
 彼が得たものは結局、つかのまの支配感と、性欲の充足、そして大量の死体だけだったのである。
 逮捕された時期にはもう、レイクは自分の終息を感じとっていたのだ。
 自分のみじめさの他には示すに足る成果などなにもないまま、行き止まりまで来てしまったことを彼は知りぬいていた。

 彼は最後の数年を、盗品や麻薬の密売、母の仕送り、ポルノ・フィルムの製作で得た金で暮らしていた。
 日記の文体にも倦怠と幻滅が色濃くなっている。
 彼は妄想を現実化させた。
 しかし現実と妄想が接触すると、妄想は溶け去りやすくなる。それを食い止めるためには妄想をエスカレートさせてゆくよりほかない。
 兄を殺し、親友を殺し、女達を責めさいなんで殺しながらも、彼の中の一部が死に向かっていったことは間違いなかった。
「死刑執行人ですら、自分が社会の一員として有益であると思わなければやっていけない」
 とコリン・ウィルソンは述べている。
 レイクは自分の「無意味な生存」に気づいたのだろう。

 事件後、年月が経過した現在でさえ、レイクの母と祖母は彼の犯行を否定しつづけている。
 遺伝的疾患、劣悪な環境、精神的に弱い家族、肉体的な虐待、生育時におけるセックス意識の混乱という数多くの要因を背負ったレイクの犯行が、果たしてなんらかの器質性障害によるものであったかどうかを知る機会はもうない。彼は火葬にされたため、脳も何も残らなかったのだ。

 ただし彼の元隣人が、レイクという人間の謎に触れるひとつのよすがとして、こんな一言を残している。
「レオナード・レイクは、わたしの知ってる中で、もっとも好ましい“不愉快な男”だった。」

 


●クリス・ワイルダー

 クリストファー・ワイルダーは一見、なんの不足も不満もない男に見えた。
 フロリダのビーチ際で建設・電気工事会社を30代なかばにして経営し、背は高く、生え際が少々後退しかけてはいたものの、それはかえって彼を精力的に見せていたし、容貌も悪くなかった。
 ファッションは、デザイナーズ・ブランドのジーンズにシルクのシャツ。腕にはロレックス。
 車庫にはポルシェが2台、キャデラックが2台。趣味はオートレース出場。邸宅にはプールとジャグジーがあり、撮影スタジオまであった。
 ペットは3匹のイングリッシュ・セッター。動物愛護協会への寄付も欠かさない。
 酒はたしなむ程度、煙草もドラッグもやらない。彼の職場で人種差別ジョークを飛ばしたり、女性に対して無礼な口のきき方をした者は、彼に呼び出されてこっぴどく叱られた。
 つまり、マナーが良く、紳士で、心やさしく、さりげなく贅をこらした服装をした、独身の富豪。
 それがクリス・ワイルダーの姿だった……表向きは。

 ワイルダーは1945年3月13日、シドニーに生まれた。
 だが母体から引きずりだされたとき、彼はすでに虫の息であった。
 なんとか一命はとりとめたものの、生後数分間、脳に酸素がいきわたらない状態だったことは確かなようだ。
 また、彼は1歳のとき、プールで溺れてうつぶせに浮いているところを発見された。彼がどのくらいの間、無酸素状態でいたのかは不明である。
 また5歳のときには、家族旅行中の車内でいきなり意識不明になり、昏倒した。彼が意識をとりもどしたのは6時間後。ちなみにこのときの記憶はワイルダーの中からすっぽり抜け落ちてしまっているという。

 ワイルダーの父は軍人だったが、彼が14歳のとき除隊して家にいるようになった。
 父は当時の軍人にありがちな厳しい男で、子供たちは彼を呼ぶときは必ず「サー」の敬称を付けなければならなかったし、言いつけにそむけば、容赦なくベルトで鞭打ちをくらった。
 ワイルダーの弟はのちにこう語っている。
「うちは親密な、愛情あふれる家族じゃなかった。家庭内に親しい人間はいなかった。愛というか――まあ両親の夜の夫婦生活は激しかったけど。ぼくらはみんな辟易したもんだった」
 厳格な父を嫌っていたワイルダーは、のちのちになっても男性(とくに年上の)と一緒にいるのが苦手だった。
 同性といると、どうしても態度がとがった、よそよそしいものになってしまうのだ。
 その代わり、彼は女性といることは非常に好んだ。彼はある意味、父親の妻に対するやり方を踏襲していたとも言える。彼は女の子にやさしくする表面的なマナーはこころえていたが、女性に対する尊敬や憧憬は持ち合わせていなかった。
 ワイルダーが女性に求めたものはたったひとつ、「服従」だった。

 車とサーフィンと女の子のことしか頭にない10代の少年――そう書くならば一見ひどくまともだが、彼の内奥はすでに正常とは大きくかけ離れていた。
 ワイルダーが初めて前科持ちになったのは17歳のときだ。
 罪状は輪姦の主犯であった。
 彼は有罪となったが、性的衝動に対するカウンセリングを受けることを条件に保護観察処分となった。
 彼は青少年用短期収容所に送られ、強制的な治療を受けた。
 それは「椅子にくくりつけられてポルノを見せられ、肉体的な反応を示したら、体に電流が流される」というひどいものだった。これでパブロフの犬のように、条件反射的に性衝動を抑えられるだろう、というわけである。
 しかしこの治療はワイルダーに「性衝動にともなう怒り」を植えつけただけだった。
 彼の女性に対する支配欲に、サディスティックなものが加わったのはこれ以後だと言われている。

 ワイルダーが結婚したのは22歳のときで、相手は20歳の女教師だった。が、当然のことながらこの結婚は失敗だった。
 彼は妻に異常な性交渉を強制し、暴力をふるい、彼女の妹や母親にまで手を出そうとした。
 ワイルダーはデサルヴォと同じく性欲過剰で、妻との交渉のほかにも、一日何度も自慰をしなければおさまらなかった。
 映画を観てもTVを観ても、彼の興味は女性の肢体だけで、いっしょに映画館に入ったときなど、水着姿の女や軽いベッドシーンが出てきただけで、あからさまに身を乗り出し息を荒くした。そんな夫が、妻は恥ずかしくてならなかった。

 結婚生活と併行して、ワイルダーは下着泥棒をはたらき、ほかの女のヌード写真を撮っては収集に励んだ。
 結婚式をあげてからほぼ一年後、彼らは離婚した。
 離婚後、ワイルダーはそれまで以上に熱心に女あさりを始めた。
 この当時の彼の得意とした手口は、ビーチにカメラを持って出かけ、めぼしい女の子に
「僕はプロのカメラマンなんだ。きみは僕のイメージにぴったりだ。きみの写真を撮らせてくれないか」
 と頼むというものだった。
 そして更衣室にふたりで向かい、そこで女の子の水着を剥ぎ取ってヌード写真を撮る。さらにそれをネタに脅迫してレイプする、というわけである。
 ワイルダーは女の好みにうるさかった。
 彼の犠牲となったのはおしなべて、スタイル抜群の、モデル級の美女ばかりだった。

 しかし1人の女の子にしつこくしすぎたため、ワイルダーは警察についに訴えられた。
 正式な起訴とはならなかったが、周囲の眼は厳しく、しかたなく彼はアメリカに逃げ出した。
 ところが運は彼に味方した。
 アメリカで立ち上げた会社が大成功をおさめたのだ。彼はまたたく間にポルシェとキャデラック、プール付きの大邸宅の所有者となった。しかもフロリダは気候がよく、ビーチがたくさんあり、女の子たちはセクシーだった。
 ワイルダーは何人かの女性と付き合ったが、いずれも長続きしなかった。原因は主に彼の暴力。彼は相手を痛めつけ、服従させることでしか性的満足感を得られない男だった。
 ある日、男友達とケーブルTVでポルノを観ているとき、彼はいまいましげに言った。
「女を殴るシーンがないじゃないか。僕の好みには合わないな」。

 ワイルダーは1968年、ビーチで知り合った女の子のヌード写真を撮った罪で逮捕されている。このときはささやかな罰金を払ってかたを付けた。
 1973年には双子の息子たちを連れた母親を誘拐し、レイプしようとした。
 しかし母親がそれだけはやめて、と激しく拒絶したので、オーラル・セックスをさせることにした。また子供同士、母親と子供とで性行為の真似ごとをさせ、それを見て楽しんだ。
 1976年、ワイルダーはある家の改修工事に行き、その家の16歳の娘を言葉たくみにトラックに誘いこみ、殴ってオーラルセックスを強要した。
 この件で彼は訴えられたが、陪審員は16歳の小娘より億万長者の男の方を信用した。クリス・ワイルダーは無罪放免となって、大手をふって社会に戻っていった。
 1980年には、女の子2人にLSD入りのピザを食べさせて、レイプした罪で起訴されている。だが警察の捜査と証拠保存の不備により、彼はセラピーを受けることを条件に微罪で釈放された。

 それから数年間、ワイルダーは仕事に精を出し、セラピーにおとなしく通った。
 表面的には彼はまったく改心しているように見えた。
 だが、それとは裏腹にワイルダーの内では妄想と衝動が沸騰寸前までに渦をまいていた。
 彼の抱く性的幻想は次第にエスカレートし、どんどん下品に、残忍になっていった。
 ワイルダーは女を縛り、殴り、拷問し、奴隷市場に売り飛ばす様を夢みた。彼はセラピストにさえ、女を誘拐し、監禁し、切り刻む話をして聞かせた。妄想の中で女たちは両手両足を切断され、アジアの見世物小屋でさらしものにされることすらあった。
 セラピストはその微に入り細にわたった描写に吐き気をもよおした。

 しかし彼は表向きまともに見えたので、1982年、保護監察官は彼に旅行の許可を出した。
 旅行先で彼は女の子ふたりを騙して誘拐し、猥褻行為をしたかどで逮捕された。
 彼は保護観察の監視下にあり、それを破ったのだから留置所送りになって当然であった。しかしワイルダーは保釈金を払っただけでまた社会に放たれた。これは警察の決定的な失敗だった。
 このとき彼を逮捕した刑事はのちにこう言っている。
「あの時点で奴を留置所に叩き込み、独房の鍵を投げ捨ててしまうべきだったんだ」
 と。

 クリス・ワイルダーの暴走がはじまるのはこの2年後のことである。
 1984年、マイアミ・グランプリでコンパニオンのバイトをしていた女子大学生――ロサリオ・ゴンザレスが行方不明になった。彼女は「完璧」にほぼ近い美女で、モデル志望。恋人と婚約中だった。このレースには勿論ワイルダーは出場していたが、この時点では、誰もそのことを結びつけて考えた者はいなかった。
 その8日後、障害児の指導員である23歳のエリザベス・ケニオンが姿を消した。
 彼女は1982年度の「オレンジ・ボウル・プリンセス」であり、ミス・フロリダの最終選考にも残ったほどの美女だった。
 エリザベスの両親は彼女のアドレス帳を見つけ、そこにクリス・ワイルダーの名前を見つけた。
 彼女はワイルダーのことを両親に「完璧な紳士」と紹介していた。なお、この日ワイルダーは両手にたくさん切り傷をつくり、自宅のプールのまわりを血だらけにしていたが、「犬のけんかだ」と言ってこれを自ら洗い流している。
 エリザベスの家族は彼の前科を調べ、単独で目撃者の話を聞いてまわった。彼らはワイルダーが娘を誘拐したのだと、ほぼ確信した。
 警察も、ワイルダーが新車に買い換え、キャデラックのトランクに臭い消しの重曹をまいた時点で、ようやくエリザベスがただの行方不明ではなく、事件にまきこまれた可能性があると認めた。
 ワイルダーは3月15日、ビーチで15歳の女の子ひとりを行方不明にさせたのを置き土産に、姿をくらました。

 3月18日、エキゾチックな美貌の持ち主である21歳のテリー・ファーガソンが失踪した。
 彼女は3日後死体となって川に浮いた。激しく殴打され、絞殺されていた。
 3月20日、ワイルダーは19歳の大学生を「モデルを探してる。僕はカメラマンだ」といういつもの手口で誘い、誘拐した。彼女は目にテープを貼られ、両手足を後ろに縛りあげられてトランクに放り込まれた。
 ワイルダーはときどき停車しては、彼女に「かわいいね」「いい子だ」などと優しく声をかけ、縄をゆるめてやろうとするかと思えば、殺すと脅かしたり、窒息寸前になるまで鼻孔をふさいだりした。
 彼は夜になってモーテルに入り、彼女を寝袋に入れて、かついで部屋に入った。
 ワイルダーは彼女の指にむき出しの電線を巻きつけ、電気ショックを与えながらレイプした。
「逆らったら、おまえの全身を電球にしてやる」
 そう言って緩急をつけて電気ショックを与えつづけ、オーラル・セックスを強要し、彼女のまぶたに瞬間接着剤をたらして目をふさいだ。
 ワイルダーは彼女に、エアロビクスのビデオ音楽に合わせて踊れと命じた。それが終わったら彼女の体毛を剃ることを宣言した。
 剃刀を持ち出すと聞いた彼女は、なんとしてもここから逃げなければならない、と決心した。
 彼女はすきを付いて逃げ出した。
 追ってくるワイルダーと格闘になり、目に指をつっこんで浴室に逃げこんだ。ワイルダーはパニックに陥り、彼女を残してそのまま逃走した。
 彼女はモーテルの管理人室に助けを求めたが、用心ぶかい管理人は警察を呼びはしたものの彼女を中に入れようとはせず、警察が到着するまで、彼女は傷ついた体でプールサイドにぽつんと座っていなければならなかった。

 3月23日、ブロンド美女のテリー・ウォルデンが失踪。彼女も3日後、川に浮いた。
 殴られた上、首を絞められたあとが残っていた。しかし直接の死因は刺し傷による出血多量だった。
 3月25日、モデル志望のスーザン・ローガンが失踪、翌朝死体で見つかった。
 髪は刈られ、体毛を剃られ、殴打され、体には深い歯型がついていた。刺し殺されていた。
 3月29日、ブロンドでブルーアイズの美女、シェリル・ボナベンチュラが失踪。彼女は後ろ手に縛られ、乳房を切除され、心臓を刺され、片腕と胴体をマグナムで撃ちぬかれた姿で発見された。
 4月1日、「セヴンティーン・カバーモデルコンテスト」に出場した17歳の美少女、ミシェル・コーフマン失踪。
 彼女の父親は娘の捜索に1万ドルの懸賞金を出したが、獲得者はいなかった。ミシェルは5月になって、白骨死体で発見された。

 4月3日、16歳のティナがワイルダーに誘拐された。
 彼女はワイルダーの趣味とは微妙にはずれて、すらりとした美女ではなく、ぽっちゃりしたキュートなタイプだった。そして、ろくでなしの両親のもとに生まれ育ったせいで、しっかりした機転のきく女の子であり、そういった意味でも今までの犠牲者たちとは違っていた。
 彼女は13歳のときにレイプされた経験があり、苦労つづきの人生を切り抜けるこつを心得ていたのだ。
 ティナはワイルダーにレイプされ、髪を刈られ、電流を体に流された。彼はティナの耳の奥までコードを突っ込んだ。
 4月5日、ついにワイルダーはFBIの十大凶悪指名手配犯のひとりにリストアップされ、TVで顔写真が公開された。彼を「WANTED」とするポスターが町中に貼られた。
 ワイルダーはひげを剃り、モーテルを逃げ出した。焦燥とパニックの中、彼はティナを拷問することでようやく精神の均衡を保った。
 ティナは絶え間ない責め苦により朦朧としており、ワイルダーはもう逃走の懸念はないとみて、彼女の縄をはずした。ティナが生理になると彼は鶏姦を強要し、彼女が抵抗すると電流を流して思いを遂げた。

 4月10日、彼はティナに協力させて16歳の新たな生贄を誘拐した。
 被害者はドーネット・ウォルト。今度はワイルダーの好きな美人タイプだった。
 ドーネットはレイプされ、電流を流され、ティナとレズビアンを演じさせられた。しかし彼女はティナと違い、服従したふりを続けることができなかった。ドーネットはナイフで刺され、縛られたまま車から放り出された。
 だが彼女は意識を失ってはおらず、ぬるぬるする血の助けを借りて縄をほどくと、助けを求めて歩きだした。彼女は通りかかった車に救助され、救急車で運ばれた。
 ドーネットを刺した1時間後、ワイルダーは33歳の女性を誘拐し、射殺。そののち、
「僕はもう金持ちになったし、なんでも手に入る身分になったんだ。でもどうしてこんなことになったのか自分でもわからない」
 そう言って、ティナを解放した。
「僕がひげを剃ったことと、車種については嘘をついてくれ。最後の場面にはきみはいない方がいい。……あとは本でも書くがいいよ。きっと売れる」
 ティナは自由にしてくれる、というこの言葉を信じなかったが、しかし真実だった。
 9日間にいたる監禁生活を、ティナは生き延びたのである。

 4月13日、ワイルダーはヒッチハイカーをひろい、最後の犠牲者に仕立てあげようとしたが、これは失敗し、逃げられた。
 ニューハンプシャーのレストランに入ったワイルダーは、その駐車場でふたりの警官に職務質問を受けた。ひげの剃り跡は他の皮膚と違って日焼けしておらず、最近剃ったことは明らかだった。警官は彼がクリス・ワイルダーであることを確信した。
 ワイルダーは銃を取り出そうとした。
 警官のひとりが背後から彼をおさえた。もみあううち、銃が暴発した。
 銃弾は警官と、ワイルダーの命をあっけなく奪った。

 7週間にいたる逃亡の旅で、いったいワイルダーは何人殺したのか?
 彼自身の死によってそれは永遠の謎となった。
 ワイルダーの死体は解剖され、脳を調べられたが、「まったくの正常」という結果が出た。外傷も腫瘍もない、ただの脳。
「どうしてこんなことになったのか自分でもわからない」
 ワイルダー自身がそう言ったように、彼をかりたてた衝動の原因がなんだったのかは、現代の医学ではまだわかり得ない領域のものだった。
 彼は火葬にされ、遺骨は弟がひきとったという。

 


●ジェラード・スタノ

 1980年2月、フロリダの空港裏のゴミ捨て場で、若い女性の死体が発見された。刺し傷だらけで、かなり腐乱がすすんでいる。
 着衣に乱れはなく、死体の一部は木の枝で覆われていた。
 死体の身元は歯型などから、メアリ・メイハーという20歳の水泳選手であることが判明した。
 彼女にはヒッチハイクで車を拾い、乗せてもらうことを習慣があった。

 同年3月、売春婦が警察に駆け込んできて、
「赤い車に乗った客に拾われたの。あたしはヤクをやっててハイになってて、なんでもしてあげるって言った。でもそいつあたしにひどいことをしたのよ。ナイフで切りかかってきたの」
 と言った。
たしかに腿の傷はひどく、27針も縫わなければならなかった。
 売春婦はハイになっていたとはいえ、車と男の特徴はよく覚えていた。車はすぐに見つかり、同時に所有者もすぐに割れた。
 車の持ち主の名はジェラード・スタノ。過去に売春婦に対する傷害事件を何度も起こしていた。

 スタノはヒッチハイクの売春婦を拾う習慣があったようだ。
 売春婦はスタノに面通しされ、「絶対にこいつよ」と言い切った。
 一方、メアリ・メイハーの捜査に行き詰まりを感じていた捜査班は、「ヒッチハイク」というキーワードからスタノのこの一件に関心を持った。片や、ヒッチハイクの習慣がある女、片やハイカーを拾う習慣のある男、というわけだ。むろんメイハーは売春婦ではない。しかし尋問に立ち会ってみる価値はありそうだった。

 スタノにメイハーの写真を見せると、彼は彼女を車で拾ったことがある、とあっさり認めた。
 警官が尋問をはじめると、スタノは最初のらりくらりと返答していたが、
「きみは彼女に手を出そうとしたんだろ? でも彼女はその気にならなかったんだな?」
 との質問に、スタノの顔は怒りでさっと赤くなった。
「ああ。その気になりやがらねえ! あいつ俺をぶん殴りやがった」
 メイハーは水泳選手で筋骨たくましかった。彼女に殴られたら、鼻血くらい出ただろう。
 警官はこのスタノの怒りっぽさを利用して、ついにメイハー殺しを自供させた。
「あの女が悪いんだ、あいつが俺を怒らせやがった。だからぐさっとやってやった」。
 この自供をとってしばらくのち、別の警官が迷宮入りになりかけている売春婦殺しの一件を見つけ、尋問室に持ってきた。
 死体は動物に食い荒らされており、死後しばらく経過して発見されたことは明白だったが、犯行現場の周辺で木の枝が数本折られているのが現場写真に残っていた。
 売春婦、そして木の枝。キーワードは重なっている。
 スタノは被害者の写真を見て一言、
「俺はこいつらが大嫌いだ」とだけ言った。
 刑事はこれがスタノの犯行であることを確信した。
 そして同時に自分の前にいるのが、どうやら大量殺人犯らしいことに気づいた。

 スタノはプロファイラー言うところの「秩序型殺人犯」だった。
 彼の「儀式的行為」は木の枝で被害者の体を覆い隠すことだった。のちにスタノを調査した心理学者は彼を「
ロンブロオゾの述べた“生来殺人者”の1人だ」と言った。

 ジェラード・スタノは、ダウンタウンの荒廃ぶりをよく承知しているはずの児童保護局にすら「信じがたい放置」と形容されたほどの、劣悪な環境に生まれ落ちた。
 生物は生まれて最初の数日間に、絆の形成に必要なだけの愛情を受けなければ一生愛を知ることはないと言われる。しかしスタノはおそらく最小限の愛情さえ受け取ってはいなかった。
 彼は養子縁組によって里子に出された。そこでも彼は常習的に盗み、騙し、嘘をついた。
 また自尊心が低いため、知恵遅れか身体障害者の女の子を好んだ。彼が「男になれる」のは一貫して“自分より一段下”と彼が認識できる女だけだったのだ。すなわち精神および身体に障害があること。情緒不安定であること、または売春婦であること。

 スタノは過食症の女性と結婚したが、結婚生活はたちまち破綻した。
 警察がこの「元・妻」を探し出したとき、彼女は両親と共に「形容のしようがないほど不潔な、乱雑な環境」で暮らしていた。
 スタノは34件の女性の殺害を自供したが、のちに否認。
 だが結局は検察・弁護士・裁判官の有罪答弁取引の結果、6件の殺人を認め有罪となった。
 彼は75年の懲役を受けたが、のちの裁判で死刑宣告を受けた。

 


●キャメロン・フッカー

 1977年5月19日。
 オレゴン州在住のコリーン・スタンという20歳の女性が、カリフォルニアに住む友達のバースデイ・パーティに出席するため、ヒッチハイクで行くべく出発した。
 道中、ブルーのダッジに乗っていた若い夫婦がコリーンを乗せてくれた。
 奥さんは赤ん坊を膝に乗せ、ご亭主は眼鏡の似合う優しそうな紳士だった。若い男のドライバーひとりだったら、若い女のハイカーは断ることも多いが、赤ん坊連れの夫婦に拾われて安心感を覚えない者はまずいないだろう。しかしこの場合、それはひどい失敗だった。
 途中で若夫婦は
「ちょっと国立公園にある氷の洞窟を見学していきたいんだが、立ち寄ってもいいかい?」
 とコリーンに訊ねた。コリーンはこころよく承諾した。ロマンティックですてきだとさえ思った。
 しかし車通りのない脇道に来たところで、突然車は急停車した。
 夫婦の亭主のほうがコリーンの喉にナイフを突きつけ、後ろ手に手錠をはめ、猿轡をかませた。抵抗する間もなかった。さらに手製らしき木の箱を頭からすっぽりかぶせられ、コリーンはなにも見ることができなくなった。

 数時間後、彼らの乗った車は若夫婦の自宅らしき家に着いた。
 亭主はコリーンを地下室に連れていき、彼女を裸にした。しかし目的は強姦ではなかった。代わりにコリーンは革紐で天井から吊るされ、鞭打たれた。その後、夫婦は吊り下げられたコリーンの足元で性交した。
 ことが済むと、亭主はコリーンの頭にまた木箱をかぶせ、高さ1メートルほどの大きな木箱に押し込めて鍵をかけた。彼女はそのまま翌朝まで放置された。
 翌日、コリーンは足を鎖でつながれて、食べ物を与えられた。
「食欲がないわ」
 と言うと、男はまたコリーンを天井から吊るし、鞭をくれた。
 また彼女の性器に電気ショックを与える張形を挿入したが、これは幸いなことに作動しなかった。

 監禁生活は何週間もつづき、その間にコリーンの体は汚れてきたので、男は彼女に風呂に入る許可を与えた。
 しかし彼女が風呂につかろうとすると、男は彼女の体をひっつかんで逆さにし、頭を水に押しつけて、限界ぎりぎりまで手を離さなかった。男はこれを何度も繰り返し、その合間に、苦悶にあえぐ彼女の写真を撮った。
 男の名はキャメロン・フッカー。
 1953年生まれで、内気で孤独な少年時代を過ごした。親しい友人はおらず、親族との関係も良好なものではなかった。またお世辞にも知的とは言えない環境に育った彼の唯一の読書はポルノ雑誌だった。特に緊縛と鞭打ちが好きで、いつも脳内でサディスティックな妄想にふけっていた。
 フッカーの妻の名はジャニス。
 彼女は地味でおとなしく、男性を崇拝してついていくタイプの女だった。彼女は男の子にひどい態度をとられるのを当然と思い、かえって支配されるのを好んだ。
 ふたりが出会ったのはフッカーが19歳、ジャニスが15歳のときだった。
 彼は彼女に
「きみを森に連れてって、木に吊るしたい。いいかい?」
 と訊いた。
 ジャニスはいやとは言わなかった。むしろ、木から下ろしてくれたときのフッカーの優しさに愛情を感じ取り、嬉しく思ったほどだった。
 1975年、ふたりは結婚した。
 夫婦生活は当然のことながら、正常なものではなかった。ジャニスは「ごくふつうの結婚生活」を望んでいたが、夫に逆らう気はない。フッカーはそんな妻の気持ちを敏感に感じとり、長年の夢――つまり、
「若い女の子を誘拐して、“奴隷”にしたいんだ」
 ということを打ち明けた。
 ジャニスは初めのうちこそ驚き、反対したがついには折れた。
 なぜなら彼女は従順な服従型の女性ではあったものの、マゾヒスティックな性癖はゼロだったからだ。
「奴隷ができたら、彼はもうあたしをぶったり、首を絞めたりしなくなるだろう」
 その程度にしか彼女は考えていなかった。
 このようないきさつによって、コリーン・スタンはフッカー夫妻の地下室の箱の中で監禁生活を送ることになったのである――じつに7年もの間。

 しかし監禁生活が一ヶ月を過ぎたあたりで、ジャニスは罪の意識に耐えられなくなり、実家に帰った。
 それは失敗だった。
 フッカーは「あれは奴隷に過ぎない。僕は奴隷と肉体関係は持たないよ」と約束していたが、妻がいなくなったことによって彼の抑制の鎖はゆるんだ。
 フッカーはコリーンにオーラル・セックスを強い、(本当の性交でなければ、妻との約束を破ったことにはなるまいと考えてのことだった)また、彼女に火傷を負わせたり、電気ショックを与えたり、首を絞めたりすることで性的快感を得た。
 フッカーとコリーンの間の垣根はさらに低くなり、彼はコリーンに編物や縫い物をさせ、できた作品を地元のフリーマーケットで売りさばいたりもした。
 また、彼はコリーンに「自分は、奴隷市場を牛耳る組織の一員だ」という嘘を吹き込んだ。
 およそ現実味のないヘタな嘘だが、現実に監禁生活を強いられているコリーンにとっては別だった。彼女はあらためて震えあがり、フッカーの差し出す「奴隷誓約書」にサインをした。
 これ以後、コリーンのフッカーに対する忠誠は深まったように見えた。
 彼女は地下室から出ることを許されたが、フッカーに「気をつけ!」と命じられれば、全裸になり両手を頭の上に置いて爪先立ちしなければならなかった。

 危機感を抱いて戻ってきたジャニスはある日、夫が断ってくれることを期待して
「今日からあなたのベッドの相手は、奴隷にさせるといいわ」
 と言った。
 しかしフッカーは彼女の期待を裏切り、ただちにコリーンを連れてくると、猿轡をかませ、縛りあげて強姦した。それを見てジャニスは嘔吐した。そのあと、コリーンはまた地下室の箱に閉じこめられた。

 フッカーは「もっと人里離れたところに引っ越して、思う存分この生活を満喫したい」と考えた。
 夫妻はコリーンを連れてハウストレーラーに引っ越した。
 フッカーはコリーンに絶えず「脱走をこころみた奴隷たちの、哀れな末路」を吹き込み、コリーンもまたそれを信じた。
 彼は彼女が奴隷の身であることを忘れぬよう、一定の間をおいては吊るし、鞭で打った。また彼だけではなくジャニスに対しての奉仕をも命じたこともある。が、ジャニスはこれに吐き気をもよおしただけだった。

 コリーンの監禁生活は3年目を過ぎようとしていた。ときにはジャニスの服を借りてドレスアップし、ダンスパーティに連れていってもらったこともある。また1人での外出を許され、ジョギングする自由を与えられたこともあった。
 しかし彼女は逃げなかった。
 フッカーの「洗脳」はほとんど完全に成功しており、彼女はみずからを
「ご主人様の忠実な、お行儀のいい奴隷」
 と認識するまでになっていたのだ。

 コリーンは従順であるご褒美として、両親や妹に手紙を出したり、電話をするのを許されたことさえあった。――もっともつねにフッカーの「検閲」は通さねばならなかったが。コリーンは両親に「とても面倒見のいいご夫婦のところにお世話になっている」と言い。両親がもっと詳しいことを聞こうと食い下がると、フッカーが電話を切らせた。
 この状態は長くつづき、年は何度か明け、1984年になった。
 ジャニスとフッカーの夫婦関係は気まずくなる一方で、とくにもうジャニスは縛られることにも鞭打たれることにもうんざりしていた。
 彼らはある日、ついに話し合いの場をもうけた。
 ジャニスは過去の浮気を白状し、フッカーは妻に隠れてコリーンをたびたび犯していたことを認めた。
 彼らは夫婦生活を修復するべく、信仰に救いを見出そうとし、いっしょに聖書を読むようになった。コリーンはすでに救いを信仰に求めていたので、このお祈りの会に加わることになった。
 ジャニスとコリーンの関係は、この会を通して一変した。それまでジャニスはコリーンを見下げ、顎でこき使うふしがあったが、今では聖書を共に研究する仲間としてだけではなく、友人としても親しくなったのだ。
 ジャニスはコリーンを奴隷扱いすることも、夫の嘘を後押しすることも心苦しくなってきていた。
 フッカーの許可を得て、女2人で教会に通うようになると、罪の意識はますます強まった。
 しかしそんな妻の気持ちも知らず、フッカーは
「エイブラハムは妻の女中と寝床を共にした、と『創世記』にある。ジャニス、お前もエイブラハムの妻と同様おれとコリーンが一緒に寝るのを大目に見てくれなきゃいかん」
 と言い出した。また、さらにジャニスとコリーンに同性愛行為を強要した。

 1984年8月9日、この生活を続けていくことについに耐えがたくなったジャニスは、コリーンにすべてを打ち明けることを決心した。
 「奴隷市場を牛耳る組織」など存在しない、あなたは奴隷などではなく、ただフッカーに誘拐された被害者なのだ、と告げると、コリーンは驚愕した。
 2人は一緒に教会の牧師を訪ね、あらましの半分ほどを告悔した。牧師は2人に、フッカーのもとを去りなさいと薦めた。
 翌朝2人はフッカーの家を出た。
 コリーンがフッカーに電話し、
「あんたが嘘つきだったってことはもう知ってるわ。――これで失礼します」
 と告げると、フッカーは電話口で泣き出した。

 コリーンは実家に帰り、家族にすべてを話したが警察に行くことは拒否した。
 一方ジャニスはフッカーに
「これからは心を入れ替えるから」
 と泣きつかれ、彼のもとへ戻った。
 牧師の薦めでフッカーは家のポルノ雑誌や拘束具をいったんは燃やしてしまったものの、しばらく経つとまた懲りずにポルノの収集をはじめた。
 しかし相変わらず罪の意識に苦しんでいたジャニスは、医院の受付嬢に一連のすべてのことを打ち明けた。
 受付嬢はもう1度牧師を訪れ、今度は全部ぶちまけるべきだと言った。ジャニスはそれに従い、牧師を訪ねた。はじめて事件のすべてを知った牧師は仰天し、彼女を説き伏せて警察へ行かせた。これが11月7日のことである。

 しかしジャニスが警察で供述したのは、コリーンの7年間にわたる監禁生活のことだけではなかった。
 コリーンを誘拐する前――1976年1月、フッカー夫妻はひとりのヒッチハイカーを拾った。17歳の少女である。
 フッカーはコリーンにもしたように彼女の頭にも「箱」をかぶせ、家に着くと、彼女の服を剥いで天井から吊るし、悲鳴を止めるためにナイフで声帯を切り、散弾銃で腹部を撃ち、しまいに絞殺した。
 翌朝早く、フッカー夫妻は山へ彼女を埋めた。
 少女は行方不明者のひとりとして、8年もの間存在そのものを放置された。
 この少女の死体は結局ジャニスの記憶があいまいだったため発見されなかったが、警察はコリーンの監禁事件だけで充分フッカーを起訴できた。キャメロン・フッカーは11月18日、逮捕された。
 この監禁事件が明るみに出るやいなや、マスコミは熱狂した。「セックス奴隷」「完全なる被害者」という見出しが新聞紙上に躍った。
 (なお、「アメリカで今最も不愉快な小説を書く作家」ことジャック・ケッチャムがこの事件をもとに『地下室の箱』(扶桑社刊)を書いている)

 1985年11月22日、フッカーは誘拐、婦女暴行、拷問を含む10の訴因で、合計104年の禁固刑を受けた。

 


●ジョン・ダフィ

 1982年、ロンドン界隈でバラクラーヴァ帽をかぶった背の高い男と、低い男の2人連れに若い女が輪姦される事件が相次いだ。
 1984年、背の低いほうが単独行動をはじめた。
 犯行は大部分が北部一帯、そして鉄道戦沿いに集中しているところからみて、警察は「犯人は鉄道関係者」であると仮定した。レイプ事件は27件にものぼった。

 1985年12月、19歳の少女がレイプされ、絞殺されて川に浮いているのが発見された。
 1986年4月、15歳の少女がレイプの上絞殺された。犯人はハンカチに火を点け、それを少女の膣に突っ込んだ。どうやら彼女の体内に残った自分の精液の痕跡を消そうとしたらしい。警察はこのことから、犯人には前科があるのではないかと考えた。
 1986年5月、29歳の秘書が同じく強姦絞殺された。このときも遺体の一部を焼こうとした試みが発見された。

 警察は関連の各機構のそれぞれのコンピュータをリンクさせ、手持ちの情報をプールすることに決めた。
 警察というのはどの国においても「管轄」を重要視し、火花を散らせるのが常である。しかしもうこの犯人に対し、管轄がどうのと言っている場合ではないと彼らの意見は一致した。
 5000人のセックス犯の内から、彼らは1999人にまで容疑者を絞りこんだ。

 そのリストの1594番目に、ジョン・ダフィという英国国鉄で昔大工職をしていた男の名があった。
 彼は逃げた女房のあとを追い、レイプした罪で起訴された前歴があった。
 また、ダフィの赤毛とあばた面、160センチそこそこの身長は「鉄道レイプ犯」のモンタージュにまさにぴったりであった。警察の事情聴取においても、小馬鹿にしたような態度はひどく当局の心証をそこねた。警察は彼に対する容疑を強めた。――だが、まだ調査対象は1000人残っており、証拠は何もない。
 当面は彼を世に放っておくしかないのだった。
 英国国鉄では監視を強化した。
 が、これはマスコミの逆監視によりおじゃんとなった。これは「マスコミが捜査の邪魔をした典型例」と今も言われている。
 警察がマスコミと争っている間に、レイプ犯は女子学生をまんまとレイプした。このときも人相書きはダフィを指していたが、相変わらずそれは決定的な証拠とはならなかった。

 スコットランド・ヤードはここで、アメリカで開発されつつあった「プロファイリング」の技術をこの一連の事件に投入した。結果、
「鉄道凌辱犯はロンドン北部在住、半熟練労働者、妻との関係は良好ではなく、不安定。2人の男性の親しい仲間がいる……」
 という項目を含む17の特徴点が挙げられた。
 この分析を調査対象全員に当てはめて洗い出したところコンピュータはただちにジョン・ダフィの名を打ち出した。

 ダフィの住居には厳重な見張りがつけられた。
 彼の一切の行動には監視がつけられ、詳細が逐一報告された。しかしダフィはこれで観念するような人間ではなく、かえって監視と尾行を出し抜くことを楽しみだした。
 ダフィは電車のドアが閉まる寸前に飛び乗ったり、または飛び降りたり、店に入ると見せかけては裏口から抜け出たり、口髭をいきなり剃りおとしたりして警察を煙に巻いた。
 彼のこの挑発的な態度は、しかし警察に彼の逮捕を決心させただけだった。

 だが逮捕後も、ダフィはしたたかな役者ぶりを発揮した。
 彼はありとあらゆる尋問を否定するでもなく、肯定するでもない態度で逃げつづけた。表情は一定して、不快な無表情な顔。しかも目は、刑事の1人が「レーザー光線級の眼光」と形容した凝視で尋問者を睨みつけたままであった。(この凝視については凌辱犯の被害者の供述に完全に一致した)
 一方、彼の自宅からは捜索の結果、数多くのナイフが押収された。

 また彼の前妻からは、
「あの人は普段からレイプみたいな真似が好きで私にも強要しました。抵抗すればするほど悦び、おとなしくしてると気に入らないみたいでした。――あと、レイプ経験もあると言ってました。でも弱いからいけないんだ、責任はあっちにある、って……」
 という証言が得られた。

 また、彼の証拠隠滅に一役買ったという友人も現れ、被害者の手足を縛ったと思われる紐もダフィの実家から押収された。
 もはや彼に逃げ道はないように思われた。
 被害者の面通しで、犠牲者5人が迷うことなくダフィを指さした。
 だが彼はこれでも自供しなかった。彼は例の威圧するような眼光で尋問者を逆に睨みつけた。
 被害者の遺体に付着していた繊維くずが彼の衣服の繊維と一致した段になってさえ、ダフィの鋼鉄のごとき頑なさは変わらなかった。

 結局、ダフィが沈黙を守ったため、1982〜84年までのレイプ事件の相棒は発覚することはなかった。だが連続殺人犯としてダフィを挙げるにはもう充分だった。
 また前妻の証言において、ダフィが人生の何に絶望し、犯行を重ねるに至ったかの片鱗も窺うことができた。ダフィは子供を欲しがっていた。が、医師の診断の結果、ダフィには精子の数が少なすぎることが判明したのだ。彼ら夫婦の仲はそれから悪くなる一方で、いさかいが絶えず、1985年の頭には別れている。
 ダフィは裁判の場に引き出され、レイプの被害者4人が証言した。
 中にはまだ14歳の少女までがおり、彼女は証言の最中、耐えられずにしくしく泣き出した。しかしそれを聞きながらも、ダフィの無表情は最後まで崩れることはなかった。

 陪審員の評決は有罪。
 最低30年の懲役刑を宣告される間も、ダフィは無感動に前方を凝視したままだった。
 ジョン・ダフィは英国最初の「コンピュータに捕縛された殺人者」としても名を残すこととなった。

 


●ハーヴェイ・グラットマン

 1957年7月、ウェストハリウッドのアパートで共同生活をしていた3人のモデルのところに、フリーのカメラマンと称する痩せぎすの男がやって来た。
 男は3人のうち、ヌードやセミヌードのピンナップ専門の仕事をしているジュディを選んで、一時間20ドルを支払う契約をしたのちスタジオへ彼女を連れて出ていった。
 しかし、それきりジュディは行方不明になってしまった。
 契約時に男が残していった電話番号はでたらめだったし、ハリウッド地域のスタジオに男の名乗った名での登録カメラマンはいなかった。

 3ヵ月後、ロサンゼルスからおよそ200キロ離れた砂漠で、砂地に浅く埋められた死体が発見された。
 体のサイズも髪の色もジュディと一致していたが、検死官が19歳のこの遺体を「30〜35歳の女性の遺体である」という誤鑑定を出したため、この死体は身元不明、ジュディは行方不明者として長らく放っておかれる羽目になった。

 1858年3月、デートクラブの紹介で相手と初対面を果たしに出かけた24歳の離婚歴のある女性が失踪した。
 彼女は2人の子持ちだったが、モデル並のブルネット美女だった。彼女のデート相手として選ばれた男は、ジュディ失踪の際に訪れたカメラマンの人相と一致していたが、誰もまだその点に注目した者はいなかった。
 3ヵ月後、ロサンゼルスでまた24歳の女性が失踪した。
 彼女もまたブルネットで、元ストリッパーだが今はピンナップ専門のモデルをして生計をたてている美女だった。大家が彼女の部屋が静まりかえっている事に不審を抱いて合鍵で室内に踏み込んだとき、すでに彼女の姿は影も形もなかった。ただ、彼女の愛犬のコリーはなんとか餓死をまぬがれた。
 同年10月、モデル事務所を訪れたアマチュアカメラマンがあった。事務所の女社長は以前この男に雇われてポーズをとった経験があったため、疑いもなく新人モデルを貸し出した。
 男が連れていったモデルはロレインという27歳の、スタイル抜群の美女だった。また男の好みにぴったりの黒髪でもあった。
 カメラマンを称する男は彼女を車の助手席に乗せ、ロサンゼルスのダウンタウンにあるスタジオに向かった。
 しかし車はダウンタウンへは到着せず、どんどん道をそれていった。ロレインは抗議したが、男は無言で車を走らせつづけた。
 車はLAから55キロ離れたところで脇道に入り、止まった。
 男が銃を抜くのを見て、ロレインはなにが起こっているかをはっきりと理解した。
 男が彼女の手首を縛ろうとし、彼女はもがいた。車が何台か通りすぎていったが、誰も目もくれなかった。
「みんな、カップルがいちゃついてるだけとしか思わんさ」
 男は笑って、ふたたび彼女を縛ろうとした。しかしロレインがめちゃくちゃに暴れたため、苛立った男は銃に手を伸ばした。
「おまえは騒ぎすぎる。――うんざりだ」
 銃口から弾丸が飛び出した。弾はロレインのスカートを貫通し、腿に火傷を負わせた。
 彼女は男に掴みかかり、二人は格闘となった。しかし運良くパトロールの警官が通りかかったため、事態はバッド・エンドにならずに済んだ。ロレインは連続殺人者の手をのがれ、生き延びたのである。

 逮捕された男の本名はハーヴェイ・グラットマン。30歳のTV修理工だった。
 勤勉で善良な両親の子として生まれた彼は、17歳のとき女性や少女への性的暴行を含む一連の強盗で逮捕され、5年の実刑を受けている。だが釈放されるないなや、また強盗を起こして刑務所へと戻った。

 グラットマンのアパートの部屋にはピンナップがべたべた貼ってあった。
 その多くは「緊縛ヌード」と呼ばれるもので、高価な撮影機材と、彼自身が撮ったとおぼしき写真も大量に見つかった。その写真の怯えの表情はとても演技とは思えぬものだったので、警察は彼を追及した。
 グラットマンは観念した様子で殺害を自供した。
「殺すつもりはなかった。ただやりたかっただけさ、でもレイプが済むと逮捕されるのが怖くなって――ほかにどうしようもなかった。殺すのはいやだったけど、そうするしかなかったんだ」
 が、彼が殺す行為そのもので快感を得ていたのは間違いないようだ。
 彼の手口はつねに同じで写真を撮ると言って誘い出したのちレイプし、被害者をひざまずかせたあと、両手両足を縛ってうつぶせに寝かせる。それから女たちの首に輪をかけ、絞殺したのである。

 彼の裁判で精神鑑定医はこう証言した。
「被告は異性に対して劣等感を持っており、自分の優位を確信できる場面でしか快楽を得られません。女性が手も足も出ないときになってはじめて、彼は自分が優位に立ったと思えるのです」
 1958年12月、グラットマンはガス室送りを宣告された。

 


●アール・ネルソン

 アール・ネルソンは1897年、カリフォルニアに生まれた。
 母は夫から伝染された性病(おそらく梅毒)がもとで彼が生後9ヵ月のとき死亡。父は翌年死亡している。

 精神薄弱児にありがちな無表情さを常にたたえたこの子供は、10歳のとき市街電車にはねられて頭蓋に穴があき、6日間生死の境をさまよった。ようやく回復したときには、彼は奇行の目立つ子供になっていた。
 四つんばいになって歩いたり、重い椅子を歯でくわえて部屋中を歩きまわったりするのが好きで、放浪癖があり、しょっちゅう服を着替えていなければ気がすまず、猥褻な話や不潔な話をして周囲をいやがらせ、従姉妹の着替えを鍵穴から覗く少年、それがネルソンだった。
 21歳のとき、子供を暴行して起訴されたが、精神異常と診断され病院送りになった。彼は半年の間に3回も病院から脱走し、3回目には2年半も逃げおおせた。しかもその逃亡中に結婚までしている。
 ネルソンの妻がなにを思って彼と結婚したかは不明だが、もちろん夫婦生活はうまくいかず、被害妄想と異常な嫉妬で彼はしじゅう妻を困らせ、しまいには
「他の男が見られないよう、目をつぶしてやる」
 とまで言ったという。
 ではそんなに妻を愛していたかといえば、彼は看護婦をして無職の彼を養ってくれた妻とたった半年一緒に暮らしただけで、彼女を捨てて失踪している。

 1923年にはふたたび強制入院させられたが、これも脱走。
 それから1926年に事件を起こすまでは、どこで何をしていたかまったく不明である。この経歴を聞いただけでも、ネルソンが正常な人間ではなく野放しにされるべきではなかったことがわかるが、しかし結果的にネルソンはさらに1年間、社会を大手を振ってうろつきまわった。

 1926年2月、サンフランシスコの一角で「貸間あります」の貼り紙を出していた63歳の老嬢が、暴行された上扼殺されて発見された。
 同年3月、同じく63歳の女性、「貸間あり」の札を出しており、それを見て訪問したと思われる男に、凌辱の上絞殺。
 同年6月10日、「貸間あり」の札を出した63歳の女性、暴行絞殺。
 同年6月24日、南カリフォルニアで貸間札を出していた47歳の女性、暴行絞殺。
 同年8月、貸間札を出した52歳の女性、暴行絞殺。
 この時点で、家主をして糊口をしのいでいた一人暮らしの女性たちは「貸間あり」の札をのきなみ片づけてしまわなくてはならなかった。

 同年10月19日、オレゴン州で「売家」の看板を出していた35歳の女性、暴行絞殺。
 同年10月20日、59歳の女性暴行絞殺。
 同年10月21日、32歳の女性暴行絞殺。じつに3日連続で1人ずつ殺されたことになる。これほどの凶悪さは、近年ですら稀だ。
 同年11月18日、サンフランシスコで56歳の女性、暴行絞殺。
 同年11月24日、シアトルで45歳の女性、暴行絞殺。
 同年11月26日、オレゴンで48歳の女性、暴行絞殺。
 同年12月23日、アイオワで49歳の女性、暴行絞殺。
 同年12月25日、カンザス・シティで23歳の女性、暴行絞殺。
 同年12月27日、28歳の女性、暴行絞殺。そしてこの女性の生後8ヶ月の赤ん坊が、口の中にボロきれを詰め込まれて窒息死した。
 犯人の顔を見覚えることも、証言することもできない赤子を何の同情もなく淡々と殺したこの犯行に、今さらながらアメリカ全土の市民は震えあがった。ここに至って犯人は“人間とは思われない”という意味をもって
「殺人ゴリラ」という渾名をさずかった。

 なぜかここから4ヶ月、犯行は起こらなかった。が再開されたとき、それは以前にも増す激しさで爆発した。
 1927年4月27日、フィラデルフィアで60歳の女性、暴行殺害。
 同年5月30日、ニューヨークで35歳の女性、暴行絞殺。
 同年6月1日、ミシガンで53歳の女性、暴行絞殺。同居人の29歳の女性、暴行殺害。
 同年6月3日、シカゴで27歳の女性、暴行絞殺。
 つまり4日間で4人の女性が強姦の上、殺されたのである。市民の恐怖はここに極まった。

 しかしここでネルソンは致命的な失敗を犯した。カナダへ国境を越えたことである。カナダの警察機動力はアメリカをはるかに上回っていたのだが、彼はそのことを知らなかった。
 同年6月9日、カナダで14歳の少女、暴行絞殺。この犯行はあまりに惨たらしかったので、一般に公表はされなかった。
 同日、同居の26歳の女性、暴行絞殺。
 カナダ警察は「殺人ゴリラ」が国境を越えて現れたことを悟った。またカナダの市民も充分に自衛的だったので、ネルソンはじきにアメリカにいたときのように自由に動きまわることはできなくなった。

 ネルソンは古着屋に今までの服を売り払う際、店主に怪しまれ、宿屋に荷物を残したまま逃走した。
 その後古着屋店主の通報によって、一帯に人相書きが配付された。
 数日後、郵便局を兼ねた雑貨屋にネルソンは現れ、煙草とチーズを買った。店主は客が人相書きそっくりなことに気づき、なに食わぬふうを装って、彼が帰ったのち通報した。

 逮捕されたネルソンは留置所から脱走したが、わずか12時間で捕縛された。
 裁判にかけられている間じゅうネルソンは無表情で、他人事のような態度を崩さなかった。死刑判決を受けたあとも、拘置所に戻って初めて看守に発した言葉は
「もっといいものが食いたい」
 という一言であった。

 死刑監房にいるネルソンのもとに、ある日、被害者のひとりである14歳の少女の母親が訪れた。
「――この人ですか!」
 と言ったきり絶句して泣きくずれてしまった母親に、ネルソンは無表情に、しかしあくまで礼儀正しく
「あなたは親切な御方です」と頭を下げた。

 1928年1月13日、ネルソンはほとんど狂気のように自ら死刑台を駆けあがった。

 


殺人が長いあいだ、ぼくのうちにひそんでいることはわかっていた。
それは大きな開放感と希望とを与えてくれた。
それは非セックス的どころか、もっともセックス的だ。

――ノーマン・メイラー「アメリカの夢」より――

 

HOME