一 家 惨 殺

 



 


◆関 光彦(市川一家四人殺人事件)


 1992年の事件である。

 2月12日深夜、千葉県市川市でコンビニへの道を自転車で急ぐ少女がいた。少女は15歳で、勉強中にシャープペンシルの芯が切れたためコンビニへ買いに出たのである。クラスの副委員長をつとめ、演劇部と美術部をかけもちする真面目な生徒であった。
 しかし帰宅途中、自転車は背後から走ってきた車に追突され、少女が転んで膝に擦過傷を負った。
 車からおりてきた男は彼女を救急病院へ連れていき、手当てを受けさせた。そのまま自宅まで送り届けてもらえるものと少女は思っていたが、しかし突如男は豹変し、ナイフを突きつけてきたのである。
 頬を切られて怯える少女を男はアパートへ連れ込み、2度犯した。そして現金を奪い、生徒手帳を出させて住所と名前を控えた。
 男の名は関光彦。まだ19歳になったばかりで、余談だがこの22時間前にも24歳のOLを殴りつけ、強姦している。

 3月5日午後5時前、関は少女の自宅へ押し入った。
 事前にかけた電話に誰も出なかったため彼はてっきり家は無人だと思い込んでいた。だが、実際には少女の祖母が留守番をしていたのである。
 関は祖母に向かって、
「通帳を出せ」
 と凄んだが、彼女は怯えた様子もなく自分の財布から8万円を抜き出し、これをやるから帰れ、と言った。
 馬鹿にされた、と思い関はカッとなった。さらに脅しつけたが老女がひるまず警察に通報しようとしたため、関は激昂し彼女を配線コードで絞殺する。
 死体を横にさらに金品を漁っていると、午後7時頃に母親とともに少女が帰宅してきた。
 関は母親を包丁で刺殺。そして床に広がったその血と尿を、娘である少女にタオルで拭き清めることを命じた。目の前で母親を殺され、放心状態の少女は唯々諾々とそれに従った。
 その後、保母に連れられて少女の妹が帰宅。
 夕食後、まだわずか4歳の妹は絞殺された祖母の死体が転がる部屋へ、TVを観ていろと追いやられる。
 それから関は少女を、
本人いわく「気分転換しようと」強姦した。しかし凌辱の最中に少女の父親が帰宅してきたため、これをも刺殺。通帳を奪ったあと、少女をラブホテルへ連れ込み、その場で2度強姦している。
 翌朝、少女の家へ戻ってみると、目を覚ました4歳の妹が泣いていた。
 泣き声に腹を立てた関はその体を掴み、背中から包丁を突き入れ胸にまで貫通させた。
 「いたい、いたい」と幼い妹が細い泣き声をあげるのを聞き、少女に向かって「楽にさせてやれ」と言ったが、少女が動けずにいたので関が絞殺したという。
 恐怖の頂点にいた少女は、わずか4つの妹を殺されて糸が切れたようになり、そのとき初めて関に歯向かった。
 関は少女にも包丁をふるい、左腕と背中を切りつける。
 しかし凶行はそこまでだった。通報によって警官が駆けつけたのだ。関は少女に包丁を持たせ、
「お前、これを俺に突きつけて脅してるふりをしろ」
 と言った。しかし矢継ぎ早の不幸に身も心も疲弊しきっていた少女は、呆然として座り込んだまま動かない。
 苛立って少女を怒鳴りつけた瞬間、雪崩れ込んだ警官隊に彼は捕縛された。
 少女が14時間ぶりに保護され、毛布をかけられたその時も、傍らには少女の母、父、祖母、妹がものいわぬ死体となって転がっていた。

 

 関光彦は1973年1月に生まれた。
 祖父は戦後、一代で鰻屋チェーン店のオーナーとなった成功者であったが、その愛娘と駆け落ち同然に結婚した男は、絵に書いたようなろくでなしであった。
 光彦が生まれたため祖父も二人の仲を許さざるを得なかったのだが、飲む・打つ・買うの悪癖を備えた男の所業のせいで結婚生活はじきに破綻した。光彦は幼い頃から、父に殴られ、蹴られる母の姿をみて育った。父は光彦をもしばしば折檻した。
 折檻された光彦は家を飛び出し、そのたび祖父のもとへ逃げ込んだ。祖父は光彦には甘かったのである。
 彼が9歳になったとき、家庭は決定的に崩壊した。父の借金が億を超えたのだった。この返済のため、祖父は血の滲むような思いをして一代で築き上げた資産のほとんどすべてを失わなければならなかった。
 祖父もさすがにもう彼ら一家の面倒はみきれず、縁を切ると言い渡した。
 両親は離婚し、頼みの祖父にも絶縁を宣告された光彦は、すべてに見放されたような気がしたという。
 一転して極貧生活へ落ちた光彦は、転校先でもいじめられ、次第に鬱屈していった。

 だが中学へ上がる頃には祖父の態度も軟化しており、ふたたび母親と祖父は親子関係を修復した。光彦は所属した少年野球のチームではエースの四番となり、恵まれた体格と腕力で他を圧倒した。しかし、一度ねじれた性質はもうもとへは戻らなかった。父親の性格を強く引き継いでいた、とも言えるだろう。
 学校では真面目な生徒を演じていたが、放課後ともなれば窃盗と飲酒にふけり、母親と弟を殴った。
 高校へは進学したものの、二年生の5月で自主退学。
 しばらくは祖父の鰻屋で働くが、暴力癖はおさまらずむしろ悪化していく一方であった。結局、鰻屋は「きついばかりでちっとも面白くない」と言って半年足らずでやめ、その後は夜の街でのバイトを転々として暮らすようになる。
 しかし遊ぶ金はいくらあっても足りない。祖父の店へ侵入し、売上金の120万を盗み、その1ヶ月後、また6万円を盗んだ。これを咎められ、光彦は祖父の顔面を蹴った。足の親指が左目に突き刺さり、眼球破裂で祖父は片目を失明した。

 18歳になりフィリピン人女性と結婚するが、彼女は3ヶ月足らずで母国へ帰ってしまった。
 不満を溜め込んだ関はフィリピンパブで働く女性を店には無断で連れ出し、アパートへ無理に泊めた。これに怒った経営者がヤクザに依頼し、関は200万円の慰謝料を請求される。
 彼が被害者の少女宅へ押し入り、あれほどの惨事を引き起こしたのも、そもそもはこの金策のためであった。

 
 逮捕時、関は「ああ、これで俺もついに少年院行きか」としか思っていなかった、という。
 1989年の綾瀬女子高校生コンクリート詰め殺人を思い起こし、「あれだけやっても誰も死刑になってないじゃないか。俺なんかまだまともだ」とも思っていたそうだ。

 しかし平成6年8月、地裁の判決は死刑であった。ついで高裁、最高裁ともに上告を棄却。
 平成13年12月、死刑が確定した。
 犯行時未成年で死刑判決が下ったのは、連続ライフル魔の永山則夫以来である。


 


◆松永太・緒方純子(北九州一家監禁殺人事件)


 2002年3月6日、17歳の少女が小倉北区にあるマンションの一室から逃げ出し、祖父母宅へ助けを求めに駆け込んだ。
 少女は怯えながら、
「お父さんが殺された。私もずっと監禁されていた」
 と語った。少女の右足の親指は生爪が剥がれており、
「ペンチを渡されて、『自分で爪を剥げ』と言われたので剥がした」
 とのことであった。
 それまでの経緯などもあり、祖父は少女をともなって門司警察署へ監禁の被害届を出しに行くことになる。しかし彼女が供述した事実は監禁致傷にとどまらず、連続殺人――それも類を見ないほどの一家殲滅とも言える大量殺人であった。
 連絡を受けて現れた小倉北署員がこれ以後事情聴取を行なうことになり、そうして少しずつ、この事件の全貌が語られていくことになる。


 これら大量殺人の主犯である松永太は、1961年4月に小倉北区で生まれた。
 父親は畳屋であったが、松永が7つの時、実父(松永にしてみれば祖父)の布団販売業を継ぐため一家で福岡県柳川市へ引っ越した。松永の生い立ちについては特に語られるべきことがないのか、あまり情報がない。だが経済的に不自由はなく、母親と祖母にべたべたに甘やかされ、ほとんど叱られることのない幼少期を過ごしたようだ。
 高校2年の時、松永は家出少女を拾って自宅へ入れたことで退学となり、公立から私立の男子校へ転校。2年まで在学していた公立高校には、のちのち彼の『相棒』ともなる緒方純子も在籍していた。
 高校卒業後、松永は父親の営む布団販売業を手伝うかたわら、19歳で結婚し翌年には子供をもうけている。
 さらにこの年、布団販売業の有限会社を設立し、代表取締役としておさまった。だが、中身は粗悪品を訪問販売によって高値で売りつける詐欺まがいの会社であった。
 松永は契約のとれない社員に暴力をふるって虐待し、信販会社のセンター長に「接待」と称して昼間から酒を飲ませ、その姿を写真に撮って脅した。これにより信販契約の審査を甘くさせ、立替払金を着服するなどのメリットを狙ったのである。
 なお、のちの一家殺害事件にも使われた「通電リンチ」(電気コードの電線を金属のクリップに付け、腕などにテープで固定して通電する)は、この頃からすでに社員への虐待方法として使用されている。

 対する緒方純子は、1962年2月に久留米市に生まれた。
 兼業農家で土地をかなり所有していた緒方家は由緒もあり、地元の名士とも言うべき存在であったようだ。純子は村会議員の祖父や兼業で会社員の父のもと、何不自由なく育っている。
 そんな彼女のもとへ松永から連絡があったのは、短大を卒業し保育士となって半年ほど経った頃のことであった。
「俺、フトシちゃん。覚えてる?」
 と、高校時代ほとんど面識のなかった純子に、松永は最初から馴れ馴れしかったようである。だが目的は彼女の卒業アルバムだったらしく、松永は卒業写真を見て気に入った女性たちに電話をかけまくっていたという。
 そのかたわら、彼は純子に色気を出すのも忘れなかった。
 「会社の業績は順調で、しかも芸能界からのスカウト話も来ている」と松永は嘘を吹きまくった。そしてすぐに彼女と関係を持つに到る。
 しかし妻子ある男との交際は、じきに純子の実家にバレた。松永は緒方家を訪れ、
「妻子とは別れます。緒方家の婿養子になります」
 としおらしく宣言し、その場で『婚約確認書』なるものを提出した。
 俗に「口約束」と言うが、その反面どんないい加減な話でも書面にされた途端、人はなぜかそれに信憑性があるような気になってしまうようだ。そしてこの手の無意味な書面を作って嘘に説得力を持たせるのは、松永のもっとも得意とするところだった。
 松永は純子に「莫大な利益を上げている会社だが、お前の婿養子になって緒方家を継ぐからにはつぶさなくちゃいけない。芸能界の話も、残念だがお前のために諦める」と言って、彼女に自責の念を抱かせた。
 純子の母はこの『婚約確認書』なるものをあまり信用しなかったようだが、この会見によって父の誉(たかしげ)さんはすっかり松永が気に入ってしまったようであった。
 松永はこの時、わずか23歳である。その年齢にしてこの人心掌握の上手さ、口車の巧みさは珍しいと言えよう。
 彼のついた嘘は上記の通り、たわいないと言えるものばかりである。しかし彼の周囲の人物――特に緒方家の人々――はまるで糸に操られるようにして、いともたやすくその嘘に踊らされていった。
 この一種のカリスマ性、マインドコントロールのたくみさ、並びに良心の乏しさや残酷さはオウム真理教の松本智津夫を髣髴とさせる。ただし松本を突き動かした、極貧と弱視ゆえのルサンチマンに匹敵するものは松永の半生には見られない。
 彼をそこまでにしたのは、むしろ真逆の
「保護者による甘やかしと絶対肯定による、エゴイズムの肥大・全能感」
 のように見受けられる。
 なお昨今の若年犯罪者に「おじいちゃん子、おばあちゃん子」が多いという事実も、これにまったく無関係とは言えないであろう。

 純子の母、静美さんはある日、松永に「純子と別れて下さい」と頼みに行った。
 しかし松永はこれを言いくるめたばかりか、静美さんを言葉たくみにラブホテルに誘い出し、関係を持ってしまう。当時静美さんは44歳であった。
 だがもちろん土地持ちの豪農である緒方家の娘・純子を松永が離すはずはない。松永は嫉妬妄想にかられたふりをして純子さんを殴打し、胸に煙草の火で「太」と焼印を押し、太ももにも安全ピンと墨汁を使って同じく「太」と入れ墨を入れた。さらに肉体的暴力だけでなく、家族や親族に無理やり嫌がらせの電話をかけさせるなどして孤立させ、精神的にも追い詰めていった。
 耐え切れず、純子はある日自殺未遂をはかった。しかしこれがまた松永の思うつぼであった。松永は純子に仕事を辞めさせ、両親に向かって
「婿養子などもらって緒方の家の犠牲になるのはいやです、縁を切ってくれないならまた自殺します」
 と宣言することを強要した。松永はその上で、
「今となっては純子はお荷物でしかないが、私もまさか放り出すわけにもいかない。彼女が自殺しないよう面倒をみていきます」
 と恩に着せた物言いをして、このときも例の如く緒方家側に『絶縁書』なる書面を作らせている。この騒動により、純子は緒方家から分籍。次女である理恵子さんが婿養子をもらうことになった。
 徹底的に虐げられ、親兄弟からも孤立させられた純子は、以降なすすべもなく松永の従順な手足となって生きていくことになる。


 1985年、銀行融資を受けて松永は布団販売会社を新築。この頃が(詐欺商法まがいだったとはいえ)彼のもっとも羽振りの良かった時期かもしれない。
 しかし酷使と虐待により、従業員は1人逃げ2人逃げ、2年後には従業員は純子を含め2人だけとなってしまう。その上、1992年には詐欺や恐喝などを重ねた末、経営が破綻して石川県へ夜逃げする羽目となった。
 収入がなくなった松永はたった1人残った従業員に、母親に金を無心することを強要。しかし約3ヶ月後、その送金も途絶え、虐待に耐えかねた従業員は逃走した。
 しかし松永がこの会社経営その他詐欺行為によって得た利益は、一億八千万にものぼるという。
 1993年、純子は第一子を出産。しかし相変わらず収入はなく、松永は結婚詐欺を思いついた。ターゲットにされたのは、松永がまだ羽振りが良かった頃交際していた女性だが、当時すでに結婚して子供(3つ子)もいた。
 松永は彼女を口説き落とし、
「離婚して俺のところへ来い、子供のことも俺が引き受ける」
 と言いくるめて、彼女に家出をさせた。そして北九州市小倉のマンションを、彼女名義で賃貸契約させている。純子のことは姉として紹介した。
 彼女は貯金のすべてを松永に吸い取られ、前夫からもらう月々の養育費まで奪い取られ、親にも金の無心をさせられるなどして、合計1000万円以上を搾り取られた。なお金蔓としての価値がなくなった頃、彼女と子供のうち一人は不審死をとげている。
 一連の事件発覚後、この死と松永との関連が浮かび上がったようだが、残念ながら事件性が立証されぬまま捜査は打ち切られたようである。

 1994年、松永は新たな金蔓を見つけた。
 今度は男で、不動産屋の営業をしていた虎谷久美雄さんである。彼は松永と同い年で、離婚して10歳の娘とともに暮らしていた。
 松永は「新会社を設立するから共同出資者にならないか」と持ちかけ、連日酒の席へ連れ出して、言葉たくみに些細な軽犯罪の過去等を聞き出した。計画がうまくいくまでの生活費は、純子に実家へ電話させ、泣き落としで送金させた。この金額も1997年まで63回に分けて、1500万以上にのぼったという。
 虎谷さんは松永に言われるがまま、新会社の事務所として小倉にあるマンションの一室を自分名義で賃貸契約する。
 そして純子が保育士をしていた経歴を大袈裟に吹聴して、10歳の娘を預かり同居させた。この少女が、のちに冒頭で警察に駆け込むことになる少女である。
 この時期から松永の虎谷さんへのマインドコントロールが始まった。
 虎谷さんが酒の席で口をすべらせた軽犯罪について問い詰め、お得意の書面(『事実関係証明書』と題され、私は〜の犯罪を犯した事実を証明しますと書かされたもの)を作成した。松永のやり口は、内容は言いがかり同然でもとにかく執拗で、何度も何度も繰り返し相手の弱いところを長時間にわたって突いていくというものである。これをやられると被害者は次第に消耗して、自分の言い分さえ見失ってしまうのだった。
 これによって虎谷さんはやってもいない犯罪にまで『事実関係証明書』を作られ、それが弱みとなり、がんじがらめになっていった。
 虎谷さんは1995年2月、不動産会社を退社。いつの間にか新会社設立の話は消え、共同経営者どころか奴隷同然の身分になっていく。
 この頃から、虎谷さんへの「通電リンチ」が始まった。食事も制限され、一日中純子による監視がなされるようになった。虎谷さんは松永に命令されるがままに消費者金融から限度額いっぱいに金を借りては渡し、親族、知人など考えられる限りのツテから借金してはそれを渡した。
 しかしそれも1996年1月あたりまでであった。もう虎谷さんに金を作れるあては尽き、一目見てもわかるほどの栄養失調になっていた。松永は虎谷さんの殺害を決心するかたわら、新たな金蔓を探し当てる。次は女性で、また結婚詐欺であった。
 この女性も消費者金融、親族などすべての手段を使って金をぎりぎりまで搾り取られた上、「通電」を受け監禁された。だが彼女は命の危険を感じた末、アパートの二階から飛び降り、腰骨骨折や肺挫折を負いながらも何とか助かっている。
 しかし、虎谷さんは生き延びることはできなかった。
 虎谷さんが受けたリンチは凄惨なものである。
 食事は一日一回で、インスタントラーメンもしくは丼飯一杯。10分以内に食べ終わらないと通電を加えた。また、つらい姿勢や直立不動を長時間強要し、少しでも動けば通電。季節は真冬だったが、一切の暖房器具も寝具も与えず、ワイシャツ1枚で風呂場で寝かせていた。
 栄養失調のため嘔吐や下痢を繰り返すようになると、その吐瀉物や大便を食べることを強要した。その他にも裸にして冷水を浴びせる、殴打する、空き瓶で脛を長時間にわたって執拗に殴るなど、飽かず虐待を加えたという。もちろん「通電」はもっとも頻繁に行なわれた。
 2月20日頃になると、虎谷さんは腕を上げることもできなくなるほど衰弱した。この頃、松永は虎谷さんの実娘である少女に、歯型がつくほどきつく父親の体を噛ませている。
 2月26日、虎谷さん死亡。
 松永は少女に、
「お前がつけた歯型のことがあるから、お父さんを病院へ連れていけなかった。病院へ連れていったらお前が殺したことがすぐにわかって警察に捕まってしまうからな」
 と言い聞かせ、まだ小学校5年生の少女に『事実関係証明書』を書かせた。内容は「私は、殺意をもって実父を殺したことを証明します」というもので、長い間少女はこの書面に縛り付けられることとなる。
 松永は死体の処理を、純子と少女に一任した。二人は包丁、のこぎり、ミキサーなどを使って死体をバラバラにし、鍋で煮込んだ上、塊は海へ、肉汁は公衆便所へ廃棄するなどして処理した。
 なおこの死体解体の直後、純子は第二子を出産している。

 

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 またも金蔓を失った松永は、今度は純子に金を工面することを命じる。
 純子は実家に連絡し泣きついて送金してもらうものの、額が大きくなってきたこともあり、心苦しさに出稼ぎを決心した。
 1997年4月、純子は1歳になった次男を久留米市の伯母へ預け、湯布院でホステスとして働き始めた。長男はマンションに置いたままで、世話は虎谷さんの娘にみさせていたようである。
 しかし純子はいつになっても帰ってこなかった。
 殺人の共犯者でもあり奴隷でもあった純子に逃げられた松永は、取り戻すべく一計を案じて純子の母・静美に連絡をとった。松永と静美さんの肉体関係はまだ続いており、彼は以前より「純子のせいで殺人や詐欺の片棒をかつがされた」と静美さんに吹き込んでいた。
 そのため、緒方家の世間体を案じた父・誉さん、静美さん、並びに妹の理恵子さんが話し合いのため松永のマンションへ出向くことになった。
 これは大きな間違いであったが、松永の口車に乗せられ、純子を殺人の正犯だと思い込んだ緒方家の人々は唯々諾々とこれに従うしかなかったのである。
 面と向かってしまえば、マインドコントロールは松永の真骨頂とも言うべきところである。
 明け方まで寝かせず同じことを何度も何度も執拗に繰り返す、相手の一番弱い所(名家の緒方家にとって、これは世間体だった)を突く、自尊心をくすぐって持ち上げては落とすことを繰り返すなど、一連の手口はもう手馴れたものだった。
「緒方家から殺人犯を出してもいいのですか、マスコミの餌食にされますよ、家の名誉を何だと思っているのですか」
 と松永は彼らを逆に責め、
「私が死んだということにして葬式を出しましょう。そうすれば純子は帰ってくるだろうから芝居に協力して下さい」
 と言いくるめた。
 そしてこの芝居にひっかかり、純子は小倉に帰ってくることになる。帰ってきた途端、それまで押入れに隠れていた松永に取り押さえられて殴られ、彼女は家族の前で通電リンチを受けた。純子にとってはこの時、騙されたことよりも、家族が松永の味方をしたばかりか彼の膝下に置かれてしまったことの方がショックだったという。
 松永は純子に命じて、湯布院で世話になっていた人々に電話をかけさせ、罵倒させて絆を断たせた。味方と逃げ場を失くすためである。もう逆らう気力もなく純子はこれに従い、見ず知らずの自分に親切にしてくれたスナック経営者や紹介者に
「あんな安い給料でこき使いやがって、バカにしてるのか」
「親切ヅラして私をスナックへ売り飛ばしただろう」
 と松永に命じられるがままに悪態をついた。
 松永はその後、純子がマンションで死体をバラバラにしたことを緒方家の3人に告げ、「家の名誉のため、証拠を隠滅しなくては」と言って配管工事をさせている。これによって彼らに共犯者の負い目を感じさせることが目的だった。
 その上で彼は緒方家の人々に
「純子は詐欺、殺人などで指名手配となっています。なんとか私が彼女の面倒をみながら逃げ切ってみせますから、さしあたり5年分の逃走資金を調達して下さい」
 と言った。この5年分の逃走資金として呈示した額は、3000万円である。緒方家の人々はそんな金はないと言ったが、松永は土地を担保に借りろと強要。しかし土地の名義は、祖父のものになっていた。

 1997年6月、妻の理恵子さんが毎晩外出していることに気を揉んだ主也さん(緒方家の婿養子)は、彼女を問い詰めた。理恵子さんは渋々、姉の純子が犯罪者であることを打ち明けた。
 元警官である主也さんはそれを聞き、「松永が義姉をたぶらかしたに違いない」として、次回は自分も同行すると言い出した。
 しかしこれもやはり、取り返しのつかない誤りであった。
 松永は一目で主也さんの性格を見抜いた。公務と農協しか社会経験のない純朴さ、婿養子であることのわずかな心の引け目、隠された男のプライド。松永は彼に酒を飲ませ、
「あなたが跡取りなのに未だに土地の名義は先々代さんらしいじゃないですか。バカにされてるんですよ」
「緒方家の中じゃあなた、単なる種馬扱いだと言うじゃありませんか、人をなめるのもいい加減にしろという感じですねえ」
「理恵子さんは意外に男癖が悪いそうで。静美さんといい緒方家の女性は発展家の血筋のようですな」
 とさんざん吹き込んだ。静美の相手とはもちろん松永本人のことなのだが、これは実際地元でも相当噂になっていたらしい。そして理恵子さんとも、松永はもう関係を持っていた。
 赤子の手をひねるように松永に乗せられてしまった主也さんは、
「あなたがお人よしなのをいいことに、こんなにコケにされ続けて腹がおさまらないでしょう。あんな人たちは殴ってやったってバチは当たりませんよ」
 との松永の言葉のままに、緒方家の人々を順繰りに殴ったという。もちろん酔いが醒めてしまえばただちに後悔し、自己嫌悪することになるのだが。
 こうしてやすやすと松永のかけた罠に捕らえられた主也さんは、二人の子供までも松永に預けてしまうことになる。そしてこの直後あたりから、松永の緒方家一同への「通電リンチ」も始まった。
 供述によると、静美さんと理恵子さん母子を並べて仰向けに寝かせ、同時に性器へ通電するというリンチまで行なっていたそうである。
 母と娘2人を犯し、その関係をそれぞれの夫の面前で吹聴し、なおその性器へ電流を流す。松永は彼らの上に絶対的に君臨し、それを誇っていた。まさにローマ皇帝並みの暴君ぶりだったと言えよう。
 8月、緒方家は誉さん名義で、農協から3000万を借り入れた。担保はもちろん祖父名義の土地である。
 主也さんはこの借入書の保証人になっているが、その前に松永に「これ以上、緒方家の奴隷になっていることはない」と唆され、住民票の住所を変えていた。それを忘れてもとの住所のまま書類を作成してしまったことを松永は「文書偽造だ」と責め、それを何度も何度も明け方まで眠らせずに繰り返す得意の手口で、彼を追い詰めていった。
 発端は些細な、くだらないことでかまわないのだ。とにかく責める糸口さえあればいい。あとは思考能力を奪ってしまう一手だった。
 睡眠不足と心労により、主也さんは9月以降、職場へ出勤できなくなった。そして主也さんへの通電も、ほぼ同時期に始まっている。
 彼らは自由に外出することも禁じられ、完全に松永へ精神的に隷属した。彼の促すままに農協から金を借りては渡し、まだ残っている水田を売却すべく手続きに奔走した。
 その一方、松永は例の「書面作成」の腕前を発揮し、彼らに
「我々が失踪したのは土地の売却を親族に邪魔されたせいである」
「私(主也)は妻の首を絞めて殺害をもくろんだ事実を認める(※松永みずからが理恵子さんとの肉体関係を暴露し、彼の嫉妬心を煽った果ての行為である)」
 など何通もの書類を作らせては署名させた。精神的に支配されきっていた緒方家の人々は、これに法的拘束力があるとたやすく信じた。
 しかし祖父や親族が簡単に土地の売却にうんと言うはずはない。
 親族に強硬につっぱねられ、警察が動き始めたことも知らされた松永は、緒方家はもう金にならないと判断した。なおそれまでに彼が緒方家から搾り取った金は、6300万円にのぼるという。

 1997年12月、松永は言いがかりをつけて緒方家の大人たちを並べて正座させ、その場で純子に命じて父・誉さんを通電によって殺させた。死体は残された緒方家の面々が処理せざるを得ない。虎谷さんの死体と同様の手段で、解体し海に捨てたという。
 翌年1月、通電と心理的負担によって精神に異常をきたした静美さんが殺害される。もちろん松永が手を下すことはない。しつこく何度も殺害をほのめかされ、追い込まれた被害者たちの中から主也さんが暗に指名されて絞殺させられたのである。遺体は同じく解体されて処理された。
 2月、度重なる通電によって難聴になっていた理恵子さんを「頭がおかしくなった、邪魔だ」と言い、夫である主也さんに絞殺させる。
 4月、主也さんを虎谷さんの時と同じく、浴室へ監禁し食パンだけを与え、1ヶ月半かけて栄養失調で死亡させる。
 5月、理恵子と主也の子供2人(姉弟)を絞殺。弟を絞殺する際は、わずか10歳の姉に手伝わせたという。
 松永はこうして緒方一家を皆殺しにしてしまったのちも、純子に向かって
「お前が由布院へ逃げたせいで、全員を殺す羽目になった」
 と、この期に及んでさえすべてを彼女のせいにするのを忘れなかった。

 

 しかし2002年に少女が逃げ出し、警察へ駆け込んだことで一連の事件はようやく明るみに出ることになる。
 祖父母宅へ少女を連れ戻しにやってきた松永と純子を、張り込んでいた捜査員が緊急逮捕。また、少女が長らく世話をしていた四人の子供が児童相談所に保護される。このうち2人は松永と純子の実子であり、残る2人は、母親から養育費を巻き上げるため松永が言葉たくみに預かっていたものであった。

 2005年3月、福岡地裁において検察は松永、純子の両名に死刑を求刑。
 同年9月、死刑判決。
 公判中も一貫して、己の「全能感」をどこでも押し通せると信じ、滑稽なほどたわいない嘘をつき続けた松永は、ただちに控訴した。

 


◆黄志恆(八仙飯店一家殺人事件)


 1985年、マカオ。

 マカオが中国に返還されたのは1999年のことであるから、事件当時はまだポルトガル領であった。
 週末はカジノやドッグレースで賑わうが、普段は小リスボンと呼ばれる静かで平和な港町である。しかしそこで起こった事件は、町の空気にそぐわぬ陰惨なものであった。

 8月8日、マカオ北部の海岸で遺体の断片が発見された。
 まず見つかったのが、手首から先の手のひら2つ。続いて右脚と思われる膝下4本、左脚の膝下2本が確認されることとなる。
 その後も断続的に手や踵などがいくつか見つかり、警察はこれらを鑑識に回したが、まだ事件性のあるものかどうかはその時点で明確にされなかった。肉片の人数がやけに多いとはいえ、鮫に襲われたのではないかとの見方も捨てきれなかったからである。

 これらの遺体のかけらが八仙飯店と結び付けられて考えられるようになったのは、それから8ヶ月後のことだ。
「マカオで大衆飯店を営んでいた鄭林一家が突然失踪し、商売がたきだったはずの黄という男が今、店を乗っ取っている。海岸で発見された手足と何か関係があるのではないだろうか。調べて欲しい

 という手紙が警察に届いたのがもとであった。
 差出人は、鄭の弟である。
 中国は大家族で暮らすことが多いが、鄭一家も、鄭林夫妻、5人の子供、母方の祖母、叔母の9人で暮らしていた。失踪したのは、そこへコックの鄭柏良を加えた計10人である。
 八仙飯店一家の失踪は近所でもすこしずつ噂になっており、
「そういえば叫び声のようなものを聞いた」だの、
「店内から異臭がしていることがあった」
 などの不穏な風評さえ飛び交うようになっていた。
 のちに犯人とされた黄志恆もこの近くに飯店を営んでおり、何度か鄭一家とは感情的なトラブルを起こしていたという。そしてなぜか一家の失踪後、店の権利や不動産はいつの間にか黄の手に渡っており、八仙飯店は黄の切り盛りによって経営を続けられていた。
 マカオ警察は海岸で発見された肉片をふたたび鑑識にかけた。その結果、採取した指紋は失踪した一家のうち、妻の叔母のものと酷似していた。
 黄が身分証偽造の罪により別件逮捕されるのは、9月末のことであった。

 のちの調べで、黄は広東省生まれであり、黄志恆は偽名であることが判明する。
 彼は香港で5年間服役した過去があり、1973年には放火殺人未遂の罪に問われている。黄の偽名を使うようになったのは、これ以後のようだ(本名は陳梓梁)。なお指紋も焼き消していたというから、徹底して過去を消す意図があったとみていいだろう。
 警察が黄をあやしいと思わないわけがなかった。

 しかし遺体は手首や膝下などを除いては、あいかわらず不明のままである。
 指紋も「酷似していた」と発表されているとはいえ、明確な物的証拠はない。
 警察はまず黄が取得した鄭一家の不動産について尋問した。黄の供述は二転三転し、
「密輸で得た金で買った」だの、
「博打のカタに取り上げた」
 だのと述べた。また、一家は移民したのだと彼は主張したが、鄭一家が出国した形跡は記録に残っていなかった。
 だが黄は一貫して罪状を否認。冤罪だと訴え続けた。

 独房の中で、しかし黄は次第に精神の均衡を失っていく。
 独り言をぶつぶつ呟いていることが多くなり、空笑いをし、突如泣き出す。それを見ていた看守の報告により精神鑑定がなされたが、特に異常は認められず、黄はまた独房へ戻された。
 しかしある夜、黄は悪夢にうなされ、
「あいつらが来る、おとなと子供の10人、奴らが来るんだ」
 とわめき散らし、糞尿を洩らしながら自分の舌を噛み切った。発見が早かったため命に別状はなく、黄は退院後は自殺阻止のため大部屋送りとなった。
 このとき黄が大部屋で洩らした独り言、寝言、錯乱してわめいた言葉の内容が「実質上、この事件の概要」として知られているものである。
 同部屋の囚人から聞いた話をもとにマスコミがまとめ上げたところによると、鄭一家が賭け麻雀の負けを溜め込み、それを支払わなかったことがもとで黄が逆上したのだという。
 黄は真夜中に寝入っている一家を襲い、縛り上げ、皆殺しにした。
 遺体は厨房で解体し、人肉でスープを作った(遺体のほとんどが見つからなかったため、肉を饅頭の具にしたという説も流布された。この説をもとに『人肉饅頭』という映画が作られた)。
 切り刻んだ遺体は黒のビニール袋へざくざくと放り込み、無造作に遺棄した。それが海岸に流れ着いた経緯は不明である。

 黄の錯乱は進んでいった。
 悲鳴を上げて暴れ回り、糞便を食べようとしたり、夜中になると大声で叫び狂った。精神安定剤や睡眠薬を投与しても、薬がきれればまた暴れ出す。食事もせずに栄養は点滴でとり、この時点ですでに完全な狂人であった。
 そして鉄製のゴミ箱の角で手首を切り、二度目の自殺をはかる。20針も縫う大手術であったが、このときもやはり彼は死ねなかった。
 退院してきた黄は顔の相が変わり、別人のようだったという。
 黄は大部屋へまた戻されたが、そこで傷口の縫い目を自分でほどき、またも自殺をこころみる。
 10月2日、黄は明らかな精神異常にもかかわらず、起訴された。
 その3日後、黄は自分のベッドで、もう一度手首の動脈を缶ジュースのプルトップで切り開き、ようやく自殺に成功した。真夜中のことであった。
 

 しかし今も謎は多く残る。
 事件の供述はひどく曖昧なものでしかなく、物的証拠はほぼ皆無といっていい。
 黄の発狂と自殺によって事件は幕を閉じたが、そもそもあの遺体の断片が本当に鄭一家のものであったかどうか、それすら完全な確証はないのである。
 
黄がまったくの無実であったとも思えないが、この風評通りの概要であったかどうかは定かではない。
 古代中国には食人の習慣があったと言い、1950年代と60年代にも、それぞれ人肉で肉饅頭を作り売るという事件が起こったとされている。
 そのような過去の背景から、人々が八仙飯店事件を人肉食事件として受け入れたのは理解できるし、黄が死体処理法にそれを選ぶのも、さして突飛なことではなかったのかもしれない。だが真相は藪の中だ。

 ただ確実なのは、10人もの人間が飯店で突如消えうせてしまったことと、その後も飯店ではしばらく料理が出されていたこと。
 それだけである。


 


 ◆アーサー・ハッチンソン


 1983年、イギリス。
 シェフィールド郊外の高級住宅街に住むライトナー家は、まったく何不自由のない富裕な一家であった。
 娘二人に息子一人という子宝にも恵まれ、1983年には長女の結婚が決まった。順風満帆としか言いようのない人生だった――すくなくとも、その日が来るまでは。

 10月23日は長女の結婚式だった。
 ライトナー夫妻は庭の芝生に大きなテントを建て、その下で招待客をもてなした。
 式はなごやかかつ盛大で、人の出入りも多かった。見知らぬ顔があっても、お祝いの席に加わってくれるのであれば夫妻は歓迎した。幸福の絶頂にいる彼らは気付かなかった。庭の潅木の中にはじっと彼ら一家を見つめている男がおり、その男の目がとりわけ次女のニコールに注がれているということに。

 その夜、真夜中過ぎになって男はライトナー邸に侵入した。手には刃渡り20センチの猟用ナイフが握られていた。
 眠っていたニコールは、寝室のドアが開く音で目を覚ました。途端に目がくらむ。懐中電灯を顔にまともに突きつけられたからだった。
 電灯の向こうから男の声が聞こえ、
「騒いだら殺す。おまえの両親はもうとっくに殺した」
 と言った。怯える少女をナイフで脅して立たせ、男は階下へおりるよう命令した。
 階段の踊り場には両親の死体が転がっていた。ニコールの父親、バジル・ライトナーはぼろきれのようになるまでずたずたに切り裂かれ、母親のアヴリルは26箇所も滅多刺しにされていた。
 別の寝室では弟も刺し殺されており、死体はおびただしい血に浸っていた。
 脂で固まった髪をし、悪臭をはなつ犯人はニコールをナイフで脅しながら、死体のある場所を順に引き立てて歩いた。少女は家族の血だまりの中を黙って歩かされたあと、昼に結婚式を行なった庭に出るよう命じられた。
 表のテントまで来ると犯人は彼女を裸にし、押し倒して顔のすぐ横へナイフを突き立てた。
 男は言った。
「お前も楽しめ。感じないと殺すからな。おまえの親は俺の言うことをきかなかった、だから殺したんだ」
 ニコールはまだ18歳になったばかりだった。
 男はすすり泣くニコールを彼女の寝室まで戻らせ、ベッドの上でさらに2度レイプした。そして満足すると、彼女を縛り上げて出て行った。翌日になってテントの片付けに来た地元の作業員たちがライトナー夫妻の死体を発見するまで、ニコールはそのまま恐怖と屈辱の時間を過ごした。
 現場は法科学者が
「これほど大量の血液にお目にかかったのは初めてだ」
 というほどの血が流れていたという。
 さらに犯人はテントに残っていたシャンパンを飲み、冷蔵庫をあさって食い散らかしてもいた。

 しかし意外な場所からも血液は採取された。ニコールのネグリジェと、ベッドの一部である。ニコールはナイフによる切創を負っていないので、これは犯人のものと推定された。警察はこの血液を分析し、5000人に一人しかない組合せの因子であることを突き止めた。
 この血液から、ある犯罪者の名が浮かび上がることになる。
 男の名はアーサー・ハッチンソン。泥棒とレイプの前科があり、42歳の年になるまで軽犯罪で幾度も懲役刑を受けていた。犯罪歴は長く、7歳のときに妹を刺したことがある。
 つい最近まで刑務所に入っていたが刑期を追え出獄し、自由になるやいなやレイプ事件を起こして拘置されていた。しかし拘置所の窓から脱走し、その逃走中にライトナー家の結婚式に出くわしたのである。
 のちに判明したことだが、ハッチンソンは5年の刑期の間に、レイプのターゲットになりそうな女性を新聞記事の情報をもとにリストアップし、2冊のノートにびっしり書き連ねていたという。

 警察は彼を罠にかけた。服役中のハッチンソンは自分の病気や傷にひどく過敏で、ちょっとした怪我でもしょっちゅう緊急治療室にやって来るような男だったらしい。
 ハッチンソンがニコールのネグリジェにつけた血は、彼が拘置所から脱走する際、有刺鉄線で傷つけたものだった。警察は
「有刺鉄線には特殊な加工がしてあり、傷口をほうっておくと壊疽になる可能性が高い」
 というデマを流した。それを聞きつけたハッチンソンはただちに病院へ駆け込み、そこで逮捕された。
 翌年、裁判がはじまったが証拠は歴然としており争うことはほとんどなかった。
 床の血痕にはハッチンソンの靴跡がはっきり残っていたし、シャンパンの瓶には指紋、冷蔵庫のチーズには彼の歯型があった。
 だがハッチンソンは
「自分はニコールと合意でセックスするため、彼女に乞われてあの家にいたのだ。殺人が起こったのは自分が帰ってからだ」
 と言い張った。
 彼は自暴自棄というよりはほとんど精神異常の兆候を見せており、プレス席にいた新聞記者を唐突に指さして「あいつが犯人だ!殺人鬼!」と叫んだりしたという。
 ハッチンソンは、3度の終身刑を宣告された。



◆デイヴィッド・アーノルド・ブラウン


 この事件は「精神的に一家を殺すことに成功しかけた」例として、ここで紹介させていただくこととした。


 デイヴィッド・ブラウンは1952年11月16日、アリゾナで生まれた。
 父親は自動車修理工で、温和な働き者ではあったが妻と8人の子を養うにはいくら働いても足りなかった。彼ら一家は仕事を求めて各地を転々とし、幼いころからブラウン少年も働かされた。
 親戚の男性に身体的・性的虐待を受け、貧困と辛酸をなめた彼はわずか14歳で独立し、家を出た。
 彼はまともな教育を受けてはいなかったが、頭がよく機転がきいた。そして素晴らしい声の持ち主だった。にきびだらけの赤ら顔で小太りと、風采は上がらなかったが、声だけははっとするほど甘く、周囲の注意をひいた。

 ブラウンの最初のガールフレンドは15歳の黒髪の少女、ブレンダだった。彼女は11人兄弟の長女で、幼い弟妹たちの世話と貧困に倦んでいた。
 ブレンダは最初のデートで早くも彼の虜になった。彼の声はすばらしく、自信に満ちて、ロマンティックな台詞を吐くのにふさわしかった。ブレンダはうっとりとその声に聞き入り、彼の諭すような口調にいちいち頷いた。デートの終わりにブラウンは宣言した。
「もうきみは僕のものだ」
 ブレンダは頷いた。そして他の多くの女性がそうするようになったと同じく、彼の声の命じるがままになることを彼女は決心した。

 ブラウンは徹底して所有欲の強い男だった。
 若くて、世間知らずで、愛情に飢えた、言いなりになる素直な女の子が好きだった。彼は生涯を通じて、ティーンエイジャーの女の子だけを好んだ。従順で右も左もわからない、ただ彼の言うことにのみ付き従う少女が相手でないと、ブラウンは安心できなかった。
 その最初の相手がこのブレンダである。彼らは16歳になると一緒に暮らし始め、じきにブレンダは妊娠した。
 ブラウンは性欲過剰で、一日に3度も4度も彼女を求めた。ブレンダは間もなくこの結婚が失敗だったことを悟るが、なかなか彼の支配から抜け出すことはできなかった。ブラウンは彼女を縛りつけ、孤立させたがり、職場の同僚と昼食をともにすることさえ禁じた。
 新しい職を求めるためブレンダは運転免許を取りたがったが、これも禁じた。
 彼は妻の行動エリアが広がることも、新たに何かを学ぶことも許さなかった。
 ブレンダは産まれた娘シナモンの世話にかかりきりになるしかなかった。弟妹たちの世話に飽き飽きして家を出たのに、ここでもやはり同じことをやらされる羽目になったのである。
 ブラウンは娘をかわいがったが、それは典型的な「いいとこどり」の愛し方であった。遊んでやり、遊園地につれていってやり、バイクに乗せてやったりして、娘の愛情と信頼をあらいざらい勝ち得たあと、具体的な世話はブレンダに放り投げてしまうのである。
 ブレンダは娘の育児と、夫の女癖の悪さと、時おり彼が起こすストレス性鬱病の発作に悩まされながら生活した。
 彼らはそのころ生活保護を受け、貧困にあえいでいた。が、1971年に転機が訪れる。
 ブラウンは18歳になっていた。彼は生活保護受給者を対象にした職業訓練プログラムに参加した。彼はここで高校卒業資格試験に合格し、コントロールデータ専門学校に入学を認められた。彼はコース終了後、コンピュータの会社で働くことになる。
 彼は口がうまく、履歴書の職歴を水増しし、自分をアピールするのに長けていた。何しろ彼にはあの「説得力あふれる声」があった。彼は次々に仕事を得た。

 生活が安定するに従って、彼の女癖はさらにひどくなった。暇さえあればブラウンは若い女の子を追いかけまわした。
 嫌気のさしたブレンダは弁護士を雇い、離婚を申し立てた。これはブラウンにとって不意打ちだった。いつまでもブレンダが世間知らずのティーンエイジャーのままでいてくれると彼は思いこんでいたのだ。はじめのうちブラウンは銃まで持ち出して拒んだが、結局は離婚に同意した。
 とはいえその後も彼らは付かず離れずの生活をしており、娘シナモンは毎週彼に会いに行っていた。シナモンは彼になついていた。彼を「世界一えらい父親」だと信じ込んでさえいた。
 ブラウンはすぐに19歳の少女と再婚したが、この少女はブラウンの相手をするには「おとな」過ぎたため、4年後に離婚した。
 成熟し、世間と常識を知り、自我を持った女は彼の相手にはならなかった。ブラウンはあまりに自己中心的で、のべつまくなしに性的奉仕を要求し、傲慢で、精神的に不安定だった。そして女性を自分と対等な存在だとみなすことができなかった。女に感情があるとは、彼は認められなかったのだ。
 ブラウンは「自分の命令どおりに動く、まだ何も知らない白紙の少女」を以後、意図的に求めるようになった。

 己の性癖を理解したブラウンがまず目を付けたのは、生活保護受給中の、11人の子供を抱えた母子家庭だった。母親はアル中で、貧困に慣れたブラウンの目から見ても悲惨な生活ぶりだった。彼はこの兄弟のうち13歳の娘リンダを狙った。
 ブラウンはリンダの母親に「自分は大腸癌で長くは生きられないから、娘さんを手伝いに寄こして欲しい」と頼んだ。
 母親はこれを承知し、リンダは「ものを買ってくれる、冗談好きの優しいおじさん」ブラウンにすぐなついた。ブラウンは貧しい少女を手なずける方法をよく心得ていた。
 その一方でブラウンはリンダの姉パム(16歳)と性的関係を持ち、妹パティ(5歳)にまで色目を使っていた。
 ブラウンは生活保護支給の数日前には、この一家の冷蔵庫がからっぽになることを知っていた。彼はその時期を狙って兄弟たちを食事に連れて行った。子供たちは喜んでピザやハンバーガーにかぶりついた。ブラウンは着るものさえほとんどない彼らに、惜しげもなくTシャツやジーンズを買ってやった。
 もはや一家にとってブラウンはなくてはならない存在であった。
 リンダが15歳になると、ブラウンはパムを捨て、「癌が奇跡的に治った」と言って、母親にリンダと結婚させてくれと申し出た。母親は「まだリンダは若すぎる」として拒んだが、やがて根負けし、2年後にブラウンとリンダは結婚することになる。

 ところが2ヶ月も経たないうち、ブラウンはリンダに離婚を突き付けた。リンダが、ブラウンの浮気癖を受け入れなかったためである。直後にブラウンはまた別の女と結婚したが、これもわずか8ヶ月で解消。
 そしてふたたび彼はリンダにプロポーズした。
 離婚に打ちのめされていたリンダは喜んで彼のプレゼントやロマンティックな詩を受け取り、彼と再度結婚することを受け入れた。
 ブラウンとリンダの家庭には、なぜか妹パティ(当時11歳)も同居することになった。惨めなまでの貧困と、兄たちの性的虐待から逃れられることになったパティは大喜びだった。
 1980年、ブラウンは自分の会社を設立する。画期的なデータリカバリーを謳った会社で、彼はこの設立以後、大金持ちとなった。
 実際その「画期的なデータリカバリー」とやらはただの「ディスクの埃の除去」でしかなかったのだが、問題はなかった。彼は商売上手で、自分を取りつくろうことと、金の中抜きはもっと上手かった。
 ブラウンは自分に学がないこと、専門知識が皆無に近いことを見破られぬようにするため、同業者との接触はできるだけ避けた。かつ、仕事のほとんどは自宅で行った。自然とブラウンがふだん接触するのは家族だけになっていった。
 そのころ彼の家に住んでいたのは、呼び寄せたブラウンの両親と、妻リンダ、その妹パティ、そして最初の妻ブレンダが産んだ娘シナモンであった。彼ら一家はブラウンの稼ぎと存在に依存しきっており、盲目的に彼を信じていた。彼らはブラウンのどんな馬鹿馬鹿しい嘘でも自慢でも、たやすく信じ込んだ。そうしないと生活ができなかったからだ。
 ブラウンは彼らが自分に従順でないと「出ていく」と脅し、
「お前たちが僕にストレスをかけると、僕の胃潰瘍や、大腸炎や、休眠中の癌細胞が活発化してしまう。僕が死んだらお前たちもみんなのたれ死ぬんだぞ」
 と言い聞かせ、服従を強いた。

 事件は1985年に起こった。3月のある夜、通報を受けてデイヴィッド・ブラウン宅に警察が訪れた。ドアを開けると太った背の低い男が立っており、
「妻が撃たれたんです」
 と動転した様子で告げた。それが32歳のブラウンであった。その背後では17歳になったパティが赤ん坊を抱いていた。
 警察が寝室へ向かうと、23歳の妻リンダが胸に2発の弾丸を受けて倒れていた。弾丸は肺を貫通しており、救急隊員の必死の努力にもかかわらず、彼女はじきに息をひきとった。凶器はすぐそばに落ちていた38口径のS&Wだろうと思われた。
 ブラウンは
「娘のシナモンがリンダを撃ったんです。そしてシナモンは直後に自殺しようと、自分に向けて引き金を引きました。この数カ月というものシナモンは別人のように傲慢になり、リンダやパティといさかいを起こしていました。カウンセリングをすすめたがそれも断って、事あるごとに『自殺してやる』と家族を脅していたんです」
 と供述した。
 当のシナモン(当時14歳)は行方知れずとのことだった。撃たれたリンダを発見したのはパティで、現場から走り去るシナモンを見たという。そしてリンダのすぐ横では、生後8ヶ月の娘クリスタルが泣き叫んでいたので、抱き上げたのだと。
 そしてブラウンは「自分は血が怖かったので、寝室の中はどうしても見られませんでした」と述べた。

 その後シナモンは、捜索網を張るまでもなく見つかった。裏庭の、犬小屋の中にいたのである。彼女は自分の嘔吐した吐瀉物にまみれて、丸くなって気絶していた。吐瀉物の中には何10個ものカプセルが混じっていた。父のブラウンが飲んでいた降圧剤である。そうしてシナモンは
「殺す気はありませんでした。神様。お許しください」
 と書かれたメモを握りしめていた。
 朦朧としながらシナモンは、「リンダはいつも私とパパの関係に嫉妬していた」、「私はほんとにパパを愛してるのに」、「リンダは私を憎んで、追い出したがっていたの」と警察の前で呟いた。
 状況証拠のすべてがシナモンが犯人であることを指していた。だが警察と検事はこの家族の異様さが気にかかって仕方がなかった。
 最初の妻であり、シナモンの母でもあるブレンダは検事に
「ブラウンとリンダがうまくいっていなかったこと」
「パティがブラウンを恋し、そのことは一家みなが知っていたこと」
「リンダが双子の弟に『夫を殺して』と電話で依頼していたと、シナモンが話していたこと」
 等を話した。どれも奇妙な話だった。
 意識を回復したシナモンはようやく尋問を受けられる体になったが、そのときになっても彼女は自分の刑務所行きをすこしも心配していないように見えたという。彼女の心配ごとは
「私がリンダを撃ったから、パパはもう私が嫌いになったんじゃないだろうか」
 ということだけだった。
 ブラウンはシナモンのために弁護士を用意してやり、体調不良を理由にして自分は出廷しなかった。そして小分けに申し込んでいたリンダの保険金、84万ドル余を手にした。シナモンはなぜ父親が来てくれないのか理解できず、これから自分がどうなるのかもろくに把握できなかった。
 シナモンは第一級殺人罪で有罪となり、25歳まで少年院に収容されることが決定した。
 ブラウンは金と、次の若い妻(パティ)を手にし、古女房(リンダ)と厄介者(シナモン)を一気に始末することに成功したのである。
 この時点では、すべてが彼の思いどおりになったかのようであった。

 1986年7月、秘密裏にブラウンはパティと結婚した。この結婚は誰にも知らされなかった。もちろんシナモンにも連絡されなかった。
 パティはその年まで学校にも通わせてもらえず、ブラウンと一緒でなければ外出も許されなかった。彼の許可なしに誰かと口をきくことさえできなかった。パティにとってはブラウンが全世界にひとしかった。
 じきにパティは妊娠したが、ブラウンは産むことを良しとしなかった。堕胎をせまられ、生まれてはじめてパティは彼にさからった。
 ブラウンは「少女」ではなくなり、妊娠線のできたパティの体を嫌悪して、また別の若い女をあさり始めた。そしてパティのお腹の子の父親として「ダグ」という架空の男の存在を作り出すと、家族にもこれを信じることを強要した。もちろん皆パティの子の父親がブラウンだと知っていたが、表面上、彼らは唯々諾々とブラウンに従った。彼の言うことを聞かなければ、一家は生きていけなかった。
 パティは赤ん坊を産み、不誠実なブラウンの態度に絶望して自殺をはかったが、助かった。
 しかしこの赤ん坊の存在が、思わぬ波紋を呼ぶことになった。
 少年院に収監中のシナモンの耳に、パティが父の赤ん坊を産んだことが届いたのである。これはシナモンにとって、父の最大の裏切り行為だった。
 18歳になっていたシナモンは検事に
「すべてを話したい」
 と連絡をとった。
 シナモンは話した。ブラウンとパティから「リンダがブラウンを殺そうとしている」といつも吹き込まれていたこと。ブラウンに
「そうなる前に、シナモン、パティ、おまえたちでリンダを先に殺さなければならない」
 と言われ続けていたこと。そうでなければブラウンは殺され、一家は稼ぎ頭を失って路頭に迷うしかないのだと、ずっと言い聞かされてきたこと。
 そのかたわら、シナモンは父とパティが情熱的に抱き合ってキスするさまを目撃してもいた。
 それはあきらかに、義理の兄妹がするのではない濃密なキスだった。
 シナモンは何度も何度も、「リンダをどうやって殺すか」を聞かされ、教え込まれた。シナモンはけっしてリンダが嫌いではなかったし、殺したくはなかった。だがそれによって父を失うのはもっと恐ろしかった。
 パティはシナモンに言った。
「お父さんを愛しているなら、言う通りにできるはずよ。できないって言うなら、あんたはお父さんを愛していないんだ」
 またブラウンはこうも言った。
「リンダを殺さなければ僕が殺される。シナモン、お前はお父さんが殺されてしまってもいのかい? なあ、やるしかないんだ、シナモン。僕を愛している、お前がやることなんだよ」

 そうして運命のあの日、シナモンは父に言われるがままに悔恨のメモを書き、すべてが終わったあと、父に命じられて降圧剤のカプセルを一箱全部飲んだ。そして言われたとおり犬小屋で寝た。しかし彼女は薬のほぼ半分を吐いてしまい、生きながらえた。
 検事が「なぜ今になって話す気になったのか」と問うと、シナモンは
「パパが嘘をついたから」
 と言った。
「パパが面会に来てくれないのは病気だからって言うけど、嘘だった。私が少年院に入ったらパティを実家に帰すって言ってたのに、それも嘘だった。おまけにパティとの間に赤ちゃんまで――」
 デイヴィッド・ブラウンはたとえどんなに面倒だろうと、シナモンを定期的に訪れ、マインドコントロールを持続させておくべきだったのだ。
 少年院で感情的支配の効きめが薄れたシナモンには、ようやく彼の嘘が見えたのである。

 一方、パティに関しても同じことが起こりつつあった。
 生まれた赤ん坊に対しブラウンがあまりに冷淡だったことで、パティがブラウンに幻滅したのだ。
 パティは弁護士に付き添われて検事と会い、自分がかつて1万ドルで母親からブラウンに買われたこと、5歳からキスされ、11歳から性的奉仕を命じられていたこと等を話した。そしてシナモンの証言どおり、ブラウンの命令でシナモンがリンダを殺したことと、自分が共謀したことも供述した。
 ブラウンとパティの裁判は1988年に始まり、1990年まで続いた。判決は有罪で、終身刑である。
 パティも同じく終身刑となったが、未成年のため少年院へ送られ、問題がなければ25歳で仮釈放となる刑である。なお、判決後シナモンは21歳で仮釈放となった。

 判決の際、裁判官はブラウンにこう言ったという。
「あなたはチャールズ・マンソンにはとても見えないが、彼よりももっと恐ろしい。マンソンですら、自分の家族を利用することはなかった――。あなたは他人を操る天才です。あなたに比べれば、マンソンも小物に見える」
 と。
 



 

 

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