HONEYMOON KILLERS

 

「ねえダーリン、
世の中にはセックスに過剰になにかを求める悲しい人たちが多すぎるわ。
 何かを見失っているのよ。
  愛 愛だけが幸福を運んでくるのにね」

「そうさハニー それを教えてくれたのが君さ」

 

??岡崎京子 『3つ数えろ』より


 

マーサ&フェルナンデス

 

 レイモンド・フェルナンデスは31歳の冬、船のハッチで頭を強打し、頭蓋骨が陥没するほどの重傷を負った。脳組織が損傷を受け、彼は2ヵ月半入院した。退院後、彼はあらゆる面に関して「衝動を抑えられなく」なったという。(他の頭部負傷の例に関しては、「脳障害」の項を参照)
 彼は手あたり次第に女に手を出すようになり、つまらない窃盗で服役した。彼は自分が魔性がかった魅力を持っているという妄想を抱き(実際、髪が少々薄いことを除いては、彼はハンサムで身なりのセンスも良かった)、出会いを求めてニューヨークの「ロンリー・ハーツ・クラブ」(現代で言う出会い系サイトのようなもの。勿論通信手段は手紙)に入会した。
 彼のもとにはたくさんの独身女性から甘い手紙が届いた。スペイン人の両親を持ち、ヨーロッパ風の礼儀を身に付けていた彼は、女たちに対して実にスマートに接した。たいていの女は一目で彼に夢中になった。
 そんな中、フェルナンデスは一人の女性を騙し、遺言状を書き換えさせて自分を遺産受取人に指定させたあと、殺すことに成功した。これに気をよくした彼は新たなる犠牲者を求め、文通をはじめる。
 その相手こそマーサ・ベック。フロリダで看護婦長として働く26歳の女性だった。マーサは下垂体ホルモン異常により、120キロを越える肥満体、しかも強烈な性衝動にさいなまれていた。彼女は二度結婚して、それぞれ一人ずつ子供もいたが、いずれも養育保護者不適当とされて、親権を剥奪されている。
 彼女はフェルナンデスに一目惚れだった。フェルナンデスは彼女と二夜をともにしたのち、ただちに別れの手紙を送っているが、それを見た彼女はガスオーブンに頭を突っ込んで自殺をはかった。彼女は助かったが、その遺書を見てフェルナンデスは彼らしくもなく非常に後悔し、彼女を呼び寄せて結婚した。1947年のことである。

 フェルナンデスは彼女に、自分の本当の商売??女をたらしこんで金をまきあげ、ときには殺人も辞さないこと??を打ち明けたが、彼女は彼と離れるくらいなら、それに協力するほうをあっさりと選んだ。彼女はフェルナンデスの「妹」を名乗り、文通相手を訪ねてまわる旅に同行した。
 マーサは女性たちに対する嫉妬心を隠さず、彼にどんどん殺人を奨励した。特に相手が自分と同じような肥満体の女性の場合、その憎悪は激しくなった。ときには自ら手を下すことさえあった。彼らは3年間に、20人余りの女性を殺した。
 彼らはセックス・パートナーとしては理想的だったらしく、ベッドでは絶えることない「狂宴」がつづいたという。
 犯行は次第に大胆になり、不注意になった。殺人行脚の末、壁に塗りこめた死体が見つかったことから、あっけなくふたりは逮捕された。

 ふたりはともに死刑の宣告を受けたが、刑務所内でも運動場などでお互いの姿ををちらりとでも見ると手を振り合ったり、同房の囚人たちにどぎついノロケ話を聞かせた。特にフェルナンデスは、誰かに「マーサは今頃、女囚と楽しくレズってるぞ」などと野次られると、「嫉妬で気も狂わんばかり」になったという。
 なおフェルナンデスもマーサも、ともに不幸な幼少期を過ごしている。マーサは自分のホルモン異常による肥満体を、「奇形」だと思い込んで悩み、他人に愛されたい一心で誰彼かまわず男たちに体をさわらせたり、愛撫させたりしていた。
 対するフェルナンデスは病弱で内気だったので父親に軽蔑され、馬鹿にされきって育った。近所の子供数人と悪さをしたときも、ほかの子たちは親が引き取りに来てくれたので釈放されたが、彼だけは誰も迎えに来なかったのでそのまま少年院送りとなった。幼い彼を支えてくれたのは空想だけだった。
 処刑の2時間前、フェルナンデスはマーサに
「世界中に向かって、僕は君を愛していると叫びたい」
 と手紙を書き送り、マーサはそれを読み、感激したまま同じく処刑を受けた。
 ふたりは「世界一、不人気な殺人者」と呼ばれた。
 だがそれに対するマーサのコメントは、少々胸を打つものだ。
「なぜみんなわかってくれないの? たしかにわたしは太っていて醜い。でも、それでもこれは、わたしにとってロマンスだったのよ」。

 


デヴィッド&キャサリン

 デヴィッド・バーニーとその妻キャサリンは、ともに崩壊家庭に育った幼馴染みだった。彼らはお互いの傷をなめあうようにして育ち、ティーンエイジャーは恋人同士として過ごしたが、いったん別れ、それぞれ別の相手と結婚した。しかしデヴィッドの結婚が破綻してのち再会し、よりを戻すことになる。
 デヴィッドは女性に対し、粗暴さとロマンティックな面との両方を持ち合わせていたようだ。彼は自分の恋人に花やチョコレートを贈るのが好きで、かつ過激なポルノ・ヴィデオのコレクターで、1日に5、6回は性交しないと気がすまないほど精力がありあまっていた。そしてキャサリンはそんな彼に頼りきって生きていたのだ。

 1986年10月、自動車解体工場で働くデヴィッドのもとに、22歳の女子大生がタイヤを買いにやって来た。デヴィッドは彼女を強姦したいと思い、ナイフで脅して家まで連れ帰った。
 彼女はベッドに鎖でつながれ、キャサリンが見ている前でデヴィッドに強姦された。そのあと公園へ連れて行かれ、ふたたび犯されたのち、絞殺された。
 2週間後、ヒッチハイクをしていた15歳の少女をひろい、数日にわたって監禁、暴行したあげく、絞殺した。
 翌週には31歳のスチュワーデスが、運転中にガス欠で困っているところを、手を貸すふりをして車に押し込み、誘拐。彼女はそうとうな美人だったのでデヴィッドは少し彼女に惚れ、そのせいでキャサリンは激しく嫉妬した。被害者は3日間監禁されたが、その間ずっと「はやく殺して」とキャサリンは夫をせっつき続けた。被害者は絞殺されたのち埋められたが、キャサリンはその墓場に唾を吐きかけたという。
 11月4日、彼らはまたヒッチハイク中の女性を見つけた。女性は21歳で、彼女も前の3人と同じく自宅に連れこまれ、鎖でベッドに縛りつけられたのち、丸2日にわたって犯されつづけた。
 3日目に被害者は植物栽培薗に連れていかれ、そこでも強姦されてから、ナイフで刺された。しかし首を刺してもなかなか死ななかったので、デヴィッドは斧を持ち出してきて彼女の脳天を割った。
 キャサリンは被害者を強姦する夫の姿をカメラ撮影し、ときには殺人にも手を貸したようだ。少なくとも4人目の殺害で、彼女は夫にナイフを手渡している。
 11月6日、バーニー夫妻は17歳の少女を誘拐。鎖でベッドに縛り、デヴィッドが何度も何度も強姦した。しかしこのとき、夫妻は不用意にも彼女を残して外出してしまう。少女は鎖をはずし、窓から脱出すると半裸のまま近所のショッピングセンターに駆けこみ、助けを求めた。

 警察が少女の証言にもとづいて監禁されたとおぼしき家を訪ねると、バーニー夫妻はここ1ヶ月で4人の女性を殺し、埋めたことをすぐに認め、供述しはじめた。
 ふたりがあまりにもあっさり犯行を認めたので、証拠や精神鑑定、犯行時の心理などはほとんど審議されなかった。そのため新聞社は独自でふたりの周囲の人間を取材し、談話をまとめなくてはならなかったらしい。
 デヴィッドの弟(彼も性犯罪の前科があった)は、兄の精力絶倫ぶりについて語り、
「キャサリンと別れてた時期、ぼくは兄貴に強姦されたことがあります。またぼくが20歳になったお祝いだと言って、兄はキャサリンとセックスしろ、と言いました」
 と証言した。
 デヴィッド・バーニーは5人兄弟の長子で、彼が10歳のとき家庭は崩壊。子供たちはすべて施設に送られた。
 キャサリンは母の死後、祖父母にひきとられて育ったが、遊び友達はひとりもなく、家に友達を入れることすら許されていなかった。幼少期、誰も彼女の笑顔を見たためしがなかったという。その厳格な祖母は、まだ幼かった彼女の眼前で、癲癇の発作を起こし悶え死んでいる。
 逮捕後にキャサリンを面接した精神科医は、
「あれほど夫に依存しきって生きている女を見たのははじめてだ」と言った。
 彼らはともに、終身刑となった。

 


ギャレゴ&シャーリーン

 ジェラルド・ギャレゴは遺伝的気質を多く含む性的犯罪者だったようだ。
 彼の父親は3件の殺人を犯し、1955年に28歳という若さで処刑されている。しかしギャレゴは長らくこの事実を知らずに成長した。
 10歳のとき初めて警察沙汰を起こし、13歳のとき、7歳の幼女を強姦して少年院送致となった。18歳で最初の結婚をするが、32歳までに7回もの離婚と結婚を繰りかえす。その間にできた娘がひとりいたが、ギャレゴは娘が8歳のときから彼女を犯し、14歳になると肛門姦したあげく、彼女の友人までも強姦した。この件は警察に訴えられ、ギャレゴはその地を逃げ出した。
 ギャレゴがシャーリーンと知り合ったのは1977年のことである。
 シャーリーンは富裕な家のひとり娘として溺愛され、なに不自由なく育った。大学で麻薬とセックスを覚え、21歳までに2回結婚し、2回とも離婚。ギャレゴと知り合ったのは、「目かくしデート」という、相手が誰だかわからないでデートするという少々いかがわしい企画のパーティで、であった。
 シャーリーンはギャレゴの虜となった。彼の男性的な荒々しさ、暴力的なセックス、前科、強烈な妄想と権力欲。そのすべてが彼女の目にはたとえようもなく甘美でロマンティックに映った。
 1978年、ふたりは結婚(法的にはギャレゴが前妻と離婚する手続きを怠っていたため、無理だった。いわば内縁の結婚でしかない)。
 ギャレゴは妻に、
「おれが欲しいのは10代の処女のセックス奴隷だ。オーラルセックスとアナルセックスにいつでも応じる完璧な奴隷、そいつが欲しい。おまえはおれの妻なんだから、奴隷探しに協力しなくちゃいけない」
 と言い、シャーリーンはこれを承諾したようだ。彼らの殺人は1978年9月から始まる。

 9月11日、ショッピングセンターでシャーリーンはふたりの少女(16歳と17歳)に、マリファナを吸わせてやると言い、車までおびき寄せた。車の後部座席にはギャレゴが待ちかまえており、少女たちは強姦された末、人気のないところで後頭部を3発撃たれて殺された。死体は投げ捨てられた。
 1979年6月24日には、14歳の少女と15歳の少女を誘拐し、強姦して殺害した。
 1980年4月24日、ふたりの17歳の少女が誘拐される。ともにハンマーで頭蓋を殴られて殺され、3ヵ月後に腐乱死体となって発見された。
 同年6月6日(殺人の間隔が短くなってきているのがわかる)、妊娠5ヶ月の女性が誘拐され、殺害される。死体が発見されたのは3週間後で、手をロープで縛られ、頭を鈍器で殴られていた。だが気管に砂が入っていたことから、埋められた際にはまだ生きていたものと思われる。
 7月17日、34歳の女性が誘拐、殺害される。
 11月2日、ふたりはレストランでイブニングドレスを着た美女を見かけた。ギャレゴは「あれをモノにしたい」と言い、シャーリーンが「でも、彼氏付きよ」と反論したが、「問題ない」と却下した。
 カップルが店を出たところで、シャーリーンが彼らに話しかけ、銃を付きつけて車に乗せた。しかしこの様子を見ていたカップルの知り合いの学生が、ふたりの表情がおかしかったことに気づき、車のナンバーを書きとめていたのを、ギャレゴとシャーリーンは知らなかった。
 カップルの男のほうは車内で射殺し、死体は投げ捨てた。女はギャレゴのアパートに連れこまれ、彼の倒錯した趣味を満足させるのに「使用」された。シャーリーンは被害者が泣きわめき、哀願するのを隣室で聞いた。
 被害者の死体は5日後に発見された。後頭部を3発撃たれ、あきらかに強姦されていた。
 学生がひかえたナンバーからシャーリーンの名前が割れ、ギャレゴの存在が浮かんだ。彼らはネブラスカで逮捕された。

 逮捕されたのちも、ギャレゴは「陪審員がみんな女なら、自分の味方をしてくれる」と信じていたが、当然ながら陪審員には男性も含まれていた。彼は2度の死刑判決を受け、シャーリーンは有罪答弁取引のおかげで16年の刑で済んだ。

 


ブレイディー&マイラ

 イアン・ブレイディーはスラム街で私生児として育った。11歳までは正常だったらしいが、都市再開発計画により住居を移され、裕福な子供たちと一緒に小学校に通わなくてはならなくなると、その階級の違いをまのあたりにして羨望と憎悪を抱くようになったという。
 彼はひっきりなしに盗みをはたらき、動物を虐待するようになった。13歳から20歳までは少年院を出たり入ったりし、21歳で化学薬品会社に就職した。
 彼はナチス思想と、マルキ・ド・サドの小説世界にかぶれていた。どちらも「凡愚なる大衆は死んで当然」という彼の持論を裏づけてくれたからだ。ブレイディーは知能が高かったので、そのうち『我が闘争』を原語で読めるまでになったらしい。
 さて、就職先にいた冴えない18歳のタイピストが、やがて彼の相棒となったマイラである。彼女はごくふつうの家庭で育ったまともな少女だったが、前の恋人を「子供っぽすぎる」という理由で捨てたり、無口でドイツワインをたしなむブレイディーに熱をあげてしまったことなどからみて、過度にロマンティックな憧れを抱いた女の子ではあったようだ。
 ともあれマイラは「インテリでクール」なブレイディーに夢中になる。ブレイディーから見たマイラは「労働階級の、うすのろの小娘」でしかなかったが、マイラの片思いは一年近くもつづいた。
 1961年、ブレイディーはクリスマス・パーティの帰り道、なぜか気が向いて彼女を家まで送ってやろうと思った。マイラはこれを受け、1週間後、自宅のカウチの上で処女を失った。
 ふたりは毎週デートするようになり、ブレイディーはカトリックだったマイラに聖書の矛盾点を指摘して論破し、彼女の信仰心を粉々にくだいた。そして代わりに無神論と、サド侯爵の世界観と、ナチスの思想を吹きこんだ。マイラはまたたく間にそれに染まり、イルマ・グレーゼ(ナチスの女看守、有名なサディストで、「ベルゼンの雌獣」と呼ばれた)を気取って髪をブロンドにし、革ブーツを穿くことになる。ブレイディはそれを気に入って彼女を「マイラ・ヘス」と呼んだ(ヘスはヒトラーの副官、ルドルフ・ヘスからとったもの)。

 1963年7月、ブレイディーはマイラに「完全殺人」を犯してみないかと持ちかけた。マイラは彼の言いなりで、一も二もなくそれに従った。
 7月12日、ふたりはヴァンで出かけ、16歳の少女を言葉たくみに誘って車に乗せた。少女はブレイディーに強姦され、喉をかき切られて殺された。
 11月23日、また車で出かけると、12歳の少年をだまして乗せ、強姦ののち絞殺。絞め殺したのは、ナイフがなまくらで喉を切ることができなかったためである。
 翌年6月16日、ふたりで車を出し、「荷物を運ぶのを手伝ってほしい」と12歳の少年をだまして乗せた。少年はブレイディーに強姦され、絞め殺されて荒地に埋められた。
 1964年12月26日、ふたりは遊園地で10歳の少女を拾った。マイラの同居者は祖母だけだったが、祖母は伯父の家へ泊まりに行っていたので、少女はマイラの家に連れこまれることになった。
 少女は裸にされ、淫らなポーズをあれこれ取らされて、その姿を写真に撮られた。またテープレコーダに声を録音された。このテープはのちに裁判で証拠として出されたが、少女は
「お願いだから服を脱がせないで」
「裸にしたらいや、おねがい」
「やめて、おばさん」
 と、一貫して哀願している。それにマイラの声がかぶさって、
「お黙り。黙らないと何をするかわからないよ、ぶつよ」。
 その後、少女は自ら口にハンカチを押し込むことをブレイディーに強要され、強姦され絞殺された。
 ブレイディーはすでにもう随分前から、マイラに性的な興味をほとんど持っていなかったらしい。ブレイディーにとって満足いく性交とは征服欲を満たすサディスティックなものでなくてはならなかったが、簡単に征服できてしまったマイラでは役者不足だったのだろう。ひどいときにはブレイディーが自慰をしている最中、マイラは彼の肛門に蝋燭を挿入する役目をやらされたという。そうやって彼に奉仕している間、マイラはなんの快楽も与えられず放っておかれるのだが、別段彼女はそれを侮辱と感じていたふしはないようだ。何しろマイラにとって、彼は絶対だったのだから。
 マイラは逮捕後、
「あのひとが地球は平らだ、太陽は西からのぼる、月は生チーズでできている、と言っていたとしても、私はそれを信じたでしょう」
 と言っている。

 1965年10月、またもブレイディーは殺人への衝動にかられた。そして「共犯者が必要だ」と言い張り、マイラの義弟で17歳のデヴィッドを仲間に引き込もうと計画した。
 まずブレイディーが外で17歳のゲイの少年を拾い、性交している間にマイラがデヴィッドを呼びに行った。デヴィッドがブレイディーのアパートのドアを開けると、ブレイディーは少年の頭蓋を斧でたたき割っている真っ最中だった。床一面が血の海となり、少年はぐったりして動かなくなった。
 ブレイディーはデヴィッドを振りかえり、斧に彼の指紋をつけるため、「この重みを確かめてみろよ」と言って手渡した。
 デヴィッドはその場では死体の処理を手伝ったものの、彼らに加担する気はなかった。彼は口では生半可な超人思想を唱えてはいたものの、現実の殺人に適応できるほど「イカれて」はいなかったのだ。彼は家に着くと激しく嘔吐し、妻にすべてを打ち明けた。
 デヴィッドの通報でブレイディーとマイラは逮捕された。
 ブレイディーは3回の終身刑、マイラは1回の終身刑を宣告された。なお蛇足だが、ザ・スミスの「Suffer Little Children」はこの事件を題材にした曲である。

 


キャリル&チャールズ

 チャールズ・スタークウェザーは貧しい家庭に育った。生育環境に加えて彼の冴えない容姿のせいでからかわれがちだったが、知能が低く軽い言語障害があったため、周囲とは言い争いさえできなかった。彼は劣等感と、いささか被害妄想気味の憎悪を抱いて成長した。
 19歳の冬、彼はガソリンスタンドで強盗を働こうとし、従業員を射殺した。彼にはガールフレンドのキャリル・フューゲイトがおり、彼女は彼の言によると「唯一の大事なもの」であった。彼はキャリルを迎えに行くが、両親に反対されたため、これを射殺。さらに2歳の異父妹まで「泣き出したから、頭にきて」刺し殺している。
 彼らの実録映画では、キャリルはここでいったん彼をひっぱたき、そのあと抱きついてキスすることになっているが??現実に何があったかはともかく、彼女は自分の実の母親の死体を、彼と一緒になって屋外のトイレに押し込んで隠した。妹の死体は、その上に無造作に重ねておいた。
 彼らは死体とこの家で6日間過ごしたのち、逃避行の旅に出た。
 強盗をはたらきながら、彼らが逃亡の旅のうちに殺した人数は10人。しまいには派手なカーチェイスの末、警官に包囲されて捕まった。
 スタークウェザーは電気椅子で処刑されたが、『理由なき犯行』のジェームズ・ディーンにそっくりだとして、一部の若者に熱狂的な支持を受けた。

 


クラーク&キャロル

 ダグラス・クラークの目標は100人殺すことだった、という。現実に何人殺したかは不明、本人は50人は殺したと自供したが、立件できたのは6件。だがそれで充分だった。相棒のキャロル・バンディはマーサ・ベックと同じく看護婦。マーサほどではないにしろ肥満気味の中年女だった。

 クラークは性倒錯者で、女ものの下着を身につけることと屍姦がなにより好きだった。彼のお気に入りの妄想は「女の子の首をかき切って、血を流しながら死に向かっていく体と性交すること」だった。それにできるだけ近い形で彼が現実に実行しえたのは、「売春婦にオーラル・セックスさせながら撃ち殺し、その後屍姦する」というものである。
 キャロルは「最初からいっしょに人殺しをするのが目的で、彼とくっついたの」と言った。
 クラークとキャロルはまったくセックスしないわけではなかったし、彼女に言わせれば「彼のテクニックは抜群」だったが、クラークは正常な行為にはほとんど興味がなかった。
 1980年3月2日、クラークは10代の少女売春婦を拾い、口姦させながら頭部を撃ちぬいた。
 6月1日、17歳の家出娘を拾い、同じく射殺。腐乱を早めるため腹部を裂いて死体を峡谷に放置した。
 6月11日、15歳の少女とその義妹を殺害。死体には死後暴行を受けたあとが顕著に残っていた。クラークはこの興奮をキャロルとわかち合おうと思い、彼女のアパートを訪ねたが彼女は不在だったので、
「きみがいなくて寂しい」
 というメモを残して立ち去っている。
 6月15日、クラークは馴染みの売春婦の部屋を訪れ、射殺。彼女の首をはね、車のトランクに積みこんだところで同居人の女性が帰ってきたので、彼女をも追跡して射殺。
 クラークは生首を冷蔵庫に入れて保存し、その口を使って自慰した。キャロルはその後、首をきれいに洗髪し、バービー人形のように可愛く化粧してやったあと、ダンボール箱に入れて投棄した。

 だがここでなぜかキャロルは前の恋人であるマレイという男と会い、一連の売春婦殺しは自分たちの仕業だとしゃべってしまう。マレイは警察に密告するぞ、とクラークを脅迫にかかったが、キャロルが彼を撃ち殺した。
 しかしマレイの身元が判明するや、以前の愛人だったキャロルの名が浮上するのに長くはかからなかった。キャロルの逮捕はそのままクラークの逮捕へとつながった。

 クラークは法廷で、人を殺すことを「用を足す」と表現したという。
 クラークはガス室での死刑を宣告されたが、それを告げられたとき「せめて微笑みながら言えよ」と言っただけだった。キャロルは終身刑となった。

 


バナード&カーラ

 ポール・バナードは1965年にカナダのスカボロで生まれた。父は会計士、母は専業主婦。出産時の酸素欠乏により、彼は5歳になってもうまくしゃべれず、失語症と診断された。長じてからは人一倍饒舌で弁舌巧みになったものの、このときの劣等感は一生残っていたようである。
 10歳のとき、父が幼女に対する猥褻罪で逮捕されるという事件が起きる。父親っ子だったバナードはこれにひどいショックを受けた。そして、これ以後少し経ってから、バナードは夜に家を抜け出し、公園の茂みに隠れたり、近所の家の窓を覗くなどの窃視行為に耽るようになる。
 父の悪癖もまた、止むことはなかったようだ。両親はしばしば諍いを起こし、バナードは階下で喧嘩がはじまると決まって家をこっそり抜け出し、逃避するかのように覗きに励んだ。16歳のとき、父と言い争いの末、半狂乱になった母が彼の部屋に駆け込んできて、
「おまえはあの男のほんとうの子じゃないんだ! おまえなんか産まなければよかった!」
 と喚いた。そしてその後数年にわたって、バナードを叱りつける際「この生まれぞこない」と呼んだ。これ以降バナードは、友人の目にも「人が変わったようになってしまった」という。彼の中に社会への敵意、女性一般への憎悪が芽生えたのはこれがきっかけだったと、のちに精神科医は指摘した。
 バナードは美男だった。澄んだブルーの目をしており、白い肌は赤ん坊のように滑らかで、笑顔は輝くばかりだった。クラスメイトは彼を「ミスター・第一印象」と呼んだ。たいていの女の子は彼を一目見ただけで頬を赤らめたからだ。しかしそこには「第一印象だけだ」という言外の意味もこめられていた。バナードをもっとよく知るようになると、たいていの人間が、その魅力的な笑顔の下になにかが隠されているような気がして、落ち着かなくなるのだった。
 10代半ばにして、すでにバナードの性的嗜好は確立されていたといっていい。観淫症、サディズム、愛糞症、嗜尿症。そして鼻持ちならないほどの自惚れ屋であり、1日のうち3時間はたっぷり鏡の前に立っていなくては気が済まないほどのナルシストだった。

 カーラ・ホモルカと彼が出会ったのは、バナードが23歳、カーラが17歳のときだった。
 カーラは両親に愛されて何不自由なく育った少女だった。ブロンドで、バナードに負けず劣らずの美形であり、男の子たちには絶大な人気があった。しかしボーイフレンドをとっかえひっかえしながらも、カーラは物足りないものを感じていた。バナードに出会う前、いつでもカーラは男の子たちを振り回す側だったが、それは彼女の真に望んだことではなかった。やや神経症気味で、女系家族の中に育ったカーラは、すべてを頭から支配してかかるようなバナードに夢中になった。
 この時期、カーラは何通も彼に熱烈なラブレターを送っている。
「ポール、わたしのプリンス。あなたの女の子は四六時中あなたにやられたがってるわ。ありがとう、わたしをこんなにしてくれて」
「あなたって、とんでもないアブノーマルな変態だわ。男の人はそうでなくっちゃ!」
「お願いだから、私をベッドに押し倒して、服を脱がせて、1時間かけてめちゃくちゃにするのはやめて。……1日中にして!」
 当時、バナードは会計士助手をしながら夜学に通っていた。カーラは彼を家族に紹介し、家にしばしば招いた。
 バナードは彼女の両親や妹に如才ない笑顔をふりまいたあと、彼女の部屋でオーラル・セックスをさせ、肛門姦し、その間ずっと「わたしは淫売です。あなたのカントです」と言い続けさせた。しかし、バナードはじきにカーラとのセックスに飽きた。

 1987年から1991年にかけて、スカボロでは連続暴行事件が起きていた。
 手口は残忍と言ってもいいもので、被害者にオーラル・セックスを強要し、性器と肛門を犯し、歯や肋骨が折れるまで殴りつけるというものである。また、行為の間中、被害者に「あなたを愛しています。あなたは王様です」と言わせることを強いた。被害者が訴え出ただけで8件。実害はその何倍になるのか想像もつかなかった。運良く犯人の顔を見た被害者は、「ブロンドでハンサム。背は180センチくらいでたくましい体つき」と証言した。
 警察は躍起になってこの「スカボロ暴行魔」を追った。バナードは容疑者リストの中に名を連ねていたが、悪運強く、捜査の手が彼に及ぶことはなかった。
 暴行魔として暗躍しながらも、バナードはほかの女の子にも食指を動かしていた。その筆頭がカーラの末の妹で、まだ13歳の少女であった。
「あの子の処女が欲しい。だってカーラ、おまえは俺に処女をくれなかったじゃないか、その代償だ」。
 カーラは拒否したが、バナードは諦めなかった。なだめたりすかしたりしてバナードは説得をつづけ、ついにカーラに協力させることに成功する。2人は薬局でハロタン(クロロホルムの約2倍も強い薬品)を買い、その日に備えた。

 1990年のクリスマス、ホモルカ家でパーティがひらかれ、バナードも長女のボーイフレンドとして招待された。末の妹はカクテルを数杯飲み、「目がへんになっちゃった」と言うくらいに酔っぱらった。
 家人がみな寝室にひきはらってしまったのを確認し、2人は妹に睡眠薬入りのジュースを飲ませ、眠りに落ちたところを、さらにハロタンを染みこませた布を顔に押しつけた。昏睡した妹をバナードは性器・肛門共に凌辱し、カーラに妹を愛撫するよう命じた。カーラはいやいやながらそれに従った。
 しかしすべてが終わったとき、2人は妹が息をしていないことに気づいた。妹は嘔吐物を喉につまらせ、窒息死していた。死体は検死解剖されたが、検視官はレイプの痕跡にも、胃腸内の睡眠薬にも気づかず、事故死ということで片が付いた。


 すべての事件が発覚した後、精神科医はカーラを評して「知能はきわめて優秀。しかし道徳心は非常に低い」と述べた。カーラの知能指数は130と、人口の上位2%に入る数値を出している。が、なぜ彼女がバナードの犯罪に加担したかといえば、彼に虐待され、支配されていたことを差っ引いても、「保身」が大きかったようだ。カーラはたしかにバナードを失いたくなかったが、同時に刑務所へも行きたくはなかったのである。
 バナードはカーラに対し「共犯者」という切り札をさらに持った。カーラは余計に彼から離れられなくなった。バナードは以前にも増して暴君と化し、彼女を殴り、蹴り、罵り、人前でもかまわず「淫売、カント」と呼ぶようになった。しかしその一方で、2人の結婚話も着々と進んでいたのだった。
 1991年2月から彼らはダルヒュージに新居をかまえ、同棲をはじめた。「スカボロの暴行魔」の犯行は止み、代わりにダルヒュージに暴行事件が頻発するようになるが、この時点でその因果関係に気づいた者はいない。
 結婚式は6月の予定だった。そのわずか2週間前、バナードは14歳の少女を誘拐し、カーラの待つ新居へ連れて帰った。バナードは少女を犯し、肛門姦し、口淫させ、「あなたを愛しています、王様」と言うことを強要した。カーラはその様子をビデオカメラで撮影した。少女は凌辱の限りを尽くされたのち、電気コードで絞め殺され、死体をバラバラにされ、セメント詰めにされた挙句、湖に沈められた。
 2週間後、バナードとカーラは結婚した。ほぼ同時に湖から少女の死体が発見されるが、この幸福な美男美女カップルに関連があるなどと思った者はもちろんいなかった。

 1992年4月、ふたたびバナードは少女を誘拐してくる。今度の被害者は15歳だった。彼女は同じく口と性器と肛門を犯され、その姿を撮影された。バナードは彼女からボーイフレンドの名を聞きだし、「もうあいつは大嫌い。わたしが愛しているのはあなただけです」と言わせた。3日にわたってバナードは少女を凌辱し、最後に絞殺した。死体は町はずれのゴミ捨て場に遺棄し、落ち葉で覆った。彼女の死体が発見されるのは2週間後のことである。
 バナードのカーラへの暴行はますますひどくなった。彼女を嘲り、罵り、「もうおまえとじゃ興奮しない」と言って、いままで殺した被害者たちの物真似をさせながら犯した。カーラは全身の痣を「犬に噛まれた」とごまかしつづけたが、ついに12月、見るに見かねた親戚が虐待を通報し、彼女を保護する。
 1993年1月、かんかんに腹を立てたバナードがカーラの行方を探し回っていた頃、ようやく警察は「スカボロ暴行魔」の体液が、容疑者リストの中のポール・バナードと一致するものであるとの結論に達した。バナードは逮捕された。
 親戚の家でバナードの逮捕を聞かされたカーラはパニックに陥り、「もうすべてがおしまいだ」と思い、3件の殺人について叔母に告白した。
 裁判の間、カーラは「なぜ彼に妹を犯させたのか?」「なぜ彼に淫らな写真やビデオを撮らせたのか?」「なぜ犯罪に加担したのか?」という全ての問いに、「彼がそう望んだからです」と答えた。
 カーラは12年の懲役を宣告された。バナードは25年の懲役刑となったが、その直後、バナードを終身刑にするべく大規模な市民運動が起こった。
 

 

 


 

すてき すてきよあなた
もっといじめて もっとなぐって もっとぐちゃぐちゃにして
あたし あなたがひどいことしてるの見るの 好きよ
もっとして もっとやって もっとやりまくって

 

??岡崎京子・同作品より

 

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