Dominate Over You
――支配欲――

 

 

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以下はFBI行動科学部のロバート・ヘイゼルウッドの言である。
「ある連続性犯罪者はこう言った。『強姦そのものは犯行の中でもっとも面白くない部分なんです』。そして『でもね、そこまで漕ぎつけるのにどれだけ苦労したかを考えると、強姦しない方が犯罪なんですよ』と。
 つまり性犯罪行為とは、実はセックス以外の欲求を満たすのだということだ。それは権力欲求であり、君臨欲求であり、コントロールへの欲求なのである」。

 ここに紹介する犯罪者たちは、セックスそのものより他人を支配すること、権力欲を満足させること、他人を操り自由にすることに取り憑かれた者たちである。
 彼らは被害者の恐怖を味わい、皇帝のように君臨することに酔った。
 だがもっとも恐ろしいのは、彼らを突き動かしたその衝動が、我々の中にもまた少しずつ在るということだ。

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メルビン・デイヴィス・リース

 

 1959年1月11日、キャロル・ジャクソンとその妻ミルドレッドは、ふたりの娘を連れてドライヴを楽しんでいた。娘は5歳のスーザンと1歳半のジャネット。かわいい盛りである。
 彼ら夫妻はパブティスト教会で出会って間もなく結婚し、キャロルは禁酒禁煙をこころがけ、将来を約束された仕事に就いていた。この絵に描いたように幸福な一家が、イースト・ヴァージニアのドライヴコースにさしかかったところで、一台のシボレーが追い越しをかけてきた。
 キャロルは車を脇に寄せ、道を譲った。シボレーは猛スピードでその横を駆け抜け、視界から消えてしまったかに見えた。
 苦笑してキャロルが「酔っ払いかな」と妻に笑いかけると同時に、妻のミルドレッドが悲鳴をあげた。
 つい先ほど駆け抜けていったはずのシボレーがUターンし、道路を逆走してこちらへ向かってきたのである。シボレーはジャクソン一家の車の前に迫ると、ハンドルを左右に切って彼らの進行方向をふさいだ。
 キャロルは避けようとハンドルをさばいたが、車は道路からはじき出され、茂みへ鼻面を突っ込んでしまった。娘を妻がしっかり抱きかかえているのを横目で確認すると、キャロルはシボレーの男に何か言ってやろうと、憤然とドアを開けた。
 するとシボレーから男が下りてきた。男はにやにや笑いながら、顔の横でなにかを振った。
 それは黒光りする銃だった。男はキャロルの額に銃口を押し当て、
「なにか文句でも?」と言った。
 それから男は、ジャクソン一家にシボレーのトランクに入るよう命じた。

 その日の午後遅く、同じ道を走ってきたミルドレッドの叔母が、ジャクソン一家の車を発見。捜索が開始されたが、彼らはどこにも見あたらなかった。
 3月4日、裏道の湿地帯でキャロル・ジャクソンと赤ん坊のジャネットの死体が発見された。キャロルは両手をネクタイで縛られた上、頭を撃ち抜かれている。わずか1歳半のジャネットはキャロルが撃たれて倒れた際に下敷きになったらしく、父の死体に押しつぶされて窒息死していた。
 3月21日、リス狩りをしていた少年たちによって、浅く埋められていたミルドレッドと、娘スーザンの死体が発見される。スーザンは殴り殺され、ミルドレッドは撃ち殺されている。そして共に、強姦されていた。
 この光景は、警察に2年前のある事件を思い出させた。こことほぼ同じ場所で2年前、謎のドライヴァーに銃で脅され、金を要求されたカップルがいたのである。女が「金を渡しちゃだめ」と言うと、ドライヴァーはためらいなく彼女を射殺した。ガールフレンドが殺されたことに動転した男は、車から転げ出て必死に走った。警察を連れて戻ってくると、ドライヴァーの姿はどこにもなく、殺された女は全裸で車に横たわっていた。ドライヴァーは死体を強姦して去ったのである。
 警察は、これは同一犯の犯行ではないかとの疑いを持った。

 2ヵ月後、警察に差出人不明の手紙が届いた。それは「ジャクソン一家殺害の犯人は、“さまよえるジャズマン”である」という内容で、旅まわりのジャズ奏者であるメルビン・リースという男を名指していた。
 リースの行方がわかり、彼を召喚して2年前の事件の生き残りである男に面通しさせたところ、「間違いなくあの男だ」との証言が得られた。リースはさらなる尋問のため、拘置期間を延長される。
 リースの家を捜索すると、38口径リボルヴァーと、日記やメモ帳が発見された。そこにはジャクソン一家殺害の記録も含まれていた。
「人通りのない道で捕獲。車で例の場所へ。男と赤ん坊は殺す。これで母親と娘っこは俺のもの」。
 そして彼はミルドレッドの目の前でわずか5歳のスーザンを強姦し、その後鉄パイプで頭を叩き割った。そして脳漿を垂れ流している幼い娘の死体の横で、母ミルドレッドの首を絞め、鞭打ち、オーラル・セックスを強要した。
「俺は、完全にこの女を征服した」。
 ミルドレッドが失神するまで彼は何度も彼女を強姦し、気が済むと、心臓に38口径の弾丸を撃ちこんで殺した。
 彼のこの詳細な記録癖によって、未解決となっていた他4件の殺人もが解決することになる。被害者はいずれも10代の女性で、すべて性的な殺人であった。
 リースは罪の意識を微塵も持っていないように見えたという。彼は自分のやったことを誇りにしており、自分が女性たちにふるった暴力の数々を公然と自慢していた。特に死後の強姦は、彼にとって最大のスリルであり、力の誇示だった。
 メルビン・リースは9件の殺人によって死刑を宣告され、1961年に刑を執行された。

 

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アルバート・ブラスト

 

 1973年7月16日、フロリダ州フォート・ローダーデイル市警察署に、ぼろぼろにされたハイティーンの少女が半狂乱で駆け込んできた。
「ボーイフレンドが殺されたの。あたしもそいつに、何度もレイプされたわ」
 時間をかけ、少女をなんとか落ち着かせて、署員が事情を聞きだすことに成功した。
 少女とそのボーイフレンドは、2日前にヒッチハイクをしたのだという。止まってくれたのは白いダッジに乗った中年男であった。男はマイアミに住んでいると言い、
「どうだい、私の家でちょっとしたアルバイトをしていかないか」
 と気さくに彼らを誘った。2人はなんの疑いもなく、男の自宅へついていった。
 だが自宅に入るや、男はやおら銃を取り出し、2人に突きつけた。そして服を脱ぐことを彼らに命じた。少女とボーイフレンドはその命令に従わざるを得ず、服を脱ぐと、男の命じるままにあらゆる種類の異常性交を演じる羽目になる。そしてその様を、男は写真に撮った。
 男がカメラをちゃんと構えるために銃をおろした瞬間、チャンスを窺っていたボーイフレンドは男に反撃を試みた。しかしそれは失敗し、男はいちはやく銃を取りあげると彼に3発の銃弾を撃ち込んだ。頭と肩と胸を撃たれ、わずか16歳の少年は死亡した。
 男は彼の死体を地下室に引きずっていき、呆然としている少女を家のはずれにある防音室に放り込むと、その壁に彼女を拘束した。少女の証言によるとその部屋はあきらかに「拷問用」につくられた部屋で、天井から鎖が垂れ、拘束のための南京錠付きのベルトや、あらゆる種類の鞭が用意してあったという。
 男はそこで24時間にわたって少女をいたぶりながら強姦し、あまりにも長くつづいた拷問に彼女がついに死を覚悟したころ、いきなり男は
「ひとつ命を頂戴したからな、おまえの命はくれてやる」
 と言って、彼女を解放したのだった。

 少女が警察に駆け込んでから5日後、サウス・デイド郡に住む主婦が、隣家の主人がテラスの椅子に座ったっきり身動きもしないのに気づき、通報した。検死の結果、彼は青酸入りチョコレート・ミルクを飲んで絶命したことが判明する。男の名は、アルバート・ブラスト。44歳になる建築物査察官であった。
 そしてブラスト宅の浴室の壁からは、塗りこめられた少年のばらばら死体が発見される。切断された頭部は股の間に押し込まれ、手足は壁のコンクリートの中に埋められていた。警察は5日前に「とても信じられないようなこと」を語った少女のことを思い出し、ここがその現場に違いないと確信を抱いた。
 果たして、少女が言ったのとそっくり同じ拷問室も発見される。そしてポルノやブルーフィルム、サド公爵の著作も何点か見つかった。


 アルバート・ブラストは1929年にニューヨークで生まれた。21歳で、誘拐・襲撃・強盗の罪で3年から10年の刑期を言い渡され、服役している。刑務所内で建設関係の技術を独習し、出所後は12年間にわたって建設工事に従事。その後フロリダ州デイド郡に住まいを移すと、そこで建築物査察官の職を得たのだった。
 ブラストは醜い小男で、友人はひとりもなく、当然のことながら親しい女性もいなかった。彼はつねに性的欲求不満をかかえていたが、彼の日記によると
「仕事が終わるとなるべく早く帰って、音楽と本とTVが待っている我が孤独の聖域での生活を楽しむ。まだセックスはないが、現在それを工作中である。ゆっくりと、だが断乎たる決意をもって。私は自分がなにを求めているかを知っている――性の相手は欲しいが、白痴ではごめんこうむる。ここでブラスト的結論を出すならば……」
 この『ブラスト的結論』とは、若い女の子を誘拐して拷問し、奴隷に仕立てあげるということであった。この日記の内容と彼の前歴からして、どうやら彼は44歳にしてまだ性体験を持ったことがなかったようだ。
 ブラストは怒りっぽく、皮肉屋で攻撃的だった。長年の欲求不満と、能力に見合った遇され方をしていないという思い込みが、彼を不寛容な人間にしてしまったようだ。彼の同僚はこう語っている。
「あいつは、自分のことをほかの誰よりも上の存在だと思ってました」
 また、こういう証言もある。
「あの男は、宗教にはじまり、犬猫にいたるまですべてのものを憎悪していました」
 誇り高すぎる彼には、自分から「愚かな女ども」にひざまずいて求愛するつもりなど毛頭なかった。女性に拒絶されることなど彼の神経には耐えられない。彼の相手になる女は従順な奴隷でなくてはならなかった。
 しかし、その妄想を現実のものとした瞬間、彼はひどい失望を味わったようだ。日記にはこうある。
「不愉快な作業を重ねることで(おそらく、殺害した16歳の少年の死体を処理したことを指している)、現在の自分の環境を改善することができる。それはわかっている。だがこれ以上続ける確固たる理由はない。次にくるものはなにか? このこと全体が甲斐のある仕事ではない。結局、人生とは生きる手間をかけるに値しないものなのだ」。
 苦々しくこの文章を綴ってからしばらくして、彼は庭のテラスに腰をおろす。そして青酸入りチョコレート・ミルクを飲み干し、すべてを終わらせた。

 

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スティーヴン・ジュディ

 

 1979年4月28日。
 インディアナ州の川べりで全裸の女性死体と、3人の子供の死体が発見された。女性は20代初めであきらかに暴行された上で絞殺されており、子供たちは溺死していた。
 彼女の身元はじきに判明するが、同居人の説明によると、ベビーシッターに子供を預けてから出勤する途中に行方不明になったのだということだった。
 事件の情報が公開されて間もなく、事件現場にピックアップ・トラックが駐車していたとの通報があった。調査の結果、トラックの持ち主はスティーヴン・ジュディという22歳の煉瓦職人のものであることがわかる。29日、ジュディはただちに身柄を拘束された。

 スティーヴン・ジュディは典型的な崩壊家庭で愛情なく育った。彼が実の両親について覚えていることと言えば、絶え間なかった激しい喧嘩のことのみである。養父母は彼に愛情をそそいでくれたが、それは彼にとってほとんど「焼け石に水」といったほどのことでしかなかった。
 ジュディは12歳のとき、近所の顔見知りの女性の家を訪ねると、
「ボーイスカウトです。クッキーを買ってもらえませんか」
 と言った。そして女性が家の中にひとりきりであることを確認すると、ナイフを出して押し入った。彼はその女性を暴行し、41箇所にわたって刺し、切り刻んだ。さらに斧で彼女を殴り殺そうとさえした。
 女性は頭蓋切開手術を受けてようやく一命をとりとめ、自分を襲ったのがジュディ少年であると名指した。ジュディは精神病院へ送られたが、拘束されていたのはわずか9ヶ月間に過ぎなかった。
 それからも彼は女性に対する暴行や誘拐罪で2度服役している。
 冒頭の事件について、ジュディはこう証言した。
「28日の朝、ガールフレンドを家まで送ってやった。それからあの女(被害者)が、子供を乗せて走ってるのを見た。――俺はその車に並んで走って、親切ヅラしてタイヤを指さしてやった。女は信用して、すぐに車を止めてどこが悪いのかって調べはじめたよ」
 ジュディは困惑する彼女に近寄ると、最寄のガソリンスタンドまで乗せていってやると申し出た。彼を信じた被害者は子供ともどもトラックに乗り込んだが、もちろんそれは大きな誤りであった。
 ジュディは彼女をレイプし、絞殺した。母親の悲鳴を聞いて駆けつけてきた子供たちも、首を掴みあげて川に1人ずつ放り込んだ。
 また、彼は裁判で
「思い出せないくらいの女を殺したよ。テキサス、フロリダ、ルイジアナ、イリノイ、インディアナ……。掘り起こしていけば、俺が殺した死体が数珠つながりになって埋まってるだろうよ」と言い、
「次はあんたたちかな? それともあんたたちのガキかもしれないな。なぁ、だから俺を死刑にしといた方がいいぜ」
 と笑った。法廷には彼が12歳のとき襲った女性も出廷し、彼によって切り落とされた人差し指の痕跡を示して見せた。

 1980年2月、ジュディは死刑を宣告された。彼はかたくなに控訴を拒んだ。
 死刑が執行されたのは翌年3月8日のことである。彼は甘んじて電気椅子に座り、養父母は最後の義務としてその死を見届けた。


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ウェルナー・ボースト

 

 1953年1月7日、ドイツのデュッセルドルフで、19歳の男子学生と著名な弁護士という組み合わせのホモセクシュアル・カップルが襲われるという事件が起きた。彼らが車の中でいちゃついていると、ハンカチで覆面をした2人組みの男がいきなり押し入ってきて、弁護士の頭を撃ち抜いたのである。学生の方は、銃で頭を殴られたが生き延び、警察に駆け込んだ。
 それから3年後の1955年10月31日、婚約中のカップルが行方不明となった。彼らは11月28日に愛車の中で腐乱死体となっているのが発見された。男性は至近距離から頭を撃たれ、女性は暴行された上、婚約者のネクタイで絞殺されている。これもまた車の中で抱き合っている最中、犯人に押し入られたものと推測された。警察当局は、3年前の弁護士殺害事件と同一犯ではないかとの疑いを抱き、捜査をすすめるが、結果ははかばかしくなかった。
 1956年2月28日、とある富裕な実業家の自家用ベンツと共に、運転手が失踪したとの届け出があった。そして運転手のデート相手も同時に失踪していることが判明する。警察は例のカップル殺人鬼の餌食になった可能性があるとみて、捜索を開始。果たして、彼らはデュッセルドルフ近郊の小さな村内で、積みわらの中で焼死体となって発見される。前件と同じく男性は射殺されており、女性は暴行された上で絞殺されていた。
 連続殺人は市内のカップルたちをパニックに陥らせた。警察は何千人となく事情聴取を重ねたが、成果はあがらなかった。

 同年6月6日、森林警備官が森をパトロールに出かけた。すると彼は、下生えの茂みに拳銃を手に這いつくばっている男を発見した。その視線の先には、車の中で抱き合っているカップルの姿が見える。警備官はこの男を捕らえ、警察署に連行した。
 男の名はウェルナー・ボースト。28歳だという。
「森で射撃の練習をしてただけです」
 と彼は言ったが、じゃあ君の銃は登録されているのかね、と警官が訊くと、
「いえ、されていません。これは“戦利品”なんです」
 とボーストは答えた。警察は銃の不法所持を理由に、彼の身柄を拘束した。

 ボーストは結婚しており、2人の子供がいた。妻の話によると「申し分のない夫であり、父親」であるとのことだった。そして彼ら夫婦が、1950年に東ドイツから西側に逃げおおせた者たちであることも判明する。
 ボーストの前歴を調べると、彼がヘルムシュテットの出身であることがわかった。さらに調べをすすめると、1945年にソ連がドイツを占領していた当時、かの地では西側に脱出を試みた約50人の市民が連続して殺害される事件が起きていた。そしてその事件は、ボーストが別の地に引っ越してから、ぱったりと止んでいる。
 警察はボーストの日記を押収し、そこに「フランツ・ロールバッハ」の名を発見した。ロールバッハは麻薬中毒で、ウサギのような顔つきをした意志薄弱な男だった。彼に麻薬を与えているのはボーストに違いないと察した警察は、ロールバッハを拘禁し、尋問する。彼は数日で口を割り、
「ボーストは怪物だ、……鬼です。あいつは僕を操り、催眠術にかけるみたいに服従させる。僕はやりたくないことを、あいつに無理やりやらされるんだ――」
 と言った。
 ロールバッハはどう見ても臆病者で、役立たずの能無しだった。なぜボーストが彼を相棒に選んだかについては不明であるが、ボーストは麻薬を与えつづけてでも彼を隷属させたところから見て、彼に何らかの執着を感じていたらしい。
 ロールバッハはボーストの言いなりに殺人の片棒をかつぎ、被害者の女性をともに輪姦し、あまつさえ「俺が逮捕されたら、口封じに妻をこれで殺せ」とボーストの命令で毒薬まで持たされていた。この事実を知って衝撃を受けたボーストの妻は、離婚届を提出した。

 ボーストはすべての罪状について否認したが、弾道上の証拠により有罪と断定され、終身刑となった。対するロールバッハは、検察への協力が認められ、3年の実刑に過ぎなかった。
 ウェルナー・ボーストは自分についてほとんど語らなかったため、相棒が「人類に対する悪意に取り憑かれた男」と形容したような人間になぜ成長したかについては不明の部分が大きい。だが、彼が「愛し合っている男女」を見ると、その間を引き裂き、女性の目の前で恋人を殺すという絶望を味わわせてから犯すということに最大の愉悦を感じていたことは確かだ。その行為はきっと、彼に「最高の支配欲の満足」をもたらしたのだろう。

 

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カール・フォーク

 

 1953年、アメリカ。レイモンドとベティという若い夫婦が、引越しのためカリフォルニアまで車を走らせていた。12月1日の朝、ガソリンスタンドで彼ら夫妻に話しかけてくる者がいた。白髪の大柄な男で、気さくな話しぶりである。その後も夫妻は、彼が自分たちと同方向に車を走らせているのを何度か見かけ、親近感を抱くようになった。
 その夜、夫妻はアリゾナのキャンプ用地で車を止めて一泊した。レイモンドは夜中にふと、自分の顔に光があたっているのに気づき、目をさます――が、それが懐中電灯の光であることに気づいたときにはもう遅く、彼は殴られて昏倒する。
 はっと気が付いてみると、レイモンドとベティは手足を縛られ、転がされていた。目の前にはあの白髪の男――カール・フォーク――が立っており、彼らから金を奪った。
 フォークは夫妻の車を運転し、10キロ足らず進んだところで車をなかば転覆させてしまう。
 それから1時間以上にわたって、フォークはベティを強姦し、いたぶった。ベティはマッチの火や煙草を全身に押し付けられ、いたるところを歯できつく噛まれた。レイモンドは隣室に転がされたまま、犯される妻の悲鳴を聞いていなくてはならなかった。
 やがて、ベティの悲鳴がやんだ。
 フォークが眠りこんだ気配がし、レイモンドは足を縛っていたロープをなんとかほどき、転覆した車から脱出することができた。
 助けを呼んで手のロープをほどいてもらい、銃を持って車に戻ってみると、フォークはベティの体に石油をどくどくと注いでいる真っ最中であった。
「なにをしてるんだ!」
 レイモンドはそう怒鳴ると、フォークに向かって装填した6発を全弾撃った。5発ははずれたが、1発はフォークの腹部に命中。しかし妻ベティは、首をシーツで巻かれてすでに絞殺されていた。

 フォークは逮捕され、前歴が発覚する。彼は1948年にも17歳の少女を木に縛りつけ、殴打しながら強姦したかどで逮捕されていた。被害者の少女はショックで精神を病んで入院しなくてはならなかったが、フォークは服役をまぬがれ、彼女と同じ病院に3年間拘禁されたのである。
 そして退院を許されてのち、彼はベティを相手に自分の「権力幻想」を実現するべく行使したのだった。
 フォークは1955年3月に処刑された。

 

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キース・チェンバーズ

 

 1989年5月23日、ニュージャージー。
 その朝、警察犬によって嗅ぎあてられ発見されたのは、夫から捜索願の出されていた55歳の主婦、リズ・クインであった。彼女は全裸で両手足を縛られており、すでに腐乱しかかっていた。
 検死の結果、彼女の死因が判明する。彼女を死にいたらしめたものは「恐怖」であった。リズの遺体からは大量のアドレナリンが検出された。これはあまりにも強い恐怖を感じたために起こった現象であると推測される。アドレナリンを分泌する副腎は破裂寸前の状態にまでなっており、彼女が死の瞬間にどれほどの思いを味わったかを物語っていた。
 彼女にそこまでひどい恐怖を感じさせたのは輪姦であった。その体内には3人の異なった精液が多量に遺留しており、彼女の心臓はそのショックに耐えうることができなかったのである。
 しかし、犯人はあっけなく逮捕される。
 リズが夫から贈られた結婚指輪をはめていたことから足がついた、その主犯はキース・チェンバーズという23歳の男であった。彼は遊び仲間4人と酒を飲み、マリファナを吸い、コカインを吸引したのち、いきあたりばったりに、夫が不在だったリズの家へ侵入した。
 彼らはリズを脅して金品を奪い、彼女を縛りあげた。そしてオーラル・セックスを強要し、長々と愉しんだあと、彼女を輪姦した。仲間は5人いたはずなのになぜ3人分の精液しか検出されなかったかについて、55歳の彼女の体に興味を示したのが3人だけだったのか、それとも3人目で彼女の心臓がもたなくなったからなのかは定かではない。
 リズは近所でも有名な働き者で、長年夫とふたりで働いた末、ようやく一軒家をかまえたばかりであった。その「夢の新居」が、たまたま薬と酒でハイになり、攻撃性を肥大させた若者たちを呼び寄せてしまったのである。
 チェンバーズを含む2人は終身刑、残る3人は懲役10年を宣告された。

 

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ウイリアム・G・ボーニン

 

 1972年から1980年までの8年間に、彼は約41人の犠牲者を屠った。被害者はすべて少年で、その大部分は自分の着ていた衣服で首を絞められ、あきらかに強姦されており、複数の精液が体内から検出されることもしばしばだった。
 少年たちが犯人の「性欲の吐き捨て場」として扱われたことは明白だった。そして、行為が終わると殺され、死体はゴミのように道路端に遺棄された。手口は嗜虐的と言うほかなく、陰茎が切断されている者、頭蓋骨や直腸に大釘を打ち込まれた者、耳にアイスピックを突き刺された者など、さまざまであったという。
 殺人を開始してから3年後の1975年、ボーニンはあるパーティに出席していた14歳の少年に目を付け、彼が路上でヒッチハイクをはじめたのを見ると、声をかけて車に乗せてやった。人気のないところでボーニンは少年に銃を突きつけ、レイプしたが、
「パーティで一緒だったところを見られてるしな、殺しはしないよ」
 と言い、自分が今までに何人も殺していることをほのめかした。
 解放されてのち、少年が警察に通報したため、ボーニンは逮捕された。当時25歳で、宣告された刑は15年以下の禁固刑であったが、なぜか1978年には釈放されてしまう。凶行はふたたび始まった。

 1980年に入って、警察はカリフォルニア州高速道路に遺棄された少年の死体の数に目を見張らされる羽目になった。ボーニンはほとんど週末の殺人をノルマにして生きているかのようだった。少年たちは自分の着ていたTシャツで首を絞められ、レイプの際抵抗したか否かに関わらず、拷問に近い暴行を受けていた。
 のちに共犯者が告白したところによると、ボーニンは数時間のうちに2人の少年を次々に襲って殺したこともあるという。まず1人拾って犯し、絞め殺し、死体を投げ捨てると、また少しドライブして新たな少年を拾い、また犯し絞め殺す……といった具合にである。また、被害者の口を無理にこじ開けさせて塩酸を注ぎ込んだり、タイヤのレバーで首をえぐったこともあったようだ。
 ボーニンには暴力に対する飽くなき執着があった。1人の少年を陵辱して絞殺したのち、レストランで共犯者とハンバーグを食べ、食事が終わるとすぐ、
「さあ、またむずむずしてきたぞ。もう一匹やっつけに行くか」
 と言ってまた車を出すこともあったという。

 しかしカリフォルニア州警察が、ようやくボーニンの前科に目を止める。警察は彼を監視しはじめ、1980年6月11日、ボーニンが1人の少年を車に乗せたのを確認すると後を尾行した。そして人気のない場所で車が止まったのを見ると、数分後ボーニンのヴァンに踏み込んだ。ボーニンは少年を陵辱している真っ最中であった。
 警察は未成年に対する暴行罪で彼を逮捕し、一連の「フリーウェイ殺人」についての取調べを開始した。
 尋問の結果、黒魔術かぶれのバッツという22歳の男と、19歳になる2人の知恵遅れの男が共犯者であることが判明する。バッツの供述によると、ボーニンはウェルナー・ボーストと同様、他人を操るすべに長けていたらしい。1度殺人に加担したあとは、彼はまったくの言いなりであった。バッツは少なくとも6件の殺人に協力したことを自白し、独房で自ら縊死した。
 ボーニンは12件の殺人について起訴され、裁判にかけられた。検事は「彼はあきらかに殺人を愉しんでいた」と言い、「少年や若い男を虐待する終わりなき欲望を日々つのらせていった男」と形容した。
 ボーニンはある報道関係者に、こう述べている。
「ひとつ殺しをやるたびに、平気になっていった。捕まってなかったら、今でもやってるだろうな。止めることなんてできなかった」。
 ボーニンは10件の第一級殺人罪と強盗罪で、死刑を宣告された。共犯の知恵遅れの少年2人は、それぞれ25年の禁固刑であった。

 

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クレオパス・プリンス・Jr.

 

 アメリカ、カリフォルニア州サンディエゴ。
 コンドミニアムやマンションが立ち並ぶ高級住宅街地で、一連の事件は起こった。
 最初の犠牲者はサンディエゴ州立大学に通う20歳の女子学生であった。彼女は学費をかせぐためナイトクラブでヌード・ダンサーのアルバイトをしていたが、1990年1月12日のその日、彼女がバイト先に顔を出すことはなかった。彼女はその夜に、遺体となって発見されたからである。
 遺体は50箇所以上も刃物で切り刻まれており、レイプの痕跡がありありと残っていた。警察はこの残虐な手口から怨恨とみて、彼女の恋人を尋問したが、彼にはアリバイがあったためすぐに解放された。
 2人目の犠牲者が出たのはおよそ1ヵ月後のことである。被害者は21歳の女性で、前の事件と同様にレイプされ、体を何十箇所にもわたって突き刺され、切り刻まれていた。さらに驚くべきことに、この2人の被害者の住むアパートは隣接していたのである。警察はこの大胆な犯行に歯噛みして悔しがった。
 そして3人目の被害者も、そこからそう遠くないアパートで殺されることになる。被害者は18歳の少女だった。
 5月21日、4件目の事件が起こる。被害者は38歳の女性で、いままでの被害者と比べると年齢こそ高いが、男の獣欲をかりたてるには充分な美女であった。手口はそれまでと同様で、レイプし滅茶苦茶に刺し殺すというものだ。
 捜査はここに至ってもほとんど進展をみせなかった。捜査線上には100人以上もの容疑者が浮かんだが、それらはすべて泡沫のように消えていくばかりだった。いたずらに時間だけが消費され、そしてさらなる犠牲者が出ることとなる。
 次に殺されたのは、1人だけではなかった。被害者は18歳の女子大生と、42歳になるその母親であった。彼女たちはレイプされ、キッチンにあった包丁で滅多刺しにされていた。
 サンディエゴ市民はこの母娘殺しに怖気をふるった。警察当局には非難が殺到し、恐怖が街を席巻した。
 しかしここでようやく捜査活動の成果が出る。3件目の殺人の際に目撃者がおり、その証言をもとに作成された似顔絵から容疑者が浮かびあがったのだ。
 男の名はクレオパス・プリンス・Jr.。市内に住む23歳の男だった。
 彼のアパートからは大小さまざまなナイフが押収され、被害者の体内から検出された精液と彼の血液型が一致した。警察はプリンスを6件の殺人について起訴する方針を決定した。
 1993年1月6日、彼は裁判官に「何か言うことはあるかね?」と訊かれ、「あるね、俺は無罪だ」と傲然と答えた。
 死刑判決を受けたときも彼の無表情は少しも崩れることがなかったという。

 

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チャールズ・マンソン

 

 テート―ラヴィアンカ事件で当時のアメリカ社会を震撼させたチャールズ・マンソンは、この項におけるもっとも顕著な症例であろう。彼は若者たちを集めてカウンターカルチャーのファミリーを作り、完全に彼らを支配し掌握することに成功した稀なる人物である。
 彼は一時代の暴走したカルチャーの生けるシンボルであり、同時に人間の支配欲と悪しきカリスマの体現者でもあるのだ。

 マンソンは1934年11月11日、ケンタッキーで生まれた。彼の母親は狂信的なカトリックの家庭に育ち、すべての欲望を抑圧されて育った。飲酒・喫煙はもちろん、異性に興味を持つことも、化粧もミニスカートも禁止され、みだりに神の名を口にするだけで折檻された。彼女は耐えきれずに15歳でこの家を飛び出し、マンソンの言によれば「30年代のフラワー・チャイルド」になった。
 彼女は1年ほど路上生活をしたあげく、子供を孕んだ。これがのちにチャールズ・マンソンと呼ばれることになる男児だが、生後しばらくは名前すら付けられず、「名無しのマドックス」と役所に記録された。そして母親は出産後まもなく、ビル・マンソンという男と同棲をはじめる。マンソンという姓とチャールズという名は、ここで初めてこの赤ん坊に与えられることになった。
 この命名の一件から見てもわかるように、母親とマンソンの絆はあって無きがごとしというようなものであった。彼は母が仕事に出ている間は、親戚の家をたらいまわしにされていた。一杯のビールと引き換えに、ウエイトレスに売り渡されたことすらある(「母原病」参照)。
 その後、母親は強盗容疑で逮捕され、刑務所送りになった。マンソンは当時わずか6歳。仕方なく彼は祖母の家と親戚の家を転々とすることになるが、祖母のもとでの厳格な躾は彼を押しつぶした。
 祖母の家では「左の頬を打たれたら右の頬も差し出せ」と教え込まれたが、叔父の家でそれを守ろうとすると「おまえは自分の立場も守ろうとしない腰抜けだ。女の腐ったようなやつだ」と殴られた。叔父はマンソンに、小学校へ女の子の服装をして通うことを強制さえした(彼とほぼ同年代のヘンリー・リー・ルーカスも、これと同じ体験をしている)。
 2年が経ち、母親が出所してきた。マンソンはまた彼女のもとへと戻された。
 刑務所内での経験から、母親はバイセクシュアルになっていた。彼女はマンソンの目の前で、男女かまわず性的関係を持った。この経験がマンソンをフリー・セックスとレズビアンになじませたのかもしれない。後年彼はファミリー内の、女性同士の性交渉を奨励している。
 しかし母親はじきにマンソンを養っていくことを放棄した。彼はなんの説明もされぬまま、インディアナ州のカトリック修道院に放り込まれ、以後母親のもとで暮らすことは絶えてなかった。
 
修道院で待っていたのは厳しい戒律と、体罰であった。夜尿癖のあったマンソンは特にしばしば鞭でぶたれ、棒で殴られた。2度ほど抜け出して母親のもとへ逃げ込んだが、母の手で警察に引き渡され、すぐ修道院へ逆送された。連れ戻されるたび罰はひどくなり、ついにマンソンは脱走する。
 しかし今度向かったのは母親のもとではなく、街だった。

 マンソンは生きるために金を盗み、残飯をあさって暮らした。ついに逮捕されたとき彼はまだ12歳だった。ふたたびカトリック系のホームに送られることになったが、そこも懲罰の厳しいところだったので、また脱走した。そして車の窃盗で少年院送りとなり、そこでも問題を起こし、州立少年院に移送されることになる。
 州立少年院は、州の保護を受ける未成年者の矯正施設ではなかった。そこに送られる者は、暴力犯罪を犯した囚人に限られていた。
 マンソンは当時14歳である。社会はまだ犯罪者の人権など認めていなかったし、所内での看守のふるまいはほとんど黙認されていた。マンソン少年はそこで、ありとあらゆる肉体的暴力と、性的暴力を受けることになる。
 ある看守は年嵩の少年たちにマンソンを殴る蹴るさせ、それを眺めながら自慰をした。マンソンが苦痛の悲鳴をあげると、彼はオーガズムに達したという。また、他の少年たちにマンソンを輪姦させ、それを眺めて愉しむのも常だった。彼は毎日のようにマンソン少年を中庭に連れ出し、そこで下半身裸にさせると、
「今日は誰にファックしてもらいたいんだ、マンソン?」
 と訊いた。
 マンソンは鞭打たれ、コンクリートの床に殴り倒され、抑えつけられて集団レイプされ、労働はもっとも過酷なものを命じられた。殴打とレイプで彼はいつも体から出血していたが、消毒されることもなく、彼は排泄物の汚水処理にあたらされていた。罰として汚水溜めの中に座らされていたこともしょっちゅうだった。この暴力による頭部損傷の影響が、じきに体のチックや顔面筋肉の痙攣となって現れはじめる。
 この生活はマンソンを荒ませた。それまでの彼の半生は、愛情うすく、懲罰と殴打と憎悪に満ちたものだったが、少年院での待遇はさらに彼の人間性をそこなわせた。
 16歳でマンソンはこの少年院を脱走する。しかし窃盗を繰り返す以外生きるすべはなく、少年院と外界との往復がはじまる。成人してからもその生活は変わらず、送られる先が少年院から刑務所に変わっただけであった。
 1967年3月21日、マンソンは釈放され、船着き場にあてどもなく座りこんでいた。
 彼は32歳になっていたが、それまでの20年間をほとんど少年院と刑務所の中で過ごし、社会適応能力も職業訓練も、なにも身に備わってはいなかった。
 しかし時代が彼を受け入れることになる――時は60年代後半、ヒッピーたちが愛と自由とフリー・セックスを唱えていた。マンソンを拒絶した、保守的で抑圧の塊だった社会が、その時まさに崩れ去ろうとしていたのである。


 体制に反抗し、社会からのドロップアウトをはかり、カウンターカルチャーの確立を目指す若者たちの時代。それまで常に社会からつまはじきにされていたマンソンは、初めて一般社会の中に自分の居場所を見出した。
 皮肉なことに、今まで負ってきた側頭葉の損傷、さらに辺縁性精神病の症状――放浪癖、性欲亢進、強迫行動、オカルティズムに対する過度の執着など――が、彼をカルト・グループのリーダーに押し上げることに一役かった。
 いままで生きるためにマンソンは他人の心を読み、欲するところを察し、懐柔することに熟練していた。刑務所内の凶悪な囚人たちに取り入ることに比べたら、うぶな若者たちを操ることなど実にたやすい。マンソンはLSDとオカルティックな儀式とセックスを使って、彼らを虜にした。
 若いヒッピーたちにとって、マンソンはひどく不可思議な、魅力ある存在であった。歳は30を過ぎており、老獪な一面もありながら、まるきり子供のような面も持っている(幼い頃から少年院暮らしで、社会的訓練を受けていないのだから当然とも言える)。
 マンソンはくるくると自分のパーソナリティを変えることができた。彼はのちに自分自身のことを
「俺は人間性を映す鏡のようなもんだ。俺を見れば、人はみんな、俺の生きた時代の社会的病質傾向をそこに見出すことができるだろう」
 と言っている。彼は相手によって態度を変え、彼らがもっとも望む「マンソン像」を演じてやった。特に少女たちはほとんど例外なくマンソンにコントロールされ、彼の中に「父親」を見、同時に「得難いセックス・パートナー」をも見たのである。
 彼のまわりには続々と人が集まり、やがて「マンソン・ファミリー」が形成されていくことになる。
 1968年から1969年にかけて、マンソンは「最高にクールで不思議な人物」として祭り上げられ、何百人ものストリート・ピープルと雑居し、セックスし、彼らを取り込んでいった。
「マンソンは一瞬ごとに変わっていく男だった。必要に応じてどんな人間にもなれたし、どんな顔だって装うことができる人だったわ」
 と、のちにファミリーの中心人物のひとり、スーザン・アトキンスは語っている。
 ファミリーはふくれあがる一方だった。マンソンは音楽界での成功を夢見、スーパースターになるべくあちこちに手を回した。しかしその一方、長年の頭部損傷とドラッグが彼の脳をむしばみつつあった。
 当時、彼は自分をコントロールするのがすでに難しくなっていたと思われる。誇大妄想に取り憑かれ、幻覚に襲われ、しばしば激しい激怒の発作にみまわれた。ほとんど妄想症の精神錯乱状態であったが、マンソンを盲信していたファミリーのメンバーたちの目には、それはむしろ彼の特別さを改めて示すものでしかなかった。

 マンソン・ファミリーの最初の犠牲者となったのは、34歳の音楽教師、ゲイリー・ヒンマンである。
 彼は非合法ドラッグの密売という副業を持っており、また最近遺産を相続したばかりだった。この金に目をつけたマンソンはメンバーに命じて彼を襲わせた。マンソンはヒンマンの片耳を切り落とし、縛り上げて脅したが、結局手に入れられたものは彼が所有する車2台の登録証書だけであった。
 ヒンマンが彼らの隙を見て、窓に走り寄って大声で助けを求めたため、パニックに陥ったメンバーが彼を刺し殺すことになる。ファミリーはヒンマンの血を指につけ、壁に「Political Piggy(政略好きの豚)」と書きなぐった。
 そして3週間後の1969年8月8日、アメリカ全土に衝撃を与えた事件が起こる。
 ファミリーの1人、テックス・ワトソン(本名はチャールズだが、リーダーと同じ名を名乗ることを許されず、テックスと呼ばれていた)が、他2名とともに、著名な映画監督ロマン・ポランスキーの妻で女優のシャロン・テート邸に侵入した。
 そのとき館には、シャロン・テート、ヘアスタイリストのジェイ・セブリング、フォルジャー財閥の後見人であるアビゲイル・アン・フォルジャー、その愛人で作家でもあるポイテック・フライコウスキーがいた。のちにスーザン・アトキンスはテート邸に一歩踏み入ったときの感想として、
「最初にあの家にあの人たちがいるのを見たとき、『すごい、ほんとに美男美女ばっかり』って思ったわ」
 と言っている。
 テックスは「俺は悪魔だ、悪魔のすべき仕事をやりに来た。金を出せ」
 と言い、彼らを縛り上げようとしたが、抵抗された。逆上したメンバーたちはまずフライコウスキーを2発撃ち、それでも彼が抵抗をやめなかったため、銃のグリップで顔面を打ち砕いた。さらにフライコウスキーはめちゃくちゃに刺され、51箇所もの刺創を負わされて息絶える。
 フォルジャーとセブリングも刺し殺された。妊娠8ヶ月だったシャロン・テートは必死に自分と胎内の子供の命乞いをしたが、押さえつけられ、全員に刺されて殺された。
 血に興奮したメンバーは死体をさらに刺し、蹴りつけ、ロープでつなぎ合わせると、その血でフロント・ホールの壁にでかでかと「Pig」と書きつけた。
 妊娠8ヶ月のテートを惨殺したその手口に、ハリウッドは衝撃を受けた。この反響に満足したマンソンは、
「さらに強烈な一撃を豚どもの心臓に叩き込んでやれ」
 と言い、次の殺人をメンバーに命じた。
 次に犠牲となったのは、スーパーマーケットのオーナーで富豪のリノ・ラヴィアンカと、その妻ローズマリーである。ラヴィアンカは全身を26箇所刺され、ローズマリーは57箇所刺されて殺害された。テックスは彼女の死体の腹に「WAR」とナイフで刻み込み、下腹部をフォークで突き刺しまくった。
 メンバーは彼らの血で、テート邸でやったのと同じように壁に殴り書きを残した。「Death to Pigs(豚どもに死を)」、「RISE(反抗)」、そしてのちにマンソン・ファミリーの代名詞ともなった「HEALTER SKELTER(無秩序)」と。
 マンソン・ファミリーがこれ以外に犯した殺害の数は確定していない。元ファミリーのメンバーからは少なくとも5人が死体となって発見されており、未解決として処理されている。ただマンソンは非公式ながらも「35人殺した」と証言しており、彼を裁いた検事も「実際の殺害数もこれに近いか、あるいは若干上回るだろう」と述べている。
 10月12日、自動車窃盗と放火、銃器不法所持でファミリー・メンバー24名が逮捕された。この中にはマンソン自身も含まれている。ここからヒンマン殺しの余罪が洩れはじめ、さらにテート邸事件への関与がメンバーたちの口から洩れることになる。
 警察はマンソン、テックス、スーザンを含む6名を殺人で起訴することを発表。
 1970年6月15日、マンソン・ファミリーの公判がはじまり、判決を迎えるまでに8750時間を費やした。彼ら全員に有罪との評決が下され、マンソン以下3名が死刑判決を受ける。しかし運命の皮肉が起こり、1972年2月、カリフォルニア州では死刑が廃止されるのである。あれほど「反体制」「無秩序」を掲げた彼らが体制によって命を救われるとは、何ともしまらない話ではあった。

 マンソンは逮捕後、多くの名言を残している。
「おまえらがたとえ軍隊や政府をかつぎだして、俺をガス室に送り込もうとも、俺の自信を揺るがすことなんてできやしないさ」
「俺たちが事件を起こさなかったら、どうなってたと言うんだ。ベトナム戦争が終わってたとでも言うのか?」
「俺は殺せなんて命じたことは一度もない。ナイフを持っておまえらの家を訪ねるだろう子供たち、あれはおまえらの落とし子だ。おまえらが教えたんだ。俺が教えたんじゃない。俺はただ手を伸ばして、立たせてやっただけだ」。
 彼は今も牢獄の中でインタビュアーを攪乱し、彼らの欲求に応じて絶えず自分の人格を変化させる。
 彼の毛髪分析からは長年にわたる化学的アンバランスが証明され、失読症と学習障害、脳機能障害も発見された。しかしそれでもなお、彼の人格のすべてが解明されたわけではない。彼の脳障害が明らかにされたところで、なぜメンバーを完全に膝下におくほどのカリスマ性を持ち得たのか、他人の心をやすやすと操り、自らの人格をさえ操作することができたのかは判明しないのだ。
 メンバーの1人はマンソンに不利な証言をしたときでさえ、「今も彼を愛しています」と言い、スーザン・アトキンスは「マンソンは王様よ。名前を見ればわかるわ、『人間の息子(Man Son)』よ。教会では誰も教えない、神がおわすという確かな証拠だわ」と言った。

 チャールズ・マンソンは「世界一危険な男」と呼ばれ、その事件は「今世紀でもっともグロテスク」と評された。
 彼の名は今も忘れられてはいない。近年ではGUNS&ROSESがアルバム「ザ・スパゲッティ・インシデント?」のシークレットトラックとしてマンソンの曲をおさめ、さらに曲の終わり間際に「サンクス、チャス」というささやき声を収録したことで大きな話題をさらった。
 各種のマンソン関連のグッズ売り上げは140万ドルに上るとされ、マンソン自身は今も服役しながら各誌のインタビューを受けている。
 ハリウッドがある限り、彼の名が忘れ去られることはあるまい。マンソンは望んだ通り、不動の名声を手に入れたのだ。


 

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「あいつらは、まず人をころしておいて、
それからうそをつくんです。
そんなことが許されるんでしょうか?」

――ヘルマン・テスケン『ゲルニカの子供たち』より――

 

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