CHILDREN KILLERS

刑務所内のリンチ、というのは好ましい話ではないが、現実には日常茶飯事である。
中でも狙われるのはこども殺し、レイプ犯など、「弱者を襲った者」であるという。
犯罪者内ですら軽蔑され、忌み嫌われる「こども殺し」の常習者とは、では
いったいどんな衝動に取りつかれているのか。
ただ弱いから獲物にするのか、こどもでないと性的に興奮できないのか、
こどもを憎んでいるのか、過度に愛着しているのか?
ひとまずいくつかの事例をあげてみよう。

 


◆メアリ・フローラ・ベル

 1968年5月、ニューキャッスル。
 スラム街のとある無人の家で、子供の死体が発見された。
 被害者はマーティン・ジョージ・ブラウンという4歳の男の子で、遺体の周辺には錠剤が散らばっていた。当初は誤って薬を口にし、中毒死したのだろうと思われたが、検死の結果、脳内に微量の出血がみられた。医師はこれをひきつけの発作のせいだろうと判断し、マーティンは自然死として片付けられることになる――いったんは。

 当時、この周辺を遊びまわる子供達の中に、メアリ・フローラ・ベルという少女と、ノーマ・ベルという少女がいた(同姓だが、血縁関係はない)。メアリは11歳、ノーマは13歳だったが、傍目にもノーマはメアリに従属しているように見えたという。
 ノーマには多くの兄弟姉妹がいたが彼女はそれを嫌っており、マーティンの死体が見つかった翌日、メアリはノーマの妹のひとりを捕まえ、首を絞めている。しかしこれはノーマの父に見つかったため、成功しなかった。
 その夜、近所の保育園に何者かが押し入り、器物を壊して立ち去った。床には紙片が落ちており、
「バカ、殺すぞ。見張ってろ」
「マーティン・ブラウンを殺したのはおれたち、バカ」
 となぐり書きがしてあった。
 その4日後、メアリは悲しみに沈むブラウン家を訪れ、「マーティンに会わせて」と言った。年長の友達が遊びに来たのだと思った母親は、少女に向かって
「ありがとう。でもマーティンはもういないのよ。いなくなっちゃったの」
 と答えた。しかしメアリは、
「知ってるわ。あたしはお棺に入ってるマーティンが見たかっただけ」
 と肩をすくめた。

 2人目の殺人が起きたのは、2ヶ月後のことだ。
 同地区の、ブライアン・ハウという3歳の男の子が行方不明になったのである。捜索中、メアリは示唆するようにおかしなことを言った。
「ひょっとしたら空き地のコンクリート・ブロックの中で、ブライアンは遊んでるんじゃないかしら」
 と。
 そしてその言葉通り、ブライアンの死体は空き地のブロック間で見つかった。首に小さな掻き傷があり、鼻には打撲の痕、脚と腹と陰嚢には鋏か剃刀でつけたらしい切り傷がついていた。
 腹の傷は「M」と読めたが、これはどうも最初は「N」と刻んだものを、あとで1本縦棒を足して「M」にしたものらしかった。
 死因は窒息で、首に指の痕がなく舌骨が折れていないことから、ごく弱い力でじわじわ絞められたのだろうと思われる。検視医は、犯人は小さな子供かもしれないと語った。
 警察は近隣の子供数十人を尋問し、メアリとノーマに目をつけた。メアリはほかの男児に罪をきせようと、
「あの子がブライアンと一緒に歩いてるのを見たわ。ブライアンを叩いてた。それに鋏を持ってたみたいだった」
 と言った。
 しかし死体の傍に鋏があったことは公表されておらず、これは犯人しか知り得ないはずの情報だったため、メアリは墓穴をみずから掘るかたちで逮捕された。
 警察署に引っ張られたメアリは11歳の子供とは思えないほど冷静であり、苛烈だった。
「あんたたちはあたしを洗脳しようとしてる。弁護士を呼んで。不当な扱いには
抗議します」
 しかしノーマがメアリの犯行を証言したため、容疑はほぼ確定した。
 メアリは今度はノーマに罪を押しつけようとしたが、口達者で自信に満ちた様子のメアリに比べ、ノーマはおとなしく魯鈍に見えたため、誰もこれを信じはしなかった。
 メアリを見た精神科医はこの少女を「利口、戦略的、危険」と評した。
 また女性警官のひとりはメアリに、
「将来は看護婦になりたい。人に注射針を刺せるから」
 と聞かされたと述べた。
 しかし留置所でメアリを担当した係官は、彼女のまったく別の面を目にしている。メアリは「おねしょをしたらいけない」と夜通し、ひっきりなしにトイレに行き、ほぼ一睡もしなかったという。夜尿を心底恐れ、怯えている様子だった――と。

 メアリ・フローラ・ベルは1957年5月26日、17歳のシングルマザーのもとに生まれた。父親は不明で、生まれたばかりのメアリを見ると母親は半狂乱になり「そいつをどこかへやって」と叫んだ。
 この母親がメアリを愛するそぶりを見せたことは一度もなかった。
 1歳のとき、メアリは母親に精神安定剤を飲まされて病院へ運ばれ、胃洗浄を受けた。
 数年後にもほぼ同じ事件が起きたが、このときは近くにいた大人が気付いて吐き出させている。3歳のときには「窓際で抱っこしていたら、偶然手がすべった」という理由で、メアリは窓から転落しかけた。また4歳になる直前にも、鉄剤を「誤って」飲み、入院騒ぎになっている。
 どう考えてもこれは偶然ではありえない。しかし周囲の大人たちは誰もこれを通報せず、メアリの母親は苦言を呈した人々とはさっさと付き合いを断った。
 母親はしばしば子供を置いて失踪し、メアリは義父とともにあちこちの住居を居候として転々とした。メアリは規則正しい生活習慣とは無縁で、不潔で、頭にはシラミがうじゃうじゃたかっていた。
 母親は若さを失うにつれて神経症をわずらうようになり、自殺を繰り返し、鬱状態に陥ってはメアリをののしった。
 やがて金のため母親はSM専門の売春婦となったが、若くも美しくもない彼女はもちろん高級娼婦にはなれず、えげつない真似をしなければ客はとれなかった。
 彼女はメアリをベッドに押さえつけ、客に幼い娘の口を使って射精させた。
 メアリがどうしても歯を食いしばって拒んだときは、喉を絞めて口を開けさせたという。メアリが被害者の男児2人を絞殺したことについては、深層心理云々を持ち出すまでもないだろう。この性的虐待は4歳から8歳まで続いた。
 メアリは夜尿癖、抑鬱、悪夢、家出等の兆候を見せはじめた。しかしこのシラミだらけの少女に注目する者は誰もいなかった。
 友達はひとりもなく、メアリは弟に「金を払って、遊んでもらっていた」という。その金は、行きずりの男に体をさわらせ、口止め料としてせしめたものだった。
 しかしメアリが9歳になったとき、ようやく友達ができることになる。
 それが、隣に引っ越してきたベル家の娘のうち一人である、ノーマだった。彼女はメアリより2つ年上だったが、子沢山な家庭で放置子として育ったせいか2人はうまが合ったようだ。
 なおこの2人はマーティン殺しの半月前にも、3歳の子供を突き飛ばして頭から出血させ、6歳の女児ふたりの首を絞めている。

 逮捕後、メアリは女性警官に、
「ママはあたしを嫌ってる」
 と言った。警官が「そんなことないわ、ママはいつでもあなたを愛してるわよ」と定型句で答えると、メアリは弱々しく首を振って、
「じゃあどうして、ママはいつもあたしを置いて出ていくの」
 と呟いた。メアリの母親は相変わらず出張売春をしており、失踪しては何週間も帰ってこない生活を続けていた。当時まだ児童虐待に理解のうすかった社会は、メアリのこの言葉を理解しようとはしなかった。
 メアリが拘置所で夜尿と不眠と夜驚症に苛まれている間にも裁判はすすみ、おおかたの予想通りメアリは有罪、ノーマは無罪になった。

 それから12年間にわたり、メアリは少年院と一般刑務所とで時を過ごした。
 1977年には刑務所を仲間とともに脱走したが、3日で捕まって連れ戻されている。
 メアリの母は殺人を犯した娘を「金づる」として扱いつづけ、少年院収監中、面会に訪れてメアリの下着姿の写真を撮った。そしてそれをタブロイド紙に売りつけた。
 メアリは23歳で出所し、政府は彼女に対して報道規制をかけたが、メアリの母親本人がマスコミにニュース種を流しつづけたため、彼女が平穏な生活を送れたことはほとんどなかった。
 1995年に母親がアルコール依存症で死亡するまで、このいたちごっこは綿々と続いたようだ。

 なお、メアリが下着姿で撮影されたとき、面会に訪れた家族はもうひとりいた。メアリの祖母――母親の実母である。
 祖母は厳格なカトリック教徒であり、私生児を産んだ娘を毛嫌いしていたはずだ。それでなくとも、下着で写真を撮られる孫娘を黙って見ていたというのは明らかに異様である。
 余談だがメアリが自分の父親は誰なのかと知人に訊いてみたところ「知らない方がいいこともある」と言葉を濁されたという。

 この事件は「虐待の連鎖の結果」が、あまりにも早い段階で、最悪なかたちをとって表れた一例だと言えよう。



 


◆ジョージ・フランクリン

 1990年、カリフォルニア州でジョージ・フランクリンという51歳の男が殺人罪で裁判にかけられていた。
 罪状は1969年、当時8歳の少女を殺したというものだ。告発者は被害者の友人で、被告の実の娘。
 彼女は20年間抑圧されていた記憶を、唐突に「すべて思い出した」のである。

 告発者、アイリーンは自宅の庭で遊ぶ自分の娘を見つめていた。
 振りかえった娘のブルーの瞳……突然フラッシュバックが起こった。スーザン。彼女もこんなブルーの瞳だった。ああスーザンはどうなったんだっけ?たしか殺されて……殺され……殺され……
 その途端記憶が完全に甦った。
 逆光に黒く浮かびあがった父の姿。もがく友人のスーザン。「いや」とか「やめて」とか言っている。もがく幼い白い脚。そうだ、父のヴァンの荷台でスーザンはレイプされたのだ。そしてそのあとは、石を振りあげている父。防ごうと右手をあげたスーザン。肉のたたきつぶされるいやな音。
 アイリーンはその後父親に押し倒され、「もうみんな終わったんだ、忘れろ」と言った。
 そしてわずか8歳の少女に、「スーザンを遊びに誘ったのはおまえなんだから、これがバレたら捕まるのはおまえなんだ」と言った。泣きやまない彼女に、「黙らないとおまえも殺すぞ」とも言っている。
 アイリーンは自分と自分の精神の均衡を守るため、それを記憶の奥へしまいこんだ。

 この記憶が甦ったのち、さらに彼女はほかのことも思い出しはじめた。
 それはまさに洪水のように彼女に押し寄せ、現在の彼女をのみこんだ。
 父親は彼女にも近親姦をはたらいていた。
 アイリーンはティーンのとき自傷癖があった。髪の毛を抜きつづけ、完全に頭頂部が禿げ、血が出てもやめられなかった。あきらかにノイローゼだが、彼女を病気とみなしてくれた者は誰もいなかったようだ。両親の離婚とともに、ともかく彼女の自傷行為はやんだ。
 また、7?8歳のとき、父親によって父の友人に「ご馳走された」ことも思い出した。
 父は自分の幼い娘を女衒のように、友人にレイプさせたのである。これはあきらかにスーザン殺害より前の話だ。この経験があったからこそ、アイリーンはヴァンでスーザンが父親になにをされているか瞬時に理解できたのである。

 20年前の事件ということで、物的証拠はほとんどない。
 証言者といえば、娘のアイリーンだけだ。
 しかし多くの精神科医の証言がそれを裏づけ、フランクリンは第一級殺人罪で終身刑となった。

(※ただし、その後1995年にフランクリンは逆転無罪判決を下されている)

 


◆チャールズ・ハッチャー

 1978年、ミズーリ州のある町で4歳の男の子の死体が発見された。
 その子はあきらかな性的暴行を受けた上で窒息死していた。検死官は、
「この子は強制された口淫行為により、気管をふさがれ呼吸ができずに死んだ」
 と発表した。
 この事件は地元で有名なゲイの男が逮捕されたことにより、落着したかに見えた……1982年になるまでは。

 チャールズ・ハッチャーは前科のある大酒飲みの父親と、精神不安定な母親のもと、末っ子として生まれた。
 父親には肉体的に虐待されたが、母親には溺愛されて育った。ふたりとも、子供の躾や教育にはまったく不向きな人間だったので、生き残った彼らの子供らはみんな情性欠如者か、前科者になった。
 末っ子のチャールズ・ハッチャーはとくに顕著で、おもに窃盗で18歳から26歳までを、刑務所と娑婆の往復で過ごす。
 その性癖を見せはじめたのは26歳に釈放されたときで、16歳の新聞配達の少年を誘拐しようとしたが車が盗難車であったことから、すぐに逮捕された。少年をかどわかしてどうする気だったかはほとんど追及されず、窃盗と傷害の罪で彼はまた監獄送りになった。

 1969年、40歳で釈放されたハッチャーはカリフォルニアで、6歳の少年をレイプした。また12歳の少年を暴行し殺害した。
 このうち、6歳の少年に対する少年への罪は発覚し、彼は有罪になった。

 1977年、彼は釈放された。翌年彼はネブラスカで16歳の少年をレイプし、ミズーリで冒頭の4歳の少年を殺した。
 ハッチャーは相変わらず軽い罪で刑務所と外界の往復をつづけ、釈放されては事件を起こした。
 1980年、彼は7歳の少年を暴行傷害、また17歳の少年をレイプして怪我を負わせた。
 1981年には11歳の少年を誘拐しようとしたが、これは未遂に終わっている。
 そして1982年、彼は11歳のミッシェル・スティールを暴行殺害した罪で逮捕される。殺人罪では初の逮捕である。彼は反抗的だったため、自白罪をもちいられて供述させられた。その後拘留状態となったが、そこで唐突に、1978年の殺人を告白した。

 この事件で逮捕されていた無実の男は、艱難辛苦の上釈放された。
 ハッチャーは「おれが殺したのは全部で16人だ」と自供したが、ミッシェル・スティール殺害の罪で有罪宣告を受けたのち、自分の犯行のすべてを打ちあけるという約束をやぶって、独房内で縊死した。

 


◆アンドレイ・チカチーロ

 チカチーロは1936年、スターリン政権のまっただ中に生まれた。
 それは大量虐殺的な農業集団化強制の舞台でもあった。ひどい飢饉がロシア(当時、ソビエト連邦)を覆いつくした。

 そんな中、生れ落ちたせいかチカチーロは先天性の脳障害を持っていた。(「
脳障害」参照)。
 不幸なことにこの障害はおもに生殖器官においてあらわれた。彼は12歳になるまで排尿のコントロールができず、もともと癇癪持ちで愛情うすかった母親は余裕のない生活下、よけい彼に厳しくあたった。
 実際ひとつのベッドで何人も寝なくてはいけない環境で、シーツを毎晩濡らされるのは迷惑な話だった。
 また彼は幼い頃から、「食べられてしまった兄」の話をよく両親に聞かされていた。
 彼より数年前に生まれた兄は、餓死した上その死体を隣人に食われた、というのである。この話の真偽のほどはさだかではないが、当時のロシアでの人肉食は多く記録に残っていることであるし、チカチーロがそれを聞かされて育った、というのもまた事実のようだ。
 この凄惨な逸話は彼の脆弱な神経にトラウマを植えつけた。

 チカチーロは夜尿症のせいか本来の性格か、ひどく劣等感の強い人間に育った。
 人づきあいがうまくできず、いつもいじめられていた。外に出ればいつも言いがかりを付けられて追いまわされたので、しまいには野菜畑に一日中隠れてうずくまっていることもあった。
 しかし彼は学業面では優秀な生徒だった。いっぽう青春期に入ってもチカチーロは障害のせいで性的にひどく未熟だった。精神的には興味があっても、身体的な発達が追いついてこないのだ。
 結果、彼の性衝動はかなり歪んだものとなった。
 彼は妹のはからいで結婚することができたが、新婚初夜はかなり無残なものだったようだ。
 チカチーロにとって、それ以来夫婦の営みはどちらかといえば苦行に近いものとなったらしい。性欲はあるのにそれをさんざん苦労した上で果たしても、たいした満足感も得られない、という状態がどんなものか想像する以外ないが、惨めなものであることは確かだろう。
 しかしそれでも生殖能力はあったようで、彼ら夫婦はふたりの子供をもうけている。

 結婚後、チカチーロは州立大学教養学部の通信生となり、学位を得た。これはこの劣等感の塊のような男にとって転機となるはずだった。彼はロシア文学の教師となった。
 だがこれは結果として、重大な誤りだった。
 誰にも覚えのあることだろうが、子供らというのは弱い教師というものを非常に過敏に察知する。そしてもちろんチカチーロはそのひとりだった。彼は「なめられる教師」の典型像だった。
 しかし若い男女目の前をがうろうろする生活は、チカチーロを刺激した。
 ふつうの性犯罪者は10代半ばから20代はじめをピークとするものだが、彼がその性癖を見せはじめたのは、37歳のときだった。
 彼は生徒や近隣の子供、親戚の子などにいたずらをするようになった。その頃から相手の性別は問わなかったようだ。ともかく、自分より弱く劣っていて、自分を嘲笑わないものならなんでもよかったのだ。

 当時のロシアでは「連続殺人者など、存在しない」ことになっていた。そんな怪物は腐りきった資本主義のもとにしか生まれないというわけだ。
 セックス・キラーもペドフィリアも同様だった。ロシアの子供らはおよそ大人に対して警戒心というものが薄かった。
 41歳にしてチカチーロは初めての殺人を犯す。
 相手は9歳の少女で、彼の「秘密の隠れ家」に誘いこみ、いたずらしてから絞め殺した(犯すことは彼の体の機能上、不可能だった)。
 それから3年、チカチーロは衝動を抑えこんだが、子供にいたずらするという醜聞がもとで校長から解雇を言い渡されたのをきっかけに、再燃することになる。
 彼は工場で働きながら、子供を殺してはつかの間の興奮と充足感を得た。

 彼の犯行には特徴があった。まず両眼をナイフで切り裂くこと。子宮、性器、乳首などセクシャルな器官を切除すること。体内にではなく体の外側のどこかに精液を付着させていくこと。(その分泌物によって犯人はAB型であることが判明した。警察は遮二無二AB型の小児性愛者を探した)
 死体の損傷は回を重ねるごとに激しくなり、被害者は最低でも30回は刺され、腹部を切りひらかれていた。
 のちにチカチーロが語ったところによると、
「唇や舌を自分の歯で噛みきって、しゃぶった。少女なら乳首を、少年なら睾丸を切り取って同じく口中で心ゆくまで転がした。大腸をしゃぶったことさえある」。
 事実、被害者たちの遺体の多く(腐敗前に発見されたもの)には、唾液が付着していた。

 最終的な逮捕は1990年だったが、じつは1984年に一度チカチーロは逮捕されているのである。
 だがこのときは、当時のロシア当局法医学局では、「非分泌者」というものが存在することを知らなかったため、A型のチカチーロは放免されたのだった。実際には「血液と体液の血液型が一致しない」人間は人口の20%ほどにものぼるのだが。

 1990年、ようやくチカチーロは再逮捕された。
 彼が自供したのは56人。そのうち完全に立件できたのは53人(女31、男22)だったが、チカチーロは自分が殺した被害者の姓名にはまったく興味がなかったというし、元来記憶力のいいほうでもなかった。
 彼が忘れてしまった被害者や腐乱しきって発見されなかった死体などを考慮に入れれば、総数はもっと増えるに違いない。だが正確な数がわかることはもうないだろう。

 チカチーロは公判で完全に狂気の症状を見せ、
「息子を返して!」と号泣する母親に対して、
「もう食っちまったよ」
 と毒づいたりもしている。

 12年間殺人をつづけた男は、1994年2月14日、銃殺刑によってその命を終えた。

 


◆アドルフ・ホテリング

 1928年1月、7歳の娘がいつまでたっても学校から帰ってこないことを心配した両親が警察に届け出、ただちに捜索隊が組まれた。
 なぜこんなにも動きが迅速だったかというと、近頃このミシガン州モーリス・タウンでは、たてつづけに事件が起こっていたからだ。
 しかもその一連の事件はどうやら同一犯のものであると思われ犯人の目星はいまだ付いていなかった。

 夕暮れどき、7歳の少女の死体は発見された。
 あきらかに凌辱されており、死に至るまで殴打されていた。
 肋骨は鶏でもさばくかのように丁寧に一本ずつ剥がされて、内臓の一部も切り取られていた。鼻も根元からきれいに削がれ、生前の美少女の面影はなかった。おまけに性器からナイフを挿入して、下腹部全体をめちゃくちゃにかき回したあとがあった。まるでジャック・ザ・リパーのような犯行である。しかも被害者は売春婦どころかたった7つの少女なのだ。捜索隊は怒りに燃えると同時に、怖気立った。
 それまで同一犯の犯行とみられていた事件は以下のようなものである。

 共同墓地から22歳の女性の死体を掘り起こし、屍姦および、解体。
 18歳の少女の、強姦絞殺事件。
 16歳の女中の強姦事件。
 7歳の少女の強姦事件。
 そしてこの今回の事件である。あきらかに対象年齢が下がってきており、残虐さも増している。近隣の住民は恐れおののいた。
 ――しかし唯一の救いとして、今回のケースにおいては目撃者がいた。事件現場そのものを目撃したわけではないが、犯人とおぼしき男が車のタイヤを溝にはめて往生しているのを、手を貸してやった男がいるのである。
 彼はその男がくだんの連続凌辱魔と知るや、地団太を踏んで助けてやったことを後悔したが、そのかわり詳細な似顔絵と、自動車の色と型を証言してくれた。
 警察はこの当時のアメリカ市民の気風として当然のことが起こるのを予測し、二重の意味で、即刻犯人を逮捕しなくてはならなかった。
 すなわち1つは犯人による犠牲者がこれ以上出ないようにすること。2つめに、無実の者が犯人に仕立てあげられ、住民にリンチされて殺されるのを防ぐためだった。
 当時はまだ「裁判より、手っとり早くていい」方法のほうが民間内では主流だったのだから。

 そんな騒ぎの中、ある若い大工が女房と一緒に、「悪夢をみた」として警察に届け出てきた。
 その悪夢の中で彼はちいさな女の子が虐殺される場面をありありと見、そして犯人の顔もしっかり見た、という。しかもそれは彼自身も、そして近隣の人間もみんな知っている人間だというのだ。
 もちろん警察はそれをすぐに信じたわけではない。しかしその似顔絵と、彼の指す人物があまりに似ているせいもあって、警察は藁にもすがる思いで腰をあげた。無駄骨を充分承知しながらも。
 その大工が夢にみたというのは、周囲の信頼も厚いキリスト教会の長老に先日据えられたばかりの篤信家、アドルフ・ホテリングであった。尋問しに行ったというより警察もほとんど長老になったお祝いを言うために出向いたようなものである。
 ホテリングはにこやかに彼らを迎え、もてなした。
 刑事たちは彼をほんのいっときでも疑ったことを恥じ、礼を言って立ち去ろうとした。
 その瞬間、まったく偶然にひとりの刑事の指輪がホテリングの自家用車の上をかすめ、塗料が剥げおちた。その下から出てきたのは目撃者が証言したのとまったく同じ色であった。しかもよくよく見れば型も同じ。
 刑事たちは目の前の男をとっくりと見た。
 猿めいた長すぎる手足。猫背で、押しつぶされたような平べったい顔つき。一見温和とも映るこの鈍重さが、急に彼らの目に不気味なものに見えはじめた。しかもこの男は自身が幼い女の子の父親でもあるのだ。
 しかし彼らは決心した。
「ホテリングさん、……ちょっと警察まで来ていただけますでしょうか」

 そのときまだ刑事たちは半信半疑だったが、つぎの刹那、ホテリングが懐からナイフを出し、自分の喉を突こうとしたのを見て彼らは仰天した。
 なんとか押さえつけて取りあげたナイフには血曇りがはっきり見えた。
 刑事たちははっきり彼を容疑者と認定し、連行した。呼びつけられた目撃者はホテリングを見るやいなや、
「こいつです、こん畜生!」と叫んだ。
 ホテリングはそれを聞くなり、がっくりと肩を落とし、
「わたしがやりました」
 と素直に認めたものの、自供を求めると、「それはみなさんが知っていることでしょう。言わせないでください」と頑としてそれは拒んだ。

 しかしその代わり、余罪は白状した。
 彼は近隣を歩き回っては女性の入浴や寝室を覗き、真夜中は木に登って、若い夫婦の閨房を覗いたりしていた。
 また8歳の少女凌辱、27歳の女性暴行未遂も彼の仕業と判明した。
 ホテリングの性的衝動がなんにもとづくものなのか、いつから犯罪として発露していたのかは不明である。

 しかし彼は公判でもあくまで紳士的であり、そしてまた犯行に対して否認はいっさいしなかったものの、「他人ごと」のような態度を崩さなかった。
 最後に裁判長が、
「なにか言いたいことはあるか」と訊ねたところ、
「わたしの家族のことを考えていただきたい」
 と彼は答えた。
「おまえは、被害者たちの家族の悲しみを考えたことはないのか?」
「わたしは世界でもっとも、悲しみを知っている者です」
 この最後の答えは的を射ているものなのかどうか、判断が難しい。

 ともかくも、彼は終身刑となった。若い大工がなぜあんな夢をみたか、について考察するのも無粋な話であろう。

 


◆吹上佐太郎

 大正時代、「人か魔か」と恐れられた、連続少女暴行殺人者がいた。
 犠牲者は東京、群馬、千葉、埼玉、長野と関東近辺一帯にわたり、その総数はいまだ不明である。二桁とも三桁とも言われている――まるで日本版テッド・バンディででもあるかのように。

 佐太郎は京都西陣の、織子の息子として生まれた。
 織子は当時住み込みで働くことが多く、雑居生活であった。彼はどうやらそこで幼い頃から、年上の女に性的な奉仕を強いられつづけてきたらしい。
 現代の視点で見ればあきらかな児童虐待だが、当時にそんな概念はなかった。佐太郎のそんな生い立ちが判明したあとも、「子供の頃から淫奔のたち」であった、と書かれただけだった。
 虐待されて育った者は、虐待する者に育つ。
 いまなら常識とも言えるほどにひろまっているこの「虐待の連鎖」は、彼にもかなり顕著にあらわれた。

 佐太郎は18歳の徴兵検査前にはじめての少女凌辱殺人を犯し、無期懲役となったが恩赦で罪を軽減されて、10年ほどで釈放になった。
 その後上京し、米屋で偽名で奉公したが、性癖があらわになるまで長い時間はかからなかった。彼は1ヶ月足らずでその家の幼い娘を犯し、遁走した。

 以来、彼は売春婦のヒモになったり、ドサまわりの一座の役者になったりして過ごしたが、逮捕されたときは土方をやっていた。
 大正12年から13年にかけて、佐太郎は少女凌辱行脚、とも言える関東一帯の放浪をはじめた。
 彼は人通りのない野道などで少女を誘いこんだが、目的はおもに殺人のほうではなく凌辱のほうだったので、騒いだ子は「死に別れ」と言って絞め殺し、静かにしていた子は「生き別れ」と言って逃がしていた。被害実数がわからないのはこのためもある。暴行だけの被害者数となると、何人になるのか見当もつかない。

 佐太郎は「木村道蔵」の偽名を使っていたが、調書で自分の名を書くとき「吹上」と書きかけたことから前科があきらかになり、逮捕された。
 彼の供述はあまりにいい加減でくるくる変わったため、警察は往生したが、それでも六人分の調書をとることができた。
 下は11歳、上は16歳まで、すべてが暴行した上の絞殺で、殺人のない暴行にいたっては秋田、福島まで足をのばしていたことまでが判明した。
 刑事が取り調べのとき、
「余罪を白状したら、おまえを望みをなんでも聞いてやるぞ」
 と言うと、佐太郎は7件の暴行事件についてすらすらと供述したのち、
「どうせこれで俺は死刑だ。……ついては冥土の土産に、未遂に終わった子をひとり呼んで、一晩一緒にさせてくれないか」
 と言った。
 刑事がこれを断ると、佐太郎は「騙しやがったな」と、滅茶苦茶に暴れまわった。

 彼は未決房にいる間、原稿用紙3000枚にものぼる自伝『娑婆――我が生涯』を書いたが、これは発売と同時に発禁となった。
 判決はもちろん死刑であった。 
 彼は死刑直前、自分の墓前に供えられた葬式饅頭まで残さず食い、悠々と死出の旅へおもむいたそうで、当時の著名な鬼検事、中野並助ですら「立派な最期だ」と感嘆したという。

 


◆宮崎勤

 1989年2月、埼玉県入間市のKさん宅の玄関前に、不審な段ボール箱が置かれていた。
 あけてみると中にはちいさな、あきらかに子供のものと思われる遺骨が入っていた。
 その家の4歳の娘、真理ちゃんは昨年の8月から行方不明である。ただちに警察に通報されたが、「歯の鑑定の結果、真理ちゃんのものではない」と狭山警察署は発表した。
 ダンボールの中には「真理 遺骨 焼 証明 鑑定」と書かれたメモが入っていた。

 4日後、朝日新聞本社に「今田勇子」名義の犯行文が送られてきた。以下に記すのはその一部の模写である。

「真理ちゃん宅へ、遺骨入り段ボールを置いたのは、この私です。この、真理ちゃん一件に関しては、最初から最後まで私一人がしたことです。私が、ここに、こうして真実を述べるのには、理由があるからです。まず、あの段ボールに入った骨は、明らかに真理ちゃんの骨です。その証かしを立てます。まず、どうやって連れ去ったかを述べましょう。
(中略)
 そこで、真理ちゃんを泳がせ、真理ちゃんを見守るのではなく、私達2人を誰かが見ていないかどウカを見守ります。居る様子はなく、来る様子さえありませんでした。すると、誰も来そうにないという気が集中して、異様な程に、胸が高まってくると、なぜかモヤモヤしてきました。そして、子供を産むことが出来ないくせに、こうして目の前に自由な子ガイルといウ、自分にとっての不自然さが突如としてぶり返し、「このまま真理ちゃんを家に帰しては……」といウ思いのよぎりガ交差し合い、モヤモヤした、とめどもない高まりが一気に爆発し、目の前の水を武器に、私は真理ちゃんの髪の毛をつかみ、顔を川へ沈め、決して自分がいいというまで頭を水面から上げさせませんでした。
(中略)
 狭山警察署の発表は、誤りか、あるいは、理由あっての口実です。私が届けた骨は、絶対に真理ちゃんの骨です。(中略)もしこの写真を真理ちゃんの母親に見せた場合、ショックを受け、気絶しかねないとふんだからでしょう。失踪当時はいていたサンダルを母親が見たら、「これは、確かに真理のサンダルの絵柄だ。犯人以外の人間ならば、絵まで同じサンダルを揃えられる筈がない。真理ガ、しわくちゃパンティーをはいていることなど知る筈がない。」と確認をとってしまうから、警察は、母親にその写真を見せないのです。父親が真理ちゃんが、しわくちゃパンティーをはいていることを知らないことをいいことに、警察は、父親にさえ今後は、写真は見せない筈です。
(中略)
 あの骨は、本当に真理ちゃんなのですよ。」

 一月後、同名義の告白文が朝日新聞社、および被害者宅へ届けられた。以下ふたたび模写。

「(前略)では、どうして真理ちゃんをあやめたかについて告白をいたします。
 私は、私の不注意からなる不慮の事故で、5歳になる、たった一人の子供を亡くしてしまいました。高齢と切開の事情で、今まで目の前にいたその子供を見ると、むしょうに、手が届かなくなる圧迫感にかられました。無念の一語で、子供をふとんに寝かせたままその日が過ぎ、頭の中もぼやけてきました。
 何を思ってか、砂糖湯だとか湯たんぽを買いに行くは、なぜか、看病のことしか頭になく、それでも、いつの間にか、防腐剤まで買ってきていました。どうしても可哀そうだという思いしかなく、誰に知らせることもなく2日がたっていました。もう人に言えない。
 子供をいつも寝ているようにして寝かしたので、いつの間にか硬くなった子供の両手を合わせてやることさえ出来なくなっていました。この時ほどいけないと思ったことはありませんでした。せめて着替えだけでもしてやろうと、大きめのパジャマを用意し、上着をハサミで切って、とりのぞき……。すると、体に赤い斑点ができていました。虫が喰って入った形跡などないのに、まるで日の丸のように、判子でも押したかのように、赤い斑点が出来ていました。そこは、できものではなく、平らだし、少しへっこんでいるのです。皮が、はがれて流れることのない血が見えたと言ったほうが分かりやすいでしょう。「変わってしまうんだなあ」と思いました。
 やがて子供の顔が、老人のようになってゆきました。このことは、私と境遇が同じ、あの(先立って死体が発見された子供の、父親の名)様ならご存知と思います。ひきつったしわが体全体にでき、あのこちこちに硬かった体が、今度は水のようにぶよぶよに柔らかくなってゆきました。とても、この世の臭いとは思えない程の悪臭。
 口もきけなくなった子が、初めて私に訴えたのです。「どうして。」と。
「ごめんなさい。お母さん、お前がずっと寝てると思ったの。」
 自分の子が死んだのに、どうして私は、自分の子を埋めてあげなかったのでしょう。いつまでも人の姿でいないことは知っていたのに、いったい何をしていたのでしょう。私は、床下に穴を掘って子供を埋めました。臭いも消し、私もそれから平然を装いました。でも、周囲の人が、そのうち不審に思ってくるでしょう。
「あずけている」等と、いつまでも通じるわけがありません。数ヵ月後に、2人で住んでいた所をそっと出て、ここまで移ってきました。
(中略)
 私は、この事である決心をし、計画をたてたのです。我が子の骨を、K宅の葬式として、正式にお墓に入れてもらおうと思ったのです。(中略)今から墓石をどかして骨を出すわけにはゆかないのです。私の子の骨が混じっているにせよ、真理ちゃんの骨も入っている。誰も警察を非難しません。だって、真理ちゃんの骨が本当に入っているからです。
(中略)
 子供のまま死んだ子って、向こうで子供のまま暮らしているんじゃないのかしら。子供のままでちっとも変わらなくて、ずっと苦しんでいるんじゃないのかしら。今頃は、空虚さながらの圧迫にさいなまれているんじゃないかと思うと、私もすぐに行ってあげたい。でも、お母さんが行くと、お前が見てしまう。一人の大人がお前の目の前に現れたら、たとえ、それが親であっても、無事に子供を送れた相手に対して、ものすごい嫉妬でとびかかってくるでしょう。お前は、お母さんにだけは会ってはいけない。でも、会いたい。
(中略)
 私は、神に斗いを挑まなくてはなりません。神に対し「15年は捕まりたくない」という「願い」をぶっつけて、「私の会いたい子供に私は会いたい」という「望み」を死守するつもりでおります。人間が、神と斗う術は、それしかありません。」

 ひどい悪文で書き写していて頭がぐらぐらしてくるが、これを書いたのは勿論「子供をなくした中年女性」などではなく、当時26歳の宮崎勤である。
 宮崎は本来、名文家というわけではないにしろ、これほどの悪文の書き手ではなかった。しかしこの妙に真に迫った告白文が、「宮崎勤・多重人格説」の発露なのである。
 そうとう無教養な女を、はたまた錯乱しかけている母親を演じているのか、たしかに「かなり、なりきって」書いているらしいことはわかる。
 しかし気になるのが最初の声明文で繰りかえし出てくる「しわくちゃパンティー」という単語である。
 完全に彼の人格から分裂し、「女性」として自己を意識している人格が、幼い子供の下着に対してそのような性的な意味を含ませた単語を使うだろうか? 4?5歳の幼女の下着に対して女性全般と、まともな性意識を持つ男性が使う言葉としたら、「パンツ」が普通だろう。
 それを思うと、元来パズルや言葉遊びが好きだった宮崎が、「愉しみながら」この文を書いている姿が想像できるようで腹立たしい。

 宮崎はその後、供述で「ネズミ人間」が出てきて(犯行を)やった、などと述べているが、この一単語だけでも、多重人格説はそうとう疑わしいものになると思えてならない。――彼の分裂した人格(アニマ=女性性)もまたロリータ・コンプレックスでレズビアンだったというなら話は別だが。
 ちなみに、多重人格か否かで裁判を争ったことで有名な殺人犯といえば、ダニエル・キイスがとりあげたビリー・ミリガンと、「ヒルサイド絞殺魔」ことケニス・ビアンキである。前者は無罪となったが、後者は有罪で終身刑となった。
 宮崎勤が本当に人格分裂しているかはともかくとして、「多重人格」が病気として認められている国、アメリカですら判決がこれほど割れる、ということをとりあえずここには記しておこう(日本では、まだ多重人格は精神病として正式認定されていない……はずである)。

 

 宮崎勤は1962年8月21日、室町時代からつづく素封家の長男として、未熟児で生まれた。
 祖父は町会議員をつとめたこともある地元の名士であり、また詩吟や琵琶、骨董品などの風流な趣味をたしなむ傾向があった。かなり老齢になっても発展家だったようで女性関係も派手で、外の女に子供を生ませたりもしていたため、妻との関係は終始よくなかった。
 その反動か、父は自らを「仕事の鬼」と呼ぶような、酒も煙草もやらない堅物となった。
 もっとものちには町じゅうで噂になるような醜聞を起こしているので、本当に仕事一本槍だったかはあやしいものだが、ともかく厳格な人ではあったようで、彼の経営する印刷工場の工場長いわく「奥さんや子供に、頭ごなしに傲慢な命令をする人」だったそうである。

 宮崎家では代々「ベタベタ母親が育てたのでは、ろくな人間にならない」という家訓があったらしく、この父も勤も子守りに育てられた。
 勤の場合、それは工場に住み込みで働いていた30代の知恵遅れの男性(足には小児麻痺の後遺症があり松葉杖をついていた)で、彼は勤を相当甘やかしたようで、いっさい叱るようなことはなかったという。
 また祖父母も「子供に金の不自由させるようなみっともない真似はしない」と言って野放図に金を与えていたというから、厳格な父親と甘い祖父母、子守りの間で一貫性のない躾をされたことは間違いない。

 3歳ごろ、彼の手に障害があることが明らかになった。
 先天性の尺骨癒合症で、両のてのひらを上向きにすることができない。
 このため箸や茶碗を持つこと、人からものを受け取ること、排泄の後始末などが難しくなるため、重度障害ではないが、けっして軽い障害というわけでもない。たいていの場合において整形外科手術は学童期前にされるのが普通であるが、宮崎の両親は、
 父「日常生活に支障はないと医者に言われたので、いずれ手術させようと思っていたが、そのうち忘れてしまった」
 母「忙しさにかまけて、つい……」
 と述べ、さらに深く突っ込まれると、父親は
「ぜんぜん気づかなかったわけではない」
 と答えたが、記者も弁護士も、事件が発覚してはじめて思いあたった、という態度に見えたという。
 障害者手帳については
 父「保護させる形になるのは将来的にも良くないと思い、断った」と言っている。
 宮崎自身の言によると、成人後「障害者手帳の交付申請をしたい」と父に言ったところ「鼻で笑われた」そうだが、父親はそのことは覚えていないという。
 また、「あれがそんなに手のことを気にしていたとは知らなかった」という言葉も残っていることからみて、ありていに言えばあまり関心がなかったようだ。

 母親は働き者で周囲に評判のいい女性だったが、家庭にこもるタイプではなかった。
 この母子は息子が成人後も「ちゃーちゃん」「ツトムちゃん」と呼びあっていたが、鑑定人から
「母親には可愛がられたか?」
 との質問には
「経済的には、まあまあ」
 と答えたきり、という結果が出ている。

 宮崎家はまず祖父母の仲が悪く、父母が多忙を理由にほとんど顔を合わせない生活がつづいたため乖離がどんどん進んでいった。
 家族が多かったにもかかわらず、食卓の椅子は4脚しか置かれなかった。一堂に集まって食事をするという風景はもはや家族の頭の中になかったのである。
 PTA活動に熱心だった父親は、息子が思春期にさしかかった頃、女性役員と「深い仲」になったという噂がかなり広まった。
 妻がそのことについて問いただすと彼は暴力をふるった。
 ほぼ一月ごとに、彼女は鼓膜を破られたり肋骨を折られるなどして数回病院に通っているから、ただの夫婦喧嘩の域を越えたものだったことは疑いない。夫婦仲は冷えきっていたようで、父親は公判中、妻について「足手まとい」と発言している。
 ちなみに、この情愛うすい父親にも偏執的なビデオ収集癖があったことをここに記しておく。
 もっとも彼の場合はもっぱら政治方面に限られていたようだったが、「たいていの人が驚くようなコレクション」だったというから、モノマニア的傾向は父親ゆずりだったとみていいだろう。

 宮崎は幼い頃から内気で友達は少なかったが、高校に進学したあたりから成績がガタ落ちし、厭人癖が強まって、分裂様症状が出はじめた。
 短大卒業後は父親のコネで広告会社に就職したが、ろくに敬語も使えず与えられた仕事を最低限こなすだけで、あとはぼうっと空を見ているような彼に社内から批判の声が続出し、3年で解雇(表向きは依願退職)となった。

 20歳のとき、彼の「育ての親」であった知的障害の男性が無理やり親族に連れ帰られ、宮崎の前からいなくなった。(事件が発覚した1989年当時、この男性は行方知れずだった)孤独になった宮崎の厭人癖はさらに増し、23歳には神経性の左顔面麻痺を起こしている。
 解雇後、宮崎は実家の印刷会社で働くようになったが、父親はあまりに彼がなにもできないので驚いたと言っている。
 また、その頃彼の両親は毎日のように修羅場を演じていた。これについて宮崎は「朝からうるさくていやだった」と公判中、そっけなくコメントしている。

 1988年5月、祖父が脳溢血で死亡。
 この死により、宮崎は家庭内に完全に「居場所」がなくなる。しかし外の世界も持っていなかった彼は、急速に自分の内部世界へと傾斜をはじめることになる。
 また被害妄想が強まり、工場の前を歩いていく女性に対し
「なんであいつ、俺のことをじろじろ見てるんだ」
 と同僚に言ったり、コンビニの女性店員と目が合っただけで、帰宅してから電話で
「なんで俺のことを見てたんだ、馬鹿にしやがって、謝れ、謝れ」
 と怒鳴りつけたりしている。手の障害のせいでお釣りをもらいにくいのは昔からだったが、この頃には店員の手から小銭を叩き落とすようにして、それから急いで硬貨をかき集め、そそくさと店を出ていた、という。

 仲間といえるものはもう、貴重なビデオの貸し借りをする「ビデオ仲間」くらいだったが、宮崎があまりに自分勝手な態度なので、それも「総スカン」状態になりつつあった。
 宮崎は幻の「ウルトラセブン12話」(「被爆怪獣スペル星人」という怪獣が登場したことで被爆者の遺族からクレームがついて以後、永久欠番となった、特撮マニアでもない管理人ですら知っているような有名なシロモノ)をはじめ、父親のビデオ収集癖のおかげでかなり早い段階からビデオデッキが家にあったせいもあって昔の名作を多く持っていた。
 だがもうその「神通力」も通じなくなるほど彼の態度は反社会的なものになりつつあった。

 1988年8月、宮崎は(被害者はすべて姓は伏せる)真理ちゃん(4歳)を「涼しいところへ行こう」と誘い、両親が買い与えた車に乗せると、山林で絞め殺した。遺体は翌年2月、裏庭で油をかけて焼いた。
 10月、正美ちゃん(7歳)を「道を教えて」と言って車に乗せ、山林で絞め殺した。
 12月、絵梨香ちゃん(4歳)を「あったかいところへ行こう」と誘って車に乗せ、車内で絞め殺す。
 1989年6月、綾子ちゃん(5歳)を「写真を撮ってあげる」と言って、同じく車内で絞殺。
 7月、八王子の水飲み場で足を洗っている女の子(6歳)に「写真を撮らせて」と言って近づき、川べりまで連れていくと、裸にして写真を撮った。ただしこれは少女の父親に見つかり、宮崎はさんざん殴られた上で警察に連行された。ご存知の通り、逮捕のきっかけとなったのはこの一件である。それ以前は宮崎はまったく警察にマークされていた気配はなかった。

 ちなみに有名な「遺体のビデオ撮影」は綾子ちゃん事件のときのものである。
 それまではおっかなびっくりの犯行、という感じだったが3回目にしてやや自信がついたらしい。撮影が済んだのち、手足と頭部を切断し、それぞれ別の場所に捨てた。のちに公判で告白したところによると、
「両手は食べた。足は家に出入りするキツネか猫に食べられたと思う」
 そうだが、彼自身が不自由な「手」を食べたというのはいかにも象徴的な話だ。
 しかし、自分の娘が殺されてイタズラされた挙句解体され、その遺体の一部を「動物がくわえて引きずっていく」さまを想像しなければならなかった遺族の気持ちはなんともはかり知れない。

 宮崎の趣味のひとつにパズルの作成・解答があったが、一時期パズル雑誌の解答ハガキの仕分けのアルバイトをしていたことがあった。
 ここの編集者が宮崎に「彼女はいるの?」と訊いたところ、
「女の子のことは、もう諦めているんですよ」
 との返事がかえってきたという。
 彼の幼馴染みのひとりによると
「大人の女に興味がなかったなんて嘘ですよ。AVも雑誌も持ってたし、金髪が好きだったみたい」
 との証言もある。
 また、父親のすすめで見合いも4回している。しかし最初に「どうも」と言ったきりであとは口をきかず、下を向いているだけの彼に、いい返事をする女性はもちろん一人もいなかった。
 取調べの際、刑事に女性との交渉について聞かれ、
「したいけど、馬鹿にされるに決まってるから」
 と答えたという記録も残っている。
 鑑定人の会話中では
「裸の写真じゃ興奮しない。毛穴とか見たくないし。ミニスカートとか水着とか、その下がどうなってるのか想像するのが一番いい」
 と述べている。
 綾子ちゃん撮影ビデオはエロティックというより、生物学か解剖学のビデオででもあるような即物的なものであったようだ。
 これらの情報から浮かびあがってくる像はマスコミが作りあげたような「ロリコンの怪物」とは明らかなズレがある。
 成人女性に興味がないわけではないが、かといって毛穴や体毛のある現実の女性には幻滅するらしい。彼が求めたのは漠然とした「女性性」でしかなかったように思える。
 彼はまた幼女殺害について「何がどうなっているか調べたかったので」という動機を挙げたこともある。
 とすると、宮崎の幼女殺害の動機は「その下がどうなっているのか」想像するとき、それをよりリアルなものにするためだけのものだった、ということになる。
 少なくとも「泣かれたから殺した」「手のことを笑われたから殺した」というのは言い訳に過ぎない(彼の手の障害は4、5歳の幼児に見破れるほど重度ではない)だろう。

 逮捕後、マスコミはまさに「加熱報道」の言葉がふさわしい狂奔ぶりだった。
 いまでも覚えている人が多いだろうが、もっとも頻繁に報道されたのが「6000本のコレクション・ビデオで埋まった彼の部屋」である。
 多くの雑誌で作家たちが事件について座談会をおこない、ホラービデオが一時規制され(ちなみに当時宮崎が殺人教本とした、と言われた日野日出志監督の「ギニーピッグ2・血肉の華」は、彼の部屋にはなかった。(宮崎自身も「見たことない」と供述している)彼が持っていたのは同じ「ギニーピッグ」のパート3で、これは前作とは違いコメディ色の強いものである)、婦人雑誌では宮崎の写真に手を加えて「ニセ心霊写真」までつくって載せる、という有様だった。

 取り調べから公判の間中、宮崎は「的はずれ応答」をつづけた。
 両親を「父の人」「母の人」と呼び、「あれはホントの両親ではない」と言い出し、犯行について否定こそしないものの、「わからない」「知らない」「覚えていない」を繰りかえし、「死体」「遺骨」という言葉は絶対に使わず「肉物体」「骨形態」という迂遠な呼びかたをした。
 犯行の動機については「おじいさんに捧げるため」「おじいさんを生き返らせるため」。
 幼女の写真やビデオ撮影については「流行ってるから」。
 性行為についても「汚い、流行っていること。ビデオではおっかぶさるから、なにやってんだかよくわかんない」などと答えている。

 顕著な場合には頭蓋骨の写真を見せられ
「なにに見えますか」「黄金バット」
 と答えたり、
「告白文の中に『あと15年は捕まりたくない』とある意味は?」との問いに
「覚えてないけど、誰がみたって5プラス15で20じゃないですか」
 と返答したりしている。
 一見ふざけているように見えるだろうが、これはれっきとした拘禁性のヒステリー反応である。
 ガンゼル症候群といい、自分の行為を認めたくない犯罪者が無意識的に精神的遁走をはかるため起こる症状
で、つまり「自分がなにをしたか、知っていたくない」ので防衛機能をはたらかせ、あたかも幼児退行したか、とぼけているかのような応答になるのである。
 ともかくこの症状のせいで宮崎と刑事、検察官、鑑定人、弁護士のコミュニケーションはほとんど無為なものになった。

 宮崎は犯行についてはすんなり認めたため、裁判の焦点はもっぱら責任能力の有無に絞られた。9人の鑑定者が6年にわたり精神鑑定をつづけ、92年には「人格障害」、94年には「多重人格」と「分裂病」という3つの結果が出た。
 一審判決は責任能力有り、として死刑であった。宮崎はそれを無表情に聞いた。
 ちなみにその2年前、宮崎の父は自殺しているが、それを知らされた彼は「すーっとした」と答えている。

 最後に宮崎勤の精神世界を紐解くひとつの試みとして、蜂巣敦氏『贖罪のアナグラム』より興味深い一文を引用させていただく。

「『デイズ・ジャパン』11月号では、長崎短期大学部助教授の長谷川芳典氏が宮崎が送った「真理 遺骨焼 証明 鑑定」がパズルだという説を寄稿している。(中略)
 氏はローマ字でのアナグラムを実行する。すると、

 「MARI IKOTSU YAKI SHOUMEI KANTEI」
             ↓
 「MIYASAKI TSUTOMU HAKONI IRE KIE」 (宮崎勤 箱に入れ 消え)

 となる。(中略)別解として、
 「MIYASAKI TSUTOMU KIREINI HAKOE」 (宮崎勤 綺麗に 箱へ) 
 がある。また「焼」を「YAKU」と解釈しても、
 「T MIYASAKI HAKOTSUME IENI OKURU」 (T・宮崎 箱詰め 家に送る)
 となる。「宮崎勤」のフルネームが任意の27字のローマ字の並べ替えで出てくる確率は「低く見積もっても一兆分の一」だそうだ。
 以上の説から私は88年12月20日に絵梨香ちゃん宅へ送られた文書も、同じようにアナグラムであると推測して並べ替えをやってみた。結果、

「絵梨香 のど かぜ せき 楽 死」
          ↓
「ERIKA NODO KAZE SEKI RAKU SI」
          ↓
「IKIKAESASERAREZ KINODOKU」 (生きかえさせられず 気の毒)

 となる。
 最後に「今田勇子」がパズルになっている可能性だが、(中略)2つのケースにおいてアナグラムである場合を探ってみた。まず「犯行声明」の類である場合。「IMATA YUKO」と考えれば、「MIYA OKUTA」、促音「っ」を省いた形になるが、「宮、送った」と読めないこともない。(中略)
 さて、もうひとつ「贖罪」のアナグラムである可能性。遺族に差し出す言葉(文)は通常の場合であれば「お悔やみ」であろう。「お悔やみ」をローマ字表記した「OKUYAMI」は逆さから読むと「IMAYUKO」となる。これは「いま ゆうこ」と読める。これに名前として体裁を整えるために「田」を入れて「今田勇子」としたとは考えられないだろうか?
 ただし、「田」を「だ」と読んで、「お悔やみダ」であると判断するなら、「贖罪」の意識からは程遠い。」

 


◆山田みつ子

 1999年11月22日、東京都文京区にある護国寺敷地内の音羽幼稚園に子供を通わせる山田みつ子は、同幼稚園に通う2歳の春奈ちゃんを境内の公衆トイレに連れこみ、マフラーで絞殺した。
 そして死体をバッグに詰め生家に向かうと、裏庭に穴を掘って埋めた。

 山田みつ子は静岡の兼業農家の家で生まれた。
 父方の祖母は継母で両親と折り合いがわるく、相続面などでのゴタゴタが絶えず、そんな中で自我形成したみつ子は自信のない、堅苦しく抑圧的な子供に育った。
 とくに規範やモラルに対して強迫観念的なところがあった。
 校則を完璧に守り、通学に1時間半かかる高校に3年間無遅刻無欠席で通い、休日は障害者施設や病院でボランティアをやっていた。あまりにも生真面目で、TVや芸能人の話題にもついていけない彼女を、クラスメートたちは「ちょっと変わった人」とみなしていた。
 また、みつ子は同級生がカップラーメンを食べているのを見て「それなあに?」と大真面目に訊ねたこともあったという。とても1964年生まれの少女の発言とは思えない。このことからも彼女の生家での生活と、一般家庭および社会にズレがあったことがわかるだろう。

 みつ子は学生時代「いい子であろう」と努力しつづけ、長じてからは「いい人であろう、万人に『善意の人』であろう」としていた。
 衛生短大卒業後、彼女は看護婦となる。
 しかしたまたま最初に担当した老人患者が下の世話をしていた最中、容態が急変してそのまま亡くなった。みつ子はそれにショックを受け、「自分のせいではないか」「みんなわたしを非難するんじゃないか」そう思い込み、退職してしまう。
 その後次の就職先が見つかるまでの1年8ヶ月間、彼女はほとんど家から出られない「引きこもり」の生活を送った。
 彼女は「自分で自分を甘やかす」ことができない人間だった。そして他者はいつでも彼女をいつ否定しはじめてもおかしくない、「敵」のような存在だった。
 しかし二度目の就職先の病院ではみつ子は、あらゆる患者にやさしく丁寧に接し、患者たちの評判は非常によかった。
 ちょっとしたことでも患者の手をひいて売店まで連れていってあげたり、リハビリの手伝いをしたりと細やかなところにまで気を配ってくれる彼女は「模範的看護婦」そのものだった。彼女はここで結婚退職するまで7年間を勤めあげる。

 しかし母親とともに仏教サークルに所属しはじめてからというもの、彼女は急激に仏教へ傾斜する。
 同僚や患者に誰彼の区別なく仏道に勧誘してまわり、あまりに「布教活動」「勉強会」への熱が過ぎて、あれほど熱心だった勤務にも居眠りをしたりするようになる。
 また、サークルで知り合った10歳ほど年上の僧侶と遠距離恋愛をするようになる。
 この僧侶はのちにみつ子の夫となるが、結婚前、住職に「25以上の女はいやだ」「4年制大学卒の女は生意気だからダメ」と発言するような男で、妻を「人生において対等のパートナー」とみなすようなタイプとはほど遠かった。
 しかしみつ子は「この人しかない」と思い込んだらしく、両親の反対を押し切って結婚、上京した。
 その思い込みの激しさ、「これだ」と決めこんだら、それまでかたくななまでに護持していた価値観(看護や親孝行)をたやすく捨ててしまうという視野の狭さは、それからもつづいている。

 みつ子は文京区音羽地区に住むことになり、そこで子供を生んだ。
 しかし故郷の静岡ですら、「ズレた人」と思われていた彼女は、この町の瀟洒な雰囲気になかなかなじめなかった。
 もともと身なりに気をつかうタイプではなかったし、ブランドものの服など持っていたこともない。
 子供をおんぶ紐で背負って歩いたり、自転車の前後に幼児用椅子を取り付けて走ってまわるような彼女はじきに同年代の母親たちの嘲笑の的となった。「この町には似合わない」というわけである。

 しかし子供を幼稚園に通わせるにあたって、「母親たちの集団」に混ざらなければ子供ともども肩身の狭い思いをすることを知り、その中のひとつのグループに所属することにした。
 そこで出会ったのが、被害者である春奈ちゃんの母親だった。
 快活でのびのびした、感情をそのまま表に出す飾り気のない性格の春奈ちゃんの母親は、みつ子を屈託なく受け入れ、仲間として迎えた。
 みつ子は彼女を「初めて心を許せる相手」とまで思った、という。
 看護に、仏教に、夫との恋愛に「これしかない」と思い込んでのめりこんだのと同じように、みつ子は春奈ちゃんの母親への「友情」に熱中した。

 みつ子は母親が子供に買い与えたのとまったく同じ玩具を我が子に買い、彼女の買い物を代わりにやってあげたりと、傍から見ると「親分・子分」のような関係に見えたという。
 と同時に自分の訛りや服装のセンスのなさに劣等感を深め、学歴や、看護婦であったことを伏せてグループ内では「萎縮して」いた。
 春奈ちゃんの母親とは一緒に安産祈願に行き、誘いあっては公園や遊園地、バザーなどに行った。
 彼女はみつ子に対して小馬鹿にしたような態度を見せなかったし、また「憧れの対象」でもあった。彼女の立ち居振舞い、服の趣味などを真似ていれば自分も垢抜けられるかもしれない、としてせっせとみつ子は彼女の後ろをついてまわった。
 夫への愛の幻想はもう冷めていた。
 夫は自己中心的な性格で住職夫妻にも嫌われており、臨月近くなって動くのも苦しげなみつ子に自分の作務を代わりにやらせて平然としているような男だった。この住職の寺の檀家や実家の檀家の集いにも、一度もみつ子を配偶者として紹介することも同伴することもなかった、という。

 みつ子と春奈ちゃんの母親との蜜月は3年近くつづいたが、ある日
「春奈ちゃんのお母さんに、うちの長男が話しかけたのに返事しなかった」
 のを見てショックを受け、彼女に嫌われている、と思いこんだ。
 いったんそう思ってしまうと、みつ子の性格からしてもう他のことは目に入らなくなる。もともと持っていた、「都会育ちのお母さんたち」への劣等感があらためて燃えあがり、急速に春奈ちゃんの母親への憎悪がふくれあがった。
 みつ子のこの性質をある精神科医は
「通常以上に振幅の大きな感情反応。万事において観念固着の傾向が強く、一度気になりはじめると切り替えができず、いつまでもその問題が心に残りつづける」
 と判断している。
 見捨てられた、馬鹿にされている、子供ともども仲間はずれにされる、そう思ってみつ子は悶々と悩んだ。
 ほとんど眠れなくなり、精神的にも均衡を失ってきているのが自分でもわかった。
 前には1年8ヶ月もの間ひきこもってようやく自分を取りもどしたが、もう母親となった今その手段は使えない。
 思いあまって「子供の幼稚園を変えたい」と夫に訴えたが、もとより彼女の話をまともに取りあってやる姿勢は彼にはない。
 逃げ場を失った鳥があっちへ飛んではぶつかり、こっちへ飛んではぶつかりと滅多やたらに飛びまわった挙句、たまたま開いた窓にぶつかってそこから外へ出、窮地をのがれるという生物の行動形態をクレッチマーは「乱発反射」と名づけているが、この場合「たまたま開いた窓」はみつ子にとって「春奈ちゃん殺害」であった。

「春奈ちゃんが憎くて殺したわけではない」
「これといった動機は本当に、何もない」
 当初公判でみつ子はこう述べている。
 が、何度目かの公判では、
「その頃わたしは『春奈ちゃんがいなければ、彼女と顔を合わせなくて済む。同じ年頃の子供がいれば、どうしても顔を合わせてしまうから』と考えていました。春奈ちゃんへの憎しみはないけれど、母親と同じ存在に思えました。なぜそう思ったかはわかりません」
 との言葉を残している。

 だがいったん春奈ちゃん殺害を思いつくや、それは過去何度も見られたような執拗な執着心と
「観念固着」で彼女の心から離れなくなる。みつ子はおよそ「退く」ことができない人間だった。一度こうと決めたら、なにがなんでもそれを実現させようとする頑固さが彼女の性格の芯だった。
 また実家の母親が病気で倒れたことが不眠に拍車をかけた。
 犯行の直前彼女はまる二日間眠れない夜を過ごしていた。
 そして凶行は起こった。

 事件後マスコミは「お受験殺人」とこの事件を呼び、「群れる母親たち」「公園デビュー」「加熱する『お受験』ママたち」と書きたてた。(春奈ちゃんはお茶の水女子大付属幼稚園に合格しているがみつ子の長女は第一次抽選ではずれている。しかしみつ子が春奈ちゃんに殺意を抱きはじめたのは合格発表の1ヶ月前であり、直接の動機とは言えない)

 また、もっともこの事件において特異なのは、これが無抵抗の2歳児絞殺というきわめて無残な犯行であるのに対し、世間の多くの母親たちが彼女に「共感、同情」したことである。
 それは「春奈ママ」へのバッシングにもつながり、彼女が「どうやってみつ子をいじめ、いびったか」「馬鹿にしたか」をマスコミはまことしやかに書き、また彼女が公判中に新たな子供を妊娠したことさえ反感を持って受けとられた。
 『公園デビュー』のむずかしさに悩む母親、母親グループのべたべたした付き合いに嫌気がさしている母親、理解のない夫に失望している母親、という「世間の、大多数の母親たち」が、みつ子の中に自分自身の悩みと苦しみを見たのである。
 これはいかに普段彼女たちが「自分を弱い、虐げられた者」と感じ鬱屈しているかを如実にあらわした。

 みつ子は刑を軽くするための精神鑑定はいっさい受けたくない、と明言した。

 


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