THE BURST WITH MADNESS
―狂気の暴発―

 

 

外見的には正常さを保ちながら、徐々に妄想世界を
自己の中に築きあげていく疾患を、俗にパラノイアと言う。
困難に直面する能力が先天的に低い人間が、
現実に代わる虚構の世界、つまり妄想を作り出して逃避するというもので、
きわめて人間的かつ、悲愴な病気である。
しかし妄想を伴う狂気はひどく暴発しやすく、それは往々にして他者を巻き込む。
一種の拡大自殺であり、他人を巻き添えにしての自己破壊行動と言えよう。

 


◆ハワード・アンルー

 

 アンルーは「散歩殺人者」と呼ばれた。なぜなら彼は1949年9月6日に、自宅周辺を散歩するわずか12分の間に13人を射殺したからである。
 秋晴れの、抜けるような青空の下を、その朝アンルーはぴしっとしたスーツに糊のきいたシャツ、蝶ネクタイを締めた上で、9ミリ弾用ルガーをたずさえて歩いた。
 28歳という若さにもかかわらず、その脳髄はすでに「混合型早発性痴呆と緊張病的偏執質」に侵されていた。彼は敬虔なルター派教徒であり、趣味は聖書の勉強で、国に忠誠を誓うための従軍経験もあった。しかしそのかたわら、彼の狂気は他人にはわかり得ない速度でゆっくりと進行していたのである。
 彼は近所の住民に迫害されていると思いこんでいた。分裂症患者によくありがちな、被害妄想性の幻聴である。きちょうめんな性格のアンルーは怨恨のリストをつくり、対象者の名前の横に「こいつはこんなことを言った。この日、こんな目つきで僕を見た。僕を嘲った」と事細かに書き記し、それを読み返しては憎悪をつのらせた。もっともこのリストの内容のほとんどが彼の妄想であることは言うまでもない。
 だが実際にはアンルーの手にかかった被害者たちの多くが、そのリストとは関係のない人物であった。たまたまその場に居合わせたというだけで、アンルーは幼児まで殺した。彼は親しい家族の手によって、ただちに精神科の治療を受けるようはからわれるべき人間だったが、家族は彼の狂気にうすうす気づいてはいても事を荒立てる気はなかったようだ。
 凶行の前日、アンルーは裏庭の門を誰かに盗まれた。これは他人が入ってくることがないよう、彼が精魂込めた手製の門である。アンルーはこれをただの泥棒の仕業とは考えず、そこに近隣の住民の悪意と敵意を感じとった。この瞬間、彼の決心が固まったのである。
 翌朝、彼はまず母親をスパナで殴ろうとした。母親が驚いて逃げ出すと、アンルーは家を出て通りを歩きだした。
 靴屋の前を通りかかったところで、彼はやおら発砲した。子供靴の修理をしていた店主は即死した。
 次に彼は床屋に入り、散髪の間、子供が退屈しないようにとのはからいで設置された木馬にまたがっている6歳の少年を射殺した。少年を守ろうと立ちはだかった床屋の主人も殺した。
 アンルーはまた通りに出た。幼い頃から知っている保険代理人が向こうから歩いてきて挨拶したので、なんらの悪印象はなかったものの、アンルーはこれも射殺した。
 この様子を窓から見ていた薬局の店主は仰天し、二階で暮らす家族のもとへ駆けつけようとした。アンルーはこれを追いかけ、店主と、その妻と、母親をすべて撃ち殺した。クローゼットに隠れていた13歳の息子だけが難を逃れた。
 薬局を出てふたたびアンルーは歩きだした。保険代理人の死体のそばに人がかがみこんで脈をとっていたので、撃ち殺した。
 信号待ちしていた車に3人乗っているのが見えたので、彼らも全員射殺した。さらに1人のトラック運転手に発砲して怪我を負わせると、アンルーは仕立屋に向かい、ひざまずいて命乞いする仕立屋の妻を殺害した。
 その店を出ると、窓から外を眺めている幼児が見えたので、その子も射殺した。わずか2歳の赤ん坊であった。
 そこから半ブロック歩いて、アンルーは自宅に戻った。警察が駆けつけ、家を包囲したのはそれから間もなくのことである。電話が鳴ったので出ると、新聞社からだった。
「きみはいったい、何人殺したんだ?」
「数えてないからわからない。でも、かなりいいスコアだと思う」
 アンルーは平静にそう答えた。
 その後彼は催涙ガスを発射され、家から追い立てられて逮捕された。彼は残りの生涯を、精神異常犯罪者専用の施設で過ごした。

 


◆ドナルド・ファーン

 

 ファーンは妄想と強迫観念に押しつぶされた犯罪者の中でも、特に陰惨な部類に入る男だろう。
 彼は23歳の鉄道技手で、妻と子供のいる平穏な家庭の世帯主であった。何不自由ない生活を送りながらも、彼はなぜかプエブロ・インディアンの「悔悟者」と呼ばれる宗教儀式に魅せられていた。とりわけ彼を惹きつけたのは、責め苦と磔(はりつけ)の儀式である。これらはインディアンの男たちが自分の勇敢さを示すため、すすんで拷問を受けることに意義があったのだが、ファーンは儀式のそういった側面には関心を示さず、ひたすら血まみれの責め苦を夢想した。
 1942年春、ファーンの妻は2人目の子供を出産するため入院し、ファーンの性欲は満たされぬ状態に陥った。彼の性的フラストレーションは日頃抱いていた拷問への憧れと結びつき、やがて強迫観念になるまで高まった。
 彼はのちの供述によると、ほんの幼い頃から、「きれいな女の子を心ゆくまでいじめたい」という欲求を持っていたという。しかし自制心が彼を今まで押しとどめていた。それが妻の入院というきっかけを得て、ふたたび頭をもたげてきたのである。
 彼は何度か少女を言葉たくみに車の中へ誘い込むことに成功したが、その都度、いざとなると勇気を失った。
 ファーンの強迫観念の最後の後押しをしたのは、皮肉なことに被害者であるアリス・ポーターの存在であった。17歳の見習い看護婦だったアリスはどうやら「生来の犠牲者タイプ」といった態の少女であったようだ。これは一種の人格パターンであるらしく、「いかにも弱々しく、のろまで、男に強く出られるとおろおろしやすい。幸薄い雰囲気があり、悲しげで、生命力があまり感じられない」というのが主な特徴であり、誰しもが周囲に1人は心当たる人物がいるのではなかろうか。特にこういった女性が美貌である場合は悲劇度は増すだろう。そしてアリス・ポーターはどうやらまさにこのタイプであったようだ。
 アリスをはじめて見た瞬間、ファーンは
「この女こそ、俺の相手だ」
 と直感したという。
 彼は彼女のあとを数日間つけまわした後、ある嵐の夜に、ひとりで授業から歩いて帰宅する途中だったアリスを銃で脅し、無理やり車に押しこんだ。
 ファーンは「悔悟者」たちの教会に彼女を連れていった。教会には儀式のための、血まみれの祭壇があったからである。
 彼はアリスの服を剥ぎとり、手足を縛り、それから火をおこして針金を真っ赤に焼いた。焼けた針金で彼女を祭壇に縛りつけると、ファーンは同じく焼けた針金の鞭で彼女を打ちはじめた。
 それから6時間にわたって、彼はアリスを突き錐、鋏、やっとこなどを使って拷問した。最後には彼女を強姦した。犠牲者はまだかろうじて生きていたが、あとで証言できるほど回復することを恐れ、ファーンは彼女をハンマーで殴り、頭部を2発撃った。死体は下水路に投げ捨てた。
 まる一晩アリスを拷問して過ごしたファーンは満足しきって入院中の妻に会いに行った。赤ん坊は前夜に生まれたばかりで、ファーンはこの誕生をとても喜んだ。
 しかしファーンは教会から帰る途中、車がスリップして泥にはまりこみ、近隣の農夫に金をやって引き上げてもらわねばならなかった。農夫の証言から、この車に付着した泥と、錐から検出された指紋によってファーンは逮捕された。
 1942年10月、彼はガス室で処刑された。

 


◆ウィリアム・ブライアン・クルーズ

 

 クルーズは元図書館司書で、仕事を引退してからはパーキンソン病の妻とともに気候のいいフロリダに移り住んだ。
 彼の家系はどうやら、年を追うごとに被害妄想が増大していく偏執性気質に侵されていたようだ。彼の父親もまた、ひがみっぽく、すぐにかっとなるたちで、周囲の人間に迫害されていると思い込んでいた。クルーズの父はレストランの経営者だったが、法律に違反して酒と賭博を店内で推奨したため閉店させられ、それを逆恨みして、泥酔して検事の家に発砲し逮捕されている。
 クルーズはそんな父親に反発しながらも、年を重ねるごとに父そっくりの男になっていった。彼は次第に怒りっぽくなり、気むずかしくなり、中年以降はあきらかな「激昂癖のある変人」にまでなった。
 彼は馬鹿にされることと、自分の権利が侵害されることを何よりきらった。だから彼は子供が大嫌いだった。図書館には多くの子供が来るが、たいていの子供は無作法で、意地がわるく、残酷な言葉を平気で吐いた。
 とくに悪戯好きな子供がクルーズは我慢ならなかった。彼が怒れば怒るほど、子供たちは面白がって彼の周囲で騒ぐ。それを見て彼はさらに激昂する……この繰り返しだった。彼はユーモアを解さなかったし、子供のしていることを微笑ましいと思える心のゆとりも持ち合わせていなかった。
 引退後も、彼の心は休まらなかった。妄想はかえってつのる一方だった。
 彼は隣人が自分のことを噂し、あることないこと言いふらしていると思い込んだ。典型的な分裂病の症状である。病気の妻の代わりに彼はマーケットへ買い物に出ていたが、そこでも客や店員達はこそこそと彼を盗み見ては、
「あの人、ほんとはゲイなのよ」
「いい亭主ぶって買い物なんかしてるけど、いやらしいゲイ野郎なのよ」
 と囁きあっている、と信じた。クルーズはどうやら自分の中にある同性愛的傾向に気づいていて、それを憎悪していたと思われる。ひょっとしたら彼が子供(とくに少年)を忌み嫌ったのも、そこに根があるのかもしれない。
 が、ともかくクルーズはゲイに偏見を持っていたし、彼の中に同性愛の願望があったとしても、それは決して人に知られてはいけない衝動だった。だが分裂性の幻聴というのは、漏れてはいけない秘密こそが漏れて噂のまとになっている、という恐怖をともなうことが多いのだ。
 彼の狂気は高まる一方だったが、子供たちはこの「偏屈ジジイ」を面白がって、わざとはやしたてたり、彼の家の敷地内に入っていやがらせしたりした。しまいにクルーズは子供が家の前を通りかかるだけで、激怒するまでになった。
 隣人たちもここに至って、彼が「ふつう」ではなくなってきたことがわかった。小さい子供を持つ親は、
「クルーズさんの家には近づいちゃいけない」
 と、重々言いきかせるようになった。
 1987年春、59歳のクルーズは、道を歩いていた幼い少年ふたりに向かって卑猥な言葉で罵倒し、中指を立てて威嚇した。おびえた子供たちは家に逃げ帰り、親は警察に届け出た。
 警察がクルーズを訪ねると、彼はこの容疑を認めた。そして、
「今日、知らない男がわたしに向かって舌を出してみせたんです。あれはきっと、『このゲイ野郎』って意味なんです。わたしはもう我慢ならなくなってきた」
 と、意味不明なことを訴えた。
 それからほぼ一週間後の4月23日、道向こうの歩道をふたりのローティーンの少年が何回か通りすぎた。クルーズはこれをわざとだと思い、卑猥な言葉を少年らに向かってわめきちらした。だが生意気ざかりの少年たちは「頭のおかしいジジイがなんかわめいてるぜ」と、とりあわなかった。
 クルーズは家にとってかえすと、3挺の銃をかかえて表に飛び出した。そして彼はなぜか、前出の少年ふたりではなく、たまたま道向こうでバスケットをして遊んでいた14歳の少年の尻を撃った。
 そのまますぐ彼は車でショッピングセンターに向かい、駐車場に止まると車内からライフルを発砲しはじめた。彼はここで3人を射殺した。彼は店内に入ろうとしたが、出口専用のドアしか見つからなかったので、別の店へ向かった。
 彼はあらたな店の駐車場でライフルを乱射し、その後店内に入った。客はパニックに陥り、逃げまどった。クルーズは客を追いかけまわし、めちゃくちゃに弾を浪費し、しまいに女子トイレに隠れていた女性ふたりを引きずり出して、人質にして6時間近く店内に立てこもった。
 だがこの篭城中に、人質の女性にゆっくりと穏やかに説得され、クルーズは落ち着きをとりもどしていった。彼は病気の妻の面倒をみていたことからみても、どうやら女性にはあまり悪感情を持っていなかったらしい。
 真夜中になってクルーズは人質を解放し、捕らえられた。この事件による死者は6人、負傷者は10人である。
 彼は精神病を理由に無罪を申し立てたが、陪審はこれを却下し、死刑を求刑した。

 


◆カーレル・ヘンスン

 

 この事件は、「人格の欠陥により、本能的にすら人間の一般的行動パターンを取れなくなった犯罪者」の一例である。
 警察が彼の存在を知った最初の犯行は、1988年11月11日の早朝のことだった。犯人はアムステルダム南部のある家に侵入し、そこに住む中年夫婦の、夫の喉を切り裂いて妻の眼前で殺したのである。
 そしてさらに半マイル離れた場所で、彼はつづいて犯行に至った。彼はそこでも家に侵入し犠牲者が入ってくるのをじっと待ちかまえ、住民が驚いた隙をついて喉をかき切っていた。
 ふたつの死体を鑑定した法医学者は、
「こいつはナイフの使い方を知っている。喉を切って確実に殺すためには、ナイフを首にあててから被害者の頭を押しさげることだ。そうすれば首の皮膚がたるみ、頚動脈が筋肉の奥に隠れずにナイフの刃に届く。少なくともこいつは自分のなすべきことをちゃんと心得ているというわけだよ」
 と述べた。
 ふたつの事件の5日後、とある農家にスキーマスクをかぶった男が銃を持って押し入り、夫に発砲した。弾丸は腕にあたったものの、深手ではなかった。警察はこの男が現場に残していった靴底の模様が、前の事件と同一のものであることを割り出したが、これは同時に不安をも感じさせた。以前はナイフだったが今度は銃だ。このような無差別の「動機なき犯罪」の場合、手口を変えられることは捜査には致命的なのである。
 警察が捕らえようとしていたこの男の名はカール・ヘンスン。1953年アムステルダムに生まれた。
 父親は高名なラジオのコメディアンだったそうだが、彼はその愉快な性質はまるで遺伝しなかったようだ。ヘンスンは幼少時からさまざまな肉体的、精神的障害に苦しめられ、友達はひとりもいなかった。
 11歳のとき両親がスキー事故で亡くなり、ヘンスンは施設に送られた。病弱で無口で内向的(ドモリだったのがそれに拍車をかけた。もっとも訥音は成長するにつれて治ったようだが、性格は一生変わらなかった)で、一種の学習障害もあったらしく、在校時には読み書きも、簡単な計算すらできなかった。
 義務教育を卒業後は、もっぱら空き巣をはたらいた。この方面でも無能だったようでしょっちゅう捕まったが、それでも何度も犯行を繰りかえすうちに腕もあがってきた。
 まともな仕事に就いたことはなく、その気もなかった。時間は腐るほどあったので、その余暇を利用して独学で読み方を勉強し、余った時間は田舎に出かけて何週間も野宿して暮らした。
 無為な時間を過ごしながら、次第にヘンスンは「殺人」というものに尽きぬ興味を持つようになっていった。
 彼は子供のころから、肉屋や屠殺場の裏を覗いて、動物が殺されるさまを眺めるのが好きだった。刑務所内では拷問や処刑の写真を見せられ、興奮した。やがてスナッフ・ムーヴィーの収集にも耽るようになった。
「なんか、観るとすうっとした」
 と彼はのちに言っている。
 1973年、二十歳になったヘンスンはある老人の家へ空き巣に入り、見とがめられて逃走した。しかしその老人のあまりに弱々しい様子に、「逃げずとも、殺してもよかったな」と思い返した。
 一度そう考えてしまうと、「殺す」ということが頭にこびりついて離れなくなった。人殺しのチャンスを掴みながら、それをふいにした、そう思うといてもたってもいられなかった。
 後日、ヘンスンは同じ家にもう一度押し入った。そして老人が彼の存在に気づき、騒ぎはじめるまでじっと待った。老人が立ちあがり、悲鳴をあげようとしたところをヘンスンは掴まえ、頭をぐっと下に押さえつけてから喉をかき切った。
「じいさんが目の前で息絶えるのを俺はじっと見てた。命が流れだしてくのが見えた」。
 この経験はそれから数週間のあいだ、ヘンスンをとらえて離さなかった。彼は完全に殺人に魅了された。
 彼は1ヵ月後、ハンバーグ・レストランに侵入し、18歳のウエイトレスの喉を切り裂いた。頭をうつむかせて喉を切るやりかたは、『コマンド部隊戦闘マニュアル』という本で読んだものだという。被害者の少女が着ていた白いブラウスは、みるみるうちに血で真紅に染まった。
 彼は逮捕の手におびえたが、捕まる様子はいっこうになかった。これにより彼は、「殺しへの強い意志が身を護るマントのような役目をしているのだ」という結論に達したらしい。しかし彼はその後14件の空き巣で起訴され、刑務所送りになったので、いったん犯行はやんだ。
 ヘンスンは12年後、釈放された。頃は1987年になっていた。彼はアパートを借り、職に就いて社会復帰につとめ、一年がかりで実社会への順応を果たすと、再出発を祝って冒頭のふたりを殺した。
 逮捕後も精神科医は誰ひとり、彼の強迫観念に満足な説明をつけることができなかった。「すうっとした」とヘンスンはよく言ったが、それは特別なスリルや、性的快感のたぐいではなかった。彼は性衝動と呼び得るものをいっさい持ち合わせていなかったという。精神科医は、
「彼には性的関心がまるでないみたいに見える。この種の事件が性犯罪でないとしたら、われわれには解明の手だてはない」
 と、戸惑いを隠さなかった。
 ヘンスンは次に「銃で撃たれて死ぬ人間が見たい」と思い、銃を持って農家に押し入ったが、失敗したので銃はもうやめた。彼はまたナイフを使う手口に戻り、森に住むナチュラリストの女を殺した。彼は野宿は昔から平気だったので、チャンスがくるまでいくらでも待つことができた。
 さらに彼はフラットに住む老弁護士を襲ったが、逆に護身用のコルトで肩を撃ち抜かれた。ヘンスンは逃げ出し、自宅に戻って『海兵隊・サバイヴァルマニュアル』を見ながら自分で応急手当をした。
 警察はこのコルトの銃口に詰まった血液と皮膚、衣服の繊維を検出した。また、森での犯行で、木の枝から車の塗料が採取され、そこから車種が割り出された。
 捜索から2日後、警官のひとりは同種同色の車を見つけた。車にはちょうど枝があった高さにひっかき傷があった。連絡を受けて張り込んだ刑事の手によって、ヘンスンは逮捕された。
 ヘンスンは「精神は歪んでいるものの心神耗弱とは断言できない」として、仮釈放なしの終身刑を言い渡された。

 


◆レオ・ヘルド

 

 1967年、ペンシルヴァニア。
 レオ・ヘルドは一見、とても堅実で実直な人間であった。このとき39歳だった彼は製紙会社の研究技師として21年勤続し、妻との間に4人の子供をもうけていた。ボーイスカウトのリーダーや教育委員をつとめ、教会通いを欠かさず、ボランティアにも精を出している。趣味はシカ狩りで、ハンターとしても優秀そのもの。まったくもって彼は「模範的市民」そのものであった――表向きは。
 しかし彼は重度の偏執狂だった。怒りっぽく、粘着質で、他人にされた無礼を決して忘れることができなかった。彼もまた、アンルーと同様、「気にくわない奴らのリスト」を日夜せっせと作っていた。
 リストに上がっていたのは、彼をいつも馬鹿にする上司、ヘルドをさしおいて昇進した同僚などをはじめ、近所のドライブ・グループから「ヘルドさんの運転は乱暴でこわい」と言って脱会した女性の隣人、ヘルドが煙を嫌いなことを知っていて(そう彼は思い込んでいた)焚き火をした男性の隣人などである。
 「事件」を起こす直前、あきらかにヘルドは憤怒の発作にかられていた。彼はささいなことで近所の71歳の未亡人と口論になり、かっとなって彼女を木の枝で打ちすえたのである。しかしこれは周囲を辟易させはしたものの、家族は「おとうさんは気短かで困る」という程度で片づけてしまったようだ。実際にはヘルドの狂気はかなり進行しており、彼は
「電話が盗聴されている。みんな俺の悪口を言う。陰で俺を嘲笑っている。仲間はずれにしている」
 という典型的な関係妄想を抱くまでになっていたのだが。
 シカ狩りがもうじき解禁になろうとしている10月24日、ヘルドの狂気は弾けた。
 彼は38口径リボルヴァーと44口径マグナムを手に、製造所へ出勤した。子供たちを学校へ、妻を仕事へと穏やかに見送ったあとのことである。
 これ以上は望めないというほど的確かつ迅速に、ヘルドは狙っていた獲物をしとめた。監察官3人、同僚の研究技師2人である。パニックに陥った他の50人あまりの従業員たちは我先に逃げ出し、あるいは機械やデスクの陰に体を丸めてうずくまった。
 職場を完全に恐怖で支配したのち、彼はドライブ・グループから抜けた女性の職場へ向かった。ヘルドは彼女の体に4発の弾丸を撃ちこんだ。重傷を負ったものの彼女は死ななかったが、ヘルドはいちいち確認する気はなかったらしい。彼は車で自宅の方向へととって帰した。
 ヘルドは焚き火をした男性の家の前で車をとめ、家に押し入ると、男性を冷静に射殺した。次にその妻の顔と首に発砲し、重傷を負わせたあと、狩猟ライフルと弾丸を戦利品として自宅へ戻った。
 自宅に篭城しようとしたヘルドだったが、家に入る前に警官隊が到着した。彼は発砲し、撃ちかえされ、負傷した。しかし瀕死に陥るまで彼は降伏しようとせず、弾倉がからになるまで撃ちまくった。
 ヘルドは出血多量のため、みずからの罪を償うことなく病院で死んだが、最期の言葉は
「まだ、あとひとり、やらなきゃいけないのがいたんだ」
 という憎悪に満ちた台詞だったという。

 


◆リチャード・スペック

 

 スペックは1941年12月6日、真珠湾攻撃によって第二次世界大戦が勃発するその前日に産声をあげた。その誕生が象徴するように、彼はまるで、「不吉」を体現するかのような存在に育った。
 中流家庭で両親の溺愛を受けて育った少年は、まるで不運を背負っているかのように次々と重大な事故にあった(「
脳障害」参照)。大量・連続殺人犯の多くが頭部に重篤な怪我を負っていることは有名な話だが、スペックはその中でも特にひどい一例であったと言える。彼は15歳になるまでに少なくとも4回、脳に障害を残したであろう事故を経験した。
 スペックが6歳になったとき、父が亡くなった。母は再婚したが、この大酒飲みの義父はとうていスペックの気に入らないものだった。それまでも決して素行良好とは言いがたかったこの少年は、義父と母への反抗から、さらに歪んだ方向へ向かっていくことになる。
 彼は知能が高いほうではなかった。字は漫画が読める程度で、教科書の半分以上は理解不能だったらしい。溺愛されて育ったせいか自律心がうすく、うわのそらで、つねに憤怒にかられているかのごとく不機嫌だった(憤怒の発作は、脳障害から来るものだったと推定される)。
 さらに彼は12歳ごろから酒の味を覚えた。15歳になったときにはもう立派な飲んだくれであった。彼は浴びるように飲み、酒場で喧嘩をしてまた頭部を負傷し、あるときには警官に警棒でこめかみを強打されて昏倒した。スペックは激しい頭痛にさいなまれるようになり、痛みから逃れるため、ますます酒にのめりこんだ。彼は16歳で学校を退学した。
 学校をはなれた彼は着実に前科をふやした。家宅侵入し、ナイフをちらつかせ、野良猫の皮をたわむれにナイフで剥いだ。アミタールを飲んで喧嘩し、卑猥な言葉を吐き散らし、母親を殴り倒した。
 どうやらこの頃からスペックに女性憎悪の影が見えはじめる。おそらくは父を忘れてすぐに再婚した母への怒りが根なのだろうか? 彼は顔見知りの女をドライブに連れ出して、右も左もわからない場所でわざと女を置き去りにして帰り、
「女なんてものは泣きをみて当然。あいつらは隙を見せるとすぐ男をだましやがる。連中はこずるい売女ばかりだ」
 とうそぶいた。
 スペックは体に刺青をいれ、職を転々とし、泥酔して喧嘩し、窃盗をはたらき、21歳までに警察の厄介になった回数は36回を数えた。
 それでも彼が真人間になろうと誓ったときもあったのだ。それはシャーリイという15歳の少女に出会った瞬間だった。ふたりは結婚し、娘をもうけた。しかしスペックの素行はやはり改まらず、彼は酒を飲み、一定の職につかず、妻が不倫していると思い込んだ。彼は女が不貞をはたらかないことなど有り得ないと思っていたふしがある。そうして妄想を抱いては、さらに女性不信をつのらせるのだ。悪循環であった。
 4年後、妻は彼のもとを去った。
 この時期、スペックが感じていたのは「社会からの疎外感」である。アンルーは社会に対する妄想的憎悪を抱いたが、スペックの場合はそこにさらに残酷な要素がからんだ。ただしサディズムではない。スペックは犠牲者たちを責めさいなむことではなく、恐怖で支配することに喜悦を感じた。
 1966年7月12日、スペックはシカゴの看護学生寮に忍びこんだ。そこには看護婦の卵たちが9人寝起きしていた。
 スペックはキッチンを抜け、階段をあがり、閉まったドアを発見してノックした。細くドアがひらいたのを見て、彼は中に押し入った。
 看護学生たちは、アルコールの匂いをぷんぷんさせながら銃を持って入ってきた男を見た。彼は銃口を彼女たちに向けた。女たちの表情が恐怖にひきつるのを見て彼は満足し、その9つの顔の中に、ブルネットの美しい顔を認めた瞬間、彼は得心したような笑顔を浮かべた。だがなぜそのとき笑ったのかは、彼自身にもまだわかってはいなかった。
 スペックは彼女たちを縛りあげた。看護学生たちは蛇に睨まれた蛙そのままに、身動きすらできなかった。だがこの時点では彼女らは、男は金を奪ったらすぐ出ていくのだろうと思っていた。
 彼はゆっくりと煙草を吸い、彼女らの目の前でナイフをもてあそび、彼女らの脂汗にまみれた恐怖を愉しんだ。そして1人の足首の縛めを解くと、部屋の外へ連れ出した。ややあって「うう」という呻き声がし、バスルームから水の流れる音がした。
 部屋に戻ってきたのは男だけだった。男はまた1人連れ出し、呻き声と、水の流れる音。また戻ってくる。1人連れ出される。呻き声。水音。
 まだ縛られたままの6人の娘たちは、部屋の向こうで何が起こっているのかを理解した。彼女たちは身をくねらせ、ベッドの下へ隠れようともがいた。だがその前に男が戻ってきた。
 さらに4人が連れ出され、水音が聞こえた。アムラオというフィリピン留学生がその間にベッドの下にもぐりこむことに成功した。スペックはそれに気づかず、目の前にいる最後の犠牲者――ブルネットの美人をつかまえた。
 その美人――グロリア・デイヴィーは他の犠牲者たちとは唯一違った死をむかえた。彼女はベッドに押し倒され、ジーンズを脱がされた。スペックがその上にのしかかり、ベッドの下に隠れたアムラオは否が応にもそのベッドのスプリングがきしむ音を聞かなければならなかった。
 その後、静寂がやってきた。人の気配がなくなった。そかしそれでもアムラオはベッドの下から出ようとはしなかった。
 どれほどの時がたったのか、目覚まし時計が鳴るのが聞こえた。午前5時にセットしたアラームだ。その音を聞いてしばらくしてから、アムラオは床から這い出た。
 ベッドの上には全裸のグロリアがいた。彼女は凌辱された上、肛門姦されて絞殺されていた。ほかの7人は、ナイフで滅多突きにされたあとで絞殺され、あちこちに死体を転がしてあった。
 アムラオは窓をあけ、声を限りに助けを呼んだ。そして思い出した。犯人の左腕に刺青があったこと。その文句は「Born to raise hell――御意見無用――」。
 犠牲者たちの縛めが「水夫結び」であったことから、このとき船員をしていたスペックの名は捜査線上にすぐ浮上した。16日、スペックはラジオで「大量殺人の容疑者」として自分の名が発表されたのを聞き、ホテルで手首を切って自殺をはかったが、収容先で逮捕された。決め手はアムラオの証言と、左腕の刺青だった。
 彼は逮捕後、生まれてはじめて精神科医にかかり、その歪んだ精神の鑑定を受けた。数々の事故による脳損傷。弱視だが眼鏡を拒んだため目に負担がかかり頭痛が悪化したこと。酒とドラッグによる脳の二次損傷。ときおり意識をなくし、記憶がなくなるというブラックアウト現象。際限なく甘やかされた幼少時代。また、母親に対するアンビバレンツ(彼は母親をとても愛していた。かつての妻に「おかあさんより私を多く愛して」と請われ、「無理だ」と一言で終わらせている)から生じた、女性憎悪。
 ことに、IQ検査の結果はスペックを打ちのめしたようだ。彼は「10歳の児童並みの知能」と弁護団に発表され、
「バカだってことは知ってたし、別にそれでもいいんだけどよ、……さすがに10歳のガキ程度ってのはつらいな」
 と苦笑したという。
 さらに彼は、唯一凌辱して殺したグロリアの写真を手渡され、はっとして顔をそむけた。他の被害者たちの写真に対しては見られなかった反応だった。精神科医は静かに言った。
「わかるかい。彼女はきみの前の奥さんに、とても似ている」。
 精神科医の仮説によると、スペックはあの夜、当初はただの押し込み強盗でしかなかった。それがあれほど無残な結果になったのは元妻に生きうつしのグロリアの顔を見たからだ。元妻に対するたぎりたつ憎悪が彼の少ない自制心を吹っ飛ばしたのだ、そう彼はスペックに説明し、
「わたしの話に、思いあたるふしはあるかね?」と訊いた。
「いいや」
 スペックは首をふった。彼には自分の行動を理解する洞察力はなかったし、動機を覚えていることすらできなかった。だがそれでも、グロリアの写真を持った彼の手は大きく震えていた。
 1972年、スペックは400年から1200年の懲役刑を受け、1991年に獄中死した。
 彼は生前、「今度生まれ変わったら、次はただの強盗だけにしておくよ」と言っていたという。

 


◆アレクサンダー・メイヤー

 

 1937年2月11日、その童顔でピンク色の頬をした穏やかそうな青年は、犠牲者の少女をつかまえた。
 フロイトは強迫神経症について「性的衝動(リビドー)の発育が自我の発育を追い抜いた状態」と著作に書いているが、一般には強迫神経症はセックス面以外でも起こりうる。たとえば不潔恐怖症などがそうだ。「清潔にしていたい」という目的感が個人の手から離れ、自己増殖をはじめたときにそれは「病気」となる。
 目的感だけが一人歩きするということは、「なにかに過剰に取りつかれた状態」ということだ。なぜこのような精神のアンバランスが起こるのか? それはまだ完全に解明されてはいない。
 ともかく、アレクサンダー・メイヤーは女の子をつかまえて意のままにする妄想にかられていた。そして彼にとって他者の命と尊厳は紙くずほどの価値もないものだった。
 彼は裕福な石炭仲買商の息子で、グリーンのフォード製トラックに乗っていた。彼はその日の午後3時過ぎ、ちょうど高校が放課後になって生徒達が門から出てくる時間帯をねらって、路肩に車をとめた。
 何回か女子生徒の集団をやりすごしたあと、彼は人波と車の流れが途切れたのを感じた。見ると、ひとりの女子生徒が歩いてくる。彼はなんのためらいもなくアクセルを踏み、その女生徒を車ではねとばした。そして車からおりると、瀕死の少女をトラックの荷台に放りこみ、走り去った。
 メイヤーは人気のないところで車をとめ、死んだようにぐったりしている少女を犯した。満足すると、彼は少女の死体を井戸の中に投げこんだ。その後、彼は帰宅し、なにくわぬ顔でディナーを残さずたいらげている。
 2日後、メイヤーは犯行現場に戻ると、井戸にダイナマイトを投げこんだ。この爆発で死体は岩石に覆われ、メイヤーはこれですべてが済んだと思って安心し、また帰って夕食の皿をきれいにした。
 少女の両親は捜索願いを出し、警察は学校付近で彼女の靴と教科書を発見した。靴は破れ、車のヘッドライトの破片が飛び散っている。どうやらひき逃げされたらしいが、しかし肝心の被害者の死体がないのだ。
 だが道路傍の電柱に衝突した形跡が見つかり、車の塗料が検出された。また少女の靴や教科書にも同一の塗料が付着していた。特定された車種はグリーンのフォード。警察は郡内のフォードのオーナーすべての追跡と尋問を開始し、メイヤーはその網にひっかかることになる。
 メイヤーの名が上がり、彼の前科が明らかになるや、警察は彼に狙いを絞った。前科とは、3年前にフィラデルフィアで少女ふたりに発砲しての、不定期刑受刑である。
 彼は事情聴取で少女誘拐について訊かれ、「知らない」と言い張ったが、車のへこみ具合や、現場から採取された塗料が一致したことを指摘されると、車ではねたことだけは認めた。しかしあくまで「事故だった」と主張した。
 だが彼の精神力は連日の取り調べに屈せずにいられるほど強くはなかった。彼はすべてを自白し、死体のある井戸まで警官たちを案内した。
 少女の死体は水面まで浮き上がってきていた。腐って膨れあがり、爆発で片足がちぎれている。検死の結果、彼女の死因ははねられたときの頭部挫傷ではなく、溺死であることがわかった。彼女は井戸に落とされたとき、まだ生きていたのだ。
 メイヤーは不定期刑を受けた際、精神科医に診られていたが、その所見は
「体質上の精神劣等者。知恵遅れで苦痛に対し無感覚。他者にはサディスティックだが、性格としては女々しい傾向」
 というものであった。
 メイヤーは2ヵ月後、電気椅子に座ったが、彼の名は死後も「童顔のけだもの」として地元に長く語り継がれた。

 


◆ジェイムズ・ヒューバティ

 

 ヒューバティは1984年7月18日、近所のマクドナルドに乱入し、女子供を含めて21人を射殺し19人に重軽傷を負わせた。そのすべてが、彼には縁もゆかりもない人たちであった。だがヒューバティにはそれでよかった。彼が生涯かけて憎んだのは名のついた個人ではなく、「社会」という巨大な怪物だったのだから。
 ヒューバティは1942年にオハイオで生まれた。3歳でポリオ(小児麻痺)にかかり、両足に補助器具をはめて生活しなければならなくなったが、彼に同情するそぶりを見せる子供は少なく、ほとんどが彼のぎこちない歩き方を見て容赦なく嘲笑ったという。
 7歳のとき父が農場を購入し、一家は田舎暮らしをすることになったが、母はそれを機に家を出ていった。彼女は「神より下りたる声」を聞いて、伝道者となるべく出奔したのである。少年は新しい学校に転校したが、新天地はよそものに決して優しくはなかったし、脚のことでも母の家出についてもからかわれ続け、いじめられたヒューバティ少年は孤独そのものだった。彼の友達といえば、愛犬だけだった。
 十代の彼はスポーツにはほとんど関心を示さず、その代わり銃器にのめりこんだ。おそらく彼は力が欲しかったのだろう。銃に象徴される暴力と威圧と支配力、ヒューバティが求めたのはそれだった。
 卒業後も彼は孤独なままだった。宗教に逃げることすらできなかった――彼は自分から母を奪った「神」を憎悪していた。無神論者で、知性はないわけではないが協調性も社交性もなく、口をきけば必ず相手に不愉快な思いをさせるだけの癇癪持ち、それが成長したヒューバティの姿だった。
 溶接工となった彼は結婚し、ふたりの娘をもうけるかたわら、銃のコレクションにはげんだ。彼が愛するのは愛犬と銃だけだった。家族よりもはるかに愛していたと言っても過言ではない。
 ただし彼は犬好きというわけではなく、よその犬に対してはまったく冷淡で、愛犬に吠えかかろうものなら銃口を向けかねない勢いだった。ヒューバティ家の犬はひどく躾が悪く、近所の子供を噛むことも珍しくなかったので苦情は絶えなかったが、そのたびヒューバティは激昂して苦情を言い立てに来た者を銃で追い返した。
 1980年あたりからヒューバティの孤独と憤怒は「狂気」というはっきりした姿をとりつつある。彼は幻聴を聞くようになり、ふさぎがちになった。あるときにはいきなり愛犬の一頭を射殺して、
「こいつ、こないだから俺に話しかけてきやがるようになった。うるさくてしょうがない」
 と妻に真顔で言い訳したこともあった。
 またあいつぐ工場の閉鎖で、彼は職も失った。自宅も売却しなくてはならなくなったが、思った以上に買い叩かれた。幻聴の聞こえる頻度は高まり、ある夜ヒューバティは自分のこめかみに銃を押しつけた。妻は慌てて止めたが、のちに彼女は、
「あのとき止めるべきではなかった」
 と自分の行動を後悔することとなる。
 仕事はたまに得ることもあったがすぐに解雇されたし、頭の中の声は日に日に大きくなり、「CIAが尾行してるぞ! 軍が会社を買収しておまえを解雇させたんだ! ペンタゴンがおまえの命を狙ってる!」とわめきちらした。ヒューバティは妻と娘を殴りとばし、部屋に閉じこもって銃を磨いた。
 1984年7月18日、彼は昼食後、妻にキスして家を出た。娘は、父親が銃を隠し持っているのをすれ違いざまに見たが、なにも言わなかった。
 自宅から1ブロックしか離れていないマクドナルドに彼はのこのこと入っていった。時刻は午後4時。コーヒーブレイクや遅めのランチをとる客など、およそ30人ほどが店内にはいた。
 ヒューバティはわめきながら、まず天井に発砲した。
「全員床に伏せろ! 動いたら殺してやる! 連中を殺したようにぶっ殺してやる!」
 一瞬にして店内はパニックに陥った。ヒューバティは「ベトナムの豚ども!」だの「俺はもう1000人殺してる!」だのとわめき、銃を乱射した。
 彼は1歳の赤ん坊の父親の体に14発もの弾丸を撃ちこんで殺し、9歳の少女を蜂の巣にした。赤ん坊を抱えてうずくまる若い母親を発見し、全身のいたるところを撃ったのち、母親の死体の横で泣きわめく赤ん坊を一発で仕留めた。
 アイスクリームとコーラを買いに来た11歳の少年3人も、もちろん逃れられなかった。少年のうち2人は頭部を撃たれ、血へどを吐きながら死んだ。ひとりは助かったものの腹と尻、両手両足に被弾していた。
 孫へのおみやげにハンバーガーを買い求めにきた70代の老夫婦も犠牲になった。老妻はヒューバティの散弾を顔面に受け、夫は腹部を撃たれた。声もあげずに倒れた妻を見て、彼は
「ちくしょう、貴様、家内になんてことを!」
 と怒声をあげた。それから妻の脇にくずれ落ちると、無残にくずれた妻の顔の血を清めようと懸命に拭いはじめた。口から血を吐き、妻の顔を抱えるようにして撫でながら、自分を罵りつづける老人の姿を見ると、ヒューバティはそちらに近づいていった。彼は老人を口汚く怒鳴りつけたあと、引鉄をしぼった。老人は妻の死体に折り重なるようにして倒れた。
 ヒューバティはなおも撃ちまくった。彼は両手撃ちができたし、弾薬はふんだんにあった。警察が到着し、SWATがまわりを取り囲んでも、彼は撃つのをやめず、死体の山は増える一方だった。
 今日が定年で、これから社の送別会に出たあと妻と2人で念願の旅行に行くはずだった男も死んだ。つい最近重要なポストについたばかりの有能なビジネスマンも殺された。ヒューバティはそれらの死体の横でラジオのロックを聴き、ステップを踏んだ。
 やがてSWATの指揮官から部下へ「射殺許可」が下りた。
 向かいのビルの屋上から狙撃手が、テレスコープの視界に入ったヒューバティの胸を撃ちぬいた。
 彼がマクドナルド店内に入ってから、わずか1時間足らずの間の出来事だった。
 なお、この瞬間、7歳のヒューバティを捨てて出ていった母親は70歳になっていたが、アリゾナで歩道にひざまずき「汝、イエスのもとへ来たれ」と道行く人々に向かって辻説法の真っ最中であったという。

 


◆パトリック・デヴィッド・マッケイ

 

 マッケイは1952年の生まれで、父親は定職についてはいたものの、大酒飲みで家族に暴力をふるう男だった。マッケイがまだ母親の胎内にいるころ、酔った夫が彼女の腹を蹴り上げたことは一度や二度ではない。
 彼は内気で、自分より小さな子供をいじめるのが好きな陰湿な少年に育った。連続殺人犯の幼児期の兆候は主に「動物虐待・放火・夜尿症」の3つであるが、マッケイはそのすべての前兆を兼ねそなえていた。おまけに嘘つきで、盗癖もあった。
 マッケイは死んだ鳥の羽根をむしり、猫や兔をナイフでいたぶり、亀を生きたまま火であぶった。近隣をあたりかまわず盗み、荒らしまわり、放火した。土地の人間はマッケイ一家が出て行くことを心から望んだ。
 10歳のとき父が死亡し、抑えつけるもののなくなったマッケイはさらにサディスティックになった。13歳のとき、荒れ狂って家中の家具を叩き壊し、母親と妹に殴りかかって、精神病院送りになった。
 15歳のころにはもう立派な「凶暴な精神病者」だった。背は180センチを越えており、窒息死する寸前まで母親の首を絞めたり、幼い男の子をこれも瀕死になるまでいたぶったりなどしている。が、そのかたわら、彼はまだお気に入りの人形と一緒でなければベッドで眠ることができなかった。
 19歳で精神病院の退院が決まったが、病院の担当者たちは「彼はけっしてまだ退院させるべきではない」と言い張った。しかしなぜかこの意見は受け入れられず、マッケイは世に放たれた。
 マッケイが21歳の夏のことである。メイドをしていた少女が列車から突き落とされて死亡し、またある婦人が自宅で撲殺されるという事件が起きた。
 翌年1月には、孫と自宅で留守番していた老婦人が刺し殺された。同年同月、年老いた浮浪者が橋の上から河に投げ落とされて死亡。
 翌月、マッケイは84歳の老婦人の家にドア・チェーンをひきちぎって侵入し、彼女の首を絞め、その場にあった包丁で刺し殺した。これらの事件で、凌辱は一件もない。マッケイは性的暴行には興味がないようであったという。
 同年の秋になると、彼は老婦人に抱きついてハンドバッグをひったくることを覚えた。彼は60件あまりのひったくり事件を起こしながら、さらに3件の殺人を犯した。いずれも被害者は老婦人で、鉄パイプで撲殺したり、斧で斬殺するなど、ひどい手口だった。
 1975年の春、彼はまた1人の老婦人を絞め殺したあと、故郷の母親の家に帰ってそこに滞在した。
 マッケイがまだ10代のころ、彼に妙に同情的だったカトリックの司祭がいた。彼はその存在を思い出し、神父の家に訪ねていったが、鍵がかかっていなかったので勝手にあがりこんだ。
 神父は帰宅し、マッケイがいるのを見て逃げようとした。マッケイはそれをさえぎって神父に殴りかかり、風呂場まで追いつめた挙句、斧で殴った。攻撃は一度では止まなかった。もう一度、もう一度。さらにもう一度。
 バスルームいっぱいに神父の血と脳漿、破裂した眼球が飛び散った。マッケイは風呂場のタイルに腰をおろし、神父の断末魔の痙攣がやむのをじっと見守った。そして、家で母親が夕食を作って待っていることを思い出すまで、バスタブに張った水の中に手をひたし、たっぷり1時間以上もぼんやりと座りこんでいた。
 警察はマッケイを2日後に逮捕したが、その間にも彼はひとりの老婦人を襲っていた。ただし、彼の気にさわることをしなかったので、危害は加えなかったらしい。
 パトリック・マッケイは終身刑を宣告された。彼はこの世に生まれ落ち、刑を受けて禁固されるまで、一貫して「危険な精神異常の犯罪者」であり続け、それ以外のなにかだった瞬間は一瞬としてなかった。彼はまったく無意味に生まれ、なにも成さずただ破壊して外界から去ったというだけの男だ。しかし社会生活を営むすべての人間が、ある日マッケイのような男に出会う可能性を少しずつ持っている。

 


◆ジョージ・メテスキー(マッド・ボマー)

 

 「プロファイリング」という心理学的な犯人像割り出しの技術について、人々の理解がひろまったのはここ十数年の間である。そしてそれを世に知らしめるのにもっとも貢献した男が、医学博士ジェイムズ・A・ブラッセルであり、犯人の“マッド・ボマー――気違い爆発野郎”こと、ジョージ・メテスキーであった。
 コンソリディテッド・エジソン社はN・Yに電気を長年供給してきた大会社である。その社にマッド・ボマーが宣戦布告したのは1940年11月16日のことだった。コン・エジソン社の工場の窓枠に仕掛けられた手製らしい爆弾は不発だったが、添えられた手紙があきらかな害意を物語っていた。
「コン・エジソンのイカサマ野郎どもへ――これでも食らえ!」。
 手がかりになる指紋はなく、当時はまだ電話が完全普及していなかったから、犯行声明もない。爆弾は不発だったし、おまけに本物の戦争がヨーロッパで起こっていたから、この小さな事件に新聞が一行の記事もさかなかったのは無理もない話だった。そしてそれから1年後、コン・エジソン本社のすぐ近くで同じく不発の爆弾が発見されたが、これも同じく新聞には黙殺された。アメリカは3ヵ月後の参戦をひかえており、鳴りもしない爆弾などにかまっている暇はなかったのだ。
 その爆弾魔はかなり律儀な男らしく、新聞社に
「これからしばらく本国はばたばたするだろう。戦争が終わるまで、私はなりをひそめていると約束する。爆弾は作らない――私の中の愛国心がそうさせるのだ。だがいつか必ずコン・エジソン社を裁きの庭に引きずり出してやる。やつらは悪辣卑劣な行為の償いをさせられるだろう」
 と投書した。手紙はきちんとした大文字で書かれた肉筆で、署名は「F・P」。文章はやたらと形式ばって古めかしく、独特の文体と言ってよかった。
 のちに新聞によって「マッド・ボマー」の渾名を頂戴するこの男は、約束をたがわず第二次大戦の終わった1950年4月24日まで、沈黙を守りつづけた。が、それは以前のふたつとは違って、不発ではなかった。
 爆弾は5番街の図書館前にあった電話ボックスの中で炸裂した。ボックスは吹き飛び、ガラスが散乱したが幸いに死傷者はなかった。
 この後6年間にわたって、マッド・ボマーはブロードウェイからブルックリンにかけての華やかな通りに、電話ボックスや地下鉄、映画館などにせっせと爆弾を仕掛けつづけた。その数およそ54件に及ぶが、多くの負傷者が軽傷で済み、重傷者は数えるほどしか出なかった。
 1956年3月、またもボマーは新聞に投書する。その文面は、
「この爆破事件は、コン・エジソン社が裁きの庭に引き出されるまで続く。おれはこの仕事に命を捧げているのだ――F・P」。
 同年12月2日、とうとうボマーは大事件を起こした。ブルックリンのパラマウント映画館で、これまででもっとも強力な爆発がおこり、観衆7人が負傷した。うち3人が重傷。彼らの命を救うため、医師団は夜中まで駆けずりまわる羽目になった。
 この爆破は社会にパニックをひき起こした。映画館、劇場、博物館では入場者が激減した。だがこれほどの度重なる犯行に反し、警察は手がかりをほとんど得られていなかった。
 クリスマスの翌日、ある新聞社がマッド・ボマーに対し、こんな呼びかけをした。
「犯行をやめて自首したまえ、不満があるなら、我が社に知らせてほしい」。
 2日後、劇場で爆弾が未爆破のまま発見され、マッド・ボマーから新聞社に返事があった。
「おれを自首させるなんて愚の骨頂だ。おれの知能程度をみくびるな」
 とのことだったが、有名になれたことに気をよくしたのか、来年1月まで爆破活動は休止にする、と書いてよこした。
 そして1月に入ると、「休戦を3月まで延長する」との約束に加え、こんな手紙が届いた。
「おれはコン・エジソン社の工場で作業中、怪我をした。結果、おれは生涯の不具者となった。会社からはなんの補償も援助も受けていない。そればかりかやつらは、補償法をたてにとっておれの訴訟を邪魔したのだ」
 ここで警察はジェイムズ・A・ブラッセル博士に協力を求める。ブラッセルは警察から詳しい話を聞き、手紙をつぶさに眺めたあと、かの有名な――やがては伝説となった例の仮説をとうとうと述べだした。
「犯人はアメリカ生まれではない。アメリカ人独特の言い回しが手紙に使われておらず、代わって、『悪辣卑劣』、『卑怯千万』などの古くさい文が多く、これは古い世代の人間だ。
 あきらかにパラノイア。被害妄想にどっぷりつかっている。正気と狂気の境目にいるから、すべて支離滅裂というわけではないが、疑り深く、凝り性で、きちんとして几帳面だ。パラノイアはたいてい30代なかばに発症するので、最初の犯行が1940年だったから今は50代だろう。筆跡の大文字「W」の書き方が特徴的で女の乳房を思わせるところからみて、母親か、もしくは女の近親者となにか問題があったと思われる。
 結論――犯人は50代なかば。人種はスラブ系。年老いた母親もしくは女性の近親者とN・Yの比較的治安のいい土地に住んでいる。カトリック教徒。体格はがっちりしており、ダブルの背広を着るタイプ」。
 新聞社はマッド・ボマーに3度目の呼びかけを行い、それに犯人から答えがあった。
「おれは1931年9月5日に怪我をした。しかし応急手当もされなかった。おれは冷たいコンクリートに転がされたままだった……」
 これで事故の日付がわかった。コン・エジソン社の社員が総動員で1931年の問題の日付の書類を捜した。そして1904年生まれの、ジョージ・メテスキーという男の存在がやがて照らし出されることとなる。彼は1931年9月5日、ボイラーの噴き戻しにまきこまれ、有毒ガスを吸い込んで肺から出血し、肺炎と結核になった。彼に与えられたのは疾病手当ての180ドルぽっちであった。
 警察が捜査令状を持ってメテスキーの家に踏み込むと、がっちりした体格の眼鏡をかけた男がドアをひらいた。彼はウォーターベリーという工業地区に、義姉ふたりと住んでいた。また逮捕直後の彼の写真は今も残っているが、彼はダブルの背広を着ている。
 メテスキーは警察ですべて自供し、署名F・Pとは「フェア・プレイ」の略だ、と誇らしげに語った。
 彼は精神異常犯罪者専用のマッティワン州立病院に送られ、そこで残りの生涯を過ごした。

 


 

われわれは純粋性と暴力の間の選択をするのではなく、
種類の異なった暴力の間で選択するのである……
重要な討議しなくてはならぬ問題は、
暴力そのものより、その方向と前途である。

――メルロオ・ポンティ『現代』より――

 

 

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